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「海に行ってくる」と言った9歳・7歳・4歳は帰ってこなかった――オーストラリアから子どもの「ひとり歩き」を奪った砂浜と、六十年目の発掘

一九六六年一月二十六日、オーストラリア・デーの朝。アデレード郊外ソマートン・パークの家の門で、母親が三人の子どもを見送った。九歳のジェーン、七歳のアーナ、四歳のグラント。バスで五分の海に行って、お昼までに帰ってくる。ただそれだけの約束だった。

三人は帰ってこなかった。

六十年たった今も帰ってこない。骨も、服も、タオルも、ジェーンが持っていた本も、ビーチバッグも、何ひとつ見つかっていない。オーストラリア中の警官と市民が砂浜を掘り、海底を捜し、排水溝に水を流し、オランダから霊能者を呼び寄せ、工場の床をコンクリートごと剥がし、地中レーダーと電気探査で地面の下を透かし見て、二〇二五年にもまた一万トン近い土を掘り返した。それでも三人は出てこない。

この記事は、その一日を分刻みで追いかける話だ。そして、なぜこの事件がオーストラリアという国から、子どもがひとりで歩ける社会を奪ったのか、なぜ六十年たっても人々が土を掘り続けるのかという話でもある。

前の日、父親は三十分間かくれて子どもを見ていた

まず一月二十五日、火曜日の話からいく。ここを飛ばすと、翌日の判断がどうしても理解できないからだ。

父親のグラント・ボーモント、通称ジムは当時四十歳。戦争に行って帰ってきて、タクシー運転手をやって、そのころはリネン会社のセールスマンをしていた。クリスマスから正月にかけての休暇をたっぷり取って、三人の子どもと遊びまくった夏だった。暑い日はグレネルグの海に連れていく。当時ほとんど使われていなかった桟橋の脇の、波の穏やかな場所で泳がせて、自分はコリー保護区の木陰に座る。そういう夏だ。

一月二十五日、ジムは仕事に戻る道すがら子どもたちを海に降ろした。翌日から泊まりがけでアデレード・ヒルズの得意先を回る予定が入っていた。深いところに行くな。知らない人と話すな。そう言い含めてから、彼はすぐには立ち去らなかった。子どもたちから見えない場所に三十分ほど立って、様子を見ていたのだ。三人は他の子どもたちと遊んでいた。大丈夫だと思って、彼はその場を離れた。

これがジムの見た最後の、幸福なほうの記憶になる。

三人はその日、自分たちだけでモーズリー・ストリートからバスに乗って帰ってきた。ちゃんと帰ってきた。それが翌日の油断につながる。

長女のジェーンは九歳。父親が後に記者に語ったところでは、十五歳の女の子ぐらいの頭がある子だった。二日前の一月二十四日、両親が一、二時間だけ出かけた夜、ジェーンは弟妹の世話をして、こんな置き手紙を残している。

お母さんお父さんへ。もう寝ます。今九時です。グラントにはおむつをはかせたのでシーツを濡らす心配はいりません。グラントは自分のベッドで寝たいと言うので、どちらかがアーナと寝てください。部屋はあまり片づいていませんが、わたしたちがそうしているのと同じくらい居心地よく感じてもらえたら嬉しいです。おやすみなさい。追伸、どこに行ったのか知らないけど楽しかったといいですね。追伸の追伸、お父さん、ラジオを部屋に持っていってごめんなさい。

九歳がこれを書く。両親が、この子に任せておけば大丈夫、と考えたのは、当時のオーストラリアの空気を差し引いても、そこそこ合理的な判断だった。

一月二十六日、午前七時から十時十五分まで

一九六六年のオーストラリア・デーは水曜日だった。当時この祝日は当日ではなく直後の週末にずらして祝われていたので、二十六日そのものは休みではない。それでも多くの人が長い週末に合わせて海や森に出かけていたし、アデレードはクリケットの国際試合を開催中で観光客も多かった。予報は摂氏でいえば三十八度近い。グレネルグは人でいっぱいになる日だった。

朝七時。三人は目を覚ますなり海に行きたがった。来週から学校が始まる。夏休みの残りをとにかく使い切りたい。前日の成功で気が大きくなっていて、最初は、ブロードウェイまで自転車で行って、そこからジェッティ・ロードを歩いて降りる、という案を出した。母親のナンシーはそれを却下した。暑さに弱くて自分は行けないから、バスにしなさい、と。ダイアゴナル・ロードとハーディング・ロードの角のバス停から乗って、暑くなる前、お昼には帰ってくること。

ナンシーは運賃と昼食代を渡した。この金額が後にこの事件の最重要の物証もどきになる。両親の証言では六シリング六ペンス。別の証言では八シリング六ペンスという数字も残っている。いずれにせよ、子どもの小遣いとしては十分だが、それ以上ではない。一ポンド札ではない。ここが決定的に効いてくる。

出発時刻については記録が揺れている。南オーストラリア警察が五十年後に公開した業務日誌には、父親の当初の申告として、午後一時に家を出て午後五時に帰る予定だった、と書かれ、後に、午前十時に出て午後二時に帰る予定、と修正されている。学術報告の類では八時四十五分にバスに乗ったとするものもある。もっとも広く採られているのは、十時ごろに家を出て、十時十五分のバスに乗ったという線だ。

バスの中には、この三人をはっきり覚えていた人たちがいる。運転手はその一人だ。バスの運転手は路線の常連の顔を覚える。三人が乗ったこと、行き先がグレネルグだったことを、彼は後に警察に語っている。同じバスに乗り合わせていた女性の乗客は、もっと細かかった。ジェーンが本を持っていたこと、それが『若草物語』だったこと、三人がそれぞれ何を着ていたかを、服の色まで分けて説明できたのだ。

この日の三人の服装は、記録の中でほとんど残酷なくらい詳細に残っている。ジェーンはピンクのワンピース型の水着に薄緑のショートパンツ、タータンチェックのキャンバス靴。身長は百三十七センチほど、そばかすがあって、日に焼けて色の抜けた髪を耳の高さで切りそろえていた。アーナは赤と白の縞の水着に日焼け色のショートパンツとサンダル。百二十センチほど、短い茶色の髪に前髪。グラントは緑と白の水着に緑の綿のショートパンツ、赤い革のサンダル。上は裸で、九十センチほど。

ジェーンはビーチタオルと、ベージュの留め金つきの小銭入れと、青いショルダーバッグを持っていた。これらも一つ残らず消える。

十時十五分、バスが出た。所要五分。三キロ弱の距離だ。

コリー保護区の男

三人はまず桟橋のそばで泳いだ。十一時ごろまで海にいたとされる。そのあとコリー保護区、ジェッティ・ロードと海の間にある芝生の公園に移動した。ここのスプリンクラーで遊ぶのが子どもたちの定番だった。

十一時二十五分ごろ、ジェーンの学校の友達が三人を見かけている。

そしてこの公園で、あの男が現れる。

セーリングクラブの近くのベンチに座っていた年配の女性が、一部始終に近いものを見ていた。最初、男は芝生にうつぶせに寝転がっていた。少し離れたところで三人がスプリンクラーの水を浴びて騒いでいる。やがて男は起き上がり、子どもたちと関わりはじめた。

証言を突き合わせると、男の像はかなりはっきりする。身長は百八十センチ台。痩せているか、引き締まった体格。三十代半ば、上に見て四十そこそこ。髪は明るい茶色から金髪で、ややウェーブがあり、左で分けていた。顔は面長で、額が高い。よく日焼けしている。紺の水着で、白いストライプが入っていた。持ち物はタオルとズボンだけ。

複数の目撃者が、この男と三人が一緒に遊んでいるところを見ている。そして全員が同じ印象を口にした。楽しそうだった、と。緊張していなかった。嫌がっていなかった。他の親子連れと見分けがつかなかった。だから誰も止めなかった。

後年の関係者取材で出てきたディテールがある。最初に男に近づいていったのは末っ子のグラントだったという。そしてジェーンが、濡れたタオルで男をぴしゃりと打った。じゃれ合いだ。九歳の女の子が初対面の大人にやる仕草ではない。

ここで、当時はまったく意味をなさなかった一つの家庭内の会話が、後から爆弾になる。アーナが以前、母親に何気なく言っていたのだ。ジェーンね、ビーチにボーイフレンドがいるの、と。ナンシーは同年代の遊び相手のことだと思って聞き流した。三人が消えた後、彼女はこの一言を思い出す。

