二〇一三年五月六日の夕方、オハイオ州クリーブランドの通信指令センターに一本の電話が入った。声はうわずっていて、息が上がっていて、背後で子どもの泣き声がしていた。オペレーターが用件を訊くと、女性はこう言った。助けて、私はアマンダ・ベリー、誘拐されて、十年間行方不明になっていた、いま自由になった、と。
このやりとりは数時間後には全米のテレビとラジオで流れ、翌朝には世界中に届いた。十年というのはとんでもない長さだ。九・一一のあとにアメリカが二つの戦争を始め、スマートフォンが世に出て、初の黒人大統領が二期目に入るまでの時間、彼女は西二十五丁目からそう遠くない、なんの変哲もない木造二階建ての中にいた。しかも一人ではなかった。同じ家の中に、別の年に消えた女性がもう二人いた。
この記事では、その三人がどうやって消えたのか、あの日いったい何が起きたのか、そしてなぜ十年ものあいだ誰もあの家に辿り着けなかったのかを、できる限り具体的に追いかける。きれいにまとまる話ではないし、まとめてしまったら嘘になる部分がいくつもある。それも含めて書く。
「子犬をあげる」と言われた二十一歳、ミシェル・ナイトが消えた夏
最初に消えたのはミシェル・ナイトだった。二〇〇二年八月二十三日、当時二十一歳。前日の二十二日という記録もあって、この時点ですでに日付が揺れているのが、この事件の性質をよく表している。彼女はいとこの家を出て、そこから消えた。
彼女には幼い息子がいた。ジョーイという名前で、事故で怪我をしたことをきっかけに児童福祉当局が介入し、親権を争う裁判が控えていた。消えた日は、その手続きに関わる日程が目前に迫っていたタイミングだった。つまり彼女には「いなくなる理由」があると周囲に見なされる状況が、不運にも揃っていた。
彼女に近づいたのは、当時四十二歳のアリエル・カストロという男だった。カストロの娘とミシェルは面識があったとも言われる。子犬をあげるという誘い、あるいは車で送るという申し出。どちらの説明も流通していて、後年のカストロ自身の供述や被害者側の記述で細部が食い違っている。ただ、はっきりしているのは、彼女がその車に乗った、ということだ。行き先はセイモア通り二二〇七番地だった。
そして、ここからがこの事件のいちばん胸の悪くなるところなのだが、警察の反応はきわめて薄かった。二十一歳は法律上の成人で、家庭の事情でもめている最中で、しかも家族との関係もけっして良好ではなかった。捜査当局は「自分の意思でいなくなった」という前提から出発してしまった。クリーブランド市警の副本部長エド・トンバは後年、彼女に関する通報や情報提供はごくわずかしかなかったと認めている。彼女の名前は失踪から十五か月ほどで全米犯罪情報センターのデータベースから外された。母親が繰り返し問い合わせても、成人の失踪はそういうものだ、という扱いが続いた。
行方不明者のポスターに顔が並ぶとき、そこに載る顔と載らない顔がある。ミシェル・ナイトは、載らないほうに分類されてしまった。この分類が、後の十年を決定的に規定する。
十七歳の誕生日の前日、バーガーキングの制服のまま
二人目はアマンダ・ベリーだった。二〇〇三年四月二十一日、十六歳。翌二十二日が十七歳の誕生日だった。
彼女はウェスト百十丁目とロレイン通りの角にあるバーガーキングでアルバイトをしていて、その日はシフトを終えたところだった。夜八時ごろ、姉に電話をかけている。友達の車で送ってもらうから、という内容だった。それが家族が聞いた最後の声になった。
彼女を乗せたのもカストロの車だった。カストロの娘アーリーンとアマンダには接点があり、「娘の父親」という肩書きは、十代の子にとって警戒を解くには十分すぎるカードだった。カストロは車の中で、家に寄って娘に会っていかないか、というような話をしたとされる。そして彼女はセイモア通りの家に入った。
翌日は誕生日だ。母ルワナ・ミラーは、娘が誕生日をすっぽかすはずがないと確信していた。ここから彼女の長い長い闘いが始まる。ルワナはテレビに出た。全国放送のトーク番組にも何度も出た。ビラを配り、記者に電話をかけ、警察に食い下がった。
そして二〇〇四年十一月、彼女は自称霊能者シルビア・ブラウンの番組に出演する。ブラウンはカメラの前で、あなたの娘はもう生きていない、水の中にいる、と言い切った。ルワナはその場で崩れた。家に帰って娘の写真を外し、娘のパソコンを人にあげた。それでも完全には諦めきれず、探し続けた。そして二〇〇六年三月二日、心臓の不調で亡くなった。四十四歳だった。娘が生きて帰ってくる七年前のことだ。
この一件は、あの霊能者ビジネスというものが人の何を壊すのかという話として、いまも繰り返し引き合いに出される。ブラウン本人は二〇一三年の救出時にはすでに反論できる状態になく、その翌年に亡くなっている。
学校からの帰り道、公衆電話の前に立っていた十四歳
三人目はジーナ・デヘスス。二〇〇四年四月二日、十四歳だった。
その日、彼女はウィルバー・ライト中学校からの帰り道を友人と歩いていた。ウェスト百五丁目とロレイン通りの交差点あたりで、友人の家に泊まりに行っていいか母親に訊くため、公衆電話を使おうとしていた。許可は出なかった。友人と別れ、彼女は一人になった。午後三時ごろのことだ。
そこにカストロの車が停まった。ジーナはカストロの娘アーリーンの親友で、カストロの家に遊びに行ったこともあった。だから車の窓が開いて、アーリーンの父さんだよ、送ろうか、と言われたとき、断る理由がなかった。彼女は乗った。そしてセイモア通りに着いてから、アーリーンは家にいないと知らされる。
ジーナの失踪は、アマンダのときとは違う反応を引き起こした。十四歳で、通学路から消えた。地域は一気に緊張した。ヒスパニック系コミュニティが総出でビラを貼り、母親のナンシー・ルイスと父親のフェリックス・デヘススは行方不明者支援の顔になっていった。フェリックスは後年、アンバーアラートがなぜ発令されなかったのかを問い続けた。当時の運用基準では、彼女のケースは発令条件に届かないと判断されていた。法律はどの子どもにも働くべきだ、変えなければならない、と彼は語っている。
