鹿撃ちの初日、町の金物店から灯りが消えなかった
一九五七年十一月十六日、土曜日。ウィスコンシン州の中部にある小さな村プレインフィールドは、その日、朝から人の姿が少なかった。
鹿猟の解禁初日だったからだ。中西部の田舎町にとって、この日はほとんど祝日みたいなものだった。男たちは夜明け前に起き出して、赤いジャケットを着て、ライフルを担いで森へ入る。学校は事実上の休みになり、店の客足は途絶える。だから、村のメインストリートに面した金物店の中に人けがなかったとしても、その日に限っては誰も不思議に思わなかった。
夕方五時ごろ、その店に一人の男が入ってきた。フランク・ウォーデン。地元の保安官事務所の副保安官で、店を切り盛りしていたバーニス・ウォーデンの息子だ。彼が見たのは、開いたままのレジと、床に残った血の跡だった。母親の姿はどこにもなかった。
ここから先の四十八時間で、この村の名前は世界中の新聞に載ることになる。そして、その後の七十年近く、プレインフィールドという地名は――住民がどれだけ嫌がっても――ホラー映画の起源として語られ続けることになる。ノーマン・ベイツ、レザーフェイス、バッファロー・ビル。三体の映画史に残る怪物が、この砂だらけの農村から出てきた。
でも、その話をする前に、まずこの町のことを話さないといけないと思う。怪物の話は、いつも土地の話から始まるからだ。
砂と松と、貧しさが染み込んだ土地の話
プレインフィールドはウィスコンシン州ウォーシャラ郡にある。州都マディソンから北へ車で二時間ちょっと、州の真ん中あたりだ。人口は当時も今も千人に満たない。一九五〇年代の人口は六百人台と記録されている。村の中心には数ブロックしかなく、教会と学校と食料品店と金物店と酒場があれば、それでほぼ全部だった。
この一帯の土地は農業に向いているとは言いがたい。氷河が削っていった後に残った砂質の土で、水はけが良すぎて作物が根づきにくい。かつては「ウィスコンシンの砂地」と呼ばれて、開拓時代に入植した農民たちが痩せた土と格闘した場所だ。二十世紀前半のこの地域の農家は、豊かとはとても言えなかった。冬は長く、雪と風が容赦なく吹き付ける。夏は短い。人と人の距離は物理的に遠く、隣の農家まで数百メートルから一キロ以上あるのが普通だった。
そういう土地の暮らしは、良い面と悪い面が両方ある。良い面は、みんなが顔見知りで、困ったときには誰かが助けに来ることだ。悪い面は、一度「変わり者」の札が貼られると、その札は一生剥がれないことだ。そして、誰かの家の中で何が起きているかを、外から誰も見ることができないことだ。
エドワード・セオドア・ゲイン――みんなが「エディ」と呼んだ男は、一九〇六年八月二十七日にウィスコンシン州ラクロス郡で生まれた。父はジョージ・フィリップ・ゲイン、母はオーガスタ・ウィルヘルミーネ・レルケ。どちらもドイツ系の血筋だ。五歳上に兄のヘンリーがいた。家族はラクロスで食料品店をやっていたが、一九一四年ごろにそれを売り払って、プレインフィールドの近郊に農場を買った。面積は百五十五エーカーとも百九十五エーカーとも記録されているが、いずれにしても、村から少し離れた場所にぽつんとある農家だった。
なぜ引っ越したのか。理由ははっきりしている。母オーガスタが、街というものを嫌ったからだ。彼女にとって街は罪の巣窟で、酒と女と誘惑にまみれた場所だった。息子二人をそこから引き離すために、彼女は人里離れた農場を選んだ。
母オーガスタが息子たちに教えた「世界のかたち」
オーガスタ・ゲインという女性について、当時を知る人たちが残した証言はおおむね一致している。信仰にきわめて厳格で、意志が強く、家庭の中では絶対的な存在だった。名目上はルーテル派だったが、彼女の信仰は教会の教義というより、彼女自身が作り上げた世界観に近かった。
彼女は毎日午後に時間を決めて、息子たちに聖書を読み聞かせた。選ぶのはたいてい旧約聖書とヨハネの黙示録で、死と殺戮と神の裁きについての箇所だった。そして、そこに彼女自身の教えを重ねた。世界は堕落している。女は――母である自分を除いて――みな不道徳で、男を破滅させる。だから女に近づいてはいけない。友達を作ってはいけない。家の外に居場所を求めてはいけない。
父ジョージは、この家の中でほとんど無力だった。大工や皮なめし職人や消防士として働いた時期もあったが、酒に溺れ、息子たちに暴力を振るった。エドは頭を殴られて耳鳴りが残ったとも言われている。母は夫を軽蔑し、その軽蔑を息子たちの前で隠さなかった。つまりエドは、「父のようになるな」と教えられ、「男は弱く、女は危険だ」という二重の否定を浴びながら育ったわけだ。
学校でのエドは、どちらかというと成績は悪くなかったらしい。読書は好きだった。でも社交はまったくだめだった。誰かと親しくなろうとすると、母が引き離した。同級生が話しかけると、彼は妙なタイミングで笑い出したり、独り言みたいに話したりした。子どもというのは残酷なもので、そういう子はすぐに標的になる。彼は学校でも孤立していった。
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがある。厳格な親のもとで育った人が全員こうなるわけでは、当然ない。むしろ圧倒的多数はまったく無関係な人生を送る。後の章で触れる精神鑑定の話も含めて、この記事は「こういう育ちだからこうなる」という因果を主張するものではないし、精神疾患のある人が危険だという話でもない。これは、一つの家の中で起きた、きわめて特殊で説明のつきにくい経過の記録だ。そこは最初に線を引いておく。
兄ヘンリーが焼け跡で死んだ日、家に残ったのは二人だけだった