両親は、子どもたちは人見知りで、特にジェーンは内気だと証言している。その内気な子が、見知らぬ大人と初対面であそこまでくつろぐだろうか。捜査陣が立てた仮説はこうだ。三人は以前にもこの男に会っている。一度ではないかもしれない。すでに信頼関係ができていた。つまりこれは偶発ではなく、時間をかけた準備の帰結だった可能性が高い。

そのうち、公園で小さな騒ぎが起きる。男が周囲の人に声をかけて回ったのだ。子どもたちの荷物のところに誰か近づかなかったか、お金がなくなっている、と。

これは大きな場面だ。事実としては、ジェーンの小銭入れの中身がなくなった。あるいは小銭入れごとなくなった。そして男は、それを周囲に大声で確認して回った。善意の大人の振る舞いに見える。同時に、三人からバス代を奪う行為でもある。帰れない子どもができあがる。

その後、男は着替えに行った。海岸のチェンジ用の小屋のほうへ、タオルとズボンだけ持って歩いていった。三人はベンチで待っていた。近くにいた年配の夫婦がそれを見ている。

そして男は戻ってきて、子どもたちの着替えを手伝った。水着の上からショートパンツをはかせてやったのだ。ベンチの老女はこれを見て、はっきりと違和感を覚えたと証言している。九歳の女の子の着替えを、他人の男が手伝う。当時の感覚でも、それは少し変だった。

だが彼女は声をかけなかった。父親か親戚だと思ったのだ。誰もがそう思った。それが一九六六年のオーストラリアだった。

十一時半から十二時十五分、パン屋の一ポンド札

コリー保護区のすぐそば、モーズリー・ストリートにウェンツェルズという菓子パン屋があった。三人はここの常連だった。店員は顔を覚えていた。

正午前後、ジェーンが入ってきた。買ったものが変だった。パスティ、日本でいえば具入りの半月形のパイに近いものが複数。フィンガーバン、細長い甘いパンが複数。清涼飲料が二本。そしてミートパイが一つ。

記録によって数字に幅があるが、ある証言では、パスティ五個、フィンガーバン六個、飲み物二本という内訳が挙げられている。三人で食べるにしては明らかに多い。四人分だ。

さらに引っかかるのがミートパイだった。店員は、この三人がミートパイを買ったのを見たことがなかった。子どもたちはミートパイを好まなかったのだ。誰か別の人間の分を買っている。

そして支払いだ。ジェーンは一ポンド札を出した。

母親が渡したのは六シリング六ペンス、あるいは八シリング六ペンス。一ポンドは二十シリングだ。桁が違う。しかも公園では、お金がなくなった、騒ぎが起きた直後である。ジェーンは自分の小銭を失った状態で、それより何倍も大きい紙幣を握って店に入ってきたことになる。

現在の感覚に換算すると、一ポンドは百四十オーストラリアドル前後、日本円なら一万数千円という試算もある。子どもの昼食代としては過剰だ。過剰な額を渡すというのは、釣り銭を必ず返しに来させるという意味でもある。

警察はここを、第三者が介在した動かぬ状況証拠として扱った。子どもたちは、あの男から金をもらっている。そして、その男の昼食も一緒に買っている。

十二時十五分ごろ、三人と男が海のほうから一緒に歩き去るところが目撃された。これが、はっきり確認できる最後の姿だ。時刻を十二時三十分とする資料もある。いずれにせよ、正午をまたいだあの三十分が、彼らが生きて観測された最後の三十分だった。

午後二時四十五分と、午後二時五十五分

これ以降の目撃情報は、確度が一段落ちる。だが二つ、大事なものがある。

一つはダフニ・グレゴリーという女性の証言だ。午後二時四十五分ごろ、彼女は三人の子どもと男を見たという。男は航空会社のバッグのようなものを持っていた。ジェーンが持っていたものによく似ていた、と。

もう一つは郵便配達人のトム・パターソンだ。この事件で、もっとも扱いが難しく、もっとも語られてきた証言である。

パターソンは地元の配達員で、三人の顔をよく知っていた。彼の最初の供述はこうだ。午後二時五十五分ごろ、ジェッティ・ロードの目抜き通りを、三人が手をつないで笑いながら、海から離れる方向、つまり家のほうへ歩いていた。子どものひとりが、あ、うちのポスティだ、と声を上げるのが聞こえた、とも語っている。

警察はこの証言を重く見た。彼は三人を知っている。見間違えるはずがない。しかし同時に、意味がわからなかった。午後二時五十五分といえば、帰宅予定を一時間近く過ぎている。あれほど時間に几帳面な子どもたちが、なぜのんびり手をつないで笑いながら歩いているのか。しかも三人だけで。男はどこに行った。

そしてパターソンは、供述の二日後に警察に連絡してきた。あれは午後ではなく、朝だったかもしれない、と。

この揺れをどう読むかで、事件の絵は根本から変わる。午後二時五十五分に三人が自力で家に向かって歩いていたのなら、消えたのはその後の、家までのわずかな道のりということになる。朝の見間違いだったのなら、最後の姿は正午すぎのコリー保護区であり、男と一緒に歩き去った時点で三人はすでに戻れないところへ行っていたことになる。

余談だが、一九六六年のオーストラリア・デーに郵便配達があったかどうかという論点もあり、そこから記憶の混同を説明しようとする議論も出た。決着はしていない。

証言というのは、こういうものだ。もっとも信用できる人物の、もっとも大事な記憶が、二日で揺れる。この事件の捜査資料は、最初から最後までこの手の揺れでできている。

正午のバス、二時のバス、三時のバス

家のほうの時間を追いかけよう。

ナンシー・ボーモントは午前十時半ごろ、自転車で友人の家に行った。十一時五十五分、ダイアゴナル・ロードのバス停へ向かう。正午のバスが来る。三人は乗っていなかった。

彼女はさほど心配しなかった。乗り遅れたのだろう。次は二時のバスだ。家に戻る。友人が訪ねてきて、世間話をしながら、彼女はときどき時計を見た。

二時のバス。来ない。

ここで彼女は迷う。探しに出るべきか。だが、行き違いになったらどうする。子どもたちが歩いて帰ってきて、家に誰もいなかったら。彼女は家にとどまった。この判断を、彼女は残りの人生ずっと反芻することになる。

三時のバス。来ない。

グレネルグの海岸からは時計塔がはっきり見える。三人が時間を忘れたという説明は成り立たない。ジェーンは時間に几帳面だった。ナンシーの中で、何かが決定的におかしいという感覚がせり上がってくる。

そこへジムが帰ってきた。午後三時ごろ。泊まりがけの出張のはずだったが、客をつかまえられず、予定を切り上げて戻ってきたのだ。妻の顔を見て、彼はすぐに事態を理解した。

三時半、ジムは車でグレネルグへ走った。ビーチを見る。桟橋を見る。公園を見る。いない。三人分のタオルも、服も、バッグも、どこにも落ちていない。海水浴場に子どもの荷物が置き去りになっていれば、誰かが気づく。何もなかった。

夫婦は近所と友人と親戚に片端から当たった。誰も知らない。

そして午後五時半、二人はグレネルグ警察署に行った。

「三人まとめていなくなるなんて聞いたことがない」

警察の記録上、通報が処理されたのは午後七時二十分だ。南オーストラリア女性警察部が行方不明の届け出を受け、その数分前に父親がグレネルグ署に届けていた、とある。夫婦が署に着いた時刻と、記録が起こされた時刻のずれは、そのままこの日の警察の混乱を表している。

対応した警官は、両親を落ち着かせようとした。時間を忘れているか、道に迷ったか、あるいは事故か。子どもが三人まとめて連れ去られるなんて聞いたことがない。当時の常識では、それは本当に聞いたことのない事態だった。

その夜の警察日誌が残っている。

午後七時二十分、届け出受理。父親と警官がビーチ一帯を徹底的に捜索。午後八時四十分、地元警官がブライトンの海岸を捜索、別動隊がウェストビーチとヘンリービーチへ。午後九時五十分、海難救助隊のボランティアが海岸線の捜索を申し出る。警察は公式な要請は控えつつ、自主的に動くのは構わないと伝える。午後十時、警察が父親に確認。友人と親戚に当たったが見つからない。父親はラジオ局への公開情報提供を承諾。午後十時十七分、警官三名がボート・ヘイヴンの船舶と周辺の芝地を捜索、発見に至らず。

