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生首黒焼き事件(明治35年・1902年、大阪府)

経緯を並べようとすると、何も出てこない

事件の経緯としてまとめられる記述が無い。日付順に並べたいところだが、並べるだけの材料が確認できていない。だから、ここは空欄のままにしておく。

語られているのは、こういう話だ

内容はごく短い。大阪で、切断された首を焼いて「黒焼き」にしたとされる事件。まあ、一行で言い切れる程度の情報しか出てこない。呪術や薬効を目的とした行為とされるが、詳細な記録は乏しい。

背景として語られるのは、時代のねじれだ。明治時代の呪術信仰と近代化のギャップが、こうした異常な行為の噂を生んだ。明治の怪奇事件として、都市伝説の要素を持つ。

読む前に、線を一本引いておく

先に言っておく。この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、どれも裏取りが要る。公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道で個別確認が必要。

「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」。この手の説明は、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。

完全再話――化物屋敷と三つの黒焼き首

明治三十五年(一九〇二年)二月九日。大阪の日本橋筋の裏長屋の一角に、近所の子供たちが「化物屋敷」と呼んで近寄らなかった一軒があった。表通りから一本入っただけの、日の当たりにくい路地の奥。雨戸は昼間でも半分閉ざされている。

時折、何かを焼くような異臭が漏れてくる。ある朝、隣家の女房が井戸端で「またあの家から変な匂いがする」とこぼした。その一言が、東署の耳に届いた。刑事三名が令状を手に踏み込んだのは、その日の午後だったという。

土間に踏み込んだ刑事たちが最初に目にしたのは、竈のそばに置かれた古い火消し壺だった。蓋を取る。中から炭のように黒く焼き締められた、人間の頭蓋の残骸が転がり出た。眼窩と歯列だけが辛うじてそれと分かる、異様な塊だった。

青ざめて言葉を失う家人をよそに、刑事の一人が「これだけではあるまい」と庭を掘り返させる。すると土中からさらに、黒焼きにされた生首が二つ、相次いで掘り出された。都合三つの首。このおぞましい数字が、後年「生首黒焼き事件」としてこの家の名を大阪の裏面史に刻みつけることになる。

家の主は花山良吉(記録上の仮名)といい、代々細々と薬種を商う家であった。良吉自身は数年前からハンセン氏病を患っていたという。当時は「癩病」と呼ばれ、後世に大きな差別と誤解を生んだ病である。家業もままならぬまま困窮していたとされる。

取り調べに対し、妻のより江と、彼らに近い立場にあった共同墓地の管理人・加藤小次郎が、それぞれの言い分を語った。加藤の名も、同じく仮名で伝わる。

曰く、荒れた無縁墓地から掘り出した身元不明の遺体の頭部を持ち帰る。それを竈で炙って乾燥させ、粉末状にした「黒焼き」を作る。万病――特に不治とされた病――に効く秘薬として、近隣にひそかに売っていた、という筋書きである。

当時、梅毒や労咳(結核)、そしてハンセン氏病のように、西洋医学でも決定打を欠く病が世間に満ちていた。「人体の一部を服せば効く」という民間信仰も根強く生きていた。そのことが、この奇怪な商いの背景にあったとされる。

取り調べは難航した。より江と加藤の言い分はこうだ。「盗掘ではなく、たまたま荒れ果てた墓地に転がっていたものを拾っただけだ」。二人はそう主張し続けた。頭部の入手経路を立証する決定的な証拠は挙がらなかった。

結果として二人は不起訴、あるいは証拠不十分による放免という形で処理されたと伝えられている。事件は「真相不明」のまま闇に沈んだ。三つの黒焼き首がどの遺体のものであったか、身元はついに公にされることはなかったという。

いつから語られたのか

この事件が世に知られるようになった直接のきっかけは、一本の記事だ。講談社系のニュースメディア「現代ビジネス」に掲載された特集記事である。閲覧注意の断りを掲げ、異臭の漂う家から人の頭が出てきた、という筋で大阪の事件の裏側を紹介したものだ。

この記事は、明治期の猟奇事件・迷宮事件をシリーズで発掘・再構成する連載の、その一本として書かれた。当時の新聞記事や記録を基にした読み物として広く拡散した。Yahoo!ニュースにも転載されている。それをまとめたブログを通じて、話はさらに孫引きされていく。後年アーカイブとして残る「Note Book」ブログなどがその例で、ネット上での認知が広がっている。

もともとの明治三十五年当時の新聞報道そのものは、どうだったのか。東京日日新聞や大阪朝日新聞といった当時の主要紙が、三面記事的な猟奇事件として短く報じたと推測される。ただ、現代の一般読者が直接その紙面を確認できる機会は乏しい。多くの現代の言及は、前述の現代ビジネス記事を一次的な参照点としている。