父ジョージは一九四〇年四月四日、心不全で死んだ。六十六歳だった。残されたのは母と、三十代半ばの息子二人。
エドと兄ヘンリーは近所の農家で日雇いの仕事をして生計を立てた。修理仕事、収穫の手伝い、雑用。町の人たちは二人を「まじめで信用できる働き手」だと評価していた。特にエドは子守りを頼まれることが多かった。彼は子どもの相手が得意で、本人も同世代の大人より子どものほうが気楽だと感じていたらしい。この時期のエドを知る人の記憶に残っているのは、無害で、少し無口で、笑うタイミングがずれている男、という程度のものだ。
兄ヘンリーは、エドとは違っていた。彼は母の世界観を丸ごと信じてはいなかった。近所に恋人と噂される相手がいたという話も残っている。そして、弟が母に異様なまでに執着していることを心配して、それを口に出したこともあったという。ヘンリーが母を批判すると、エドは黙り込んだと伝えられている。
一九四四年五月十六日――記録によっては五月六日とするものもある――兄弟は農場の湿地で下草を焼いていた。野焼きは春の農作業では珍しくない。ところが火が制御を離れ、消防が出動する事態になった。火が消し止められ、消防隊が引き上げた後になって、エドが「兄がいない」と言い出した。
捜索隊が編成され、ヘンリーはうつ伏せに倒れた状態で発見された。検死官が記載した死因は窒息だった。奇妙なのは、遺体が横たわっていた場所の周囲がほとんど焼けていなかったことだ。そして後年、伝記作家のハロルド・シェクターは、ヘンリーの頭部に打撲の痕があったと報告している。それでも解剖は行われず、正式な捜査も開かれなかった。田舎の検死官が事故死と判断すれば、それで終わりだった時代だ。
この件は、後に「兄殺し疑惑」として繰り返し取り上げられることになる。詳しくは後の章でもう一度扱う。
母が死んだあと、家の半分が封印された
ヘンリーの死の直後、オーガスタは脳卒中で倒れ、半身が不自由になった。エドは母につきっきりで介護した。一九四五年、隣人が犬に暴力を振るう場面を目撃したあとで、彼女は二度目の発作を起こしたと伝えられている。そして一九四五年十二月二十九日、オーガスタ・ゲインは六十七歳で死んだ。
このとき三十九歳のエドは、文字どおり世界に一人になった。父も兄も母もいない。友人はいない。恋人もいない。彼が持っていた社会との接点は、近所の農家の雑用と子守りだけだった。
彼が母の死後にやったことは、後から振り返るとぞっとするほど象徴的だ。
母が使っていた部屋――居間、二階の寝室、応接間――に板を打ちつけて封鎖した。そしてその中を、母が生きていた日のままの状態で保った。埃ひとつ許さずに、というわけではないにせよ、家具も調度も動かさずに残した。
一方で、自分が実際に暮らす場所は、台所脇の小さな部屋一つに縮小した。そこと台所と物置だけを使い、あとの家は放置された。電気は引かれず、屋内水道もなかった。一九一四年の入居以来ずっとそうだった、と後に報じられている。冬になれば薪ストーブが唯一の暖房だった。
農業はほとんどやめた。連邦政府の農地保全の補助金が入るようになり、それと日雇い仕事でどうにか食いつなぐ生活になった。時間だけは有り余っていた。彼はパルプ雑誌と冒険譚を読み漁った。特に好んだのは、人体や死をめぐる猟奇的な読み物、そして第二次大戦中の残虐行為の記事だったと記録されている。この十年ほどのあいだに、彼の内側で何が育っていったのかを、外から見た人間は誰もいない。
町の人たちにとってのエディ・ゲインは、相変わらず「ちょっと変な、でも人のいい独身男」だった。彼は町の食堂に来てコーヒーを飲み、子どもの面倒を見て、頼まれれば納屋の修理をした。誰も彼の家に入ろうとしなかった。彼が誰かを家に上げることもなかった。
一九五四年十二月八日、酒場の女将が消えた
プレインフィールドから北へ数マイル、パイングローブという場所に小さな酒場があった。経営していたのはメアリー・ホーガン。五十四歳とも五十一歳とも記録される女性で、離婚歴があり、一人で店を切り盛りしていた。口が悪く、笑い声が大きく、客あしらいがうまい人だったと言われている。豊かな体格で、中年で、はっきりものを言う。町の人が語る彼女の人物像はそんな感じだ。
一九五四年十二月八日、彼女は店から消えた。客が来たとき、店には誰もいなかった。床には血が残り、それが駐車場の方まで続いていた。そして二二口径の空薬莢が一つ落ちていた。
捜査は行われたが、手がかりは尽きた。当時のウィスコンシン北部では、人が消えることは――それ自体が珍しくはあったが――未解決のまま忘れられていくことがあった。冬が来て、雪が降り、翌年になり、話題は薄れた。町の一部では、彼女が借金か男女関係のもつれで自分から姿を消したのだという噂も流れた。
ただ、この事件については後年に有名な逸話が残っている。ゲインが町の食堂か作業現場で、冗談めかして「メアリーは俺の家にいるよ」といった意味のことを口にした、というものだ。誰も本気にしなかった。当たり前だ。無害な変わり者の下手な冗談として流された。この逸話には脚色が加わって伝わっている可能性が高く、言葉の正確な形は史料によってばらつく。ただ、周囲がまったく警戒しなかったという事実そのものは動かない。
そのままメアリー・ホーガンの失踪は三年近く宙に浮いた。
開いたままのレジと、一枚の伝票
一九五七年十一月十六日に戻る。
バーニス・ウォーデンは五十八歳。夫を早くに亡くし、プレインフィールドの目抜き通りで金物店を営んでいた。日用品と工具と農機具の部品を扱う、田舎町にはどこにでもある店だ。彼女は几帳面な人で、売り上げは一件ずつ手書きの伝票に残していた。息子のフランクは副保安官で、その日は鹿猟に出ていた。
