## 一九四三年四月十八日、四人の少年は「見なかったこと」にして森を出た
その日のハグリー・ウッドは、たぶん気持ちのいい日だったと思う。四月半ばのイングランド中部、ウスターシャー。冬の湿り気がやっと抜けて、下生えのブルーベルが色を出しはじめる季節だ。落葉樹の森はまだ葉が完全には茂りきっていなくて、頭上の枝の隙間から光が縞になって落ちてくる。地面はぬかるんでいて、踏むと腐葉土の匂いが立つ。戦時中のイギリスとはいえ、森の中だけは戦争と無関係な顔をしていた。
そこへ、四人の少年が入ってきた。ロバート・ハート、トマス・ウィレッツ、フレッド・ペイン、そしてボブ・ファーマー。近隣のライという町の子どもたちで、いちばん名前が残っているファーマーは当時十五歳前後だったとされる。彼らがそこにいた理由は、はっきり言ってあまり褒められたものじゃない。この森はコバム卿の私有地で、少年たちは無断で入り込んでいた。目当ては鳥の巣と卵、それにウサギ。配給制で肉が乏しかった時代、労働者階級の子どもが家の食卓にウサギ一羽を持ち帰るというのは、それなりに真面目な仕事でもあった。悪ガキの遊びと家計の足しが、あの時代はまだ地続きだった。
森の奥に、一本の変な木があった。ウィッチ・エルム――日本語だと「ハルニレ」とか「山ニレ」と訳される種類の木で、幹が根元からいくつかに分かれて立ち上がる。この個体はさらに癖が強くて、幹の内側が朽ちて空洞になっていた。地面から少し上がったところに、人ひとりぶんの闇が口を開けている。子どもにとっては絶好の「登って覗きたい木」だ。ボブ・ファーマーは登った。鳥の巣があるかもしれないと思って、空洞の中を覗き込んだ。
そこに、白いものがあった。
最初、彼はそれを動物の骨だと思ったらしい。この森にはキツネもアナグマもいる。少年は棒を突っ込んで、それを引っ掛けて外に出した。後年、彼が語ったとされる描写はかなり具体的で、額のあたりに腐りかけた組織が少し残っていて、そこに湿った髪の毛がへばりついていた、前歯が二本、妙な向きにねじれて生えていた、というものだ。動物の頭ではない。人間の頭だ。
ここからの四人の行動が、私はいちばん人間くさくて好きだ。彼らは通報しなかった。頭蓋骨を空洞に戻して、口裏を合わせて、何も見なかったことにして森を出た。理由は単純で、そもそも不法侵入していたからだ。警察に話せば、なぜそこにいたのかを説明しなければならない。十代の子どもの計算としては、まあ、わかる。
ただ、いちばん年下だったトマス・ウィレッツが耐えられなかった。何日か経って、彼は父親に打ち明けた。父親はすぐ警察に連絡した。そしてウィレッツ少年は、大人たちを連れてもう一度あの木のところまで戻ることになる。自分がいちばん行きたくない場所に、自分が案内人として立つ。この構図が、この事件のいちばん最初の後味の悪さだ。
## 木の中から出てきたのは、頭だけではなかった
警察が現場を封鎖して掘り出したものは、少年たちが想像していたよりずっと多かった。空洞の中には、ほぼ一体ぶんの人骨が詰まっていた。頭蓋骨だけではなく、胴も、四肢も。ただし片方の手が欠けていた。その手の骨は、木から十メートル前後離れた地面の上に散らばった状態で見つかっている。
一緒に出てきた持ち物は、あまりにも情報量が少なかった。安物の金メッキの結婚指輪。当時の値打ちで二シリング六ペンス程度と見積もられている、つまり高価なものではない。青系のクレープソールの靴が片方、サイズは五半。濃紺と辛子色の縞のカーディガン、辛子色のスカート。布地の切れ端。そして見逃せないのは、どの衣類にも製造元やクリーニング店のラベルが一切なかったことだ。下着にすらなかった。誰かが慎重に外したのか、それとも彼女がそういう出自の衣服しか持っていなかったのか。ここが最初の分かれ道になる。
現場に呼ばれたのは、バーミンガム大学に籍を置く内務省の法病理学者、ジェームズ・M・ウェブスター教授。当時のミッドランズでは名前の通った人物だ。彼が出した所見は、いま読んでも不気味なほど具体的で、そして肝心なところで完全に沈黙している。
## 教授が読み取れたことと、どうしても読み取れなかったこと
まず読み取れたこと。被害者は女性。年齢はおよそ三十五歳、幅を持たせても二十五歳から四十歳。身長はおよそ五フィート、つまり百五十二センチ前後。髪は明るい茶色、いわゆるマウジー・ブラウンと呼ばれる、地味な栗色。歯並びに強い特徴があって、前歯のうち二本がねじれて生えていた。さらに、比較的最近に歯科治療を受けた形跡があった。出産経験がある。
死亡時期は、発見時からさかのぼって少なくとも十八か月前。つまり一九四一年十月ごろか、それより前。この「一九四一年秋」という一点が、後年のあらゆる説の土台になる。
死因については、教授は口の中に押し込まれていた布に注目した。タフタ、つまり光沢のある薄手の絹織物の切れ端が、口腔内の奥まで詰められていた。骨には殴打や刺創の痕がない。首の骨も折れていない。そこから導き出されたのが、窒息死という結論だった。
