1974年から1991年まで、アメリカ中西部の小さな都市が、名前も顔も知らない一人の男に十七年間おびえ続けた。そして犯人が捕まったのは、最後の殺人から十四年も経った2005年のことだ。捕まえたのは執念の張り込みでも密告でもない。犯人自身が「これ、追跡されないよな?」と警察に聞いた上で、自分から郵送してきた一枚のフロッピーディスクだった。
しかも中に入っていた決定的な証拠は、彼が消したつもりの文書のかけら。ルーテル教会の役員会の議事次第と、それを最後に保存した「Dennis」という名前。
これがBTK事件だ。カンザス州ウィチタ。犯人の名はデニス・リン・レイダー。逮捕された日の肩書きは、パークシティ市の遵法監視員、ボーイスカウトの元指導者、そしてクライスト・ルーテル教会の信徒会長だった。就任は逮捕のわずか二か月前、2005年1月のことである。
事実関係は明快だ。レイダーは全件を自白し、有罪を認め、終身刑十回を宣告された。だから本稿では、確定した事実は確定した事実として書く。ただし2023年以降に浮上した周辺の未解決事件については、いまも「捜査中」であって立証されていない。そこは厳密に分けて書く。
1974年1月15日、エッジムーア通り803番地
その朝、オテロ家の四人は普通に一日を始めるはずだった。ジョセフ・オテロ38歳、妻のジュリー33歳、長女のジョセフィン11歳、次男のジョセフ・ジュニア9歳。プエルトリコ出身の一家で、父は空軍を退役して間もなく、母は地元のコールマン社で働いていた。子どもは五人いて、上の三人はその朝すでに家を出ていた。
家に侵入していた男は、数週間前からこの家族を見張っていた。ジュリーとは同じ会社で顔を合わせたことがあった。男は電話線を切り、拳銃を持って家族の前に現れ、「カリフォルニアで指名手配されている、車と金と食べ物が要る」という嘘をついた。この「お尋ね者を装う」というやり口を、彼はその後も繰り返し使うことになる。
犬が吠えて計画が狂った。ジョセフには自動車事故でひびの入った肋骨があり、縛られたまま痛みを訴えた。男はいったん縄をゆるめ、枕をあてがってやってさえいる。犯人はのちに法廷で「自分は顔を隠していなかった、身元が割れると気づいた」と、まるで在庫確認でもするような口調でその瞬間を説明することになる。
四人は殺された。父と息子はビニール袋で窒息させられ、母と娘は絞殺された。ジョセフィンは地下室に連れて行かれていた。
昼過ぎ、次男のダニー14歳と長女のカルメン13歳が先に帰宅した。両親の寝室を開けたのはカルメンだった。彼女の悲鳴でダニーが駆け込み、二人で助け起こそうとしたが、遺体はとうに冷たかった。家を出ようとしたところに高校生の長男チャーリー15歳が帰ってきて、止める弟を押しのけて中へ入っていった。ダニーは隣家に走り、庭にいた男性に「両親が死んでる、警察を呼んで」と叫んだ。隣人は無言で家の中に駆け込んだ。三人はそのまま外に出て、十分ほど警察を待った。
三十一年後、法廷のスクリーンにジョセフィンの顔写真が大写しにされたとき、チャーリーは真っ赤になって膝に顔を伏せ、声を上げて泣いた。カルメンは膝に毛布を抱えたまま、床を足で叩き続けていた。
「プロジェクト・ライツアウト」と、ただ一人生き延びた弟
三か月足らずのちの1974年4月4日、東13丁目ノース3217番地。キャサリン・ブライト21歳もコールマン社の元同僚だった。犯人は自分の計画に「プロジェクト・ライツアウト」という名前を付けていた。ブライト(Bright、明るい)という姓をもじったものだ。彼は殺人の一件一件に、こういうふざけた符牒を付けていた。
その日、家には弟のケヴィン19歳がいた。犯人の想定外だった。姉弟が家に入ると、寝室のほうから声がした。「動くな」。振り向くと男が銃を構えていた。
男はケヴィンにキャサリンを縛らせ、二人を別々の部屋に分けた。やがて戻ってきてケヴィンの首を絞めにかかった。ケヴィンは縄を振りほどいて跳ね起き、男の銃をつかんだ。引き金を二回引いた。弾は出なかった。男が銃を奪い返し、ケヴィンを撃った。いったん部屋を出た男は戻ってきて、もう一発撃った。ケヴィンは死んだふりをした。男が去ったあと、彼は家から走り出て、通りの向かいにいた二人の男性に助けを求めた。一人が病院へ運び、一人が通報した。
キャサリンは手術室で二十本以上の輸血を受けながら、およそ五時間持ちこたえて亡くなった。捜査資料には「猛烈に抵抗した」と記されている。ケヴィンが姉の死を知ったのは数日後だった。
ケヴィンは警察に犯人像を伝えた。身長百七十八センチ前後、体重八十キロ強、二十代後半、口ひげ、黒い髪。この証言が、三十年間ずっと捜査ファイルの一番上にあった。
図書館の工学書に挟まれた紙
1974年10月、ウィチタ・イーグル・アンド・ビーコン紙の地域広報担当ドン・グレンジャーのもとに、匿名の電話がかかってきた。「ウィチタ公立図書館に行け。ある本のページの間に手紙が挟んである」。指定されたのは機械工学の教科書だった。
紙面に載る前の話だが、その紙切れが事件の性格を決定づけた。手紙はタイプ打ちで、スペルミスと文法の崩れだらけだった。書き手はオテロ一家殺害の犯人は自分だと名乗り、当時別件で拘束されていた三人の男が虚偽の自白をしていることに苛立ちを見せた。「あの三人はただ喋ってるだけだ。あいつらは何も知らない。俺が一人でやった、誰の助けも借りずに」。
そして、こう続く。「このモンスターがいつ俺の頭に入り込んだのかは分からない。だがもう住み着いてしまった。どうやって自分を治せばいい?止められない。モンスターは進み続けて、社会と同じくらい俺も傷つける。あんたたちなら止められるかもしれない。俺には無理だ」。
追伸には、この事件の名前そのものが書かれていた。「性犯罪者は手口を変えない、というより本質的に変えられない。だから俺も変えない。俺のコードネームはこうだ。縛れ、拷問しろ、殺せ。B.T.K.。ほら、またやってるぞ」。
警察は約三十人の医師に手紙を読ませ、人物像を組み立てさせた。出てきた答えは「重い病を抱えた男、緊縛への固執がある」。グレンジャーは紙面に呼びかけ広告を出し、自分のコラムでも「自宅に電話してくれてもいい」と訴えた。返事はなかった。
1977年、二人の女性と、公衆電話からの通報
1977年3月17日、サウス・ハイドローリック通り1311番地。シャーリー・ヴィアン・レルフォードは体調を崩して寝込んでいた。犯人はその日、別の家を狙っていたが不在だったので、通りで見かけた子どもを騙して家に入り込んだ。その子が、当時五歳から六歳だったスティーヴ・レルフォードである。
犯人は三人の子どもを浴室に閉じ込め、母親を寝室で殺した。子どもたちは扉の隙間から見ていた。途中で電話が鳴り、男は慌てて逃げた。その電話が、三人の子どもの命を救った可能性が高い。
同じ年の12月8日、サウス・パーシング通り843番地。ナンシー・ジョー・フォックス25歳、宝飾店に勤める秘書。犯人はこの計画を「プロジェクト・フォックスハント」と呼んでいた。翌9日の未明、彼は公衆電話から緊急通報し、遺体のある住所を淡々と告げて切った。
この通話は録音されていた。一年半後の1979年8月15日、ウィチタのラジオとテレビが、その声を繰り返し流した。初日だけで百十件の通報が警察に入った。誰も声の主を言い当てられなかった。この録音はのちに、レイダーの娘が父の正体を確信する決定打になる。
「あと何人殺せば新聞に名前が載る?」