FBIとクリーブランド市警はアマンダとジーナの件を結びつけ、犯罪捜査番組の全国放送でも取り上げられた。二万五千ドルの懸賞金がかかった。二〇〇五年にはFBIが似顔絵を公開している。ラテン系、二十五歳から三十五歳、身長百七十八センチ前後、体重七十五から八十四キロ、緑色の目、あご髭。実際のカストロは身長百七十センチ、体重八十一キロ、目は茶色だった。年齢も一回り上だ。似顔絵は、探すべき男から人々の目を逸らす方向に働いた。
外から中がまったく見えない家、セイモア通り二二〇七番地
三人が閉じ込められていたのは、クリーブランドのウェストサイド、トレモント地区に近いセイモア通り二二〇七番地の家だ。一八九〇年に建てられ、一九五六年に改装された木造二階建て。延床面積はおよそ百三十平方メートル、寝室が四つ、風呂が一つ、地下は未完成のまま。カストロは一九九二年にこの家に移り住んだ。
外から見て異様に映るような家ではなかった。ただ、細かく見ていくと引っかかる点はいくつもあった。カストロは裏庭を金網フェンスとその内側の高さ二メートル半ほどの木の壁で二重に囲っていた。真後ろに住んでいたバーディ・アダムスは、あそこは何も見えなかった、と語っている。二階の窓のいくつかは板や厚いカーテンで塞がれ、外の光が入らないようになっていた。玄関の内側のドアは常時施錠され、その外の網戸のドアにも別の錠がついていた。
家の中で三人は隔離されていた。互いの存在に気づくまでにも時間がかかっている。食事は基本的に一日一回、入浴の機会も限られていた。カストロは彼女たちを長期にわたって暴行し、脅迫し、家から出られない状態に置き続けた。手口の細部をここで再現するつもりはない。裁判で立証された事実として、それが日常的かつ組織的だった、というところまでで十分だ。
ミシェル・ナイトの被害はとりわけ苛烈だった。彼女は複数回妊娠させられ、そのつど暴力によって流産させられた。顔の骨を再建する手術が必要になり、片耳の聴力を失った。彼女をかばった飼い犬が殺されたことも、後に彼女自身が法廷で語っている。
アマンダ・ベリーは二〇〇六年十二月二十五日、その家の中で娘を産んだ。取り上げたのはミシェル・ナイトだった。医療設備も何もない状況で、簡易プールの中での出産だった。子どもは呼吸をしていなかった。ミシェルが必死に息を吹き込んで、泣き声が上がった。カストロはミシェルに向かって、もしこの子が死んだらお前を殺す、と言ったという。生まれた子はジョセリンと名づけられた。アマンダは紙の切れ端に日記を書き続け、娘に文字を教えた。ジョセリンにとって、その家の中が世界のすべてだった。
ジーナ・デヘススは妊娠しなかった。彼女とミシェルは同じ部屋で過ごす時間が長く、互いに支え合っていた。後に三人が口を揃えて語っているのは、いつか全員で生きてここを出る、と約束していたということだ。
二〇一三年五月六日、内側のドアの鍵がかかっていなかった
その日は月曜日だった。天気は良かった。
カストロはたいてい、外出するときに家中の錠を確認してから出た。彼はときどき、わざと出口を開けたままにして、逃げようとするかどうかを試すことがあった。試験に引っかかった者には報復が待っていた。だからその日の午後、アマンダ・ベリーが玄関の内側の大きなドアが施錠されていないことに気づいたとき、彼女がまず考えたのは罠かもしれないということだった。
彼女は迷った。それでも動いた。内側のドアを開けると、その先に網戸のドアがある。こちらには外側から錠がかかっていて開かない。だが網戸越しに外が見えた。通りが見えた。彼女は叫んだ。
最初に反応したのは、向かいに住むアンヘル・コルデロという男性だった。彼はスペイン語話者で、英語がほとんど分からない。網戸の向こうから英語で必死に何かを訴えている女性がいる。何が起きているのかを把握するのに時間がかかった。彼は近づき、後の説明によれば、ドアをどうにかしようとした。
そこに来たのがチャールズ・ラミジー、当時四十三歳、二軒隣に住む皿洗いの仕事をしていた男だ。彼はその日、マクドナルドを食べているところだった。悲鳴が聞こえて外に出た。女が家から出ようとして暴れている。近所付き合いはあった。カストロとバーベキューをしたこともあるし、一緒に音楽を聴いたこともある。あの家の女、という認識ではなく、あの家に女がいるはずがない、という認識だった。
ラミジーの説明では、網戸のドアの下のパネルを蹴り破ればいいと言ったのは彼で、実際に蹴ったのも彼を含む複数人だった。穴が空いた。アマンダは六歳の娘ジョセリンを先に押し出し、自分も這い出した。十年ぶりに、彼女は舗装された歩道の上に立った。
彼女はラミジーに言った。助けて、閉じ込められてた、と。そしてもう一つ言った。私はアマンダ・ベリーです、と。
ラミジーはこのとき、この名前がどれだけの意味を持つ名前なのかをすぐには理解していない。彼は自宅の電話で九一一にかけた。アマンダは別の隣人であるアリシア・マルティネスの家に駆け込み、そこの電話でもう一本の九一一にかけた。同じ通りで、ほぼ同時に二本の通報が発信された。
「私はアマンダ・ベリー、十年前に行方不明になった」――全米が聞いた三分間
アマンダの通報の音声は、翌日には全米で流れた。
彼女は開口一番、助けて、私はアマンダ・ベリー、と名乗った。誘拐されて十年間行方不明だった、いま自由になった、と続けた。オペレーターは住所を確認し、警察を向かわせると告げた。アマンダはそれでは足りないと訴えた。いますぐ来てほしい、あいつが戻ってくる前に、と。オペレーターが犯人の特徴を尋ねると、彼女は五十二歳くらい、ヒスパニック系、と答えた。名前も言った。アリエル・カストロ。
途中、彼女ははっきりとこう言っている。私はアマンダ・ベリーです、この十年ニュースに出ていました、と。十年閉じ込められていた人間が、自分がニュースの中の失踪者として存在し続けていたことを正確に認識していた。この一行が、聞いた人間の背中を凍らせた。