そして、この事件を「事故」でも「自殺」でもない側に決定的に押しやったのが、次の観察だ。ウェブスターは、遺体が木の空洞に入れられたとき、まだ温かかったはずだと述べている。死後硬直が始まってしまえば、体はあの狭い空洞の形に折り曲がらない。物理的に入らないのだ。つまり誰かが、死んだ直後の彼女を、急いであの木に押し込んだ。教授の言葉として広く伝わっているのは、女性が偶然あそこに滑り落ちるとは想像できないし、自殺しようとしてあの場所に這い込むというのも合理的だとは思えない、という趣旨の発言だ。冷静な言い回しだが、これは事実上「殺人だ」と言っている。
では読み取れなかったことは何か。ほぼ全部だ。彼女が誰なのか。どこから来たのか。なぜあの森なのか。手が離れていたのは切断されたのか、それとも動物が持ち去ったのか。警察は動物説を採った。キツネやアナグマが柔らかい部分から先に引きずり出した、という説明は法医学的に無理がない。だがこの「片手」が、のちに事件をまったく別の方角へ引きずっていくことになる。
## 三千件の名簿をめくっても、彼女はそこにいなかった
ここからの捜査は、当時の水準で言えばかなり真面目にやっている。警察は半径千平方マイル規模で失踪者の照会をかけ、三千件前後の行方不明者記録を洗った。歯並びに強い個性があるのだから、歯科医の記録を当たれば見つかるはずだ、という発想は正しい。ミッドランズ一帯の歯科医院から始めて、最終的にはイングランド全域に照会範囲を広げている。靴のメーカーにも問い合わせた。
結果はゼロだった。一件も引っかからなかった。
これはよく考えると相当おかしい。特徴的な歯並び、最近の歯科治療歴、出産経験、結婚指輪。この人物像は「社会とのつながりを持っていた女性」を示している。歯医者に行ける程度の生活はしていたし、子どもを産み、指輪をはめていた。それなのに、誰も探していない。誰も届け出ていない。
もちろん戦時下という事情はある。空襲で家ごと消えた人、疎開で住所を転々とした人、徴用で移動した人。人の所在が煙のように曖昧になる時代だった。バーミンガムは軍需産業の中心地で、それゆえドイツ空軍の重点爆撃目標でもあった。行方不明者リストそのものが穴だらけだったのは間違いない。それでも、誰ひとり彼女を探さなかったという事実は、この事件の芯にある冷たさとしてずっと残る。
## そしてクリスマスの街に、最初の落書きが現れた
事件が迷宮に入りかけた一九四三年の年末から翌年にかけて、話が急に別のジャンルに変わる。
ウェスト・ミッドランズの街の壁に、チョークや白ペンキで書かれた同じ趣旨の文言が現れはじめた。最初期のものとして記録されているのは、オールド・ヒルのヘイデン・ヒル・ロードに現れた一文で、Who put Luebella down the wych elm? と書かれていた。ルーベラ。次に、バーミンガム市内のアッパー・ディーン・ストリートで、Who put Bella down the wych elm, Hagley Wood? という文言が確認される。ディグベス地区の倉庫の壁にも現れた。表記は少しずつ揺れながら、やがて Who put Bella in the wych elm? という形に落ち着いていく。
警察はこれを軽く見なかった。当然だ。犯人しか知り得ない情報が混じっているかもしれない。しかも被害者は身元不明なのに、書き手は「ベラ」という名前を知っているように見える。捜査陣は住民から筆跡見本を集めて回った。結果、書き手は特定できなかった。後年の警察側の総括としては、事件とは無関係の愉快犯だった、何も知らない人間の仕業だった、という見方が示されている。
ただ、この「無関係な愉快犯」説にも穴がある。なぜ「ベラ」なのか。行方不明者の照会でベラという名前の該当者は出ていない。当時流行していた歌の歌詞から取った、たとえば「ベラ・ベラ・バンビーナ」のような曲名の連想だ、という推測もある。パブで飲んだ帰りの誰かが、店にあったチョークを持ち出して書いた、書かれた場所の分布はパブの導線と重なる、という地道な分析をした研究者もいる。それはそれで説得力がある。だが、説得力があることと、証明されたことは違う。
そして見落とせないのは、この落書きが一度きりで終わらなかったことだ。
## 八十年、同じ問いだけが街に貼り直されつづけている
一九七〇年代、文言はハグリー・ウッドを見下ろすウィッチベリー・ヒルの丘の上、ハグリー・ホール邸の敷地に立つ二百年前のオベリスクに現れた。この石柱はもともと事件と何の関係もない、十八世紀の景観装飾だ。すぐそばには鉄器時代の丘上集落の跡もある。そこに白ペンキで、あの問いが書かれた。
以後、消されては書き直されるということを何十年も繰り返している。一九九九年時点でも文言は残っていて、このころには wych が witch に書き換えられたバージョンが現れた。ハルニレの「ウィッチ・エルム」が、魔女の「ウィッチ・エルム」になった。一文字の違いだが、意味はまるごと変わる。これがのちの黒魔術説をさらに増幅させた。二〇二〇年には、冒頭の Who の部分が赤で hers と上書きされる出来事もあった。地元紙の見立てでは、これはバーミンガムのグラフィティ・アーティストのタグ名らしい、ということになっている。つまり事件とは無関係の、上書き合戦の一手だった可能性が高い。