昼前ごろ、店の前を通った村人が、店内が暗いことに気づいた。だが猟の初日だから、と誰も深く考えなかった。夕方五時、猟から戻ったフランクが店に立ち寄って、異常に気づく。レジは開いたまま。床に血。母の姿はない。店のトラックも見当たらない。
フランクは母がその朝に切った最後の伝票を確認した。そこに書かれていた品名は不凍液で、買った相手の名前はエドワード・ゲインだった。しかもフランクには思い当たることがあった。前の晩、ゲインが店に来て、翌朝また不凍液を買いに来ると言っていたのだ。
保安官事務所に連絡が飛ぶ。ウォーシャラ郡保安官アーサー・シュリー――地元では「アート」と呼ばれていた――と、隣接するポーテージ郡の応援が動いた。ゲインの家に人をやると、家は無人だった。彼はその夜、西プレインフィールドの食料品店にいるところを身柄確保された。抵抗はまったくなかったと記録されている。
ここからの流れを、もう少し細かく追う。捜索隊は日が落ちてから農場に入った。電気の通っていない家だ。当時の記録には、懐中電灯とランタンとカンテラの明かりだけで屋内を進んだと残っている。冬の入り口のウィスコンシンで、夜の気温は氷点下に近い。家の中はごみと空き缶と紙の山で足の踏み場がなく、悪臭がひどかった。
最初に納屋のような小屋の扉が開けられた。そこで見つかったものについて、シュリー保安官は後にただ一言だけ公にコメントしている。「あまりにひどい。信じられないほどひどい」。バーニス・ウォーデンは、すでに亡くなっていた。二二口径のライフルで撃たれており、遺体に加えられた損壊は死後のものだと後の検死で判定されている。
ここは、書き方を選ばないといけないところだ。当時の新聞の一部は、この納屋で見つかった状態を細かく描写した。だがそれをここで繰り返す意味はないと思う。バーニス・ウォーデンは、四十年近く町の人に釘とロープと工具を売り続けた一人の商店主で、息子と孫がいる女性だった。彼女は物語の小道具ではない。だからこの記事では、当時の捜査記録と検死が確定させた事実の輪郭だけを書く。彼女は撃たれて殺され、遺体は死後に損壊された。その事実がすべてだ。
捜査官が「記録した」ものについて
家の中の捜索は十六日の夜から十七日にかけて続き、州の犯罪科学研究所――当時のウィスコンシン州クライムラボ――が入った。所長のチャールズ・ウィルソン、そして捜査官のアラン・ウィリモフスキーが現場に立った。ウィリモフスキーはのちに三十三年のキャリアを振り返って、こう語っている。「かなりの衝撃だった。あれほど異様な捜査は、前にも後にも経験していない」
捜査官たちが屋内でしたことは、要するに「目録を作ること」だった。彼らは部屋を区切り、写真を撮り、押収品に番号を振り、リストにした。この作業がこの事件のすべての土台になっている。以後に書かれた信頼できる記述は、ほぼ例外なくこのリストに立ち返る形で成り立っている。
そのリストに何が並んでいたかについて、この記事では列挙しない。列挙して並べれば、それは見世物になる。ここで押さえるべきなのは、次のことだ。捜査官たちは、人間の遺体の一部から作られた物品を、家の複数の部屋にわたって多数発見し、それを一点ずつ記録した。台所にも、寝室にも、居間にもあった。日用品の形をしたものもあった。人の顔から作られた覆いもあった。そして、メアリー・ホーガンの身元につながる遺体の一部が、三年ぶりにその家から出てきた。三年間、彼女はずっとそこにいた。
もう一つ重要な事実がある。押収品の中には、成人女性のものではないと見られる遺体の一部も含まれていた。これがどこから来たのかは、最後まで完全には解明されていない。
クライムラボ所長のウィルソンは、捜査が済んだあと、人の顔から作られた物品を報道機関に見せることを拒み、埋めるよう指示した。当時としては異例に強い判断だ。この事件が最初期から「どう扱うべきか」を大人たちに突きつけていたことがよくわかる。
「墓を暴いた」という供述をどう受け止めるか
取り調べが進むと、ゲインは奇妙なことを言い始めた。一九四七年から一九五二年ごろにかけて、近隣の三つの墓地に夜間に何度も足を運んだ、というのだ。回数は四十回近くにのぼると彼は言った。ただし、そのうちおよそ三十回は、現場で我に返って何もせずに帰ったとも述べている。彼はその状態を「ぼんやりした感じ」だったと表現した。
彼が対象に選んだのは、最近亡くなったばかりの中年女性だった。理由を問われた彼は、母に似ていたからだと答えている。
彼が具体的に何をどうしたのかについては、この記事では書かない。方法や手順を書くことに意味はないし、書くべきでもない。押さえておきたいのは別のところだ。つまり、この供述が本当かどうかを、捜査当局が実際に検証したという事実である。
彼は自分が関与したと言う九つの墓を捜査官に示した。当局はそのうち三か所を選んで確認した。一つは空だった。一つには骨と、ゲインが使ったとされる道具が残っていた。一つは大部分が失われており、ただし装身具など一部は戻されていた。つまり、彼の供述は少なくとも部分的に裏が取れた。この確認作業が、事件を「異様な男の妄想」から「現実に起きたこと」へと決定的に変えた。
同時に、確認が三か所で止まったことも押さえておきたい。当時の当局は、遺族に与える衝撃と、これ以上掘り返すことの意味を天秤にかけたと伝えられている。この判断は、いま振り返っても妥当だったと思う。墓地に眠っていた人たちは事件の被害者であって、証拠品ではないからだ。
なお、後年よく言われる「彼は遺体に性的な行為をしていた」「食べていた」といった話については、証拠がない。彼自身は前者を明確に否定している。後者についても、掘り出された遺体の多くは防腐処理を受けており、現実的に考えにくいと専門家は指摘してきた。ここは事実として押さえておくべきところだ。