午後十時までに、地元のラジオとテレビが三人の失踪を放送しはじめた。

警察はまず、ボーモント家そのものを捜索した。子どもがかくれんぼをしているだけという可能性を潰すためだ。そして同時に、衣類や食料が持ち出されていないかを調べた。ジェーンが弟妹を連れて家出をした可能性の検証である。何も持ち出されていなかった。

その夜、ジムはパトカーに同乗してソマートン・パークとグレネルグを一区画ずつ回った。警官に家まで送り届けられた後、彼は自分の車に乗り換えて、また出ていった。

南オーストラリア史上最大の捜索

翌朝から、州の総力戦が始まった。

砂丘が掘られた。海が捜索された。翌日には海難救助隊のボート五隻が出て、沖に流された可能性を潰しにかかった。洞窟、窪地、雨水排水溝、子どもが入り込んで出られなくなりそうな場所が片端から確認された。空港が監視され、鉄道が監視され、州境を越える道路が監視された。人手が足りず、アデレード市内から応援が投入された。

一月二十九日には、パタワロンガのボート・ヘイヴンの水が抜かれた。失踪当日の午後七時ごろ、そこで三人によく似た子どもたちと話をしたという女性の証言があったからだ。警察学校の生徒と緊急作戦グループが泥をさらった。何も出なかった。

同じ一月二十九日、アデレードのサンデー・メール紙が一面で、今や性犯罪が懸念される、という見出しを打った。失踪から三日で、国民の想像力はもっとも暗い方向に振り切れた。それでも、このとき出された正式な懸賞金は二百五十ポンドにすぎない。事態の重さに、制度がまるで追いついていなかった。

グレネルグ署の現場は、控えめに言っても崩壊寸前だった。当時この署に勤務していたモスティン・マターズは、後年こう振り返っている。

情報を提供したいという人が押し寄せてきたが、こちらにあるのは署の正面の、法廷の証人用に使っていた小さな部屋ひとつだけだった。署全体で電話は一本しかない。それなのに人が列を作って供述しに来る。署にいたのは巡査部長ひとりと部下四人だ。完全に埋もれていた。話を聞いて、報告書に起こして、それだけで時間が消えていく。できることをやるしかなかった。しかもグレネルグでは他の犯罪も普通に起きていた。うちの通常業務も止まらないんだ。

これがこの事件の初動の実態だ。国中が注目する大事件の最前線に、電話一本と警官五人がいた。数百人規模の目撃情報が、まともに整理されないまま流れ込み、そして沈んだ。後年、この初期の供述群の中に決定的な一件が埋もれたままになっているのではないかという疑いは、ずっとくすぶり続けている。

遺留品がひとつも出ない、という異常

この事件の中心にあるのは、実は目撃証言ではない。何も出なかった、という事実のほうだ。

三人はタオルを持っていた。着替えのショートパンツを持っていた。ジェーンは本を持ち、小銭入れを持ち、青いショルダーバッグを持っていた。子ども三人分の荷物である。

海で溺れたのなら、荷物は浜に残る。残されたタオルの山を、あの混雑した日に誰も見つけないということはあり得ない。潮に流されたのなら、いずれ何かが打ち上がる。何も上がらなかった。

事故の線は、それでほぼ消えた。残ったのは誘拐だけだ。しかもこの誘拐犯は、被害者の持ち物まで一つ残らず回収している。慌てて連れ去ったのではない。片づけていったのだ。

法医学の観点から見ると、この無は絶望的な条件になる。指紋がない。毛髪がない。血液がない。衣類の繊維がない。犯行現場が存在しない。DNA解析も、法人類学も、血痕分析も、機能する対象がない。半世紀分の科学の進歩がこの事件に対してほとんど無力なのは、そもそも掛け算する材料がゼロだからだ。

一九六六年十一月八日、オランダから来た男

夏が終わり、秋が来て、捜査は完全に止まった。世論は苛立ちはじめた。そして人々は、警察に対して奇妙な要求をしはじめる。霊能者を使え、と。

当時、世界でもっとも有名な、霊視する探偵は、オランダのジェラルド・クロワゼットだった。ユトレヒトを拠点に、行方不明者の捜索で警察に協力したという実績が国際的に喧伝されていた人物である。

きっかけを作ったのは、アデレードの実業家バリー・ブラックウェルだった。彼はヘリコプターを手配してグレネルグの海岸を空撮し、そのフィルムをオランダのクロワゼットに送った。彼自身が後に語ったところでは、翌日の新聞に、自分がクロワゼットを呼び寄せることになった、と書かれていて、そんなことは言っていないのに引っ込みがつかなくなり、結局オランダの航空会社の窓口に行って渡航費を払った、という顛末だったらしい。最終的に費用の大半を負担したのは、南オーストラリアの著名な不動産開発業者コン・ポリテスである。

映像を見たクロワゼットは、こう告げた。子どもたちは誘拐されたのではない。どこかに閉じ込められ、出られなくなって死んだのだ、と。

ブラックウェルらはこの言葉に従って海岸に戻り、塞がれた大きな排水溝を見つけた。消防のホースで水を流して詰まりを抜いた。何もなかった。

一九六六年十一月八日、クロワゼットがアデレード空港に降り立った。報道は完全に沸騰した。警察は公式には出迎えなかった。ボーモント夫妻は彼との会食を断っている。それでも彼が三人の消えた海岸に立つと、群衆が押し寄せた。

彼の霊視は日替わりで変わった。洞窟にいる。岩がある。近くに藪と、四角い家がある。そして最終的に、彼は具体的な場所を名指しした。ボーモント家からそう遠くないソマートン・パーク、古いレンガ工場の跡地に新しく建てられた倉庫。その床のコンクリートの下だ。子どもたちは古いレンガ窯の残骸の中に埋まっている、と。

通訳を介して、彼はこう言った。ここに埋まっている、と。

倉庫の床を剥がす

警察は動かなかった。動けなかった。霊能者の発言だけでは捜索令状は出ない。州政府も反対した。

だが世論は違った。人々は募金を始めた。集まった額は四万オーストラリアドル。当時の四万ドルである。倉庫の所有者は最初こそ渋ったが、この規模の圧力の前に折れた。

一九六七年三月、テレビカメラに囲まれて、倉庫のコンクリート床が破られた。

出てきたのは古い階段、レンガ窯、布きれ、ゴミ。それだけだった。遺体はなく、ボーモント家に結びつくものは一つもなかった。

クロワゼットは何の成果も出さないまま国を去った。彼が死ぬのは一九八〇年である。一九九六年、問題の建物が部分的に解体されることになり、所有者が全面的な捜索を許可した。費用はポリテスが負担したと伝えられる。このときも、何も出なかった。

作家のアラン・ウィティカーは後に、この事件について、クロワゼットはインチキだった、と断じている。それでもこの一件は、オーストラリアにおける霊能捜査官という商売の知名度を一気に押し上げた。皮肉な話だ。公開された最大級の失敗が、ジャンルそのものを有名にした。

そして、もっと苦い皮肉がある。クロワゼットが名指ししたソマートン・パークの工場跡と、五十年後に警察と民間が本気で掘り返すことになる北プリンプトンの工場跡は、直線距離で五キロほどしか離れていない。

一九六八年、郵便局前に三日間立ち続けた父親

失踪から二年後の一九六八年二月、ボーモント家に手紙が届いた。

一通目はジェーンの名前で書かれていた。内容はこうだ。自分たちは男に連れ去られた。その男は六週間ほど前から自分たちを見ていた。今は元気にしている。両親がヴィクトリア州ダンデノンの郵便局に来れば、その男は自分たちを返す気がある。

二通目は、そのおとなを名乗る人物からだった。自分は子どもたちの保護者のようなものだ、という趣旨のことが書かれていた。

消印はヴィクトリア州ダンデノン。

夫婦は行った。行かないという選択肢は、この二人にはなかった。

一九六八年二月二十六日から、ジムはダンデノンの郵便局の前に立った。一日ではない。三日間立ち続けた。その間、電話が入る。男は遅れている、もう少し待て、という趣旨の連絡だった。誰も現れなかった。