それでも、八十年にわたって誰かがあの問いを書き直しつづけているという事実は動かない。書いている人間は世代を超えて入れ替わっているはずだ。最初の書き手はもうこの世にいない。それでも問いだけが生き延びて、丘の上の石に貼り直されつづけている。この事件がただの未解決事件で終わらなかったのは、九割方この落書きのせいだと思う。名前のない頭蓋骨に、名前と、問いの形を与えてしまったのだ。
## 説その一――彼女はナチスのスパイだった、という筋書き
戦時中の未解決事件がスパイ説と結びつくのは、ほとんど宿命みたいなものだ。しかもこのケースは、条件がそろいすぎていた。死亡推定は一九四一年秋。場所は軍需都市バーミンガムの西二十キロ弱。近隣にはオースティンの工場をはじめ、爆撃目標になりうる施設がいくつもあった。衣類にラベルがなく、身元照会が全国規模で空振りした。外国人なら記録がなくて当然だ。
この方向でいちばん有名になったのが、クララ・バウアレという名前だ。ドイツのキャバレー歌手であり映画女優でもあった女性で、戦前にバーミンガムで働いていた時期があり、地元のアクセントを身につけていたと言われる。彼女の名前が事件に接続されたのは、ヨーゼフ・ヤコブスというドイツのスパイを経由してのことだった。
ヤコブスは一九四一年一月にハンティンドンシャーにパラシュート降下し、着地に失敗して足首を折り、その場で捕まった。所持品には多額の英ポンド紙幣、偽造書類、無線送信機。彼は同年八月十五日の朝七時十二分、ロンドン塔で銃殺された。ロンドン塔で処刑された最後の人物として知られている。そのヤコブスが、クララ・バウアレの写真を持っていた。取り調べで、彼女も工作員として訓練を受けており、自分に続いてイギリスに入る予定だった、という趣旨のことを語ったとされる。しかも目的地としてバーミンガムの名が出てくる。
ここまで並べると、確かに気持ちよくつながって見える。降下したはずの女スパイ。同じ年に死んだ身元不明の女性。ラベルのない服。ミッドランズ。
だが、この説はもう崩れている。
## クララ・バウアレを八十年ぶりに「埋葬」した一人の研究者
崩したのは、ジゼル・ジェイコブスという研究者だ。彼女はヨーゼフ・ヤコブスの孫にあたり、祖父に関する記録を長年掘り続けてきた人物で、その過程でクララ・バウアレの実在の足跡を追った。
まず身長の問題がある。ヤコブス自身の供述や、同じくスパイとして捕まったカレル・リヒターの供述から復元されるクララの体格は、かなり長身だった。六フィート、あるいは五フィート十インチといった数字が挙がる。ハグリー・ウッドの女性は五フィートちょうどだ。二十センチ以上の差は、誤差では埋まらない。
次に、活動記録。クララは一九四一年から四二年にかけても録音の仕事をしていた形跡がある。イングランドの木の中で死んでいる人間には難しい。
そして決定的な一撃が、死亡登録だった。ジェイコブスはまずウルムで彼女の出生登録を見つけた。本名はヘートヴィヒ・クララ・バウアレ、一九〇五年八月二十七日生まれ。その出生記録に付された参照番号をたどってベルリンの戸籍役場に照会したところ、死亡証明書が返ってきた。一九四二年十二月十六日、ベルリンのケーニギン・エリーザベト病院で死亡。享年三十七。死因の欄には肺の感染症とベロナール中毒が並んでいた。ベロナールは当時よく使われていた睡眠薬系のバルビツール酸だ。事故か自殺かは、いまとなってはわからない。
要するにクララ・バウアレは、イングランドのニレの木の中ではなく、ベルリンの病院のベッドで死んでいた。しかもそれは、ハグリー・ウッドの遺体が発見される四か月前のことだ。仮に彼女がベラだったなら、死体が発見されたあとに病院で死んだことになる。無理だ。
この一件は、私にとってこの事件でいちばん爽快なパートでもある。八十年間、無数の本と番組が「謎の消えた女スパイ」として扱ってきた人物に、一人の研究者が地道な戸籍照会だけで名前と死に場所を返した。オカルトを解体するのは、たいてい霊感ではなく役所の書類なのだ。
なお、これに近い派生説として、ドナルド・マコーミックという著述家が一九六〇年代に持ち出した「クラーラベラ・ドロンカース」という名前もある。ミッドランズで活動していたレーラーというコードネームの工作員に、三十歳前後で歯並びの悪いオランダ人の恋人がいた、という筋立てだ。実在のオランダ人スパイ、ヨハネス・マリヌス・ドロンカースが一九四二年末にワンズワース刑務所で処刑されているため、そこと結び付けられた。ただしマコーミックは他の著作でも出典不明の情報を混ぜることで知られており、この説を裏づける一次記録は出てきていない。名前が「クラーラベラ」、つまり Bella を含んでいるという点があまりにも都合よすぎるのも、正直きな臭い。
## 説その二――「アンナ・オブ・クラヴァリー」と名乗る女性からの手紙
一九五三年、地元紙ウルヴァーハンプトン・エクスプレス・アンド・スターに、クエスターの筆名でコラムを書いていた記者ウィルフレッド・バイフォード=ジョーンズが、この事件を蒸し返す連載を始めた。すると読者から手紙が届いた。差出人は「アンナ・オブ・クラヴァリー」。のちにウナ・モソップという女性だと判明する。
