一八二八年のエディンバラで、二人の男が十か月ちょっとの間に十六人を殺した。動機は怨恨でも狂気でもない。一体につき八ポンドから十ポンド。それだけだ。買い手は街で一番人気の解剖学講師で、死体の出どころを一度も訊かなかった。この話が怖いのは、誰も特別に異常じゃないところにある。全員がそれぞれの経済合理性に従って、静かに人を消していった。
石だらけの街に、人間が詰め込まれすぎていた
まず舞台を頭に入れてほしい。当時のエディンバラ旧市街は、ヨーロッパでも屈指の過密都市だった。丘の背骨に沿って高層の共同住宅がびっしり建ち、階段を上るほど家賃が下がる。一階に商店、上に貴族、さらに上に職人、最上階と地下に日雇いと物乞い。上下の階で人生がまるごと違うのに、同じ階段を使う。狭い路地は「クローズ」と呼ばれ、昼でも薄暗い。汚水は窓から捨てる。冬は石炭の煙で空が茶色く濁って、街全体が「オールド・リーキー」、つまり古い煙突というあだ名で呼ばれていた。
そこにアイルランドからの移民が大量に流れ込んでいた。飢饉と土地の細分化で食えなくなった小作の息子たちが、船賃だけ握って海を渡ってくる。運河工事、道路工事、港湾。仕事は季節ごとに切れる。切れたら宿代が払えない。払えなければ路上に出る。ウィリアム・バークもウィリアム・ヘアも、その流れの中にいた普通の一人だった。
バークはアイルランド生まれで、若い頃に一度は軍隊まがいの生活を経験し、妻子を置いてスコットランドに渡ってきた男だ。ユニオン運河の掘削工事に加わり、そこで生活を立て直す。手先は器用で、古靴の修繕を副業にしていた。運河でヘレン・マクドゥーガルという女と一緒になり、正式な結婚ではないまま暮らし始める。人当たりは悪くなかったらしい。歌が上手く、酒場で場を盛り上げるタイプ。後に彼を知る人間が口を揃えて言ったのは「あんな愛想のいい男が」という、あの決まり文句だった。
ヘアも同じくアイルランドから来た労働者で、運河で働いた後、エディンバラのウェスト・ポート地区に流れ着いた。タナーズ・クローズという路地に安下宿があり、そこの主人が死んだ後、未亡人のマーガレット・レアードと一緒になって宿を継いだ。宿と言っても聞こえがいいだけで、実態はベッドを並べただけの木賃宿だ。一泊三ペンス、二人で一つのベッド、シーツは何日も替えない。宿泊人の出入りは激しく、名前も本名かどうかわからない。誰かが消えても、誰も追わない。
この「誰かが消えても誰も追わない」という条件が、後で決定的な意味を持つことになる。
全部の始まりは、殺人ですらなかった
一八二七年十一月二十九日。ヘアの下宿に、ドナルドという名の年老いた宿泊人がいた。軍人年金を細々ともらっていた老人で、体は浮腫で腫れ上がっていた。今で言う心不全か腎不全の末期だろう。そして彼は、四ポンドの家賃を滞納したまま、ベッドの上で自然に死んだ。
誰も殺していない。ここは大事なところだ。この事件の第一歩は、完全に合法な死から始まっている。
困ったのはヘアだ。四ポンドは当時の日雇い労働者の一か月分以上の稼ぎに相当する。老人が死んだことで、その金は永久に回収不能になった。教区が用意した棺が届き、遺体が納められ、翌日には埋葬される段取りになっていた。
ヘアはバークに相談した。この時点でバークは同じ路地の別の部屋に住んでいて、二人はすでに酒飲み仲間だった。そして二人は、当時のエディンバラでは誰でも知っていた話を思い出す。医学校が死体を買う、という話だ。
やったことは単純で、そして図太い。二人は棺の蓋を開け、遺体を取り出し、代わりに樹皮を詰めて重さをごまかし、蓋を釘で打ち直した。空っぽの棺は、粛々と教区の墓地に埋められた。遺体は麻袋に入れて、二人が担いで夕暮れの街を歩いた。
行き先はサージョンズ・スクエア。エディンバラ大学の医学部とは別に、私立の解剖学校が軒を連ねる一角だ。二人は最初、どこへ持ち込めばいいのかすらわかっていなかった。学生らしき若者に道を尋ね、ロバート・ノックス博士の講義室を教えられている。この偶然が、その後の十か月を決めた。
ノックスの助手たちは麻袋の中身を検分し、七ポンド十シリングを支払った。バークとヘアにとっては、桁違いの金だった。四ポンドの焦げ付きが、倍近い現金に化けたのだ。
そして支払いの後、助手の一人が言った。またこういうものが手に入ったら、いつでも歓迎する、と。
この一言が、なければ何も起きなかったかというと、正直わからない。ただ、記録に残る限りで、二人の頭の中のスイッチが切り替わったのはこの瞬間だ。彼らは「死体を運ぶと金になる」ことを学んだ。問題は、都合よく死んでくれる人間がそう頻繁にはいない、ということだけだった。
金額表が、人間の値段になっていく
翌年に入って間もなく、ヘアの下宿にジョゼフという名の粉屋が病で寝込んだ。熱があり、他の宿泊人が嫌がるほど具合が悪い。宿の評判に関わる、というのが表向きの言い分だった。
二人はジョゼフを酒に酔わせ、その眠っている間に窒息させた。外傷が残らず、刃物も血も要らない方法だった。この手口は後に「バーキング」という名で呼ばれるようになる。ここでは、そう呼ばれた事実だけを記しておく。
ノックスの側は十ポンドを払った。ドナルドのときより高い。新しい遺体ほど高く売れる、というのがこの市場の鉄則で、二人はそれをすぐに理解した。
その後の記録は、ぞっとするほど事務的だ。二月十二日、アバゲイル・シンプソンという塩売りの女が、街道沿いから街へ売りに来て、ヘアの家に招き入れられ、飲まされ、翌朝には茶箱に詰められてサージョンズ・スクエアへ運ばれた。十ポンド。同じ頃、黄疸を患ったイングランド出身のマッチ売りが同じ運命をたどった。十ポンド。名前もわからない老女が一人、また一人。それぞれ十ポンド。
金額はほぼ固定されていた。若く新しい遺体は十ポンド、状態が落ちれば八ポンド。当時の熟練職人の週給が一ポンド前後だった時代の話だ。二人は、週に一回か二回、人を一人消すだけで、職人の二か月分を稼いでいたことになる。
そして誰も気づかなかった。理由は単純で、彼らが選んだのが「消えても誰も探さない人間」ばかりだったからだ。宿無し、行商人、街娼、身寄りのない老人、季節労働者。当時の旧市街には、そういう人間が何千人といた。役所は住民登録を持たず、教会の名簿にも載らない。生きている記録がない人間は、死んだ記録も残らない。
彼らは狩っていたのではない。制度の隙間に落ちた人を、そのまま拾い上げていただけだ。だからこそ止まらなかった。
メアリー・パターソンという名前が、記録から消えた朝
一八二八年四月。ここで一人、名前が残った犠牲者が出る。
メアリー・パターソン。ミッチェルという姓でも呼ばれた。二十歳前後で、貧しいながら整った顔立ちをしていたと伝わる。彼女は街娼として働いていて、その晩はジャネット・ブラウンという同じ稼業の友人と一緒だった。二人は朝方まで飲み歩き、明け方の酒場でバークと出会う。
バークは二人を、弟のコンスタンティンの家に連れて行った。ウイスキーを買い、朝食を出し、上機嫌で世間話をした。メアリーは飲みすぎてテーブルに突っ伏して眠った。ジャネットはまだ起きていた。
そこへヘアが来て、口論になった。バークとヘアが言い争い、女たちが怖がって、ジャネットは一度外に出る。しばらくして戻ってくると、メアリーはいなくなっていた。バークは、彼女は行商人の男と一緒にグラスゴーへ行ったと説明した。ジャネットは納得しなかったが、それ以上どうすることもできなかった。
彼女は何度も戻ってきて、メアリーはどこかと尋ねている。その執拗さが記録に残っているのがせめてもの救いだ。友人が消えて、探した人間がいた。それだけの事実が、彼女の名前を歴史に残した。
メアリーの遺体は、その日のうちにノックスの元へ運ばれた。八ポンド。学生たちが後に語ったところによれば、遺体はまだ温かかったという。若く、健康で、傷一つない女性の遺体。それは解剖学校にとって、教材としては最上級の品だった。ノックスの側はこれをすぐに解剖せず、ウイスキー漬けにして三か月ほど保存したと言われる。