そして三通目が届く。男は、両親のあとを刑事が尾行しているのに気づいた。信頼を裏切られたので、子どもたちは返さない。そう書いてあった。

三通目にはジェーンの名前のものもあり、どんな状況でも両親を愛していると書かれていたという。

一九八一年の時点では、筆跡鑑定の専門家が、一通はジェーン本人が書いた可能性が高い、と述べたという報道まで出ている。この事件を追う人々の希望と絶望を、この手紙は十三年にわたって上下させ続けた。

決着は一九九二年だ。新しい指紋鑑定技術で封筒が再検査され、書き手が特定された。当時四十一歳の男性。手紙を書いた時点では十代だった。悪ふざけで書いたら止まらなくなった、という趣旨のことを認めている。時効の関係で訴追はされなかった。

十代の子どものいたずらが、子どもを失った夫婦を三日間、郵便局の前に立たせた。この事件の周囲では、こういうことがずっと起き続けている。

名前を挙げられてきた男たち

六十年のあいだに、この事件の犯人だと名指しされた人間の数は、おそらくオーストラリアの他のどの事件よりも多い。二〇一八年、南オーストラリア警察のデズ・ブレイ警視は、私が知るかぎり、加害者候補として名前が挙がった人数がもっとも多い事件だ、と述べている。同じころ彼は、十人あまりの関係者について、除外できていない、とも語った。

ここから先を読むにあたって、先に一つはっきりさせておきたい。以下に出てくる人物は全員、この事件について立件も起訴もされていない。有罪判決を受けた者は一人もいない。多くはすでに死亡していて、反論の機会がない。状況証拠や伝聞や印象で語られてきた名前であって、この記事は誰かをボーモント事件の犯人だと断定するものではないし、断定できる材料は現時点で世界のどこにも存在しない。

その上で、議論の歴史として整理する。

ベヴァン・スペンサー・フォン・アイネム。一九八四年、少年殺害で終身刑を受けた男だ。捜査の過程で、B氏とだけ呼ばれる情報提供者が現れ、フォン・アイネムが数年前にビーチから子どもを三人連れ去ったと自慢していた、と証言した。B氏の話によれば、フォン・アイネムは三人に手術のようなことをしたと語り、一人が処置中に死んだので残る二人も殺してアデレード南方の低木林に捨てた、と述べたという。B氏はさらに、フォン・アイネムが一九七三年のアデレード・オーバル事件についても自分の関与をほのめかしたと語った。一九八九年には警察の内部文書で容疑者の一人として扱われている。二〇〇七年八月には、テレビ局が撮影していた一九六六年の捜索現場の記録映像に、当時二十歳だったフォン・アイネムによく似た若い男が写り込んでいるとして、警察が情報提供を呼びかけた。潜水士が排水溝を捜索するのをじっと見つめている男だという。

反証も強い。一九六六年のフォン・アイネムは二十歳前後だ。目撃された男は三十代半ばである。二十歳の青年を三十五歳と見誤る目撃者が、しかも複数出るというのは考えにくい。彼の既知の被害者は十代後半から二十代の男性であり、四歳や七歳の子どもというプロファイルとも合わない。彼自身は他の殺人について警察に協力したことがない。

アーサー・スタンリー・ブラウン。一九九八年、一九七〇年のタウンズヴィルにおける姉妹殺害で起訴された。認知症により訴訟能力なしと判断され、再審理されないまま二〇〇二年に死亡している。ボーモント事件とアデレード・オーバル事件の両方のモンタージュ写真に、驚くほど似ている、と言われた。一九七四年のブリスベン洪水で勤務記録の一部が失われていて、一九六六年当時の彼の所在が確定できないという事情もある。ただし彼は一九六六年に五十三歳だ。三十代という目撃像から完全に外れる。フェスティバル・センターが完成間近だったという会話をしていたという証言から、一九七三年の事件直前にアデレードにいた可能性は指摘されたが、一九六六年に彼をアデレードに置く証拠は出ていない。

ジェームズ・ライアン・オニール。一九七五年にタスマニアで九歳の少年を殺害し終身刑となった。知人にボーモント事件は自分の仕業だと語ったという話が伝わっている。ゴードン・デイヴィー元刑事が彼にこの事件について尋ねたときのやり取りは有名だ。オニールはこう答えたという。私にできたはずがない。当時はメルボルンにいた、と。デイヴィーはこれを、あれは否認ではない、と評した。後にオニールは、法的助言により、自分がいつどこにいたかは話さない、と述べた。彼はオパール関連の仕事で内陸の鉱山町に頻繁に通っていて、そのたびにアデレードを通過していた。ただし南オーストラリア警察は彼を聴取した上で、容疑者から外している。

デレク・アーネスト・パーシー。ヴィクトリア州で最長の服役者となった子ども殺しだ。二〇〇七年に新聞記事で容疑者として名前が挙がり、同年八月三十日にヴィクトリア州警察が聴取した。だが一九六六年の彼は十七歳である。三十代の男とは似ても似つかない。加えて一九六九年から二〇一三年に死ぬまで収監されていたため、一九七三年のオーバル事件から自動的に除外される。二つの事件を同一犯とみる立場からは、彼はまず外れる。

アラン・アンソニー・マンロー。元スカウトの指導者で、一九六二年にさかのぼる十件の児童性犯罪で有罪となった人物だ。二〇一七年六月、アデレード警察に一九六六年の子どもの日記が持ち込まれ、そこに失踪当日、マンローがグレネルグの海岸にいたことを示す記述があるとされた。日記の書き手を含む子どもたちへの加害で彼は有罪になっている。ただしボーモント事件そのものについては何も証明されていない。

ハリー・フィップスと「サテンの男」

そして、この二十年でもっとも大きく扱われてきた名前が、ハリー・フィップスだ。二〇〇四年に死亡している。

彼は北プリンプトンにあったキャスタロイという鋳造工場のオーナーで、地元の名士だった。金があり、人脈があり、教会にも州政界にもつながりがあった。クリスマスパーティを盛大に開くような、感じのいい紳士として通っていた。

一方で、身長があり、痩せていて、金髪だった。グレネルグの海岸から三百メートルほどの角に大きな屋敷を持っていた。そして、一ポンド札をポンと人に渡す癖があったことが知られている。

彼の名前が公になったのは、二〇一三年に出たアラン・ウィティカーとスチュアート・マリンズの共著『サテンの男』だ。書名の由来は、フィップスがサテンの衣装を身につける嗜好を隠し持っていたとされることによる。この本の中では法的配慮から仮名が使われていたが、刊行直後、フィップスの長男ハイドンが実名で名乗り出た。

きっかけを作ったのはハイドンの最初の妻だった。彼女がウィティカーに連絡してきたのだ。夫がボーモント事件のドキュメンタリー番組を見ていて、うちの親父が関わっていると思う、子どもたちはあの穴の中だ、と言い出した、と。

マリンズが二〇〇八年にハイドンを見つけ出して聞き取りをした。ハイドンの語ったことは、二つに分かれる。

一つは父親からの虐待だ。夜、廊下をサテンのドレスが衣ずれの音をさせて近づいてくると、これから何をされるかがわかった。父はその翌朝、何事もなかったような顔で朝食の席に現れた。

もう一つが、一九六六年一月二十六日の記憶である。当時十五歳だったハイドンは、自宅の裏庭のツリーハウスにいた。そこから、父親と、三人の子どもらしい姿が裏門から入ってくるのを見た。一番年上の子は肩掛けのバッグのようなものを持っていた。ジェーン・ボーモントは青いショルダーバッグを持って家を出ている。子どもたちは家の中に入っていった。そして出てこなかった。しばらくして父親が車で出ていくのを見た。家に入ってみると、子どもたちはもういなかった。

マリンズによれば、ハイドンはインタビューの最中に手を机に叩きつけてこう言ったという。聖書に誓う。おれはあの子たちをうちの裏庭で見た、と。

元南オーストラリア警察のビル・ヘイズ、後にマリンズと組んで続編を書くことになる元刑事は、この録音を犯罪学者、犯罪心理学者、そしてポリグラフ検査官に独立して検証させた。検査官の結論はこうだった。彼は真実を語っている。ただし、もっと何かを知っている、と。

