1982年9月29日、朝6時33分。シカゴ郊外エルクグローブビレッジの一軒家から、消防に通報が入った。「娘が倒れた。救急車をよこしてくれ」。父親の声だった。この一本の電話から、アメリカという国の薬棚の風景が、そして数年後には日本のスーパーの菓子売り場の風景までが、まるごと書き換わっていく。
まずはっきり書いておく。これは商品パッケージの歴史の話ではない。7人が死んだ話だ。そのうち1人は12歳だった。犯人は40年以上たった今も分かっていない。分かっていないまま、容疑をかけられた男は2023年に自宅で息を引き取った。だからこの記事は「面白い未解決事件」として消費されるべき題材ではない、と自分に言い聞かせながら書いている。それでも書く価値があると思うのは、この事件が「見知らぬ誰かが、店の棚に置かれた商品に手を入れる」という、それまで誰も本気で想定していなかった攻撃の形を世界に教えてしまったからだ。そしてその形は、太平洋を越えて、日本にも渡ってきた。
6時33分、バスルームのドアの向こうで音がした
その朝、12歳のメアリー・ケラーマンは学校を休むことにしていた。鼻水が出て、喉が痛くて、頭も重い。よくある秋の風邪だ。両親は市販の鎮痛解熱薬エクストラストレングス・タイレノールのカプセルを1粒飲ませた。前の晩にも1粒飲んでいた。母親のジーナが前日にジュエルというスーパーで買ってきた瓶だった。何も特別な判断ではない。アメリカの家庭の薬箱に必ず入っている、最も売れている市販薬。それを風邪の子に飲ませる。それだけだ。
父親のデニスは、娘がバスルームに入る音を聞いている。ドアが閉まる音。そのあと、何かが落ちる音がした。あとで彼はこう語っている。ドライヤーが床に落ちたような音だと思った、と。咳の音が聞こえて、それから物音。彼はドアの外から呼びかけた。メアリー、大丈夫か。返事がない。もう一度呼んだ。やはり返事がない。ドアを開けると、パジャマ姿の娘が床に倒れていた。意識はなかった。
救急隊が到着したときの記録には「洗面所で意識を失った少女」と書かれている。6時38分、警察はアレクシアン・ブラザーズ医療センターに到着し、搬送中に少女の心臓が止まったことを知る。病院では何時間もかけて蘇生が試みられた。心臓マッサージ、ペースメーカーの挿入。あらゆる手が尽くされた。メアリー・アン・ケラーマンの死亡が確認されたのは9時56分。原因は分からなかった。
このとき警察は、一応の手続きとして自宅から風邪薬を全部押収している。タイレノールの瓶も含めて、それらは署の巡査部長の机の引き出しに施錠して保管された。この地味な処置が、あとで決定的な意味を持つ。誰も何も分かっていない段階で、証拠が偶然守られたのだ。翌日、クック郡監察医務局のバリー・リフシュルツ副監察医が解剖を行い、10月1日に死因を「急性シアン中毒」と確定させる。だが、その結論が出るずっと前に、事態は爆発的に広がっていた。
北へ7マイル、昼寝から目を覚まさなかった郵便配達員
同じ日の午後1時33分。エルクグローブビレッジから北へ7マイルほど離れたアーリントンハイツで、別の家族が半狂乱で救急に電話をかけていた。27歳のアダム・ヤヌス。ポーランド系移民の家に育ち、地元の郵便局で働いていた。健康そのものの若い父親だった。
彼はその日、体調が悪くて仕事を休んでいた。上の子を保育園に迎えに行き、帰宅してから頭痛を訴え、タイレノールのカプセルを2粒飲んで横になった。そして目を覚まさなかった。倒れ方は突然だった。アーリントンハイツ消防のチャック・クレイマー――当時まだ若い中尉だった――が出動し、3ブロック先のノースウエスト・コミュニティ病院へ運んだ。だが午後3時15分、トーマス・キム医師によって死亡が宣告される。診断は「大規模な心筋梗塞と思われる」。27歳の健康な男が心臓発作で死ぬ。不自然だが、あり得なくはない。誰もそれ以上は疑わなかった。
アダムのタイレノールも、やはりジュエルで買ったものだった。エルクグローブビレッジのケラーマン家が買ったのも、ジュエルだった。だがその朝の時点で、この2つの死を結びつける発想を持った人間は、地球上に1人もいなかった。
同じ家、同じ瓶、同じキッチンで――一日に三人
悲劇の第二幕は、同じ家で数時間後に始まる。午後5時40分、同じ住所からまた通報が入った。警察が2度目の臨場をする。
アダムの死を聞いて、親族が家に集まっていた。兄弟の突然死である。誰もが泣き、誰もが混乱していた。弟のスタンリー・ヤヌス、25歳。その妻テレサ、20歳。2人はその夏に結婚したばかりで、ハワイでの新婚旅行から戻ってきたところだった。式を挙げた教会の記憶がまだ新しい時期に、いきなり兄の葬儀の相談をすることになった。
当然、頭が痛くなる。緊張と悲しみで頭痛がしない方がおかしい。キッチンのカウンターには、アダムが飲んだあのタイレノールの瓶が置いてあった。2人はそこから薬を取って飲んだ。
警察の記録はこう書いている。スタンリーは洗面所に入り、出てきて「気分が悪い」と言い、そのまま台所で妻の腕の中に崩れ落ちた。親族が隣家に助けを求めて走った。隣人はたまたま看護師だった。全員が家に戻ると、今度はテレサが居間の床に、夫と同じ症状で倒れていた。
クレイマー中尉は、この現場についてのちにこう語っている。人生で最悪の出動のひとつだった、と。彼はスタンリーの処置をしていた。そのとき、テレサが彼の腕をつかんでいた。ほんの一瞬前まで、自分の腕をつかんでいた女性が、振り返ったときには床に倒れていて、瞳孔は開いたまま光に反応しなかった。彼はその「一瞬」の記憶を、40年たっても手放せずにいる。
2人は、数時間前にアダムが運ばれたのと同じ病院に運ばれた。スタンリーは長時間の蘇生を受けたが、午後8時15分に死亡が宣告される。テレサは蘇生に成功し、生命維持装置につながれた。彼女が息を引き取るのは3日後、10月1日の午後1時15分だ。結婚から3か月しかたっていない夫婦の棺が、結婚式を挙げたのと同じ教会に並んで運び込まれる光景を、当時の地元テレビが報じている。
一家で3人。同じ日、同じ家、同じ瓶。この異常事態が、結果として事件全体の解明を早めた。皮肉というにはあまりに残酷な話だが、事実としてそうだった。
非番の消防士が交わした雑談が、すべてをひっくり返した
ここからがこの事件で最も語り継がれる場面だ。
アーリントンハイツ消防のフィリップ・カピテリ中尉は、その日非番だった。自宅で警察無線を聞くのが習慣で、同じ住所で3人が倒れたという異常な通報を耳にしていた。そこへ義理の母が帰宅して、こんな話をする。職場の同僚の娘さんが、今朝エルクグローブビレッジで急死したらしい、と。同僚というのは、ユナイテッド航空で働いていたメアリー・ケラーマンの母親だった。
カピテリは、消防学校時代からの友人に電話をかけた。エルクグローブビレッジ消防のリチャード・キーワース、39歳。放火調査もやっている男で、そのとき休暇中だった。2人はよく電話で世間話をする間柄だった。カピテリが「うちの管内で妙な死に方をした一家がいる」と話す。キーワースは自分の署に電話をして、無線係にケラーマン宅の救急報告書を読み上げてもらった。
報告書には、パラメディックが書き込んだ一行があった。少女は直前にタイレノールを飲んでいた、と。
キーワースはカピテリに言った。「待ってくれ。今エルクグローブに確認したら、あの子はタイレノールを飲んでる」。カピテリの側でも、ヤヌス家の現場でタイレノールが出ていた。2人は症状を突き合わせ始めた。突然の意識消失、けいれん、心停止。年齢も性別も職業もばらばらの人間が、同じ形で死んでいる。共通点は1つしかない。
キーワースはのちにこう振り返っている。「これは当てずっぽうだけど、たぶんタイレノールだ」と自分は言った、と。彼はそのことを誇りに思うかと聞かれて「ああ、誇らしいよ」と答えつつ、「単なる偶然だよ」とも言っている。亡くなった少女は自分の家から数ブロックのところに住んでいた。火災調査を15年やってきて、疑り深い頭を持っていたから、症状が合致し始めたときに「もしかして」と思っただけだ、と。
