十四歳の羊飼いが、夕方の牧草地で首を裂かれて死んだ。一七六四年六月三十日のことだ。それから三年間、フランス中南部の高原地帯では、同じ死に方をした人間が百人近く積み上がっていく。犠牲者のほとんどが女と子ども。国王ルイ十五世は軍隊を送り、王国一の狼狩り名人を送り、最後には自分の身の回りの鉄砲役まで送った。全部失敗した。三万人規模の巻き狩りをやっても、獣は捕まらなかった。しかも一度は討伐完了の宣言まで出て、剥製がヴェルサイユ宮殿に飾られたのに、地元では人が死に続けた。
これがジェヴォーダンの獣の事件だ。二百六十年たった今も、あれが何だったのか決着していない。オオカミだったのか、逃げたライオンだったのか、飼い慣らされた狼犬だったのか、それとも獣の顔をかぶった人間だったのか。一次史料はやたら残っている。残っているのに、決まらない。この記事では、その三年間をできるだけ細かく再生してから、正体をめぐる議論を一つずつ潰していく。
標高一〇〇〇メートル、子どもが放牧に出る国
まず舞台を頭に入れてほしい。ジェヴォーダンというのは旧地名で、いまのロゼール県とオート・ロワール県の一部にまたがる。中央山塊の南寄り、マルジュリッド山地とオーブラック高原がぶつかるあたり。標高は八百から千四百メートル。花崗岩と玄武岩の痩せた土地で、冬は雪が数か月居座り、夏は日射しが強い。作物はライ麦とソバくらいしか育たない。だから住民は牛と羊で食っていた。
ここが大事なのだけど、当時のジェヴォーダンの村は、集まって住む形になっていなかった。数軒単位の小集落が谷や斜面に散らばり、その周りに放牧地と雑木林が広がる。牛や羊を見張るのは、大人ではなく子どもや若い娘の仕事だった。八歳から十五歳くらいの子が、朝に家畜を追って出て、日暮れに戻る。武器は持たない。せいぜい棒だ。つまりこの地方は、構造的に、小柄な人間が一人で野外に長時間いる社会だった。獣にとってこれ以上ない条件がそろっていた、とも言える。
もうひとつ。十八世紀半ばのフランスには、推定で二万頭のオオカミがいたとされる。オオカミは珍しい動物ではなく、家畜を襲う日常的な害獣だった。だから人々は、オオカミが出た、で驚かない。逆に言えば、彼らが、これはオオカミじゃない、と言い張ったとき、その証言にはそれなりの重みがある。毎日オオカミを見ている人間が、見慣れないと言ったのだから。
一七六四年六月三十日、ジャンヌ・ブーレという名前
事件の起点として教科書的に扱われるのが、ジャンヌ・ブーレの死だ。十四歳。ランゴーニュに近いレ・ジュバックという小さな集落に住み、その日も家畜を見に出ていた。夕方、彼女は襲われた。遺体は部分的に食われていた。
翌七月一日、地元の教区の司祭が埋葬簿にこう書き込んでいる。一七六四年七月一日、ジャンヌ・ブーレを秘跡なしにて埋葬す。凶暴なる獣に殺されたるにより。立会人ジョゼフ・ヴィジエ、ジャン・ルブール。フランス語の綴りが乱れていて、獣という単語が誤記されている。田舎の司祭が急いで書いた生々しい一行だ。
秘跡なしに、というのは、死ぬ前に告解ができなかったという意味で、当時の感覚では相当に重い。魂の救済にかかわる話だからだ。獣は肉体を奪うだけでなく、来世まで持っていく。村人の恐怖にはこの層があった。
そしてこの一行には、もっと不穏な含みがある。司祭が、凶暴なる獣、と定冠詞つきで書いていることだ。読者に、あの獣、で通じる前提で書いている。つまりジャンヌ・ブーレは最初の犠牲者ではなく、最初に記録された犠牲者にすぎない可能性が高い。さらに、この埋葬記録は簿冊の中で前後の日付とずれた位置に挿入されていて、あとから思い出して書き足したような形跡がある。記録そのものが慌てている。
記録に残らなかった、最初の遭遇
ジャンヌ・ブーレの死のひと月ほど前、同じランゴーニュ近郊のメルコワールの森で、牛の番をしていた若い娘が獣に襲われている。彼女は生き延びた。牛の群れが娘をかばうように前に出て、獣に突進したからだ。獣は一度退き、もう一度突っ込み、また牛に追い払われて森へ消えた。娘は服が破れただけで済んだ。
この娘は、獣についてのちに何度も引用される表現を残した。オオカミのようで、オオカミではない。事件全体を貫くフレーズがここで出てきている。
この一件は死者が出ていないので公式記録の外にある。でも決定的に大きい。第一に、獣が牛を恐れたこと。第二に、正面から人間を狙ったこと。オオカミが角のある家畜の群れを避けるのは自然な行動で、この点だけは以後の襲撃でも一貫している。子どもたちが牛の間に潜り込んで助かる例が何度も出てくる。牛の壁が、この事件の唯一まともに機能した防御策だった。
秋、獣は西へ動いた
八月八日、ピュイ・ローラン教区マスメジャンの集落で、十四、五歳の娘が食われた。この二人はどちらもアリエ川の谷筋で死んでいる。八月末から九月にかけて、メルコワールの森周辺で犠牲者が続いた。
九月中旬、メンド司教区の代表役員エティエンヌ・ラフォンが動く。彼は当初、地元の猟師を送って巻き狩りをやらせた。同時に、獣の死体をメンドまで持ってきた者に二百リーヴルを出すと布告し、期間中の銃の携行を全面的に許可した。当時の農民に武器を持たせるのは行政としてかなり思い切った判断で、事態がすでに通常の害獣駆除の枠を超えていたことがわかる。
すると獣は狩りの圏内から消えた。そして西のマルジュリッドとオーブラックの境界あたりに現れた。十月七日、プリュニエール教区アプシェの村で少女が殺される。伝えられるところでは、その頭部が見つかったのは八日後だった。翌八日にはラ・ファージュ・モンティヴェルヌー近くで牛飼いの少年が襲われ、同じ日にプランスエジョルとラ・ボーム城の間で別の牛飼いが狙われた。少年は自分の牛の間に逃げ込み、牛たちが獣を押し返した。
この八日の一件は、事件史上はじめて獣に弾が当たった日でもある。近くの林から出てきた猟師たちが、まだ少年の周りをうろついている獣を見つけて発砲した。獣は二度倒れ、二度起き上がって、林に消えた。翌日の巻き狩りは空振り。夜、足を引きずる獣を見たという農民が二人いた。傷を負わせたのに殺せない。この、撃たれても立ち上がるというパターンが、以後この獣を超自然的な存在に押し上げていくことになる。
十月には南方でも犠牲が出た。レルモー教区でマリー・ソリニャックが死んでいる。獣の行動範囲は、最終的に東西九十キロ、南北八十キロという広大な範囲に及んだ。
竜騎兵五十六人、雪の中で空振りを続ける
十月十四日、ラングドック州の副司令官モンカン伯爵が正式な命令書を出す。文面がおもしろい。ヴィヴァレとジェヴォーダンの山中をしばらく前から徘徊している怪物、あるいは豹を撲滅するために、部隊、憲兵隊、市長、参事会員、住民のすべてがデュアメル大尉に協力せよ、と書いてある。国家の公文書に、怪物あるいは豹、と書かれている。当局ですら相手の正体をつかんでいない。
デュアメルというのは、ジャン・バティスト・ルイ・フランソワ・ブーランジェ、通称デュアメル。アミアン生まれ、当時三十二歳。クレルモン・プランス連隊の大尉副官だった。ちなみにこの部隊は長いこと王の竜騎兵と呼ばれてきたが、近年の軍事史研究では、彼らは正規の竜騎兵連隊ではなく、七年戦争で偵察と撹乱に使われた軽装の義勇部隊だったと訂正されている。制服が似ていたせいで取り違えられていたわけだ。
デュアメルは五十六人を選抜した。徒歩三十九、騎乗十七。全員が健脚で射撃がうまい兵だ。銅の兜、サーベル、そしてライフリングを刻んだ騎兵銃。十一月三日にメンドで司教に謁見し、五日にサン・シェリー・ダプシェに入る。ところが雪が降り続いて、最初の狩りができたのは十一日だった。
彼のやったことは、当時としては相当に本気だった。毒餌を仕込んだ犬の死骸を置く。最新の犠牲者の遺体を殺害現場にそのまま置いて、獣が戻ってくるのを待ち伏せる。兵士に女装させて牧草地に立たせ、おとりにする。四十六の教区を巻き込み、進路まで細かく決めた広域一斉巻き狩りを組織する。二月十一日の大巻き狩りには五万人が動員されたという記録さえある。旧体制下のフランスで、一頭の動物のためにこれだけの人間が同時に動いたことは他にない。