ここには有名な伝説がついている。学生の一人が彼女を見て「昨夜一緒にいた女だ」と叫んだ、という話だ。ただしこの逸話については、後に歴史家のリサ・ロズナーが、同時代の記録に裏付けがないと指摘している。ゴーストツアーの語りとして完成度が高すぎるのだ。何十年も後の回想録に混入した記憶違いか、あるいは後から作られた寓話である可能性が高い。
私は、この伝説が広まった理由の方に興味がある。人は「解剖台の上で知り合いの顔を見てしまう」という状況に、抗いがたく惹きつけられる。それはたぶん、匿名で処理されていく死体の山に、無理やり名前を貼り付けたいという欲求の裏返しだ。皮肉なことに、その欲求は当時の社会が持っていなかったものだった。
街のみんなが知っていた青年、「愚者のジェイミー」
一八二八年十月。この事件で最も多くの人に惜しまれた犠牲者が出る。
ジェームズ・ウィルソン、十八歳。足に変形があり、内反足のような歩き方をしていた。知的な障害があり、母と姉と暮らしながら、日中は旧市街を歩き回って施しを受けて生きていた。人々は彼を「愚者のジェイミー」と呼んだ。現代の感覚では到底許されない呼び名だが、当時それは侮蔑というより、街の共有財産に対する雑な愛称に近かった。
彼は有名人だった。ハイストリートを歩けば誰かが声をかけ、パン屋がパンをくれ、子供が後をついて回った。記憶力がよく、聖書の一節を暗唱できたという話も伝わっている。酒は飲まず、嗅ぎ煙草が好きだった。乱暴なことはせず、誰にも害を与えなかった。
ヘアは彼を、母親を探してやると言って下宿に連れ込んだ。酒を勧めたが、ジェイミーは酒より嗅ぎ煙草を好んだので、思うように酔わなかった。彼は最後まで抵抗した。二人がかりでようやく取り押さえられたと、後の告白は記している。この抵抗の記録は、彼の尊厳が最後まで彼のものだったことの証明として、私は残しておきたいと思う。
殺害の後、バークはジェイミーの嗅ぎ煙草入れを自分のものにした。ヘアはその匙を取った。人ひとりの命を金に換えて、その上で持ち物まで戦利品にした。この細部が、この事件のどうしようもない卑しさを一番よく表している。
遺体がノックスの元に届くと、解剖室で異変が起きた。学生の何人かが、その顔に見覚えがあった。街で毎日見かける、あの青年だ。ざわめきが起きた。
このとき、ノックスの側が何と答えたかについては、複数の証言が食い違っている。彼は「これはジェイミーではない」と否定したとも、学生の指摘を一蹴したとも伝わる。確実なのは、その遺体が通常の手順を飛ばして、異例の早さで解剖されたことだ。しかも最初に頭部と両足が切り離された。ジェイミーを識別できる特徴は、その顔と、あの特徴的な足だった。
これを偶然と呼ぶのは無理がある、と多くの人が当時から思った。だが「無理がある」と「立証できる」の間には、法廷ではとてつもなく深い溝がある。
ハロウィンの晩、藁の山の下で終わった
一八二八年十月三十一日。ハロウィンだ。
マージョリー・キャンベル・ドハティ。記録によってメアリー・ドハティ、あるいはキャンベル夫人とも書かれる。アイルランド出身の中年女性で、行方のわからない息子マイケルを探して、グラスゴーとエディンバラの間を行き来していた。その日、彼女は疲れ切って、ウェスト・ポート近くの食料品店で足を止めていた。
そこにバークがいた。彼女の話を聞き、こう言った。うちの母の旧姓もドハティだ、同じ土地の出だ、遠い親戚かもしれない、と。
これが一番きつい。彼女は息子を探していた。そこに「身内かもしれない」と言われたのだ。断る理由がない。彼女はバークについていった。
その晩、バークの住まいでは酒盛りが開かれた。バークとヘレン・マクドゥーガル、ヘア夫妻、そしてジェームズ・グレイとアン・グレイという二人の下宿人がいた。バークはグレイ夫妻に金を渡し、今夜はヘアの下宿で寝てくれと頼んでいる。理由は、ベッドが要るから。グレイ夫妻は不審に思いながらも従った。
九時頃、グレイ夫妻が忘れ物を取りに一度戻ってきた。部屋の中では全員が酔って歌い、踊っていた。ドハティも一緒に楽しそうにしていたという。ハロウィンの夜だ。旧市街のあちこちで、似たような騒ぎがあっただろう。
十一時半頃、近所の住人が悲鳴と争う物音を聞いている。誰かが警察を呼べと叫んだように聞こえた、と証言した者もいた。音はすぐに止んだ。誰も出てこなかった。ハロウィンの夜に騒音が聞こえても、それはただの騒音だった。
翌朝、グレイ夫妻が朝食に戻ってくる。ドハティの姿がない。マクドゥーガルは、あの女は馴れ馴れしすぎたから追い出した、と説明した。
そしてバークは、部屋の隅にある藁の山に近づくな、と繰り返した。アン・グレイはそこに靴下を置いていた。取りに行こうとするたびに止められた。夫婦は不審を募らせた。
夕方、家の中にグレイ夫妻だけになった一瞬があった。アンは藁をかき分けた。
女の腕が出てきた。顔には血と唾液が付着していた。
十ポンドの口止め料を蹴った二人
グレイ夫妻は家を飛び出した。階段の途中でマクドゥーガルが追いすがり、週に十ポンド払うと言った。彼らが一年働いても届かない額だ。
アン・グレイは断った。ジェームズ・グレイも断った。二人は警察へ向かった。
この選択が、十六人目で連鎖を止めた。もし彼らが金を受け取っていたら、犠牲者はもっと増えていたはずだ。この事件で唯一きれいな部分は、ここしかない。歴史はしばしば、無名の人間の一瞬の判断で向きを変える。
グレイ夫妻が通報している間に、バークとヘアは遺体を茶箱に詰めてサージョンズ・スクエアへ運んだ。ノックスの側は二ポンド十シリングを内金として支払った。全額でないのは、時間帯と状態の問題だったらしい。
十一月二日、警察が動いた。バークの部屋には遺体はなかったが、ベッドの下から血の付いた衣類が見つかった。バークとマクドゥーガルは、ドハティは昨夜出て行ったと主張した。だがその「出て行った時刻」が、二人の証言で食い違った。これが決定的だった。
同じ日、警察はサージョンズ・スクエアで、まだ茶箱に入ったままのドハティの遺体を発見する。グレイ夫妻が見せられて、これがあの女だと確認した。
バーク、マクドゥーガル、ヘア、そしてヘアの妻マーガレットが逮捕された。バークの従兄弟のブロガンも一度拘束されたが、起訴されずに釈放されている。
検察の手元には、死体しかなかった
ここから話は、恐ろしいほど法律の話になる。
警察医のアレクサンダー・ブラックが遺体を検分した。その後、当時のスコットランド法医学の第一人者だったロバート・クリスティソン、そしてウィリアム・ニュービギングが鑑定に加わった。
三人の結論は、控えめに言って歯切れが悪かった。窒息死の可能性が高い。だが、断定はできない。
理由は、この手口の性質にある。首を絞めれば頸部に痕が残る。刃物を使えば創口が残る。だが口と鼻を塞ぐ方法では、外表所見が乏しい。おまけに酩酊状態の遺体は、自然死との区別がつきにくい。十九世紀初頭の法医学には、それを覆せるだけの武器がなかった。
つまり検察は、こういう立場に置かれた。遺体はある。状況は真っ黒だ。だが「これは殺人である」と医学的に証明できない。
そして目撃者もいない。部屋にいたのは加害側の四人だけだ。四人とも黙っていれば、この裁判は崩れる。
そこで検察トップのウィリアム・レイ卿は、十二月一日、決断を下した。ヘアに司法取引を持ちかけたのだ。すべてを話せば、訴追しない。
スコットランドの法制度には、当時から「国王側の証人」という仕組みがあった。共犯者に免責を与えて証言させる。今の司法取引の原型だ。しかもスコットランド法では配偶者に不利な証言を強制できなかったため、ヘアの妻マーガレットにも同様の扱いが及んだ。
ヘアは応じた。そしてすべてを話した。十六人分を、順番に。