だがその「もしかして」がなければ、被害は7人では止まらなかった可能性が高い。2人はそれぞれ上司に報告し、上司から警察に伝わった。カピテリは1998年に55歳でがんのため亡くなり、キーワースは2023年に80歳で亡くなっている。2人とも、自分たちの電話が世界の商品パッケージを変えるところまでは見届けた。
「カプセルが6粒足りない。人が3人死んでる」
もう1人、この事件の流れを決定づけた人物がいる。アーリントンハイツの村付き公衆衛生看護師、ヘレン・ジェンセンだ。
クレイマー中尉は病院で、スタンリーとテレサの容体が絶望的になっていくのを見ながら、これは公衆衛生の専門家を呼ぶべき案件だと考えた。頭に浮かんだのはただ1人、友人のヘレンだった。彼は自宅にいた彼女に電話をかけ、若く健康な同じ家族の3人が同時に倒れた理由を一緒に考えてくれと頼んだ。ジェンセンは夕食を作っている最中だった。彼女は車のキーをつかんで、ショートパンツとTシャツのまま家を飛び出した。
病院で彼女がやったのは、聴くことだった。彼女は24年間この村の看護師をやってきた人で、住民の話をとにかく聴く、というやり方で仕事をしてきた。アダムの妻が、泣きながら夫の一日を話した。具合が悪くて仕事を休み、上の子を迎えに行き、タイレノールを飲んで横になり、そのまま倒れた。その薬はその日買ったものだった。
ジェンセンは警察に頼んだ。あの家を見せてほしい、と。まだ犯罪現場ではなかったから、許可はすぐ下りた。彼女は台所と居間を見て回り、それから浴室に入った。そこに開封済みのタイレノールの瓶があった。彼女はゴミ箱をあさって、その日の日付のレシートを見つけた。そして瓶の中身をペーパータオルの上にあけ、1粒ずつ数えた。
新品の瓶。足りないカプセルは6粒。死んだ人間は3人。1人2粒。
「これはタイレノールしかない」。彼女はその場で警官にそう言った。だが、すぐには信じてもらえなかった。病院に戻って監察医の前でもう一度カプセルを並べ、もう一度数えて、同じことを言った。6粒足りません。3人死んでいます。相関があるはずです。それでも「そんなわけがない」という反応が返ってきた。
彼女がのちに漏らした一言が、この事件のもう一つの側面を照らしている。「でも私はただの看護師で、女だったから」。もし同じことを男が言っていたら、その場ですぐ信じてもらえただろう、と彼女は言った。
翌朝、彼女は夫に起こされた。ラジオのニュースが流れていた。「ヘレン、君が正しかった。タイレノールだって言ってるぞ」。その日、彼女は自分の権限を明らかに超えることをやった。製造元のジョンソン・エンド・ジョンソンに直接電話をかけ、棚から全部下ろせと言ったのだ。午前10時までに、アーリントンハイツ中の店からタイレノールが消えた。
彼女は後年、この事件をこう呼んでいる。「私たちが無邪気さを失った日」。そして「最初のテロだった」と。その言葉の意味が自分でも本当には分かっていなかった、9月11日が来るまでは、とも語っている。
夜が明けるまでに4人、日が暮れるまでに7人
9月30日の未明、ノースウエスト・コミュニティ病院ではトーマス・キム医師が徹夜で原因を追っていた。同じ日に、タイレノールを飲んだと報告されている4人が倒れている。午前2時45分、答えが出た。スタンリーとテレサの血液から高濃度のシアン化物が検出されたのだ。
ほぼ同じ頃、ダウナーズグローブのグッドサマリタン病院で、前夜から入院していた女性のバイタルが午前3時15分に消えた。31歳のメアリー・マクファーランド。ロンバードの電話会社の営業所で働いていて、9月29日は勤務日だった。解剖記録には「倒れる直前、患者は体調不良を訴え、タイレノールのカプセルを服用したと報告されている」と書かれている。血中のシアン濃度は高かった。
朝日が昇る頃には4人が死に、1人が生命維持装置につながれていた。そしてリストはまだ伸びる。ウィンフィールドの27歳、メアリー・リン・ライナー。6日前に4人目の子どもを産んだばかりだった。産後の頭痛で医師の助言に従い、その日買ったタイレノールを2粒飲んだ。生後6日の赤ん坊にミルクをやろうとしていた居間で、彼女はふらついた。浴室に行こうとして、台所の椅子に崩れた。夫がけいれんしている妻を見つけて救急車を呼び、セントラルデュページ病院に運ばれたが、午前9時3分に死亡した。当時8歳だった娘のミシェル・ローゼンは、母が床に倒れてけいれんするのを目撃している。
クック郡監察医務局の主任毒物学者マイケル・シェイファーのチームが、ケラーマン家とヤヌス家から回収されたカプセルを分析し、こう発表した。「エクストラストレングス・タイレノールの容器2本――50カプセル入りの瓶――から、シアン化物の存在を確実に確認しました」。
イリノイ州司法長官タイ・ファーナーは、その前夜、セントチャールズのリゾートでの選挙資金集めのパーティーに出ていた。演壇の後ろの青いビロードのカーテンから補佐官が出てきて、上着を引っ張った。「電話に出てください」。あとにしてくれ、と彼は言った。「今すぐです」。夜8時か9時だったと彼は記憶している。彼はその場でチームを組む決断をした。イリノイ州警察、保安官協会、地元の警察組織。知っている人間を片っ端から呼んだ。翌朝には20人から25人が集まっていた。これがタイレノール事件特別捜査班になる。最終的には数百人規模になった。ファーナーはデスプレーンズの州警察の施設前で、毎日記者会見を開く顔になった。
そして10月1日の夕方、7人目が見つかる。シカゴのオールドタウン地区で、ユナイテッド航空の客室乗務員ポーラ・プリンス、35歳。数日連絡が取れないことを心配した妹のキャロルが、午後5時45分頃に部屋で姉の遺体を発見した。浴室にはエクストラストレングス・タイレノールの瓶があり、カプセルは1粒だけ減っていた。そばには9月29日付の、ノースウェルズ通りのウォルグリーンのレシートがあった。死亡確認は午後6時45分。
彼女の同僚の客室乗務員ジーン・レガラ・リーベングッドは、連絡が取れないポーラを心配して駆けつけた1人だ。彼女は当局からこう言われたと証言している。ポーラの唇には、蘇生を試みた人間まで死なせるほどの量が残っていた、と。誰にも触らせるな、という意味だった。友人の死に顔に近づくことすら禁じられる。そういう種類の毒だった。
シカゴのテレビ局の名物記者ジョン・ドラモンドは、そのタレコミを受けて現場に飛んだ。彼はこう振り返る。担架に乗せられて運び出されるのを見たとき、あれで胸に来た。キャンバスの袋の中の被害者を見たとき、こたえた、と。
拡声器を鳴らしながら住宅街を回るパトカー
今の感覚では想像しづらいが、当時は携帯もインターネットもSNSもない。警告を人々に届ける手段は、原始的だが確実な方法しかなかった。パトカーがゆっくりと住宅街を流し、屋根のスピーカーからこう繰り返した。「追って通知があるまでタイレノールを服用しないでください」。消防士は一軒一軒ドアをノックして回った。
報道の側も混乱していた。当時ニュースの出稿デスクにいたエド・マーシャルの記憶では、局は「連続毒物死について会見がある」という一報で一斉に動き出した。頼れるのは固定電話だけ。記者から、カメラマンから、警察から、電話が鳴りっぱなしのボイラー室のような状態だった。すべてが止まって、この1本のニュースだけを追った。何が起きているのか、なぜ人が死ぬのか、それを突き止めるのが仕事だった、と。
全米の新聞に10万本以上の記事が流れ、クリッピングサービスが数えた切り抜きは12万5000点を超えた。ある業者は、これはケネディ暗殺以来最大の報道量だと言った。事件発生から1週間で、アメリカ人の9割以上がシカゴのシアン入りタイレノールのことを知っていた。