最初の自白が、法廷から消えた理由
身柄確保の直後、ゲインはほとんど何も話さなかった。取り調べは長時間に及んだ。そして、ここで捜査側に大きな問題が起きる。
アート・シュリー保安官が、取り調べ中にゲインの頭と顔を壁に打ちつけたのだ。この暴行の結果、ゲインが最初に行った自白は、後に証拠として使えないと判断された。捜査の指揮を執った人物が、自らの手で証拠の一部を潰したことになる。
シュリーを弁護するつもりはないが、彼が置かれていた状況は考えてみる価値がある。人口六百人の村の保安官が、自分が二十年以上顔を合わせてきた男の家で、想像を絶するものを見た。彼は町のほとんど全員と知り合いだった。被害者も知っていたし、その息子は部下だった。そういう男が、無感情ではいられなかった。
シュリーはその後、この事件の話をほとんどしなくなった。そして一九六八年、四十三歳のときに心不全で死んだ。裁判が開かれる前だった。彼は法廷で自分の暴行について証言することを恐れていたと、周囲の人間は語っている。この事件は、加害者と被害者だけでなく、捜査した側の人生も曲げた。
一方、ゲイン自身の受け答えは、取り調べ官たちを困惑させた。彼は基本的に穏やかで、丁寧で、協力的だった。だが、肝心のところになると記憶が抜け落ちていると答える。バーニス・ウォーデンを撃った瞬間について、彼は最後まで一貫した説明をしなかった。
十一年間、法廷は開かれなかった
一九五七年十一月二十一日、ゲインは第一級殺人で罪状認否に付され、心神喪失を理由とする無罪を主張した。同年十二月に六人の医師が彼を診察し、統合失調症と診断した。鑑定書には、死んだ母の声が聞こえるという体験、複数の妄想、そして自分の行為の善悪を判断する能力が損なわれているという判定が記載された。一九五八年一月、彼は訴訟能力なし――つまり裁判を受けられる状態にないと判断された。
彼が送られたのは、ウォーパンにあった州立中央精神病院、正式には犯罪精神障害者のための中央州立病院だ。のちにマディソンのメンドータ精神保健施設に移る。
ここで十一年が経つ。
その間の彼が、どういう入院患者だったか。記録は驚くほど一致している。穏やかで、協力的で、規則を破らず、鎮静剤を必要としない。他の患者ともうまくやっていた。伝記作家のシェクターは、この時期の彼を「安らかで、落ち着いていて、押さえつける必要がまったくなかった」と要約している。彼は敷地の手入れの仕事を割り当てられ、一九七六年ごろまでそれを続けた。ラジオを聴き、旅行記を読むのが好きだったという。世界のどこにも行かなかった男が、旅行の本を読んでいた。
スタッフが唯一気にしたのは、彼が女性の看護師や職員をじっと見ることがあった点だ。それが何を意味するのか――空想なのか、強迫的な思考なのか、別の何かなのか――は、臨床上も最後まではっきりしなかったと記録されている。
臨床心理の専門家の中には、彼が施設という環境で安定したことについて、規則に完全に管理される生活が、彼にとって最も馴染みのある環境の再現だったからではないか、という見方を示す人がいる。母が支配していた家と、病院の規則。形は違っても、自分で選ばなくていいという構造は同じだ。あくまで一つの仮説だが、示唆的ではある。
一九六八年十一月、判事一人の法廷で
一九六八年、医師団は、ゲインが弁護人と意思疎通し自らの防御に参加できる状態になったと判断した。ようやく裁判が開かれる。
公判は一九六八年十一月七日から十四日まで。担当はウォーシャラ郡巡回裁判所のロバート・H・ゴルマー判事。被告側の請求により、陪審は置かず、判事だけで審理する形式が取られた。田舎町で陪審を選ぶことが事実上不可能だったという事情もあっただろう。
審理は、バーニス・ウォーデン殺害の一件のみを対象とした。ゴルマー判事は後に、費用の問題からゲインは一件でしか訴追されなかったと書き残している。メアリー・ホーガン殺害についても彼は認めていたが、そちらは起訴されなかった。二人の女性が亡くなり、裁かれたのは一件だけ。これは遺族にとって、決して小さな話ではない。
法廷で精神科医が証言したところによれば、ゲインは、店で銃を手に取って見ていたら暴発したのだと語っていたという。だが彼自身は、それが故意だったのか事故だったのか自分でもわからない、その朝の他のことは何も覚えていない、とも述べていた。
十一月十四日、ゴルマー判事は有罪の認定を下した。そして続く第二段階――責任能力を判断する審理――で、心神喪失により無罪という結論を出した。彼は再び中央州立病院に収容される。事実上、判決の前と後で、彼のいる場所は変わらなかった。
一九七四年には、退院を求める申し立てが行われている。裁判所はこれを認めなかった。
一九八四年七月、そして盗まれた墓石
エド・ゲインは一九八四年七月二十六日、メンドータ精神保健施設で死んだ。七十七歳。死因は呼吸不全で、原因は肺がんだった。事件から二十七年が経っていた。彼は逮捕された日から死ぬ日まで、一度も社会に戻らなかった。
遺体はプレインフィールド墓地に埋葬された。父ジョージ、母オーガスタ、兄ヘンリーの隣だ。あの家族は、結局全員が同じ場所に戻った。
そして墓は、その後ずっと平穏を与えられなかった。訪問者が墓石の破片を削り取って持ち帰るということが何十年も続き、石はどんどん小さくなった。二〇〇〇年、ついに墓石そのものが盗まれた。翌二〇〇一年六月、それはワシントン州シアトルの近くで発見される。回収された墓石は現地に戻されず、以後、彼の埋葬地には目印が置かれていない。
