経緯の欄は空白のまま
事件の経緯として整理された文章は、この資料には該当記述なし。
怪奇度☆☆☆で並べられた明治の一件
怪奇度は☆☆☆。分類は歴史的事件で、怪奇性は間接的、という但し書きが付いている。内容の欄はこうだ。滋賀県大津で、ロシア皇太子ニコライが襲撃された事件。
直接的な怪奇性はない。それでも「呪われた事件」として噂された、という一行が添えられている。
背景の欄はもっと素っ気ない。明治政府の外交努力と国民の反発が交錯し、都市伝説としての要素が生まれた、と書いてあるだけだ。明治の怪奇事件として語られることもある、と締めくくられている。
独立した資料にも同じ名前がある
同名、または強く関連する独立資料項目が存在することを確認、と記録の側には書かれている。大津事件という項目を手がかりに、事件・人物・制度の概略を照合可能というわけだ。
鵜呑みにする前に立ち止まりたい
この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、そのまま信じるわけにいかない。公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道で、ひとつずつ個別確認が必要になる。
「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」。この手の説明が出てきたら、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。そこは先に断っておく。
完全再話――琵琶湖畔、190台の人力車と一振りのサーベル
明治24年(1891年)5月11日。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、後の皇帝ニコライ2世が日本を公式訪問中だった。同行するギリシャ王子ゲオルギオスとともに、琵琶湖遊覧のため滋賀県滋賀郡大津町、現在の大津市を訪れていた。案内役は有栖川宮威仁親王。
行列は人力車がおよそ40台前後連なり、全体ではおよそ180メートルにも及ぶ大行列であったと当時の報道は伝えている。沿道には見物の群衆が詰めかけた。日本にとっては、当時世界屈指の大国であったロシア帝国の皇太子を迎えるという、外交上極めて重要な一日のはずだった。
警備の任にあたっていたのは、滋賀県の巡査・津田三蔵。三重県出身で、代々医師の家系に生まれた。津田は明治維新前後の激動期に多感な少年時代を過ごし、西南戦争では左手に傷を負いながらも勲七等を受章した経歴を持つ。いわば「国のために戦った」という自負を胸に抱いた人物だった。
事件当日、皇太子一行が琵琶湖畔の三井寺を通過する際、津田はあることに気づく。偶然にも、自らが警備を担当する地点が西南戦争の戦没者を祀る歩兵第九連隊慰霊碑のそばであった。遠くで祝砲代わりの花火が打ち上げられ、その音が津田には大砲の音のように聞こえたという。
かつての戦場の記憶が呼び覚まされる中、津田はある光景を目撃した。皇太子の随行員が慰霊碑に対して敬礼をせず、むしろ眼下の地形を見下ろしながら、車夫に何やら指示を出している。津田はこれを「日本の地理を偵察している」と解釈した。今回の来日は日本占領のための下見に他ならない。津田はそういう妄想的確信を強めていったのだ。
行列が三番目の警備地点に差し掛かったその瞬間、津田三蔵は佩用していたサーベルを抜き、皇太子ニコライに斬りかかった。刃は皇太子の頭部をかすめ、額から側頭部にかけておよそ9センチの切り傷を負わせた。皇太子はとっさに人力車から飛び降りて逃げようとしたのだ。同行していた車夫たちが即座に津田に組みつき、取り押さえた。
当時世界有数の軍事大国であったロシア帝国の皇太子が、日本国内で斬りつけられた。しかも警備を担当する現職の警察官の手によってだ。傷は幸い命に別状のないものであった。それでもこの事実は日本中を震撼させ、政府を極度の恐慌状態に陥れた。
いつから語られたのか
大津事件は言うまでもなく実在の歴史的事件だ。当時の新聞各紙が連日にわたって大々的に報道した、日本近代史上最も著名な事件の一つである。事件発生直後から、政府内はひとつの恐怖に支配された。皇太子に危害を加えた津田を死刑にしなければ、ロシアが武力報復してくるのではないか。
西郷従道内務大臣は「(そうしなければ)ロシアの軍艦が東京に来るぞ」と叫んで死刑を強く主張した。伊藤博文、松方正義首相、山田顕義法務大臣らも同調したと伝えられている。青木周蔵外務大臣に至っては、ロシア側と密約を交わしていたとまで言われる。皇太子の身に万一のことがあれば犯人を極刑に処する、という内容だ。