季節が悪すぎた。10月1日は、ハロウィーンシーズンの入口である。子どもが見知らぬ家からお菓子をもらって歩く行事だ。「見知らぬ誰かが、口に入るものに毒を入れる」という恐怖が、これ以上ないタイミングで社会に投げ込まれた。この年、全米の多くの自治体がトリック・オア・トリートの自粛を呼びかけ、病院がお菓子のエックス線検査サービスを始めた。あの「もらったお菓子は親がチェックする」という現代の常識は、かなりの部分がこの秋に生まれている。
捜査は、最初から迷宮の入口に立っていた
捜査班が最初にやったのは、汚染された瓶がどこから来たのかを追うことだった。答えはすぐに出て、そしてすぐに絶望的になった。汚染された瓶のロット番号は複数にまたがっていて、しかも製造工場が別々だった。ペンシルベニア州フォートワシントンの工場と、テキサス州ラウンドロックの工場。両方の製造ラインに同時に毒を入れるのは、現実的にはほぼ不可能だ。つまり、毒が入ったのは工場を出たあと――流通の末端、店の棚のあたりだ。
これが意味することは重い。犯人は誰も狙っていない。誰が死ぬか知らない。死ぬ瞬間に立ち会わない。ファーナーはのちにこう言っている。ふつう殺人には対象がある。その人を、あるいはその人のような誰かを殺そうという意図がある。だがこれは完全に無差別で、「致死性の毒を流通に置いて、誰が倒れるか見る」だけだった。それが恐ろしかった、と。
事件を長年取材してきたジャーナリストのジョイ・バーグマンも同じ点を指摘している。ほとんどの殺人者は現場にいたがる。見たがる。動機がある。だがこの犯人は、人が死ぬ部屋にいなかった。誰を殺すのかも知らなかった。この事件に触れた人間全員を、いまだに悩ませているのはそこだ、と。
FBIの行動分析班がプロファイルを作った。犯人はおそらく男性。そして、捜査に関わりたがるだろう、と分析された。担当したFBI捜査官ロイ・レーンによれば、こういう犯人は「自分は法執行機関を出し抜いた」という高揚を得ていて、その高揚は時間とともに薄れる。だから情報に触れたがり、まだ捕まっていないことを確認したがり、また高揚を得ようとする。当時としては新しい手法だったが、レーンはこれが役に立ったと言っている。
1983年初頭には、FBIのジョン・ダグラスの発案で、極めて異例の手が打たれた。シカゴ・トリビューンのコラムニストが、遺族の同意を得たうえで、最初の被害者メアリー・ケラーマンの自宅と墓の場所を記事に書いたのだ。犯人が現れるかもしれないという読みだった。両方の場所は数か月間、24時間態勢でビデオ監視された。犯人は現れなかった。
捜査班には1日に300件から400件のタレコミが来た。1年後には人員が150人から10人に減り、6万件の情報を潰し、2万5000ページの報告書ができていた。捜査員の1人は「痕跡は完全に冷えていて、半年前からずっとそうだ」と漏らしている。イリノイ州の担当者トーマス・シャンプはこう言った。タイレノールの場合、メッセージも動機の手がかりも一切ない。誰がやったかが言えないだけじゃない、なぜやったかも言えないんだ、と。
説その一――恐喝状の男、ジェームズ・ルイス
10月6日、ジョンソン・エンド・ジョンソンに1通の手紙が届いた。カプセルにシアンを入れるのがいかに「簡単」かを書き連ね、100万ドルを指定口座に振り込まなければ「もっと大勢殺す」と脅す内容だった。同じ人物は、レーガン大統領宛てに、税制を変えなければさらに人を殺すという別の手紙も書いている。
捜査班は封筒の郵便料金メーターの番号から、シカゴの旅行代理店にたどり着いた。その経営者は無関係だったが、恨みを持ちそうな人間に心当たりはないかと聞かれて、1つの名前を出した。ロバート・リチャードソン。元従業員の夫で、妻の未払い賃金500ドルを巡って怒っていた男だ。夫婦は9月4日にシカゴを離れ、テキサスに行くと近所に言い残していた。
リチャードソンは物書き志望で、シカゴ・トリビューンの論壇に自分のエッセーが載ったことを大変誇りにしていた。その紙面に顔写真が残っていた。10月13日、捜査班はその写真を全米に配信し、恐喝未遂の連邦逮捕状が出たと発表する。ニュースを見ていたカンザスシティ市警のデービッド・バートン巡査部長がソファから飛び上がった。「あれはジェームズ・ルイスじゃないか」。
ジェームズ・ウィリアム・ルイス。1946年メンフィス生まれ。実の両親に幼くして捨てられ、ミズーリ州の夫婦の養子になった。10代の頃には情緒的な問題を抱え、母親は枕の下に銃を置いて眠ったという証言がある。19歳のとき母親を斧で追いかけ、義父に暴行して肋骨を折ったと報じられている。市販の鎮痛薬を大量に飲んで精神科病院に入院した記録もある。妻リーアンとの間に生まれた娘トニは、ダウン症と心臓の疾患を持っていて、心臓の手術の縫合が裂けて5歳で亡くなった。捜査班が後年、動機の候補として娘の死を挙げているのはこの経緯による。
さらに彼には、1978年のカンザスシティで、顧客だった72歳の男性が自宅の屋根裏で遺体で見つかった事件の被疑者になった過去がある。彼はその事件で殺人罪で起訴されたが、逮捕時にミランダ警告がなされていなかったという手続き上の瑕疵をつかれ、公判前に起訴が取り下げられた。つまり彼は、この件について有罪判決を受けていない。
タイレノール事件では、彼は2か月間逃亡したのち、1982年12月13日、ニューヨークの公立図書館で本を読んでいるところを図書館員の通報で逮捕された。彼は手紙を書いたことを認めた。ただし、金を取るつもりはなく、妻の元雇用主に捜査の目を向けさせたかっただけだと主張した。陪審は恐喝未遂で有罪とし、彼は連邦刑務所に送られた。
では、なぜ殺人では起訴されなかったのか。理由は単純で、彼をシカゴに置く証拠が最後まで出なかったからだ。捜査官レーンは、この捜査で最も歯がゆかったのは、事件当時ルイスがシカゴ圏にいたことを示せず、ニューヨークとシカゴの間の移動手段も特定できなかったことだと語っている。
一方で、状況証拠はいくつも積み上がった。彼が所持していた毒物に関する書籍のページ、そのうち致死量に触れたページに彼の指紋が残っていたという記録がある。2007年の再捜査では、恐喝状の消印が10月1日だったことが判明した。彼は「手紙を書くのに3日かけた」と語っていたので、それが正しければ、死者とタイレノールの関係が報道される前から書き始めていたことになる。この矛盾を突きつけられると、彼は自分の証言を撤回した。2010年には自宅の家宅捜索が行われ、彼と妻はDNAと指紋を提出した。「隠すことなんて何もない」と彼は言った。そして提出されたDNAは、瓶から採取されたDNAと一致しなかった。
2022年、40年目を前に、イリノイ州警察と地元当局、クック郡・デュページ郡の検察が集まり、「起訴可能な状況証拠の事件」として立件を検討したと報じられている。50ページにわたる状況証拠のまとめが作られた。だが起訴は行われなかった。2023年7月9日、ルイスはマサチューセッツ州ケンブリッジの自宅で死亡しているのが見つかった。76歳。事件性はないと判断された。彼を恐喝で有罪にした元連邦検事ジェレミー・マーゴリスは「彼が死んだことが悲しいのではない。刑務所の中で死ななかったことが悲しい」という声明を出した。
反証を書いておく必要がある。彼を殺人犯と断定する物証は、いまだに1つも公表されていない。恐喝状は事件のあとに書かれた便乗である可能性を排除できない。彼が捜査に協力を申し出て手口を語ってみせたことは、プロファイルの予測に合致する不気味な行動だが、同時に「自分は事件の解説者になれる」と考える虚栄心の強い人物の行動としても説明がつく――そういう人物が事件後に大量に湧いたことは、後述する模倣犯の章が示している。そしてDNAは一致しなかった。遺族の中にも、彼が犯人だとは思わないと明言している人がいる。ライナーの娘ミシェル・ローゼンは2009年の時点で「みんな彼だと思っているけど、私は違うと思う。彼は1982年にあそこに住んでいなかった」と語っている。断定はできない。これが40年間の到達点だ。