それでも当たらなかった。獣はいつも一歩先にいた。デュアメルは戦術を切り替え、大規模な巻き狩りをやめて、最後の目撃地点から扇状に森を潰していく方式にした。それでも捕まらない。十二月二十二日、フォー教区の森で取り逃がしたのを最後に、二十四日には原隊復帰の命令が来る。
住民の評判も最悪だった。兵士たちが宿代も食費も払わず、作物を踏み荒らしたと苦情が殺到している。地元語しか話さない農民と、外から来た兵隊。情報が上がってこない。この断絶は、以後の討伐にも尾を引く。
大晦日、司教が「これは神の鞭だ」と言った
一七六四年十二月三十一日、メンド司教でありジェヴォーダン伯でもあるガブリエル・フロラン・ド・ショワズール・ボープレが、教区全体に教書を発した。獣は神が人間の罪を罰するために送った鞭である、という内容だ。聖アウグスティヌスの神の正義を引き、旧約のモーセの警告、われは彼らに対して野の獣の歯を武装させん、を引く。以後三週の日曜、四十時間の祈りが命じられた。
これは単なる気休めではない。当時のジェヴォーダンは、カミザールの乱の記憶が生々しい土地でもある。プロテスタントの蜂起が王の軍隊に鎮圧され、その後も改宗の圧力が続いていた。司教の教書は、お前たちの信仰が足りないからだ、というメッセージでもあった。獣は自然現象であると同時に、政治的、宗教的な意味を背負わされていく。
祈りは効かなかった。年が明けても人は死んだ。二月十一日、マルジュー教区で、十二歳ほどの少女、当月九日にこの地を三か月近く荒らしている人食いの獣に一部を食われた、として埋葬が行われている。
生還者の証言その一――子ども七人の反撃
事件全体でもっとも有名な生還劇が、一七六五年一月十二日に起きている。
場所はシャナレイユ教区ヴィラレの村。八歳から十二歳くらいの子どもが七人、男の子五人と女の子二人で家畜を見ていた。この頃には、子どもを一人で放牧に出すな、という指導が徹底されていて、彼らは固まって行動していた。
獣が現れた。彼らはすぐに背中合わせに集まり、円をつくった。獣はその周りをぐるぐる回りはじめる。そして一番小さい男の子に飛びかかり、頬を食いちぎった。子どもたちは持っていた棒に刃をくくりつけた即席の槍で突いた。獣はいったん離れ、また戻ってきて、今度はジョゼフ・パナフューという子の腕をくわえて引きずっていった。
ここで一人が、今のうちに逃げよう、と言った。仲間を見捨てて走れば、たぶん残りは助かる。合理的な判断だ。だが十二歳のジャック・アンドレ・ポルトフェが、助けに行く、と言った。子どもたちは獣を追った。獣は湿った地面に足を取られて速度が落ちていた。追いついた子どもたちは、槍の先を獣の目に突き込もうとした。獣はパナフューを放した。それでも去らず、少し離れて座り、また距離を詰めてくる。子どもたちは棒を突き出したまま後退した。悲鳴を聞いた大人が駆けつけて、ようやく獣は森へ消えた。
この話は当局の報告として上へ流れ、最終的に国王の耳に届いた。ルイ十五世はポルトフェに三百リーヴル、他の子どもたちに三百五十リーヴルを与え、さらにポルトフェの教育費を王室が全額負担すると決めた。彼は一七六五年四月にモンペリエの修道会の学校に入り、七〇年に王立砲兵隊の学校へ進む。のちにジャック・ヴィラレと名乗る士官になり、一七八五年八月十四日、三十三歳ほどで死んでいる。八歳の男の子の頬を食いちぎられながら仲間を取り返した少年は、国家によって士官に作り替えられた。
生還者の証言その二――素手で獣に組みついた母親
一七六五年三月十四日の昼ごろ。サン・タルバン教区、マス・ド・ラ・ベシエールという場所。ピエール・ジューヴの妻ジャンヌ・マルレ、通称ジャンヌ・ジューヴが、自宅の前で三人の子どもと一緒にいた。
物音がして振り返ると、獣が石垣の上から飛び降りて、九歳の娘に食いついていた。娘は生後十四か月ほどの弟を抱いていた。母親は考える前に飛びついた。素手で獣に組みつき、口をこじ開けて娘を引き剥がした。
獣は一番小さい赤ん坊に向き直った。母親が体でかばう。届かない。すると獣は標的を変え、六歳の次男ジャン・ピエールの腕をくわえて走り出した。ジャンヌ・ジューヴはまた突っ込んだ。地面に叩きつけられ、爪で裂かれ、何度も噛まれながら、それでも離さない。長い揉み合いになった。獣は子どもをくわえたまま逃げた。
そこへ、家畜を追って出ようとしていた上の兄二人が正面から出くわす。彼らが弟を奪い返し、獣を追い払った。ジャン・ピエールは五日後に傷がもとで死んだ。
国王は彼女に三百リーヴルを与えている。その文言が残っていて、その弱い体格にもかかわらず幼い子どもたちを守るために示した、人間離れした勇気のしるしに対して、とある。ポルトフェが軍に使える人材として扱われたのに対し、ジャンヌ・ジューヴは母親として顕彰された。同じ勇気でも、性別で処理のされ方が違う。当時の価値観がそのまま出ている。
なお同じ三月には、ジャンヌ・シャスタングという別の母親が、幼い娘と赤ん坊を襲われて二度素手で獣に立ち向かい、長男二人が矛と犬を連れて駆けつけて撃退している。末子は助からなかった。彼女にも三百リーヴルが下賜された。
生還者の証言その三――「ジェヴォーダンの乙女」
一七六五年八月十一日、日曜日。王の鉄砲持ちフランソワ・アントワーヌが大巻き狩りを組織していた、まさにその日だった。
ポーラック教区の司祭の家で働く二十歳前後の女性、マリー・ジャンヌ・ヴァレが、姉妹や他の農婦たちと小川に架かった細い橋を渡ろうとしていた。そこへ獣が出た。女たちは数歩下がった。獣はマリー・ジャンヌに飛びかかった。
彼女は棒の先に銃剣をくくりつけたものを持っていた。ジェヴォーダンではこの頃、こうした間に合わせの槍が普通に持ち歩かれていた。彼女はそれを獣の胸に突き立てた。獣は川に落ち、そのまま林へ消えた。羊飼いの犬が追っていった。
知らせを受けたアントワーヌが現場に来た。銃剣には確かに血がついていた。地面の足跡は獣のものと一致した。アントワーヌは大臣宛の手紙で、彼女をジェヴォーダンの乙女と呼んだ。オルレアンの乙女、つまりジャンヌ・ダルクに引っかけている。名前も年齢も出自も似ている。宮廷の男が農村の娘に与えた最大級の賛辞だった。ちなみに彼女には実際の報奨金は出ていない。
彼女はもう一度この物語に登場する。一か月後、アントワーヌが仕留めた大狼の死体を確認し、これが自分を襲った獣だと証言する数少ない目撃者の一人になるのだ。姉妹のテレーズも同じ証言をしている。この本人確認が、事件をいったん終わらせる決定打になった。今日、オーヴェールの村には、槍を構えたマリー・ジャンヌ・ヴァレの彫刻が立っている。
牛の壁と、それでも死んだ人たち
もう一つ紹介しておきたいのが、一七六四年十月八日、ラ・ボーム城の周辺での牛飼い少年の一件だ。獣が現れたとき、少年は逃げなかった。というより逃げられなかった。彼は自分の牛の群れの中に飛び込んだ。牛たちは角を外に向け、少年を囲んだ。獣は何度も回り込もうとして、そのたびに角に阻まれた。この牛の壁が崩れていたら、彼は死んでいた。
一方で、牛が助けてくれない状況では人は簡単に死んだ。当時の書簡に残る一節がある。サン・タルバン近くのグラシエールで、農民が武装して畑仕事に出ていた。娘が近くで牛を見ていた。獣が現れ、父が振り返るより早く娘の首をかき切った。手紙の書き手はそっけなくこう続けている。この話は確かだ。これ以前の話は省く。付け加えることが何もないから、と。
同じ書簡の書き手はもう一つ気味の悪いことを書いている。獣に何度撃っても倒れないので、農民たちは、あれは弾を呪縛する、と結論して、もう撃つ手間をかけなくなった、と。恐怖が諦めに変わる瞬間が、行政官の手紙の中に生で残っている。