そして通話は、警察の到着を待たずに切られた。この点が後に問題になる。オペレーターのジャック・パーディは市警の通信員として四年のキャリアがあり、規定上は必要な情報を取って迅速に部隊を出動させている。だが全米の通信指令の実務者からは、なぜ回線を保持しなかったのか、犯人が戻ってくると訴えている相手の電話を切るとはどういうことか、という批判が噴出した。共感が感じられない、という指摘もあった。市の安全担当局長マーティン・フラスクは、規定は守られており出動は非常に速かったと擁護しつつ、回線を切った判断については問題があったと認めた。パーディは審問で争わず、三年間ファイルに残る文書での譴責処分を受けた。
チャールズ・ラミジーのほうの通報も、別の意味で伝説になった。彼は早口でまくし立て、興奮しきっていて、途中で通報係と噛み合わない。彼はこう言った。ここに女がいる、アマンダ・ベリーだって名乗ってる、十年ニュースでやってたあの女だ、と。
その日の夕方、彼は地元局のカメラの前に立った。そこで出た一連の発言が、そのまま歴史に残る。マクドナルドを食べてたんだ、という一言。そして、この男とバーベキューをしたことがある、という一言。さらに、俺の家の腕の中に白人の女が飛び込んできたら何かおかしいってことだ、という趣旨の一言。この最後の発言が、アメリカの人種と階級の生々しい神経に触れた。
インタビュー映像は三分足らずだ。それが一年で五千万回以上再生された。つまり、アメリカ人の六人に一人が見た計算になる。オートチューンで音楽にされ、Tシャツになり、無数のミームになった。マクドナルドは彼にギフトカードを贈った。百ドル券が二十枚、合計二千ドル分。彼はそれをホームレスの人たちに配った。そのあとマクドナルドからの無料提供は途絶えたという。
銃を構えて階段を上がった警官が、二階で見たもの
通報から警察の到着までは早かった。マイケル・トレイシー、バーバラ・ジョンソン、アンソニー・エスパーダの三人の警官が現場に入った。
エスパーダの報告によれば、パトカーに近づいてきた女性を見て、相棒が「彼女だ」と言った。その瞬間、彼は感情が押し寄せてくるのを感じたという。三人は銃を構えて家に入った。一階を確認する。誰もいない。階段を上がる。二階の一室のドアが開いて、痩せた女性が出てきた。彼女はエスパーダに向かって突進し、飛びついた。そして繰り返し言った。助けてくれた、助けてくれた、と。ミシェル・ナイトだった。十一年近くのあいだ、ほとんど誰にも探されていなかった女性が、最初に警官の腕の中に飛び込んだ。
そのすぐ後に、別の部屋からジーナ・デヘススが出てきて、同じようにエスパーダに抱きついた。彼は無線に向かって叫んだ。見つけた、見つけた、と。
その無線を受けていたのは、通信指令のベテラン、ジェニファー・ダウンチだった。彼女は二〇〇四年にジーナの失踪の一報を扱った人物でもある。息が止まって、すぐには応答できなかった、と彼女は語っている。彼女は帰ってきた、始まりから終わりまで自分はそこにいることができた、と。
三人と六歳の子どもはメトロヘルス医療センターに搬送された。アマンダとジーナは翌七日に退院した。ミシェル・ナイトは十日まで入院した。
アリエル・カストロは同日、近所のマクドナルドの駐車場で拘束された。息子と食事をしていたところだった、と伝えられている。彼の兄弟であるペドロとオニルも身柄を取られたが、関与が認められず九日に釈放された。
スクールバスの運転手は、近所では「気のいい兄ちゃん」だった
アリエル・カストロは一九六〇年七月十日、プエルトリコのヤウコ市デュイの生まれだ。両親が離婚した後、母と兄弟とともにペンシルベニア州レディングに移り、その後クリーブランドに落ち着いた。
後の精神鑑定や本人の供述で語られたところによれば、彼自身が幼少期に性的虐待を受けている。五歳から近所の男に、また親族からも被害を受けたという。母親からの日常的な暴力もあったとされる。中学時代には女子生徒への不適切な接触で停学処分を受けた。地元の高校に通った。
生育歴が悲惨であることは、後の犯行を説明しはしても、正当化はまったくしない。この点は明確にしておきたい。世の中には同じような背景を持ちながら誰も監禁しない人間が圧倒的多数いる。
彼は一九八〇年代にグリミルダ・フィゲロアと出会い、一九九二年に一緒にセイモア通りの家に移った。二人のあいだには四人の子どもがいる。そしてこの関係は、外からも見えるほどの暴力に満ちていた。フィゲロアの姉エリダ・カラバロによれば、カストロは彼女の鼻を折り、肋骨を折り、腕を折った。階段から突き落として頭蓋骨を割ったこともあるという。一九九三年に家庭内暴力で逮捕されたが、大陪審は起訴を見送った。一九九六年の暴行の後、フィゲロアは家を出て四人の子の親権を得た。警察は転居を手伝ったが、立件はしなかった。二〇〇五年には家庭裁判所に訴えを起こし、一時的な接近禁止命令が出たものの、後に取り下げられている。彼女は二〇一二年、脳腫瘍の合併症で亡くなった。
つまり、この男の暴力性は制度の記録の中に何度も現れていた。それが一度も彼を止めなかった。
一方で、通りの人々が知っているカストロは別人だった。彼はクリーブランド市学区のスクールバス運転手として働き、地元のサルサやメレンゲのバンドでベースを弾いた。バーベキューをやり、子どもをバイクの後ろに乗せ、通りの人間に愛想よく声をかけた。チャールズ・ラミジーの言い方を借りれば、一緒に肉を焼く相手だった。
ただ、違和感を口にする人もいた。近所の若い女性ケイラ・アダムスは、彼が裏の門のところに犬と立って、子どもたちが遊ぶのをじっと見ていることがあった、あれは不気味だった、と語っている。同じ家のバーディ・アダムスは、網戸の音やフェンスの動く音が何度も聞こえて見に行ったが、いつも誰もいなかった、と証言した。
彼の職歴も末期には崩れていた。二〇一二年十一月、彼は市学区を解雇されている。理由は判断力の欠如とされ、生徒を乗せたまま違法なUターンをした、バスで買い物に行った、昼食のためにファストフード店に寄った際にバスに子どもを一人残した、自宅で昼寝をするあいだバスを放置した、といった複数の事案が挙げられた。逮捕時、彼の家は差し押さえの手続きに入っていた。固定資産税を三年分滞納していた。
九百七十七の罪状、九百三十七の有罪答弁、そして終身刑プラス千年
司法手続きは異例の速さで進んだ。
