一九六九年七月十日、大西洋のど真ん中で、一隻のヨットが誰も乗せずに漂っていた。帆は上がったまま。船内は片づいていて、争った跡もない。食料も残っている。救命いかだも甲板に縛られたまま。ただ、人間だけがいなかった。
船の名前はテインマス・エレクトロン。乗っていたはずの男の名前はドナルド・クロウハースト。イギリスの電子機器技師で、当時三十六歳。世界中の新聞が「単独無寄港世界一周レースの優勝候補」として彼の名前を報じていた、まさにその最中の出来事だった。
そして残された航海日誌を開いた瞬間、話はまるごとひっくり返る。彼は世界一周などしていなかった。八ヶ月のあいだ、彼は大西洋から一歩も出ていなかった。
これはたぶん、二十世紀の海の話のなかでいちばん救いがなくて、いちばん人間くさい事件だ。半世紀以上経ったいまでも、映画になり、小説になり、舞台になり、その度に人は同じところで息を呑む。順を追って、できるだけ細かく見ていく。
一九六八年、イギリスは海に取り憑かれていた
話の出発点は、クロウハーストではない。フランシス・チチェスターという別の男だ。
一九六六年から六七年にかけて、当時六十五歳のチチェスターがジプシー・モス四号という船でひとり世界一周をやってのけた。途中オーストラリアに一回だけ寄港している。それでもイギリスは狂喜した。帰港したプリマスには二十五万人が押し寄せ、女王エリザベス二世はグリニッジで彼にナイトの位を授けた。しかも使った剣は、フランシス・ドレークを叙勲したときのものだったという演出つき。国じゅうが海の英雄物語に飢えていた時代だった。
で、当然こうなる。次は無寄港だろう、と。
一九六七年から六八年にかけて、複数のセーラーがそれぞれ勝手に「単独無寄港世界一周」を計画しはじめた。ロビン・ノックス=ジョンストン、ジョン・リッジウェイ、チェイ・ブライス、フランス人のベルナール・モアテシエ。誰が最初にやるかという状態になっていた。
そこに新聞社が乗ってきた。サンデー・タイムズだ。誰か一人をスポンサードすると外れを引く危険がある。なら全員まとめてレースにしてしまえばいい。そうすれば誰が勝っても自社の記事になる。この身も蓋もなく賢い判断で、一九六八年三月十七日、サンデー・タイムズ・ゴールデン・グローブ・レースが発表された。
ルールがまた、いま見るとちょっと信じがたいほどゆるい。参加申し込みは不要に近く、出港はイギリス諸島のどの港からでもいい。出港期間は一九六八年六月一日から十月三十一日まで。この期間設定だけが唯一の安全策で、南半球の夏に南極海を通るようにという配慮だった。それ以外に資格審査はない。航海経験の証明も要らない。船の検査もない。
賞は二つあった。最初に単独無寄港世界一周を成し遂げた者にゴールデン・グローブのトロフィー。そして最速で回った者に賞金五千ポンド。現在の価値でざっくり七、八万ポンド相当。この「二つある」という構造が、のちにクロウハーストを地獄に落とす仕掛けになる。トロフィーは早く出た者が有利、賞金は速く回った者が有利。だから最後の最後、十月三十一日に出た男でも、賞金だけなら狙えてしまう。
九人が出て、一人だけが帰ってきた
結局、九人が出港した。ざっと顔ぶれを見ておくと、この事件の輪郭がはっきりする。
まず六月一日に出たジョン・リッジウェイ。空挺部隊出身で、大西洋をボートで漕いで横断した経験がある猛者。だが船が小さすぎて、七月二十一日にブラジルでリタイア。六月八日に出たチェイ・ブライスは、リッジウェイの漕艇のパートナーだった男で、なんと出港時点でヨットの操縦をほとんど知らなかった。港を出るときに「帆の張り方を教えてくれ」と近くの船に頼んだという逸話が残っている。九月十三日、南アフリカでリタイア。
六月十四日に出たロビン・ノックス=ジョンストンは、商船隊の航海士。船は自分でインドで造らせた三十二フィートのケッチ、スハイリ。木造で、重くて、遅い。誰もが「あれでは速さでは勝てない」と見ていた。
八月二十二日に二人が出る。ロイク・フージュロンと、ベルナール・モアテシエ。モアテシエはこの時点ですでに伝説的な長距離セーラーで、鋼鉄製の三十九フィート艇ジョシュアに乗っていた。多くの関係者が「賞金を取るのはモアテシエだ」と踏んでいた。フージュロンは十一月二十七日、南大西洋の嵐で断念。
八月二十四日、ビル・キング。第二次大戦の潜水艦艦長で、専用設計の艇ガルウェイ・ブレイザー二号。十一月二十二日に転覆して断念。九月十六日、ナイジェル・テトリー。イギリス海軍の中佐で、四十フィートの三胴艇ヴィクトレス。この船は彼の自宅でもあった。妻とここで暮らしていたのだ。
そして十月三十一日、締切当日に二人が出港する。イタリア人のアレックス・カロッツォと、ドナルド・クロウハースト。カロッツォは六十六フィートの大型艇で出たが、出港前から胃潰瘍を抱えていて、十一月十四日にポルトガル沖で吐血してリタイアした。
つまり最後の日に出た二人のうち、一人は二週間で消え、もう一人は八ヶ月後に大西洋の真ん中で消える。
ドナルド・クロウハーストという男
一九三二年、イギリス領インドのガジアバード生まれ。父はインドの鉄道会社に勤め、母は教師だった。インド独立にともなって一家はイギリスに戻る。一九四八年、彼が十五、六歳のときに父が急死した。母が投資していた金も消え、家計は一気に傾いた。ラフバラ・カレッジに進んでいたが、金が続かず途中で切り上げている。ケンブリッジに行きたかったという話も残っていて、この「学歴で一段届かなかった」という感覚は、のちの彼の書くものにずっと影を落とす。
空軍に入った。六年いた。そこそこ優秀だったらしい。だが車がらみのトラブルで放り出される。次に陸軍に入った。ここでも酔って他人の車を勝手に動かそうとした一件で、事実上の辞職に追い込まれる。派手で、頭が回って、規則を軽く見て、目立ちたがる。若い頃からずっとそういう男だった。
一方で技術者としての腕は本物だった。アマチュアのラリードライバーもやっていて、車をひっくり返したこともある。そして一九六二年、サマセット州ブリッジウォーターでエレクトロン・ユーティリゼーションという会社を立ち上げる。主力商品はナビゲーターという名前の携帯型無線方位測定器。海や空のビーコン電波をつかまえて方角を割り出す、手持ちサイズの装置だ。発想はよかった。実際いまも国立海事博物館のコレクションに入っている。
だが売れなかった。正確には、売れる規模まで持っていけなかった。彼は技術者としては優秀でも、経営者としては壊滅的だった。在庫を抱え、資金繰りに追われ、会社は毎年じりじり沈んでいく。
家庭のほうは、一九五七年にクレア・オレアリーと結婚し、子どもが四人。サイモン、ジェームズ、ロジャー、レイチェル。妻のクレアは夫についてこんな言い方をしている。とんでもないことを平気で言い出す人だった。でもどんなに無茶に聞こえても、彼は頭がよくて器用だから、それを本当にしてしまうところがあった、と。
この証言は、あとで読み返すと刃物みたいに効いてくる。彼は本当に、無茶を「本当にしてしまう」男だったのだ。ただし今回だけは、本当にする方法が嘘しかなかった。
セーリングは、あくまで週末の趣味だった。二十九フィートの中古スループ、ポット・オブ・ゴールドを持っていて、ブリストル海峡あたりを走らせていた。それなりに上手ではあったらしい。だが外洋の単独長距離航海の経験は、ゼロに等しい。
借金と、後戻りできない契約書
チチェスターの熱狂を、クロウハーストは会社の宣伝チャンスとして見た。最初に彼が考えたのは、チチェスターのジプシー・モス四号を借りて自分が世界一周する、という案だ。断られた。そこでゴールデン・グローブへの参加を思いつく。ナビゲーターを積んだ船で世界一周すれば、これ以上の広告はない、という理屈だった。