1978年1月31日、イーグル紙の三行広告部門に一枚のインデックスカードが届いた。子ども用の印刷セットで押された文字で、「シャーリーロックス、シャーリーロックス」で始まる詩が書かれていた。童謡「カーリーロックス」の替え歌で、内容はヴィアン殺害を指していた。
そして2月10日、テレビ局KAKEに手紙が届く。差出人はオテロ一家、キャサリン・ブライト、シャーリー・ヴィアン、ナンシー・フォックスの犯行を自分のものだと主張した。文面には、この事件を象徴する一行がある。
「あと何人殺せば、新聞に名前が載るんだ。全国的な注目をもらえるんだ?」
さらに彼は、自分に与えられるべき名前の候補を並べて投書した。「詩的絞殺魔」「ウィチタの駆除業者」、そして「BTK」。マスコミが選んだのはBTKだった。犯人自身が公募して、自分のブランド名を決めさせたのである。
この手紙を受けて、警察本部長リチャード・ラマニョンは急遽記者会見を開き、ウィチタに連続殺人犯がいると公式に認めた。手紙はウィチタ州立大学図書館のコピー機で複写されたものと判明した。街の空気が変わった。夜、寝る前にクローゼットを確認する。受話器を上げて発信音を確かめる、電話線が切られていないかを。その習慣が何年も続いた。
警察もひねった手を使った。KAKEのニュース中に「今すぐ本部長に電話を」という文字と、フォックス事件現場に残されていた逆さの眼鏡の絵を、サブリミナル的に一瞬だけ差し込んだ。反応はなかった。
詩を書く絞殺魔と、現れなかったアンナ
1979年4月28日の夜、サウス・パインクレスト通り615番地。アンナ・ウィリアムズ63歳は、その晩スクエアダンスに出かけていた。前年に夫を亡くし、うつと体調不良を抱えながら、外に出て体を動かそうとしていた矢先だった。
犯人は家の中で待っていた。何時間も待った。だがアンナは友人宅に寄り、予定よりずっと遅く帰宅した。しびれを切らした男は、彼女のスカーフや装身具を持って立ち去った。
六週間後の1979年6月15日、アンナのもとに大きな封筒が届く。宛名は亡くなった夫クラレンス・R・ウィリアムズになっていた。中には盗まれたスカーフと宝飾品、プラスチックの留め具、縛られ猿ぐつわをされた裸の女性の絵、そしてタイプ打ちの詩が入っていた。題は「ああ、アンナ、なぜ君は現れなかった」。末尾には「BTK, 1979」の署名。
詩の中に、こういう一行がある。「また一人、過ぎ去った記憶の鏡の中を歩き、なぜ八番目がならなかったのかを思う」。つまり彼は、彼女を八人目に数えていた。アンナは家を出て、娘の家に移り住んだ。二度と戻らなかった。彼女への最後の事情聴取は1984年で、その後、自然死している。
同じ月、KAKEにも別のスカーフと、あの家に入ったのは自分だと確認する手紙が届いた。そしてBTKは、二十五年間、公の場から消えた。
八年の沈黙のあと、六軒隣の隣人
1985年4月27日。犯人は初めて、自分の住むパークシティで人を殺した。マリーン・ヘッジ53歳。レイダー宅から六軒しか離れていない家に住む、最近夫を亡くした祖母だった。アーカンソー出身で、高い声にわずかな訛りがあり、庭いじりとビンゴとバプテスト教会が好きで、いつもきちんとした服を着ていた。喫茶店で働いていた。犯人がこの計画に付けた名前は「プロジェクト・クッキー」である。
彼はこの犯行のために、手の込んだアリバイ工作をした。息子が参加するスカウトのキャンプに同行し、天候のせいで頭痛がすると偽って抜け出す。人気のない場所で服を着替える。ボウリング場に寄ってビールを注文し、口に含んで顔と服に振りかける。ろれつの回らない声を作ってタクシーを呼び、自宅の一本手前の通りで降りる。
隣人だから見張るのは簡単だった。すれ違えば手を振る仲だ。この日、彼女は帰りが遅く、しかも男性の連れがいた。犯人はクローゼットの中で何時間も待った。
殺害後、彼は遺体を彼女自身の車に運び、鍵を持っていたクライスト・ルーテル教会の旧会堂へ運び込んだ。あらかじめ隠しておいた黒いビニールを窓に画鋲で貼り、外に明かりが漏れないようにして、そこで写真を撮った。夜が明ける前に片づけ、ビニールをはがし、遺体を車に戻して人けのない排水路に遺棄した。
車は数日後に見つかった。遺体はさらに数日後だった。パークシティでBTKの被害者が出たことはなかったから、警察はこの事件をBTKと結びつけなかった。
ヴィッキー・ウェゲル事件と、十八年疑われた夫
1986年9月16日、西13丁目ノース2404番地。ヴィッキー・リン・ウェゲル28歳。ピアノを弾く女性で、犯人はこれを「プロジェクト・ピアノ」と呼んだ。彼はADTのヘルメットをかぶり、電話会社の作業員を装って玄関に立った。家には二歳の子どもがいた。
彼女は激しく抵抗し、犯人の顔を引っかいた。この爪の下に残ったものが、十八年後に事件を終わらせる。犯人は殺害後に写真を撮り、彼女の運転免許証を持ち去った。
救急隊が最初に到着し、まだ体温があったので病院へ搬送した。当時の方針である。結果として、現場写真は一枚も撮られなかった。この事実が、のちに決定的な意味を持つ。
そして警察が目を付けたのは、夫のビル・ウェゲルだった。BTKは1979年以降沈黙していたから、この事件をBTKと結びつける者はいなかった。ビルはポリグラフ検査に二度落ちた。捜査本部内には「ビルがやった」と考える刑事が実際にいた。彼はその後十八年間、妻殺しの疑いを着せられたまま、二人の子どもを育てた。子どもたちもその影の下で大きくなった。
のちに地方検事のノーラ・フォルストンはこう言っている。「ビル・ウェゲルはこの一件で、被害者にされ、拷問にかけられた。妻が殺されたあの日、彼も殺されたのに、その上に長い年月、疑いの中に置かれた」。
1991年1月、そして完全な沈黙
1991年1月19日未明、ノース・ヒルサイド通り6226番地。ドロレス・アーリーン・デイヴィス62歳。犯人は「プロジェクト・ドッグサイド」と名付けていた。彼女の家に犬舎があったからだ。
その夜、彼はスカウトの行事を抜け出し、服を着替え、車を別の場所に置いて歩いた。凍えるような寒さで、いったんはためらったという。結局、コンクリートブロックを板ガラスの窓に投げ込んで押し入った。
デイヴィスは「車が家に突っ込んだのか」と思って寝室から出てきた。犯人はまた「指名手配されている、食べ物と車が要る」という嘘を使った。彼女は命乞いをした。犯人は「知り合いが来ることになっている」という彼女の言葉を信じて、写真を撮らずに立ち去った。息が止まるまで二、三分かかった、と彼はのちに供述している。
これがBTKの十件目にして、最後の殺人だった。それから十三年間、彼は何も送らなかった。
ここで一つ、注意して書いておく。1988年、ウィチタで一家三人が殺害されたフェイガー事件のあと、メアリー・フェイガーのもとに「BTK」を名乗る手紙が届いた。書き手は犯人を「見事な仕事だ」と称賛しつつ、自分の犯行ではないと書いていた。2005年になって、この手紙を書いたのはレイダー本人だと判明したが、警察はフェイガー事件そのものをレイダーの犯行とは見ていない。彼は自分の関与を否定したままである。
2004年1月17日、三十周年の記事
2004年1月17日、ウィチタ・イーグル紙に一本の回顧記事が載った。見出しは「BTK事件、三十年経っても未解決」。書いたのは事件記者のハースト・ラヴィアナ。記事は、捜査関係者の多くがBTKはすでに死んでいるか服役中だろうと見ている、という見立てを紹介していた。そして地元弁護士のロバート・ビーティーがBTKについての本を書いていることに触れ、そのビーティーのコメントで締めくくられていた。「変人や善意の人からは連絡が来るだろう。だがBTK本人から連絡が来るとは思わない」。