クリスマスイブに開廷し、クリスマスの朝に評決が出た
一八二八年十二月二十四日午前十時、エディンバラのパーラメント・ハウスにある高等司法裁判所で、公判が始まった。裁判長は司法書記長のデイヴィッド・ボイル卿。陪席として三人の裁判官が並んだ。
法廷は午前九時の開場と同時に満員になった。外には群衆が押し寄せ、三百人の警官が整理にあたり、歩兵と騎兵が待機した。エディンバラ中がこの日を待っていた。
被告はバークとヘレン・マクドゥーガルの二人。起訴されたのは、メアリー・パターソン、ジェームズ・ウィルソン、マージョリー・ドハティの三件の殺害だった。
冒頭、弁護側が異議を申し立てた。バークの弁護人ジェームズ・モンクリーフは、時期も場所も異なる三件の別々の殺人を一括して審理するのは不当であり、しかも共同被告のマクドゥーガルは三件のうち二件に関与したと主張すらされていない、と述べた。
法的にはこの主張が通った。裁判所は起訴を分割し、一件ずつ審理することにした。
そこでレイ卿は、ドハティ事件を選んだ。理由は明快で、この件だけは遺体が押収されていたからだ。パターソンとウィルソンの遺体はとうに解剖され、何も残っていない。証拠が物理的に消滅していたのだ。
つまりこの裁判では、十六人のうち十五人分が、最初から審理の対象外になった。
午後、バークとマクドゥーガルが罪状を否認した。証人として五十五人がリストに載っていたが、全員は呼ばれなかった。
そして重要な事実がある。ロバート・ノックス本人と、彼の助手のうち三人は、証言台に立たなかった。呼ばれなかったのか、避けたのか。記録に残るのは、彼らが法廷で質問されなかったという結果だけだ。
ノックスの側から証言したのは、実務を担当していたデイヴィッド・パターソンという助手だけだった。彼はバークとヘアが複数回にわたって遺体を持ち込んだ事実を認めた。だが、彼らが殺人者だと知っていたかどうかについては、否定した。
証言台のヘアは、驚くほど落ち着いていた
夕方、ヘアが証言台に立った。
彼の証言の骨格は一貫していた。殺したのはバークだ。自分は運んだだけだ。マクドゥーガルは、逃げ出したドハティを二度も連れ戻した。
免責の条件により、彼はドハティ事件についてだけ答えればよかった。他の十五件について問われても、答える義務がなかった。弁護側がその点を突こうとしても、裁判所がそれを認めなかった。
法廷にいた記者たちの記録によれば、ヘアの態度は落ち着いていて、時折笑みすら浮かべたという。自分の首がかかっていないことを、彼は完全に理解していた。
続いてマーガレット・ヘアが証言台に立った。彼女は百日咳を患った赤ん坊を抱いて入廷した。子供が咳き込むたびに証言が中断し、その間に彼女は考える時間を稼いだ。都合の悪い質問には、覚えていないと答えた。何度も、覚えていないと。
これを見ていた傍聴人がどう感じたかは、想像に難くない。二人の殺人者が、赤ん坊を盾に、無傷で法廷を出ていこうとしていた。
医師たちの証言は、検察の期待に応えなかった。ブラックもクリスティソンも、疑わしいとは言ったが、殺人の医学的証拠はないと明言した。正直な専門家証言だったが、検察には痛かった。
弁護側は証人を一人も立てなかった。代わりに、逮捕直後の被告の供述書が読み上げられた。
バークの弁護人が最終弁論を始めたのは、翌二十五日の午前三時。二時間しゃべった。マクドゥーガルの弁護人が陪審に語りかけたのは午前五時。裁判は丸一昼夜にわたって続いていた。
ボイル卿が陪審に説示を与え、陪審が退廷したのは、クリスマスの朝八時半だった。
五十分後、彼らは戻ってきた。
「立証不十分」という、スコットランドだけの第三の答え
バークは有罪。マージョリー・ドハティ殺害について。
ヘレン・マクドゥーガルは「立証不十分」。
この評決はスコットランド法特有のもので、有罪でも無罪でもない第三の選択肢だ。ざっくり言えば「たぶんやったが証明できていない」という意味になる。効果としては無罪と同じで、被告は釈放される。だが名誉は回復されない。
法廷でこの評決を聞いたマクドゥーガルは、バークの方を向いてこう言ったと伝わる。もう会えないのね、と。バークは、心配するなと答えたという。
ボイル卿がバークに言い渡した判決は、当時の慣行に従ったものだった。絞首刑。そしてその遺体を公開解剖に付す。
さらに彼はこう付け加えた。もし骸骨を保存する慣習があるのなら、お前のものは保存されるべきだと思う。後世が、お前の凶悪な犯罪を記憶し続けられるように。
これは判決文の付言であって、法的な命令ではない。だが結果として、その通りになった。二百年近く経った今も、その通りのままだ。
釈放されたマクドゥーガルは、翌日ウイスキーを買いに出たところを群衆に見つかり、袋叩きにされかけた。警察署に保護されたが、群衆が署を包囲したため、裏窓から逃げ出している。バークに面会を求めたが断られ、翌日エディンバラを去った。その後の消息は、はっきりした記録がない。
独房で書かれた、二つの告白
死刑判決の後、バークは二つの告白を残している。これがこの事件の一次資料の中核だ。
一つ目は、判決直後の一八二九年一月三日に、司法当局の立ち会いのもとで取られた公式の供述。カトリックの司祭と長老派の聖職者の説得を受けて、彼は詳細を語った。
二つ目は、地元紙の関係者が独房で聞き取ったとされる、いわゆる新聞版の告白だ。
二つの告白は、大枠では一致する。犠牲者の順序、手口の概略、支払われた金額。だが細部では食い違う。特に責任の配分において。
公式の告白でバークは、殺害の多くをヘアが主導したと述べている。最初のジョゼフを殺そうと言い出したのはヘアだ、と。一方で、ペギー・ハルデインという女性については、ヘアの手を借りずに自分一人で殺したことを認めている。ここは彼が言い逃れをしなかった数少ない箇所だ。
告白の中で最も生々しいのは、六月に殺された老女と、その孫にあたる口のきけない少年についての部分だ。バークは、この二人の件が一番自分を苦しめたと述べている。少年の顔の記憶が消えない、と。処刑を待つ独房の中で、彼はその顔を繰り返し見ていた。
もう一つ、告白の中でバークは、ある一点についてはっきりと述べている。ノックス博士は自分たちに殺人を教えたことも、けしかけたこともない、と。この一文は、後にノックス擁護派が最も強く引用することになる文言だ。
同時にバークはこうも言っている。遺体をどうやって手に入れたのかについて、誰からも質問されたことはなかった、と。
この二つの文は矛盾しない。そして、その矛盾のなさこそが、この事件で一番居心地の悪い部分だ。「教えていない」と「訊かなかった」は両立する。両立してしまうから、責任の所在が宙に浮く。
そしてバークは、自分に払われるはずだった最後の五ポンドを、まだ受け取っていないと不満を漏らしている。処刑を目前にした男が、未収金の話をしている。この一節を読んだとき、私は正直、背筋が寒くなった。彼にとって最後まで、これは商売だったのだ。
一月二十八日、街が処刑を見に来た
一八二九年一月二十八日、リバートンズ・ウィンド。
集まった群衆の数は、記録によって二万五千人とも、三万五千人とも言われる。当時のエディンバラの人口を考えると、成人市民の相当な割合がその場にいた計算になる。
処刑台を見下ろせる位置にある共同住宅の窓は、貸し出された。値段は五シリングから二十シリング。裕福な見物客のためには、一ギニーを超える席も用意されたという。処刑は興行だった。
前夜から雨が降っていた。当日の朝も濡れていた。それでも人は来た。
バークが現れると、群衆から轟音のような叫びが上がった。同時代の記録は、彼が最初は比較的しっかりした足取りで歩き、しかしどこか定まらない様子だったと書いている。台に上がって群衆の方を向いたとき、彼は挑むような表情を見せ、それがさらに大きな怒号を呼んだ。
群衆が叫んでいたのは、彼を罵る言葉だけではなかった。もっと大きな声で、繰り返し叫ばれた言葉があった。