金を出したのは、スタンリー・ベストという地元の実業家だ。カラバンの販売で財を成した人物で、それまでもエレクトロン・ユーティリゼーションに出資していた。彼が新艇の建造費を出す。ここまではいい。問題は契約の中身だった。
もしクロウハーストがレースを完走できなかった場合、彼は艇の代金を自分で買い取らなければならない。この条項を担保するために、彼は自宅と会社の両方を抵当に入れた。
つまりこうだ。完走すれば英雄で、宣伝効果で会社も浮上する。棄権すれば、家も会社も消える。妻と四人の子どもが路頭に迷う。中間はない。
もう一人、この物語で重要な役を担う人物がいる。ロドニー・ハルワースだ。元デイリー・メールの犯罪記者で、当時はデヴォン州トーキーで広報業をやっていた。彼がクロウハーストの広報担当につく。そしてハルワースは、地元テインマス町の観光局的な立場も兼ねていた。だから条件を出す。艇の名前にテインマスを入れてくれ、出港もテインマスからにしてくれ、と。こうしてテインマス・エレクトロンという名前が決まった。ハルワースは町から資金を引き出し、クロウハーストはスポンサーを得た。取引としてはきれいだった。
だがハルワースは記者だ。記者は物語を大きくしたがる。彼はクロウハーストから届く断片的な無線を、可能な限り劇的な形に整形して各紙に流しつづけることになる。クロウハーストが曖昧な言い方をすればするほど、ハルワースはそれを都合よく埋めた。この共犯的な増幅が、のちに嘘を一人歩きさせる。
間に合わなかった船
テインマス・エレクトロンは四十一フィートの三胴艇だった。設計のベースはアメリカ人アーサー・パイヴァーのヴィクトレス級。ちなみにテトリーが乗っていたヴィクトレスも同じ設計だ。つまり同型艇に二人が乗って、同じレースに出ていたことになる。
三胴艇は速い。理論上の最高速度は十二ノット。単胴艇よりずっと速く走れる。だが当時の三胴艇には決定的な弱点があった。一度ひっくり返ったら、自力では絶対に起き上がれない。単胴艇はバラストキールがあるから起き上がる。三胴艇は起き上がらない。逆さまのまま浮きつづけるだけだ。
クロウハーストはこの問題に技術者らしい解決策を用意していた。マストの先端に大型の浮力バッグをつける。船が傾きすぎたことを検知する電子装置を積んで、危険角度になったら自動でバッグを膨らませ、転覆を止める。あるいは逆さまになっても、そこから復元させる。設計としては筋が通っていた。実際、彼はこのアイデアのためにマストを四フィート短くしてまでいる。
そして、その装置は最後まで完成しなかった。
船体はエセックス州ブライトリングシーのコックス・マリンで造られ、艤装はノーフォーク州ブランドールのエル・ジェイ・イーストウッド社が担当した。工期は絶望的に足りなかった。予算は当初見積もりの約三倍まで膨らんだ。進水は出港締切のわずか数日前。
ハッチのシールに使う適切な軟質ゴムが手に入らず、硬い材料で代用された。これがのちに慢性的な浸水の原因になる。転覆検知装置のための配線は船内に引き回されたが、肝心の装置本体につながっていない。ただの束ねられた電線が船のあちこちに走っている状態だった。予備部品もろくに積めなかった。そして出港のどさくさで、ビルジポンプ用のホースを陸に置き忘れた。船底に溜まった水を汲み出す道具を、忘れたのだ。
ノーフォークからテインマスへの回航は、三日の予定が二週間かかった。途中で右舷フロートを岸にぶつけて穴を開けている。最終区間に同乗した海軍のピーター・エデン中佐は、この船が確かに十二ノット出ることを認めつつ、風上に対して六十度より内側には切り上がれないこと、自動操舵装置のネジがしょっちゅう緩むことを指摘した。そしてクロウハーストの航法作業について、記録の取り方が雑だ、という趣旨の評価を残している。
風上に六十度しか切り上がれない、という数字は素人には地味に聞こえる。だが世界一周ルートには、どうしても風上に向かって進まなければならない区間がある。この一点だけでも、彼の船が予定どおり回れないことは、出る前から分かっていた。
出港前夜、彼は泣いていた
一九六八年十月三十日の夜。テインマスのホテルの一室。
クロウハーストは荷造りをしていた。というより、荷造りが終わっていなかった。装備は港のあちこちに散らばり、何がどこにあるかも把握できていない。彼は妻のクレアに向かって、船はまだできていない、と言った。そして泣いた。
クレアはのちに、このとき自分が「行かなくていい」と言えばよかった、と繰り返し語っている。だが彼女は言わなかった。夫がどれだけこれに賭けているかを知っていたからだ。彼女が言ったのは、あなたが行かないなら私はそれでいい、という趣旨の言葉だったと伝えられる。しかしそのニュアンスは、彼を止めるには弱すぎた。
止められる立場の人間は、ほかにもいた。スポンサーのベストは、実は途中で「やめてもいい」という意思表示をしていたという説もある。だが契約条項の重さと、ハルワースが焚きつけた町ぐるみの期待は、もう一人の男の逡巡を飲み込むには十分すぎた。桟橋には人が集まっていた。地元紙の記者がいた。英国放送協会のカメラがあった。
十月三十一日、出港。ロープが絡んで一度戻され、曳航してもらってやり直すという、笑うに笑えない始まり方をした。最終的に彼がスタートラインを越えたのは午後四時五十二分。締切当日の、夕方だった。
このときクレアは、夫に渡そうと思っていた紙袋を持っていた。中身は腹話術の人形と、クリスマスプレゼントと、手紙。混乱のなかで渡しそこね、袋はスリップウェイに置かれたままになった。
トマリンとホールの評伝を読んだ人がしばしば忘れられなくなるのが、この袋の話だ。事件そのものよりも、この置き去りにされた紙袋のほうが刺さる。渡らなかった手紙。開かれなかった人形。
最初の二週間で、すべてが壊れた
出て二日で自動操舵装置のネジが脱落した。港での指摘そのままだった。
港では船体の防水が甘いとは思っていた。だが現実は予想を超えていた。左舷フロートに海水が入る。前部区画が浸水する。発電機のハッチから水が入り、発電機がやられかける。そして汲み出そうにも、ポンプのホースがない。彼はバケツと手動ポンプで水と格闘することになる。
速度も出なかった。というより、彼が計画で想定していた速度の半分も出ていなかった。出港から二週間で、予定コース上の八百マイル程度しか進んでいない。これは世界一周のペースではない。
十一月中旬、彼は自分の航海日誌に計算を書き込んでいる。このまま南極海に突っ込んだ場合の生存確率について、彼は五十パーセントという数字を出した。転覆検知装置は積んでいない。浮力バッグもない。ハッチは漏る。ポンプホースはない。そんな船で、世界最悪の海域に入る。五十パーセントというのは、むしろ楽観的な見積もりだったかもしれない。
このころの日誌に、有名な一節がある。
「行けるかどうかを、そろそろ決めなければならないという意識に苛まれている。この段階で投げ出すなんて、なんとひどい決断だ」
そして彼は続けている。もし自分がやめれば、多くの人を失望させることになる、なかでもスタンリー・ベストがいちばん重い、と。
ここが分岐点だった。彼には三つの道があった。南極海に突っ込んで、五分五分の賭けをする。棄権して帰り、家と会社を失って笑いものになる。あるいは第三の道。
十二月六日、彼は嘘をつきはじめた