しかし、この時点で日本の刑法116条は、天皇・皇族に対する犯罪、つまり大逆罪を定めたものだった。外国の皇族に対する犯罪には適用できない。それが法律上の建前だった。当時の大阪毎日新聞はいち早くこの矛盾を指摘し、「津田に死刑を適用することはできない」と報じた。
この報道に政府は激怒。なんと翌日には外交関係記事の検閲を強化する法律を急遽施行し、当該新聞を発行停止処分にした。言論弾圧にまで踏み込んだわけだ。
最終的に事件からおよそ2週間後、大津地方裁判所を大審院として扱う異例の措置のもと、判決が下されることになった。大審院長・児島惟謙は、政府からの死刑適用への圧力に抵抗した。「法律を曲ぐるの端を開かば、忽ちに国家の威信を失墜し」。そういう趣旨の意見書を提出したのだ。そして津田三蔵に対し、通常犯罪に適用される無期徒刑、つまり無期懲役の判決を下した。
この「行政の圧力に屈せず司法の独立を守った」という物語は、教科書にも取り上げられる重要な出来事となった。日本の三権分立・司法権の独立を象徴する、近代法制史上のエピソードだ。
なお、判決からわずか2か月後の同年9月29日、収監されていた津田三蔵は服役先の北海道・空知の監獄で病死した。享年37歳。獄死という結末そのものが、当時から様々な憶測を呼ぶ材料となった。
動機の底に沈んでいた西郷隆盛
「明治怪奇録9選」のような都市伝説まとめサイトは、大津事件を「怪奇度☆☆☆」として紹介する。「呪われた事件として噂された」という形容まで付く。直接的な超常現象があったからではない。理由は、事件の背後に横たわる「西郷隆盛生存説」の存在だと考えられる。当時の日本社会を席巻した、壮大な流言だ。
津田三蔵の犯行動機について、公式には「皇太子来日を日本侵略の偵察と誤解した」という説明がなされる。ところが、より踏み込んだ異説がある。「西郷隆盛がシベリアで生存しており、ロシア皇太子とともに日本に帰ってくる」。この噂を津田が本気で信じ込んでいたことが動機の核心だった、という見方が根強く語られている。
この西郷生存説そのものが、凄まじい広がりを見せた流言だった。西郷は明治10年(1877年)の西南戦争で自刃したとされる。だが介錯によって首級が持ち去られ、本人と確認できる遺体が不完全だった。そのため直後から「本当は生きているのではないか」という噂が絶えなかったのだ。
さらに西南戦争中、政府軍劣勢の報が広まるたびに「西郷は死んで赤い星(火星)になった」という「西郷星」伝説まで生まれた。当時地球に大接近していた火星と結びつけられ、民衆の間で語られた。
明治23年(1890年)は、米価高騰による社会不安が高まっていた時期だ。その中でこの生存説は、驚くほど具体的な内容にまで発展していた。「西郷はロシア軍艦に救助され、ウラジオストクでロシア兵の訓練にあたっている」。「かつて黒田清隆がヨーロッパ歴訪の際、シベリアの兵営で西郷その人と密会し、日本の将来について語り合った」。西郷が明治24年に帰国すると約束した、というおまけまで付いていたのだ。
実在する要人である黒田清隆や平尾喜寿の名を挙げ、黒田の帰国後の性格変化まで「証拠」として語られた。西郷の墓が異様に小さいことまでもが根拠にされたというのだから、恐れ入る。当時の流言の伝播力と具体性は、現代のネット上の陰謀論にも通じるものがある。
津田三蔵は、この生存説を事実として受け止めていたとされる。皇太子来日にあわせて西郷が政界に復帰すれば、自分が西南戦争で得た勲功の意義が失われてしまう。そんな焦燥感、あるいは逆に西郷を英雄視するあまりの複雑な心理を抱えていたというわけだ。
「西郷の亡霊が引き起こした暗殺未遂事件」。大津事件は単なる外交事件ではない。「怪奇事件」「呪われた事件」として都市伝説的に語らせる土壌は、この物語構造にあると考えられる。
さらに、事件が日本の外交に与えた余波にも異説的な語られ方がある。事件の責任を取る形で、青木周蔵外務大臣が辞任に追い込まれた。青木はまさに不平等条約撤廃交渉を精力的に進めていた最中だったとされる。イギリスから領事裁判権撤廃や関税自主権の一部回復について、同意を取り付けかけていたのだ。
後任には親ロシア派とされた榎本武揚が就いた。そのため条約改正交渉は停滞したという見方がある。「西郷の怨霊が不平等条約撤廃を遅らせた」。歴史的事実と怪異譚を接続させる語り口で、この事件を紹介する読み物も存在する。
定番と呼ばれてきた考察記事