ヘアを出せ。
処刑されるべきもう一人が、ここにいない。二万五千人がそのことを知っていて、そのことに怒っていた。バークの絞首刑は、司法の勝利としてではなく、司法の不完全さを見せつける場として記憶された。
最後の瞬間、彼はもう抵抗する気力を失っていたと記録は伝える。司祭が耳元でささやく祈りの言葉を、意味も分からないまま繰り返していた、と。
落下の距離が短かったため、彼は即死しなかった。しばらく体が動き、手が痙攣した。それを二万五千人が見ていた。
遺体が下ろされると、群衆の一部が布切れを求めて殺到した。処刑された人間の遺品には呪術的な価値があるとされていたのだ。警官が押し戻した。
解剖台の上のバーク、そして血で書かれた一行
二月一日、エディンバラ大学オールドカレッジの解剖学講堂で、判決通りの公開解剖が行われた。執刀したのは解剖学教授のモンロー。エディンバラの解剖学を三代にわたって支配した一族の三代目だ。
問題は、見たい人間が多すぎたことだった。医学生が講堂に押し寄せ、入れない者たちが騒ぎ出し、小規模な暴動になった。警察が呼ばれた。最終的に、解剖が終わった後に五十人ずつ順番に入れる、という条件で話がついた。
解剖そのものは二時間ほど。脳の重さが測られ、記録された。
その最中、モンローは羽ペンをバークの血に浸し、こう書いた。
これはウィリアム・バークの血で書かれた。エディンバラで絞首刑になった男の頭部から採取した血である。
この一枚は今もエディンバラ大学のアーカイブに保管されている。医学の権威が、判決の執行に自ら手を汚し、その事実をわざわざ血で書き残した。学術と見世物の境界が、この一行で完全に溶けている。
翌日以降、遺体は一般公開された。初日だけで三万人以上が列を作ったと伝えられる。処刑を見た人間が、今度は解剖された遺体を見に来た。
骨と皮になって、彼は残った
判決の付言は現実になった。
バークの骨格標本は、エディンバラ大学医学部の解剖学博物館に収蔵された。組み立てられ、立てられ、今も展示されている。約二百年、彼はそこに立ち続けている。
デスマスクとされる型がいくつか残っている。主要なものはサージョンズ・ホール博物館にあるが、興味深いことに、同館の保存修復担当者は、これはデスマスクではなく生前に取られた型かもしれないと指摘している。筋肉の緊張の具合と、髪の毛の跡が残っていることが根拠だそうだ。複製は各地の大学や博物館にも散らばっている。
そして、この事件で最も語られる遺物がある。彼の背中の皮でなめされ、装丁された小さな手帳だ。表紙には金の型押しで、バークの皮の手帳という意味の文字が入っている。裏には処刑の日付が刻まれている。人皮装丁と呼ばれる十九世紀の悪趣味な流行の、最も有名な現存例の一つだ。
別に、彼の左手の甲の皮で作られたとされる名刺入れもある。一九八八年のオークションで千五十ポンドで落札され、その後テレビの鑑定番組にも登場した。脳の一部とされる標本は、ロンドンの科学博物館に保管されている。
こうして彼は、殺した人間たちよりはるかに長く、はるかに具体的に残った。ここに、この事件の最終的な不均衡がある。十六人は名前すら半分しか残らなかった。殺した男は骨格標本になって現存している。
ヘアは、街から追い出されて、そのまま消えた
一方のヘアだ。
一月十六日、ジェームズ・ウィルソンの母と姉が、ヘアを訴追させるための申し立てを高等法院に行った。免責は不当であり、私訴を認めるべきだという主張だった。
裁判官たちは四対二で却下した。理由は法技術的なもので、いったん与えた免責を覆せば、国王側の証人制度そのものが機能しなくなる、というものだった。制度の一貫性が、遺族の訴えより優先された。
マーガレット・ヘアは一月十九日に釈放された。彼女はグラスゴーへ向かい、アイルランド行きの船を待った。だがそこで顔が割れ、群衆に襲われた。警察署に保護され、最終的に警官の護衛付きでベルファスト行きの船に乗せられた。上陸後の消息は不明だ。
ヘア本人は二月五日に釈放された。それまで拘留が続いたのは、罪状のためではなく、彼の身の安全のためだった。外に出せば殺される、と当局が判断していたのだ。
彼は変装して郵便馬車に乗せられ、南のダンフリースへ向かった。ところが道中の停車地で、ウィルソン家の代理人だった若手弁護士に顔を見破られる。その弁護士は、同乗の乗客たちに、この男がヘアだと告げた。
ダンフリースに着く頃には、宿の前に群衆ができていた。警察は囮の馬車を用意し、ヘアを裏窓から出して、町の監獄へ避難させた。群衆は監獄を取り囲み、扉と窓に石を投げた。百人の特別警官が投入されて、ようやく事態が収まった。
明け方、保安官の役人と民兵に護衛されて、ヘアは町の外に連れ出された。イングランド国境へ向かう道の途中で下ろされ、あとは歩けと言われた。
そこから先、信頼できる目撃記録は一つもない。
彼のその後については、無数の噂が流れた。石灰採掘場で働いていて正体がばれ、仲間に石灰の中へ投げ込まれて失明したという話。ロンドンのオックスフォード街で盲目の物乞いをしていたという話。アイルランドへ戻ったという話。アメリカへ渡ったという話。
どれも裏付けがない。彼がいつどこで死んだのか、誰も知らない。この事件で最も罰を受けるべきだった人物は、記録の外へ歩いて出て行って、それきりだ。
論争その一、ノックスは知っていたのか
これが二百年近く議論され続けている問いだ。まず、確定している事実だけを並べておく。
ロバート・ノックスは訴追されていない。有罪判決も受けていない。彼の関与を示す証拠は法廷に提出されなかった。彼を調べた委員会は、ノックスもその助手も、遺体の入手過程で殺人が行われていたことを知っていた証拠は見当たらない、と結論した。これが司法上および公式の記録だ。
一方で、彼が疑われた理由も明確だ。バークとヘアは十か月間、決まった相手に、決まった頻度で、極めて新鮮な遺体を持ち込み続けた。土が付いていない。腐敗が進んでいない。埋葬用の死装束を着ていない。墓から掘り出した遺体には必ずある特徴が、一つもなかった。
さらに、アバゲイル・シンプソンの遺体を見たノックスは、これは実に新鮮だと述べたと伝えられる。そして質問はしなかった。ジェームズ・ウィルソンの件では、学生が身元に気づいたにもかかわらず、通常と異なる順序で頭部と足が先に切除された。
擁護論も強い。ノックスの解剖学校はその年だけで百体前後の遺体を扱っていた。バークとヘアの十六体は、その六分の一程度にすぎない。当時、エディンバラの解剖学校はどこも出所の怪しい遺体を買っていた。全部を疑っていたら教育が止まる。そして何より、経験を積んだ三人の外科医が最後の遺体を検分してなお、他殺と断定できなかった。素通りしたのがノックスだけを責められる話なのか、という反論には一理ある。
さらにバーク自身が、ノックスは殺人を教えもけしかけもしていないと告白で明言している。加害者本人による免罪だ。
だが、擁護論には限界もある。当時のジャーナリストや同時代人の多くは、ノックスが「意図的に知ろうとしなかった」と考えた。ずっと後になって当時の関係者が振り返った際にも、ノックスは故意の無知という点で道義的に責められるべきだ、という表現が使われている。
つまり争点は「知っていたか」ではなく「知らずにいることを選んだか」に移る。そしてそれは、法廷が扱える種類の問いではない。
彼が受けた罰は、法によるものではなく社会によるものだった。エディンバラの群衆は彼の家に押し寄せ、窓を割り、彼の人形を燃やした。街の子供たちは、あの有名な戯れ歌を歌った。路地を上がって階段を下りて、バークとヘアの家がある、バークは肉屋でヘアは泥棒、ノックスは肉を買う男。
医学界は彼を守らなかった。同業の誰一人として、公然と彼を弁護しなかった。解剖には遺体が要る、という当たり前の事実を、誰も公の場で言わなかった。彼らは口をつぐんで、一人に全部を背負わせた。