レイダーはこの記事を読んだ。のちに取調べで、彼はその動機を実にあっけらかんと説明している。「なんとなく退屈だった」。加えて、自分について何も知らない人間が自分の本を書くことが我慢ならなかった。
三月十七日消印の封筒が、イーグル紙の郵便室に届く。差出人の名は「Bill Thomas Killman」。頭文字はBTK。住所はウィチタに存在しない通りだった。
3月19日金曜の朝、編集者のティム・ロジャースがその封筒をラヴィアナに手渡した。ラヴィアナは朝十時の警察定例ブリーフィングに出る直前で、中身をちらっと見ただけだった。一枚の紙に、三枚の写真と運転免許証がコピーされているだけ。文字は一切ない。彼はコピーを取って自分の机に置き、原本を市庁舎に持って行き、警察のダレル・ヘインズ警部に渡した。「いたずらだと思いますよ」と言い添えて。六週間前にも受刑者からの偽の自白手紙が来たばかりだった。
その日の午後、机に戻って自分が取ったコピーをよく見た。免許証の名前が目に入った。ヴィッキー・ウェゲル。ラヴィアナはウィチタで二十年記者をやっていた。BTKが何かも、ウェゲル事件が何かも知っていた。三枚の写真では、遺体の衣服の乱れ方が一枚ずつ違っていた。つまり、撮影者は現場に何度もカメラを向けている。
そして誰もが知っていた事実がある。ウェゲル事件に警察の現場写真は存在しない。救急隊が遺体を運んだからだ。この写真を撮れる人間は、この世に一人しかいない。
ヘインズ警部は封筒を週末のあいだ自分の机に置いたままにしていた。月曜のブリーフィングでラヴィアナが「あれ、どうなりました」と聞いて、ようやく殺人課に回った。その日のうちに、殺人課のケリー・オーティス刑事からラヴィアナに電話が入る。「二日くれ」。記者はそれが何を意味するか即座に理解した。
水曜、警察はイーグル紙に独占で答えを出した。ケン・ランドワー警部補の言葉はこうだ。「写真は本物と見ている。百パーセントBTKだ。あれがヴィッキー・ウェゲルの写真であることに疑いはない」。
二十五年の沈黙が破れた。そして同時に、ビル・ウェゲルにかかっていた十八年分の疑いが、偶然のかたちで晴れた。
十一通の「コミュニケーション」
そこから約十一か月、レイダーは十一回にわたって物を送りつけたり置いたりした。警察はこれを番号で管理した。
五月、KAKEに届いたのは長大な文字パズルと偽の身分証、そして「BTKストーリー」と題した本の章立てだった。章立ては1999年にクライム・ライブラリーというオンライン媒体でデイヴィッド・ローが書いた記事の構成を、そっくり真似たものだった。第一章の題は「連続殺人犯が生まれる」。
6月9日、市の真ん中、一番通りとカンザス通りの角の一時停止標識に、小包がテープで留められていた。中にはオテロ事件の詳細な記述と、縄で吊るされた縛られた女性のスケッチ。絵には「性的スリルこそ我が請求書」という説明が付けられていた。
7月、ウィチタ公立図書館の返却口に「BTK」と書かれた包みが入っていた。中の文章はこうだ。「一人暮らしらしい女、あるいは鍵っ子を見つけた。あとは段取りだけだ。もう年だが老いぼれてはいない。ただ体を作り直す必要がある。思考も昔ほど切れない。秋か冬がちょうどいいだろう。今年か来年にはやらないと。時間がなくなってきた」。同じ包みで彼は、十二日前にカンザス州アルゴニアで十九歳の青年ジェイク・アレンが線路上で死んだ件を、自分がネット上のやり取りで誘導した結果だと主張した。これは完全な虚偽で、少年がそのようなやり取りをした形跡は一切なく、死は自殺と結論づけられている。
10月22日、オムニセンター前のUPS集荷箱から、マニラ封筒が見つかった。中にはカードに貼り付けられた恐怖と緊縛の画像、子どもの写真に縄の線を描き足したコラージュ、そして「ランドワーに死を」という詩。捜査を率いる刑事を名指しした脅迫だった。加えて、自称「自伝」が入っていた。1939年生まれ、父は戦争で死亡、母は鉄道の近くで働き、自分が十一歳のとき鉄道の捜査官と付き合っていた、鉄道に魅せられていていつも線路のそばに住んでいた。ほぼすべてが作り話だった。警察は数週間後にこの自伝を公表した。彼を喜ばせるためではない。FBIの助言に従っただけだ。犯人を怒らせるな、公然と侮辱するな、興奮させて次の犯行に走らせるな、ただ喋らせ続けろ、いつかミスをする。
12月1日、警察はロジャー・バラデスという男の家に踏み込んだ。線路が見える、塗装のはげた家に住んでいた。あの「自伝」に合致していたからだ。彼は軽微な令状で身柄を取られ、DNA鑑定ですぐに無関係と判明した。最終的にウィチタ警察は千三百人以上の男性からDNAを採取した。集められた検体は、事件終結後に裁判所の命令で破棄されている。
12月8日、ナンシー・フォックス殺害から二十七年の日。レイダーは公衆電話からクイックトリップという店に電話をかけ、州間道路とナインス通りの交差点付近に包みがあると告げた。店員が興味を示さなかったので、彼は受話器を叩きつけた。12月14日の夜、マードック・パークを歩いていた男性が木に立てかけられた白いビニールの包みを見つけ、好奇心から持ち帰って開けた。中には人形が入っていた。頭にビニール袋、後ろ手に縛られ、足も縛られ、足首にナンシー・フォックスの本物の運転免許証が結び付けられていた。男性はKAKEに連絡し、KAKEは撮影したうえで警察に通報し、放送は控えた。
「フロッピーで送ったら追跡されるか。正直に答えろ」
2005年1月1日、デニス・レイダーはクライスト・ルーテル教会の信徒会長に正式に就任した。前年に副会長に選ばれていたので、順当な昇格だった。
その八日後、1月8日。彼はノース・ウッドローンのホーム・デポの駐車場で、ピックアップトラックの荷台にスペシャルKの空箱を置いた。箱には「BTK」と「爆弾」と書いてあった。車の持ち主は店の従業員で、ゴミだと思って自宅のゴミ箱に捨てた。妻が上に古い枕を放り込んだおかげで、箱は潰れずに残っていた。数日後、意味に気づいた男性がゴミ箱から回収した。
警察が1月8日の駐車場の防犯カメラ映像を確認すると、初めてBTKの姿が映っていた。遠すぎてぼやけていたが、車のホイールベースを測って車種を割り出した。黒のジープ・チェロキー。長年警報装置を設置する仕事をしていた男が、防犯カメラがどこにでもある時代になっていたことに無頓着だった。
そして箱の中に、あの質問が入っていた。
「フロッピーでやり取りして、コンピューターまで追跡されないか。正直に答えろ」。
返事は新聞の三行広告の「その他」欄に、彼のコードネーム「Rex」宛てで載せろ、という指定付きだった。
ランドワーは、コンピューター捜査のランディ・ストーン巡査と相談した上で、のちに自分で「人生で一番のお気に入りの嘘」と呼ぶことになる決断をした。シェリル・ジェームズ刑事が「シンディ・ジョンソン」という偽名を使い、ウィチタ・イーグル紙に広告を出した。1月28日から2月3日まで掲載。文面はこうだ。
「Rex、大丈夫だ。連絡してくれ。私書箱は最初の四つの参照番号、67202」。