五月八日、カストロは誘拐四件、強姦三件で訴追された。九日のクリーブランド市裁判所での審理で、保釈金は誘拐一件あたり二百万ドル、合計八百万ドルに設定された。検察側は死刑を求める姿勢を示していた。
六月七日、大陪審は二〇〇二年八月から二〇〇七年二月までを対象とする三百二十九件の起訴状を返した。この中には、暴力によって妊娠を終わらせた行為に対する加重殺人二件が含まれていた。人ではなく胎児に対する罪をどう構成するかというのは法的に難しい論点で、オハイオ州法の規定を使ったこの適用は当時かなり議論を呼んだ。七月十二日には二〇〇七年二月以降の期間に対する追起訴が行われ、罪状は合計九百七十七件になった。内訳は誘拐五百十二件、強姦四百四十六件、性的暴行七件、重暴行六件、児童虐待三件、加重殺人二件、犯罪用具所持一件。
七月三日、彼は訴訟能力ありと判断された。七月十七日、拡大された起訴に対して無罪を主張した。だが七月二十六日、司法取引が成立する。死刑を回避する代わりに、九百七十七件のうち九百三十七件について有罪を認めた。上訴権を放棄し、犯罪から利益を得ないことに同意し、セイモア通りの家を含む全資産を放棄した。マイケル・ルッソ判事が、あなたはここから出ることはない、分かるか、と念を押すと、カストロは、理解しています、裁判長、と答えた。
八月一日の量刑審理は、この事件でもっとも見られた三時間になった。
FBIのアンドリュー・バーク捜査官が家の内部の状況について証言した。カストロは被害者に金を渡すことがあり、しかしその金は彼女たちが物を欲しがったときに支払わせるためのものだった、という趣旨の証言も含まれていた。支配の構造を金で模した、ということだ。
そしてミシェル・ナイトが立った。三人のうち、法廷で直接カストロに語りかけたのは彼女だけだった。アマンダとジーナは代理人を通して声明を出した。
ミシェルは静かな、しかし揺るがない声で読み上げた。私たちは、いつかみんなで生きてここを出ようと言っていた、そしてそうなった、と彼女は言った。あなたは私の十一年を奪った、そして私はそれを取り戻した、と。十一年間地獄にいた、いまからあなたの地獄が始まる、と。あなたは日曜ごとに教会へ行き、家に帰ってきて私たちを苦しめた、神はそれをどう思うのか、と。死刑は簡単な逃げ道だ、あなたにはそれすらふさわしくない、残りの人生を刑務所で過ごしてほしい、とも述べた。クリスマスがいちばんつらかった、息子と過ごせなかったから、とも。
彼女は読み終えると、一度も彼のほうを見ずに席に戻った。カストロは彼女と目を合わせようとしたが、廷吏が視線を遮った。
その後、カストロは二十分近く喋った。自分は良い人間だ、怪物ではない、病気なのだ、と彼は言った。性依存とポルノ依存があると主張した。女性たちを殴ったことも拷問したこともない、性行為のほとんどは合意の上だった、あの家には調和があった、と述べた。FBIを責め、被害者自身を責める場面もあった。ルッソ判事は、あなたの言い分に同意するアメリカ人が一人でもいるとは思えない、と応じた。そしてミシェル・ナイトに対して、この二十分間に見せた自制は驚くべきものだ、と述べた。
判決は、終身刑を連続して科した上でさらに千年、仮釈放なし。罰金十万ドル。全資産の没収。
それから三十三日後、独房で
カストロはオハイオ州オリエントの矯正収容センターに移送された。自殺監視の対象ではなく、三十分ごとの通常の確認が行われる区分に置かれていた。
二〇一三年九月三日、彼は独房で亡くなった。判決から三十三日後、五十三歳だった。職員が蘇生を試み、コロンバスの大学病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。フランクリン郡の検死官ジャン・ゴルニアックは自殺と結論づけた。方法についてはここでは書かない。
後日、州の矯正当局が事故の可能性を示唆する見解を出したが、検死官はこれを退け、自殺という判断を維持した。十二月三日に公表された外部コンサルタントの報告書も、房内に家族の写真が祭壇のように並べられていたこと、聖書があったこと、本人の日誌に募る苛立ちが記されていたことなどから、自殺と見るのが妥当だと結論している。オハイオ州警察の検証も同じ結論に至った。彼の房を確認したはずの二人の刑務官が観察記録を改竄していたことが判明し、二人は有給の行政休職となった。遺体は後に火葬され、遺灰の行方は公表されていない。
被害者側の反応は複雑だった。ミシェル・ナイトは、彼が自分で幕を引いたことに納得していない、彼には生き続けて向き合ってほしかった、という趣旨のことを述べている。法廷で彼女が言った、いまからあなたの地獄が始まる、という言葉は、三十三日で打ち切られてしまった。
クレーンが振り下ろされた朝
二〇一三年八月七日の朝、セイモア通り二二〇七番地は取り壊された。
司法取引の条件に家の破壊が含まれていたため、これは判決の履行でもあった。近隣には見物人と報道陣が詰めかけた。そしてその場にミシェル・ナイトがいた。
彼女は黄色い風船を配った。いまも行方が分からないままの子どもたち一人ひとりのための風船だった。風船が空に放たれ、それからジーナ・デヘススの叔母がクレーンのレバーを引いた。鉄球が壁を打ち抜き、一時間ほどで家は瓦礫になった。
ミシェルはその数日前にもセイモア通りを訪れ、近所の人たちに礼を言って回っている。彼女はその場で、この通りの人たちを責める気はない、と語った。
跡地はいまも更地のままだ。両隣の家もその後に取り壊され、通りには不自然な空白ができた。十年目の取材で市議会議員のジャスミン・サンタナが語ったところによれば、住民の意見は割れている。記念の庭を作ってほしいという声もあれば、思い出したくないという声もある。多くの住民が望んでいるのは、むしろ普通の新築住宅が建って通りの資産価値が戻ることだという。この通りにはまだ取り戻せていない信頼がある、隣人が隣人を助ける場所に戻すには時間がかかる、と彼女は言った。
地図サービスのストリートビューでは、この番地の家は写真が撮られていた当時のまま、意図的にぼかしがかけられていた。もう存在しない家に、まだモザイクがかかっている。