ハイドンの息子、つまりフィップスの孫にあたるニック・フィップスは、二〇一八年にテレビ番組で、父ハイドンから聞いた話としてさらに踏み込んだことを語った。子どもたちが生きて入っていくのを見て、後に運び出されて車の後ろに乗せられるのを見た、と父は言っていた。そして子どもたちはキャスタロイの工場に運ばれ、穴に入れられたのだと。

その穴に関する証言が、もう一件ある。二人の兄弟が、一九六六年一月、フィップスに似た人物から金をもらって、キャスタロイ工場の敷地に穴を掘ったと申し出たのだ。寸法は縦二メートル、幅一メートル、深さ二メートル。人ひとりどころか、子ども三人が入る大きさだ。掘った時期は、証言によれば子どもたちが消えた三日後の週末だった。当時の兄弟は、その穴が何のためのものか疑いもしなかった。二〇一三年、ドキュメンタリーの放送とフィップスの名前の公表を受けて、そのうちの一人が記憶をたどって名乗り出た。

もう一つ、マリンズを最初に本気にさせた出来事がある。二〇〇七年六月、彼はフィップスの未亡人エリザベス・フィップスの家を訪ねた。そこで、ベージュの留め金つきの小銭入れを見たというのだ。ジェーン・ボーモントが失踪当日に持っていたものと同型の。ぞっとした、殺人者が被害者の記念品を集めることがあるのは知っていたから、と彼は語っている。彼は持ち去らず、警察に調べるよう頼んだ。警察が動いたときには、エリザベスは、捨てた、と答えた。

犯罪学者のザンシー・マレットは二〇一八年に現地を歩いてこう述べた。フィップス邸の前に立った。目の前が海で、少し左にパン屋がある。全部が近い。車まで少し歩けば家まで送るよ、と言って連れていく光景が想像できた、と。彼の家から、海へ、そして工場へ。完璧な三角形だ、とも。

ここで、もう一度はっきり書いておく。ハリー・フィップスは生前も死後も、ボーモント事件で起訴されていない。有罪判決も受けていない。彼を犯人とする物証は一つも出ていない。上に書いたことはすべて、伝聞、状況証拠、そして本人が反論できない状態で語られた証言である。南オーストラリア警察は彼を、十数人いる関係者の一人として位置づけてきたにすぎず、二〇二五年の民間発掘については、実行者が依拠している仮説は証拠および入手可能な情報によって支持されていないと警察は考えている、と明確に距離を置く声明を出している。

彼を犯人とみなす議論が説得力を持ってしまうのは、状況証拠がやたらと符合するからだ。だが状況証拠がいくら符合しても、それは証明ではない。この事件でもっとも危険なのは、まさにそこである。

一九七三年八月二十五日、アデレード・オーバル

七年半後、同じ街でよく似たことが起きる。

一九七三年八月二十五日、アデレード・オーバルでフットボールの試合が行われていた。スタンドに、二つの家族が隣り合って座っていた。十一歳のジョアン・ラトクリフは両親と兄、そして家族ぐるみの友人と一緒だった。四歳のカースティ・ジェーン・ゴードンは、両親が遠出していたため母方の祖母に連れられて来ていた。

午後三時四十五分ごろ、二人の女の子はトイレに行った。この日二度目だった。

午後四時ごろ、ラトクリフ家が捜しはじめる。試合が終わった午後五時すぎ、母親がようやく場内放送を出させた。午後五時十二分、警察に届け出。

その後の九十分間、二人は繰り返し目撃されている。オーバルの助手グラウンドキーパーは、二人が車の下の猫を呼び寄せようとしゃがんでいるのを見た。一緒にいたのは、つば広の帽子をかぶり、灰色のチェックのスポーツジャケットを着た年配の男だった。売店で菓子を売っていた男性は、その同じ男が帽子を目の高さまで下ろし、左腕でカースティを抱えているのを見た。ジョアンは男に向かって蹴り、叫び、カースティを放せと言っていた。男は怒って、このクソガキ、あっちへ行け、と怒鳴った。もみ合いで男が老眼鏡を落とし、拾おうと身をかがめたところでジョアンの腕をつかみ、南門のほうへ引っ張っていった。

売店の男性も、他の目撃者も、誘拐だとは思わなかった。子どもを叱っている父親に見えたのだ。

二人は今日まで見つかっていない。

この事件とボーモント事件を結ぶのは、まず似顔絵だ。二つの事件で作られたモンタージュが似ている。次に、ボーモント事件で名前が挙がった容疑者の多くが、そのままオーバル事件の容疑者リストにも載っている。そして、いずれも南オーストラリア警察と報道機関が公式に関連の可能性を口にしてきた組み合わせでもある。デズ・ブレイ警視は二〇一六年、両事件に関連がある可能性に言及している。

一方で、この二つを同一犯とみることには無理もある。一九六六年の男は三十代半ば、一九七三年の男は明らかに年配で、老眼鏡をかけていた。七年半で人は老けるが、証言の像には七年半以上の隔たりがある。三人と二人という被害者数の違い、静かに連れ去られた前者と、蹴って叫んで抵抗された後者という手口の違いも小さくない。

それでも、この二つが人々の頭の中で結びついてしまうのは、両方ともアデレードで、両方とも複数の子どもが公共の場から白昼に消えて、両方とも何も出ていないからだ。この街には他にも重い事件の名前が並ぶ。ウィティカーが自著でアデレードの文脈を書きすぎだと批判されながらもこだわったのは、この土地に事件が集積して見えることの意味だった。

ジョアンの妹スージー・ラトクリフは、姉が消えた十四か月後に生まれた。会ったことのない姉を、彼女はずっと背負って生きている。二〇一八年、彼女はハリー・フィップスが両方の事件に関わっていた可能性を口にした。彼が関与していた可能性はある。女の子たちがいなくなったとき、彼はアデレードにいた、と。二〇二三年、五十周年の際にも彼女は、姉たちを家に帰す手伝いがしたい、と語っている。

証言のいくつか

この事件を、人はそれぞれの角度から抱えてきた。いくつか並べる。

一つ目は、ナンシー・ボーモントだ。三人が消えて数週間後、彼女は記者にこう言っている。生きているとは思っていません。でも、望みを捨ててもいません。ただ帰ってきてほしい、それだけです、と。あの一文の中で、二つの相反するものが同時に成立している。母親というのは、生きていないと知りながら、望みを持ち続けることができるらしい。

一九六七年二月、失踪から一年後のインタビューで、彼女はまるで逆のことを言う。時間がたつほど、あの子たちは生きているという確信が強くなります、と。そして彼女は、前の晩に見た夢の話をした。あのね、昨日あの子たちの夢を見たんです。わたし、あまり夢を見ないの。あの子たちがいなくなってから初めて見た、本当の夢でした。裏口をノックする音が聞こえた気がして。あの子たちだったんです。ハロー、ママ、って言うの。わたしが言ったのはひとことだけ、どこに行ってたの、って。三人はそこの、裏の踏み込みに立っていました。わたしは泣いて、三人の体をあちこち触って確かめました。あのね、あれが初めての夢なんです。

彼女は何年も家を動かなかった。子どもたちが帰ってきたときに親がいなかったら、ひどいことになる、から、というのが理由だった。この一点だけで、この家庭が事件後に何を抱えて暮らしていたかが伝わってくる。ナンシーは二〇一九年九月十六日、アデレードの介護施設で九十二歳で亡くなった。

二つ目は、ジム・ボーモントだ。一九六六年一月二十八日の午前中、家の裏のポーチから、押しかけた記者たちに向かって彼はこう話した。誰かが意思に反してあの子たちを引き止めているに違いない。そうでなければとっくに帰ってきている。まったくわからない、理解できない。うちの子たちは泣きじゃくっているはずだ。悪夢のようだ。

彼は結局、答えを知らないまま二〇二三年四月九日に九十七歳で死んだ。地元紙に出た死亡広告には、子どもたちと天国で再会したと書かれていた。私的な火葬だった。夫婦は一九七〇年代前半に別居し、後に離婚している。家財を売り払い、公の場から静かに退いた。元被害者権利委員のマイケル・オコネルは、グラントが決着を見ないまま逝ったのは本当に悲しい、彼とナンシーは常に希望を持っていた、子どもたちが見つからないかもしれないという事実を二人は受け入れてはいなかった、と語った。