彼女の主張はこうだ。自分の元夫ジャック・モソップは軍需工場で働いていて、あるときファン・ラールト、あるいはヴァン・ラルトと名乗るオランダ人の男と知り合った。男は金を払うから工業地帯の情報を寄こせと持ちかけてきた。ジャックは引き込まれた。一九四一年のある夜、ハグリー・ウッド近くで落ち合ったとき、車の中でその男と一人の女が激しく言い争っていた。もみ合いになり、男は女の首を絞めた。そして怯えるジャックを脅して、二人で遺体を森の中のニレの木の空洞に押し込んだ。単に「脅かすつもりだった」とジャックは言った、とも伝わる。
その後ジャックは精神を病んだ。木の空洞からこちらを見ている女の顔が出てくる悪夢に、繰り返しうなされたという。彼は精神科病院に収容され、そこで亡くなっている。死亡日は一九四二年八月十五日とされ、死亡診断書には脳軟化、心筋変性、慢性腎炎、急性錯乱状態といった語が並んでいた。つまり彼は、遺体が発見される八か月前に死んでいる。
この説の魅力は、時系列が妙にきれいに合うことだ。一九四一年の犯行、ウェブスターの推定死亡時期、木に押し込むという特異な行為、地元の地理に通じた人間でなければ選ばない場所。そして「なぜ落書きの主はベラという名を知っていたのか」という問いにも、関係者が身近にいたなら説明がつく余地がある。
反証も同じくらい強い。まず、これは伝聞の伝聞だ。ウナが語ったのは、亡き元夫から聞いた話であり、しかもジャックの死から十年以上たってからの証言だ。警察はいくつかの周辺事実を確認できたものの、ファン・ラールトという人物そのものを最後まで特定できなかった。オランダ側にも英国側にも該当者が出てこない。加えて、当時のミッドランズにはこの手の「戦時中の秘密を握っていた」系の告白が大量に出回っていて、その多くは検証に耐えなかった。ウナ本人に悪意があったと決めつける根拠はないが、この話が事実だと証明されたことは一度もない。あくまで「そういう説がある」という枠に置いておくのが正しい。
## 説その三――片手が消えていた、それが「栄光の手」だと言い出した学者
そして、この事件をオカルト史に永久登録した人物が登場する。マーガレット・マレー。ロンドン大学の高名なエジプト学者であり、同時に「ヨーロッパには古代の魔女宗が近代まで存続していた」という壮大な仮説で知られる人物だ。
彼女が注目したのは二点。ひとつは、遺体が木の中に納められていたこと。もうひとつは、片手が本体から離れて見つかったこと。マレーはここに「栄光の手」の儀式を見た。処刑された者の手を切り取り、乾かして固め、蝋燭に仕立てるという中世以来の呪術伝承だ。手を持つ者は財宝の在処を知り、あるいは家人を眠らせたまま盗みを働けるとされた。もちろんこれは伝承であって、実際にそう機能した記録などない。ここでは伝承として記録しておく以上のことはしない。
マレーはさらに射程を広げた。一九四五年二月十四日、ハグリー・ウッドから三十数キロ離れたローワー・クイントンで、七十四歳の農業労働者チャールズ・ウォルトンが惨殺される事件が起きる。喉を切られ、農具で地面に留められた状態で見つかったこの事件は、地元で「魔女狩り」の文脈で語られた。マレーは一九五〇年にバーミンガム・ポスト紙に対し、ここで死んだ女性もまた悪魔崇拝者の犠牲者だと考える、といった趣旨を述べ、ウォルトンについても供犠された者の一人だと見ている、彼が死んだ二月は年に四回ある供犠の月のひとつだ、といった説明をしている。
この説の何がまずいのか。順番に並べると身も蓋もない。まず、離れた片手は動物が持ち去った可能性で十分に説明がつく。木の空洞という遺棄場所は、儀式性より隠蔽の合理性で説明できる。当時のミッドランズに組織的な悪魔崇拝集団が存在したという同時代の記録はない。そしてマレー自身の魔女宗仮説は、その後の歴史学によってほぼ全面的に否定されている。魔女術の歴史を専門とする研究者たちは、この事件に呪術的要素を裏づける証拠はないという立場でおおむね一致している。
それでも、この説だけは死なない。理由は簡単で、いちばん絵になるからだ。しかも一九九九年に落書きの wych が witch に書き換えられて以降、「魔女のニレの木」という語呂そのものが説の生きた宣伝になってしまった。事実が説を支えているのではなく、言葉遊びが説を延命させている。ここが、この事件を語るうえでいちばん注意が必要な部分だと思う。
## 説その四――いちばん危うい仮説を、どう扱うべきか
一九四九年ごろ、警察は、ハグリー・ウッド周辺に旅する人々、いわゆるジプシーと呼ばれた人々が過去十年ほど出入りしていたという情報を得ている。近隣住民から、推定死亡時期のころに森の方角で女性の悲鳴を聞いたという話も出た。ここから、被害者は移動生活を送る共同体の一員だったのではないか、という説が立つ。医療記録や歯科記録が残りにくく、行政の名簿に載りにくい人々であれば、全国照会が空振りに終わった説明がつく、という理屈だ。
この説の「行政記録に載らない人がいた」という部分は、社会史的にはまったく妥当な指摘だ。当時のイギリスで移動生活者が公的記録から抜け落ちやすかったのは事実で、身元不明のまま埋葬された人は他にもいる。だから、被害者が定住していない生活をしていた可能性は、真面目な仮説として残る。
ただし、そこから先に一歩でも踏み出すと、この説は一気に有害になる。マレーの黒魔術説とこの説が接続され、特定の集団が儀式殺人を行ったという筋書きが一時期まことしやかに語られた歴史がある。これは古典的な偏見そのものだ。根拠は、彼らがその森を利用していたという状況証拠だけ。犯行との結びつきを示す証拠は一切ない。悲鳴を聞いたという住民証言も、日時が特定できていない伝聞である以上、誰かを名指しする材料にはならない。
