確かな経緯として書けること
該当記述なし
世間ではこう語られてきた
語られている中身はこうだ。東京の貧困層地域で、少年の臀部から肉を切り出し、スープとして調理したとされる事件。
事実か誇張された噂かは不明である。
背景にあるのは、都市部の貧困と犯罪の増加だ。そして食人行為の噂が恐怖を煽った。
明治の猟奇事件の代表例であり、都市伝説として語り継がれている。
この先を読む前の、線引きの話
この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過。どれも、公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道で個別確認が必要。
「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」などの説明は、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。
麹町の路上に、片方だけの下駄が落ちていた
明治35年(1902年)3月27日の夜。東京府東京市麹町区下二番町、現在の東京都千代田区二番町にあたる場所で、一人の少年が忽然と姿を消した。少年の名は、資料によって表記に揺れがある。ただ、いずれの記録でも11歳前後の男児だったとされる。
その日、少年は銭湯帰りだった。家族に頼まれて砂糖を買いに出かけたところで、行方が分からなくなった。夜も更けても息子が戻らない。不審に思った父親が表に出て捜索したところ、路上に少年の下駄の片方が脱げ落ちているのを発見する。
嫌な予感に突き動かされるまま、父親は周辺をさらに探し歩いた。そしておよそ60メートルほど離れた場所で、血まみれになった息子の遺体を発見した。ここから先は、正直かなりきつい話になる。駆けつけた麹町警察署の検視により、遺体には二つの異様な損傷が見つかった。
ひとつは、両の眼球がえぐり取られていたこと。もうひとつは臀部の肉だ。長さにしておよそ18センチ、幅にしておよそ13センチ、量にしておよそ1.2キログラム。それだけの範囲が、鋭利な刃物で椀状にくり抜くようにして切り取られていたことだった。
犯人は少年の背後から近づき、顔面を身体に押しつけるようにして窒息させたと推測される。物盗りや怨恨といった通常の動機では説明がつかない。猟奇性の高い犯行であることが、ひと目でうかがえた。
まあ、これを読んだ当時の人間の反応は想像がつく。当時の郵便報知新聞は「奇怪なる殺害」の見出しでこの事件を報じた。続報では「人肉取り」という、より直截な見出しを掲げて世間の耳目を集めた。
警察がまず疑ったのが、およそ一ヶ月前、同年2月に大阪で発覚したばかりの「生首黒焼き事件」との関連だ。「新鮮な子供の人肉を、業病に効く薬として売るために殺害したのではないか」。そういう見立てのもとで捜査を進めたと伝えられている。
しかし目撃者はなく、物的証拠にも乏しい。捜査は暗礁に乗り上げたまま、事件は3年もの長きにわたり迷宮入りとなった。
事件が急展開を見せるのは明治38年(1905年)5月29日のことである。野口男三郎、旧姓は武林、当時25歳前後。その男が甲武鉄道飯田町駅で、別件で逮捕された。取り調べの中で男三郎は、3年前の少年殺害を含む複数の犯行を自白したとされる。
男三郎は大阪の計器製造業の家に生まれた。聡明で口が達者、おまけに美男子で人当たりも良かった。ただ、定職には就かず、下宿を転々とする生活を送っていた人物だったという。
上京後は聖公会系の英学校に学んだ。動物学者石川千代松のもとに寄宿するなどして、外国語学校のロシア語科にも籍を置いた。この間、男三郎は詩人として名の知られた野口寧斎の妹・そえ子と恋仲になる。明治34年(1901年)ごろから野口家に同居するようになる。
義兄となった寧斎は当時、癩病(ハンセン病)を患っていた。男三郎は献身的に寧斎の看病にあたる一方で、そえ子への感染を強く恐れていたとされる。
「新鮮な人肉、とりわけ子どもの肉が業病に効く」。当時の一部では、そんな話がまことしやかに信じられていた。そこで彼が頼ったのが、この俗信だった。
自白によれば、男三郎はこの俗信を実行に移すべく、近所の見知らぬ少年を襲って殺害し、臀部の肉を切り取ったのだという。自白の内容はさらに生々しい。
犯行の二日後にあたる3月29日、男三郎は京橋区で鍋と炉(一説には坩堝)を購入した。そして東京湾・浜離宮沖の海上で、木炭を使って切り取った臀肉を煮詰め、エキスを抽出したという。残りの肉片や骨は海に投棄し、証拠を隠滅した。
こうして得られた「人肉エキス」を、男三郎は牛乳瓶に詰めた。それを鶏肉スープに混ぜ込む。そして病身の寧斎に「滋養のあるスープ」だと偽って飲ませた。そう供述したと伝えられている。