第三の道は、単純な発想だった。南大西洋にとどまる。他の連中が南極海を回って戻ってくるのを待つ。そして最終区間で合流し、あたかも世界一周してきたかのような顔で北上する。
問題は証拠だ。無線位置報告なら適当に言えばいい。だが完走後には航海日誌が検証される。太陽の高度を測って位置を出す天測の記録、日々の気象、風向、海況。それらが辻褄の合った形で書かれていなければならない。
だから彼は、逆算をはじめた。
普通の航海術は、実際に太陽を測って、そこから位置を出す。彼がやったのはその逆だ。まず「今日はここにいることにする」と架空の位置を決める。次に、その位置と日付なら太陽は何時に何度の高度で見えるはずかを、天測暦から逆に引く。そして、その高度を六分儀で実際に測ったかのように日誌に書き込む。さらに逆算の途中式まで、本物らしく残す。
これは相当に難しい。順方向の天測は、慣れれば作業だ。だが逆算は、航法の理屈を完全に理解していないとできない。しかも一日や二日ではない。数ヶ月ぶんを、矛盾なく積み上げなければならない。のちにこの偽日誌を検証した航海術の専門家たちは、口をそろえて「これは相当な腕がないとできない」と評価している。皮肉な話だ。彼は本物の世界一周をする技術は足りなかったが、偽の世界一周を紙の上で構築する技術は十分に持っていた。
さらに彼は気象データも集めた。ケープタウンやブエノスアイレスの無線気象放送を受信し、自分がいるはずの海域の気圧配置や風を書き取る。行っていない海の天気を、記録として持っておくためだ。
位置の偽装は、実は十二月の頭からじわじわ始まっている。十二月五日から十日にかけて、彼は八百四十三マイル走ったと報告した。実際は六百八十七マイル。まだ「盛った」レベルだ。だが十二月八日、彼は一日で二百四十三マイルという数字を打電する。実際にはその日の走行は百七十マイル前後だった。
二百四十三マイルというのは当時の単独艇の一日走行距離としては驚異的な数字で、記録級だった。世界の新聞が飛びついた。ハルワースは大喜びで各紙に流した。十二月半ば、イギリスの紙面には「最速で世界一周を制するのはクロウハーストか」という見出しが並びはじめる。
彼はこのとき、まだ大西洋の赤道付近をうろうろしていた。
十二月十二日、彼は二冊目の航海日誌をつけはじめる。ここに書かれるのは本当の位置だ。以後、彼は二つの現実を並行して管理することになる。紙の上を疾走する架空のクロウハーストと、南大西洋で足踏みする本物のクロウハースト。
二冊の日誌という仕掛け
この二冊構造は、事件の核心だ。ここだけは少し丁寧に見ておきたい。
一冊目は「公式」の日誌になる。ここには架空の位置、架空の天測、架空の日々の走行距離、架空の気象が書き込まれる。完走後に提出される想定の、見せるための帳簿だ。
二冊目は「本当」の日誌。実際の位置、実際の航海、そして日を追うごとに、実際の心の状態が書かれていく。
さらに無線の交信記録簿があり、最終的に船からは三冊の日誌が回収されることになる。回収されなかったとみられる四冊目の存在も指摘されている。
このやり方が恐ろしいのは、二冊目が「良心の在り処」になってしまう点だ。彼は嘘をつきながら、同時に、嘘をついている自分を毎日記録していた。誰にも見せる予定のない場所に、自分の犯行の全記録を、自分で残していた。
しかもこの二冊目には、時が経つにつれて航海と無関係な文章が増えていく。読書メモ、数学の走り書き、アインシュタインについての考察、自分と世界の関係についての抽象的な文。彼は南大西洋を漂いながら、船ではなく自分の内側を航海しはじめる。
無線の運用も巧妙だった。彼は交信を極端に絞った。そして一九六九年一月十九日、送信機の不調を理由に、東経八十度から西経百四十度のあいだは無線が使えなくなる、と予告した。この経度帯は、まさにインド洋と太平洋、つまり彼が行かない海域にぴったり重なる。位置を確認されようがない空白を、自分から公式に作ったのだ。
そのうえ当時の無線は、電波の届き方から発信位置をおおまかに推定されることがあった。だから沈黙は二重に安全だった。
沈黙のあいだ、地上では想像が育った。サンデー・タイムズは断片情報から彼の位置を推定して記事にした。一月二十六日には「クロウハースト、巨大波の直撃を受けつつ航行を続行」という見出しが出ている。この時期、彼は南米沖で風待ちをしていた。
三月、リオ・サラードの闇
一九六九年に入り、船はさらに傷んでいた。右舷フロートの継ぎ目が開き、浸水が深刻になっていた。このままでは沈む。だがレースは無寄港が絶対条件だ。寄港すれば、その時点で失格する。
もっとも、彼はすでに完走する気がない。優勝を狙う気もない。目指しているのは「二位か三位で目立たず帰る」ことだった。日誌の精査を受けにくい順位で滑り込み、家と会社を守る。そのためには、まず船が浮いていなければならない。
三月六日、彼はアルゼンチンのサンボロンボン湾に錨を下ろした。
近くのリオ・サラード沿岸警備隊の詰所から、上級下士官のサンティアゴ・フランチェッシが小舟で近づいてくる。クロウハーストはスペイン語を話さず、フランチェッシは英語を話さない。会話は成立しない。クロウハーストは紙に絵を描いて説明した。船の絵、破損箇所、そして地球の絵に、ホーン岬を回ってきたという架空の航路。
警備隊は彼を係留地まで曳航し、修理用の合板とグラスファイバーを貸した。詰所の記録には、彼の名前が「チャールズ・アルフレッド」と記載された。ファーストネームとミドルネームだけが伝わり、姓が抜け落ちたのだ。言葉が通じない現場でのよくある取り違えだった。当直を務めていたのは若い士官候補生で、ゴールデン・グローブ・レースという催しの存在すら知らなかった。だからこの記録は、どこにも報告されなかった。
三月八日、修理を終えたクロウハーストは出ていった。去り際、フランチェッシは彼の二冊目の日誌に、自分の住所を書き込んでいる。
この細部が、この事件のなかでいちばん静かに刺さる部分かもしれない。世界を騙している最中の男が、言葉も通じない見知らぬ下士官に、住所を書いてもらっている。手紙を出すつもりだったのか、ただの別れの儀式だったのか。少なくとも彼は、誰かと繋がっている痕跡を、自分の秘密の帳面のほうに残したかった。
のちにドキュメンタリー映画の取材班がアルゼンチンでフランチェッシを探し当て、彼は当時のことを証言している。あの外国人は困っていた、だから助けた。彼が何者だったのかを知ったのは、ずっとあとのことだった。
ここでもし、あの若い士官候補生がレースを知っていたら。もし彼が上に報告していたら。クロウハーストはその場で失格になり、恥をかいて、たぶん破産して、それでも生きて帰っただろう。歴史の分かれ目というのは、たいてい、こういうどうでもいい偶然でできている。
ゴールが、追いかけてきた
三月から四月にかけて、彼は南大西洋を六週間ほど漂った。ひたすら待った。ただ待つのも仕事だった。無線で他の艇の位置を追い、自分がどこにいたことにすべきかを計算しつづける。
四月九日、彼は沈黙を破って打電する。内容はごく短い。ディエゴ・ラミレス諸島に向かっている、という趣旨だった。ディエゴ・ラミレスはホーン岬の南西にある岩礁群で、要するに「南米の南端を回った」という宣言だ。
このとき彼が実際にいたのは、ブラジル沖である。
四月二十二日、ロビン・ノックス=ジョンストンがファルマスに帰港した。三百十二日。史上初の単独無寄港世界一周が達成された瞬間だった。ゴールデン・グローブのトロフィーは彼のものになった。