その後のノックスは坂を転げ落ちる。外科医師会の博物館の学芸職を辞し、大学の要職から排除された。一八四二年にエディンバラを離れ、一八四八年には王立協会の会員資格を失い、最終的にロンドンで、がん病院の病理解剖医として細々と働いた。一八六二年に死んだ。
彼の名誉をさらに損なっているのは、実は事件の方ではない。一八五〇年に出した人種論の著書だ。人種こそがすべてを決めるという、露骨な人種主義の主張が並ぶ本で、アイルランドのカトリック教徒を土地から排除すべきだとまで書いている。事件で失った評判は同情の余地があると言う人もいるが、この本については弁護のしようがない。皮肉なことに、彼が最も軽蔑した種類のアイルランド移民二人によって、彼の人生は破壊されたのだった。
論争その二、ヘアの免責は正当だったのか
法律家の答えと、市民の答えが真っ二つに割れる問題だ。
法律家の側から言えば、あの取引には合理性がある。検察の手元には、医学的に殺人と断定できない遺体が一体あるだけだった。目撃者は共犯者しかいない。四人全員が黙秘すれば、全員無罪で終わった可能性が高い。実際、共同被告のマクドゥーガルですら立証不十分で釈放されている。つまり、証拠のハードルは本当に高かった。
一人を切って三人を、いや正確には一人を切ってせめて一人を確実に有罪にする。それが当時考えうる最善だった、という主張は成り立つ。
だが市民の側から見れば、これは説明のつかない不公平だ。ヘアは十六件すべてに関与している。バークの告白によれば、最初の殺人を提案したのはヘアだ。宿を経営し、犠牲者を招き入れる装置を持っていたのもヘアだ。彼はバークより深く関与していた可能性が高い。その男が、先に口を開いたというだけの理由で、無傷で出ていった。
処刑の朝に二万五千人が叫んだ「ヘアを出せ」は、まさにこの感情の表明だ。
しかも、当時の司法取引には現代のような制度的な歯止めがなかった。ヘアの証言の信憑性を検証する仕組みがない。彼は自分の役割を最小化して語ることに完全な利益があった。その証言によって、もう一人が死んだ。
ウィルソンの母と姉が起こした申し立てが四対二で退けられたことも、後味の悪さを増している。二人の裁判官は、遺族の訴えに理があると考えたのだ。全会一致ではなかった。
私はこの問題に、きれいな答えがあると思っていない。ただ一つ確実なのは、この事件が、司法取引という制度の根本的な問題を最初に大衆の目の前に晒した事例だということだ。犯罪を早く自白した者ほど得をする。この構造は今も変わっていない。
論争その三、本当に十六人だったのか
十六という数字は、実はかなり脆い土台の上に立っている。
出所は、バークの二つの告白と、ヘアの供述だ。つまり全部、加害者の自己申告である。物的証拠が残っているのは最後の一人だけ。遺体は全部解剖されて、この世に存在しない。
この数字が多すぎる可能性も、少なすぎる可能性も、両方ある。
多すぎる方の理屈はこうだ。バークは告白の中で、責任をヘアに寄せる動機を持っていた。件数を膨らませて劇的にする理由はあまりないが、記憶違いは十分にありうる。十か月間、彼はほぼ常に酔っていた。日付も順序も曖昧だ。実際、二つの告白の間で細部が食い違っている。
少なすぎる方の理屈はもっと不気味だ。二人は最初のドナルドの一件で味を占め、そこから殺人に移行した。だが、その間に「たまたま死んだ人間」の遺体を売った回数が何度あったのかは、誰にもわからない。宿には常に病人がいて、常に人が死んだ。殺人ではないが、通報もされなかった死。それがどれだけあったか。
また、二人が売ったすべての遺体がノックスの記録に残っているわけでもない。当時の解剖学校は、仕入れ台帳を丁寧に残す商売ではなかった。
歴史家のリサ・ロズナーは、この事件について、通説として流通している逸話の多くが同時代の記録に裏付けを欠くと指摘している。学生が解剖台の上でメアリー・パターソンに気づいたという話も、学生がジェイミーを見つけて当局に通報したことが捜査の端緒になったという話も、当時の文書からは確認できない。数十年後の回想録に登場する記憶が、後から史実として定着してしまったという構図だ。
実際の捜査の端緒は、もっと地味だった。下宿人夫婦が藁の下に腕を見つけて、警察に行った。それだけだ。
十六という数字は、だから「わかっている最低限の犯行数」として読むのが正しい。上限ではなく下限だ。この読み方をすると、この事件は少し違う顔を見せる。名前のない犠牲者たちの後ろに、記録にすら入らなかった誰かがいるかもしれない、という気配。それが一番怖い。
そもそも、なぜ死体が足りなかったのか
ここで背景の話をする。この事件は個人の悪意の物語である以上に、制度の失敗の物語だからだ。
十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて、エディンバラは世界有数の医学教育の中心地だった。大陸からもアメリカからも学生が集まった。外科医の教育は理論だけでは成り立たない。人体を切って、構造を覚えるしかない。
ところが、合法的に解剖に使える遺体は、法律上ほぼ一種類しかなかった。処刑された殺人犯だ。判決の一部として「その後解剖に付す」という文言が付く。つまり死刑執行と解剖はセットになった刑罰だった。
問題は数だ。ある年の統計では、イングランドとウェールズで千六百件を超える死刑判決が出たのに、実際に執行されたのは五十件程度だった。減刑と流刑が主流になっていたのだ。人道的な進歩である。だが医学校にとっては、供給の枯渇を意味した。
同じ頃の調査によれば、ある年に解剖された遺体が六百体足らずなのに対し、学生は七百人を超えていた。一体を何人もで囲む。実技にならない。
そして解剖学校は私営だった。学生は授業料を払って集まる。人気講師のところには何百人も集まった。ノックスの学校は最盛期に五百人を超える学生を抱えたと言われる。生徒が多ければ、必要な遺体も増える。教育の質を保つには、遺体を確保するしかない。確保するには、非合法の市場に頼るしかない。
つまり、需要と供給の落差が数十倍あった。しかも需要側は社会的に尊敬される職業で、供給側は誰も監督していなかった。こういう歪みが放置されれば、その隙間に必ず商売が生まれる。
復活屋という、夜の職業
その商売が「復活屋」だ。レザレクショニスト、あるいはボディスナッチャーと呼ばれた。
彼らの仕事は単純だ。新しい埋葬があった墓を掘り、遺体を運び出し、医学校に売る。小さなグループを組み、暗夜に働く。満月の晩は明るすぎて使えないので休む。
手際は洗練されていた。墓の全部を掘るのではなく、棺の頭側だけを掘り出す。木製のシャベルを使う者もいた。音が小さいからだ。棺の蓋の上に麻袋をかぶせ、その上に土の重みをかけて蓋を割る。音が布に吸われる。あとは遺体を引き出す。慣れた者なら三十分で終わったという。
ここに、法律の恐ろしい抜け穴がある。当時の英国法において、死体は誰の所有物でもなかった。所有物でないものは、盗むことができない。つまり遺体を持ち去っても、窃盗罪は成立しなかったのだ。
ただし、遺体に付属していた死装束や棺の付属品を持ち去れば、それは窃盗になった。だから復活屋は、掘り出した遺体を必ずその場で裸にし、衣類を墓に戻した。法律を熟知した上での行動だ。
彼らが訴追された場合の罪状は、墓地の平穏を乱したとか、公序良俗に反したといった曖昧なものになった。刑罰も軽かった。しかも起訴にこぎつけるのが難しい。証拠となる遺体は、その頃にはもう解剖されて存在しないからだ。
価格は変動した。ある証言によれば、一体につき二ギニーから二十ギニーの幅があり、標準的には八ギニー前後。男性の遺体は筋肉の観察に適するとして、女性より高く取引された。子供の遺体には別の呼び名があり、サイズごとに値がついた。歯は義歯の材料として別売りされ、髪は鬘に使われた。
