ボストンのフェンウェイ地区に、ヴェネツィアの宮殿をそのまま持ってきたような建物がある。中庭には一年中花が咲いていて、上の階の壁には世界的な名画が掛かっている。そのうち何枚かは、中身のない額縁だけが掛かっている。三十六年前の夜に、誰かが切り取って持っていったからだ。
ボストンの真夜中、偽の警官が呼び鈴を鳴らした
一九九〇年三月十八日の未明。二人組の男がボストン市警の制服らしきものを着て、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館のパレス・ロード側の通用口に現れた。彼らは八十一分で十三点の美術品を持ち去った。うち一点はフェルメール。二点はレンブラントの油彩。被害額は現在の見積もりで五億ドル超。美術品窃盗としては史上最大で、しかも一点も戻ってこない。
よくある「美術品盗難」とはスケールが違うんだよな。これは一枚の絵を奇跡的な手口で抜いた話じゃない。二人の男が、夜中の美術館を一時間以上完全に支配して、好きなものを選んで帰った話だ。
セント・パトリックス・デーの夜という完璧なカモフラージュ
日付の選び方が上手い。三月十七日はセント・パトリックス・デー。アイルランド系住民の多いボストンでは一年でもっとも町が騒ぐ日だ。パレードがあり、バーは深夜まで満員。道を酒の入った人間がふらふら歩いていて、警察はその対応に追われている。
つまり、街に警官がいても、誰も不思議に思わない。連中が警官の制服を選んだのは、そういうことなんだろう。午前零時三十分ごろ、美術館の近くに警察車らしき車両に乗った男二人がいたと、その周辺を歩いていた人間が後に証言している。
さらに不気味なのは、この一日前の監視映像だ。後年FBIが公開した映像には、当直の警備員が許可のない人物を夜間に建物へ入れている様子が映っていた。下見ではないか、という見方が今も根強くある。
午前一時二十四分――「通報を受けて来た」
午前一時二十四分。パレス・ロード側の通用口のブザーが鳴った。セキュリティ・デスクのモニターに、警官の制服を着た男が二人映っている。
当直だったのはリック・アバス、二十三歳。ミュージシャンをやりながら夜番をしていた若者だ。彼はインターホンで応答した。相手は「騒ぎの通報を受けて来たボストン市警だ」と名乗った。
アバスはあとで、こう振り返っている。酒に酔った連中を追い払っているだけだろうと思った、と。彼はボタンを押した。
この一回のクリックが、五億ドルの境目になった。マニュアルでは、警察であれ何であれ外部の人間を入れてはいけないことになっていた。彼は規則を破った。
午前一時二十五分、「どこかで会ったことがあるな」
入ってきた二人は、まっすぐセキュリティデスクに向かった。白人で、一人は五フィート九インチから十インチ程度、中肉で三十代後半。もう一人は六フィート前後でがっしりしていて三十代前半。二人とも、あとから思えば作り物と思われる口髭をつけていた。
彼らはまず「ほかに誰かいるか」と聞いた。アバスがもう一人いると答えると、無線で呼べと命じた。
そして背の高いほうの男が、アバスの顔をじっと見て言った。どこかで会ったことがあるな、お前には逮捕状が出てるはずだ、と。デスクから離れて壁に向かえと指示され、アバスは従った。
ここが重要なんだ。セキュリティデスクには、この建物で唯一、警察に直通する非常ボタンがあった。男たちはアバスをそこから引き離してから、初めて手錠を取り出した。手順を知っている人間の動きだった。
「諸君、これは強盗だ」
無線で呼ばれて降りてきたのはランディ・ヘスタンド、二十五歳。この夜番のシフトは彼にとって初めてだった。
彼もすぐに拘束された。ヘスタンドは何度も「なぜ逮捕されるんだ」と聞いた。すると男の一人が、まるで舞台の台詞を言うようにこう答えた。「諸君、これは強盗だ」。
この一言は、この事件を語るとき必ず引用される。何とも居直った言い回しで、この二人組のどこか芝居がかった性格をよく表している。
午前一時三十五分、地下室でダクトテープに巻かれた二人
二人の警備員は地下室に連れていかれた。互いに声が届かないくらい離して、配管に手錠でつながれた。そして顔と頭にダクトテープを巻かれた。
アバスは後年、あのときの恐怖は「殺される」ではなかったと語っている。彼の頭にあったのは、この建物に火をつけられたらどうしよう、ということだったという。テープで目も口も塞がれ、動けない。その状態で上の階から物音がする。