説その二――シアンを持っていた倉庫作業員
もう1人、当時大きく報じられた人物がいる。ロジャー・アーノルド、48歳。メルローズパークのジュエルの倉庫で働く作業員だった。
きっかけはリンカーンパークのバーの店主からの通報だ。常連客2人が「アーノルドが半年ほど前に大量のシアン化物を買った」「最近様子がおかしい」と話しているという情報だった。1982年10月11日、警察が自宅を捜索する。出てきたのは、拳銃を含む5丁の銃と弾薬、爆発物と毒物に関する書籍――シアン化カリウムの製造法に触れた本を含む――実験用のバイアル、ビーカー、試験管、そして白い粉末。
状況は悪く見えた。彼はポーラ・プリンスがタイレノールを買ったウォルグリーンの近辺のバーに出入りしていた。汚染された瓶のうち2本はジュエル系列で買われていて、彼はジュエルの倉庫にいた。しかも被害者の1人の父親と同じ職場だった。
だが白い粉末はシアン化物ではなかった。彼はシアンを買ったことは認めたが、アマチュアの実験のためで、事件の半年以上前に処分したと述べた。直接的な証拠は何も出ず、彼は釈放される。
そのあとが凄惨だ。名前が報道に出たことでアーノルドは激怒し、自分を警察に売ったと思い込んだ男を探して、バーを回るようになる。そして1983年6月17日の夜、リンカーン通りのバーから出てきた男を撃った。撃たれたのはジョン・スタニシャ、46歳。タイレノール事件とは何の関係もない人物で、娘が3人いた。密告者だった実際の人物と体格や風貌が似ていた、というだけの理由で撃たれたのだ。アーノルドは殺人で有罪となり、30年の刑を受けた。スタニシャを「8人目のタイレノール犠牲者」と呼ぶ人もいる。事件がなければ、彼は歩道で死ぬことはなかった。
アーノルド説の反証。彼のシアン所持は事実として認定されたわけではなく、白い粉末は別物だった。カプセルとの物的な結びつきは出ていない。2010年6月、捜査当局は彼の遺体を掘り起こしてDNAを採取したと報じられているが、その後に彼を犯人とする発表はない。彼は2008年に死亡している。当時この事件を捜査したシカゴ市警のジミー・ギルディア刑事は、慎重にこう言うにとどめている。「彼がやったと思うか、とよく聞かれる。私が言えるのは『彼がやっていない、とは言えない』ということだけだ」。それが限界だ。
説その三――毒は「棚の前」ではなく「流通の中」で入ったのではないか
3つ目の説は、遺族の一部が主張し続けているもので、公式見解とは正面から対立する。要するに、犯人はスーパーの棚の前で怪しく振る舞う男ではなく、流通や企業の内側にいた人間ではないか、という見立てだ。
この説の根拠として挙げられるのは、いくつかの不自然さである。ライナーが薬を買ったのはカウンターの内側にある調剤コーナーだった、と家族側は民事の場で主張している。もしそれが正しければ、一般客が棚から取って戻す、という前提が崩れる。また、回収された膨大な瓶の検査が十分に行われたのか、検査したのは全体のごく一部ではなかったのか、という疑問も提起されている。ローゼンは長年、FBIの資料の開封と再調査を求めてきた。
この説への反証も明快に書いておく。汚染された瓶のロットは、そもそも別々の工場のものだ。1つの製造ラインを疑うだけでは説明がつかない。しかも汚染された瓶が見つかったのは、地理的にシカゴ圏の限られた範囲に集中していた。全米に散らばる流通経路のどこかで混入したのなら、被害はシカゴだけに収まらないはずだ。さらに、当時の捜査は工場からの出荷経路を早期に追い、製造工程での混入を否定している。もちろん「捜査当局の否定」自体が疑いの対象だ、というのがこの説の立場なので、議論は平行線になる。ただ、疑いを提起することと、それを証明することの間には、まだ相当な距離がある。
説その四――「棚に戻した誰か」は、ただの通りすがりだったのではないか
最もありふれていて、最も救いのない説がこれだ。犯人は誰でもない。動機も薄い。近所に住んでいて、あるいは仕事帰りに立ち寄って、数軒の店で瓶を買い、細工をし、また棚に戻した。それだけの人物で、事件後は何もせず、誰にも言わず、静かに生きて、静かに死んだ。
この説の強みは、証拠が出ないことそのものを説明できる点だ。動機がないなら、動機からたどれない。人間関係がないなら、人間関係からたどれない。金を要求していないなら、金の流れからたどれない。犯罪捜査が使う糸のほとんどが、最初から存在しない。
反証としては、「何もしない犯人」というのは統計的に稀だ、という点が挙げられる。この種の無差別犯は、多くの場合どこかで自己顕示に走る。犯行声明を出す、捜査に近づく、誰かに漏らす。FBIのプロファイルもそこに賭けていた。だが40年以上、少なくとも公になった範囲では、そうした行動は現れていない。あるいは現れていたのに、当時の技術と当時の情報量では拾えなかったのかもしれない。
説その五――ロット、地理、そして「複数犯だった」可能性
汚染された瓶が見つかった場所と、ロット番号の散らばり方を見ると、単独犯の一晩の行動としては説明しづらい、と指摘する人もいる。ポーラ・プリンスの浴室にあった瓶は24カプセル入りで、ロット番号は他の被害者のものと違っていた。ヤヌス家とケラーマン家のものは50カプセル入りだった。複数の店、複数のロット、複数のサイズ。ここに複数の人間の手を見る読み方はあり得る。
反証。ロットが複数にまたがるのは、単に犯人が複数の店を回ったというだけでも説明がつく。スーパーの棚には、いつでも複数のロットが混在している。1人の人間が数日かけて数軒の店を回ったのなら、この散らばり方はむしろ自然だ。複数犯説は、証拠がないところに人数を足しているだけになりやすい。
「まず人を守れ、次に商品を守れ」――企業が全部捨てた日
事件の被害者ではないが、この事件の主役の1つがジョンソン・エンド・ジョンソンという企業だ。そしてここでの選択が、その後の世界中の企業危機管理の教科書に載ることになる。
当時のタイレノールは、鎮痛薬市場でシェア37パーセント。次点4ブランドの合計を上回っていた。1981年の同社利益のおよそ5分の1を稼ぎ出す看板商品だ。もしタイレノールが独立企業だったら、その利益だけでフォーチュン500の上位半分に入っていたと言われる。
会長のジェームズ・バークは、事件の少し前、恒例の経営戦略会議で「うまく行きすぎていて不安だ」という趣旨のことを冗談まじりに言っていたという。たとえばタイレノールに何か起きたらどうする、と。誰も答えを出せなかった。数週間後に、それが起きた。
会社が最初にこの事態を知ったのは、なんと記者からの電話だった。広報担当のロバート・アンドリュースは「シカゴの記者から電話が来て、監察医が会見して、毒入りタイレノールで人が死んでいると言われた。コメントを求められたが、我々は何も知らなかった。最初の電話では、こちらが記者から教わることの方が多かった」と証言している。
バークが立てた方針は、順番がはっきりしていた。第一に「どうやって人々を守るか」。第二に「どうやってこの商品を救うか」。この順番を、彼は最後まで崩さなかった。同社には創業以来の「我が信条」――顧客、従業員、地域社会、そして最後に株主、という優先順位を明文化した文書――があり、バークは後年、あれがあったから1億ドルの回収を株主に納得させられた、あれが売り込みの弾薬になった、と語っている。
面白いのは、全米回収に反対したのが政府側だったことだ。FBIは反対した。理由は、犯人に「自分は勝った、大企業をひざまずかせた」というメッセージを与えてしまうから。FDAも反対した。理由は、回収がかえってパニックを煽るから。バークはワシントンに乗り込んで両方と会い、それでも回収を主張し続けた。決着がついたのは、カリフォルニアで模倣とみられる別の毒物混入が出たあとだ。FDAが折れ、3100万本、小売価格1億ドル超のタイレノールカプセルが全米の棚から消えた。税引き後で5000万ドルの費用がかかったとされる。