義兄は、知らぬ間に殺された少年の肉を口にしていたかもしれない。この一節こそ、この事件が「臀肉事件」であると同時に「人肉スープ事件」とも呼ばれる所以である。
この話だけは、新聞が実際に報じている
この事件は、他の二件とは決定的に違う。当時の全国紙・地方紙で大々的に報道された、紛れもない実在の事件である。
国立国会図書館のデジタルコレクション、後年の新聞研究、犯罪史研究の文献。そこに当時の報道記録が数多く残されている。その点で、前述の人肉風呂事件や赤児の黒焼き事件とは性質を異にする。いわば「明治怪奇録」というくくりの中では、もっとも史実に近い部類に入る事件だといえる。
ちなみに初出は、明治35年3月の郵便報知新聞をはじめとする当時の新聞各紙だ。「奇怪なる殺害」「人肉取り」といった見出しで連日報道された。
その後、男三郎が逮捕された明治38年以降も、彼の来歴や自白内容が新聞紙面を賑わせた。獄中で男三郎が詠んだとされる詩に、当時流行していた唱歌「美しき天然」の旋律を乗せた替え歌。それが演歌師(世相を歌い歩いた大道芸人)によって歌われた。
そして「男三郎の唄」として世相を映す流行歌にまでなったという。当時としては異例の社会現象を巻き起こした。
さらに明治39年(1906年)、経営難にあえいでいた出版社が動く。国木田独歩の「独歩社」が、男三郎の告白手記とされる『獄中之告白』を出版している。
独歩社の社員に、かつて新聞記者だった窪田空穂がいた。旧知の記者沢田撫松の編集協力を得て、彼がこの出版を実現させたと伝わっている。
経営難の出版社が、際物(きわもの)出版に手を染めてまで世に出したいと考える。それほど当時、この事件への世間の関心が高かったことがうかがえる。
戦後になると、犯罪史研究会などによる実録犯罪本がこの事件を扱う。さらに現代ビジネスをはじめとするウェブメディアも、明治期の未解決・猟奇事件の代表例としてたびたび取り上げた。より詳細な経緯とともに紹介するようになった。
「臀肉事件」の名で独立した項目として整理されるほど、記録はまとまって残っている。明治怪奇譚の中では最も情報量が豊富かつ検証可能性の高い事件である。
自白したのに無罪、という結末
ここからが、この事件のいちばん妙なところだ。裁判の結果は、多くの人の予想を裏切るものだった。明治39年(1906年)5月15日、東京地方裁判所が判決を出す。この臀肉事件と義兄・寧斎殺害の容疑については、証拠不十分として無罪を言い渡した。
男三郎が有罪となった事件は、二つしかない。生活に困窮した末に薬局店主・都築富五郎を殺害して金を奪った事件と、東京外国語学校の卒業証書を偽造した事件。この二件のみだった。
無罪の背景には、名弁護士として知られた花井卓蔵による情熱的な弁護活動があったとされる。花井は検察側の証拠と証人証言の間にある矛盾を鋭く指摘したという。
同時に、警察による取り調べの過程で拷問まがいの自白強要があったのではないか。そういう疑念も、当時から囁かれていた。
この「自白したのに無罪」という異例の展開こそが、事件をめぐる異説を大量に生み出す土壌となった。
第一の異説は、「男三郎は本当は無実であり、警察の拷問によって虚偽の自白をさせられたに過ぎない」とする”冤罪説”である。
獄中で男三郎と交流のあった大杉栄(後の著名な社会運動家)が、男三郎についてこんな言葉を残している。「獄中の被告人仲間の間でもすこぶる不評判だった」。さらに「典獄はじめいろんな役人どもにしきりに胡麻をすって、そのお蔭でだいぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのもそのためだ」とも記している。
大杉はここで男三郎の人物像を、権力に取り入ることに長けた、どこか胡散臭い人物として描いている。この記述は冤罪説を補強する一次資料として、しばしば引用される。
第二の異説は、真逆を行く。「男三郎は自白通りの真犯人であり、証拠不十分による無罪はあくまで法的な結果に過ぎず、実質的には彼が真犯人だったのだ」とする”真犯人説”である。
臀肉事件以外の二件の殺人(義兄殺害・薬局主人殺害)で、実際に人を手にかけていたことが明らかになっている。だとすれば、最初の臀肉事件についても同一犯である可能性は高い。そう見る向きが、犯罪史研究者の間でも根強い。
第三の異説もある。そもそも男三郎の自白自体が、獄中での注目を集めたいという動機から出たのではないか。あるいは自分を大物犯罪者として演出したいという虚栄心から出た、誇張・虚偽だったのではないか。そういう”自己演出説”がある。