この事件が現代のオカルト・都市伝説文脈に取り込まれたのは、比較的新しい。二〇一〇年代後半から二〇二〇年代にかけてのことだ。「明治の闇」「戦前の猟奇事件まとめ」といった括りで、SNSやまとめブログが取り上げるようになってからである。

特に大きかったのが、明治怪奇録シリーズの存在だ。「都市伝説」「未解決事件」を扱うポータルサイト「日本の都市伝説(怖い話)&未解決事件」。ここが、この事件を「肝取り勝太郎事件」「脳みそ売買事件」などと並べて紹介した。そこから、「明治には人体を薬として扱う猟奇事件が連鎖的に存在した」という一つの物語群として認知されるようになった。

つまりこの事件は、単発の猟奇事件として残ったのではない。「人肉信仰シリーズ」の一角として現代のオカルトファンに再発見された、という経緯を持つ。まあ、シリーズものの一本として拾い直された形だ。

語られ方は三通りある

この事件にはいくつかの語られ方の違いがある。第一のバージョンは、同情的な語り口だ。花山夫妻が「困窮の末にやむにやまれず」始めたとして、貧困と病という時代背景を強調する。第二のバージョンは、これを純然たる金儲けの詐欺商売として描く。「効きもしない黒焼きを万病の薬だと偽って売りつけた悪徳商人」という、より冷徹な人物像を強調する。

第三のバージョンは、もっと物騒だ。掘り出された三つの首の由来が問題になる。「単なる無縁仏の盗掘ではなく、何者かが故意に殺害した被害者の首ではないか」という猟奇犯罪説だ。これがまことしやかにネット上の考察系記事や掲示板で語られている。

この説は直接の証拠を欠く。ただ、不自然さは残る。「なぜ複数の首が必要だったのか」「なぜ庭にまで埋めていたのか」。そこが「黒焼き商売は表の顔で、実際には猟奇殺人が絡んでいたのではないか」という陰謀論的な解釈を生む。そして、都市伝説としての恐怖度を押し上げている。

「祖母から聞いた」という書き込み

現代ビジネスの記事に対する読者コメントやSNS上の反応には、体験談的な書き込みがいくつか見られる。「昭和一桁生まれの祖母から、『昔は本当に人の骨や肉を薬だと言って売る人がいた』と聞かされたことがある」。そういう類のものだ。

実際、黒焼き文化そのものは民間療法として長く命脈を保っている。イモリの黒焼きなどはピクシブ百科事典にも項目が立つほど、広く知られた俗信である。

あるnote投稿では、もっと大きな話にしている。大阪の連続バラバラ殺人事件など、後年の猟奇犯罪と絡めた土地柄論だ。「大阪という土地には、なぜか人体を切り刻む猟奇事件の系譜が繰り返し現れる」という考察記事も存在する。そうした記事が、生首黒焼き事件をその系譜の始点として位置づけている。

また、千駄木菜園という個人ブログが「人体を材料とした薬」という記事を書いている。本草綱目に由来する人体薬の伝統を紹介する内容だ。頭蓋の灰、爪、胎盤、経水に至るまで、三十七種にも及ぶ「人部」の薬材があるという。生首黒焼きがその延長線上にある行為だったことを裏付ける資料として、考察勢の間でしばしば引用されている。

匿名掲示板系のスレッドでは、目の向く先が違う。「化物屋敷」という呼び名そのものに着目する書き込みが多い。「近隣住民は薄々気づいていたのではないか」。「異臭がしても誰も通報しなかった時代の空気の方が怖い」。事件そのものよりも、周囲の沈黙に着目したコメントが目立つ。

正直、これは令和の感覚からすると異様に映る。ただ、明治期における「触れてはいけない家」への暗黙の忌避感を反映したものとして語られている。

怪談シーズンになると必ず出てくる

X(旧Twitter)や個人ブログでは、閲覧注意タグ付きでこの事件が定期的に「発掘」される。「明治のヤバい事件まとめ」といったスレッドの定番ネタとして拡散されている。

特にハロウィンや夏の怪談シーズンには、投稿が増える傾向にある。生首黒焼き事件、肝取り勝太郎事件、脳みそ売買事件の三つがセットで紹介される。「明治怪奇録三部作」のような扱いを受けている。

ちなみに、オカルトまとめサイトのコメント欄も読ませる。「証拠不十分で無罪になったというオチが逆に一番怖い」「令和なら間違いなくDNA鑑定で身元が割れていた事件」。現代の科学捜査水準と比較する形での感想が多く見られる。

日本橋筋と、並べて語られる事件たち

事件の舞台とされる大阪市日本橋筋一帯は、後年「でんでんタウン」として知られる電気街に発展した地域だ。明治期には貧民街と職人町が混在する猥雑な下町だった。

同じ大阪では後年、昭和末期に「大阪連続バラバラ殺人事件」が発生している。遺体を切断して遺棄する猟奇事件だ。考察勢の間では、時代を超えた奇妙な符合として語られることがある。