だからこの説については、こう書くのが誠実だと思う。被害者が公的記録に残りにくい暮らしをしていた人だった可能性は高い。しかし、加害者が特定の民族集団だったという主張には、いまも昔も、証拠が存在しない。前者は事件を理解する助けになるが、後者はただの差別だ。この二つを混ぜて語ってきたことこそが、この事件の語られ方の最大の汚点だと思っている。
## 説その五――いちばん地味で、たぶんいちばん正しい話
派手な説を全部はがしていくと、残るのはとても素朴な絵になる。
被害者は地元、あるいはその周辺で暮らしていた女性で、何らかの理由で社会的なつながりが細くなっていた。宿を転々としていたのかもしれないし、家族と縁が切れていたのかもしれない。一九四一年の秋、彼女は誰か、おそらく面識のある男と揉めた。口に布を押し込まれて窒息した。相手は死体をどうにかしなければならなくなり、その場所をよく知っている人間だけが思いつく隠し場所――地元の子どもなら誰でも知っている、あの空洞のある木――に押し込んだ。そして戦時下の混乱の中で、誰も彼女を探さなかった。
この筋を強く推した研究として、キース・スワローが二〇二三年にまとめた検証がある。彼はスパイ説と黒魔術説の両方を細かく解体したうえで、これは国際謀略でも呪術でもなく、ごくありふれた対人トラブルの果ての殺人だっただろうと結論づけている。書かれてきたものの多くは推測の上に推測を積んだものだ、という趣旨の指摘は、この事件の研究史そのものへの批評でもある。同じ二〇二三年には、M・J・トロウによる本格的な単著も出ていて、こちらも扇情的な説には距離を置いている。
私自身、取材資料を並べていちばん引っかかるのは、遺棄場所の選び方だ。ハグリー・ウッドは私有地で、道からも見えにくい。しかもあの木は、外から見て空洞があるとわかるタイプではない。登って覗き込んで初めて中がわかる木だ。つまり犯人は、その木に空洞があることを事前に知っていた。パラシュートで降りてきた外国人工作員が、初見の私有林でそんな木をピンポイントに選べるとは考えにくい。この一点だけで、私はスパイ説の分がかなり悪いと思っている。
## 骨が消えた
そして、この事件を永久に解けなくした出来事がある。遺骨がなくなったのだ。
検死のあと、遺骨はバーミンガム大学の関係施設で保管され、その後バーミンガム市警の内部展示、いわゆる「ブラック・ミュージアム」に移されたとされる。訓練施設タリー・ホーに置かれていて、一九六〇年代後半から七〇年代初頭までは確認できた、という証言がある。そこから先が、ぷっつり途切れている。
二〇二三年、BBCがこの事件を扱ったポッドキャストの企画として、全国の博物館に呼びかけを行った。もしそちらの収蔵庫に来歴不明の女性の遺骨があれば教えてほしい、と。DNA鑑定の技術は当時とは比べものにならない。骨さえあれば、同位体分析で彼女が育った地域の水質の傾向まで読める可能性がある。イギリス育ちなのか大陸から来たのかという、この事件の根本的な分岐に答えが出るかもしれない。だが、警察側の回答は素っ気なかった。捜索は行ったが、この件に関連しうる展示品も文書も、どちらの警察博物館にも保管されていない、という趣旨のものだった。
骨が消えた理由については、当然のように陰謀論が湧いた。国家機密に触れる案件だったから処分された、というやつだ。ただ、現実的にはもっと寒々しい説明がつきやすい。当時の警察や大学の遺物管理は、いまの基準からすればあってないようなものだった。施設の移転、改組、担当者の退職。そういう事務的な過程で、身元不明の女性の骨は誰の管轄でもなくなり、記録から落ちた。悪意ではなく無関心で消えたのだとしたら、それは陰謀よりよほど後味が悪い。
そのせいで、二〇一八年に行われた顔の復元も、頭蓋骨そのものではなく、残された当時の写真や記録に基づいて行うしかなかった。リチャード三世の顔を復元したことで知られるキャロライン・ウィルキンソン教授と、リヴァプール・ジョン・ムーアズ大学のフェイス・ラボが手がけたその画像は、丸みのある顔立ちの、どこにでもいそうな中年女性を映し出している。特徴的な前歯だけが、少しだけこちらに何かを訴えてくる。あれは彼女の顔ではなく、彼女の顔の「たぶんこうだった」でしかない。それでも、八十年ぶりに彼女に顔らしきものが返された瞬間ではあった。
## 森を出た少年、書類を掘った孫、石柱を見上げる住民
この事件をずっと追っていて思うのは、主役は結局、証言を残した人たちのほうだということだ。いくつか紹介したい。
まず、頭蓋骨を最初に見たボブ・ファーマー少年。彼の描写は、後年の再話の中で繰り返し引用されてきた。額に腐りかけた組織の小さな塊が残っていて、そこに湿った髪がへばりついていた。前歯が二本、ねじれていた。この二つの細部が、後の捜査で最重要になる歯の特徴と一致しているのが不思議なところだ。十五歳の少年が、恐怖の只中で、法医学的にいちばん意味のある特徴を正確に見ていた。彼はその頭蓋骨を棒で引っ張り出し、しばらく眺め、それから元に戻した。仲間と口裏を合わせて森を出た。この「戻した」という行為が、私はずっと気になっている。捨てるでも持ち帰るでもなく、彼はそれをあった場所に戻した。十五歳なりの、なにか敬意に近いものだったんじゃないかと思いたくなる。