墓地には、ほかにも重要な人たちが眠っている。バーニス・ウォーデンと、彼女を見つけた息子フランク。そして、彼が掘り返したとされる人たちの中の一人、エレノア・アダムスは、ゲインの区画のすぐ前に眠っている。この墓地は、事件のすべての側面が物理的に隣り合っている場所だ。だからこそ、そこで騒ぐ人間がいるのが、地元の人には耐えがたい。
競売の十日前、家は燃え落ちた
一九五八年三月、ゲインの農場と家財を競売にかけることが決まった。日程は三月三十日。家財も、農機具も、フォードのセダンもシボレーのピックアップも、そして農場そのものも売りに出される。入場料は五十セントと告知された。
町の人たちが恐れたのは、これを買った誰かが家を「見世物小屋」にすることだった。実際にそういう思惑を持った人間がいるという噂は流れていた。
競売の十日前、一九五八年三月二十日の午前二時半ごろ、家は燃えた。近くの村にいた警官が空の明るさに気づいたときには、もう手遅れだった。プレインフィールドの義勇消防団が着いたとき、火は制御不能だった。家は基礎まで焼け落ち、灰の中に残ったのはストーブと桶と缶がいくつかだけだったと報じられている。
州の消防長官は、火は放たれたものと考えざるをえない、という趣旨の発言をした。ただし正式な原因は最後まで特定されていない。競売の準備で下草焼きが行われていたので、それが燃え移った可能性も指摘された。雪がなかったので足跡も追えなかった。地元では、消防団がわざと出動を遅らせて家が完全に燃えるのを待った、という言い方が長く語り継がれてきた。証明はされていない。
火事のことを知らされたゲインの反応は、たった一言だったと記録されている。「それでいい」
家財と農地はその後売却された。フォードのセダンは七百六十ドルで、見世物興行師のバニー・ギボンズという人物が落札した。彼はそれを「エド・ゲインのグール・カー」と銘打って中西部の縁日で巡回展示し、入場料を取った。町が家の焼失で防ごうとしたことが、車一台で実現してしまったわけだ。この車はその後行方がわからなくなり、いまも所在は不明とされている。
跡地はどうなったか。いまも私有の農地で、建物はない。木が伸び、下草が茂って、道から見てもただの林と原っぱに見える。それでも、いまだにそこを目指して車で来る人がいる。
町に残った人たちが、七十年かけて言ってきたこと
事件の直後、プレインフィールドには全国紙も、ヨーロッパの特派員も、写真週刊誌もやってきた。事件が発覚した翌週の日曜、この村を四千台の車が通過したという記録がある。人口六百人の村にだ。
最初、住民は取材に協力した。だがすぐに、自分たちが素材として消費されていることに気づく。ここから七十年近く、この町の人たちは同じことを言い続けてきた。以下は、記者や研究者が拾ってきた声のうち、特に印象に残るものだ。
一人目は、村の金物店で働いていたデビー・ケイブという女性だ。彼女が語ったのは、単純だがきつい話だった。ゲインが墓から掘り出した人たちの中に、彼女の母親の姉がいた。つまり彼女にとって、この事件は歴史ではなく家族史だ。墓参りに行くことがいまも簡単ではない、と彼女は言う。
そして彼女がいちばん耐えられないのは、観光客がやってくることでも、店で質問されることでもなく――夏になると本当に毎年それが起きるのだが――若い連中が彼を英雄扱いすることだった。「あの人を憧れの対象にする子たちがいるのが、いちばん嫌だ」。彼女はまた、墓地で夜通し騒いで酒を飲んでいく訪問者がいることも語っている。眠っているのは、その子たちにとっては物語の登場人物かもしれないが、彼女にとっては伯母だ。
二人目は、地元の農家ラリー・フライトという男性と、その母ベリルの話だ。ラリーは事件当時まだ子どもで、大人たちの様子から何かとんでもないことが起きたと知った世代にあたる。彼が語ったのは、母親のことだった。
ベリルは高齢になるまで、旅先で出身地を聞かれても「プレインフィールド」とは言わなくなったという。代わりに、隣のハンコックの名前を出した。プレインフィールドと答えると、必ず同じ質問が返ってくるからだ。あの町ですか、あの、と。数十年間ずっとだ。人が自分の生まれた町の名前を口にできなくなる、というのがどういうことか、少し想像してみてほしい。
三人目は、州の犯罪科学研究所にいたアラン・ウィリモフスキーだ。彼はあの夜、明かりの乏しい家の中で押収品に番号を振った人間の一人で、その後三十三年間この仕事を続けた。彼が残した言葉は短い。かなりの衝撃だった、あれほど異様な捜査は前にも後にも経験していない。
彼は現場で起きたことを煽情的に語ることを最後までしなかった。同じ研究所の所長チャールズ・ウィルソンが、報道機関への展示を拒んで押収品の一部を埋めるよう指示したことと合わせて考えると、この事件を最初に見た専門家たちの態度は、その後に事件を消費した側よりずっと節度があったと言える。
四人目は、被害者遺族だ。バーニス・ウォーデンの孫娘にあたるサンドラ・ウォーデン・ウィーゼは、事件現場を見に来る人たちについて、これ以上ないほど直接的な言葉を残している。彼女にとって彼らは、吐き気のする、軽蔑すべき連中だ。この記事を書いている自分も、その言葉の射程の中にいることは自覚しておきたいと思う。彼女の祖母は、店を開けて、伝票を書いて、その日を普通に始めた人だった。それだけだ。
五人目として、当時取材した記者の視点も挙げておく。ミルウォーキー・ジャーナル紙のロバート・ウェルズは、事件のあとに町で起きた奇妙な現象を書き残している。それまで「無害」あるいは「ちょっと面白い」で済まされていたゲインの言動が、逮捕の後になって、住民の記憶の中で一斉に不吉なものへと書き換わっていったというのだ。あの冗談は本当だったのかもしれない、あの視線には意味があったのかもしれない、と。