2月3日、KAKEに一枚の葉書が届いた。差出人は「Happ Kakemann」、KAKEの昔のキャラクター名だ。文面にはこう書かれていた。「七番と八番への素早い対応に感謝する。ニュースチームの努力にも感謝。スーザンとジェフが風邪をひいたそうで気の毒に。業務連絡。ウィチタ警察に伝えてくれ、新聞のヒントは受け取った、実行する。テストランを近々。よろしく」。
この「新聞のヒント」という一行を知っていたのは、警察とKAKEだけだった。KAKEは警察の要請で、その部分を数週間伏せた。
紫色のメモレックスと、削除された議事次第
2005年2月16日、ウィチタのFOX系列局KSAS-TVに一通の郵便物が届いた。中身は手紙、金色のメダリオンが付いたネックレス、1989年の小説「Rules of Prey」の表紙のコピー、そして紫色の一・四四メガバイトのメモレックス製フロッピーディスク一枚。ディスクには「ウィチタ警察検証用テストフロッピー」と書かれていた。
ディスクを開くと、目に見えるファイルは一つだけ。「TestA.rtf」。中身はいつものBTK節で、「今後、通信には番号を振る、紛失や未発見に備えて(encase)」と書かれていた。ここで捜査側が一瞬ぞっとした。「in case」と書くべきところが「encase」になっている。EnCaseは、まさに彼らが使おうとしていたコンピューター・フォレンジックのソフトの名前だった。彼はスペルが致命的に苦手な男だったが、これは偶然か、それとも挑発か。もし彼がEnCaseを知っているなら、ディスクの痕跡を細工している可能性がある。
ストーンは教会の名前を検索エンジンに打ち込んだ。ウィチタにクライスト・ルーテル教会があり、そのウェブサイトに信徒会長の名前が載っていた。デニス・レイダー。パークシティ市の遵法監視員で、インディペンデンス通りに三十年以上住んでいる男。
慎重にならざるをえなかった。フロッピーが追跡できるかと聞いてきた男が、あっさり自分の名前を残す。あまりに出来過ぎている。無関係な人間を陥れるための偽装かもしれない。誰かに罪をかぶせようとしているのかもしれない。
捜査員がレイダー宅の前を車で通った。私道に、黒いジープ・チェロキーが停まっていた。
娘の医療記録から取った一滴
決め手はDNAだった。ヴィッキー・ウェゲルの爪の下に残っていた組織。三十年前のオテロ事件現場から採られた検体をランドワーがずっと保管させてきたことも効いた。
だがレイダー本人から直接検体を取れば、その瞬間に勝負がつく前に彼が気づく。そこで捜査側は、家族の検体で「近親一致」を確認するという手に出た。
裁判所の令状を取り、レイダーの娘ケリーがカンザス州立大学の学生診療所で受けた子宮頸部細胞診の検体を押さえた。娘本人はこのことを何も知らなかった。鑑定の結果、現場の検体と、彼女の検体は近い血縁関係を示した。父か兄弟のいずれかが犯人だという意味だ。
ランドワーはここで、部下を驚かせる判断をする。2月16日に身元を特定してから、逮捕までさらに九日間待った。裏付けを固め、押収の段取りを組み、令状を揃えるためだ。その九日間、レイダーは何食わぬ顔で市の制服を着て、パークシティの伸びすぎた芝生を測って回っていた。
2005年2月25日、昼過ぎ
金曜日、正午を少し過ぎたころ。デニス・レイダーは昼食を取りに自宅へ帰る途中の路上で車を停められた。
警官がこう聞いたと伝えられている。「レイダーさん、これから署に行く理由、分かりますか」。
彼は答えた。「ああ、見当はつく」。
ウィチタ警察、カンザス州捜査局、FBI、ATFが同時に動いた。自宅と車両、クライスト・ルーテル教会、市の事務所、パークシティ図書館の本部までが捜索された。コンピューター機器、物置から出てきた黒いパンストひとそろい、円筒形の容器などが押収された。家のリネン用クローゼットの床板の下からは、被害者から奪った「記念品」が出てきた。
同じころ、教会には刑事が現れていた。マイケル・クラーク牧師は「BTK連続殺人事件の証拠を探している、デニス・レイダーが容疑者だ」と告げられ、しばらく何を言われたのか理解できなかった。「呆然として、途方に暮れて、衝撃を受けた」と彼はのちに語っている。日曜の朝、逮捕から二日近く経ってなお、シャワーの中で立ち尽くしていた。「あり得ない。私の知っているデニスじゃない」。
翌26日朝の記者会見で、ウィチタ警察本部長ノーマン・ウィリアムズが短く言った。
「結論から言います。BTKは逮捕されました」。
教会役員、スカウト指導者、遵法監視員
逮捕後に浮かび上がったデニス・レイダーの履歴は、退屈なほど普通だった。1945年ウィチタ生まれ。四人兄弟の長男。空軍に勤務して1970年に除隊。1971年5月22日、ポーラ・ディーツとクライスト・ルーテル教会で結婚。1972年からコールマン社、1974年からADTセキュリティサービスで警報装置の設置。1979年にウィチタ州立大学で司法行政の学士号を取得。1990年の国勢調査では現場監督。1991年5月からパークシティ市の野犬捕獲員兼遵法監視員。セジウィック郡の動物管理諮問委員会にも、区画整理不服審査会にも名を連ねていた。子どもは二人、1975年生まれのブライアンと1978年生まれのケリー。
ADT時代のあだ名は「ブルーブックマン」。社内規則を過剰に振りかざすからだ。そして皮肉なことに、当時ADTに警報装置を頼んだ客の多くは、BTKが怖くて頼んでいた。
パークシティでの評判は、はっきり二つに割れる。年寄りの庭仕事を手伝ってくれる親切な近所のおじさん。同時に、白いトラックの側面に「パークシティ遵法監視員」と書いて時速十六キロでのろのろと巡回し、伸びた芝生とはみ出したゴミ箱と柵の外に出た犬を血眼で探す男。
近所の女性は、彼が自分の家の芝生をメジャーで測っていたと証言した。裏の家のビル・リンジーは、妻が「デニスがまたうちの裏を撮ってる」と電話で報告してくると語った。ドナ・バリーは、飼い犬をめぐるトラブルで彼が催涙スプレーを噴射し、風で自分に返ってきて、麻酔銃に手が届かず、最後は拳銃で犬を撃ったところを子どもたちと見たと述べている。
1998年に二十五ドルの反則切符を争った元国税庁監査官のバーバラ・ウォルターズ69歳は、裁判所に現れたレイダーが「殺人事件の弁護人より準備が万全だった」と語った。犬一匹について分厚いファイルを作り、ビデオを撮り、告発と証拠を対応させる複雑なインデックスまで用意していたという。
「彼は人を細かい粗探しで殺すんだ。完全な支配欲の塊だった」。パークシティの市長候補だったディー・スチュアートの言葉である。
娘のケリーは、父を「見知らぬ人には気をつけろ、簡単に信用するな」と教えてくれた人だと記憶している。2005年2月25日、玄関先でFBI捜査官と向き合ったとき、彼女が反射的にやったのは、父の教えどおり身分証の提示を求めることだった。
6月27日、法廷の平坦な独白
2005年2月28日、セジウィック郡地方裁判所で第一級殺人十件で起訴。3月1日、保釈金一千万ドル。5月3日の罪状認否で彼が黙秘したため、判事が職権で無罪答弁を記録した。
そして6月27日午前九時一分、裁判が始まるはずだった時刻。公選弁護人スティーヴ・オズバーンが立ち上がって告げた。「レイダー氏は陪審裁判を受ける権利を放棄し、十件すべてについて有罪を認めます」。司法取引は一切なかった。
グレゴリー・L・ウォーラー判事は、一件ずつ本人の言葉で説明させた。レイダーは最初、「1974年1月15日、私は悪意をもって、意図的に、予謀して、ジョセフ・オテロを殺害しました。第二訴因は」と、事務手続きのように次へ進もうとした。判事が止めた。「レイダーさん、もっと情報が必要です」。