社内も一枚岩ではなかった。バークがテレビの報道番組に出ると決めたとき、反対した役員が会長室のドアを叩きつけて出て行き、その衝撃で壁の絵が落ちた、という逸話が残っている。バークは出演した。会見場に衛星中継の設備を組み、全米に流した。消費者向けの無料電話窓口を作り、報道機関向けには最新情報を録音で流す専用回線を用意した。それまで数字を出したがらない口の堅い会社だったのが、一夜にして「全部出す」側に回ったのだ。
回収した800万カプセルを検査した結果、シアンが入っていたのは75カプセル。すべてシカゴ圏のものだった。つまり回収は、統計的には「ほぼ空振り」に近い。だがその75粒が誰かの薬箱に入っていた可能性を考えれば、この判断は人命を救っている。
ファーナーは当時の同社の協力ぶりをこう証言している。欲しいものは何でももらえた。社長から電話が来て、懸賞金は役に立つと思うかと聞かれた。2万ドルくらいどうかと自分が言い出す前に、向こうが「10万ドルで足りますか」と聞いてきた、と。
そして復活する。10週間で三重シールの新パッケージを作り、2ドル50セントのクーポンを8000万枚配り、2259人の営業部隊を医師と薬剤師のもとへ送り込んだ。1年後、シェアは事件前の8割以上まで戻った。ある投資銀行の人間は「奇跡としか言いようがない」と言った。事件直後にはシェアが35パーセントから7パーセントまで落ち、広告業界の大半が「この名前は二度と使えない」と見ていたのだから、確かに異例ではある。
ただし、この「教科書事例」を美談として読みすぎるのも危うい。会社が守ったのは第一に人命だが、結果として守られたのはブランドでもある。そして4年後、同じことがもう一度起きる。
ふたを開けたら分かる、という発明
事件が変えたものの中で、最も生活に食い込んだのが包装だ。
1982年11月5日、FDAは市販薬全般に改ざん防止包装を義務づける規則を公布した。対象は20万から30万品目。90日または180日以内に切り替えろという、当時としては異例のスピードだった。ここで使われる考え方が「タンパーエビデント」――改ざんを防ぐのではなく、改ざんされたら見て分かる、という発想だ。完全に防ぐことはできない。だが、開けられた痕跡が消せないなら、消費者が気づける。この発想の転換が肝だった。
タイレノールは事件から10週間で、三重シールの新パッケージを市場に出した。箱の口を糊付けし、瓶の首にプラスチックのシュリンクをかけ、瓶の口を金属箔でふさぐ。今わたしたちが薬の瓶を開けるときに引きはがしている、あの銀色のシールだ。あれは1982年のシカゴから来ている。
現在の連邦規則、21CFR211.132は、市販薬について「破られたり欠けたりしていれば、改ざんがあったことが消費者に見て分かると合理的に期待できる、1つ以上の指標または障壁」を求めている。しかもその指標は「デザイン上、あるいは識別特性――模様、名称、登録商標、ロゴ、絵柄――によって独自性を持つもの」でなければならない。誰でも手に入る材料で複製できてはいけない、ということだ。加えて、2ピースの硬ゼラチンカプセルには封止技術が要求される。
法律も動いた。1983年5月9日、下院が292対0で製品改ざん禁止法案を可決し、同日中に上院も通した。10月13日、連邦製品改ざん禁止法が成立する。合衆国法典第18編1365条。それまで、この種の犯罪は州の管轄で、FBIが入れるのは恐喝の要素があるときだけだった。だからタイレノール事件でも、FBIは「恐喝事件」の枠でしか動けなかったのだ。新法はこれを連邦犯罪にし、死亡が生じた場合は終身刑まで科せるようにした。改ざんの脅迫、虚偽の改ざん情報の流布、共謀も処罰対象になった。FDAと農務省に捜査権が与えられた。
1986年2月8日、ニューヨーク州ピークスキルの23歳、ダイアン・エルスロスが、エクストラストレングス・タイレノールのカプセルを2粒飲んで死亡する。シアン化カリウムだった。5日後には近隣の別の店から2本目の汚染瓶が見つかる。しかも今度は、外側の封は破られていなかった。三重シールの内側で毒が入っていた――正確には、封を破らずに中身に到達する方法が存在した、ということだ。
バークはこのとき、1982年よりさらに踏み込んだ判断をする。2月17日、同社は市販薬のカプセル剤形そのものからの完全撤退を宣言した。タイレノールだけでなく、他の市販カプセル製品も全部やめる。1億ドルから1億5000万ドルの負担。カプセルはタイレノール売上のおよそ3割を占めていた。「工場を出たあとの無差別な改ざんを我々は制御できない。だから消費者に対して、カプセルを市場から引き上げる義務があると考える」と彼は言った。代わりに前面に出されたのが「キャプレット」――飲みやすいようコーティングした楕円形の錠剤で、1983年に投入されていたものだ。中身をすり替えることが構造的に難しい。
エルスロスの母親のコメントは短い。「3年遅かった」。この一言を、企業危機管理の成功譚は普通は載せない。でも、載せるべきだと思う。
便乗する者たちの、長い列
タイレノール事件が世に示してしまったものは、もう1つある。「これは効く」という事実だ。
1982年の秋だけで、模倣とみられる混入や脅迫が全米で相次いだ。カリフォルニアではストリキニーネの混入が疑われる事案が出て、これがFDAを全米回収に同意させる引き金になった。FDAのフランク・ヤング長官によれば、1985年の1年間に報告された改ざん事案は約85件だった。ところが1986年、エルスロスの死から30日間で、報告は約2000件に跳ね上がった。食品でも薬でも起きた。ほとんどは実害のない悪ふざけや虚報だったが、社会のコストは莫大だ。
そして最悪の応用例が出る。1986年6月、ワシントン州オーバーンで、52歳のブルース・ニッケルが死亡する。当初は肺気腫による自然死とされた。6日後、同じ町の40歳の銀行支店長スー・スノーがエクストラストレングス・エキセドリンのカプセルを飲んで死亡。シアン化物だった。ここで、ブルースの妻ステラ・ニッケルが自ら当局に接触し「夫も同じロット番号のエキセドリンを飲んでいた」と申し出る。再検査で夫の組織からシアンが検出された。
そこから捜査は反転する。彼女は夫の生命保険をより高額に受け取るために――事故死や他殺なら17万6000ドル、自然死ならそれより10万ドル少ない――夫を毒殺し、それを無差別事件に見せかけるため、店の棚にも汚染ボトルを置いた、というのが検察の主張だった。無関係のスー・スノーがそれを買って死んだ。1988年5月、陪審は5つの訴因すべてで有罪とした。彼女は連邦の製品改ざん法で裁かれた最初の人物になり、量刑は90年、報道によっては270年と伝えられている。
つまりこうだ。タイレノール事件は「無差別に見せかければ、個人的な殺人が隠せる」というテンプレートを世の中に配ってしまった。ステラ・ニッケルはそれを使った。逆に言えば、タイレノール事件そのものについても「無差別を装った標的殺人だったのでは」という仮説が生まれる余地を残した。だがシカゴの7人については、誰が誰を狙ったのかを示す線が、いまだに1本も引けていない。
1991年にはワシントン州でスダフェドの12時間カプセルにシアンが入れられ、2人が死亡、1人が重体になった。ブリスターパックという「一見安全そうな」包装が使われていたことが、かえって油断を生んだと指摘された。連邦当局は「包装が変わったことで、人々は改ざんへの警戒を緩めてしまった」と警告している。改ざん防止包装は万能薬ではない。それは「気づける可能性」を上げるだけの装置で、気づく人間がいなければ意味がない。
太平洋を渡った悪夢――「どくいり きけん たべたら しぬで」
さて、ここからが日本の話だ。