この時期の証言を並べていくと、獣の行動には共通の癖がある。頭と首を狙う。待ち伏せる。腹ばいで近づく。攻撃時に後ろ脚で立ち上がることがある。抵抗されると四十歩ほど下がって座り、追ってこないと見るとまた寄ってくる。人間を怖がらない。真っ昼間に村の中で襲うことすらある。研究者の一人は、犠牲者の二割強が村の中で襲われたと集計している。これは通常のオオカミの行動として説明しにくい部分だ。
ノルマンディーの名人が来て、嫌われて、帰った
一七六五年二月、財務総監ラヴェルディが新しい人材を送り込む。ノルマンディーの狼狩り名人、ジャン・シャルル・マルク・アントワーヌ・ヴォメル・デヌヴァルと、その息子ジャン・フランソワだ。父デヌヴァルは、それまでに千二百頭とも三千頭とも言われるオオカミを仕留めた王国随一の実績を持っていた。狼狩り専用に訓練したブラッドハウンド八頭を連れてきている。
二月十七日にクレルモン・フェランに到着。オーヴェルニュ地方長官バランヴィリエに面会し、翌日ラ・シャペル・ローラン、翌々日サン・フルールへ。三月にジェヴォーダンへ入る。
ここで問題が起きた。デヌヴァル父子は狩りの独占権を要求し、デュアメルの追放を政治的に働きかけた。デュアメルは四月八日に部隊を引き上げる。ところが、追い出したくせにデヌヴァルはなかなか動かなかった。最初の大規模な狩りは四月二十一日。獣を伯爵領の森に追い込む計画だったが、獣は撃たれる前に抜けていった。
戦術思想の違いもあった。デュアメルは軍隊式の追い込み、デヌヴァルは静かに待ち伏せる狩猟式。どちらもうまくいかない。地元貴族の忍耐が切れた。五月三日、モランジェス侯爵がラフォンに宛てた手紙が残っている。デヌヴァル氏らは到着し、いつもどおり、これ以上ないほど虚しい大言壮語を垂れた。政治のわかるあなたは、人間の姿をしているだけのこのノルマン人どもの厚顔を、権力の目の前に暴く義務がある。かなりの罵倒だ。
この頃には事件がヨーロッパ中に広まっていた。イギリスの新聞は、たかが動物一頭に手こずるフランス王権を露骨に馬鹿にした。ロンドンのある新聞は、獣は市会議員がカスタードを食うように家を食う、と書き、ブドウ畑で香りを嗅いだ獣が、不幸にもおならをして、修道院を倒壊させ百四十四人が瓦礫の下敷きになった、などという記事まで載せている。完全にからかっている。フランス外務省がわざわざこの手の記事を翻訳して分析していた。国家の威信の問題になっていたのだ。
王の鉄砲持ち、フランソワ・アントワーヌ
一七六五年六月八日、王命によりフランソワ・アントワーヌがパリを発つ。肩書きは王の鉄砲持ち、王の狩猟を差配する役職だ。同行したのは末子ロベール・フランソワ・マルク・アントワーヌ・ド・ボテルヌ、王家の従僕、大型の追跡犬四頭とグレイハウンド一頭、犬係二名、そして王室や貴族の猟場番人十八名。国王の狩猟組織そのものを切り取って派遣したに等しい。
ここで名前の話をしておく。後世の本や記事では、獣を仕留めた人物としてアントワーヌ・ド・ボテルヌという名前がよく出てくる。だがボテルヌは息子の名字であって、実際に現場で指揮を執り、引き金を引いたのは父フランソワ・アントワーヌのほうだ。この取り違えは十九世紀から続いている定番の誤りで、日本語の紹介記事でもよく見かける。
六月二十日にサン・フルール着、二十二日にマルジュー、その後ソゼに拠点を置く。デヌヴァル父子は七月に王命で撤収した。
アントワーヌの見立ては最初から一貫していた。これはオオカミだ、と。書簡にこう書いている。採取した足跡は、大きなオオカミの足と何ら違いがない、と。彼は超自然も外来猛獣も信じていなかった。ただし彼はもう一つ、私的にはもっと厄介な確信を持っていたようだ。歴史家ジェイ・M・スミスの読みでは、アントワーヌは途中から、これは一頭ではなく複数のオオカミだ、と気づいていた。だがそれを公にしてしまえば、自分の手柄が消える。彼は黙っていた。
シャゼの狼――九月二十日、王国が待ちわびた一発
八月二十九日、ボワ・ノワールでの巻き狩りで、オルレアン公の猟場番人ランシャールが、若い牛飼いを狙っていた動物を撃った。手負いのまま逃げられ、三日間捜索したが見つからない。それもそのはずで、狙撃の二日後に農民が十キロ近く離れた場所で死骸を拾い、報奨金目当てにサン・フルールへ運び込んでいた。死骸は解体されて川に捨てられ、農民は残りを持って村々を回っていた。
アントワーヌは息子と番人を派遣して残骸を回収させる。運ばれてきた肉片を、彼らは鼻をつまみながら検分した。その記録が残っている。弾を見つけ、足を確認し、左足の内側がすり減っていることを見た。以前に肩か脚を負傷していたのだ。外側は新しいままで、体重を偏ってかけていたのがわかる。首は頭と同じ太さ、耳は小さく幅広、胸板は驚くほど厚く、毛は短く子牛の色、背には指一本分の幅の黒い筋がある。足はマスチフのように丸い。これこそわれらの人食い狼である。トゥルノン伯は勝利の印に、足を一本ランタンにぶら下げて自領へ帰った。
だが九月二日、デジュで少女が襲われる。違った。
そして九月二十日ごろ、王立シャゼ修道院の森に大型のオオカミがいるという報せが入る。アントワーヌはポミエの森を猟場番人と、周辺から集めた射手四十人で包囲した。王室狼狩り組織の犬係が森を掻き回す。獣は小道に姿を現した。距離五十歩。アントワーヌが撃つ。倒れた獣は起き上がり、彼のほうへ回り込むように向かってきた。近くにいた甥のランシャールが撃つ。尻に当たった獣は走り、二十五歩先で倒れて死んだ。
死体はベセ城に運ばれ、ソーグの外科医ブーランジェが即座に解剖した。アントワーヌが作成した公式調書によれば、体高およそ八十センチ、体長一メートル七十、体重百三十リーヴル、およそ六十キロ。彼はこう書いた。われわれは本報告書をもって宣言する。これに比肩しうる大きさのオオカミをかつて見たことがない。よってこれこそ、かくも多大な損害をもたらした恐るべき獣であると信ずる。
決め手は死体そのものではなく、証言だった。襲われて生き延びた人々が呼ばれ、体の傷跡を確認した。マリー・ジャンヌ・ヴァレとその姉妹テレーズを含む複数の人間が、これが自分を襲った獣だと認めた。
剥製が宮廷に着いた日、事件は「終わった」ことになった
調書ができるやいなや、息子ボテルヌが死体を積んで出発した。サン・フルールで代官に見せる。クレルモン・フェランで地方長官の命により、まず画家に写生させ、それから剥製にした。九月二十七日にクレルモンを出て、十月一日ヴェルサイユ着。
剥製は国務卿サン・フロランタン伯に届けられ、王妃マリー・レクザンスカの部屋に飾られた。宮廷の全員が見物できるようにだ。当時の版画が残っている。青綬と勲章をつけたルイ十五世が、板に固定された剥製に手を触れている。右に王妃。手前に三角帽をかぶった若きボテルヌ。
正直に言えば、実物を見た人々の反応は微妙だったらしい。粗雑に剥製にされたそれは、単に、わりと大きなオオカミ、でしかなかった。だが政治的にはこれで十分だった。フランソワ・アントワーヌは公式にジェヴォーダンの獣を倒した男になった。報奨は九千リーヴル超。一七七〇年には特許状によって、瀕死のオオカミを自分の紋章に入れる権利まで与えられている。
彼はその後もシャゼ周辺に残り、雌狼とその子を追った。十月十九日に最後の子狼を仕留める。この子狼には後ろ足の狼爪が二重になっているという遺伝的特徴があり、ボースロンなどの犬種に見られる形質だった。イヌとの混血を疑わせる小さな棘だが、当時は深追いされなかった。十一月三日、アントワーヌ一行はジェヴォーダンを去った。
しかし人は死に続けた。そして誰も書かなくなった
十一月は静かだった。十一月二十六日、ラフォンはラングドック地方長官にこう書いている。獣にかかわることはもう何も聞こえてこない、と。
十二月二日、六歳と十二歳の男の子が襲われた。年上の子が戦って弟を守った。その後、死者が出はじめる。ラ・ベセール・サン・マリー周辺で十人以上が死んだと伝えられる。目撃者たちは口をそろえて、今度の獣は牛をまったく恐れない、と言った。
一七六六年一月一日、代官はオーヴェルニュ地方長官に、獣は確かに再出現した、と書き送る。地方長官は国王に上申した。ルイ十五世の反応は明快だった。自分の鉄砲持ちが仕留めた獣の話など、もう聞きたくない。