三つ目は、すでに引いたモスティン・マターズだ。失踪当日にグレネルグ署にいた警官である。情報を提供したいという人が押し寄せてきたが、こちらにあるのは署の正面の小さな部屋ひとつ、電話は一本だけ。彼は後年、ウィティカーとマリンズの調査にも協力している。捜査の初動が人手不足で潰れていたことを、当事者として認めた数少ない一人だ。この事件を、警察が無能だったから解けなかった、と切り捨てる論調はネットに山ほどあるが、彼の証言はもっと実務的で、だからこそ重い。一九六六年一月末のグレネルグ署には、国家的大事件を処理する物理的な容量がなかった。それだけの話であり、それがすべてを決めてしまった。

四つ目は、この事件に人生を持っていかれた側の証言だ。スチュアート・マリンズは一九五〇年代後半にグレネルグで生まれ、事件当時は近隣に住んでいた。アーナと同い年である。祖母はボーモント家のすぐ近所に住んでいた。彼が遊んだ運動場や通りで、あの三人も遊んでいた。彼らの人生はぼくの人生だった。あの日まで、ぼくらはどこへでも行けた。ルールはひとつ、街灯がつく前に帰ること。それだけだ。だから今でも感情が動く。ぼくが経験した魔法みたいな子ども時代を、あの三人は奪われた。彼は十年以上を独力の調査に費やし、二〇〇八年に元刑事ビル・ヘイズに持ちかけた。ヘイズはこう応じたという。きみが調べたことを全部ひっくり返してやると言ったんだ。驚いたことに、彼はそれで構わないと言った。で、実際やってみたら、ほとんど何もひっくり返せなかった、と。

五つ目、そして忘れてはいけないのが、元南オーストラリア警察の刑事スタン・スウェインの家族の証言だ。スウェインはこの事件に取り憑かれ、人生の最後の年月を新しい切り口探しに費やした。元妻と娘たちがウィティカーの取材に語ったのは、この事件が彼を家族から引き離し、最終的に彼の人生を壊したということだった。未解決事件は被害者家族だけを壊すのではない。追う側も壊す。

地面を掘る、という執念

キャスタロイ工場跡の話に戻る。北プリンプトンのムーリンジ・アヴェニュー、三人が最後に目撃された場所からおよそ三・八キロ。ハリー・フィップスが一九六六年当時に所有していた鋳造工場だ。

二〇一三年。穴を掘ったという兄弟の証言をもとに、警察が捜索した。兄弟は四十年以上前の記憶を、フェンスや門といった目印を頼りにたどって場所を特定した。オーストラリア連邦警察が地中レーダー探査を実施し、一つの異常を検出した。一平方メートルほどの範囲が掘られた。何も出なかった。捜査は一度閉じられた。

後にわかったのは、そもそも掘る場所が間違っていたということだ。兄弟が方角の基準にしたフェンスと門は、一九六六年以降に移動していた。記憶は正確でも、目印のほうが動いていた。

二〇一八年。テレビ局の取材班が目撃者を再度聴取し、一九六六年当時のフェンスと門の位置を復元した上で、新しい候補地を割り出した。同局の費用でフリンダース大学が地球物理探査を行う。ここが技術的に面白いところで、この場所は人為的な埋め土が複雑に積み重なっていて、地中レーダーがまともに機能しなかった。そこで研究チームは電気抵抗トモグラフィという別の手法を使った。土壌の電気の通りにくさを断面図として可視化する技術で、オーストラリアの法科学捜査で使われたのはこれが初めてだった。

そして異常が出た。しかも、探していた対象、つまり三人が埋まった穴とほぼ同じ寸法の形状として。

二〇一八年二月二日、南オーストラリア警察が発掘した。九時間。人為的に撹乱された土、砂、その下の粘土。異常の形は電気探査の図とぴったり一致した。出てきたのは有機物に富んだ堆積物と、動物の骨、ゴミ、割れた陶器、貝殻だった。小さな骨が出た瞬間、現場に集まっていた群衆に緊張が走ったが、法人類学者がすぐに人骨ではないと判定した。馬か牛のような大型動物の骨だった。デズ・ブレイ警視はその日の夕方、報道陣にこう告げた。本日発見されたもので、子どもたちの失踪と何らかの形でつながるものは一切ありません、と。ブレイは、この場所がかつて家庭ゴミと廃棄された骨の投棄場として使われていたと説明した。それが土壌に異常を生んでいたのだ。

彼はこうも付け加えている。捜索対象の領域を捜索し、その底に到達し、さらに十分に下まで掘ったので、百パーセントの確信を持てます。悲しいことに、これはボーモント家にとって、依然として答えがないということを意味します。しかし我々は、ボーモントの子どもたちを見つけて家族のもとへ帰すために、人間として可能なことは常にやります。

二〇二四年には、この二〇一八年の探査そのものが法科学の学術論文として公表された。地中レーダーが土壌条件によっては機能しないこと、そして電気抵抗トモグラフィが秘匿された埋葬の探索に有効たり得ることを示した事例報告である。三人は見つからなかったが、探し方の技術だけが前に進んだ。それはそれで、この事件の六十年をよく象徴している。

二〇二五年。工場の建物が完全に撤去され、州政府が土地を売却しようとしていた。更地にしたのなら、もう一度見てみたらどうか、という問い合わせが政府に多数寄せられた。無所属州議会議員のフランク・パンガロが動いた。

彼が挙げた根拠はこうだ。当時の従業員たちが写真と証言を提供してきて、この敷地には相当量の盛り土がされていることがわかった。地表は一九六六年より一メートルから二メートル高い。二〇一八年の発掘は、そもそも正しい深さまで届いていなかった可能性がある。

二〇二五年二月二十二日、民間資金による発掘が始まった。地元の重機業者、遺体捜索を専門とする法考古学者二名、大学生。パンガロは、疑いなく、これはオーストラリア最大の未解決事件だ、と言った。

警察は情報を共有されつつも、距離を取った。新たな発掘を行っている者たちは、警察が証拠と入手可能な情報によって支持されないと考える仮説に従っている。警察は発掘の進行を監視する、と。

掘った。掘り続けた。二月二十八日の時点で、三千立方メートル以上の土が動かされ、深いところでは四メートルに達した。法考古学者のマチェイ・ヘンネベルク教授は、月曜に掘り出した区画にあった長さ二メートル、深さ二メートルの穴を、シャベルと移植ごてで手作業で精査していた。まだ半分だ。他に何か入っているかどうかは言えない、と。

パンガロは言った。干し草の山から針を探すというのがどういうことか、身にしみてわかった。ぼくらはまだ諦めていない。兄弟が掘ったという穴を見つけられると、まだ期待している、と。

三月一日土曜日、七日間の発掘が終了した。動かした土は最終的に一万トン近く。複数の穴。遺体はなかった。

パンガロは複雑な表情でこう述べた。ここには遺体はないと納得して立ち去ることはできる、と。そしてこう付け加えた。誰かが何かを知っている。どうか名乗り出てほしい、と。彼はまた、きわめて信頼できる人々から重要な情報を得ており、警察と共有すると述べている。

なお、この捜索が空振りに終わった場合に備えて、テレビ司会者のアンドリュー・コステロが、ヨーク半島にある私有地の陥没穴を自費で掘ると表明していた。そこに子どもたちが埋められた可能性を示すかなり強い証拠があるという主張だった。

六十年たっても、人はまだ地面を掘る。証拠がないから掘るのではない。証拠がないからこそ掘るしかないのだ。

子どもがひとりで歩かなくなった国

この事件がオーストラリアで別格の位置を占めているのは、未解決だからでも、被害者が三人だからでもない。国の生活習慣そのものを変えてしまったからだ。

一九六六年一月二十六日より前のオーストラリアでは、子どもが親の同伴なしにバスに乗って海に行くのは、まったく普通のことだった。ボーモント夫妻が非難されなかったのは、当時の社会がそれを安全で当たり前だと考えていたからである。事件直後の報道を見ても、三人だけで行かせるべきではなかった、親に落ち度があった、という論調は公には出てこない。誰もそんなことは思わなかったのだ。