1984年3月18日午後9時過ぎ、兵庫県西宮市。江崎グリコの社長、江崎勝久氏の自宅に、目出し帽の2人組が押し入った。社長は入浴中だった。犯人は社長を連れ去り、現金10億円と金塊100キロを要求する。社長の妻が「金ならいくらでも出す」と言ったのに対し、犯人は「金は要らん」と答えたという証言が残っている。この一言が、のちに「金目的ではなく怨恨ではないか」という説の根拠になった。社長は3日後、監禁されていた水防倉庫から自力で脱出する。
普通ならここで終わる誘拐事件だった。だが終わらなかった。5月10日、毎日、読売、サンケイ、朝日の4社に挑戦状が届く。「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」。差出人は「かい人21面相」。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズの怪人二十面相から取ったと見られる名だ。挑戦状には「全国にばらまく」という予告と、「グリコを たべて はか場え いこう」という言葉が添えられていた。
大手スーパーは即座にグリコ製品を撤去した。グリコの損失は2000万ドルを超え、パート従業員450人が職を失ったと英語圏の資料は伝えている。6月26日、犯人グループは「グリコ ゆるしたる」という手紙を出し、標的を移した。丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋。
そして9月12日、森永製菓の関西販売本部に脅迫状が届く。「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く」。脅迫状には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。10月上旬、犯人はそれを実行する。「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が、店頭に置かれた。青酸入りの菓子は13個見つかった。1984年10月9日の時点で、大阪と名古屋の10店舗から11個が見つかったと外電は伝えている。
1985年2月13日、バレンタインデーの直前には、「どくいり きけん」のラベルを貼った青酸入りチョコレートが東京都と愛知県で相次いで発見された。毒が入っていないものには「どくなし あんしん」と書かれていた。この回では、脅迫対象になっていたグリコ、森永、不二家に加え、明治製菓とロッテのチョコレートまでばらまかれた。
日本中のスーパーから菓子が消えた。当時神戸に住んでいた研究者は、自分の家からも一時期お菓子が姿を消したと回想している。犯人グループは企業だけでなくマスコミにも140通を超える脅迫状と挑戦状を送りつけた。関西弁で警察の捜査を「ぜい金 むだづかい」と揶揄する文面は、その軽妙さゆえに大衆に受け、犯人像が「反権力のアンチヒーロー」として美化される奇怪な現象まで起きた。評論家の赤塚行雄が「劇場型犯罪」と名づけたのはこの事件についてだとされる。
捜査は何度も犯人に肉薄した。1984年6月28日、丸大食品の現金受け渡しで、高槻駅から京都駅へ向かう電車内で捜査員が不審な男を目撃する。これが「キツネ目の男」だ。11月14日のハウス食品の受け渡しでは、名神高速道路の大津サービスエリアで再び目撃された。だが当時の捜査方針は「一網打尽」――グループ全員を現行犯で押さえること。現場の捜査員には尾行も職務質問も禁じられていた。男を目撃した捜査員が無線で職務質問の許可を求め、本部に拒絶されたという記録が残っている。男はそのまま闇に消えた。
1985年8月12日、犯人側は「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」という終結宣言を送りつけ、以後ぱたりと動きを止めた。理由は、その5日前に自ら命を絶った滋賀県警本部長への香典代わりだという。捜査に投入された警察官は延べ130万人。2000年2月、すべての事件の時効が成立した。未解決である。
日本の法制度も、この事件で動いた。青酸入りの菓子には必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の警告紙が貼られていたため、殺人未遂の構成要件に当たらないのではないかという議論が生じた。この不備を埋めるため、1987年9月18日に「流通食品への毒物の混入等の防止等に関する特別措置法」――通称グリコ法――が成立し、9月26日に公布、10月16日に施行された。流通食品に毒物を混入した者は10年以下、死傷させた場合は無期または1年以上。国会の審議記録を読むと、議員たちが防犯カメラの設置や、第三者が毒物を混入しにくく、混入されたらすぐ分かる包装の必要性を議論しているのが分かる。タイレノールと同じ発想が、日本語の議事録の中で語られている。ただし憲法39条の遡及処罰禁止により、この法律はかい人21面相には適用できなかった。
二つの事件を並べると、何が浮かび上がるか
日本語版の資料でも、グリコ・森永事件の記述の中に「1982年、アメリカでジョンソン・エンド・ジョンソン社のタイレノールにシアン化カリウムが混入され、7名が死亡する事件が発生している」という参照が置かれている。当時の外電も、青酸入り菓子が発見された段階で「2年前のシカゴのタイレノール事件と多くの共通点がある」と書いた。「かい人21面相はタイレノール事件を参照した」という論じ方には、それなりの根拠がある。
まず手口の骨格が同じだ。大量生産・大量流通される日用品を選び、流通の末端で細工し、棚に戻す。標的は企業だが、人質は不特定多数の消費者。この構造はタイレノールで初めて世界に可視化されたもので、かい人21面相はその2年後に、より洗練された形で実装した。
だが違いの方が本質的かもしれない。3つある。
1つ目、金銭要求の有無。かい人21面相は最初から企業に金を要求した。グリコに10億円、森永に1億円、ハウス食品に1億円。金の受け渡しという「接点」が生まれるので、警察はそこに網を張れる。実際、キツネ目の男が目撃されたのは全部この受け渡しの現場だ。対してシカゴの犯人は、何も要求していない。100万ドルを要求した恐喝状は事件から1週間後に来たもので、それを書いた男は殺人では起訴されていない。接点がゼロだったから、警察は網の張りようがなかった。
2つ目、死者の有無。ここが最も重い違いだ。かい人21面相の青酸入り菓子には、必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の警告紙が貼られていた。だから誰も食べなかった。誰も死んでいない。社会心理学者はこの矛盾――無差別で凶悪な手口と、実害を避ける警告文の同居――こそが「えたいの知れなさ」を生み、不安を増幅させたと分析している。一方シカゴの犯人は、警告を一切出さなかった。だから12歳の子が死んだ。この差は手口の差ではなく、人格の差だ。かい人21面相が何を考えていたのかは分からないが、少なくとも「実際に人を殺す」ことは目的の外側に置いていた。シカゴの犯人には、そういう線が存在しない。
3つ目、劇場性。かい人21面相はメディアを使い倒した。140通の手紙。挑戦状。子どもの声を録音した電話。似顔絵。犯人が舞台に上がり、警察が敵役をやり、メディアと大衆が観客をやる、という完全な構図が成立した。日本で「劇場型犯罪」という語が定着したのはここからだ。対してシカゴの犯人は、一度も舞台に上がっていない。声明も、名乗りも、皮肉も、何もない。この徹底した沈黙こそが、シカゴ事件が40年たっても解けない最大の理由であり、同時に最も不気味な特徴でもある。