次に、最年少で耐えきれなくなったトマス・ウィレッツ。彼が父親に話さなければ、この事件は存在しなかった。骨は木の中で朽ちて、誰も知らないまま終わっていた。そして彼は、警察を現場まで案内する役目を負う。数日前に自分たちが必死で逃げ出した場所へ、大人の集団を連れて戻っていく十代の子ども。その道中の気分を想像すると、少しきつい。彼はその後の人生で、この件について多くを語っていない。語らなかったこともまた、ひとつの証言だと思う。
三人目は、ジェームズ・ウェブスター教授。彼の所見の中でいちばん人間味が出ているのが、あの「偶然滑り落ちたとは想像できないし、自殺のためにあそこへ這い込むのが合理的だとも思えない」という一節だ。法病理学者の報告書というのは普通、断定を避けて可能性を並べる書き方をする。そこで彼は珍しく、想像できない、という主観の言葉を使った。骨と布切れしか残っていない状態で、彼はこれが殺人であることを疑わなかった。八十年後にこの事件を追う人間が全員その前提から出発しているのは、あの一文があるからだ。
四人目は、ジゼル・ジェイコブス。祖父が処刑されたスパイであるという重い出自を抱えながら、彼女は感情ではなく書類でこの件に向き合った。ウルムの出生登録を取り、そこに書かれた参照番号を頼りにベルリンの役所へ手紙を書き、返信を待ち、届いた死亡証明書を読む。それだけの作業で、半世紀以上続いた「消えた女スパイ」伝説が終わった。彼女は自分のブログで、この件を扱う書き手たちが出典を書かないことへの苛立ちを繰り返し書いている。ウスターの警察資料にアクセスできた著者でさえ、本文に一つも典拠を示さない。読者は何が事実で何が創作なのか区別できない。この批判は、この事件に関する日本語圏の情報にもそのまま刺さる。
五人目は、ウスターシャー・アーカイブのカタログ担当アーキビスト、マギー・トヒル。二〇〇五年、ウェスト・マーシア警察が事件を再検討して正式に「これ以上進展の見込みなし」と判断したあと、生き残った捜査文書は県の公文書館に移された。二〇一四年の再点検を経て、段ボール六箱ぶんの資料が一般に閲覧可能になっている。トヒルはこの事件について、被害者が誰で加害者が誰なのかという根本の問いが答えられないまま七十年が過ぎた以上、この件はこれからも人々を惹きつけ、当惑させ、魅了しつづけるだろう、という趣旨の言葉を残している。事件を神秘化しない立場の人間が、それでも「魅了しつづける」と書かざるを得なかったところに、この件の厄介さがよく出ている。
最後に、地元の書き手たち。二〇二四年に地元紙エクスプレス・アンド・スター上でこの事件を再検証したサラ・ヘイウッドは、小学校で働きながら英国新聞アーカイブを掘り、当時の紙面から事実関係を組み直した人物だ。彼女が書いた一文に、頭蓋骨を見つけたあと少年たちの間にパニックの波が広がった、どうやってこれを誰かに話せばいいのか、というくだりがある。八十年前の四人の少年の心理を、当時の紙面から復元しようとする姿勢が好ましい。地元の人間にとってこれは「有名な怪談」ではなく、隣の森で起きた出来事なのだ。
## ネットの考察勢は、この事件で何を掘り、何を掘り当てなかったのか
インターネット時代に入って、この事件は英語圏の未解決事件コミュニティで定番中の定番になった。考察の質はピンからキリまであるが、集合知として意味のある成果もいくつか出ている。
いちばん大きいのは、やはりクララ・バウアレ説の完全な解体だ。これは一人の研究者の功績だが、その結論がネットを通じて拡散したことで、英語圏では「スパイ説はもう終わった話」という共通認識がかなり定着した。掲示板でこの説を持ち出すと、ほぼ確実に死亡証明書の日付を突きつけられる。オカルト系の話題としては珍しく、コミュニティが自浄的に働いた例だと思う。
二番目に議論が集中しているのが、落書きの書き手の正体だ。ここでの主流は「事件関係者説」ではなく「愉快犯説」で、根拠として挙げられるのが表記の揺れだ。最初期の Luebella という綴りは、内部情報を持つ人間が書いたにしては不安定すぎる。犯人か関係者なら、名前くらい一貫して書けるはずだ、という指摘はもっともだ。逆に反論としては、わざと揺らして自分に捜査が向かないようにした、という見方もある。ただこれは反証不能な議論で、どちらにも決め手はない。
三番目は、「片手」をめぐる論争。動物による散逸説が圧倒的多数派で、法医学的な裏づけも十分にある。しかしオカルト側の論者は、手だけがきれいに離れて十メートル先にまとまって落ちていた点にこだわる。実際には「まとまって」いたのか「散らばって」いたのかで資料の記述に揺れがあり、この一次情報の曖昧さが議論を終わらせない原因になっている。原資料が公文書館にある以上、いつか誰かが決着をつけられるはずだ、というのが考察勢の共通の願いでもある。