その前提が、あの日を境に崩れた。

アデレード大学の刑事法学者ケリー・トゥールは、この事件が、わたしたちの自己認識を粉々にした、と表現している。もちろん、それまでは子どもだけで海に行かせていた。それに対するノスタルジーの力はとても強い。ただ、ある日まで安全でその翌日から全部危険になる、というものでもない。すぐに変わったこともあれば、時間をかけて変わったこともある。世代ごとに響く犯罪というものがあって、ある年齢層の南オーストラリア人にとっては、それがこの事件だ、と。

犯罪作家のマイケル・マディガンはもっと直截だ。ボーモントの子どもたちがいなくなって、わたしたちは、海で一日過ごすというくらい無邪気なことでさえ、そんなに安全ではないかもしれないと気づいた。あの日、安全という感覚が終わった、と。

犯罪学者のザンシー・マレットは、オーストラリアにおける子どもらしい無邪気さの終わり、この世界が差し出しうる最悪のものからわたしたちが免れてはいないと思い知った歴史の一瞬、と言う。

この、無邪気さの終わり、という言い回しには、実は前例がある。一九六〇年の少年誘拐殺害事件、一九六五年のワンダ・ビーチ殺人事件。どちらのときも同じことが言われた。だがそれらは、ボーモント事件ほどの持続力を持たなかった。

なぜか。理由は三つある。

一つ、三人まとめて消えたこと。単独の子どもが消えるのなら、事故でも家出でも説明がつく。三人が同時に、しかも姉が弟妹を守れる年齢で消えるという事態は、当時の人々の想像力の枠外にあった。だから、うちの子だけ気をつけていれば大丈夫、という自己防衛的な理屈が組み立てられない。

二つ、白昼の、混雑した公共の場から消えたこと。夜道でも、人けのない場所でもない。真夏のオーストラリア・デーの、家族連れでいっぱいの海岸だ。人の目がある場所は安全だ、という前提がここで壊れる。実際、あの男が子どもの着替えを手伝っているところを、老女が見ていた。違和感を覚えながら、声をかけなかった。大勢の目は機能しなかった。

三つ、何も出なかったこと。遺体が出れば、悲劇は終わる。終わって、記憶になる。何も出ないと、事件は終わらない。終わらない事件は、五十年でも六十年でも現在形のまま居座り続ける。

この三つ目が決定的だ。ボーモント事件は過去の事件になれなかった。だから今もオーストラリアのニュースの一面に戻ってくる。

未解決事件はどうやって社会の記憶になるのか

ここから先は分析だ。この事件が、なぜ個別の犯罪から国民的記憶へと転化したのか。

第一に、写真が効いている。三人が有名な奇岩の前で並んで写っている、あの写真。ジャーナリストの一人が書いていたとおり、あの三人は無名になる運命の子どもたちの顔をしていない。ごく普通の、いい写真だ。この普通さが、見る側に、うちの子でもあり得た、という代入を許す。事件が抽象化されず、家庭の話として入ってくる。

第二に、両親がテレビに出たことだ。一九六六年一月三十一日、ジムとナンシーはテレビで国民に呼びかけた。まだテレビが家庭に入ってきて日が浅いころだ。後年のラジオ番組で語られたことだが、当時を知る人々にとって、あの二人は、居間の中で、自分たちに直接、誰にも与えられないものを必死で求めていた二人のごく普通のオーストラリア人だった。マスメディアが個人の悲嘆を茶の間に直送する装置として機能した、比較的初期の事例である。感情移入の回路が、そこで国民規模に開通した。

第三に、この事件が参加できる構造を持っていたことだ。クロワゼットの倉庫を掘るために四万ドルの寄付が集まった。市民が募金して、市民の圧力で建物が壊された。二〇一八年はテレビ局が探査費用を出した。二〇二五年は州議会議員が民間資金で掘った。テレビ司会者が、ダメだったら次はぼくの金でヨーク半島を掘る、と言い出した。この事件は、警察の専有物であり続けなかった。誰でも参加できる。だから誰の記憶にも定着する。

第四に、語りの空白が大きすぎることだ。犯人が特定されていない。動機がわからない。現場もわからない。この空白は、あらゆる仮説を吸い込む。名指しされた男たちの説がいくつも並び、ヨーロッパに連れ去られた説、ニュージーランドで育った説、生きて別人として暮らしている説まで出てくる。オーストラリア人が書き手不足に困ることはなかった。名指しされた男たちの多くはすでに死んでいて、反論できない。空白があると人は埋める。それが人間の頭の仕組みだ。

だが、この埋める行為には代償がある。アラン・ウィティカーが自著の序文に書いた、あのポーチのエピソードを思い出したい。二〇〇六年、彼の家に見知らぬ男が訪ねてきて、子どもたちの件で来た、おれはグラント・ボーモントの隣で育った、あんたの本の書評を読んで、あれはおれに話しかけていると思った、と言った。彼はこう書いている。ある人々は、自分自身の傷とトラウマを、この行方不明の子どもたちの物語に統合してしまっているのだ、と。

未解決事件が社会の記憶になるというのは、そういうことだ。事実の記憶ではない。人々が自分の欠落を投影する容器になる、ということだ。だからこそ、この種の物語を扱うときは、名前を出す責任が異様に重くなる。生きている人間を犯人扱いすれば名誉毀損だが、死んだ人間なら何を言ってもいいわけではない。遺族がいる。孫がいる。そして何より、間違った答えが出回ると、正しい答えを探す力がそちらに吸われる。

第五に、そして最後に、時間切れの感覚がある。デズ・ブレイ警視は二〇一六年にこう述べた。結果を出せる窓は閉じつつある。この犯行を行った人物は、生きていれば今、七十歳から百歳のあいだのどこかだ、と。当時ですらそうだった。今はさらに十年が過ぎている。あの日の目撃者も、当時の捜査員も、ほとんどが世を去った。ナンシーは二〇一九年に、ジムは二〇二三年に死んだ。答えを受け取るべき人が、もう誰もいない。

それでも人は掘る。誰のために掘るのか。

たぶん、自分たちのためだ。あの日、砂浜で老女が違和感を覚えながら声をかけなかったこと。電話一本の警察署に列ができたこと。誰も止めなかったこと。オーストラリアという社会が抱えた、六十年物の後ろめたさ。それを下ろすために、人は土を運び続けている。

一万トンの土を動かして、何も出なかった二〇二五年三月一日、フランク・パンガロが言ったひとことが、この事件のすべてかもしれない。

誰かが何かを知っている。どうか名乗り出てほしい。

証言が多すぎて解けない事件

ここからは、本文で流した論点を腰を据えて掘り直す。

まず、この事件でいちばん奇妙な事実を、もう一度直視したい。目撃証言はある。それも大量にある。にもかかわらず、決定的なものが一つもない。

普通、事件というのは証言が足りなくて解けない。ボーモント事件は逆だ。証言が多すぎる。一九六六年一月末のグレネルグ署には人が列を作り、警官五人と電話一本でそれをさばこうとした。その結果、供述の質にばらつきが出て、相互に矛盾する情報が大量に堆積した。父親の申告時刻が、午後一時出発、午後五時帰宅予定、から、午前十時出発、午後二時帰宅予定、に修正されている記録が残っているのも、この混乱の産物だろう。悪意ではなく、パニックと事務処理能力の限界だ。だがこの初期の記録の揺らぎが、後の六十年間、あらゆる陰謀論の温床になった。父親の証言が変わっている、つまり父親が怪しい、と。念のため書いておくが、ジムもナンシーも一度も容疑者として扱われたことがなく、いかなる不正行為でも告発されたことがない。これは論争ではなく、事実の確認だ。

次に、あの男の行動の解剖をやってみる。証言を並べると、あの日の男の動きには不自然なほど手順がある。

第一段階、接触。彼は先に芝生でうつぶせに寝ていた。子どもが遊びに来る場所に、先回りして寝転がっていたわけだ。最初に近づいたのは四歳のグラントだったとされる。大人の側から声をかけていない。子どもの側から来させている。これは、警戒を発生させない接触の作り方としてよくできている。

第二段階、既存の信頼。ジェーンが濡れたタオルで彼を叩いたという証言。アーナが母親に、ジェーンはビーチにボーイフレンドがいる、と言っていたという事実。これが初対面でないことを示唆する。つまり彼は、この日より前に何度かこの子たちと会っている。時間をかけている。