そこから約一時間、六十歳の男は十件の殺人を淡々と語った。紺のスーツ、整えた顎ひげ、金縁の眼鏡。声には抑揚がなかった。
彼は被害者を「ターゲット」と呼び、殺人計画を「プロジェクト」と呼び、獲物を探すことを「トローリング」と呼んだ。道具一式を入れた鞄には名前がついていた。判事が「それはあなたが用意したキットですか」と聞くと、彼は答えた。「はい。ヒットキットと呼んでいます」。
オテロ一家について彼が使った表現は「put them down」だった。家畜を処分するときの言い回しである。
法廷を車の中でラジオ中継で聞いていた十九歳のジャレッド・ノーブルは、こう言った。「冷たかった。あの描写の仕方、何の感情もなくて、心がなかった」。
遺族が語ったこと
8月17日と18日の量刑審理で、遺族が次々に証言台に立った。ここには、三十一年分の言葉が詰まっている。
ケヴィン・ブライト。二十六年ぶりに、自分を二度撃った男の前に立った。彼は姉のことから話し始めた。二十一歳で殺されて三十一年以上経つ、いま彼女が生きていたら何をしていただろうとずっと考えてきた、と。「あの男は自分の人生を三十一年生きて、家族を持って、子どもを育てて、仕事もして。そして何もしていない十人の人生を消した」。姉は「山猫のように戦った」と法廷で言われた。それを彼は誇りに思うと言った。姉が五時間持ちこたえ、二十本以上の輸血を受けたことを、彼は法廷ではじめて公に語った。「唯一違っていたらと思うのは、あいつから銃を奪って引き金を引いたあのとき、弾が出ていたらということです。あそこで終わっていた。でも神が采配したんでしょう。二度と問い直しはしません」。母親のことにも触れた。娘を失い、息子も失いかけた母は、そのまま立ち直れずに六十二歳でがんで亡くなった。「母を死なせたのはデニス・レイダーだと、私は思っています」。自分の後遺症についても語った。見た目には分かりにくいが、口の上と頭部に傷跡があり、恒久的な神経障害が残った。体温調節がうまくいかず、湿度が高いと過熱して動けなくなる。消化器系も壊れていて、みんなで食事をする場に加われない。この二日間の昼食会にも参加できなかった、と。それでも、と彼は続けた。「あの日あそこにいてよかったと思っています。私がいなかったら、あの男が妄想の中で姉に何をしようとしていたか。それを止められた」。求刑については、死刑がない以上、最大限の刑と、そして隔離を求めた。「あと四十年生きてほしい。ただし、意識のあるまま」。
ジェフ・デイヴィス。1991年に殺されたドロレス・デイヴィスの息子。彼の陳述は法廷の空気を止めた。「この五千三百二十六日間、母の大切な命を奪った歩く汚水溜めと向き合うのはどんな気分だろうと考え続けてきた。その間ずっと、今日という日を、過去への復讐の日として思い描いてきた。今日ここにいる社会の汚物に正義が下されるとき、その苦く甘い復讐の味を噛みしめること以外、何も考えられなかった」。そのうえで彼は方向を変えた。「だから私は決めた。ここにいる罪のない被害者たちと、その家族と友人のために、今日を報復の日ではなく祝祭の日にすると」。そして条件法を重ねていく。「もし私が意地悪なら、こう言うだろう。世間の注目に取り憑かれたねじれたナルシストの精神病質者が、これから八十平方フィートの独房に世界を縮められ、たった一人で残りの惨めな人生を朽ちさせていくのは、実にふさわしいと」。「もし私があなたの水準まで堕ちるなら、こう言うだろう。あなたの母親があなたの悪魔の魂を世に放つ前に堕ろしていれば、この世はずっとましだった、十人の罪のない命が助かり、この街は計り知れない苦しみを免れたと」。レイダーが三十分の弁明を終えたあと、デイヴィスは記者会見でこう吐き捨てた。「あれは哀れで支離滅裂な演説だ。理解を超えている。それほど惨めだった。吐き気がする。あのゴキブリを早くしまってほしい」。
ビヴァリー・プラップ。1977年に殺されたナンシー・フォックスの姉。「ナンシーを失うことが私と家族にとって何を意味したか、説明できる言葉がありません。友人を失い、何でも打ち明けられる相手を失いました。私の子どもたちには叔母がいない。私にはもう姉妹がいない。ナンシーの死は、絶対に塞がらない深い傷です」。そして彼女は自分の感情を、自分で解剖してみせた。「私に言わせれば、デニス・レイダーは生きるに値しない。被害者を苦しめたのと同じだけ苦しんでほしい。でもそう考えたところで、あの病んだ倒錯した頭では、それをご褒美か快楽として受け取るんでしょう」。だから代わりに、と彼女は言った。「この男は深く暗い穴に放り込んで、腐るに任せるべきです。二度と陽の光を見るべきではない」。最後に彼女は、死後のことを語った。「彼が死ぬ日、ナンシーと被害者たち全員が神とともに待っていて、彼が地獄で焼かれるのを見ているでしょう」。
スティーヴ・レルフォード。五歳か六歳のとき、玄関で騙されて、母を殺す男を家に入れてしまった少年。三十歳近くになった彼には、原稿がなかった。マイクの前に立ち、涙をこらえて、こう言っただけだった。「僕の名前はスティーヴ・レルフォード。シャーリー・ヴィアンは僕の母です。何も用意してきていません。ただ、こいつには残りの人生ずっと苦しんでほしい。それだけです」。短い。だが、この短さが彼のすべてだった。事件のあと、彼はオクラホマの祖父母のもとに送られ、誰も殺人の話をしなかった。彼はアルコールと覚醒剤に沈み、刑務所を出たり入ったりした。二〇〇五年、二十八年ぶりに彼はあの家を訪ね、母が殺された寝室にひざまずいて、泣きながら祈った。地元テレビのアンカーがその様子を伝えると、見知らぬ人々から数百件の電話とメールと手紙が届いた。泊まる場所を提供すると申し出た人もいた。「一緒に泣きました」「あなたを応援している人がたくさんいます。あなたは生き延びた人だ」。二十七年間、誰も彼にそう言わなかった。その支えがあって、彼は六月の答弁の日、母の殺害を犯人の口から聞く席に座ることができた。「母を見て、自分がいた場所を見て。警備の人がまわりにたくさんいたけど、それでもあの椅子に座るのは簡単じゃなかった。正直に言います」。
ステファニー・クライン。ヴィッキー・ウェゲルの娘。「兄と私が人生でいちばん大切な女性を奪われてから、もうすぐ十九年になります。母と過ごす時間が足りませんでした。三人の孫が祖母を知らずに育つのは公平じゃない。母は私が孫を抱いている姿を見られない。弟のブランドンが初めての子を抱く姿も見られない。あの赤ちゃんが小さいころのブランドンにそっくりだって、母ならどれだけ喜んだか」。そして彼女は判事に求めた。「母は命乞いをしたのに、この男は何の憐れみも見せなかった。家族がいることも、家に小さい子がいることも分かっていて、それでも自分の病んだ計画を進めた。だから今日、この男に憐れみを見せないでください」。
カルメン・オテロ・モントーヤは、レイダーを「まったくの臆病者」と呼んだ。兄のチャーリー・オテロは、彼が「私の血族という織物そのものに、取り返しのつかない損傷を与えた」と述べた。ダニー・オテロは、なぜ苦しい思いをして法廷に座るのかと聞かれてこう答えた。「知る必要があったんです。三十一年間、家族の最後の瞬間を想像し続けてきた。どれだけつらくても、見なければならなかった。聞かなければならなかった。家族が最後に何を思ったのか知りたかった。自分でもやり通せたのが不思議です」。