情報網もあった。教会の書記、墓掘り人、葬儀屋。彼らが埋葬の予定を教え、分け前を受け取る。救貧院の職員を買収して、遺族を装って遺体を引き取る手口もあった。共同墓穴に投げ込まれた貧民の遺体は、穴が一杯になるまで数週間も土がかぶらないことがあり、掘る手間すらいらなかった。
ここが重要だ。この商売は、常に貧しい人間の遺体を狙った。金持ちの墓は守られていたからだ。
鉄の檻、見張り塔、そして眠れない夜
守るための道具が、実際に大量に作られた。今もスコットランドの古い墓地に行けば見ることができる。
最も有名なのがモートセーフだ。鉄格子や鉄板を組んだ檻で、棺ごとすっぽり覆って埋める。あるいは墓の上に鉄の格子を置き、石板で押さえる。数週間、遺体が腐敗して商品価値を失うまで設置し、その後外して次の埋葬に使い回す。共同で購入して貸し出す仕組みを持つ教区もあった。
金属の帯で遺体を棺の中に固定するタイプの棺もあった。特許を取った仕掛け付きの棺も売られた。蓋を開けようとすると内部のバネが作動して、こじ開けられなくなる。
墓地の入口には見張り塔が建てられた。遺族や近隣の男たちが順番に泊まり込み、銃を持って夜を明かす。エディンバラのいくつかの墓地には、この塔が今も残っている。
貧しい家では、そんな設備は買えない。だから遺族が交代で墓のそばに座った。冬の夜、埋めたばかりの土の上で、家族が寝ずの番をする。三週間ほど経てば、もう狙われない。それまでの我慢だ。
この光景を想像してほしい。愛する人が死んで、葬式が終わって、それでも夜ごと墓の前に座り続けなければならない。悲しむ時間を、警備の時間に奪われる。当時の貧しい人々にとって、死は解放ではなく、新しい心配事の始まりだった。
そして、モートセーフですら破られた記録がある。ある墓では、鉄の檻の下から空の棺が見つかった。埋葬の翌晩に開けられ、丁寧に閉め直されていた。誰が手引きしたかは明らかだった。
一八三二年、法律は誰を守ったのか
事件の直接的な帰結として、よく語られるのが解剖法の成立だ。だがこの話には、あまり気持ちのよくない結末がある。
まず時系列を正確にしておく。解剖に関する法案は、実は事件が発覚する前から動いていた。一八二八年半ばには、議会の特別委員会が設置され、四十人の証人から聴取を行っている。内訳は医師が二十五人、公職者が十二人、そして匿名の復活屋が三人。委員会は、解剖は医学に不可欠であり、供給を合法化すべきだと結論した。法案は起草されたが、一八二九年に貴族院で否決された。
その後、ロンドンで模倣事件が起きる。
一八三一年、ロンドン東部でジョン・ビショップとトマス・ウィリアムズという二人の男が、少年を殺して大学の医学校に持ち込んだ。世に言うロンドン・バーカーズだ。名前からして、エディンバラの事件が動詞になっていたことがわかる。
彼らが持ち込んだ遺体を見た解剖学の実習指導者は、すぐに異常に気づいた。顔が腫れ、目が充血し、そして何より新しすぎた。彼は警察を呼んだ。
被害者は十四歳前後の少年で、イタリア出身のカルロ・フェラーリという名の物乞いだとされた。後の研究では別人だった可能性も指摘されているが、いずれにせよ、街頭で生きていた少年だった。彼はネズミを入れた籠を持ち歩いて見世物にしていた。決め手になった証拠の一つが、ビショップの子供たちが持っていた白いネズミだ。
裁判は一八三一年十二月に開かれ、二人は死刑になり、公開処刑には数万人が集まった。処刑後、二人の遺体は解剖された。死体を売った男たちが、死体になって解剖された。
この事件が引き金になり、議会は一気に動いた。翌一八三二年八月、解剖法が成立する。
内容はこうだ。無縁の遺体、つまり救貧院や病院で死に、四十八時間以内に引き取り手が現れなかった遺体を、解剖に供することができる。同時に、殺人犯の遺体を解剖するという刑罰は廃止された。
ここで何が起きたか、はっきり書いておきたい。
それまで、解剖は殺人犯に対する刑罰だった。法律はそれを廃止し、代わりに貧民の遺体を解剖に回した。つまり、解剖の対象が「最悪の犯罪者」から「最も貧しい人」に置き換えられたのだ。
貧しい人々はこれを正確に理解した。彼らにとってこの法律は、貧乏であることが刑罰になったという宣言だった。救貧院で死ぬことへの恐怖は、この時期から劇的に高まる。葬式代を貯めるための互助組合が爆発的に増えたのも、この後だ。まともに埋葬されたい、それだけのために、生活を切り詰めて掛け金を払った。
法律は死体の供給を安定させ、医学教育を救った。同時に、貧困層の尊厳を制度的に切り下げた。この二つは同じ法律の表と裏だ。
そして皮肉なことに、解剖法は墓荒らしそのものを禁止しなかったし、死体の法的地位も明確にしなかった。それでも復活屋の商売は徐々に消えていく。供給が合法化されて、非合法市場の採算が合わなくなったからだ。市場を殺したのは道徳じゃない。採算だ。
名前が動詞になってしまうということ
英語には、バークという動詞がある。
もとの意味は、痕跡を残さずに窒息させて殺すこと。処刑と同じ一八二九年には、もう辞書的な用例が現れている。裁判が終わってから一年も経っていない。それだけこの事件の衝撃が大きかったということだ。
そして意味は広がった。今では、何かを表沙汰にせずに握りつぶす、議論を封殺する、報告書をお蔵入りにする、という比喩的な用法の方がよく使われる。議会で法案がバークされた、という言い方をする。
考えてみると、この意味の拡張はよくできている。バーキングの本質は、痕跡を残さないことだった。抵抗の跡も、傷も、証拠も残さない。静かに、確実に、なかったことにする。だから「握りつぶす」の比喩になった。
英語話者の多くは、この単語を使うときに元の意味を意識していない。ある男の名前が、その男の犯罪の性質ごと言語に埋め込まれて、二百年生き延びている。呪いとしては、これ以上のものはなかなかない。
同じ頃、スコットランドでは「バーカーズ」という民間伝承が生まれた。子供をさらって医者に売る恐ろしい男たち、という話だ。旅回りの共同体の間では、この恐怖が二十世紀まで生き残った。病院を怖がり、医者を避ける。理由を尋ねると、バーカーズの話が出てくる。制度への不信ってやつは、こうやって世代を越えて相続されていく。
物語は、すぐにホラーになった
事件は同時代からコンテンツだった。
エディンバラの印刷屋は、事件の展開に合わせてブロードサイドという一枚刷りを刷りまくった。今で言えば速報記事とタブロイドと歌詞カードを兼ねたようなものだ。安く、速く、大量に。裁判の全記録、告白の全文、処刑の詳報。粗末な木版の肖像画つきで、街角で売られた。
面白いのは、それらの内容だ。ブロードサイドは加害者二人の人物像に強い関心を寄せる一方で、犠牲者たちには同情的だった。当時の民衆が誰の側に立っていたのかが、はっきり読み取れる。新しい歌も作られた。西港の殺人を歌ったバラッドが何種類も残っている。
文学に入り込むのも早かった。ロバート・ルイス・スティーヴンソンは一八八四年に、この事件の空気をそのまま吸い込んだような短編を書いている。解剖学校の助手が、運ばれてきた遺体の顔に見覚えがあることに気づく話だ。事実として裏付けのないメアリー・パターソンの逸話が、文学の中では完璧に機能してしまう。この短編は後に映画化され、ボリス・カーロフが遺体運搬人を演じた。
映画は繰り返し作られた。一九四〇年代の英国では、検閲当局が実名の使用を認めず、公開時に登場人物の名前を全部差し替えさせられた作品もある。一九六〇年の作品は、ピーター・カッシングがノックスを演じ、この題材の映画化としては今も評価が高い。エディンバラの階級の断絶を正面から描いた点が評価されている。詩人のディラン・トマスが書いた脚本が、二十年以上眠った後に一九八〇年代に映画化されたこともあった。