四番目に、近年よく出るのが「そもそもベラという名前に引きずられすぎではないか」という自省的な指摘だ。名前は落書きから来ている。落書きは事件と無関係かもしれない。にもかかわらず、我々は彼女を八十年間ベラと呼び続け、その名前を前提に「ベラという名の失踪女性」を探してきた。もし落書きがまったくのデタラメだったなら、その名前は捜査を八十年間ミスリードしてきたことになる。実際、初期の捜査で「ハグリー・ロードで働いていたベラという女性が三年ほど前に姿を消した」という同業者からの情報が寄せられたことがあり、これも結局は追跡しきれずに終わっている。名前が先にあって実体が後から探される、という倒錯した構図が、この事件の本体なのかもしれない。
五番目は、文化的な広がりへの反応だ。二〇〇三年にサイモン・ホルトが作曲し、キャリル・チャーチルが台本を書いた室内オペラがある。二〇一八年にはタナ・フレンチの小説が題名にこのモチーフを使った。舞台作品、ミュージカル、ドキュメンタリー、BBCの番組、そして二〇二三年のポッドキャスト。地元の詩人や小説家も繰り返しこの題材に戻ってくる。ネット上ではこれを「消費されすぎ」と批判する声と、「作品化されるから記憶が生き延びている」と擁護する声がずっと拮抗している。どちらも正しいので、決着しない。
## ハグリー・ウッドはいまもそこにあり、木だけがない
現在のハグリー・ウッドは、いまも私有地だ。クレント・ヒルズの一角、ウィッチベリー・ヒルの斜面に広がる普通のイングランドの雑木林で、看板も慰霊碑もない。事件現場を示すものは何もない。
そして、あの木はもうない。根こそぎ引き抜かれて処分された。いつ、誰の判断でそうなったのかは資料によって記述が揺れるが、少なくとも現在、あの空洞を覗き込むことは誰にもできない。物証としての遺骨が消え、現場としての木も消えた。この事件に物理的に残っているものは、ほとんど何もない。
残っているのは丘の上のオベリスクと、そこに何度も書き直される問いだけだ。ハグリー・ホールの庭園装飾として二百年前に建てられた石柱が、事件とはまったく無関係のまま、いつのまにか事実上の墓標になっている。誰も彼女を埋葬できなかったので、代わりに石柱が墓石の役をやっている。落書きは器物損壊であって、褒められた行為ではない。だが八十年間、消しても消しても誰かが同じ問いを書きに来るという現象そのものが、この土地の集合的な記憶のかたちなのだと思う。
近隣は開発が進んで、当時の農村風景はだいぶ変わった。それでも、丘に登ってオベリスクの脇から北東を眺めると、バーミンガムの市街が霞んで見える。一九四一年の秋、その方角の空はしばしば赤く光っていたはずだ。彼女はその光を見ていたのか、それとももう見なくなっていたのか。わからないことだらけだが、地形だけは当時のままだ。
## なぜこの一件だけが、八十年たっても終わらないのか
未解決の殺人はイギリスにも山ほどある。それなのに、この事件だけが世代を超えて語り継がれている理由を、最後に整理しておきたい。
第一に、「木の中の女」という映像の強さだ。人間は物語を映像で記憶する。空洞のある木、その中に折り畳まれた人。この一枚の絵は、細部を知らなくても一度聞いたら忘れられない。しかも木というモチーフは、ヨーロッパの伝承の中で境界や異界と結びつきやすい。事実としては単なる隠し場所でしかないのに、象徴としては強すぎる場所を犯人は選んでしまった。
第二に、問いの形をした落書きの存在だ。もし壁に書かれていたのが「ベラを殺したのは俺だ」という宣言だったら、この事件はここまで生き延びなかったと思う。書かれたのは問いだった。問いは、読んだ人間の頭の中で自動的に「じゃあ誰が」という続きを要求する。しかも二人称で誰かに投げかけられている。八十年間、この文は通りすがりの人間を勝手に共犯者にしてきた。読んだ人が考えはじめてしまうという意味で、あれは自己増殖する文章だ。
第三に、名前だ。身元不明の被害者に、出所不明の名前が与えられた。ベラという名前がなければ、彼女は「ハグリー・ウッドの身元不明女性」でしかなく、統計上の一行になっていただろう。名前は人を人にする。皮肉なのは、その名前がおそらく事件と無関係な誰かの思いつきだったかもしれないことだ。デタラメかもしれない名前が、八十年間、一人の女性の記憶を支えている。
第四に、答えが物理的に消えたことだ。遺骨がなくなり、木がなくなった。もし骨が残っていれば、二〇〇〇年代のどこかでDNAが取られ、同位体が測られ、たぶんこの話はもっと地味な形で終わっていた。証拠が消えたことで、この事件は永久に「可能性の集合」のままになった。解けない問題は、解けるまで人を捕まえる。解けないと確定した問題は、永久に人を捕まえる。
第五に、時代背景だ。灯火管制の闇、爆撃、疎開、スパイの実在。一九四一年のイギリスは、どんな突飛な話でも「まああり得たかもしれない」と思わせるだけの現実の異常さを持っていた。ナチスの女スパイが森で殺されるという筋書きが、まったくの荒唐無稽に聞こえない。この「ぎりぎりあり得る」という感触が、説を延命させる燃料になっている。
そして第六に、これはもっと単純なことだが、彼女を誰も探さなかったからだ。ここが本当にきつい。歯医者に通い、子を産み、指輪をはめていた三十五歳の女性が、一九四一年の秋に消えて、誰も届け出なかった。八十年後の我々が彼女の名前を知りたがっているのは、事件を解きたいからというより、そのとき誰も彼女を探さなかったという事実を、いまさら埋め合わせようとしているからじゃないかと思う。落書きを書き直しに行く人も、たぶん同じだ。