これでクロウハーストにとって、状況は一段複雑になる。トロフィーは取られた。残るのは最速賞金だけ。そして最速賞金の争いに残っているのは、テトリーと自分の二人だけになっていた。モアテシエは三月十八日、ホーン岬を回ったあと、レースを降りた。通りかかった船に、投石器でメッセージを入れた缶を投げ込んで、こう伝えている。私はノンストップで進みつづける、海にいるのが幸せだから、そしておそらく自分の魂を救うために。彼はそのままインド洋を再び横断し、六月二十一日にタヒチに着いた。世界を一周半したことになる。
だから残りは二人だった。そして紙の上のクロウハーストは、テトリーを猛烈な勢いで追い上げていた。
これがどれほど残酷な状況か、想像してみてほしい。彼は追いつきたくなかった。二位でいい、三位でもいい、目立ちたくない。だが彼の作った架空の自分は、彼の意思とは無関係に速かった。速すぎた。ハルワースは彼の断片的な報告を最大限に膨らませて発表しつづけている。イギリスでは、彼を歓迎する準備が着々と進んでいた。
ハルワースからは、凱旋帰港の段取りを知らせる電報が届いた。町を挙げての歓迎、記者会見、群衆。よかれと思ってのことだった。
もし本当に勝ってしまったら、日誌は徹底的に検証される。当時のセーリング界には、航海記録を精査する専門家がいた。逆算で作った天測は、精密に見れば矛盾が出る。彼はそれを分かっていた。
テトリーの船が壊れた夜
ナイジェル・テトリーは真面目な男だった。海軍中佐。船のヴィクトレスは自宅そのものだった。彼はクロウハーストと同型の三胴艇で、実際に南極海を回り、多胴艇として史上初めてホーン岬を回航した。それだけで海の歴史に名前が残る仕事だ。
四月二十二日、彼は自分の往路の航跡を横切り、単独世界一周を成し遂げた。ただしゴールまではまだ五千マイルあった。
そして彼は、クロウハーストが後ろから猛烈に迫っていると信じていた。無線で伝えられる「クロウハーストの位置」を疑う理由は何もない。同型艇なら性能は同じだ。ならば負けるわけにはいかない。彼は疲れきった船に、無理をさせた。
五月二十日から二十一日にかけて、アゾレス諸島の北で嵐に遭う。真夜中を過ぎた頃、左舷フロートの船首部分がもぎ取られた。ちぎれたフロートが波にあおられ、主船体に大穴を開けた。ヴィクトレスは沈みはじめた。
彼は遭難信号を出し、救命いかだに移った。翌日の夕方、救助された。ゴールまで千二百マイルほどの地点だった。
つまりテトリーは、存在しない相手に追われて、自分の船を壊した。しかもその相手は、そのとき彼から百五十海里ほどしか離れていない海域に、じっと浮かんでいた。同じ海の上にいた。片方は世界を一周してきて、片方はどこにも行っていない。二人の距離は、そのとき地球の裏側ぶんではなく、たった百五十海里だった。
テトリーが沈んだことで、クロウハーストは唯一の残存者になった。逃げ場が消えた。
六月、彼は書きはじめた
六月に入ると、二冊目の日誌の性格が変わっていく。航海記録が減り、思索が増える。そして六月二十四日、彼は新しい書き物を始めた。冒頭に自分で「哲学」と題をつけている。
ここから七月一日までの八日間で、彼はおよそ二万五千語を書いた。日本語に直せば十万字近い分量になる。しかもその半分ほどは最初の三日間で書かれている。手はほとんど止まっていない。
内容は、はじめのうちは筋が通っている。アインシュタインの相対性理論についての考察から入る。彼は実際に船にアインシュタインの著作を積んでいた。そこから、精神と物質の関係、時間の本質、知能の進化といったテーマへ広がっていく。
彼の中心的な主張はこうだ。人類は物質的な存在から、より高次の知的存在へと進化しつつある。その先には「宇宙的存在」と呼ぶべき段階がある。そして、意志の力によって、人間は肉体という制約から抜け出し、その段階に移行できる。彼は自分をその第二世代の宇宙的存在になりうる者として位置づけていく。
途中に、こんな一節がある。
「自然は、神がいかなる罪を犯すことも許さない。ただひとつ、隠蔽の罪を除いて」
自分の嘘を、宇宙の法則のレベルで裁こうとしている文章だ。彼は逃げていない。逃げていないどころか、自分の罪の性質を正面から名指ししている。ただしその名指しの仕方が、法廷や告解室ではなく、宇宙論の言葉になっている。
こんな断片もある。
「宇宙的存在たちに腹が立った。何かが間違った方向に進んでいた。隠蔽の罪が――」
そして、いちばん有名な一行。
「私は私であり、自分の犯した罪の性質を理解している」
この文を、正気を失った男の言葉として読むことはできない。これはむしろ、恐ろしく正気な文だ。彼は分かっている。全部分かっている。分かっているのに、それを解決する現実的な手段だけが、どこにもない。だから彼は現実の外側に出口を作ろうとした。それが「宇宙的存在への移行」だった。
書くほどに、文章は壊れていく。綴りの誤りが増える。大文字と小文字が混ざる。自分にしか分からない略号が出てくる。駄洒落が挟まる。神と悪魔の対立の話になる。そして、時間そのものへの執着が強くなっていく。
六月二十二日、彼は送信機を修理してモールス信号を送ることに成功している。これがまとまった交信としては最後になった。六月二十三日は、日誌の記述が最後まで筋の通っていた日だとされる。この日、彼は海の生き物についての観察を書き、そして最後のきちんとした天測を行っている。
六月二十五日、彼は自分の位置を北緯三十一度二十五分、西経三十九度十五分と記録した。同じ日、彼は妻との架空の会話を書きつけている。実際には交わされていない対話を、自分で両方の台詞を書いて。
そして同じ六月二十五日の夕方五時ごろ、貨物船キヤホガ号がテインマス・エレクトロンを見つけている。乗員の証言では、甲板にクロウハーストがいた。カーキ色の短パンをはき、髭を伸ばし、見た目は元気そうだったという。船が近づいても、彼はほとんど関心を示さなかった。
これが、生きている彼を人間が見た最後の記録になった。
六月二十八日か二十九日、最後の電報のやりとりがある。妻のクレアとハルワースは、シリー諸島まで船で迎えに行く計画を立てていた。それについて問われたクロウハーストは、来るな、と答えた。
クレアは最初、夫が自分の船酔いを心配しているのだと思ったという。彼女がその返事の本当の意味を理解したのは、船が発見されたあとのことだった。
七月一日、時刻だけが刻まれていく
六月二十九日以降、無線は途絶える。発電機が完全にやられたとも、彼が交信をやめたとも言われる。
そして七月一日の朝、日誌の記述は最終局面に入る。
このときの日付は、実は彼自身の計算による日付だ。彼はクロノメーターのゼンマイを巻き忘れていて、正確な時刻を失っていた。だから七月一日というのは、あくまで彼の内部の暦だった。
午前十時二十分過ぎから、記述には秒単位に近い時刻が打たれるようになる。
「一〇時二三分四〇秒、このゲームに何の目的も見出せない」
「一〇時二五分一〇秒、私はこの立場を辞さねばならない」
「一一時一五分〇〇秒、これで私のゲームは終わりだ」
「一一時一七分〇〇秒、君が動く番だ」
そのあいだに、彼は長い一文を書いている。要約せずに、そのまま近い形で写すとこうなる。次にこのゲームが行われるとき、それが私の偉大なる神によって定められた規則にのっとって行われることに君が同意するなら、私はこのゲームを降りる。その神は、ついにその子に、ゲームというものが存在する理由の正確な性質を明かしただけでなく、次のゲームの終わらせ方についての真理をも明かしたのだ。
綴りは崩れている。文法も崩れている。だが構造は残っている。彼は交渉をしている。誰かと、条件を出し合っている。相手は神なのか、自分なのか、それとも彼の言う宇宙的存在なのか。
そして、こう書く。