この瞬間から、新聞はジェヴォーダンとオーヴェルニュ南部の襲撃を一行も報じなくなる。事実が消えたのではない。報道が消えた。あれほど事件を煽った紙面は、公式見解が出た途端に沈黙した。
一七六六年三月、襲撃が急増する。地元の貴族たちは、もう宮廷は助けてくれないと悟った。三月二十四日、マルヴジョルでジェヴォーダン地方三部会が開かれ、ラフォンと若きアプシェ侯爵は、犬の死骸に毒を仕込んで獣の通り道に置く作戦を提案した。効かなかった。
ただし獣の行動は変わっていた。以前ほど広く動かず、モン・ムーシェ、モン・グラン、モンショーヴェという三つの山を結ぶ半径十五キロほどの範囲に定着した。そして慎重になった。ロルシエールの司祭オリエがラフォンに送った書簡に、以前より積極性を欠き、はるかに用心深くなったと書かれている。
一七六七年に入ると、いったん小康状態になり、春に再発した。人々にできることは祈ることだけになった。近隣の聖母巡礼地への参詣が増えたと伝えられる。ただしこの巡礼の話も、一八八九年に司祭ピエール・プルシェが集めた口伝が出典で、同時代の文書には出てこない。
一七六七年六月十九日、ソーニュ・ドーヴェール
六月十七日の午後五時ごろ、デジュ教区レビニエールの村で、ジャンヌ・バスティードという若い女性が喉を裂かれて死んだ。十九歳。彼女がこの事件で確認できる最後の犠牲者になる。
十八日、報を受けた十九歳のアプシェ侯爵が即日行動に出る。武装した猟師十二人ほどと、おそらく数十人の勢子を集め、夜十一時ごろにベスク城を出て、モン・ムーシェの森へ入った。空振り。
翌十九日、侯爵は場所を変えてテナゼールの森で巻き狩りを再開した。この日、彼に同行した十二人の中に、ラ・ベセール・サン・マリーの農民ジャン・シャステルがいた。六十歳近く。ただし腕のいい猟師として知られていた。
オーヴェール教区のソーニュ・ドーヴェールと呼ばれる場所で、シャステルは大型の、オオカミに似た動物を撃ち倒した。当事者の息子が十九世紀に書き残した記録によると、こうだ。このシャステルは、獣が自分の前を通るのを見る幸運を得た。彼は一発で獣を倒し、肩に傷を負わせた。獣はほとんど動かず、それにすぐさまアプシェ氏の優秀な猟犬の群れに襲われた。もはや犠牲者を出す力がないと見るや、獣は馬に積まれてベスク城へ運ばれた。
そっけない。祈りも奇跡もない。ただの狩りの一日の記録だ。
この日以降、ジェヴォーダンで獣による死亡事件の記録は途絶える。九月九日、司教区はジャン・シャステルに七十二リーヴルを支給した。九月十七日、同行者ジャン・テリスに七十八リーヴル。翌年五月三日、残りの猟師たちに合計三百十二リーヴル。王国を三年間ひっくり返した怪物の終幕としては、驚くほど地味な金額だ。
銀の弾丸は、二十世紀の小説家が作った
ここは強調しておきたい。ジャン・シャステルは、聖母マリアのメダルを溶かして作った銀の弾丸で獣を仕留めた、という話は、事実ではない。
出典をたどると、こうなる。まず一八八九年、司祭ピエール・プルシェが『ジェヴォーダンの獣の歴史、まことの神の鞭』を刊行する。彼はカルメル会修道女だった叔母から聞いた口伝をもとに、こう書いた。獣が来たとき、シャステルは聖母の連祷を唱えていた。彼は獣をはっきり認めたが、神の母への信頼と敬虔さから、祈りを終えることにした。そのあと本を閉じ、眼鏡をたたんでポケットにしまい、銃を取り、待っていた獣を即座に射殺した。
十八世紀の文書にこんな細部は一つもない。プルシェは、第三共和政の世俗主義と戦っていた聖職者だった。彼にとってこの事件は、神が送った鞭を、敬虔な農夫が神の助けで倒した物語でなければならなかった。研究者の表現を借りれば、彼は狼狩りの一日を聖人伝の一ページに書き換えた。
そして銀の弾丸そのものは、さらに後だ。一九四六年、オーヴェルニュの民俗作家アンリ・プーラが小説を出す。ここで、シャステルが帽子につけていた聖母のメダルを溶かして弾を作った、という描写が登場する。あの有名な、獣よ、もう食わせはせん、という決めゼリフも、この系統の創作だ。歴史家ギー・クルーゼは、これらが小説由来の脚色であることを明確に指摘している。
厄介なのは、この小説が史実のように引用され続けたことだ。研究書や論文にまで紛れ込んだ。狼男に銀の弾丸、という現代のお約束も、ハリウッド映画を経てこの物語に逆流している。事実と創作が三百年かけて絡み合った標本のような話だ。
死体はどこへ行ったのか、そしてマラン報告書
一七六七年六月二十日、シャルレのベスク城で、国王付き公証人ロック・エティエンヌ・マランが検死調書を作成した。実際に解剖したのはソーグの外科医ブーランジェ。この文書は現在フランス国立公文書館に残っていて、一九五二年に歴史家エリーズ・スガンが再発見した。通称マラン報告書。
書き出しがいい。この動物はわれわれにはオオカミと思われた。ただし尋常ならざるもので、この地方で見かけるオオカミとは姿と均衡において大きく異なる。歯式が詳細に記録されている。上顎二十本、切歯六、犬歯二、臼歯十二。下顎二十二本、切歯六、犬歯二、臼歯十四。これは明確に犬科の歯式だ。傷跡と古傷も記録され、末尾には獣をこれに間違いないと認めた人々の証言が添えられている。報告書はこう締める。三百人以上の近隣住民がこれを見て証言した、と。
死体は城で十二日ほど公開された。侯爵は詰めかけた群衆を盛大にもてなした。夏の盛りである。腐敗が始まった。
その後、侯爵はジベールという従僕に死体を託し、ヴェルサイユへ送った。よく語られる伝承では、シャステル自身が同行し、王が悪臭に顔をしかめて追い返した、とされる。だが一八〇九年に採取された侯爵の別の使用人の証言はこうだ。ジベールはパリに着き、ある貴族の館に宿を取り、侯爵の書状を渡した。王はコンピエーニュにいて、報せを受けてビュフォンに検分を命じた。ビュフォンは、虫に食われ毛が抜け落ち、七月末から八月の暑さで悪臭を放つその物体を真剣に調べたうえで、大きなオオカミにすぎない、と判定した。検分が終わるとジベールは急いで埋めさせた。彼自身は悪臭にやられて十五日以上寝込み、その後六年以上体調を崩し、生涯不調を引きずったと語っている。
つまりシャステルはパリへ行っていないし、王は会っていない。死体はヴェルサイユでもマルリーでもなく、おそらくセーヌ通りにあった貴族の館の庭に埋められた。その館は一八二五年に取り壊されている。事件の物的証拠は、そうやって消えた。骨も皮も歯も一つも残っていない。だから今も決着がつかない。
正体論その一――異常な個体のオオカミ
もっとも素直な説だ。当時のフランスにはオオカミが二万頭いた。ジェヴォーダンは中山地、孤立した森、散在する牧草地という、オオカミにとって理想的な地形だった。人間は分散して住み、子どもが単独で家畜を見ていた。獲物としての人間が、無防備に転がっていた。
そして人食いになったオオカミは珍しいが実在する。歴史家ジャン・マルク・モリソーは、十五世紀から二十世紀のフランスにおける数千件の狼害を集めたデータベースを構築し、人を襲うオオカミには二つの型があると整理した。人間を獲物として食う肉食性の個体と、狂犬病に冒されて見境なく噛む個体だ。前者による集団的悲劇は周期的に起きていて、一五九四年から一六〇〇年、一六九一年から九四年、一七四六年から五〇年、一七六四年から六七年、一八一四年から一九年、といった具合に波がある。ジェヴォーダンはその中の一つの波でしかない、というのがモリソーの立場だ。実際、オーセロワの獣、リヨネの獣、セヴェンヌの獣といった類似の事例が各地に記録されている。
反証はこうだ。まず個体のサイズが説明しにくい。生還者と目撃者は、子牛や牛ほどの大きさ、灰色ではなく赤褐色の毛、背中の黒い筋、房のついた長い尾、平たい鼻面、グレイハウンドのような細長い頭部を繰り返し証言している。オオカミを毎日見ている人々の証言だ。次に行動。単独のオオカミが東西九十キロ、南北八十キロの範囲を三年にわたって移動し続けるのは、オオカミの縄張り構造と矛盾する。生物学者カール・ハンス・ターケは、あの地形なら複数の狼群の縄張りが並んでいたはずで、一頭がそこを縦横に通過するのは不自然だと指摘している。さらに、犠牲者の年齢構成が同時代の他の狼害と違う。通常、狼害の犠牲者は幼児に集中する。ジェヴォーダンでは成人の割合が高い。