ヘスタンドのいちばん強い記憶は、死を覚悟しなければと思った瞬間だったという。二十五歳で、初めての夜勤で、地下室の配管につながれている。何が起きているのかすらわからない。
二人はこのまま、朝の八時十五分に交代要員が来るまで、七時間近く放置されることになる。
午前一時四十八分、オランダ室のセンサーが反応した
皮肉なことに、この事件の分刻みの記録を残したのは、犯人自身の足音を拾ったモーションセンサーだった。センサーは各室の人の動きをプリントアウトに記録し続けていた。
午前一時四十八分、二階のオランダ室、ダッチ・ルームに人影が入った。ここがこの美術館の心臓部だ。レンブラントが三点、フェルメールが一点、フリンクが一点、そして中国の青銅器がひとつ。
以後、センサーは二人の男が室内を行き来するのを拾い続ける。このデータのおかげで、捕まっていないのに行動だけは分単位でわかっているという、奇妙な事件になっている。
レンブラント『ガリラヤの海の嵐』が枠から切り取られるまで
ダッチ・ルームで何が行われたかは、現場に残されたものから推定できる。ひどい作業だった。
彼らは大型のレンブラント二点を壁から外し、額縁を床に伏せて、キャンバスを枠と木枠から切り離した。専門家が見れば信じられないやり方だ。絵の縁が傷み、絵の具層が剥落する。実際、現場には絵の具の欠片とキャンバスの繊維が残っていた。
『ガリラヤの海の嵐』は一六三三年の作で、高さ五フィート強、幅四フィート強。レンブラントが描いた唯一の海の絵だ。船に乗った弟子たちが嵐にもまれ、そのなかに画家本人と思しき男がこちらを見ている。一度見たら忘れない絵だ。
もう一点の『黒い服の紳士と婦人』も同じ一六三三年。高さ四フィート超、幅三フィート半の大作で、レースの描写が見事な一枚。
フェルメール『合奏』――世界に三十数点しかない画家の一点
この事件の痛手をひとつだけ選べと言われたら、全員がフェルメールの『合奏』を挙げる。
ヨハネス・フェルメールの真筆と認められている作品は、世界中で三十六点前後しかない。そのうちの一点が、一九九〇年三月十八日を最後に人前から消えた。一六六三年から六六年ごろの制作。キャンバスに油彩で、寸法は七二.五×六四.七センチ。二フィート四方を少し超える程度の、意外なほど小さな絵だ。
描かれているのは室内で合奏する三人。チェンバロを弾く女性、歌う女性、背を向けてリュートを弾く男性。壁には別の絵が掛かっていて、床には市松模様。単体で二億五千万ドルとも評価され、盗難品としては世界でもっとも高額な絵画と言われる。
盗む側からすれば、これはもっとも売れない絵でもある。世界中の美術関係者が顔を知っている一点を、どうやって現金に変えるのか。この矛盾が、この事件全体につきまとうことになる。
午前一時五十一分、ショート・ギャラリーで起きた奇妙な選択
午前一時五十一分、センサーは一人がショート・ギャラリーに移動したことを記録している。ここで彼らはドガの素描五点と、ナポレオン時代の鷲の頂飾り、フィナイアルを取った。
この選択が、今に至るまでの最大の謎のひとつだ。ドガの五点はすべて小さな紙作品で、合計しても十万ドルに届かないと見られている。頂飾りに至っては高さ十インチの青銅だ。しかも彼らは、この頂飾りを旗竿から外そうとして苦戦している。旗本体は置いていった。
五億ドルの絵を抱えながら、数万ドルの青銅の鷲に何分かを費やす。このチグハグさが、「プロの美術泥棒ではない」という見方の根拠になっている。一方で、誰かに「これを取ってこい」と名指しされていたのでは、という仮説も根強い。
ブルールームのマネ――誰も踏んでいない床の謎
さらに奇妙なのが、一階のブルールームから盗まれたマネの『トルトーニにて』だ。
十インチ×十三インチちょっとの小さな油彩で、カフェで書き物をするダンディな青年を描いている。額縁は、なぜか警備責任者の椅子の上に置かれていた。
問題はセンサーの記録だ。この夜、ブルールームで記録された足音は、アバスのものだけだった。犯人がこの部屋に入った記録がない。なのに絵はなくなっている。
この一点が、その後三十四年間アバスにつきまとった。センサーが壊れていただけだ、という説明もできる。実際彼は死ぬまで無実を主張し続けた。だがこの穴は埋まっていない。
午前二時四十分から四十五分、二往復で運び出された「五億ドル」