探検コムに掲載された「西郷隆盛と津田三蔵/大津事件の真相」という読み物がある。津田の生い立ちから犯行心理、裁判の経緯、獄死までを詳細に追った内容だ。西郷生存説の広がりを、当時のビラの文言まで引用しながら再現している。歴史ファンの間で「大津事件を知るならまずこれ」と評される、定番の考察記事になっている。
歴史街道の「大津事件と西郷隆盛生存説―西郷の亡霊が不平等条約の撤廃交渉を遅らせた?」という記事は、そのタイトルからして事件を怪異譚的に語る典型例だ。「西郷の亡霊」という表現を用い、史実と流言の境界をあえて曖昧にする筆致が特徴的である。読者からは「タイトルだけ見るとオカルトだが中身はちゃんとした近代史解説」という感想が多く見られる。
滋賀県大津市の心霊スポット・都市伝説・事件をまとめた「piconyan.net」というサイトもある。ここでは大津事件が、三井寺周辺の「弁慶の引摺り鐘」伝説や瀬田の唐橋の大蛇伝説などの土着の怪異譚と並べて紹介されている。「史実の事件でありながら、なぜかこの街の怪異譚リストに必ず名を連ねる」。そんな扱いを受けている。
旧2ちゃんねる系の心霊スポットまとめ「psychic-spot.chobi.net」もある。ここでも大津市周辺の怖い話がまとめられている。直接大津事件を扱った書き込みは少ない。ただ、琵琶湖大橋や瀬田駅周辺の怪異体験談と地理的に近接している。そのため地元の歴史好きの間では、「大津事件の現場と心霊スポットが同じ市内に集中している」こと自体が話題になっている。
掲示板と動画で繰り返される話題
5ch・おーぷん2chの日本史板や都市伝説板では、大津事件は定期的に立つ定番スレッドの一つだ。書き込みの傾向は二極に分かれる。ひとつは「児島惟謙かっこよすぎる」「あの時代に司法の独立を守った胆力がすごい」という司法史的な称賛。もうひとつは「津田三蔵の西郷生存説マジ勢が事件を起こしたのがヤバい」という、流言の恐ろしさへの言及だ。
歴史系・都市伝説系のYouTube解説動画でも、大津事件はしばしば取り上げられる。「明治の日本を救った一太刀」「もし皇太子が死んでいたら日本はロシアに占領されていたかもしれない」。この手の煽り気味のタイトルで再生数を稼ぐ動画が多い。
一方、コメント欄には冷静な指摘も一定数寄せられている。「大げさすぎる」「史実としては当時の緊張感は確かにあったが即侵略というのは飛躍」といった声だ。
碑と博物館、そして重なる怪異譚
事件現場付近には現在「大津事件の碑」が建てられている。場所は大津市中心部、旧東海道沿いだ。大津市歴史博物館では、この事件に関する資料が保管・展示されている。
近年でも新資料の発見が報じられた。大津市歴史博物館の「大津事件・津田三蔵の新資料発見」がその一例だ。地元では史実としての検証・研究が今なお続けられている。
津田三蔵が警備中に立っていた三井寺周辺は、琵琶湖の絶景と多くの寺社仏閣を擁する観光地だ。同時に、弁慶の引摺り鐘伝説をはじめとする土着の怪異譚が数多く伝わる土地でもある。史実の大事件と伝説的な怪異譚が、同じ地理的空間に折り重なっている。その折り重なりが、この街を都市伝説的な意味でも特別な場所にしている。
関連する事件・出来事も多い。西郷隆盛の西南戦争での最期と「西郷星」伝説、青木周蔵の条約改正交渉、そして児島惟謙による司法権独立の確立。いずれも大津事件を軸にして、近代日本の政治・外交・司法・民衆心理が複雑に絡み合っていたことを示している。
司法権独立を示した判決
大津事件では、訪日中のロシア皇太子ニコライが警備中の巡査に斬りつけられた。政府内には、皇室に対する犯罪を定めた旧刑法116条を類推し、死刑を求める動きがあったのだ。しかし大審院は、同条が外国皇族に適用されるとは読めないとした。そして通常の謀殺未遂に当たる刑を言い渡した。
この判断は、国家間の緊張と政府の圧力がある状況でも、法律にない重罰を類推で科さなかった事例として語られる。ただし児島惟謙が一人で判決を決めたという英雄物語に単純化してはいけない。合議した裁判官、旧刑法の条文、当時の外交文書を併せて見る必要がある。犯人の動機についても、供述や精神状態を離れてロシアへの国家的陰謀と断定する資料はない。
判決後に日本とロシアがただちに開戦したわけではない。ニコライも帰国した。危機を強調する回想と、実際の外交交渉の推移は分けて確かめたい。津田三蔵は無期徒刑となり、同年に北海道の集治監で死亡した。その死までを口封じとする説にも、それを示す司法資料は見つかっていない。