論争その一、家族と近隣は本当に何も知らなかったのか
ここからは、決着していない論点を一つずつ見ていく。
まず、家族と近隣の「無知」をめぐる議論だ。カストロの兄弟ペドロとオニルは逮捕直後に身柄を取られ、三日後に釈放された。捜査当局は二人の関与を認めなかった。二人はテレビに出て、兄を強く非難し、何も知らなかったと繰り返した。家に行っても入れない部屋があった、二階には上がるなと言われていた、と彼らは語った。カストロの息子であるジャーナリストのアリエル・アンソニー・カストロも、父と同じ名前を持つことに苦しみながら、面会を拒み続けた。彼は皮肉にも、記者として二〇〇四年にジーナ・デヘススの失踪について記事を書いたことがある。
一方で、近隣の一部の住民は、あの家について通報したことがある、と主張した。裏庭に犬用のリードのようなもので繋がれた裸の女性を見たので通報した、というかなり具体的な証言まで出た。だがクリーブランド市警は、そのような通報の記録は存在しないと明言している。ある経済報道は、当時の通報記録の保存期間や、記録に残らない非緊急回線の存在を指摘し、この点は永遠に確定しないだろうと書いた。
心理学の側からは、事後に形成された記憶という説明も出た。とんでもない事実を知った後で、自分が過去に見た曖昧な光景が、その事実に合う形に再構成されてしまう現象は珍しくない。ただし、それを持ち出して住民全員の証言をまとめて否定するのも乱暴な話だ。
公平に見るなら、状況はこうだったのだろう。あの通りは、貧しく、住民の入れ替わりが激しく、警察との関係が良好ではなかった。何かおかしいと感じても、それを通報に変換するコストが高い場所だった。そして通報したとしても、成人女性が一人、成人男性の家にいるという状況は、当時の警察の優先順位ではまず動かない。無知だったというより、疑いを行動に変える回路が地域全体で機能していなかった、というのが実態に近い。
論争その二、警察の責任はどこまで問えるのか
次に、警察の責任論だ。これはいまも決着していない。
擁護側の主張はこうだ。アマンダとジーナの捜査は市警の最重要案件の一つで、担当者は些細な情報にも当たり続けた。二〇一二年には、服役中の受刑者ロバート・ウォルフォードがアマンダの遺体の場所を知っていると言い出したのを受けて、ウェストサイドの空き地を重機で掘り返している。何も出なかった。ウォルフォードは虚偽通報などで二〇一三年一月に四年半の刑を受けた。つまり警察は、明白なガセにさえ人と金を投じていた。
批判側の主張はこうだ。第一に、ミシェル・ナイトを「家出した成人」として実質的に捜査対象から外したこと。第二に、二〇〇五年のFBIの似顔絵が実像と大きくずれ、目の色から身長まで誤誘導になったこと。第三に、二〇〇四年一月にカストロ宅を訪ねながら何も掴めなかったこと。これはスクールバスに子どもを置き去りにした件に絡む訪問で、カストロは不在で、捜査員は玄関先で引き返した。犯罪の兆候を探しに来たわけではないので、当然といえば当然なのだが、結果だけを見れば、女性が二人いる家の玄関前まで捜査員が来て、そのまま帰っている。第四に、二〇一一年十一月に住民から戸を叩く音がするという通報が入り、警官が臨場したが応答がなく引き上げたという記録の存在。
構造的な批判もある。クリーブランド市警は二〇〇〇年代を通じて予算削減に晒され、二〇〇四年時点で大幅な人員減を経験し、地域密着型の巡回部門が縮小された。同じ地区を何年も歩いて、住民の顔と家の様子を覚えている警官がいれば気づけたかもしれない異常が、誰の視野にも入らなくなっていた。ある報道はこの点を捉えて、警察はできることをやったが、できることの範囲が狭すぎた、と書いた。
そしてもっと根深いのは、成人の失踪に対する制度そのものの薄さだ。当時、家族が届け出に行くと、成人なら届けても意味がない、と言われることが実際にあった。ミシェル・ナイトは、成人であり、家庭に問題を抱え、貧しかった。この三点が揃った人間は、行方不明者統計の中でほとんど透明になる。カストロが十一年間見つからなかった最大の理由は、彼が巧妙だったからではなく、探されない人間を最初に選んだからだ、という見方は、残酷だが説得力がある。
論争その三、英雄を作ったのは誰で、誰を消したのか
三つ目は、チャールズ・ラミジーをめぐる報道の扱いだ。
彼のインタビューは即座にミーム化した。ネット文化の教科書に載るレベルの拡散だった。だがその拡散のされ方に、当時から強い違和感が表明されていた。ある論者は、人々が面白がっていたのは彼の勇気ではなく、彼が「典型的な黒人男性像」に見えたことだと指摘した。訛り、身なり、言葉遣いが消費され、行為そのものが背景に押しやられた。彼はこれを英雄性の剥奪と呼び、数年前に同じ構造で消費された別の男性の例を引いた。その男性もまた、妹への性的暴行を止めた人間だった。
一方で、彼はミームであると同時に英雄でありうるし、彼の語りが面白いのは彼が実際に語りの才能を持っているからだ、という反論も出た。報道教育の専門誌は、あのインタビューが優れているのは彼が具体を語るからだ、と分析した。彼は抽象論を一切言わず、マクドナルドを食べていた、ドアを蹴った、女が飛び出してきた、と行為だけを並べた。それは実は、報道が理想とする証言の形だった。
さらに二日後、ラミジーの過去の家庭内暴力による有罪歴が報じられた。英雄扱いへの水差しとして機能した報道だった。彼はある芸能メディアに対し、恥じてはいない、当事者とは和解したし全員が成長した、あの出来事が今の自分を作り、だから地域のために動こうと思うようになった、と述べた。加害の過去を持つ男が加害を止めたことはスキャンダルではなく良いことだ、人は変わりうる、という擁護も複数の媒体に載った。
そしてもう一人、忘れられた人物がいる。アンヘル・コルデロだ。彼はスペイン語で地元局の取材に応じ、最初に駆けつけて、ドアを壊したのは自分だ、と主張した。ラミジーの語りはもともと「俺たちが」という複数形で、他の人間の関与を否定していない。ただ、英語の三分間だけが世界に届いた。もう一人の隣人ウィンテル・テヘダは、問題は俺たちがカメラに映らなかったことだ、と言った。誰が英雄になるかは行為ではなく可視性が決める、という指摘が当時から出ていた。