「終わった、終わった、それは慈悲だ」
原文では最後の一句だけが大文字で書かれている。日本語にするなら「それこそが慈悲だ」に近い。この語は、のちに映画の題名にもなった。
最後の行は、こうだ。
「一一時二〇分四〇秒、有害である理由は何もない」
そこで文が切れている。次の語は書かれていない。以降のページは白紙だった。
十一時二十分四十秒。この時刻が、彼が世界に残した最後の座標になった。
七月十日、ピカーディ号が見たもの
一九六九年七月十日、王立郵便船ピカーディ号が、北緯三十三度十一分、西経四十度二十六分の地点で、漂流する三胴艇を発見した。イギリスから約千八百マイル。船長はリチャード・ボックス。
三胴艇はミズンセイル一枚だけを上げて、二ノットほどでゆっくり流されていた。ピカーディは霧笛を三度鳴らした。応答はない。
一等航海士のジョゼフ・クラークらがボートで移乗した。誰もいなかった。
船内は、奇妙なほど静かだった。洗っていない食器が二日ぶんほど溜まっていた。寝具は汚れていた。帆はきちんとたたまれていた。救命いかだは甲板に固縛されたまま。無線受信機が三台、分解された状態で置かれていた。食料の大半はまだ食べられる状態だった。船体には衝突や大波の被害を示す損傷がなかった。転落防止用の命綱は、外されていた。
そして日誌が、きちんと揃えて置かれていた。
クロノメーターのケースは空だった。四冊目とされる日誌も見当たらなかった。彼が何かを持って出ていったことを示唆する状態だった。
乗組員の一人が、新聞で見た艇の名前を覚えていた。ピカーディはテインマス・エレクトロンを甲板に吊り上げ、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに向かった。
発見地点が北大西洋のこのあたりだったことから、当時から現在まで、この事件はしばしばメアリー・セレスト号と並べて語られる。ただしメアリー・セレストと違って、こちらには日誌があった。日誌は全部を語っていた。
七月十六日、サント・ドミンゴでハルワース、サンデー・タイムズの記者ニコラス・トマリン、写真家のフランク・ヘルマンがボックス船長と会い、日誌を受け取った。
ページをめくったハルワースが漏らしたとされる言葉が残っている。なんてことだ、私はあの電報でドナルド・クロウハーストを殺したのかもしれない。彼は凱旋の段取りを知らせた自分の電報のことを言っていた。
「もし公表しなかったら、人は気づくと思うかね」
日誌はロンドンに渡り、サンデー・タイムズの内部で検証が始まった。航法の専門家クレイグ・リッチが偽の天測を解析し、彼が大西洋から出ていないことを確認した。
ここでサンデー・タイムズは、報道機関としての選択を迫られる。
編集長のハロルド・エヴァンスが、クレイグ・リッチにこう尋ねたという。もしわれわれがこれを公表しなかったとしたら、世間はこの事実に気づくと思うかね。
黙っておく、という選択肢が、一瞬でもテーブルの上にあったということだ。理由は察しがつく。遺された妻と四人の子どもを守るため。そしてもうひとつ、この悲劇を生んだレースを主催したのは、ほかならぬサンデー・タイムズ自身だったから。
エヴァンスは十日間迷った。そして公表を決めた。七月二十七日、記者会見が開かれ、クロウハーストが世界一周を偽装していたこと、そして自ら海に消えたとみられることが、世界に伝えられた。
ハルワースは当初、遺族を守るために彼の「告白」にあたるページを日誌から破り取っていたという。だが最終的には全部を出すことに同意した。
翌一九七〇年、トマリンとホールによる評伝『ドナルド・クロウハーストの奇妙な最後の航海』が出版される。二人はサンデー・タイムズの記者で、ホールは同紙の調査報道班インサイトの創設者、トマリンは当時屈指の書き手だった。この本はいまも決定版とされている。あとから作られたドキュメンタリーも劇映画も、結局この本の記述の上に立っている。ちなみにトマリンは一九七三年十月、第四次中東戦争の取材中にゴラン高原で命を落としている。
この本は、クロウハーストを英雄にも悪党にもしなかった。勇気と知性を持った一人の男が、極端な状況に追い込まれた結果としてああなった、という書き方をしている。冒頭にはジョゼフ・コンラッドからの引用が置かれ、孤独こそが人間にとって最大の敵だという主題が示されている。
残された家族
クレア・クロウハーストと四人の子どもに残されたのは、夫と父の死と、その直後に世界中の新聞に載った「詐欺師」という見出しだった。
一九七〇年七月十日、彼女はタイムズ紙に投書している。トマリンとホールが描いた「偽装と自死」という筋書きに対して、彼女は異議を唱えた。事故だった可能性、船から落ちた可能性を指摘した。夫が自ら命を絶ったという説を、彼女は受け入れなかった。
これを、遺族の否認と切り捨てるのは簡単だ。だが彼女の立場を考えれば、当然でもある。一夜にして未亡人になり、同時に世間から「あの嘘つきの妻」として見られた女性が、夫の最後の八日間の狂った文章を根拠に自死と断定されることを拒むのは、まったく理解できる話だ。
彼女は再婚せず、四人を育てた。デヴォンで長く暮らした。二〇一九年に亡くなっている。
長男のサイモン・クロウハーストは科学の道に進み、後年、父についてかなり率直に語るようになった。二〇〇九年の発言として、確率のバランスから言えば、父が自ら船を降りたという以外の結論には至りにくい、という趣旨のことを述べている。ただし彼はそれを、単なる自殺という言葉では捉えていない。父にとってそれは、別の存在の状態への移行だったのだろう、という言い方をしている。
これは息子による美化かもしれない。だが日誌の記述に照らすと、あながち的外れでもない。クロウハーストの最後の文章は、死について書かれていない。移行について書かれている。彼の内部の論理では、あれは終わりではなく、次の段階への手続きだった。
家族が長いあいだ受け取りつづけたものは、非難だけではなかった。同情もあった。イギリス各地から募金が集まった。そのなかに、レースの勝者からのものがあった。
テトリーとノックス=ジョンストン、その後
ロビン・ノックス=ジョンストンは、ゴールデン・グローブのトロフィーと、最速賞金五千ポンドの両方を受け取ることになった。唯一の完走者だったからだ。
彼はその五千ポンドを、そのままクロウハースト家の募金に寄付した。決めたのは、日誌の内容が世に出る前のことだったとも、直後だったとも伝えられる。いずれにせよ彼は、この件について、われわれの誰にも彼を厳しく裁く資格はない、という趣旨のことを言っている。
同じ海に出た人間だけが持てる感覚だと思う。彼は南極海を一人で越えてきた。長期の単独航海が人間の頭に何をするかを、身をもって知っていた。実際、ノックス=ジョンストン自身も航海中に幻聴めいた経験をしている。だから彼は、あの日誌を「詐欺の証拠」ではなく「壊れた人間の記録」として読むことができた。
彼はその後もセーリングを続け、ナイトの位を受け、七十歳を過ぎてなお単独レースに出た。二〇一九年には五十周年としてスハイリでファルマスに再入港している。同じ船で。
ナイジェル・テトリーの後半生は、そう明るくない。
彼は千ポンドの特別賞を受け取った。そして『トリマラン・ソロ』という航海記を一九七〇年に出した。その賞金と印税で、新しい三胴艇ミス・ヴィッキーの建造にとりかかる。だがスポンサーが集まらなかった。船は完成に近づいたものの、装備を整える金がなかった。海軍を退役し、生活も安定しなかった。
一九七二年二月二日、彼は行方不明になった。三日後、ドーヴァー近郊のユエル・ミニス・ウッズで遺体が発見された。享年四十七。