人間の記憶というのは結末を知った瞬間に作り直される。この観察は、この事件について語られてきた無数のエピソードをどう扱うべきかを考えるうえで、いまでもいちばん重要な補助線だと思う。
そして、裁判を担当したゴルマー判事自身も、この地域に走った空気を「途方もない不安と恐怖とパニックの噴出」と表現している。判事席から見ても、それは異常な状態だった。
兄の死をめぐる、消えない疑問
ここで、一九四四年に戻る。
ヘンリー・ゲインの死をめぐる「異説」は、この事件の周辺でいちばん長く生き延びている論点だ。中身はシンプルで、要するに、あれは事故ではなくエドが兄を殺したのではないか、というものだ。
疑わしいと言われる理由はいくつかある。まず、火が出た現場からいったん引き上げたあとで、エドが兄の不在を訴えた点。次に、捜索隊が兄を発見した場所は、彼が「わからない」と言ったにしては迷いなく案内されたという話が残っている点。さらに遺体の周囲が焼けていなかった点。そして、シェクターが報告した頭部の打撲痕。解剖が行われず、正式な捜査もなかったこと。動機の面では、ヘンリーが弟の母への執着を批判していたという証言がある。
後年、この事件を調べた研究者ジョージ・アーントは、ヘンリーの死がこの事件における「カインとアベルの側面」であった可能性は「ありうるし、その可能性は高い」と述べている。
一方で、反論も明確だ。エドは兄殺しを一度も認めていない。取り調べでも、鑑定でも、二十七年の入院生活の中でも、だ。彼はメアリー・ホーガンについては認めているのだから、兄についてだけ隠し通す動機は薄い。頭部の打撲は、火事の中で倒れたり物が落ちてきたりすれば普通に起きる。焼けていない場所で発見されたことも、煙を吸って移動した先で倒れたと考えれば説明はつく。何より、七十年以上前の田舎の火災現場に、いま検証できる物証は一つも残っていない。
つまり、この論点は永久に決着しない。二〇二五年のネットフリックスのドラマ「モンスター エド・ゲインの物語」は、これをはっきり殺害として描いた。それが多くの人にとっての「事実」になりつつあることが、この件のいちばん厄介なところだ。ドラマの制作陣は劇作としての選択をしただけだが、視聴者の記憶には脚色の印がつかない。
掲示板とSNSが作り直した「エド・ゲイン」
インターネット以降、この事件をめぐる語りは何度か大きく形を変えている。
九〇年代から二〇〇〇年代のオカルト系掲示板やホラーファンのコミュニティでは、ゲインはほとんど記号だった。「三大ホラーの元ネタになった男」というワンフレーズで紹介され、家の中で見つかったものの一覧が、面白おかしくコピーされて拡散した。この時期の語りには、彼が実在の人を殺した殺人事件であるという感覚がほとんどない。同じ扱いを受けたのは彼だけではないが、彼はその典型だった。
二〇一〇年代に入って、真犯罪ポッドキャストとまとめ記事の時代が来ると、少し流れが変わる。個人の研究者やアマチュア調査者が一次資料に当たり始めた。取り調べ調書、精神鑑定書、地元紙の記事、そしてシェクターとゴルマー判事という二つの評伝。ここから、事実と伝説を仕分ける作業が本格化した。
その結果、いまネット上でいちばん強く共有されている「訂正」は、次のようなものだ。
一つ、彼は一般に言われるような大量殺人者ではない。殺人として確定しているのは二件で、しかも訴追は一件だけだ。二つ、彼が家に持ち込んだものの多くは殺人によるものではなく、墓地から来たものだった。この区別は、事件の性質をまるごと変える。三つ、屍姦や食人といった話には根拠がない。四つ、少女の失踪事件など、彼に結びつけられてきた複数の未解決事件について、彼は当時のポリグラフ検査を通過しており、遺体も痕跡も出ていない。当時の当局が抱えた未解決事件を、便利な容疑者一人にまとめて押しつけようとする力学が働いていたことは、記録から読み取れる。
一方で、ネット上で新しく生まれた俗説もある。代表的なのは、彼が母親自身の墓を掘り返そうとした、というものだ。これは印象としては筋が通っているように見えるので広まりやすい。だが、当時の捜査記録にそれを裏づけるものはなく、彼が対象にしたのは「母に似た他人」だったというのが記録に残る供述だ。物語としての完成度と、記録の整合性は別物だという典型例だと思う。
もう一つ根強いのは、彼が服役中に他の著名な殺人犯と交流していた、あるいは捜査機関のプロファイリングに協力した、という筋書きだ。これは完全な創作だ。FBIの行動科学部門でプロファイリングを確立したジョン・ダグラスは、ゲインについては症状が重すぎて意味のある面接が成立しなかったと述べている。
二〇二五年秋のドラマ配信以降、SNSでの反応は真っ二つに割れた。一方には、これほどの事件を描く以上は加害者の内面に踏み込むべきだという意見がある。もう一方には、実在の被害者と遺族がいて、その遺族はいまも同じ町に住んでいるのに、事実でないことを事実の形で流すのはどうなのか、という批判がある。批判の側が持ち出したのは、七十年前の新聞が町にしたことと、いまの配信プラットフォームがしていることの、構造的な同一性だった。四千台の車がやってきた日曜日と、動画の再生数は、根っこのところで同じものかもしれない。
三つの怪物は、こうして生まれた
ここからが、多くの人がこの事件を知っている理由の話だ。
最初に来たのはロバート・ブロックだ。彼は当時ウィスコンシン州に住んでいた作家で、プレインフィールドから四十マイルほどの距離にいた。彼が興味を持ったのは、遺体そのものではない。近所の人たちが何年も何も気づかなかった、という一点だった。ごく普通の田舎町の、ごく普通に見える男の家の中で、これほどのことが誰にも知られずに進行していた。ブロックはその構図を小説にした。それが一九五九年の「サイコ」だ。