なお、この論争は当人たちのあいだでは尾を引かなかったようだ。ラミジーは自分は英雄ではないと繰り返し、寄せられた報奨金の類は被害者に回してほしいと述べている。二〇一九年、アマンダ・ベリーがテレビ局のスタジオで彼と再会したときの映像には、六年ぶりに会った二人が笑って抱き合う場面が残っている。
証言を読む その一、ミシェル・ナイトの法廷
ミシェル・ナイトの法廷での言葉は、この事件について書かれた何万語よりも重い。
彼女は自分を被害者としてではなく、生き延びた人間として提示した。十一年地獄にいた、いまからあなたの地獄が始まる、という一文は、報復の宣言のように読まれがちだが、文脈を追うと違う。彼女はその直前に、死刑は簡単すぎる逃げ道だ、と述べている。つまり彼女は、加害者に消えてほしいのではなく、生きて自分のやったことの中に留まってほしいと言っていた。そして、許すことはできる、でも忘れることはない、とも述べた。
彼女がとりわけ強く語ったのは、日常の残酷さだった。祝日がいちばんきつかった、特にクリスマスは息子と過ごせないことを毎年思い知らされる日だった、と。十一年という時間の重さは、劇的な暴力の場面より、毎年同じ日にやってくる不在の反復のほうに宿っている。
彼女は法廷を出た後、名前を変えた。リリー・ローズ・リーになった。ミシェル・ナイトという名前は、彼女にとって、探されなかった女の名前だった。
証言を読む その二、エスパーダ巡査の階段
エスパーダ巡査の記録は、警察官が書いた文章としては珍しく情緒的だ。
彼は相棒が「彼女だ」と言った瞬間のことを、感情が一気に押し寄せてきた、と書いている。プロとして現場に入る訓練を受けた人間が、目の前の女性の顔と、何年も掲示板に貼られてきた写真とが一致した瞬間に、一度崩れている。
彼はそれから家に入った。一階には誰もいない。階段を上がる。この数十秒間のことを、彼は複数のインタビューで繰り返し語っている。何がいるか分からない、まだ犯人が中にいる可能性もある、そういう状態で二階に上がった。ドアが開いて出てきた女性が、彼に向かって突進してきた。抱きつかれた。助けてくれた、助けてくれた、と繰り返された。
彼が無線で、見つけた、見つけた、と叫んだとき、それを受けたジェニファー・ダウンチは応答できなかった。息が止まった、と彼女は言っている。彼女は二〇〇四年、ジーナ・デヘスス失踪の一報を扱っていた。九年後、同じ人物が「見つかった」を聞いた。始まりから終わりまで自分がそこにいられた、というのが彼女の言葉だ。通信指令室というのは普通、始まりだけを聞いて終わりを知らないまま定年を迎える仕事だ。
証言を読む その三、隣人たちが見ていたもの
チャールズ・ラミジーの証言でいちばん大事なのは、有名な言い回しではない。彼が繰り返し語った、あの男とは普通に付き合いがあった、という部分だ。バーベキューをやり、音楽の話をし、通りで挨拶をしていた。だから彼はあの家の玄関から女性が助けを求めて叫んでいる状況を、最初まったく理解できなかった。彼の証言は、隣人という関係が、いかに人の内側を見せないかについての一次資料になっている。
裏の家に住むバーディ・アダムスとケイラ・アダムスの証言は、別の角度から刺さる。フェンスと木の壁で二重に囲われた裏庭。何度も聞こえた網戸の音とフェンスの音。見に行くと誰もいない。彼らは、何かがおかしいという感覚を持っていた。ただ、それは通報するには弱すぎ、無視するには気持ち悪すぎる、という中途半端な強度だった。世の中の多くの事件は、この中途半端な強度の違和感の中で進行する。
そしてアンヘル・コルデロ。彼はあの日、最初に網戸の前に立った可能性のある人物だ。彼が語ったのは、真実は、誰がここに来て、誰が通りを渡って、誰がドアを壊したかということだ、それは自分だ、という短い一文だった。彼はそれ以上を求めなかった。
証言を読む その四、探し続けた家族の十年
ジーナ・デヘススの母ナンシー・ルイスと父フェリックス・デヘススは、九年間ビラを貼り続けた。フェリックスは娘の失踪一周年、二周年、三周年と、毎年カメラの前に立った。アンバーアラートはすべての行方不明の子どもに働くべきだ、法律を変えなければならない、と二〇〇六年に彼は語っている。
アマンダ・ベリーの母ルワナ・ミラーの物語は、もっと救いがない。彼女は霊能者に娘の死を宣告され、それでも探し続け、娘が生きて帰る七年前に死んだ。事件後、アマンダは母の墓を訪れている。
一方、ミシェル・ナイトの家族は事情が違った。彼女の失踪は家族内でも「家出」として処理された時期がある。救出後の再会も単純な感動の場面にはならなかった。彼女は退院後、家族のもとには戻らず、独立した生活を選んだ。誰かが探し続けてくれたという記憶が、この事件の他の二人にはあり、彼女にはなかった。この非対称は、その後の三人の回復の道筋の違いにもつながっている。
掲示板とSNSは、何を突き止めて何を間違えたか
事件当日から、ネット上では大量の推測が飛び交った。まともなものもあれば、有害なものもあった。
早い段階で広まったのは、兄弟三人による共同犯行だという見立てだ。逮捕直後にペドロとオニルの顔写真が並んで報じられたため、三兄弟が共謀していたという物語が一気に成立した。実際には二人は三日で釈放され、捜査でも関与は認められていない。それでも彼らは長く「あの兄弟」として扱われ続けた。ここは今も繰り返し確認されるべき点だ。有罪が確定していない人間を犯人として扱ってはいけない。
もう一つ広まったのが、この十年間に一度も外に出なかったのはおかしい、誰かが黙認していたはずだ、という説だ。実際には、複数の被害者が短時間だけ屋内の別の場所に移された、あるいは地下から一階に上げられたといった証言はあるが、家の外に自由に出ていたという事実はない。ジョセリンだけは、カストロに連れられて外出したことがあったとされる。近所の人が、カストロが小さな女の子を連れているのを見たという証言も出た。孫だと思っていた、という反応が多かった。この一点は、状況を知らない人間にとって手がかりがどれほど無力かをよく表している。