長らく彼の死は「クロウハースト事件のもう一人の犠牲者の自死」として語られてきた。だが記録上、検死審問の評決はオープン評決だった。つまり死因を確定しないという結論だ。現場の状況から、自殺ではない可能性を示す解釈も出されている。事実として言えるのは、死因は法的に確定していない、ということだけだ。ここは慎重に扱いたい。
ただ、確実に言えることもある。彼は存在しない競争相手に追われ、世界一周を成し遂げながら、ゴールの千二百マイル手前で船を失った。多胴艇で初めてホーン岬を回った男として、もっと大きな名誉を受けてもよかったはずだ。それが、この事件の巻き添えで曖昧になった。
ベルナール・モアテシエは、レースを降りたことで逆に伝説になった。彼が投げた缶入りのメッセージは、いまも単独航海文化の聖典みたいに引用されている。一九九四年に亡くなった。
チェイ・ブライスは一九七〇年から七一年にかけて、逆回り、つまり偏西風に逆らう方向で単独無寄港世界一周を達成した。ビル・キングは二度の失敗を経て一九七三年に完走した。
なぜ彼は消えたのか
ここまでが記録だ。ここからは解釈になる。
いちばん広く受け入れられている説は、彼が自ら船を降りたというものだ。トマリンとホールはこの立場を取り、日誌の最終週の記述を臨床的な精神の破綻として読んだ。彼らは古典的な妄想症、精神病性の障害という言葉を使っている。二つの選択肢――詐欺を認めて破産と恥辱を受けるか、偽の英雄として帰って一生おびえるか――のどちらも選べず、彼は第三の出口として現実の外に出た、という読みだ。
状況証拠は多い。命綱が外されている。クロノメーターと四冊目の日誌が消えている。日誌が整理して置かれている。損傷がない。天候も穏やかだった。そして最終記述の内容そのもの。
だが反証もある。まず、彼が水に入る場面を見た者はいない。遺体は見つかっていない。命綱を外して作業することは航海中にいくらでもある。船に一人でいる人間が、片づけをして、うっかり落ちることは十分ありうる。クレアが指摘したのは、まさにそこだった。
二つ目の説は、事故説だ。マストに登っていて落ちた、あるいは甲板作業中に転落した。あの海域は静かだったが、単独航海者が船外に落ちて自艇に戻れないという事故は珍しくない。船は帆を上げたまま走りつづける。追いつけない。この説は、彼の精神状態を考慮に入れないという弱点はあるが、物理的には最も単純だ。
三つ目に、精神医学的な再解釈がある。臨床心理学者のジェフ・パウターは、彼に未診断の双極性障害があった可能性を指摘した。日誌に見える、極端な高揚と落ち込みの交代がその根拠だ。出港前の彼の行動――壮大な計画、過剰な自信、事業の見通しの甘さ――も、この線で読み直すことができる。もしそうなら、彼は「嘘をついたせいで壊れた」のではなく、「もともと壊れやすい人が、最悪の環境に置かれた」ことになる。
四つ目に、より哲学的な読み方がある。エドワード・エム・ポドヴォールという精神科医は『リカバリング・サニティ』という本で、クロウハーストの日誌を精神の危機の記録として読んだ。孤独と極限状況における意識の変容という観点だ。この読み方では、彼の「宇宙的存在」の理論は妄想であると同時に、追い詰められた人間が意味を作り出そうとする必死の作業でもある。
そして五つ目。息子サイモンの読み方。あれは死ではなく移行だと本人は信じていた、という理解だ。この解釈が独特なのは、彼の主観の中身を尊重している点にある。外から見れば自死だが、彼の内部の論理では別のことが起きていた。両方が同時に真でありうる。
生存説も、当時から一部にあった。すべては計画的な失踪で、彼はどこかで別人として生きているというものだ。これを支持する証拠はない。船は大西洋のど真ん中で発見され、周囲に陸地はなく、他の船と接触した記録もなく、その後半世紀以上、彼を見た者はいない。
個人的に一番きついと思うのは、彼が「戻る道」を何度も持っていたのに、その全部を通り過ぎたことだ。出港前夜。最初の二週間。十一月の五十パーセントの計算。十二月の最初の嘘。三月のアルゼンチン。四月の沈黙破り。どこで止まっても、彼は生きて帰れた。恥はかいた。金は失った。だが生きていた。人間は、引き返す地点を一つ通り過ぎるごとに、次の地点で引き返すのが少しずつ難しくなる。
本と映画と舞台のなかのクロウハースト
この事件は、驚くほど多くの作品を生んでいる。
出発点は一九七〇年のトマリンとホールの評伝だ。これが基礎資料であり、いまも最良の一冊とされる。二〇〇一年にはピーター・ニコルズが『ヴォヤージ・フォー・マッドメン』で、九人全員の視点からレース全体を描いた。二〇〇九年には英国放送協会の記者クリス・イーキンが『ア・レース・トゥー・ファー』を書き、遺族や関係者への取材から、サンデー・タイムズ内部の逡巡を明らかにした。
映画では、二〇〇六年のドキュメンタリー『ディープ・ウォーター』が決定的だ。ジェリー・ロスウェルとルイーズ・オズモンドの監督で、クロウハースト自身が船内で撮影したフィルムと録音したテープを大量に使っている。本人が撮った映像が残っているというのが、この事件の異様なところだ。カメラに向かって話す彼の顔が、実際に存在する。取材にはクレアとサイモン、そしてアルゼンチンのフランチェッシも応じている。この作品はローマ国際映画祭でドキュメンタリー賞を受け、批評も絶賛だった。
劇映画としては、二〇一八年に二本がほぼ同時に公開されるという珍しいことが起きた。一本はサイモン・ラムリー監督の『クロウハースト』で、ジャスティン・サリンジャーが主演。もう一本はジェームズ・マーシュ監督の『マーシー』で、コリン・ファースがクロウハースト、レイチェル・ワイズがクレアを演じた。題名の「マーシー」はもちろん、あの最後の一行から来ている。
『マーシー』はセーリング描写よりも心理劇に軸を置いた作品で、事実関係にはいくつか脚色がある。それでもコリン・ファースの演じるクロウハーストは、この事件の核心――ふつうの中年男が、自分の見栄と借金の重さに押しつぶされていく感じ――をよく捉えている。
これ以前にも映像化はある。一九七五年のテレビ映画『ホース・ラティチューズ』、一九八二年のフランス映画『吼える四十度』、一九八六年のソ連映画『世紀のレース』。舞台やオペラも多い。一九九八年の『レイヴンズヘッド』はオペラ作品だ。
音楽の分野でも、この話に取り憑かれたミュージシャンは異様に多い。イギリスのバンドから実験音楽まで、クロウハーストを題材にした曲は数えきれない。彼の名前をそのままバンド名にした例まである。
美術の領域では、イギリスの現代美術家タシタ・ディーンの仕事が知られている。彼女はケイマン・ブラック島に打ち捨てられたテインマス・エレクトロンを撮影し、さらに「イット・イズ・ザ・マーシー」の文字を刻んだ作品を作った。これらは現在、ロンドンの国立海事博物館に所蔵されている。同じ館には、クロウハーストが売ろうとしたあのナビゲーターも収められている。売れなかった発明品と、その発明者を殺した航海の記憶が、同じ建物にある。
ケイマン・ブラックに残された船
テインマス・エレクトロンは、その後も長く実在しつづけた。
サント・ドミンゴに運ばれたあと、ジャマイカで競売にかけられた。買った人物は観光用の遊覧船に改造した。モンテゴ・ベイでクルーズ船として使われた。次の持ち主のもとで、キャビンを広げて十人が寝られるようにし、窓をつけ、船体をグラスファイバーで包む改装が施された。かつての最先端レーシング三胴艇は、観光客を乗せて浅瀬を走る船になった。
