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連合赤軍事件(1971年―1972年)

何が起きた事件なのか

過激派組織・連合赤軍が起こしたのが、あさま山荘事件と、内部でのリンチ殺人だ。組織の内側では、それが「総括」と呼ばれていた。群馬の山岳ベースで進んだ粛清では、12人が死亡している。過激派の暗部が、そこで一気に露呈した。

なぜタブーになったのか。左翼運動の失敗という後味の悪さが、まずある。社会の動乱期を象徴する残虐性、そして組織そのものの狂気が重なった。だから詳細な検証は控えられ、正面から扱う話題ではなくなっていった。

現在の状況も書いておく。2025年の時点で、事件からすでに50年以上が過ぎた。主要メンバーは服役するか死去するかで、事件そのものは終結している。元メンバーの一部は社会復帰し、思想を転向させた。

Xでは「過激派の闇」「カルトとの類似」といった言葉が、今も囁かれている。ただし若い世代の関心は薄い。群馬県では観光地としてのイメージ、とりわけ草津温泉の名を守るため、事件はほぼ語られないままだ。タブー視はいまも続いている。被害者の供養は、地元で静かに行われている。

語られている話

この事件について、まとまった形で語られている話は見当たらない。該当する記述なし、というのが正直なところだ。

記録から分かること

同名の、あるいは強く関連する独立した資料項目が存在することは確認できている。連合赤軍という項目から、事件・人物・制度の概略を照合できる。

確認上の注意

この話に出てくる日時、人数、場所、動機、判決、捜査経過は、そのまま鵜呑みにできない。公的記録、裁判資料、警察発表、同時代の報道にあたって、一つずつ個別に確認してほしい。

「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」といった説明も同じ扱いになる。独立した裏付けがない限り、噂あるいは異説として扱う。

二つの新左翼党派が手を組んだ日

連合赤軍が結成されたのは、1971年7月15日のことだ。共産主義者同盟赤軍派と、京浜安保共闘・革命左派が合流して生まれた新左翼組織である。前者は森恒夫らを中心とする党派、後者は永田洋子らを中心とする党派だった。

名称をめぐっては、当初「赤軍」への統一を志向する声もあったのだ。ただ、獄中にあった革命左派の指導者・川島豪の反対もあり、「連合赤軍」という名称に落ち着いた。

両党派はどちらも、1960年代後半からの学生運動・全共闘運動が退潮するなかで、より先鋭的な武装闘争路線へ傾斜していった集団だ。警察の捜査網から逃れるため、彼らは群馬県の山中に複数の拠点を設けた。「山岳ベース」と呼ばれた場所で、合同軍事訓練を行うようになった。

この訓練の過程で、二つの党派の間には主導権をめぐる緊張関係が生じており、これが後の悲劇の伏線になったとされる。

「総括」という名の粛清

1971年12月、榛名山などの山岳ベースで、指導部は「共産主義化」と称する要求を突きつけはじめた。メンバー同士に相互批判・自己批判を強制する、という形である。当初この「総括」は、労働の割り当てや食事の制限といった穏健な形にとどまっていた。

それが同年12月26日に発生した暴力行為を境に、急速にエスカレートした。指導部は暴力を「総括援助」と呼び、正当化する論理を持ち込んだ。こうして総括は、組織的な集団リンチへと変質していった。

約2か月間にわたり、合計12名のメンバーが死に至っている。死因は一つではない。殴打による負傷、極寒の屋外での放置による凍死、飲食を絶たれたことによる衰弱と、多岐にわたる。指導部はこれらの死を「敗北死」という独自の呼称で処理していたとされる。

犠牲者の中には、恋人同士や兄弟姉妹といった近しい関係にあった者も含まれていたと伝えられている。裁判が認定したのは、この暴力が政治運動の名を借りた組織内の権力闘争だったという点だ。思想的な正当性を持つものではなかった。

元メンバーの証言によれば、暴力の背景にあったのは指導部内の人間関係の軋轢だという。特定の個人への嫉妬や怨恨も語られている。およそ「革命」とは無縁の動機である。ちなみに革命左派は、これとは別に、組織から離脱しようとした若い男女2名を殺害する事件も起こしている。印旛沼事件と呼ばれるものだ。

なお、こうした暴力の具体的な手口を、再現できる形で書くことはしない。

10日間、日本中がテレビに釘付けになった攻防

1972年2月、山岳ベースからの捜索を逃れた連合赤軍の残党メンバー5人が動いた。長野県軽井沢町にある企業の保養所「あさま山荘」に入り、管理人の妻を人質にとって立てこもったのだ。警視庁機動隊と長野県警察機動隊が山荘を包囲した。対峙は10日間に及んだ。

2月28日、部隊が突入して人質を無事救出し、犯人5人全員を逮捕した。この攻防戦の様子はテレビで生中継されている。平日日中にもかかわらず記録的な高視聴率を獲得したことで知られる。突入の過程では警察官2名と民間人1名が死亡し、27名が重軽傷を負った。