そして企業対応の対比が興味深い。ジョンソン・エンド・ジョンソンは、犯人と交渉する余地がそもそもなかったので、消費者に全部開示して全部回収する、という一択に賭けた。結果として「顧客第一」の物語が成立した。日本の企業は、相手が交渉を持ちかけてくるぶん、はるかに苦しい立場に置かれた。1985年にはニコチン入り製品をばらまくと脅されたロッテが、警察に届けずに3000万円を払う裏取引に応じている。翌年また5000万円を要求され、今度は通報して犯人が逮捕された。裏取引が発覚したロッテは批判にさらされ、客の安全が第一だったと弁明した。回収して開示すれば模倣犯を呼び、黙って払えば犯罪に加担する。どちらを選んでも殴られる場所に、日本の食品企業は立たされていた。
模倣犯という現象も両国で同じ形をとった。アメリカでは1986年の1か月で改ざん報告が2000件に跳ね上がった。日本では1984年、電話や文書による恐喝・脅迫の認知件数が420件に達し、前年より64件増えた。かい人21面相に便乗した企業恐喝が続発し、小中学生がファミコン欲しさに食品企業を脅すという事案まで起きている。筑波大学の小田晋教授はこれらを「コバンザメ犯罪」と名づけた。本物の犯人グループが「偽物との取引に応じるな」と企業に呼びかけ、江崎社長の声の録音を同封して自分が本物だと証明する、という悪い冗談みたいな展開まであった。
法制度の対比もきれいに対応している。アメリカは1982年11月にFDA規則、1983年10月に連邦製品改ざん禁止法。日本は1987年9月にグリコ法。どちらも「既存の刑法が想定していない攻撃が現れたので、後追いで穴を塞いだ」という同じ構造だ。そしてどちらの法律も、それを生んだ事件の犯人には適用されなかった。
なぜ、40年たっても解けないのか
理由を並べていくと、この事件が「たまたま解けなかった」のではなく「解けにくい構造を持っていた」ことが分かってくる。
第一に、動機が存在しないか、存在しても外から見えない。捜査というのは基本的に「誰が得をするか」から逆算する作業だ。だがこの犯人は何も得ていない。金も要求していないし、名乗ってもいないし、政治的な主張もしていない。イリノイ州の捜査担当者が「誰がやったかが言えないだけでなく、なぜやったかも言えない」と嘆いたのは、そういう意味だ。
第二に、犯人と被害者に接点がない。7人はお互いを知らなかった。犯人も7人を知らなかったはずだ。人間関係を洗う、という捜査の主力手段が最初から使えない。
第三に、物証の質。犯人が触ったはずのものは残っている。瓶、箱、中の綿、カプセル。だが1982年当時のDNA技術では、そこから何かを取り出すことはできなかった。そして問題は、それから40年の間に、その証拠が延々と旅をし続けたことだ。報道機関がFOIAで入手した資料を追跡した結果、瓶と箱と錠剤は、少なくとも12以上の行政機関、警察、民間ラボの間を渡り歩いていた。州警察、FDA、民間の鑑定会社。2007年には全証拠がFBIのクワンティコに送られて再検査された。触った人間が増えれば増えるほど、汚染が増える。しかも検査を繰り返すこと自体が試料を劣化させる。だからこそ、2020年には警察が「証拠を扱ったと分かっている人物」の指紋とDNAを除外目的で採取し続けている。1982年に瓶を保管した判事の遺族から、2018年に亡くなった故人のパイプまで提供してもらってDNAを取る、という気の遠くなる作業をやっているのだ。
第四に、時間そのもの。証人が死ぬ。記憶が薄れる。1982年の証拠管理は、2020年代の基準から見れば緩い。関係者が善意でやったことが、後年になって証拠の価値を下げているケースもある。
第五に、起訴のハードル。捜査側は2022年の時点で「起訴可能な状況証拠の事件」があると考えていた。だが検察は動かなかった。40年前の事件で、状況証拠だけで、しかも被告が高齢という条件で、有罪を取れるかどうか。負ければ二度と裁けない。この計算が働かなかったとは考えにくい。そして2023年、その計算をする対象そのものがいなくなった。
ただ、完全に閉じたわけでもない。アーリントンハイツ警察は今も「連続殺人犯の殺人捜査として積極的に取り扱っている」と表明している。2020年からはヒューストンの法科学ゲノム解析企業と組んで、進んだDNA技術での解析を進めていることが記録から分かっている。汚染された錠剤も、汚染されていない錠剤も、瓶も箱も中の綿も、全部残っている。担当のジョー・マーフィー巡査部長は「技術はもうある。DNA技術は、この捜査を前に進められると確信できるところまで来ている」と語った。近年、古い事件が次々に解決されているのは新しいDNA技術のおかげだ、とも。
ヤヌス家の弟、ジョー・ヤヌスは2人の兄と義姉を一度に失った人だ。彼は今も、生きているうちに逮捕を見たいと言っている。「あいつは動物だ。恐れもせずに人を殺す」。そして彼の姪にあたる世代は、こう書き残している。「正義は必ず果たされると信じている。この人生でなければ、次の人生で。アダム・ヤヌス、スタンリー・ヤヌス、テレサ・ヤヌスの愛しい記憶に捧げて」。
変わったのは包装じゃない。信頼の置き場所だ
さて、ここからは腰を据えて書く。この事件が本当のところ何を変えたのか、もう少し奥まで踏み込みたい。
この事件を「包装が変わった事件」として要約するのは、たぶん間違っている。正確には、この事件は「信頼の構造」を可視化した事件だった。1982年9月28日まで、アメリカの消費者は薬の瓶を無条件に信頼していた。その信頼は、製薬会社を信頼していたから成立していたのではない。誰も薬に毒を入れようとは思わない、という暗黙の前提の上に立っていた。工場から棚までの経路も、棚から家までの経路も、誰も守っていなかった。守る必要があると思われていなかったからだ。犯人がやったのは、その「誰も守っていない区間」を発見して、そこを突いたことだ。技術的には何も難しくない。難しくなかったからこそ、恐ろしかった。
だから対策は、その区間を「見える」ようにする方向に進んだ。ここで注意深く見てほしいのは、規制も企業も「改ざんを防止する」とは一言も言っていないことだ。連邦規則が求めているのは、破られたり欠けたりしていれば消費者が気づける指標だ。つまり最後の検問は消費者に委ねられている。あの銀色のシールは、企業から消費者への「ここまでは我々が責任を持った、ここから先はあなたが確認してくれ」というメッセージなのだ。責任の受け渡し地点が物理的に可視化されたのが、あのシールの正体である。この考え方は、その後の食品、飲料、化粧品、そしてソフトウェアの署名やパッケージの改ざん検知にまで引き継がれた。壊れないものを作るのではなく、壊されたら分かるものを作る。1982年のシカゴから始まった発想は、今のセキュリティ設計の背骨の一部になっている。
教科書が書かない、バークの四つの判断
ジョンソン・エンド・ジョンソンの対応についても書いておきたい。この話は「危機管理の成功例」として語られすぎていて、そのぶん実務的な教訓が痩せてしまっている感じがある。実際に効いたのは、美しい理念ではなく、いくつかの具体的な判断だ。
1つ目は、意思決定の階層を上げたこと。バークは事件を子会社マクニールの問題ではなく本社の問題として扱い、自分が指揮を執り、他の事業の運営は他の役員に丸投げした。危機の間、トップが本業から手を離せるかどうか。これが分岐点になる。
2つ目は、情報の非対称を自分から捨てたこと。それまで同社は製品別の数字を出さない口の堅い会社だった。それが一夜で、記者会見の生中継、消費者向け無料電話、報道向け録音回線まで用意した。情報を握って優位に立とうとする誘惑を捨てたのだ。この判断は道徳的に立派だったというより、実務的に正しかった。誰も真相を知らない局面では、情報を出し惜しみした瞬間に「隠している」という物語が確定する。
3つ目は、当局に逆らう覚悟。FBIとFDAの両方が全米回収に反対する中で、バークは回収を主張し続けた。当局の助言に従っておけば、少なくとも責任は分散できる。それをやらなかった。ここで思い出してほしいのは、FBIの反対理由が「犯人に勝利感を与える」だったことだ。この理屈は、実は間違っていない。実際、模倣犯は続発した。回収と全面公開は「この手口は効く」という宣伝にもなった。つまりバークの決断は、模倣犯を呼ぶリスクを承知のうえで人命を優先した、という賭けだった。教科書はこの部分をあまり書かない。危機対応にあるのは、正解ではなく「どの被害を引き受けるか」の選択だけだったりする。