マリーン・ヘッジの家族を代表したロッド・フックは、短く、法の許す最大限の刑を求め、そして捜査本部の全員に礼を述べた。ビル・ウェゲルは十八年分の疑いから解放された立場でこう言った。「どんな刑罰を科しても、私たちの必要は満たされません。ただ最大限のものをお願いします。そして、もう二度とこの男と関わらず、姿も見ず、声も聞かずに済むことを願います」。
8月18日、終身刑十回
レイダー自身も三十分ほど話した。彼は被害者を一人ずつ挙げ、そのたびに自分との共通点を探した。祖父母の農場で過ごした思い出。動物好き。詩を書くのが好き、自分も好き。絵を描くのが好き、自分も好き。庭仕事。同じ教会。この構成に、検察官は「アカデミー賞の受賞スピーチのようだ」と評した。何人かの遺族は途中で退廷した。
「暗い側面は確かにある。でも今は光が差し始めていると思う」と彼は声を詰まらせた。「私はクリスチャンではないと言われるだろう。だが自分ではそう思っている」。そして、「被害者の家族が私を許すことは決してないと分かっている。それでも、いつかどこか深いところで、それが起きることを願っている」。
途中、彼はこうも言った。「レイダーは文句を言う男だとみんな知っているから、少しだけ言わせてほしい。今日は文句を言いたいわけじゃない。記録を正したいだけだ。これが最後の機会だから」。
ウォーラー判事は、十件それぞれに終身刑を科し、すべてを連続して服させると宣告した。仮釈放の可能性が出るまで最低百七十五年。カンザス州が死刑を復活させたのは1994年で、犯行時には死刑がなかった。
翌8月19日、彼はエルドラド矯正施設に移送された。現在も、本人の保護を理由とした単独房にいる。運動は一日一時間、シャワーは週三回。2006年、素行を理由にテレビ、ラジオ、書籍、画材の使用が許可された。検察は「そうした物は妄想を再生する道具になる」と反対したが、通らなかった。
7月26日、逮捕から五か月で、妻ポーラには通常の六十日の待機期間を放棄した「緊急離婚」が認められた。パークシティの自宅は2007年3月に取り壊された。
娘が背負ったもの
2005年2月25日正午少し前、ミシガン州デトロイト近郊のアパート。二十六歳のケリー・レイダー・ローソンの玄関を、FBI捜査官がノックした。夫は仕事に出ていた。
捜査官は「BTKをご存じですか」と切り出した。彼女は意味が分からなかった。頭の中で最悪の連想が勝手に走り出す。母が殺されたのだ、と思った。次に、父が母を殺したのだ、と思った。「気を失うかと思いました。台所のコンロの上の壁につかまって、座らせてくださいと言った」。
その日の夜、彼女はインターネットで1977年の緊急通報の録音を聞いた。ナンシー・フォックスの遺体の場所を淡々と告げる声。「すぐに分かりました。父です」。
彼女が生まれたのは1978年。父はそのときすでに七人を殺していた。父の記憶は、優しい。グランドキャニオンへのハイキング。庭の手入れの教え方。肘を折ったときに病院へ飛んできたこと。大学に送り出すときに感極まっていたこと。同時多発テロの日に泣いていたこと。親族の死を悼んでいたこと。
そして同じ人が、1985年に六軒隣のヘッジさんを殺していた。ケリーは当時六歳で、その事件を覚えている。FBI捜査官の前で父を弁護していた彼女は、その記憶を思い出して、自分の口から「あれも父かもしれない」と言わされる羽目になった。
1991年1月、母が肺炎で十日から十二日ほど入院していた時期のことも、彼女は覚えている。「そのすぐあと、父はデイヴィスさんを殺しました。うちのステーションワゴンのトランクに入れて運んだ。そして父は高校生の私に、その車をくれたんです」。
彼女は七年間トラウマ治療を受け、PTSDと不安障害とうつと診断された。「自分が被害者だなんて思えなかった。だって私には何も起きていないんだから」と言う彼女に、治療者はこう説明した。あなたが知らされたこと、父親が関わっていたこと、そのすべてが、知った瞬間にあなたの外傷になるのだと。
2019年、彼女は回想録「シリアルキラーの娘」を出した。書く直接のきっかけは、スティーヴン・キングがBTK事件に着想を得た小説を発表したことへの強い怒りだったという。2023年にはもう一冊出し、同じ年、十八年ぶりに父と面会した。オクラホマ州オセージ郡の未解決事件について答えを引き出すためだった。
そのときのことを彼女はこう語っている。「痩せて、車椅子に乗っていて、娘に会えたと言って泣いていた。子どもに会えて有頂天だった」。だが未解決事件の話を向けると、態度が変わった。「何の話をしてるんだ。ただ思い出話をしよう。父娘らしく、昔話をしよう」。1980年代のノートに、彼女の名前と浴槽での緊縛遊びについて書かれた記述があった。それを問いただすと、彼は言い放った。「あれはただの妄想だ。家族には手を出していない。お前は有名になりたくて俺のことをでっち上げているだけだ」。
彼女は台本を捨てて、四十五年分の怒りをぶつけた。「五フィート先で、私を平気でガスライティングして、操って、嘘をついていた。父と話している気がしなかった。人間以下の何かと話している気がした。みんなが言う、精神病質者でナルシストで近くにいたくない人間だという話。私はそれでも父の中に人間性を見つけられていた。あのときは、見つけられなかった」。
2025年10月、彼女を主人公にしたドキュメンタリーが公開された。彼女はもう父と話していない。同じ二重生活の陰に置かれた別の家族たち、加害者の家族という立場の人々を支える活動に軸足を移している。「私はママです。普通の人間です。ほとんどの日は、父が誰かなんて考えてもいない。ただの私です」。
彼女の周辺には、その後もつらい報道が続いている。2026年に入って、元夫が申し立てた家庭内問題をめぐる保護命令が報じられた。ここでは事実の羅列にとどめるが、加害者家族に降りかかる負荷が、二十年経っても終わっていないことだけは書いておく。
デジタル・フォレンジックの転換点として
BTK事件の捜査は、物証の面ではむしろ充実していた。指紋こそ少なかったが、体液は複数の現場に残されていた。手紙は現物が送られてきていたから、紙の繊維も、タイプライターのキーの並びのくせも、スペルミスの癖も、二十年以上にわたって分析され続けた。1984年には「ゴーストバスターズ」という愛称の専従班が組まれ、FBIのプロファイラー、ジョン・ダグラスも招かれた。
それでも捕まらなかった。三十年間、当時のアメリカ捜査界の最良の頭脳が、伝統的な手法を総動員して、行き止まりに突き当たり続けた。
最後に事件を割ったのは、削除ファイルのメタデータを見た一人のコンピューター捜査官だった。
これはその後、司法当局の教材そのものになった。米国司法省の外郭機関が出した「メタデータ入門」は、冒頭でBTK事件を引き合いに出している。テレビ局に郵送された紫色のディスク、その表面に見えない情報、それが教会のコンピューターを指し示したこと。文書の中には、作成者の情報、保存されたコンピューターやネットワークの情報、電子メールアドレス、直近に閲覧した人物、過去のバージョンまでが眠っている。ほとんどの利用者はその存在を知らない。