ここが大事なのだが、ブロックはゲインの人生をなぞってはいない。彼が抽出したのは三つだけだ。孤立した中年の男。死んだ母への異常な結びつきと、母がまだ生きているかのような状態の維持。そして、周囲がまったく気づかないという不気味さ。ノーマン・ベイツは中肉中背の内気なモーテル経営者で、実在の男とは容姿も職業も違う。作品の中でこの事件そのものへの言及もある。翌一九六〇年、アルフレッド・ヒッチコックがこれを映画化して、映画史が変わった。母の亡骸を保ち、母の人格で喋る息子という造形は、ここから世界中に広がっていく。
二つめは一九七四年の「悪魔のいけにえ」だ。この作品とゲインの関係は、実はいちばん誤解されている。
監督のトビー・フーパーは、レザーフェイスの直接の着想源として別の二つの話を挙げている。一つは、混雑した店の中で電動のこぎりを見たときに「これを動かせば人が道を空けるだろう」と考えた自分の妄想。もう一つは、家庭医から聞いた話で、医学生時代にその医師の知人が人の顔の皮膚を加工して仮面にし、ハロウィンのパーティーに着けていったというものだ。
ではゲインはどこにいるのか。フーパーは、ウィスコンシンの親戚たちが「隣町に墓を掘り返して家に骨や皮膚を持ち帰る男がいた」と話していたのを、子どものころに聞いていた。それが十代になって医師の話を聞いたときに蘇った、と彼は語っている。つまりゲインは、直接の設計図ではなく、彼の頭の中に子どものころから住んでいた名前のない怪物のほうだった。
加えてこの映画には、七〇年代アメリカの空気――ベトナム、街の暴力、報道の変質、ウォーターゲート、そして食肉産業の機械化で職を失った田舎――が濃厚に流し込まれている。レザーフェイスは、ゲインの再現ではなく、ゲイン的なものを核にした時代の産物だ。
三つめはトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」、一九八八年の小説と一九九一年の映画だ。ここでのバッファロー・ビルは、複数の実在の犯罪者を合成したキャラクターとして構築されている。ハリス自身も研究者たちも、少なくとも三人か四人の要素が入っていると指摘する。犠牲者を運ぶ手口、腕にギプスをして手助けを求める偽装、井戸の底の監禁。それぞれ別の事件から来ている。
そのうちゲインから来ているのは、ただ一点だ。人の皮膚から「別の自分」を作ろうとする、という中心的な発想。ハリスはそれを、自己同一性の危機という枠組みに再構成した。
ただ、ここには重大な問題がある。作品はビルを「自分をトランスジェンダーだと思い込んでいるが実際は違う」と説明しており、精神科医の台詞でそれを補強しているのだが、映画の描写そのものは長年、現実のトランスジェンダーの人々への偏見を強化してきた。これは作品の側の失敗だ。ゲインの記録に残る言動は、彼自身の極度に混乱した世界の中の出来事であって、他の誰かの人生を説明する材料にはならない。二〇二五年のドラマの制作陣がこの点にわざわざ言及したのも、この歴史があるからだ。
三作を並べると、変換の順番がよく見える。ブロックは「母」を取った。フーパーは「家」と「顔」を取った。ハリスは「作り変えたい」という欲望を取った。誰もエド・ゲインという人間そのものを描いていない。三人とも、彼という素材から一つずつ違うものを引き抜いて、まったく別の物語に埋め込んだ。
その結果、彼の名前は事件としてよりも、三つの部品の供給元として世界に流通することになった。これは、そもそも彼の家で起きたことがどれほど言語化しにくかったか、の裏返しでもある。あの家は、正面から書くことができないので、部品に分解するしかなかった。
それでも、この話が七十年たっても消えない理由
なぜこの事件だけが、こんなに長く残ったのか。被害者の数で言えば、これよりはるかに多くの人が犠牲になった事件はいくつもある。それでも、この事件だけが特別な位置を占めている。理由はいくつかあると思う。
一つは、場所だ。この事件は大都市の暗がりではなく、教会と金物店しかない人口六百人の村で起きた。アメリカの田舎町は、長いあいだ「安全で健全なもの」の象徴だった。その象徴の内側から、まったく説明のつかないものが出てきた。だからこの事件は、犯罪の話であると同時に、田舎という神話が壊れた話でもある。「あの人はいい人だった、子守りもしてくれた」という証言の束が、この事件をこれほど不気味にしている。
二つめは、家という装置だ。母の部屋が板で封じられ、その中だけが十二年前のまま保たれていた。一方で、彼が暮らす側の部屋は荒れ果てていた。同じ屋根の下で、時間が止まった空間と、時間が腐っていく空間が同居していた。これは物語として異様に強い。事実、その後のホラーは何十年も、この「開けてはいけない部屋のある家」という構造を使い続けている。
三つめは、記録の性質だ。この事件には、押収品目録、鑑定書、供述調書、法廷記録という、乾いた公文書の層がある。にもかかわらず、その乾いた記録が示している内容が、どんな創作より現実離れしている。だから語り手は、盛る必要がなかった。同時に、盛らなくても十分すぎるからこそ、みんな盛った。この矛盾が七十年間、話を膨らませ続けてきた。
四つめ、そしてこれがいちばん重いのだが、この事件は「わからない」を残したまま終わっている。彼は最後まで、なぜそうしたのかを説明しなかった。説明できなかった、と言うべきかもしれない。バーニス・ウォーデンを撃った瞬間について、彼は事故だったとも故意だったとも言い切らず、覚えていないと言い続けた。裁判は一件しか扱わなかった。兄の死は永久に灰色のままだ。人は、終わった話より、閉じなかった話を語り続ける。