大杉栄が指摘した「胡麻をする」性格。獄中手記をわざわざ出版までさせたという事実。これらは、この説を補強する材料として語られることがある。
こうした異説が並立し、決着がつかないまま今日に至っている。それこそが、この事件が明治最大の未解決事件のひとつとして語り継がれる最大の理由である。
二番町の夜に、下駄の音を聞いたという人たち
臀肉事件そのものが、史実として重い。だからだろうか、心霊体験譚もまた、他の二件に比べて生々しい形で語られる傾向がある。
麹町・二番町周辺の旧地を訪れたという体験談投稿がある。夜間にその通りを歩いていた際、どこからともなく下駄の音が背後からついてくるのを感じた。振り返っても誰もいなかったという話が伝えられている。
投稿者は後になって、この場所が臀肉事件の現場に近いと知る。「あの下駄の音は、殺された少年が今も家路をたどろうとしているのではないか」。そんな言葉を綴っている。
また、事件当時に少年が向かっていたとされる方向――砂糖を買いに行く途中の道――にまつわる話もある。「深夜、その通りで小さな子どもが泣きながら何かを探しているような後ろ姿を見た」。そんな目撃談が、都内の心霊スポットまとめサイトなどで紹介されることがある。
話者は「呼びかけようとしたが声が出せず、瞬きをした瞬間に姿が消えていた」と証言している。典型的な地縛霊譚のパターンをなぞっている。
さらに、市ヶ谷監獄の跡地周辺にまつわる話もある。男三郎が処刑された場所だ。「深夜、首を絞められるような息苦しさに襲われて目を覚ました」という体験談が、一部で語られている。
これを男三郎の処刑にまつわる怨念と結びつける解釈が、オカルト系のまとめサイトでは定番となっている。
ネットではこの事件がどう扱われているか
臀肉事件は、明治期の事件の中でも情報量が豊富で史実性が高い。だから取り上げる媒体の数がとにかく多い。5ちゃんねるの未解決事件板・オカルト板をはじめ、まとめサイト。YouTube・ニコニコ動画の「ゆっくり解説」系チャンネル。さらに考察系ポッドキャストに至るまで、非常に多くの媒体で繰り返し取り上げられてきた。
実際、この事件を専門に扱ったオーディオブック・ポッドキャストのエピソードも配信されているほどだ。明治怪奇譚の中では突出して知名度が高い。
掲示板やコメント欄でよく見られる反応はこうだ。「自白したのに無罪になったのが逆に怖い」「花井卓蔵の弁護が伝説的すぎる」「大杉栄が獄中で会っていたという事実が生々しい」。こうした、史実の重みに引きずられた驚きの声が多い。
一方で、「これは都市伝説というより歴史上の未解決事件そのものでは」という指摘も多い。他の二件(人肉風呂事件・赤児の黒焼き事件)と並べて「明治怪奇録」として紹介されることに、違和感を覚える考察勢も存在する。
とはいえ、事件の核心は永遠に確定しない。真犯人は本当に男三郎だったのか、自白は真実だったのか。その構造そのものが、都市伝説的な語りを許容し続ける余地を生んでいる。その点で本項目に含まれることには、一定の合理性があるといえる。
考察系動画のコメント欄では、現代のワイドショー・SNS文化と比較する形のコメントも多く見られる。「男三郎の唄が流行歌になったの、今で言えば猟奇殺人犯がバズるようなものでは」。「独歩社が手記を出版したの、当時のメディア倫理どうなってたんだ」。100年以上前の事件でありながら、現代のセンセーショナル報道・炎上文化と地続きだ。その構造を持つ点が、繰り返し話題にされている。
皇居のそばの静かな町と、もうひとつの明治の闇
事件現場となった麹町区下二番町は、現在の千代田区二番町にあたる。皇居に程近い、当時も今も閑静な武家地・官庁街の面影を残す地域である。
そうした落ち着いた土地柄で起きた、凄惨な事件。それが当時の人々に、一層強い衝撃を与えたと考えられる。
前述の通り、事件発覚当初、警察は同年2月に発覚した大阪の「生首黒焼き事件」との関連を疑っている。どちらも「人体、特に新鮮な人体が難病に効く」という当時の迷信を背景に持つ点で共通している。明治という近代化の時代にあってなお、旧来の呪術的な医療への信仰がいかに根強く社会の底流に残っていたかを物語っている。
この文脈において、臀肉事件は「人体を薬とする明治の闇」という共通のテーマを持つ。人肉風呂事件・赤児の黒焼き事件とともに、三部作として語られるにふさわしい事件だといえる。
史実性の高さゆえに、この事件は他の二件の”信憑性の低さ”を相対的に際立たせる。ところが、逆の働きもある。「本当にあったことなのだから、他の二件も実は本当にあったことなのかもしれない」。そんな想像を掻き立てる役割も果たしている。そして明治怪奇録という枠組み全体の説得力を支える、中心的なピースとなっている。