そして二〇一〇年には、コメディとして作り直された。サイモン・ペッグがバークを、アンディ・サーキスがヘアを演じ、ジョン・ランディスが監督した。評価は割れた。というより、この題材をコメディにすること自体への抵抗が根強かった。
ここに、この事件のずっと続いている問題がある。物語として面白すぎるのだ。二人組、下宿屋、酒、闇市場、白衣の権威、司法取引の裏切り、公開処刑、そして皮の手帳。フィクションの要素が全部そろっている。だから何度でも作り直される。
そして作り直されるたびに、犠牲者は背景に退く。ジェームズ・ウィルソンが好きだった嗅ぎ煙草も、マージョリー・ドハティが探していた息子の名前も、映画には出てこない。
殺人現場が、観光地になった
現在のエディンバラで、この事件は観光資源だ。
ゴーストツアーの定番演目であり、夜のガイドツアーが毎晩出発する。旧市街にはこの二人の名を冠したパブがある。サージョンズ・ホール博物館にはデスマスクと皮の手帳が展示され、エディンバラ大学の解剖学博物館には骨格標本が立っている。ツアー会社の事務所には、皮で作られたとされる名刺入れが置かれている。
観光客はそれを見に来る。写真を撮り、笑い、次の店へ行く。
これを不謹慎だと切り捨てるのは簡単だが、少し立ち止まりたい。エディンバラという街は、この事件を隠さないという選択をしている。骨格標本を撤去して倉庫に入れることもできたし、皮の手帳を焼くこともできた。それをせずに、見せている。
人体を素材にした遺物の展示については、近年かなり議論がある。人皮装丁の書物について、いくつかの大学図書館は取り扱いを見直し、展示をやめたり、収蔵方法を変えたりしている。論点は三つに整理される。破棄すべきか、公開せず保管すべきか、教育目的で展示すべきか。破棄は不快さを消すが、歴史そのものを消す。非公開の保管は無難だが、責任からの逃避でもある。展示は教育になるが、見世物との境界が常に曖昧だ。
バークの場合、事情が少し特殊だ。彼の遺体の公開解剖と標本化は、裁判所が言い渡した判決の一部として実行された。つまり刑罰の執行そのものである。同意も何もない。彼は同意する立場になかった。
だが、この論理をそのまま是とすると、二百年前の判決が現在も執行され続けていることになる。刑罰に時効はないのか。彼に子孫がいたとしたら、どう感じるのか。
私は展示を続けるべきだと思っている。ただし、理由は「彼が悪人だから」ではない。あの骨格標本の隣に立つべきなのは、彼が殺した十六人の名前だ。半分しかわからない名前でも、書くべきだと思う。標本が語っているのは犯罪者の末路ではなく、名前を持たない死者が商品になった時代の記録だからだ。
ネットの向こうで、今も揉めていること
現代のオンラインでこの事件が話題になるとき、議論は驚くほど毎回同じ場所に着地する。
一番多いのは、やはりヘアへの怒りだ。掲示板でもコメント欄でも、免責の不当性に対する反応は感情的で、そして時代を超えて一致している。二百年前に処刑台の下で叫ばれた「ヘアを出せ」が、今も打ち込まれている。司法取引という仕組みへの生理的な嫌悪は、驚くほど変わっていない。
次に多いのがノックス論争だ。これは大きく二派に分かれる。彼を制度の犠牲者と見る立場と、故意の無知を最も罪深いと見る立場。前者は当時の医学教育の窮状を強調し、後者は「新鮮すぎる遺体」の異常性を突く。ここでの議論は、実は現代の企業倫理の話とほとんど同じ構造をしている。サプライチェーンの末端で何が起きているかを、あえて確認しない態度をどう評価するか、という問題だ。だからこそ、この論争は古びない。
三つ目が、遺物の展示をめぐる感情の割れ方だ。面白がる反応と、嫌悪する反応と、そもそも観光化することへの疑問。これは近年かなり増えている印象がある。
そして四つ目、これが個人的には一番いい変化だと思っているのだが、犠牲者を主語にして語ろうとする動きがある。十六人の名前を並べ直す試み。ジェームズ・ウィルソンについて調べ直す人。マージョリー・ドハティが探していた息子は見つかったのか、と問いかける人。
二百年かかって、ようやく話の焦点が加害者から被害者に移りつつある。遅すぎるが、動いてはいる。
なぜこの事件は、今も背中が寒くなるのか
最後に、この話が持っている怖さの正体を分解しておきたい。
第一に、動機が理解できてしまう怖さだ。彼らは狂っていない。快楽殺人でもない。家賃の焦げ付きから始まって、そこに市場があると気づいて、そのまま続けただけだ。一体八ポンド、週に一回か二回。この計算は、誰にでも追える。理解できない怪物より、理解できてしまう隣人の方がずっと怖い。
第二に、消えても誰も探さない人間が実在する、という事実の怖さだ。彼らの犯行が十か月続いたのは、手口が巧妙だったからではない。むしろ雑だった。酔って騒いで、悲鳴を上げさせて、隣に聞かれている。それでも誰も動かなかった。犠牲者が、社会の記録に載っていない人たちだったからだ。この構造は消えたのか、と自問すると、あまり自信が持てない。
第三に、権威の側が「訊かなかった」という怖さだ。ノックスは殺せと言っていない。ただ、遺体の出どころを訊かなかった。この不作為が、十六人分の需要を作った。悪意なき需要が、殺意を生産する。これはこの事件だけの話ではない。
第四に、司法が完璧には届かない、という怖さだ。物的証拠が消えるように設計された犯罪の前では、法廷は無力だった。だから取引をした。取引の結果、最も関与の深い可能性がある男が逃げた。制度は動いた。動いた上で、正義には届かなかった。
第五に、記憶の不均衡だ。加害者は骨格標本になり、皮の手帳になり、動詞になり、映画になった。犠牲者の半数は名前すら残っていない。世界は事件を覚えているが、覚えているのは加害者の側だけだ。この非対称は、実は多くの有名事件に共通している。
だからこの記事では、名前がわかる限りの人々をもう一度書いておく。アバゲイル・シンプソン。メアリー・パターソン。ジェームズ・ウィルソン。マージョリー・キャンベル・ドハティ。ハルデインという姓の母娘。エフィーと呼ばれた灰拾いの女。ジョゼフという粉屋。アン・マクドゥーガル。オスラーという姓の洗濯女。名前の残っていない老女たち、名前の残っていない男たち、そして誰も名前を知らない少年。
この十六人は、記録に残る限りで最低十六人だ。上限ではない。
これは猟奇殺人じゃない。下請けの話だ
ここからは、本編で触れきれなかったことと、書きながらずっと喉に引っかかっていたものを置いていく。
まず、この事件を「猟奇殺人」の棚に入れるのは根本的に間違っている、という話から始めたい。
バークとヘアには、連続殺人犯に典型的とされる要素がほとんどない。儀式的な行動がない。特定の被害者像への固執がない。犯行を記録し、収集し、反芻する習性もない。彼らが取ったのは嗅ぎ煙草入れと匙だけで、それも記念品というよりは単なる着服だ。彼らは殺人を通じて何かを表現していない。ただ、金額の決まった商品を、決まった納品先に納めていた。
これを何と呼ぶべきか。私は「殺人の外注化」だと思っている。需要は解剖学校にあり、供給は闇市場にあり、二人はその間を埋める下請け業者だった。彼らが特別だったのは、供給の制約を「作る」ことで解決した点だけだ。他の復活屋は死者を待った。彼らは待たなかった。
この見方をすると、事件の本質が個人の悪から制度の欠陥に移る。そしてそれは、責任を薄めるための言い訳ではない。むしろ逆で、責任を負うべき人間の数が増える。買った人間、監督しなかった当局、法整備を先送りした議会、そして「解剖には遺体が必要だ」と知りながら公に議論しなかった医学界全体だ。
ノックス一人を悪役にする物語が二百年も繰り返されてきたのは、正直に言えば、その方が楽だからだと思う。冷酷な天才解剖学者という配役は絵になる。実際のところ、当時のエディンバラの解剖学校はどこも似たような仕入れをしていた。ノックスが特別に非道だったという証拠はない。彼が特別だったのは、たまたま最も熱心な仕入れ先を持ってしまったことと、事件後に誰も彼を弁護しなかったことだ。