また、人体を薬として扱う信仰という点でも、この事件は孤立していない。明治三十五年に東京で発生した「臀肉事件(野口男三郎事件)」と並べて語られることが多い。ハンセン氏病治療のために少年を殺害し、尻の肉を切り取ったとされる未解決事件である。

さらに時代を下ると、似た事件が続く。昭和八年の群馬県における「脳漿強奪事件」は、火葬場からの脳の窃取・売却だった。昭和六年から八年にかけては、三重県鳥羽の火葬場で大規模な脳の売買事件が起きている。遺体の一部を難病の薬として密売する犯罪の系譜が、戦前から戦後にかけて連綿と続いていた。そのことが、複数のノンフィクション記事で指摘されている。

生首黒焼き事件は、こうした「人体薬信仰」が生んだ一連の猟奇事件群の一角だ。記録に残る最も早い時期の事例のひとつとして位置づけられている。

「化物屋敷」の再話と同時代記録を分ける

生首黒焼き事件としてネット上に流れる物語には、場面が足されていく。化物屋敷、三つの首、火鉢、異臭、秘密の薬屋。そういう場面が加わることがある。場面が鮮明でも、明治三十五年の捜査記録がその筋を裏づけているとは限らない。後世の犯罪実話、怪談、創作シナリオが混ざり、ひと続きの事件として読める形に整えられた可能性がある。

別系統の再話もある。大阪府東成郡の墓地管理に関わる男が埋葬遺体の首を切り、密売していたとされる。こちらも、氏名、町名、首の数、用途が記事ごとに違う。明治期の旧町村名は現在地と一致しない場合があり、似た地名への置き換えも起こる。地名だけを根拠に現場を特定するのは危険である。

確実性を高めるには、新聞の一報だけでは足りない。逮捕後の続報、起訴、判決、墓地管理の行政記録を追う必要がある。見つからない部分を「警察が隠した」と補うのではなく、現在確認できる範囲を明示する方がよい。

『薬学雑誌』が伝える当時の受け止め

日本薬学会の『薬学雑誌』一九〇二年分には、人頭の黒焼きをめぐる記事がある。大阪地区通信でも、売買の噂に触れたとされる。薬業の中心地である道修町の業者は、その種の品を扱うのはごく下層の薬種商だとして距離を置いていた。そういう趣旨の記述が紹介されている。

「人頭黒焼き」という噂は当時の薬業界にも届いていた。この資料から読み取れるのは、それがまともな薬品取引とは見なされていなかったことだ。社会全体が効能を信じていた、医師が治療薬として認めていた、という話にはならない。批判や嘲笑を含む記事の存在は、むしろ同時代にも疑う側がいたことを示す。

また、噂が記事になったことと、個々の売買事件の全詳細が事実であることも別である。通信欄が警察記録を引用したのか、市中の評判を書いたのか。原ページで文脈を確かめたい。引用の孫引きでは、漢字の読み違い、東京の別件との混同、年月のずれが起こりやすい。

黒焼きという製法の実像

黒焼きは、動植物を密閉に近い状態で加熱し、炭化させたものを薬やまじないに用いる民間的な製法である。動物由来の黒焼きが売られた歴史はある。ただ、その事実だけで人間の遺体が一般商品だったとは言えない。動物薬、漢方の本草書、人骨にまつわる俗信を一括し、「昔の薬屋は人体を扱った」と描くのは飛躍である。

念のため書いておくと、「梅毒の特効薬だった」という説明も、効能が医学的に確認されたという意味ではない。病気への恐怖と治療法の乏しさにつけ込み、効くと称して売られた可能性を示す言葉である。近代薬学が整備される時期には、成分や品質の分からない売薬への批判も強まっていた。

遺体の一部を薬にする話は、いろいろなものと結びつきやすい。実際の墓地荒らしへの不安、旧来の本草知識、新聞の猟奇報道。一般的な俗信を、特定事件の動機へ直結させるときは、供述や押収品など個別の根拠が要る。

事件記事に残すべき限界線

現時点で、三つの生首を屋敷で焼いたという一連の筋を、公的な判決資料で確認できていない。だとすれば、史実の完全な再現としては載せられない。

それでも書けることはある。一九〇二年に人頭黒焼きの売買が話題になったこと、薬学関係者がそれを正規の薬業から切り離して語ったこと。そして、墓地からの遺体盗取をめぐる事件記事が後世に引用されていること。ここまでを、それぞれ別の強さで記すべきである。

忘れたくないことがある。遺体を損壊された人には遺族がいた。首の保存法や焼成手順を細かく説明する必要はなく、再現を促す形にもすべきでない。残酷さを競うより、近代化の途中で俗信がどのように商品化され、新聞と怪談が事件像を膨らませたかを追う。その方が、史料に近づける。

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