そしてここで、もう一度書いておかなければならないことがある。この記事に出てきた三体の怪物には、原型になった一人の男がいる。だが、その男の物語が始まる場所には、二人の女性がいた。バーニス・ウォーデンは、店を開けて伝票を書いた朝に殺された。メアリー・ホーガンは、自分の店で客を待っていて殺された。二人とも自分の仕事を持ち、自分の生活を持っていた。さらに、墓地から名前を奪われた人たちがいて、その孫や姪がいまも同じ町で暮らしている。彼女たちは、映画の元ネタでも、記事の見出しでもない。この話をどれだけ面白く語ったとしても、その事実だけは動かない。
「連続殺人犯の代表」という分類が、そもそも歪んでいる
ここまで書いてきて、最後にどうしても整理しておきたいことがいくつかある。
まず、この事件の「分類」の問題だ。エド・ゲインは、一般には連続殺人犯として紹介される。だが記録に即して言えば、それは正確ではない。彼が殺害を認めたのは二人で、訴追されたのは一人。米国の犯罪学における連続殺人の定義に当てはめても、境界線上にいる。
にもかかわらず彼が「連続殺人犯の代表」として扱われてきたのは、殺人の件数ではなく、家の中で発見されたものの異様さのせいだ。つまり我々は、行為の重さではなく、視覚的な衝撃の強さでこの事件をランク付けしてきた。この歪みは、そのまま真犯罪というジャンル全体の歪みでもある。読まれる事件と、被害の大きな事件は、一致しない。ゲインは、その不一致がいちばんはっきり現れた事例だ。
次に、「なぜ十二年も気づかれなかったのか」という問題。
この事件はしばしば、田舎町の共同体が機能していなかった証拠として語られる。だが実際は逆だったのではないかと思う。プレインフィールドの人たちは、彼を排除しなかった。仕事を頼み、食堂で隣に座らせ、子どもの世話まで任せた。共同体は彼を包摂していた。
その包摂が、結果として観察を止めた。「エディはちょっと変だけど、いい奴だ」という共有された評価が、確認をしなくていい理由になった。彼の家に誰も入らなかったのは、無関心だからではなく、独身男の散らかった家に踏み込むのは失礼だという、田舎の礼儀があったからだ。優しさと無防備さが同じ根から生えていた。ここに、この事件のいちばん苦い教訓がある。
診断名の話を、一般化に使ってはいけない
三つめは、精神医学の扱いについてだ。
一九五七年に六人の医師が下した統合失調症という診断は、当時の基準によるものだ。現代の診断体系で同じ結論になるかどうかは、直接の診察ができない以上、誰にも断定できない。後年の研究者の中には、より複合的な理解を提案する人もいる。
ここで大事なのは、どの診断名が正しいかではなく、この事件が「精神疾患のある人は危険だ」という物語に流用されてはならないということだ。統計的には、精神疾患のある人が暴力の加害者になる割合は一般人口と大きく変わらず、むしろ被害者になる確率のほうが高い。ゲインの事例が例外的に有名だからといって、それを一般化するのは論理として端的に誤りだ。この記事で彼の入院生活を穏やかなものとして書いたのも、それが記録上の事実だからであって、彼を美化するためでも、逆に治療が無意味だと言うためでもない。
四つめに、あの家が焼けたことの意味を考えたい。
町の人たちは、家が見世物になることを本気で恐れていた。そして家は都合よく燃え、原因は特定されなかった。だが結局、防げなかった。車は縁日を巡回し、その七十年後には配信ドラマが世界中で再生された。物理的な建物を消しても、物語は消えない。むしろ、建物が消えたことで、あの家は誰の想像の中にでも建てられるようになった。焼失は、伝説化の障害ではなく燃料だった。これは、事件現場を取り壊すという対応の限界を示す、かなり示唆的な事例だと思う。
五つめ。この記事の冒頭で、鹿猟の解禁日という設定に触れた。あれは単なる季節の描写ではない。
あの日、町の男たちが全員森にいたから、店に人がいなかったことが不自然に見えなかった。あの日、誰もが猟の話をしていたから、納屋で見つかったものの形が、ある種の見立てとして人々の記憶に焼き付いた。そして、あの日は町の一年でいちばん平和で、いちばん楽しい日だった。
事件は、共同体がいちばん無防備に緩んでいる日を選んで起きた――選んで、ではなく、たまたまそうだったのだろうが、結果としてそうなった。田舎町の祝日と、その裏側で起きていたこと。この対比が、この事件を七十年間語らせてきた本当のエンジンかもしれない。
中心にいるのは、彼ではない
最後に、この記事を書いた立場について書いておく。
オカルトや事件を扱う書き手は、必ず遺族の傷の上を歩いている。バーニス・ウォーデンの孫娘が、現場を見に来る人間を軽蔑すると語ったとき、その軽蔑は書き手にも向いている。それを承知のうえで、なお書くのなら、最低限の条件があると思う。
一つ、被害者を素材として並べないこと。二つ、記録にないことを記録があるかのように書かないこと。三つ、加害者を怪物として面白がることで、実在の人が殺された事実を後景に押しやらないこと。四つ、精神疾患や特定の属性への偏見に接続しないこと。
エド・ゲインは、一九八四年に病院で死んだ。墓石は盗まれ、いまも目印はない。彼の家は焼け、跡地は林になった。彼から取り出された三つの部品は、いまも世界中の映画館とテレビの中で動き続けている。
それでも、この話の中心にいるのは彼ではない。中心にいるのは、あの朝に店を開けた人と、酒場のカウンターにいた人と、名前を奪われて墓に戻された人たちだ。三体の怪物が生まれた家の話をするなら、そこだけは最後まで手放してはいけないと思っている。