正体論その二――一頭ではない。複数、あるいは群れ
歴史学の主流はこちらに近い。ジェヴォーダンの獣という単数形の主語自体が、そもそも当局と新聞が作った虚構であり、実際には人食いになった複数のオオカミの行動が一つの物語に束ねられた、という考え方だ。モリソーもジェイ・M・スミスも、大筋でこの線に立つ。スミスの言い方はシンプルだ。ジェヴォーダンは深刻なオオカミの過剰状態にあった、と。
この説の強みは、多くの謎を一気に解体できるところにある。獣が同じ日に何十キロも離れた二か所に出た、という遍在性の証言。二頭で行動していたという一七六四年末の噂。フランソワ・アントワーヌが大狼を仕留めても襲撃が続いたこと。一七六五年十二月以降の獣が牛を恐れなくなったという行動変化。全部、別個体だと考えれば無理がない。生態学者フランソワ・ド・ボーフォールも、複数の人食いオオカミが同時期に活動したと論じている。
反証というより弱点は、証言の一貫性を軽く扱いすぎるところだ。三年間、広い範囲の別々の目撃者が、赤褐色の毛、背の黒条、房のある尾、平たい頭という同じ細部を語り続けた。これを全部、集団心理が作った共通イメージで処理してよいのか。モリソーは、集団的なパニックが一つの共通の顔を獣に与えたのだ、と説明する。それは説得力があるが、検証はできない。もう一つ、複数説は、なぜ一七六七年六月十九日の一発で襲撃がぴたりと止まったのかを説明しにくい。群れなら、一頭殺しても続くはずだ。
正体論その三――見世物小屋から逃げた猛獣
これは当時から出ていた説だ。デュアメル大尉自身が書いている。あなたも私と同じくお考えになるだろう。これは怪物、つまり雑種であり、その父はライオンである。母が何であったかは、これから知るべきことだ、と。行政の命令書にすら、怪物あるいは豹、と書かれていた。
近年この線をもっとも真剣に押しているのが、ドイツの生物学者カール・ハンス・ターケだ。彼は二〇一五年の著書と二〇二〇年の論文で、獣は捕獲され移送されていた亜成体の雄ライオンだったと主張する。根拠はこうだ。証言に繰り返し出てくる首の後ろの逆立った毛と背骨に沿った暗い線は、たてがみが完成していない若い雄ライオンの特徴と合う。腹ばいで忍び寄り、待ち伏せから飛びかかり、首と頭に食いつき、時には頭部を切断するという攻撃様式は、ライオンやトラなどの大型ネコ科の狩り方だ。成人を制圧できる力があり、行動圏の広さもライオンの水準に合う。十八世紀のフランスには巡回動物見世物が実際に存在し、猛獣が国内を運ばれていた。ターケはさらに、一八九〇年代の東アフリカの人食いライオンとの行動比較まで行っている。
反証もはっきりしている。第一に、物証が一つもない。三年間、四十人規模の射手に包囲され、五万人の巻き狩りにさらされ、猟犬に追われながら、ライオンが一度も撃たれず捕まらずに済むだろうか。しかも仕留められた動物はすべて犬科だった。第二に、ジェヴォーダンの冬は雪に閉ざされる。アフリカのライオンがそこで三度越冬し、自力で狩りをして生き延びる筋書きには無理がある。第三に、フランス史家ミシェル・ムルジェが指摘するように、ターケが根拠にするライオン的な証言は史料全体の中では極めて少数で、しかもそれらは当時流通していた版画やビュフォンの博物誌から借りてきたイメージである可能性が高い。房のついた尾は、農民が実物のライオンを見なくても、刷り物で知っていた記号だ。ハイエナ説も同様で、当時ハイエナは正体不明の獣を指す便利な呼び名にすぎなかった。
正体論その四――狼犬、あるいはイヌとオオカミの雑種
証言の、オオカミのようで、オオカミではない、という感触に、いちばん素直に応えるのがこの説だ。イヌとオオカミの交雑個体は、オオカミより大きくなることがあり、毛色が変則的で、そして決定的なのは人間を怖がらないことだ。獣が真っ昼間に村の中に入り、人がいても逃げず、抵抗されると四十歩下がって座って様子を見る、というあの図々しさ。野生のオオカミというより、人に慣れた大型犬の距離感に近い。
証拠の断片もある。アントワーヌが一七六五年十月に仕留めた子狼には、後ろ足の狼爪が二重になっていた。これはボースロンのような犬種に出る遺伝形質だ。マスチフのように丸い足、という八月の記録もある。当時のジェヴォーダンでは、狼よけの番犬として大型のマスチフ系が飼われていて、山中で交雑が起きる余地は十分にあった。
反証。まず、交雑説は物証で確かめようがない。仕留められた動物の骨も皮も残っていないからだ。二〇二四年の比較解剖学的研究でも、雑種の可能性は完全には排除できないが、検証不能である、と明言されている。次に、狼犬にしては行動が野生的すぎるという指摘もある。三年間、人間の助けなしに山中で生き延び、捕獲用の罠と毒餌をすべて回避した。飼育下に慣れた個体の行動としては、かなり手強い。そして最後に、見慣れないオオカミの説明としては、亜種の違いでも足りる。近年の研究では、当時のフランスに分布していたイタリアオオカミが候補に挙がっている。この亜種は夏毛が赤みを帯び、背中と尾に暗い縞が出て、頭骨の形が他の亜種と違う。証言の特徴とかなり重なる。
正体論その五――獣の背後に人間がいた、と論じる人々
もっとも刺激的で、もっとも根拠が薄い説だ。要点はこうだ。ジェヴォーダンで起きていたのは連続殺人であり、犯人は獣の仕業という物語を隠れ蓑にしていた、あるいは訓練した猛獣を使って人を殺させていた、というもの。
この説を支える状況証拠としてよく挙がるのは、遺体の状態だ。頭部だけが切り離されて発見された例が複数ある。犠牲者の衣服が脱がされていた、という非公式の証言がある。獣が特定の内臓や部位だけを食べ、血を吸ったという報告がある。そして事件の中心にいた人物の存在。ジャン・シャステルの次男ジャン・アントワーヌ・シャステルだ。一七六五年八月十六日、モンショーヴェの巻き狩りで、シャステル父子は王の猟場番人二人と衝突した。番人が泥沼に馬ごとはまり、シャステルたちが笑った。番人が息子の襟首をつかむと、父と兄が銃を構えた。この一件でシャステル家の三人はソーグの牢に入れられる。アントワーヌが出した指示は、われわれがこの地方を発って四日後まで出すな、だった。そして、彼らが投獄されていた期間、襲撃が止まった、と主張する論者がいる。
だが、この説の系譜をたどると、出所は歴史ではなく小説だ。一九三六年、外交官出身の作家アベル・シュヴァレーが遺作として小説を発表し、アントワーヌ・シャステルを、バルバリア海賊に捕らえられ、猛獣の飼育係をさせられ、帰国後に獣を操った半野生の男として描いた。一九四六年、アンリ・プーラがこの造形を引き継いで補強した。この二冊が、その後のほぼすべての人間犯人説の親になっている。
一九七〇年代から二〇〇〇年代にかけて、オオカミの名誉回復を目指す論者たちがこの筋書きを再利用した。動物園長ミシェル・ルイは一九九二年の著書で、アントワーヌ・シャステルがモランジェス伯と組んだ加害者であると論じた。だが彼が挙げる根拠のいくつかは事実誤認で、たとえば二人がミノルカ島で出会ったという話は史料と合わない。歴史家たちの評価は一致していて、これらの告発を裏づける同時代文書は一点もない。アラン・ドゥコーは、アントワーヌ・シャステルの有罪を証明するものは何もない、と述べ、ピエール・ベルマールも、あれは村の噂話にすぎない、当局と揉めた扱いにくい家だったというだけだ、と擁護している。
だから本記事の立場をはっきりさせておく。実在した人物を殺人犯と断定できる材料は存在しない。そう論じる者がいる、という以上のことは言えない。そして、この説がこれほど繰り返し語られるのは、証拠が増えたからではなく、物語として強いからだ。悪意ある人間のほうが、腹を空かせた動物より、はるかに理解しやすく、はるかに怖い。