考察界隈で人気なのは、なぜアマンダは十年目に逃げられたのか、という問いだ。カストロが油断した、という単純な答えのほかに、彼が職を失い経済的に追い詰められて生活が崩れていた、母親代わりだったフィゲロアが二〇一二年に亡くなり精神的に不安定になっていた、といった説明が組み合わされる。実際、二〇一二年十一月の解雇と家の差し押さえは、その半年後の破綻の伏線として読める。ただしこれは事後の解釈であって、証拠で確定した因果ではない。
日本語圏の掲示板でよく見かけたのは、なぜ隣人は気づかなかったのかという素朴な驚きだ。ここでは、アメリカの都市部の低所得地区における住宅の密度と近隣関係のあり方が、日本のそれとかなり違うという前提が抜け落ちがちだ。壁一枚で隣家と接している日本の住宅街の感覚で見ると理解不能だが、独立した木造住宅が高いフェンスで区切られ、住民の入れ替わりが激しく、警察を呼ぶことに強い心理的抵抗がある地域では、十年間気づかれないことはあり得る。
そして、この事件には陰謀論がほとんど育たなかった。理由は明白で、生存者が三人いて、全員が生きて証言し、加害者本人が九百三十七件について有罪を認めたからだ。事実が固いところには、憶測が入る隙間がない。むしろこの事件が示したのは、陰謀論を生むのは「情報の欠落」であって「事実の異常さ」ではない、ということだった。
世界の長期監禁事件と並べてみると見えてくること
この事件は、しばしば他の長期監禁事件と並べて語られる。
オーストリアのナターシャ・カンプシュは一九九八年に十歳で拉致され、八年半後の二〇〇六年に自力で脱出した。同じくオーストリアのエリーザベト・フリッツルは、実父によって一九八四年から二十四年間、自宅地下に監禁された。米国のジェイシー・デュガードは一九九一年に十一歳で拉致され、十八年後の二〇〇九年に発見された。エリザベス・スマートは二〇〇二年に十四歳で連れ去られ、九か月後に路上で発見された。
並べると共通点が見えてくる。加害者はほぼ全員が「普通の隣人」として通っていた。デュガード事件のフィリップ・ガリードは前科があり保護観察下にありながら、担当官が家の裏庭を見なかったせいで発見が遅れた。フリッツル事件では、家族が同じ建物の上階で暮らしていた。つまり、監視の目が近くにあることは、発見の保証にならない。
もう一つの共通点は、脱出のきっかけがどれも制度ではなく偶然だったことだ。カンプシュは加害者が電話に出た隙に走った。デュガードは大学のキャンパス警備員が違和感を持ったことから芋づる式に露見した。スマートは通行人の通報だった。そしてクリーブランドは、鍵のかけ忘れとマクドナルドを食べていた隣人だった。十年、二十年と続く監禁を終わらせたのは、どのケースでも捜査ではなかった。この事実は、行方不明者捜査という制度が何をできて何をできないかについて、非常に苦い教訓を残している。
違いもある。クリーブランド事件は、被害者が三人いて、しかも同じ家の中で互いを支え合っていた点が特異だ。カンプシュもデュガードも、基本的に一人で耐えた。三人でいたことは、条件を悪化させた面もあるが、生き延びる上での互助を可能にした。全員で出よう、という約束が十一年間維持されたという事実は、心理学的にも記録に値する。そしてもう一つ、被害者三人がその後、揃って公的な発信の側に回ったのも珍しい。カンプシュもデュガードも著作を出しているが、クリーブランドの三人は、行方不明者支援という具体的な仕事に組織として関わっている。
アマンダ、ジーナ、リリー・ローズ――それからの日々
アマンダ・ベリーは娘のジョセリンを育てながら、静かな時期を過ごした。祖父は彼女の生まれ年に作られたシボレー・モンテカルロを買って取っておくと約束していて、十年間その約束を守っていた。彼女が帰ってきたとき、車は錆びていた。地元の整備工場が無償で直した。二〇一五年六月、彼女とジーナはジョン・マーシャル高校から名誉卒業証書を受け取った。二〇一七年二月、彼女は地元テレビ局のスタッフに加わり、行方不明者を紹介する短いコーナーを担当するようになった。十年目の取材で彼女はこう言っている。私は幸せだ、変な話だけど、誰かを信じたり愛したりできるようになるとは思っていなかった、と。
ジーナ・デヘススは運転免許を取り、学校に戻った。二〇一八年にはオハイオ州北東部のアンバーアラート委員会のアンバサダーになった。そして従姉のシルビア・コロンとともに、行方不明の子どもと大人の家族を支える非営利団体を立ち上げた。この団体の事務所は、セイモア通りにある。彼女は意図してそこを選んだ。閉じ込められていた通りに、良いものを持ってきたかった、と彼女は語っている。団体はビラを作り、報道機関と警察をつなぎ、待つ家族の話を聞く。彼女自身は、私は普通の人間だ、と言う。
ミシェル・ナイトは名前をリリー・ローズ・リーに変えた。馬を使ったセラピーを受けた。二〇一四年に手記を出し、二〇一八年にもう一冊出した。二〇一六年五月六日、つまり脱出からちょうど三年後の日に、ミゲル・ロドリゲスと結婚した。彼女は監禁中の暴力の影響で出産が難しく、養子を考えていると語っている。捕らわれていた人や虐待を生き延びた人に住居や衣類や教育を提供する活動も始めた。彼女は今も、自分の話をすることが誰かの役に立つと信じて話し続けている。
三人が共同で出した本もある。アマンダとジーナは、大手紙の記者二人と組んで、二〇一五年に手記を出した。この本には、アマンダが紙の切れ端に書き続けた日記が使われている。日付、天気、食べたもの、娘が覚えた言葉。そういうものが淡々と並んでいる。読むと分かるのは、十年という時間は劇的な出来事ではなく、無数の平凡な一日の積み重ねだったということだ。ミシェル・ナイトの手記は別に出ている。三人の記述には、細部で食い違う部分もある。同じ家の同じ時間を生きた三人の記憶が完全に一致しないのは、当たり前のことだ。
救出後、クリーブランド・カレッジ・ファンドという基金が設立され、市民からおよそ百五万ドルが集まった。三人は二〇一三年七月九日、感謝を伝える短いビデオを公開し、そのうえで報道の取材は当面受けないと表明した。彼女たちが最初に主張した権利は、静かにしていることだった。