第三段階、退路を断つ。ジェーンの金がなくなった。そして彼は、周囲の人間に、この子たちの荷物のところに誰か行かなかったか、お金がなくなっている、と自分から声をかけて回った。これが計算だとすれば、二重の効果がある。子どもたちからバス代を奪って帰宅手段を消すと同時に、周囲に対して自分を、子どもの味方をしている善良な大人、として印象づけている。目撃者が誰も通報しなかった理由の一端は、ここにあるかもしれない。

第四段階、供給者になる。一ポンド札。子どもが持っているはずのない額の紙幣。ここで彼は、困っている子どもたちの問題を解決する立場に立った。しかも一ポンドという過剰な額を渡すことで、必ず釣り銭を返しに戻ってこさせる構造まで作っている。ミートパイは彼の分だ。三人は、彼の昼食を彼の金で買いに行かされた。共同体験の演出としても機能する。

第五段階、身体的な接近。着替えを手伝う。老女が違和感を覚えた場面だ。ここで初めて身体接触の段階に入っている。だが、すでに周囲は彼を、この子たちの連れの大人、として認識している。

第六段階、移動。十二時十五分ごろ、全員で歩き去る。

この六段階が仮に意図されたものだとすれば、犯人は初対面の衝動犯ではない。長期にわたって特定の子どもを観察し、信頼を作り、金銭的な依存を作り、周囲の目撃者まで管理した人物ということになる。そして遺留品を一つも残さなかった。これは相当な準備と、相当な冷静さだ。

ただし、ここには重大な留保がある。以上はすべて、事後の証言から逆算して作った物語である。同じ材料から、たまたま親切にしていた無関係の男が、後になって名乗り出られなくなっただけ、という物語を組むこともできる。実際、あの男が犯人であるという直接証拠は一つもない。彼が誰なのかすら、六十年たっても判明していない。目撃証言と再構成をもとに描かれたモンタージュが数種類残っているだけだ。

午後二時五十五分問題

三番目に掘りたいのは、午後二時五十五分問題だ。

郵便配達人トム・パターソンが最初に語った、午後二時五十五分、ジェッティ・ロード、三人だけで手をつないで笑いながら家の方向へ歩いていた、という証言。これを採ると、事件の構図が根本から変わる。三人はいったん男から離れて、自力で帰路についていたことになるからだ。それなら、彼らが消えたのは家までのわずか数百メートルの区間になる。ダフニ・グレゴリーが午後二時四十五分ごろに三人と男を一緒に見たという証言とも、時系列上、ぎりぎり両立し得る。男と一緒にいた十分後に、三人だけになっていた、と。

一方、パターソンが二日後に自分で修正したとおり、あれは朝だった、なら、最後の姿は十二時十五分のコリー保護区であり、それ以降の二時間半は完全な空白になる。

この分岐が、六十年間ずっと未決着だ。そして厄介なことに、どちらを採るかで、犯人像も、探すべき場所も変わってしまう。前者なら犯行地点はジェッティ・ロードから家までの間、つまりソマートン・パーク寄り。後者なら犯行地点はグレネルグの海岸周辺で、その後の移動は車ということになる。二〇二五年に北プリンプトンを掘った人々は、後者を前提にした地理プロファイリングに立っている。

四番目。フィップス説の強さと弱さを、感情抜きで採点してみる。

強い点。第一に、地理だ。屋敷がコリー保護区から三百メートル、パン屋も至近、所有工場が三・八キロ。犯罪者の行動圏理論と整合する。第二に、外形だ。長身、痩身、金髪、面長。目撃像と合う。第三に、一ポンド札。彼が習慣的に一ポンド札を配っていたという証言があり、しかも穴を掘った兄弟にも一ポンド札を渡したとされる。第四に、息子の証言。ハイドンは実名で、自分が父から性的虐待を受けていたことまで明かした上で、あの日の裏庭を語った。ポリグラフ検査官は、真実を語っているが、もっと知っている、と評価した。第五に、穴の証言。事件の三日後の週末に、縦二メートル、幅一メートル、深さ二メートルの穴を掘らされたという兄弟がいる。

弱い点。第一に、物証がゼロ。三度の発掘で何も出ていない。第二に、証言の時系列が遅い。ハイドンの証言が世に出たのは二〇〇八年以降、事件から四十年以上たってからだ。四十年たった記憶に、ドキュメンタリー番組や書籍の情報が混入していない保証はない。しかも彼自身が深刻な被害者であり、父親への強い憎悪という動機を持っている。これは証言の真実性を否定するものではないが、慎重さを要求する要素ではある。第三に、小銭入れが消えた。マリンズが見たという決定的な物証は、警察が動いたときには、捨てた、とされて存在しなかった。第四に、これがいちばん重い。南オーストラリア警察が、二〇二五年の時点で公式に、この仮説は証拠と入手可能な情報によって支持されない、と述べている。警察は彼を十数人の関係者の一人として扱ってきただけだ。

総合すると、フィップス説はもっともよくできた仮説ではあるが、証明された答えではまったくない。この距離感を保てるかどうかが、この事件について語る人間の誠実さの試金石になると思う。繰り返すが、ハリー・フィップスはこの事件で立件されていないし、起訴されていないし、有罪判決も受けていない。犯人だと断定できる根拠はない。

誰も止めなかった、という居心地の悪さ

五番目。この事件が現代に投げかけている、少し居心地の悪い問いについて。

一九六六年一月二十六日、コリー保護区には大勢の人がいた。年配の女性がベンチから見ていた。年配の夫婦がすぐそばに座っていた。パン屋の店員は三人の顔を知っていた。バスの運転手も、乗り合わせた女性客も、三人を覚えていた。郵便配達人は名前まで知っていた。

これだけの目が三人を見ていて、誰も止めなかった。

責める気は毛頭ない。当時の常識では、あれは通報すべき光景ではなかった。九歳の子の着替えを男が手伝っていても、父親だと思う。子どもが大人と楽しそうに遊んでいたら、家族だと思う。それが健全な社会の姿でもある。

そして、この事件のあとオーストラリアが選んだのは、疑う社会への転換だった。子どもを一人で歩かせない。知らない大人と話させない。ボーモントの子たちがどうなったか思い出しなさい、という一言が、何十年も夏の海岸で唱えられた。ウィティカーが子ども時代に耳にタコができるほど聞かされたのが、まさにその文句だ。

これは正しい対応だったのか。答えは簡単ではない。二〇一八年に公共放送が載せた寄稿は、微妙な留保をつけている。多くの南オーストラリア人の生活は、実際には変わらなかった。ぼくらは相変わらず短時間なら自分たちだけで海に行った。危険は主に家庭の中に、そして施設の中にあることが、その後わかってきた、と。統計的にいえば、子どもに対する加害の大半は見知らぬ他人ではなく、身近な大人によるものだ。ボーモント事件が生んだ、見知らぬ男に気をつけろ、という国民的教訓は、実際のリスクの分布を正しく反映していなかった可能性が高い。

だが、そうと知った上でも、あの三人の顔写真を見せられて、統計的には過剰反応でしたね、と言える人間はいない。社会が事件から学ぶことは、しばしば統計的に最適ではない。人は事故率ではなく、物語から学ぶからだ。ボーモント事件は、オーストラリアという国が国民規模で共有した、たぶん最強の物語だった。

最後に。

この記事を書くために資料を読み込んでいて、いちばん長く手が止まったのは、ナンシーが語った夢の話だった。裏口をノックする音。ハロー、ママ。どこに行ってたの。三人の体をあちこち触って確かめた。

彼女はこの夢を、失踪から一年たって初めて見たと言っている。それまで一度も夢に出てこなかった、と。

人は本当に失ったものを、すぐには夢に見られないらしい。一年かかった。そして彼女はその夢のあと、五十二年生きて、二〇一九年に死んだ。答えは来なかった。ジムも四年後に死んだ。答えは来なかった。

三人はまだ帰っていない。ジェーンは今年で六十九歳、アーナは六十七歳、グラントは六十五歳になっているはずだ。彼らを最後に見た人々のほとんどが、もういない。

それでも二〇二五年の夏、アデレードの西の空き地で、法考古学者がシャベルと移植ごてで二メートルの穴を手で掘っていた。三千立方メートルの土が動いた時点で、彼はこう言っている。まだ半分だ、と。

まだ半分だ。この言葉は、たぶんこの事件そのものについても正しい。

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