正体論その六――狂犬病
意外に有力そうに見えて、実は最初に外れる説だ。
狂犬病に感染したオオカミが人間を襲うのは、当時のフランスでは日常的な脅威だった。ある統計では、一七九七年から一八一三年にかけて仕留められた成獣の一・二から二パーセントが狂犬病とされ、一八八三年の記録でも一・一パーセントが人に飛びかかった個体として計上されている。狂犬病の狼は昼間に堂々と現れ、人を恐れず、次々に噛む。獣の大胆さと重なるように見える。
しかし決定的な違いがある。狂犬病の個体は食べない。喉頭が麻痺するため嚥下ができないからだ。噛み裂き、引き千切り、そのまま去る。ところがジェヴォーダンの獣は、はっきりと犠牲者を捕食している。マルジューの埋葬記録は、一部を食われた、と書いている。研究者の集計では、殺害された犠牲者の九十八人が部分的に食われた。これは狂犬病では起きない。
もう一つ。狂犬病の狼は必ず単独で、そして短期間で死ぬ。ウイルスに冒された動物は数日から十数日で衰弱死する。三年間続く事件を説明できる余地がない。そして最後に、噛まれて生き延びた人々のその後だ。もし加害個体が狂犬病なら、生還者は数週間から数か月後に発症して死んだはずだ。ポルトフェもジャンヌ・ジューヴもマリー・ジャンヌ・ヴァレも、その後普通に生きている。狂犬病説は、生存者の存在そのものによって否定される。
なお当時の史料にも、この区別を理解していた人がいる。ある書簡の書き手は、一頭のオオカミが一時間で十七人に噛みついた別の事件を挙げ、あれは狂犬病だ、噛むだけで食べていない、うちの獣は食べる、別物だ、と冷静に切り分けている。十八世紀の観察者は、われわれが思うより鋭い。
骨と紙を読み直す――近年の再検討が示したこと
物証はない。では現代の研究者は何をしているのか。答えは、残された数字を読み直すことだ。
二〇二四年、フランソワ・ルイ・ペリシエが、三頭のジェヴォーダンの獣の比較解剖学的試論、という論文を発表した。彼が扱ったのは、事件中に仕留められて記録が残る三頭、すなわちボワ・ノワールの個体、シャゼの狼、そしてテナゼールでシャステルが倒した個体だ。彼はこの三頭について、公文書に残された歯や骨の寸法を抜き出し、現生のオオカミとイヌ、さらに化石種のデータと突き合わせた。
結果はこうだ。三頭とも犬科である。テナゼールの個体は、歯の計測値からもっとも堅牢にオオカミと同定できる。シャゼの狼もオオカミと考えてよいが、根拠となる数値は少ない。ボワ・ノワールの個体は情報が乏しすぎて、科より下の分類ができない。
さらに面白いのは体格の推定だ。マラン報告書に記録された上腕骨の長さ、およそ二十二・五五センチから逆算すると、この動物の全長は約一メートル六十一。下顎第一大臼歯からの推定では約一メートル七十四になる。体重は上腕骨から約三十九キロ、臼歯から約四十八・五キロ。記録上の重量は百九リーヴル、およそ五十三キロ。つまり、誇張されていたどころか、現代のイタリアオオカミよりも、さらに巨大な化石亜種よりも大きい数値が出てくる。同時に、報告書の尾の長さの記載には内部矛盾があり、別の同時代文書と食い違う。研究者はこれを、報告書の転記ミスと判断している。
ここが近年の再検討の要点だ。史料は誇張の塊ではない。だが、書き写されるたびにゆがむ。歴史家ベルナール・スーリエが指摘した記載ミスの可能性を、二百五十年後に生物統計が裏づけたわけだ。
そしてもう一つ、ペリシエは慎重にこう書いている。二頭がイタリアオオカミだった可能性は、額の形や毛色の記述からわずかに示唆されるが、断定はできない。雑種だった可能性も完全には排除できないが、遺骸が一つも保存されていない以上、この仮説は検証不可能である、と。
検証不可能。これが二百六十年後の科学の到達点だ。
狼男と、本物の獣害が溶け合っていくとき
ここからは考察に入る。この事件が特別なのは、実在の獣害と、ヨーロッパが千年抱えてきた狼男の想像力が、リアルタイムで融合していく過程が文書に残っていることだ。
十八世紀のジェヴォーダンには、狼男の信仰が生きていた。魔女、悪魔、そして人が獣に変わるという観念。ウェールズの博物学者トマス・ペナントは一七六五年の著作で、隣接する地方の民間信仰を記録している。そこでは狼男は、ガラス職人の炉に燃料を供給するために子どもを襲うとされていた。奇怪だが、こういう具体的で土着的な語りが実際に流通していた。
この土壌に、実在の獣が落ちてきた。しかも都合のいいことに、その獣はいくつもの兆候を示した。撃たれても倒れない。後ろ足で立つ。同じ日に離れた二か所に出る。目に火がある。死んだと思ったらまた現れる。
現代の目で見れば、これらは全部説明がつく。当時の火縄式および燧石式の銃は、初速も精度も現代の常識とはまるで違う。射程外からの発砲、装薬の不足、厚い冬毛、そして興奮した射手。武器史の研究者アラン・パルボーは、獣の無敵さは当時の銃と射撃条件の性能で十分に説明できると論じている。後ろ足で立つのは、犬科動物が抵抗する相手と組み合うときの普通の行動だ。二か所同時出現は、別個体か、あるいは単に移動時間の見積もり違いだ。
だが、当時の農民にその知識はない。彼らが持っていたのは狼男の枠組みだった。だから、弾を呪縛する獣、という結論に至り、撃つのをやめた。この諦めは、迷信というより経験からの合理的な推論だ。何度撃っても倒れないなら、撃つのは無駄だ、と。
そしてここが皮肉なのだが、権力の側も似たようなことをした。メンド司教は獣を神の鞭と定義した。これは説明であると同時に、責任の転嫁でもある。獣が捕まらないのは討伐が下手だからではなく、住民が悔い改めていないからだ、ということになる。信仰の枠組みが、行政の無能を吸収した。
歴史家ジェイ・M・スミスが強調するのは、この時代がちょうど、怪物がまだ許されていた最後の時期だったという点だ。ビュフォンは異常な存在、つまり通常の分類に収まらない雑種や怪物の実在を、理論的に排除していなかった。だから教養層も、これがオオカミではない何かである可能性を、真面目に検討できた。スミスの見立てでは、事件が終わったあと、その恥ずかしさの反動として、フランスの科学者と官僚は、怪物を信じることを女子どもと無学な農民の迷信として切り捨てるようになる。ジェヴォーダンの獣は、フランスが怪物を信じられた最後の事件になった。
「ジェヴォーダンの獣」を作ったのは、たぶん新聞だ
事件の主役をもう一人挙げるなら、それはフランソワ・モレナスという男だ。教皇領アヴィニョンで発行されていた新聞の主筆である。
背景を押さえておく。一七六三年に七年戦争が終わった。フランスは負けた。カナダを含む海外領土の大半を失い、財政は傾き、国内は荒れていた。そして新聞は困っていた。戦争が終わると、紙面を埋める材料が消えるからだ。しかも国内政治のニュースは検閲で書けない。
そこにモレナスが見つけたのが、いまでいう実録犯罪ものの三面記事だった。彼は一七六四年十一月十六日、ジェヴォーダンの襲撃についての最初の記事を出す。それから十三か月で、この一紙だけで九十八本の記事を掲載した。最終的にこの事件を扱った記事は百本を超える。
モレナスは事実を書かなかった。事実を素材にして連載を書いた。獣は馬より速く走る。剣闘士の知恵を持つ。悪魔の目をしている。ギリシャ神話の怪物と比較する。彼は事件を戦場のように、日々の戦況報告として構成した。生還者の証言を載せる。証言が幻想的で突飛であればあるほど、読者は喜んだ。ある記事では、マルジュリッドの美しい娘が背後から襲われ、振り返った妹が見たものはこう描写される。姉の頭が地面に落ちていくのに、体はまだ立っていた。
歴史家たちがこれを最初期のフェイクニュースと呼ぶのは、大げさではない。そしてこれが決定的な効果を持った。事件は地方の災厄から国家的事件になり、パリの新聞に転載され、オランダとイギリスの新聞が拾い、最終的にボストンの新聞にまで載った。史上初の国際的メディア・センセーションの一つだ。