米国国立標準技術研究所が2022年にまとめたデジタル捜査手法の科学的基盤レビューでも、BTK事件は「削除データが決定的だった事例」として名指しで扱われている。この文書の書き方が興味深い。メタデータから「Dennis」という名前と組織名が出てきた時点で、それは何も証明していない。可能性としては三つある。Dennisという人物が以前このディスクを使っていて、後にBTKが入手した。BTKがどこかからDennis名義のファイルを入手してディスクに置き、消した。あるいは、Dennisが本人である。デジタル証拠は答えを出すのではなく、追うべき筋を作る。実際、確定させたのは娘の医療検体から得た近親DNAだった。
つまりBTK事件は、デジタル証拠の万能性ではなく、その正しい使い方を示した事例なのだ。ディスクが筋道を作り、生物学的証拠が結論を出した。二〇〇五年の時点で、この二つの組み合わせがきれいに機能したのは、かなり早い。
もう一つ、この事件が実務に残した教訓がある。ランドワーが十一か月かけてやったのは、犯人の自己顕示欲を計算して、それに餌をやり続けることだった。侮辱しない。公の場では丁寧に扱う。三行広告で「Rex、大丈夫だ」と返事を書く。焦らせない。そして、犯人が自分から技術的なリスクを取るのを待つ。
ランドワーは2012年に退職を決め、その直前の健康診断でがんが見つかった。2014年1月13日、五十九歳で亡くなった。二十年間ウィチタの殺人課を率い、六百件以上の事件に関わった人だった。取調室でレイダーは彼にこう詰め寄っている。「聞かせてくれ、なんで俺に嘘をついた。なんで嘘をついた」。
ランドワーの答えは短かった。「お前を捕まえようとしていたからだ」。
レイダーはのちに、こう漏らしている。「彼とは信頼関係ができていたと本気で思っていた。追跡できないという合図をくれたとき、あれは正直な返事だと思った」。そして、こうも言った。「フロッピーにやられた」。
2023年からの再捜査――ここからは「捜査中」の領域
ここから先は、確定した事実ではない。峻別して読んでほしい。
2023年1月、オクラホマ州オセージ郡保安官事務所が、レイダーの手記類の再検討を始めた。2005年の逮捕時に押収された日誌、素描、未刊行の原稿。それをウィチタ警察から借り受け、地元の未解決事件と突き合わせる作業だった。
同年8月23日、エディ・ヴァーデン保安官の指揮でパークシティのレイダー旧宅跡が捜索された。目的は1976年6月、オクラホマ州ポーホスカのコインランドリーで最後に目撃されて消えた十六歳のチアリーダー、シンシア・ドーン・キニーの失踪事件との関連だった。ゲイリー・アプトン次席保安官は、レイダーがこの件と、1990年12月にミズーリ州マクドナルド郡で遺体が見つかった二十二歳のショーナ・ベス・ガーバー殺害の「最有力容疑者」だと述べた。
保安官事務所が公開した根拠のひとつは、レイダーの1976年の日誌にある「PJ-Bad Wash Day」という記述だ。PJは彼が使う「プロジェクト」の略。同じ記述に「C-9」とあり、これは未刊行原稿の第九章を指すという。ウィチタを離れていた時期の記録である、というのが捜査側の説明だった。また、キニーが消えたコインランドリーの向かいの銀行で、当時ADTの警報装置が入れ替えられていた。レイダーは当時ADTの地域設置担当だった。ただし保安官自身が、レイダーがその工事を担当したかは確認できていないと認めている。
そして2023年9月11日、地元のマイク・フィッシャー地方検事は記者会見で、現時点で起訴できるだけの証拠はない、と明言した。彼はオクラホマ州捜査局に正式な捜査開始を要請し、起訴に足る証拠が出れば起訴すると述べたが、それは裏を返せば、いま出ていないということだ。
2024年、保安官は旧宅跡から見つかったクロスワードパズルがキニーの失踪と結びつくと述べ、遺体がカンザスとオクラホマの州境近くの古い納屋に埋められている可能性を示唆した。失踪から数か月後に匿名の通報があったこと、近年レイダーの獄中通信から古い納屋に隠したものがあるという内容が把握されたことを根拠に挙げている。キニーの遺体は今も見つかっていない。レイダーはキニー殺害を否定している。
ケリー・ローソンは2023年からこの再捜査に協力し、志願で捜査官の立場を得て、二度父に面会した。2025年の時点で、ドキュメンタリーの監督は「オセージ郡の捜査からは実質的な証拠は出ていない」と述べている。新たな起訴は一件もない。
したがって、現時点で書けることはこうだ。デニス・レイダーが有罪を認め有罪判決を受けたのは十件。周辺の未解決事件については捜査が続いており、立証はされていない。アプトン次席保安官は「被害者がもっといる可能性は排除できない。三十年近く活動していた連続殺人犯だ、長い年月だ」と述べたが、これは可能性の表明であって、事実の認定ではない。ケリー・ローソン自身も、父の被害者は十人より多いと思うと公言しているが、彼女もまた確定的なことは言っていない。
なぜこの事件は、いまも人を眠れなくするのか
BTK事件の恐ろしさは、殺人の残虐さだけではない。もっと厄介な場所に刺さっている。
第一に、彼が完全に「こちら側」の人間だったことだ。教会の信徒会長。日曜にろうそくに火を点け、音響設備を直し、牧師と同じくらい教会にいる男。カブスカウトの指導者。市の職員。三十年住んだ家。妻と子ども二人。犯行の全期間、彼は結婚していた。妻も子どもも、逮捕の日まで何一つ知らなかった。牧師も、四百人の信徒も知らなかった。「怒っているところも、激高したところも見たことがない」と牧師は言っている。
第二に、彼が獲物を選ぶ基準が、ほとんど無かったことだ。若い女性も、六十代の女性も、九歳の男の子も、十一歳の女の子も、成人男性も含まれる。共通点は「その日、その家にいた」ということだけに近い。行動半径は、職場と、家と、教会と、スカウトの活動範囲。つまり日常の動線の上で人を殺していた。マリーン・ヘッジは六軒隣で、彼女を殺した男は翌朝、何食わぬ顔で自宅に戻っている。
第三に、彼が「読まれること」を求めた点だ。彼は名前を欲しがった。「あと何人殺せば新聞に名前が載る?」という一行は、この事件のすべてを説明している。ふつう、犯罪者は隠れる。彼は隠れながら宣伝した。詩を書き、章立てを作り、自伝を偽造し、自分に付ける名前を投書で募集した。事件が「BTK」という呼び名で記憶されていること自体が、彼のマーケティングの成果である。この不快さは、いまも消えない。
第四に、彼を捕まえたのが、その虚栄心そのものだったことだ。三十年間、証拠は彼を指さなかった。彼を指したのは、彼が自分で出した手だった。しかも、その手が最悪の手だと分からないほど、彼は自分が使っていた技術に無知だった。三十年近く警報装置を売っていた男が、駐車場に防犯カメラがあることを知らず、消したファイルが消えないことを知らなかった。
第五に、被害が終わっていないことだ。ビル・ウェゲルは十八年間、妻殺しの疑いを着せられた。スティーヴ・レルフォードは五歳で母の死を見て、二十七年間誰にも話せず、依存症と刑務所を往復した。ケヴィン・ブライトは五十年以上、体温調節のできない体と、食事の場に加われない体で生きている。ケリー・ローソンは、自分が知らないうちに採られた検体で父の正体が確定したことを、後から知らされた。この事件の被害者は、殺された十人だけではない。
彼が欲しかったのは観客ではなく、索引付きの記録だった
ここからは腰を据えて、事件全体を俯瞰したときに見えてくる、少し込み入った話をする。
まず、この事件を「劇場型犯罪」という言葉で片づけるのは、たぶん間違っている。劇場型という言い方は、犯人が観客を意識して演じている、という構図を前提にする。だがレイダーの通信を年代順に並べると、彼が意識していたのは観客ではなく、記録だったように見える。