医学界が沈黙した理由も、考えるほど後味が悪い。彼を弁護するには、解剖に遺体が要るという事実を公に認めなければならない。認めれば、業界全体の仕入れルートに世間の目が向く。だから誰も口を開かなかった。一人を差し出して、業界は延命した。これは今でもどこかで見た構図だ。
先に口を開いた者が勝つ、という仕組み
司法取引についても、もう一段深く考えておきたい。
現代の刑事司法において、共犯者の証言を得るための免責は、組織犯罪と対峙する上でほぼ不可欠な道具になっている。談合、汚職、薬物、企業犯罪。内部から一人を引き剥がさなければ、外からは崩せない。その意味で、一八二八年のエディンバラで検察が採った手法は、時代を先取りしていたとさえ言える。
だが、この事件はその手法の副作用も同時に露呈させた。第一に、真実の値段が「先に話した者勝ち」で決まってしまうこと。第二に、免責された証人の証言を検証する手段がないこと。ヘアは自分の関与を最小化するに決まっている。にもかかわらず、その証言が有罪認定の中核になった。第三に、遺族の応報感情が完全に置き去りにされること。
ウィルソンの母と姉の申し立てが四対二で退けられたという事実は、もっと注目されていい。二人の裁判官は、免責を覆すべきだと考えたのだ。当時の法曹の中でも意見は割れていた。多数意見が守ったのは、被害者の権利ではなく制度の予測可能性だった。制度は制度を守った。それが正しかったかどうかは、今も答えが出ていない。
選ばれたのは「その街にいる理由を説明できない人」だった
犠牲者たちの選ばれ方にも、もう少し踏み込みたい。
彼らの被害者を並べると、はっきりした偏りがある。高齢者、女性、障害のある人、行商人、街娼、季節労働者、そして土地を離れて移動している最中の人。共通するのは「その日その街にいる理由が誰にも説明できない人」だ。
マージョリー・ドハティは息子を探して移動していた。アバゲイル・シンプソンは塩を売りに来ていた。アン・マクドゥーガルはバークの縁者として訪ねてきていた。彼女たちは全員、その場所に一時的にいた。定住していれば、隣人がいる。いなくなれば気づかれる。移動している人には、それがない。
現代の言葉に置き換えれば、社会的孤立と可視性の問題だ。行政の名簿に載っているか。定期的に会う人がいるか。いなくなったとき、二十四時間以内に誰かが気づくか。この三つの条件が、二百年前も今も、人の生存確率を左右している。
ジェームズ・ウィルソンだけが、この条件から外れている。彼は街の全員に知られていた。毎日同じ道を歩き、みんなが顔を覚えていた。だから彼が消えたことに、街は気づいた。彼の家族は声を上げ、裁判所に申し立てを行った。彼の遺体が解剖室に運ばれたとき、学生たちがざわついた。
つまり、可視性は多少なりとも機能したのだ。ただし、間に合わなかっただけで。
靴下を置いた場所が悪かった、という偶然
この事件の「発覚」が完全に偶然だったことの意味も考えたい。
グレイ夫妻がその夜たまたま忘れ物を取りに戻らなかったら。アン・グレイが藁の山に靴下を置いていなかったら。バークが「あの藁に近づくな」と言い過ぎなかったら。彼女が十ポンドを受け取っていたら。
どれか一つが違っていれば、十六人目で止まらなかった。
しかも、この事件を止めたのは、医学界でも警察でも法律でもない。下宿人の夫婦が、週給の何十倍もの金を断ったことだ。専門機関はどれも機能していなかった。警察には情報がなく、医学校は質問せず、法律には受け皿がなかった。
システムが機能しないとき、最後に残るのは個人の判断だけになる。これは希望の話にも、絶望の話にも読める。私はどちらかというと後者だと思う。個人の良心に依存しなければ止まらない仕組みは、単に壊れている。
刑罰の対象が、極悪人から貧乏人へ入れ替わった日
法律は問題を解決した。ただし、解決の仕方が、当事者を選ばない形ではなかった。刑罰としての解剖を廃止する一方で、引き取り手のない遺体を医学に回す。この設計は、当時の英国で「引き取り手のない遺体」がどういう人たちのものかを、完全に理解した上で作られている。
貧困層の反応は激烈だった。各地で救貧院や解剖学校に対する反発が起き、共同で葬儀費用を積み立てる互助組合が急増した。まともに埋葬されること。ただそれだけのために、日々の食費を削って掛け金を払う人々が大量に生まれた。
この感覚は、今の日本にいると想像しにくいかもしれない。だが、無縁仏になることへの恐れ、あるいは自分の遺体が誰にも引き取られないことへの不安は、決して過去のものではない。身寄りのない高齢者が増え、行政が引き取り手のない遺骨を保管する量が増えている。埋葬の尊厳という論点は、形を変えて今も現役だ。
一八三二年の法律が示したのは、医学の進歩が、しばしば誰かの尊厳を担保にして達成されるという構造だ。そしてその誰かは、たいてい最も反論しにくい立場にいる人たちだ。この構造への警戒は、二百年経っても捨てるべきではないと思っている。
私たちが知っているのは、殺した側が語りたかった順序だ
この事件について私たちが知っていることは、ほぼすべて加害者の言葉に依拠している。バークの二つの告白、ヘアの供述。被害者側の証言は、ジャネット・ブラウンとグレイ夫妻という、ごく限られた人たちのものしかない。
だから、私たちが「事件の全貌」だと思っているものは、殺した側が語りたかった順序で並んだ物語だ。バークはヘアに責任を寄せた。ヘアはバークに全部を負わせた。二人の言い分の重なる部分を、私たちは事実として採用している。
歴史家がこの数十年やってきたのは、その物語を裁判記録や新聞記事や教区の記録と突き合わせて、後から付け足された部分を剥がす作業だ。その結果、有名な逸話のいくつかが根拠を失った。解剖台の上で友人の顔を見た学生の話も、学生の通報が捜査の端緒になったという話も、当時の記録には出てこない。
これは、事件を退屈にする発見ではない。むしろ逆で、私たちが恐怖の物語をどう作るかについての発見だ。実際に起きたのは、下宿の藁の下から腕が出てきたという、身も蓋もない出来事だった。だが人はそこに、解剖台と知人の顔という劇的な一場面を足したがる。恐怖は、偶然より因果を好む。
二百年前から、こちらへ投げられている三つの質問
最後に、この事件が現代に投げてくる質問を書いておきたい。
一つ。あなたの生活を支えているものの、供給元をどこまで確認しているか。ノックスは訊かなかった。訊かなかったことは、当時の慣行としては責められないことだった。今の私たちにとって、同じ位置にあるものは何か。
二つ。もし十ポンドを提示されたら断れるか。グレイ夫妻が断ったとき、彼らは自分たちの生活を大きく変えられる金額を蹴っている。理屈ではなく、その場の反射で断った。この反射をどうやって持っておくかという問題は、倫理の教科書より難しい。
三つ。あなたが三日いなくなったら、誰が気づくか。これは説教ではなく、単純な事実確認だ。この事件の被害者と生存者を分けたのは、勇気でも運でもなく、この一点だった。
二百年前のエディンバラの、煙で汚れた路地で起きたことは、遠い昔の猟奇譚ではない。需要があり、供給に制約があり、誰も出どころを訊かず、消えても探されない人がいる。この四つの条件がそろえば、同じことは形を変えて起きる。バークとヘアが特別だったわけではない。四つの条件がそろっていた場所に、たまたま彼らがいただけだ。
だから、あの骨格標本は撤去されない方がいいと私は思う。あれは犯罪者の見世物ではなく、条件がそろったときに人間が何をするかについての、極めて具体的な証拠物件だからだ。ただし、その隣に十六人の名前を置いてほしい。半分しかわからない名前でも、空白のままの欄でもいい。この事件で最も語られるべきだったのは、骨になった男ではなく、骨すら残らなかった人たちの方なのだから。