ここでもう一段、大事な指摘がある。ジェヴォーダンの獣という単数の主語を発明したのは、実質的にこの報道だった、という点だ。散発的な狼害は日常だった。それを一つの固有名詞にまとめ、連続する物語として提示したのは新聞だ。スミスの言い方を借りれば、これが獣の製造である。獣を作ったのは自然ではなく、印刷機だったのかもしれない。
そして、獣を殺したのも印刷機だった。一七六六年一月、王がもうこの話は聞きたくないと示した瞬間、新聞はぴたりと報道をやめた。人は死に続けているのに、フランス全土の読者にとって事件は終わった。作られた獣は、作った側の都合で消された。この一連の動きは、二百六十年後の情報環境を眺めるうえでも、あまりに示唆的だ。
王権にとって、獣は何の役に立ったのか
ルイ十五世がなぜ動いたのかを考えると、事件のもう一つの層が見えてくる。
一七六四年のフランスは、負けたばかりの国だった。イギリスとプロイセンに敗れ、植民地を失い、軍の名誉は地に落ちていた。宮廷にとって、獣は絶好の敵だった。国内にいて、明確に悪で、倒せば人気が出て、外交リスクがゼロ。これほど都合のいい戦争相手はいない。
討伐に名乗りを上げた人物の顔ぶれも示唆的だ。スミスの指摘によれば、指揮を執った男たちの多くが、七年戦争で不名誉を負った軍人か、その系列に連なる貴族だった。デュアメル本人が、自分の名誉に極端に敏感で、戦争で嫌な経験をし、この討伐を汚名返上の機会と考えていた形跡がある。獣は、傷ついた男らしさを回復するための舞台装置でもあった。
顕彰の設計も巧みだった。ポルトフェへの報奨と教育の下賜は、単なる善行ではない。国王が貧しい農村の少年を見つけ、勇気を評価し、軍人に育てる。臣民の忠誠と王の慈愛を同時に演出できる。マリー・ジャンヌ・ヴァレをジェヴォーダンの乙女と呼んだのも、ジャンヌ・ダルクの記憶を借りた見事なイメージ操作だ。ただし彼女に金は出ていない。称号だけは安上がりだ。
そしてフランソワ・アントワーヌの凱旋。剥製がヴェルサイユに運ばれ、王妃の部屋で公開され、王がそれに手を触れる。あの版画は、政治的パフォーマンスの記録として読むべきものだ。獣は倒された。王は民を守った。物語は完結した。
問題は、そのあと人が死に続けたことだ。ここで宮廷は、二つ目の決断をする。認めない、という決断だ。地方長官の上申は握り潰され、報道は止まり、地元は放置された。一七六六年三月、マルヴジョルに集まったジェヴォーダンの貴族たちが、宮廷は助けに来ない、と悟った瞬間が、この事件のいちばん暗い場面かもしれない。以後の対処は、毒餌を仕込んだ犬の死骸を配置するという、地味で実務的なものになる。皮肉なことに、王権はここでようやく正しい方針に切り替えた。全国的な狼駆除を、英雄譚ではなく行政ルーチンとして制度化する方向へ進んだのだ。そして数十年かけて、フランスからオオカミは消えていった。
映画と小説のなかの獣
この事件が娯楽として消費されはじめたのは、意外に早い。十九世紀半ばには、新聞連載小説の題材になっている。一八五八年、民間信仰に詳しい作家エリー・ベルテが、単なるオオカミ説を捨てて、ジャノ・グランド・ダンという哀れな男を犯人に据えた。事件を解くべき謎として扱う枠組みは、このあたりで固まった。
一九三六年のシュヴァレー、一九四六年のプーラで、悪役としてのアントワーヌ・シャステルとモランジェス伯の造形が完成する。一九六七年にはフランスのテレビ番組が、獣皮をまとった巨漢としてのアントワーヌ・シャステルを映像化した。以後、この人物は史実の人間ではなく、フィクションのキャラクターとして独立して歩き出す。二〇一四年にはカトリーヌ・エルマリー・ヴィエイユが、彼を冷酷なサディストとして描く小説を書いている。
決定的だったのは二〇〇一年の映画『ジェヴォーダンの獣』だ。原題はル・パクト・デ・ルー。監督クリストフ・ガンス。獣を、啓蒙思想に敵対する秘密結社の陰謀の道具として描き、しかも武術アクションと歴史劇と怪物映画を強引に一本にまとめた。フランス国内で五百万人以上を動員し、世界興行は七千万ドルを超えて、フランス映画としては例外的な国際的成功を収めた。アメリカではカルト映画として定着している。歴史的正確さについては当然のように批判されたが、この作品が獣を二十一世紀に連れてきたのは間違いない。
その後も獣は登場し続けている。配信企業の企画、二〇二二年の映画、同年に発表されたドイツのバンドの楽曲、アメリカのテレビシリーズでの主要な敵役、日本のマンガとアニメでの翻案、二〇二五年のゲームでの人狼としての登場。獣は完全にポップカルチャーの共有財産になった。
地元も、それを引き受けている。ロゼール県では、マルヴジョル、メンド、オーモン・オーブラック、マルジュー・ヴィルなどの噴水やロータリーに獣の彫像が立ち、メンドのジェヴォーダン博物館は常設展示の二部屋を獣に充てている。オーヴェールにはマリー・ジャンヌ・ヴァレ像が、ラ・ベセール・サン・マリーには一九九五年に建てられたジャン・シャステルの記念碑がある。そして地域最大の観光施設の一つが、ヨーロッパ最大規模のオオカミ保護区、ジェヴォーダン狼公園だ。かつて人を食ったとされた動物が、今は観光資源になり、しかもその公園のガイドは来訪者にこう説明する。当時二万頭のオオカミがいたのに、人を襲う個体はほとんどいなかった、と。獣の物語は、オオカミの名誉回復の物語に組み替えられつつある。
なぜ二百六十年も語られるのか
理由は一つではないと思う。いくつか重ねて挙げてみる。
まず、この事件は怖い話として構造が完璧すぎる。正体不明の捕食者。無力な子ども。無力な国家。失敗する専門家。素人の勇気。偽の決着。そして最後に、名もない老農夫が終わらせる。誰かが作ったのだとしたら出来すぎだと言いたくなるが、これは全部、公文書に残っている。
次に、解決されていないこと。物証がゼロだからだ。骨も皮も歯も残っていない。パリの貴族の庭に埋められたその塊は、館ごと一八二五年に消えた。検証手段がない以上、どの説も完全には潰せない。この宙吊り状態が、二百六十年ぶんの議論を生んだ。
三つ目に、この事件が近代の入り口に立っていること。ここには十八世紀フランスのほぼすべてが詰まっている。中央集権化する王権と、そこから見捨てられる辺境。新聞という新技術。啓蒙思想と、まだ生きている宗教的世界観。分類学が確立する直前の博物学。カトリックとプロテスタントの傷。そして、社会階層の断絶。フランス語を話す外来の指揮官と、地元の言葉しか話さない農民。彼らの間で情報が通らなかったことが、討伐の失敗のかなりの部分を説明する。獣は、この社会の断層に沿って歩いていた。
四つ目に、被害者が誰だったかということ。犠牲者は、圧倒的に女性と子どもだった。家畜を見に出る、いちばん立場の弱い人間たちだ。彼らの名前が、田舎の司祭の震える手書きの記録の中に残っている。ジャンヌ・ブーレ、十四歳。ジャンヌ・バスティード、十九歳。マルジューで埋葬された名前のわからない十二歳ほどの少女。歴史というものが普通は記録しない人々が、獣のせいで名前を残した。これは怪談として消費するには重すぎる事実だが、この事件が単なる怪物譚に落ちきらない理由でもある。
最後に。この物語は、人間がわからないものに耐えられないことの記録でもある。当時の人々は、それを狼男や神の鞭と呼んだ。十九世紀は聖人伝にした。二十世紀は連続殺人犯にした。二十一世紀の私たちはDNAと統計を使う。道具は変わったが、やっていることは同じだ。空白に、その時代がいちばん納得しやすい顔をはめ込んでいる。ジェヴォーダンの獣がいまだに人を惹きつけるのは、その空白がまだ埋まっていないからだ。
犠牲者の数字がばらつく理由
ここからは、記事本体で触れきれなかった論点を、もう少し踏み込んで整理しておきたい。この事件を調べていると、途中から獣の正体よりも、なぜこれほど揉めるのかのほうが面白くなってくる。その理由を三つの方向から掘る。