1974年の最初の手紙で、彼はすでに「コードネーム」を宣言している。1978年には自分に付ける名前を候補ごと提示し、選ばせている。2004年に再開したとき、真っ先に送ってきたのは「BTKストーリー」という本の章立てだった。それも、他人がオンライン記事で書いた自分についての構成を、そっくりコピーした章立てだ。2004年10月の自伝は、生年も父の死因も出身も全部でたらめだった。つまり彼は、自分の伝記を「正しく」書きたかったのではない。自分の伝記が「存在すること」を欲していた。
このことは、彼が事件を「プロジェクト」と呼び、番号を振り、鞄を「ヒットキット」と名付け、通信に「#」で連番を付けようとしたこととつながっている。彼が求めていたのは、自分の人生が索引付きの記録になることだ。市の遵法監視員として、犬一匹の反則切符に分厚いファイルとインデックスタブを用意した男。この二つは同じ人格の同じ機能である。
ここに、あの「フロッピーで送っていいか」という質問の本当の意味がある。彼は「もっと大量に、もっと整理された形で送りたい」と考えていた。紙では追いつかない。彼は、自分のアーカイブを警察に納品しようとしていた。取調べで彼は、BTKとして「引退」したかった、ノートとフォルダの中身をコンピューターのディスクに移して貸金庫に入れたかった、と述べている。
ランドワーが仕掛けた嘘の恐ろしいところは、その欲望に正確に寄り添った点だ。「Rex、大丈夫だ」。この六文字が意味していたのは、追跡されない、という技術的な保証ではない。お前の記録は受け取られる、という承認だった。彼が「信頼関係ができていたと思っていた」と言うのは、被害妄想でも自己憐憫でもなく、たぶん彼の主観としては本当だ。三十年間、彼は誰とも自分の「作品」の話ができなかった。ようやく、真剣に読んでくれる相手が現れた。しかもその相手は殺人課の警部補で、返事を新聞に載せてくれる。
二十五年の沈黙は、治ったからではない
この事件の背骨も見ておきたい。1979年から2004年までの二十五年、彼は一通も送らなかった。1991年から2005年まで、一人も殺さなかった。この空白をどう読むか。
取調べで彼が挙げた理由は、身も蓋もない。家族を育てるのが忙しくて、自分の望む水準の準備ができなかった。年を取ってきた。若い女性に手こずった経験がある。女に組み伏せられることほど屈辱的なことはない。彼はストーキング自体は続けていたが、実行に移さなかった、と説明した。1980年代には二人の女性をつけ回し、1990年代半ばには一人の女性が接近禁止命令を裁判所に申し立てている。
つまり彼は「治った」のでも「満足した」のでもない。単に、割に合わなくなっただけだ。この身も蓋もなさは、連続殺人を病理として語りたがる語り口に対する、かなり冷水を浴びせる事実だと思う。彼自身は自分の衝動を「Factor X」と呼び、自分では制御できない超自然的な力のせいにした。だが実際には、コストとリスクを計算して手を止めていた。制御できていた、と言っていい。
娘のケリー・ローソンは、この二重性について興味深い証言をしている。父はそれを「コンパートメンタリゼーション」、つまり区画化という言葉で説明したという。家族といるときは「パパかデニス」で、一人になったときだけ「BTK」になる、と。彼女はこの説明を、単純な精神病質の診断とは相容れないと感じている。彼女の記憶の中の父は、同時多発テロで泣き、親族の死を悼み、娘の骨折に駆けつけた。「サイコパスとは何かについて、私たちは本を書き直す必要があるかもしれない」という彼女の一言は、専門家の言葉ではないが、この事件を考える上でいちばん誠実な問いだと思う。
伏せた新聞は、伏せたことまで書いた
報道と警察の関係についても書いておきたい。この事件では、メディアが何度も情報を握りつぶした。KAKEは葉書の「新聞のヒント」の一行を数週間伏せた。人形の入った包みの中身を放送しなかった。ウィチタ・イーグル紙は最初の手紙について「二日待ってくれ」という刑事の要請を呑んだ。警察は2004年6月以降の投函物の詳細をほとんど公表しなかった。犯人が興奮して次の犯行に走るのを避けるためである。
これは今の基準で見ると、かなり際どい判断の連続だ。市民には知る権利がある。連続殺人犯が活動を再開していて、しかも次の獲物を物色していると自分で書いているのに、その文面を伏せていいのか。だが実際に伏せた結果、彼は殺さずに送り続け、送り続けた結果、捕まった。イーグル紙は自社が事件の当事者になったことを隠さず、封筒が編集局の中をどう回ったかまで記事にした。この透明さが、伏せた判断への信頼を支えていた。
ちょうど、誰もメタデータを知らなかった短い窓の時期
デジタル・フォレンジックの話に戻る。この事件が二〇〇五年に起きたことの意味は大きい。あと五年遅ければ、彼はフロッピーではなく、匿名のメールか掲示板を使っていただろう。あと十年早ければ、そもそもメタデータという概念が捜査の道具箱に入っていなかった。ちょうど、個人が文書ファイルを日常的に作るようになり、しかもそのファイルが自分について何を喋るかを誰も知らなかった、その短い窓の時期に、彼は最後の一手を打った。
その意味で、この事件は技術史の一断面でもある。今なら、スマートフォンで撮った一枚の写真が撮影地点と機種と時刻を持ち歩いていることを、たいていの人が知っている。その常識を作った事件のひとつが、これだ。
十人の名前は、ひとつの略称より長い
最後に、この事件から一番遠いところにある話をしたい。
法廷で読み上げられた被害者遺族の言葉を並べ直すと、ある共通点が見えてくる。彼らのほとんどが、犯人ではなく、失われた側の人生について話しているということだ。
ケヴィン・ブライトは、姉が二十一歳でどんな人だったかを話した。ビヴァリー・プラップは、自分の子どもに叔母がいないことを話した。ステファニー・クラインは、母が孫を抱けなかったことを話した。ジェフ・デイヴィスは、あれだけ激しい言葉を並べたあとで、今日を報復ではなく祝祭の日にすると宣言した。ダニー・オテロは、法廷に座った理由を「家族が最後に何を思ったのか知りたかった」と説明した。
そしてレイダーは、量刑審理の三十分を、被害者と自分の共通点を探すことに使った。彼女も詩が好き、自分も詩が好き。彼女も庭が好き、自分も庭が好き。同じ教会に通っていた。祖父母の農場で過ごした思い出があり、自分にもある。
この対比が、この事件のすべてだと思う。遺族は、失われた人を人として語った。犯人は最後まで、他人を自分の一部として語った。彼が三十一年かけて欲しがったのは、名前と、記録と、注目だった。そして皮肉なことに、彼はそれを手に入れた。事件は彼の付けた名前で呼ばれ、彼の書いた手紙は資料館に収まり、彼の名を冠したドキュメンタリーが世界中で配信されている。
だから、この事件について書くときに、一つだけ意識していることがある。彼が付けた名前で事件を呼ぶのは仕方がない。だが、名前を並べる順番は変えられる。ジョセフ・オテロ、ジュリー・オテロ、ジョセフィン・オテロ、ジョセフ・オテロ・ジュニア、キャサリン・ブライト、シャーリー・ヴィアン・レルフォード、ナンシー・ジョー・フォックス、マリーン・ヘッジ、ヴィッキー・リン・ウェゲル、ドロレス・アーリーン・デイヴィス。
十人の名前は、ひとつの略称より長い。それでいいのだと思う。