## 身元、物証、捜査。この順番で八十年かけて解体された
ここまで書いてきて、この事件の構造をもう一段引いて見ると、これは「未解決事件」であると同時に、「記録が人をどう扱ったかの記録」でもあると思えてくる。
まず整理しておきたいのは、この事件で失われたものの順番だ。最初に失われたのは彼女の身元で、これは一九四一年の時点、つまり殺される前からすでに危うかった可能性が高い。全国三千件の照会に一件も引っかからなかったというのは、彼女がその時点で誰の名簿にも載っていなかったことを意味する。次に失われたのが証拠だ。遺骨は一九六〇年代末から七〇年代初頭にかけて所在不明になり、あの木も引き抜かれた。そして最後に失われたのが捜査そのもので、二〇〇五年にウェスト・マーシア警察が事件の見直しを行って書類を公文書館に移し、二〇一四年の再点検で正式に幕が引かれた。身元、物証、捜査という順に、この事件は八十年かけてゆっくり解体されていった。残ったのは公文書館の段ボール六箱と、丘の上の落書きだけだ。
そのうえで、いくつかの説の重みづけを自分なりに更新しておきたい。スパイ説については、クララ・バウアレの死亡証明書が出た二〇一六年をもって、少なくとも「クララ=ベラ」という形では完全に終わっている。クラーラベラ・ドロンカース説も、名前の一致以外に根拠がなく、提唱者の信頼性に問題があることを考えると、まともな仮説として扱うのは難しい。ただし「スパイ説そのもの」がゼロになったわけではない点は公平に書いておきたい。一九四一年のミッドランズにドイツの工作活動が存在したこと自体は史実で、MI5の文書公開でそれは裏づけられている。問題は、その一般的な事実と、この特定の遺体を結ぶ線が一本もないことだ。背景が本当であることと、事件がその背景に属することは、まったく別の話だ。この二つの混同が、この事件の語られ方を八十年間歪めてきた。
黒魔術説については、もっと厳しい評価が必要だと思う。マーガレット・マレー本人が悪意で言ったとは思わない。彼女は自分の学説の枠組みで世界を見ていて、その枠組みに合う事件を見つけただけだ。だが結果として彼女の発言は二つの被害を生んだ。ひとつは、動物による散逸という平凡な事実に呪術的な意味を上塗りし、真面目な検証を何十年も遠回りさせたこと。もうひとつは、それが移動生活者への嫌疑と結びついたときに、特定の集団への濡れ衣として機能したことだ。証拠がゼロの説が、証拠がゼロのまま八十年生き延び、その間ずっと誰かに対する偏見を運び続けた。オカルト的な語りが実際に人を傷つける経路の、かなり典型的な標本だと思う。だから私はこの説を「面白い説のひとつ」として並列に置くことをしない。
いちばん妥当な像は、やはり地味なほうだ。地元の地理を知る誰かが、地元の女性を殺し、地元の子どもなら知っている木に隠した。動機は個人的なもので、国際情勢とも呪術とも関係がない。彼女が誰にも探されなかったのは、陰謀のせいではなく、戦時下の行政の穴と、彼女自身の社会的孤立が重なったせいだ。二〇二三年前後に出た複数の検証本が、揃ってこの方向に落ち着いているのは偶然ではないと思う。派手な説はどれも、一次資料に当たった瞬間に薄くなる。逆に地味な説は、一次資料に当たるほど厚くなる。これは歴史を扱うときの、かなり信頼できる指標だ。
では、いま何かできることはあるのか。現実的な望みはひとつしかない。骨だ。もしどこかの博物館か大学の収蔵庫に、来歴不明の女性の遺骨が眠っていて、それが照合できれば、話は一気に動く。現代の同位体分析なら、育った地域の水の傾向から出身地の見当がつく。イングランド中部で育ったのか、大陸から来たのか。この一点が確定するだけで、八十年分の説の半分は一晩で消える。BBCが二〇二三年に博物館へ呼びかけたのは、感傷ではなく合理的な一手だった。空振りに終わったのは残念だが、あの呼びかけ自体は今後も有効だ。骨は捨てられたのではなく、ラベルを失っただけかもしれない。名前を失った女性が、もう一度ラベルを失った箱の中で待っている、という構図はあまりに出来すぎているが、可能性としては十分にある。
最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書いておく。この事件は、我々が彼女について何も知らないという事実を、逆説的に八十年間保存してきた。ふつう、身元不明の被害者は忘れられる。忘れられることが、二度目の死のようなものだ。ところがこの人だけは、誰かが壁に問いを書いたせいで忘れられなかった。名前は他人がつけた仮の名前で、顔は写真から起こした推定図で、骨はどこかへ消えた。それでも彼女は消えていない。実体はほとんど何も残っていないのに、問いだけが残って人を呼び続けている。
八十年前の四月、十五歳の少年が棒の先で持ち上げたのは、ひとつの頭蓋骨だった。そこから始まったのは、犯人探しの物語ではなく、たぶん、名前のない人をどうやって覚えておくかという長い実験だ。まだ答えは出ていない。丘の上の石柱には、今日もあの一文が書かれている。誰がベラをニレの木に入れたのか。誰が書いたのかもわからないその問いだけが、名前を持たなかった女性のために、いまも見張りに立っている。