第一の方向は、数字の扱いだ。犠牲者の数は、出典によって驚くほど違う。フランス語の百科事典的記述では、死者は八十八人から百二十四人。一九八七年の研究では、襲撃二百十件、死者百十三人、負傷者四十九人、うち九十八人が部分的に捕食された。ある修士論文の集計では、襲撃を受けたのが約二百八十九人、死者百八人、負傷者四十九人以上、無傷で逃れた者が約百三十二人。英語圏の一般記事では六十人から百人という控えめな数字も出る。どうしてこんなに幅が出るのか。理由は単純で、何を一件と数えるかの定義が研究者ごとに違うからだ。教区の埋葬記録に、凶暴な獣により、と書かれた死者だけを数えるのか。行政書簡に報告された襲撃を含めるのか。新聞記事しか根拠のない事例をどうするか。そして、一七六五年後半以降、報道が停止した期間の死者をどう扱うか。この最後の点が特にやっかいで、王が終わったと決めた後の一年半は、記録の網の目が急に粗くなる。つまり公式に事件が終わってからのほうが、統計的には見えづらい。私たちが握っている数字は、事件そのものの規模ではなく、記録装置の作動状況を反映している。
さらに言えば、地域による偏りもある。ロゼール県内では、ソーグ、パンヨル、ル・マルジュー、リュイヌ、オーモン・エ・フルネルの各郡が、それぞれ三十四件、二十三件、二十二件、十四件、十件と、被害が集中している。全体としては、ジェヴォーダンよりもオーヴェルニュ側での被害のほうが多かったという分析もある。つまりジェヴォーダンの獣という名前自体が、被害の地理的重心とずれている。名前は最初の目立った報道の場所についただけで、その後の実態を反映していない。呼び名が現実を歪めるという意味で、これもまたメディアの産物だ。
目撃証言は、なぜ揃ってしまったのか
第二の方向は、証言の質という問題だ。この事件では、目撃証言の一貫性がしばしばオオカミ以外の何かの根拠として持ち出される。赤褐色の毛、背中の黒条、房のある長い尾、平たい鼻面、細長い頭、子牛ほどの大きさ。三年間、広い範囲で、別々の人が同じ特徴を言う。だから何か特別な個体だったのだ、と。
だがここには落とし穴がある。一七六五年の春、宮廷はジェヴォーダンに獣の図像を配布していた。理由は二つあって、住民が獣を見たときに怯えすぎず、また見間違えないため、そして猟犬に獣の姿を覚え込ませるためだ。そのために厚紙で作った獣の実物大模型まで用意されている。つまり、事件のかなり早い段階で、公式に、獣はこういう姿である、という標準画像が地域に配られていた。そのあとで採取された証言が、その画像に引っ張られていない保証はどこにもない。しかも新聞や、パリで刷られた版画が同時に流通していた。房のある尾やハイエナ風の輪郭は、そうした刷り物の中に繰り返し出てくる意匠だ。歴史家ミシェル・ムルジェが文化的仮説と呼ぶのはこの点で、農民は本物のライオンを見なくても、刷り物からライオンの記号を学習できた。証言の一貫性は、獣が特殊だったことの証拠かもしれないし、情報が均質に配布されたことの証拠かもしれない。この二つを史料から分離する方法は、いまのところない。
同じ問題は、シャゼの狼の本人確認にも影を落とす。生還者たちが死体の傷跡を見て、これが私を襲った獣だ、と証言した、という手続きは一見きわめて説得的だ。だが現代の目撃証言研究が繰り返し示してきたように、この種の同定は誘導に極端に弱い。集められた人々は、王の代理人の前で、国家的な期待を背負って死体を見せられている。しかも彼らの多くは、襲われた一瞬しか獣を見ていない。証言が一致したことは、獣の同一性より、場の圧力の強さを示している可能性がある。実際、その二か月後には襲撃が再開した。つまり彼らの同定は、少なくとも結果としては間違っていた。この一件は、当時の人々の素朴さを笑うためではなく、証言という証拠の性質を考えるために引かれるべき事例だと思う。
二百六十年後の政治利用
第三の方向は、この事件が現代の論争に引きずり込まれ続けているという事実だ。フランスでは一九九三年以降、イタリア方面からオオカミが自然に再定着した。牧畜業者との衝突が起き、保護と駆除をめぐる政治対立が続いている。この文脈で、ジェヴォーダンの獣は完全に政治的な素材になった。
構図は二つある。一方に、オオカミは本質的に人を襲う危険な動物だと主張したい側がいる。彼らにとってジェヴォーダンは強力な歴史的根拠だ。モリソーの研究が公表されたとき、農業関係の新聞は、オオカミは人を襲う、これは歴史的事実だ、という見出しを掲げた。ある新聞は、ペローの時代に三千件の子どもへの襲撃があった、という、原著の主張とはかけ離れた記事まで載せた。研究者本人が慎重に条件をつけた結論が、剥き出しのスローガンに変えられていく典型例だ。
他方に、オオカミの無実を証明したい側がいる。彼らにとってジェヴォーダンは、覆すべき最大の冤罪事件だ。だからこそ、人間犯人説や飼育猛獣説が繰り返し息を吹き返す。一九九〇年代のオオカミの無実という書名そのものが、この立場を宣言している。フランス語の百科事典的記述が、こうした著者たちをオオカミ愛好派と呼び、その説を歴史家からは奇矯とみなされていると書いているのは、この対立の温度をよく示している。
ここで生じているのは、歴史研究の問題ではなく、歴史の政治利用の問題だ。そして両陣営とも、同じ弱点を共有している。物証がないので、どちらも自分に都合よく解釈できてしまう。ジェヴォーダンの獣は、いわばロールシャッハ・テストになっている。何を見るかで、その人が今どの陣営にいるかがわかる。
異常だったのは獣ではなく、国家の反応だった
もう一つ、あまり語られない論点を付け加えたい。この事件で本当に異常だったのは、獣の生物学ではなく、国家の反応の規模かもしれない、という視点だ。当時のフランスでは、狼害による死者は珍しくなかった。モリソーの推計では、十六世紀末から十九世紀初めにかけて、フランス全土で九千人前後が狼害で死んでいる可能性がある。同じ一七六五年の春、ジェヴォーダンの騒ぎのまっただ中に、パリ北東のソワソン近郊で一頭のオオカミが二日間で少なくとも四人を殺している。この事件は、農夫が熊手一本で仕留めて終わった。誰も覚えていない。
では何がジェヴォーダンを特別にしたのか。三つある。第一に、被害が長期にわたり、一つの地域に集中したこと。第二に、報道の発明があったこと。第三に、国家が介入したこと。この三つ目が決定的だと思う。国家が介入した瞬間、事件は解決されなければならない問題になった。そして解決に失敗するたびに、事件は大きくなった。デュアメルの失敗、デヌヴァルの失敗、そして一度目の解決の破綻。国家の権威が、獣の神秘性を自分の手で膨らませ続けた。もし一七六四年の秋に王が何もせず、地元の巻き狩りで終わっていたら、ジェヴォーダンの獣はソワソンのオオカミと同じ運命をたどっていただろう。名前も残らなかったはずだ。
そう考えると、この事件の主役は獣ではない。獣に何かを期待した人間たちだ。名誉を回復したかった軍人。部数を伸ばしたかった新聞屋。権威を示したかった王。信仰を立て直したかった司教。そして、二百六十年後に納得のいく答えを欲しがっている私たち。全員が、この動物に自分の必要を託した。
最後に、あえて素朴な想像を書いておく。一七六七年六月十九日の朝、テナゼールの森で、六十歳近い農夫が一発撃った。彼は聖母の連祷を唱えてもいなければ、銀の弾丸も持っていない。眼鏡をたたむ場面もない。ただ、獣が自分の前を通った。撃った。肩に当たった。犬が群がった。それだけだ。同時代の記録が伝えるのは、この味気ない事実だけである。
そのあと、彼は七十二リーヴルを受け取った。三年間で百人近くを殺した怪物を仕留めた報酬としては、笑えるほど少ない。剥製は腐り、パリのどこかの庭に埋められ、館ごと取り壊されて消えた。
けれども彼の一発の直後から、ジェヴォーダンの子どもたちは、また一人で牛を追って出られるようになった。獣の正体はわからないままだ。それでも、この一点だけは動かない。あの朝、何かが終わったのだ。二百六十年たっても、それがなぜ終わったのかは、まだ誰にも説明できていない。