あさま山荘事件そのものは、人質立てこもり事件として決着したのだ。ところが、その後の取り調べの過程で、山岳ベースにおける凄惨なリンチ殺人の全容が明らかになった。これが日本社会に二重の衝撃を与えることになった。

「派手な籠城戦」という表の顔と、「仲間同士の陰惨な殺し合い」という裏の顔が、同時に暴かれたわけだ。新左翼運動全体に対する社会的信頼は、これで決定的に失墜した。

判決のあと、幹部たちはどこへ行ったのか

事件関係者のうち、15人について有罪判決が確定した。中央委員長であった森恒夫は、勾留中に東京拘置所で自殺している。副委員長であった永田洋子は死刑判決を受けて確定し、獄中で複数の著作・手記を発表したのち、2011年2月に病死した。

永田は獄中での体調悪化や病を通じて、自らの半生と事件を振り返る手記を残した。これが後年、事件の内在的理解を試みるノンフィクション作品や評伝の重要な資料となっている。

書記長であった坂口弘も死刑が確定し、現在も拘置所に収監されている。坂口は獄中で短歌を発表するなど、事件の当事者による内省的な表現活動を続けてきたことでも知られる。

中央委員の一人であった坂東國男は、1975年のクアラルンプール事件に伴う超法規的措置によって釈放された。日本赤軍による在外公館占拠事件である。坂東はそのまま国外へ逃亡し、今日に至るまで国際指名手配が続いている。

原因はどこにあったのか、いまも決着していない

連合赤軍事件については、発生から半世紀以上を経た現在も、複数の見方が併存している。その原因や本質をどう理解するか、という点で割れているのだ。

一つは、森恒夫個人の権力志向や心理的な不安定さに原因を求める「個人責任論」的な見方。もう一つは、当時の新左翼運動全体が抱えていた「内ゲバ」体質や、外部からの孤立による集団心理の暴走に原因を求める「組織病理論」的な見方である。

永田洋子の獄中手記や、元メンバーへの取材に基づくノンフィクション作品も、同じ方向を向いている。近年では森恒夫の足跡を追ったノンフィクションが文学賞を受けるなど、再評価の動きも見られる。いずれの作品も、単純な善悪二元論では割り切れないものを描き出そうとしている。閉鎖集団における人間心理の変質過程だ。

桐野夏生による小説『夜の谷を行く』のように、生き残った元メンバーのその後の人生を主題とするフィクション作品も存在する。事件の記憶がどのように継承され、再解釈されてきたかを物語る作品だ。

ネット上では、こうした閉鎖集団内の暴力のエスカレーションが、現代のカルト集団やオンラインの過激化現象と類似しているという指摘もしばしばなされる。ただし、これはあくまで比較・類推であって、歴史的事実そのものを塗り替えるものではない。

掲示板とSNSは何を追いかけているのか

事件から半世紀以上が経過した現在も、匿名掲示板や個人ブログでは考察が根強い人気を保っている。当時の新聞記事や公判記録、元メンバーの手記を突き合わせながら、時系列を検証していく試みだ。

掲示板の議論で繰り返し話題になるのは三つある。なぜ穏健な「総括」が短期間で殺人にまでエスカレートしたのかという集団心理学的な問い。司法がどのように指導部と実行担当者の刑事責任を区別したのかという法的な論点。そして坂東國男の逃亡先や生存の有無についての未確認情報だ。

SNS上では、2017年前後に放映されたドキュメンタリー番組が話題になった。元メンバーの一部が、保守的な立場への転向を語ったのだ。「なぜ革命を志した若者たちが対極の思想に転じたのか」という問いが、改めて注目を集めた。

この番組では、ある元メンバーが親戚から問われた言葉が語られている。「あなたたちは結局、誰か一人でも救ったのか」。それが過去の思想を手放す契機になったという。この逸話は個人の思想的な転回点として、繰り返し引用されている。

ただし坂東國男の消息のように、確定情報が存在しない事柄もある。ネット上ではしばしば根拠のない目撃談や生存説が流布している。これらは公的に裏付けのない噂として、明確に区別して扱う必要がある。

言葉が凶器になったあとで

連合赤軍事件、とりわけ山岳ベース事件で明らかになった凄惨なリンチの実態は、それまでの空気を一変させた。新左翼運動は一定の学生・知識人の共感を集めていた。その社会的支持が、根本から突き崩されたのだ。

「総括」という言葉は、以後の新左翼諸党派の間でも意識的に忌避されるようになった。内部批判のための言葉が、仲間内の暴力を正当化する道具になり得る。この教訓は後の学生運動・市民運動のあり方にも影響を与えたとされる。

1970年代以降、過激な武装闘争路線を掲げる党派は社会的な広がりを失っていった。日本の新左翼運動そのものが退潮していく、その大きな転換点。連合赤軍事件はそう位置づけられている。