その後カリブ海に渡り、ケイマン諸島でダイビング船として働いた。一九八三年、底を擦って損傷し、陸揚げのためにクレーンで吊ったところ、落として、さらに壊れた。修理計画はあった。だが一九八八年のハリケーン・ギルバートがとどめを刺した。
以後、船はケイマン・ブラック島の南西岸に放置されたままになっている。三つの船体が砂の上に転がり、少しずつ崩れていく。塗装は剥げ、合板は割れ、部品は持ち去られた。それでも、三胴艇だと分かる形はまだ残っている。
二〇〇七年、アメリカの美術家マイケル・ジョーンズ・マキーンがこの残骸の権利を取得した。二〇一七年には研究者チームを率いて、船の高精細な三次元スキャンを行っている。物理的な船が完全に土に還る前に、データとして残そうという試みだ。
いまでもこの島には、この船を見るためだけに来る人がいる。特に何もない海岸に、看板もなく、ただ壊れた木の船がある。それを見に、世界中から人が来る。
半世紀経っても、この話が離れない理由
なぜこの事件は、こんなにも人を掴んで離さないのか。
海の遭難事故なら、もっと悲惨なものはいくらでもある。詐欺事件なら、もっと巨額のものがいくらでもある。だがクロウハーストの話には、他のどれにもない構造がある。
まず、記録が残っていることだ。ふつう、人が壊れていく過程は誰も記録しない。当人は書けないし、まわりは見ていない。だがクロウハーストは、一人きりで、書きながら壊れた。しかもその記録が、そっくり回収された。始まりの日から最後の十一時二十分四十秒まで、全部ある。人間が精神的に崩壊していく過程の、一次資料としての連続記録。こんなものは他にほとんど存在しない。
次に、彼が特別な人間ではなかったことだ。冒険家でも英雄でも犯罪者でもない。会社がうまくいっていない、口が達者な、少し見栄っ張りな中年男。四人の子どもがいて、住宅ローンと事業の借金を抱えている。「もし自分だったら」という想像が、あまりにもたやすくできてしまう。
そして、彼の嘘が始まったときの小ささだ。最初の一歩は、たった一日ぶんの距離を盛った報告だった。誰でもやりそうな種類のごまかしだ。それが数ヶ月で、逃げ場のない構造に育つ。嘘というものが、加算ではなく複利で膨らむことを、この事件は完璧に示している。
もうひとつは、あの逆算の技術だ。彼は本物より難しいことをやってのけた。もし同じ知力と根気を、本物の準備に注いでいたら。この「才能の向き」の悲劇性が、多くの人の胸に刺さる。
さらに、テトリーの存在がこの話を単なる個人の破滅から別のものに変える。存在しない相手に追われて船を壊した男。嘘が、嘘をついた本人以外の人生も破壊した。孤独に見えるこの事件は、実はまったく孤独ではない。妻がいて、四人の子がいて、スポンサーがいて、広報担当がいて、同型艇のライバルがいて、彼を報じつづけた新聞があった。全員が少しずつ、この結末に手を貸している。
そしてノックス=ジョンストンの五千ポンドがある。この寄付が、この物語をぎりぎりのところで人間の側に引き留めている。誰も彼を厳しく裁く資格はない、と、実際に同じ海を越えてきた男が言った。この一言があるおかげで、この事件は「愚か者の顛末」ではなく「人間の話」として読まれつづけている。
最後に、あの言葉だ。「イット・イズ・ザ・マーシー」。それこそが慈悲だ。壊れかけた頭で書かれたはずのこの一句が、なぜか異様に完成されている。彼が最後に見つけた出口を、彼は罰ではなく慈悲と呼んだ。この一行があるかぎり、この話は終わらない。
準備期間は七ヶ月しかなかった、という話から
ここからは、この事件をもう少し違う角度から掘っておきたい。
まず、時系列を頭のなかでもう一度並べ直してみる。一九六八年三月十七日にレースが発表され、十月三十一日にクロウハーストが出港。約七ヶ月しか準備期間がない。この七ヶ月で、彼は資金を集め、船を設計し、造らせ、艤装し、装備を揃え、練習しなければならなかった。単独無寄港世界一周という、当時まだ誰も達成していない航海のためにだ。
比較すると分かりやすい。ノックス=ジョンストンのスハイリは、彼が四年前にインドで造らせて、その後実際に喜望峰回りでイギリスまで運んできた船だ。船と乗り手の付き合いが長い。モアテシエのジョシュアは、彼がそれまでの長距離航海で鍛え上げた船だった。ビル・キングは専用設計艇に二年以上かけていた。
クロウハーストだけが、ほぼ初対面の船で出た。ノーフォークからテインマスへの回航で、彼はこの船に初めてまとまった時間乗った。それが二週間。世界一周の唯一の予行演習が、イギリス沿岸の二週間。しかもその二週間で、彼は船が漏れることも、風上に上れないことも、自動操舵が緩むことも、全部知っていた。知っていて、出た。
ここに、この事件の最初の謎がある。彼はなぜ出たのか。
理屈だけなら答えは簡単だ。契約があったからだ。出なければ、その時点で家と会社が飛ぶ。だが本当にそうだろうか。出港せずに棄権した場合と、出港してすぐ戻った場合とで、契約上の結末に大きな差があったとは考えにくい。どちらにせよ完走はしていない。にもかかわらず彼は出た。
たぶん、金の問題ではなかった。あるいは金の問題だけではなかった。あそこには群衆がいて、カメラがあって、町の名前を冠した船があって、彼を「英雄」として扱う準備がすっかり整っていた。あの状況で「やっぱりやめます」と言うことの心理的コストは、破産のコストより高く感じられたのだろう。人はしばしば、経済的な破滅より社会的な赤面のほうを恐れる。これはクロウハーストが特別に弱かったという話ではない。ほとんどの人がそうだ。
次に、偽装の技術面をもう一段深く見ておきたい。
天測航法というのは、六分儀で天体の高度を測り、正確な時刻と組み合わせて、地球上の位置を絞り込む技術だ。太陽の高度と時刻が分かれば、地球上に「この条件を満たす点の集合」が一本の線として引ける。これを位置の線という。時間をずらして二回測れば、二本の線が交わり、そこが自分の位置になる。
クロウハーストがやったのは、この計算の完全な逆再生だ。まず「今日は南緯何度、西経何度にいたことにする」と決める。その仮想位置と、その日の日付から、太陽が何時にどの高度に見えるはずかを天測暦を使って計算する。その数値を、あたかも観測したかのように記録する。さらに、そこから位置を導く計算過程を、順方向の作業として書き残す。
これがどれほど厄介か。順方向の計算は、間違えれば結果がおかしくなるだけだ。だが逆算では、辻褄を合わせるべき変数が増える。時刻。天体の名前。高度。方位。それらすべてが、その日の仮想位置と整合していなければならない。しかも彼はこれを数ヶ月ぶん、しかも南極海という自分が一度も行ったことのない海域について作った。
さらに難しいのが、周辺情報だ。位置だけ合っていても、日誌としては不自然になる。だから気象が要る。海の様子が要る。彼は無線でケープタウンやブエノスアイレスの気象放送を受信し、自分がいることになっている海域の気圧配置を記録した。何日も何日も。行っていない海の天気予報を、律儀にメモしつづける男の姿を想像してほしい。
彼は事実上、フルタイムの仕事を二つ抱えていた。壊れかけた船を浮かせておく仕事と、存在しない航海を紙の上に建設する仕事。しかも後者には終わりがない。日を追うごとに、辻褄を合わせるべき過去が増えていく。この作業量そのものが、彼の精神を削った可能性は十分にある。
そして、ここに彼の悲劇の中核がある。彼は最後まで完璧を目指していなかった。彼が作りたかったのは「一位になる日誌」ではなく「二位か三位で、誰も精査しない日誌」だった。ところが現実のレースは、彼の意図に反して、彼を一位に押し上げてしまった。他の七人が消え、テトリーが沈んだからだ。