4つ目、そしてこれが一番語られない点だが、同社は1986年にもう一度殴られて、そこでさらに深く切った。カプセル剤形からの全面撤退。1億ドルから1億5000万ドル。売上の3割。1982年の対応が完璧だったのなら、1986年は起きていない。実際、バーク自身が「後から考えれば、1982年の時点でカプセルをやめておくべきだったかもしれない」と述べている。エルスロスの母親の「3年遅かった」という言葉は、危機管理の成功譚に添えられるべき唯一の脚注だと思う。学ぶべきは「素早く回収した」ことではなく、「4年後に前回の判断を否定できた」ことの方だ。
この事件は、殺し方の「型」を配ってしまった
もうひとつ。この事件は犯罪の「様式」を発明してしまった。ステラ・ニッケルの事件は、そのことを最も残酷な形で示している。彼女は保険金目当てで夫を殺し、それを隠すために、無関係の人が買う場所に汚染品を置いた。無関係の人が死んだ。彼女がこの発想に至れたのは、1982年のシカゴという「先例」があったからだ。無差別事件というのは、動機からの逆算を無効化する。だから個人的な殺人を無差別に偽装できる。この一点だけで、シカゴの犯人は自分が意図しなかった殺人まで間接的に生んだことになる。ロジャー・アーノルドに撃たれたジョン・スタニシャも、同じ意味で事件の産物だ。ある犯罪が社会に与える損害は、直接の被害者の数では測れない。
かい人21面相は、シカゴから何を取って、何を捨てたか
日本との接続にも、もう少し踏み込んでおく。かい人21面相がタイレノール事件を「参照した」という論は、決定的な証拠があるわけではない。犯人が捕まっていない以上、本人の口から確認する術はない。だが、2年前に地球の反対側で起き、日本でも大きく報じられた「流通の末端で日用品に毒を入れる」という手口が、当時の日本の犯罪者の想像力の外にあったとは考えにくい。参照したと断定はできないが、参照できる状態にあったことは事実だ。そして見逃せないのが、かい人21面相がそれを丸ごとコピーしなかった点だ。彼らは手口の骨格だけを取り、人を殺す部分を切り落として、代わりに劇場性と金銭要求を接ぎ木した。この編集の仕方に、この犯人グループの性格が全部出ている。彼らが欲しかったのは死体ではなく、企業の恐怖と、社会の注目と、警察を嘲る快感だった。
そして皮肉なことに、その編集が捜査を可能にした。金を要求すれば受け渡し現場ができる。手紙を出せば筆跡と用紙が残る。声を録音すれば音声が残る。キツネ目の男が7人の捜査員に2度も目撃されたのは、犯人が舞台に上がったからだ。逆に言えば、日本の警察は「犯人と接触する機会」を何度も得ていながら、組織の方針――一網打尽、縦割り、無線の届かない区間――に阻まれて取り逃した。つまりグリコ・森永事件は「手がかりがないから解けなかった」のではなく、「手がかりがあったのに掴めなかった」事件だ。ここがシカゴとの決定的な違いである。当時の捜査員が40年後に「犯人との知恵比べで負けたんや」「完全に警察の負けや」と語るのは、そういうことだ。シカゴの捜査官が同じ悔しさを語ることはない。彼らには、負ける相手が見えなかった。
悔恨の未解決と、虚無の未解決
未解決事件を扱う書き手として、一番気をつけているのはここだ。未解決には2種類ある。「解ける材料が揃っていたのに逃した未解決」と、「そもそも材料が存在しなかった未解決」。前者は悔恨の物語になり、後者は虚無の物語になる。グリコ・森永は前者で、シカゴは後者だ。だから読み物としての手触りが全然違う。グリコ・森永の関連書籍やドキュメンタリーには常に「あと一歩だった」という熱がある。タイレノール事件の資料には、その熱がない。代わりにあるのは、遺族が40年間、何も分からないまま生き続けたという事実の重さだけだ。
記憶が育たなくなる、ということ
その重さについても書いておきたい。ライナーの娘ミシェル・ローゼンは、8歳のとき母がけいれんして倒れるのを見た。彼女はその後の人生で、市販薬も処方薬も一切飲んでいない。出産のときですら飲まなかった。子どもたちにも飲ませていない。母の思い出を尋ねられて彼女が言えることは多くない。「トラウマのせいで、あまり覚えていない。母は、いつも楽しそうだった」。料理が上手でコーンビーフと卵麺を作ってくれた。ソフトボールとドラムとボウリングが好きだった。それだけだ。人が1人殺されるというのは、その人がいなくなることではなくて、その人にまつわる記憶が育たなくなることなのだと、この証言は教えてくれる。
ヤヌス家では、三代にわたって痛みが受け継がれている。当時8歳だった子どもの子どもが、大叔父たちの写真を見て育つ。ヘレン・ジェンセンは、80歳になっても5年ごとに同じ話を求められ、そのたびにあの浴室と、あの瓶と、ペーパータオルの上に並べたカプセルを思い出す。数え終わる前から確信していた、と彼女は言う。6粒足りなくて、3人死んでいる。彼女はこの記憶を「私の仕事で一番好きな思い出とはほど遠い」と言った。24年間、村の住民の話を聴いて回るという静かな仕事をしてきた人が、たった1日の記憶で全国区の証言者にされてしまった。それも一種の被害だと思う。
チャック・クレイマーの証言も、繰り返し読むほど重い。彼はスタンリーの処置をしていて、テレサに腕をつかまれていた。次の瞬間、彼女は床にいて、瞳孔は開いていた。救急の現場にいる人間にとって、目の前で人が倒れることは日常だ。だが「今さっき自分の腕をつかんでいた人」が、振り向いた瞬間に死にかけている、という体験は日常ではない。彼はそれを「人生で最悪の出動のひとつ」と呼んだ。40年たっても、その一瞬を手放せていない。
事件について、いまだに分かっていないことを正直に列挙しておく。犯人が何人だったのか分からない。動機が分からない。汚染された瓶が何本あったのか、正確な数は分からない。回収して検査された800万カプセルのうち75粒が汚染されていた、という数字はあるが、検査されなかった瓶がどうなったかは分からない。犯人が事件後に何をしたのかも分からない。生きているのかどうかすら分からない。1982年に成人だったなら、いま生きていれば60代後半から90代だ。統計的に言えば、もう死んでいる可能性の方が高い。
それでも捜査が続いているのは、遺族が生きているからだ。ジョー・ヤヌスは自分が死ぬ前に答えが欲しいと言っている。証拠を保管していた判事の娘は「ヤヌス家のように人生を壊された家族が、何らかの平穏を見つけられることを願っている」と語った。ここでいう平穏は、犯人が罰を受けることとイコールではないかもしれない。ただ「何が起きたのか」を知ることが、人生の残りの時間の質を変える。そういう種類の願いだ。
あの銀色のシールは、誰かの死の産物だ
残した実感を、最後に1つだけ。今日あなたが薬局で買う薬の瓶には、必ず封がしてある。ふたを開けると銀色のシールがある。あなたはそれを何も考えずに剥がして、たぶん指で丸めてゴミ箱に捨てる。その一連の動作は、1982年9月29日の朝、シカゴ郊外のバスルームで倒れた12歳の少女と、その日のうちに同じ台所で次々に倒れた若い一家と、非番の日に警察無線を聞いていた消防士の雑談と、夕飯を作りかけて家を飛び出した村の看護師が数えた6粒のカプセルの、その延長線上にある。誰かが死んだから、その封がある。誰も捕まっていないから、その封は今も必要とされている。
薬を飲むときに毎回そんなことを考える必要はない。でも、ごくたまに、あの銀色のシールを剥がす瞬間に、剥がせること自体が誰かの死の産物なのだと思い出すくらいのことは、してもいいと思う。それが、名前を奪われた7人に対して、後から来たわたしたちができる数少ないことのひとつだ。