なぜこの事件は、十年以上たっても語られるのか
理由はいくつもあるが、突き詰めると三つに整理できると思う。
一つは、この事件が「生きて帰ってきた」事件だからだ。行方不明者の物語のほとんどは、遺体の発見か、あるいは永遠の空白で終わる。十年後に本人が自分の名前を電話口で名乗るという結末は、統計的にほぼあり得ない。だからこの事件は、諦めそうになったすべての家族が握りしめる例外として機能し続けている。ジーナ・デヘススの団体が毎年行進をし、行方不明者の名前を読み上げるのは、その例外を制度に変えようとする作業だ。
二つ目は、あの九一一通報の音声そのものの力だ。私はアマンダ・ベリー、十年前に行方不明になった、という一文には、名乗りと不在の証明が同時に入っている。人は普通、自分の名前を名乗るときに「私は十年前に消えた者です」とは言わない。彼女は、自分が失われた人間として社会に登録されていることを知っていて、その登録を解除するために名乗った。これは言語として異常に強い。あの音声が全米で繰り返し流れたのは、扇情的だからではなく、この一文の構造が聞く者の理解を一撃で書き換えるからだった。
三つ目は、この事件が制度の失敗を丸ごと可視化したからだ。成人の失踪は軽く扱われる。貧しい地区の通報は届きにくい。似顔絵は当てにならない。予算が削られると地域を知る警官が消える。家庭内暴力の記録は次の犯罪を止めない。これらは全部、この事件の前から知られていた欠陥だった。この事件は、それらの欠陥が一人の男の家の中で十一年間積み重なるとどうなるかを、実例として示してしまった。だから語り継がれる。教訓としてではなく、警告として。
そして最後に、あの通りに残る更地のことがある。家はもうない。両隣も消えた。住民の一部は記念碑を建ててほしいと言い、別の一部は思い出したくないと言う。十年以上たっても、その土地をどう扱うべきかについて合意ができていない。事件が終わるというのは、判決が出ることでも加害者が死ぬことでもなく、その場所に普通の生活が戻ることなのだとしたら、この事件はまだ終わっていない。
誰が見られていて、誰が見られていなかったか
ここまで書いてきて、どうしても最後に整理しておきたいことが三つある。
一つ目は、この事件を「怪物の物語」として消費することの危うさだ。アリエル・カストロは量刑審理で、自分は怪物ではない、病気なのだ、と言った。ルッソ判事は、あなたに同意するアメリカ人はいないと思う、と切って捨てた。判事の言葉は正しい。だが、その正しさの裏で、私たちはしばしば別の間違いを犯す。彼を人間の理解の外にある例外的な化け物だと位置づけてしまえば、話はそこで終わってしまうのだ。実際の彼は、スクールバスを運転し、バンドでベースを弾き、近所でバーベキューをする男だった。彼の暴力性は制度の記録の中に何度も現れていた。一九九三年の逮捕、一九九六年の暴行、二〇〇五年の申し立て。そのどれもが立件に至らなかった。彼を怪物として処理すると、この「立件に至らなかった」の連鎖が視界から消える。彼は例外的に狡猾だったのではない。彼は、家庭内暴力の加害者が繰り返し見逃されるという、まったく例外的でない制度の穴を、たまたま極端な形で使っただけだ。ここを見誤ると、次のケースにまた同じ穴が使われる。
二つ目は、可視性の問題だ。この事件を貫いているのは、誰が見られていて誰が見られていないか、という一本の線である。ミシェル・ナイトは見られていなかった。成人で、貧しく、家庭にトラブルを抱えていたからだ。彼女の名前はデータベースから消えた。アマンダとジーナは見られていた。十代の少女で、家族が声を上げ続けたからだ。そして救出の日、アンヘル・コルデロは見られなかった。スペイン語で話したからだ。チャールズ・ラミジーは見られすぎた。英語で、面白く、ステレオタイプに合致する形で話したからだ。同じ通りの同じ数分間の出来事が、言語と話し方の違いだけで、世界的な有名人と無名の隣人に振り分けられた。そして、その可視性の配分は、事件そのものの因果にも効いていた。もし二〇〇二年の時点でミシェル・ナイトが「見られる」側に分類されていたら、あの家は二〇〇四年より前に開いていたかもしれない。私たちが誰を見て誰を見ないかという日常的な選別が、十一年という数字を作った。この事件から学ぶべきことがあるとすれば、犯罪の手口についてではなく、この選別についてだと思う。
三つ目は、生存者たちが選んだ方向についてだ。彼女たちは救出直後、まず静かにしていたいと表明した。そのうえで、それぞれのタイミングで、それぞれのやり方で戻ってきた。アマンダはテレビ局に入り、毎日、行方不明の誰かの顔と名前を読み上げる仕事を選んだ。ジーナは、閉じ込められていたその通りに事務所を借りて、待っている家族を支える団体を作った。リリー・ローズ・リーは名前を変え、それでも自分の話を語り続けることを選んだ。三人とも、被害者という役割の中に留まることを拒否している。同時に、なかったことにもしていない。彼女たちがやっているのは、自分たちを飲み込んだ制度の穴を、外から塞ぐ作業だ。行方不明者のビラを作り、記者と警察をつなぎ、家族の話を聞く。それは地味で、報道価値が低く、何年やっても劇的な瞬間はほとんど来ない仕事である。十一年間の監禁を生き延びた人間が、その後の十年以上を、そういう地味な仕事に使っている。
セイモア通り二二〇七番地はもうない。跡地は更地のまま、隣の二軒も消えて、通りには歯が抜けたような空白がある。住民の一部は記念の庭を望み、別の一部は普通の家が建つことを望み、また別の一部は何も思い出したくないと言う。十年以上たっても合意はできていない。だがおそらく、合意ができないこと自体が正常なのだ。あの通りで起きたことは、一つの物語にまとまるようなものではなかった。三人の記憶も細部で食い違うし、救出の日に誰が最初にドアの前に立ったかさえ確定していない。それでいい。確定しているのは、二〇一三年五月六日の午後、鍵が一つかかっていなくて、一人の女性がそこから出て、電話で自分の名前を名乗ったということだ。そこから先の全部は、その一本の電話が繋がったおかげで存在している。