つまり彼を追い詰めたのは、彼の嘘の失敗ではない。彼の嘘の成功だ。嘘がうまくいきすぎた。この構造の残酷さは、なかなか他に例がない。
三つ目に、あの「哲学」の文章についてもう少し考えたい。
二万五千語という分量を、八日で書いている。半分は最初の三日。手書きで、船の上で、揺れるなかで。単純な作業量として異常だ。この執筆の速度そのものが、彼の状態を物語っている。
内容を追うと、彼の論理はかなり一貫した道筋をたどる。出発点はアインシュタインだ。相対性理論は、観測者の立場によって時間と空間の見え方が変わることを示した。彼はここから、観測者としての意識の特権性へ話を進める。意識が物理的世界を規定するのなら、意識は物質に従属していない。ならば意識は肉体から独立しうる。ならば、意志によって肉体を離れることができる。
この論法は、哲学的には穴だらけだ。だが穴だらけかどうかは、この際どうでもいい。目を引くのは、彼が「自分の状況から脱出する方法」を、物理学と神学のあいだのどこかに構築しようとしたことだ。
なぜそんなことをする必要があったのか。答えは、彼が同時に書いている別の言葉のなかにある。隠蔽の罪。私は私であり、自分の罪の性質を理解している。彼は自分を許していない。だから、許される必要のない場所に移動しようとした。
もうひとつ興味深いのが、彼の「ゲーム」という語法だ。最後の日の記述には、この語が繰り返し出てくる。ゲームの規則、ゲームの終わらせ方、ゲームを降りる、次にこのゲームが行われるとき。
ゲームという枠組みは、レースの隠喩でもある。だが同時に、責任を軽くする装置でもある。ゲームなら、負けても人格は否定されない。ルールが不当なら、降りることは正当な行為になる。彼が最後に交渉していたのは、まさにこの点だ。次のゲームは公正な規則で行われる、それに同意するなら、私は降りる。
彼は最後まで、自分を弁護していた。裁判官も自分、被告も自分、そして神を証人に呼んだ。
四つ目。この事件が現代のスポーツと報道に投げかけているものについて。
一九六八年のゴールデン・グローブは、資格審査がなかった。追跡装置もなかった。位置は自己申告だった。だからクロウハーストの嘘は成立した。いまなら成立しない。現代の単独世界一周レースには衛星による常時追跡があり、参加資格として実航海距離の証明が必要になる。二〇一八年に復活したゴールデン・グローブ・レースは、あえて当時と同じ旧式装備での航海を求める「レトロ」なレースだが、参加資格だけは厳格化された。外洋航海八千マイル以上、うち単独二千マイル以上、さらに参加艇での単独二千マイル以上。この条項が生まれた背景に、あの事件があることは間違いない。
だが技術で防げるのは、位置の偽装だけだ。防げないものがある。参加者が背負う借金。降りられなくする契約。物語を求める報道。「もう降りられない」と当人に思わせる、周囲の期待の総量。この部分は五十年経ってもまるで変わっていない。むしろ交流サイトの時代になって、悪化しているかもしれない。
ハルワースについて、もう少し公平に見ておきたい。彼はしばしば「クロウハーストを煽った男」として描かれる。実際、彼が断片的な報告を過剰に脚色して流していたのは事実だ。日誌を見た瞬間に「私が殺したのかもしれない」と漏らしたという話も、その罪悪感を裏づけている。
だが彼が特別に悪辣だったわけではない。彼は自分の仕事をしていた。地元の町のために宣伝をし、クライアントのために記事を作った。曖昧な情報を「たぶんこういうことだろう」と補って書くのは、当時も今もありふれた作業だ。問題は、その補完の相手が、意図的に曖昧さを作り出していたことだった。嘘つきと、善意の増幅装置が組み合わさると、こういうことが起きる。
サンデー・タイムズについても同じことが言える。彼らはレースを主催し、選手を審査せず、事故が起きたあとで報道機関として真実を公表するかどうかを十日間迷った。そして公表した。この判断は正しかったと思う。だが同時に、公表によって最も打撃を受けたのが遺された家族だったことも事実だ。
クレア・クロウハーストの一九七〇年の投書を、いまもう一度読むと、その板挟みがよく見える。彼女は夫が嘘をついたことを否定していない。否定しているのは、夫が自ら死を選んだという断定のほうだ。彼女が守ろうとしたのは夫の名誉ではなく、たぶん、子どもたちが背負うものの重さだった。父親が嘘をついたという事実と、父親が自分たちを置いて自ら消えたという解釈とでは、子どもにとっての意味がまるで違う。
五つ目。あの船の残骸について。
ケイマン・ブラックに転がっている三つの船体は、この事件のいちばん奇妙な後日談だ。船は生き延びた。乗っていた男だけがいなくなり、船はその後三十年近く働きつづけた。観光客を乗せ、ダイバーを運び、ハリケーンに壊された。そして誰にも見られない海岸で、ゆっくり分解していく。
この船が完全に消えるまで、あと何十年かかるかは分からない。だが三次元スキャンのデータは残る。タシタ・ディーンの写真も残る。そして、あの最後の一行を刻んだ彼女の作品が、ロンドンの博物館の、彼の売れなかった発明品の近くにある。
六つ目に、この話をどう受け取るべきかについて。
教訓めいたことを言うのは簡単だ。無理な借金をするな。準備不足で出るな。嘘は雪だるま式に増える。降りる勇気を持て。全部正しい。全部、あとから言えることだ。
だが本当に効くのは、たぶんもっと具体的な話だ。ノックス=ジョンストンは、この件についてこんな趣旨のことを言っている。あの船で南極海に入っていたら、彼は死んでいた。だから彼が引き返さなかった判断そのものは、間違いではあっても、理解できないものではない、と。
つまり、クロウハーストが十二月に下した判断は、二つの死の可能性のあいだの選択だった。南極海に入って五分五分の賭けをするか、大西洋に留まって社会的な死を選ぶか。彼は後者を選び、そして後者にも出口がないことに数ヶ月かけて気づいた。
引き返す地点は、実は最初の二週間にしかなかったのかもしれない。船が漏り、ネジが落ち、速度が出ないと分かった時点。あそこで戻れば、失うのは金と面子だけで済んだ。それ以降のすべての選択は、もう選択の形をしていない。追い詰められた人間が、目の前にある唯一の道に見えるものへ、一歩ずつ進んでいっただけだ。
この事件が半世紀以上読まれつづけているのは、教訓があるからではないと思う。むしろ逆で、教訓にならないからだ。彼は特別に愚かでも特別に邪悪でもなく、状況が普通の人間を極端なところまで運んでいく様子が、一次資料としてまるごと残っている。それを読むと、人は自分の中にある同じ回路を見つけてしまう。
小さくごまかす。訂正の機会を逃す。もう遅いと思う。もっとごまかす。周りが期待する。期待に応えられないと言えなくなる。ここまでは、誰もが経験している。クロウハーストと私たちの違いは、彼が大西洋のど真ん中で、一人きりで、それをやったということだけだ。
最後にもう一度、あの日誌の最後の数分を思い出しておきたい。
十時二十三分四十秒から、十一時二十分四十秒まで。約一時間。その一時間のあいだ、彼は時計を見ながら書いていた。ゼンマイを巻き忘れた時計を。だから彼が記録していた時刻は、正確な時刻ですらなかった。彼だけの時間だった。
そして最後の行で文が切れて、あとは白紙が続く。日誌は閉じられ、きちんと重ねられ、テーブルの上に置かれた。船は帆を一枚上げたまま、九日間、誰も乗せずに北へ流れつづけた。
七月十日、ピカーディが霧笛を三度鳴らした。返事はなかった。