山と山荘は、いまも黙ったまま

山岳ベースが置かれた群馬県の山間部は、草津温泉をはじめとする観光地としても知られる地域だ。地元で事件について積極的に語られる機会は少ないとされる。それでも犠牲者の慰霊は、地元の関係者や遺族によって静かに続けられてきた。

あさま山荘事件の現場となった長野県軽井沢町の「あさま山荘」は、事件後も長く保存されている。節目の年には報道各社が現地取材を行っている。

事件から半世紀以上が経過し、直接の当事者の多くは世に亡いか高齢となった。それでも連合赤軍事件は、日本の新左翼運動史における最大の悲劇として、繰り返し検証・再評価の対象になり続けている。

合流を「一夜の狂気」と書くと消えるもの

連合赤軍は、学生運動全体の別名ではない。警察庁の昭和四十八年版『警察白書』は、日共革命左派と共産主義者同盟赤軍派が一九七一年七月に合流して作った組織と記す。

両者は同じ思想と組織文化を持っていたわけではない。武装闘争を進める実務面で結びついた、というのが実態だ。合流を「若者の理想が一夜で狂気へ変わった」と描くと、消えてしまうものがある。党派間の路線差、資金獲得のための犯罪、銃器強奪、警察の追跡という段階だ。

警察白書は捜査機関側の公刊資料であり、事件の日時、検挙、押収物、死傷者を確認する基礎になる。一方で、思想運動の評価まで中立な唯一の説明とみなすべきではない。裁判記録、当事者の手記、研究書、報道を突き合わせ、誰の立場から書かれた文章かを示す必要がある。

また、連合赤軍と日本赤軍は同じ組織ではない。後者は海外へ渡った赤軍派系の活動家を中心に形成された。名称が近いせいで混同されやすい。国内の山岳ベース事件、あさま山荘事件、海外で日本赤軍が起こした事件を一続きの犯行一覧にする説明は、誤解を招く。

「総括」が服従の装置に変わるまで

山岳ベースでは、訓練や自己批判の語として使われた「総括」が、指導部への服従を迫る仕組みへ変質した。人格や生活態度への批判が、殴打、拘束、食事を与えない行為、厳寒の屋外へ置く行為へ進んだ。しかも仲間同士に実行させることで、逃げ道を狭めた。

被害者が衰弱しても、それは暴力の結果ではなく本人の「総括不足」と解釈され、さらに責任を負わせた。

警察白書は、一九七一年末から七二年初めにかけて、群馬県内の山中で組織の二十九人中十二人が殺害されたとする。これとは別に、合流直前の日共革命左派による印旛沼事件で二人が殺害されたことも記している。

十二人と十四人という数字が併記されるのは、この範囲の違いによる。数字だけを置くのではなく、どの事件を数えたかを明示したい。

被害者を「脱落者」「裏切り者」と呼ぶのは危うい。加害側が用いた分類を、そのまま追認する危険があるからだ。組織内の言葉を引用するときは、それが客観的な人物評価ではなかったことを添えるべきである。暴力を正当化するための語だったのだ。

あさま山荘の十日間

一九七二年二月十九日、逃走中の五人が軽井沢のあさま山荘へ入り、管理人の妻を人質に取った。籠城は二十八日の突入まで十日間続き、人質は救出され、五人は検挙された。警察官二人と民間人一人が死亡し、警察官二十六人と民間人一人が負傷したと警察白書は記録する。

テレビ中継の視聴率、現場で食べられた食品、鉄球の映像は、事件を語る象徴になった。しかし象徴だけを並べると、薄れてしまうものがある。人質が長時間拘束された事実、死亡した人々、負傷者、現場周辺の住民が受けた影響だ。

中継は日本の報道史に大きな意味を持つ。それでも事件そのものとメディア現象は、章を分けて扱う方がよい。

山荘での立てこもりが終わった後に、山岳ベースの遺体が発見された。ここで社会の理解は大きく変わった。生中継を見ていた時点の受け止めと、組織内部の殺害が判明した後の評価。この二つを同じ時点の反応として混ぜないことが、時系列を守るうえで欠かせない。

単純な世代論では説明できない

事件後、武装闘争への支持は急速に失われ、新左翼運動全体への強い不信が広がった。ただし、当時の学生や反戦運動の参加者をすべて連合赤軍と同じ思想・行動へ結びつけることはできない。組織に入らなかった人、暴力路線へ反対した人、途中で離れた人もいた。

「高学歴の若者がなぜ」という問いだけで追いかけると、閉鎖集団の権力関係より出身校へ原因を求めてしまう。まあ、見るべきものは別にある。異論を罪へ変える言葉、外部情報の遮断、指導者の判断を検証できない構造、そして暴力への共同加担が離脱を難しくする過程だ。

これは加害を心理学の一般論で免責するためではない。事件固有の記録から、組織の仕組みを読むための視点である。

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