作業を終えた二人は、午前二時四十分と四十五分の二回に分けて、側面のドアを開けて外に出た。つまり、一度では運びきれない量だった。
午前一時二十四分に入って、二時四十五分に出た。しめて八十一分。この数字が、この事件の代名詞になった。
不思議なのは、八十一分もあるのに、彼らが取ったものの選び方があまりにも雑だということだ。この美術館でもっとも価値が高いとされるのは、三階のティツィアーノ『エウロペの掠奪』だ。彼らはそこまで上がってもいない。ボッティチェリも、ラファエロも、ミケランジェロの素描も置いていった。
午前八時十五分、交代要員が来るまで誰も気づかなかった
警報は鳴らなかった。非常ボタンは押されていない。外部への通報は一切ない。
午前八時十五分、出勤してきた職員が地下室で二人を見つけた。この時点で、犯人たちはすでに五時間半以上前にこの建物を出ている。
五時間半。ボストンから車で十分に遠くまで行ける時間だ。このリードタイムが、初動捜査を致命的に不利にした。
彼らが持ち去った「もうひとつのもの」
彼らは絵だけを持って帰ったわけじゃない。
防犯カメラのビデオテープと、モーションセンサーのプリントアウトを回収している。自分たちの姿と動きの記録を消していったのだ。
これがなぜ効いてくるかというと、この美術館のセキュリティがどう記録し、どこに保管されているのかを知っていなければできない行動だからだ。内部の人間から情報を得ていたのではないか、という疑いのもっとも強い根拠がここにある。
皮肉なことに、彼らはプリントアウトを取ったのに、センサーの生データ自体は別の場所に残っていた。だから分単位の行動が後に復元できた。完璧な仕事ではなかったんだよな。
盗まれた十三点、その全リスト
改めて並べておく。ダッチ・ルームから六点。フェルメール『合奏』、レンブラント『ガリラヤの海の嵐』『黒い服の紳士と婦人』、同じくレンブラントの小さな自画像エッチング(一.七五×約二インチという切手サイズ)、ゴーヴァルト・フリンク『オベリスクのある風景』(一六三八年、木板に油彩)、そして殷代の青銅器「觚」。この觚は紀元前一二〇〇年前後のもので、コレクションでもっとも古い品のひとつだった。
ショート・ギャラリーから六点。ドガの作品五点と、フィナイアル。ドガは『フィレンツェ近郊の行列』『三人の騎手』『計量場からの退場』と、芸術の夕べのためのプログラム素描二点。どれも手のひらからノートサイズぐらいの小品だ。
ブルールームから一点。マネ『トルトーニにて』。
このリストを眺めると、何度見てもバランスが変だ。世界史級の名画四、五点と、十万ドルにも届かない小品が同じ袋に入っている。
彼らが「盗まなかった」もののほうが不気味だった
美術に少しでも覚えのある人なら、この選択は意味不明に見える。
ティツィアーノの『エウロペの掠奪』は、アメリカにあるルネサンス絵画の最高峰のひとつとされる。三階のティツィアーノ室にある。彼らは三階に行っていない。
一つの読み方は、彼らが美術を知らないというものだ。リストを渡されて、その通りに回っただけ。もう一つの読み方は、時間切れを恐れて上の階を諦めたというもの。だが八十一分も居座っていた人間が、時間を気にしたとは思えない。
三つ目の読み方が、もっとも人気がある。売るためじゃなく、別の目的で盗んだという説だ。人質として、あるいは取引材料として。この説は、この後の三十年で何度も裏付けられかけては崩れていく。
保険なし――イザベラの遺言が生んだ最悪の巡り合わせ
もうひとつ、この事件を残酷にしている事情がある。この美術館は、盗難保険に入っていなかった。
理由は二つある。ひとつは単純に高いから。当時の見積もりで年間三百万ドル規模の保険料が必要だったとされる。小さな財団には背負いきれない。
もうひとつが、もっと皮肉な理由だ。創設者イザベラ・スチュワート・ガードナーの遺言は、コレクションの永久的な変更を禁じていた。新しい作品を買って並べることもできない。つまり、保険金が下りても使い道がない。なら掛けない、という判断になる。
結果として、五億ドルは文字通り一円も戻ってこなかった。保険会社が介入して回収に動く、という美術盗難事件によくある展開も起きなかった。
イザベラ・スチュワート・ガードナーという人と、一九〇三年の開館の夜
この遺言を書いた人物についても触れておきたい。
イザベラ・スチュワートは一八四〇年、ニューヨークの裕福な家に生まれた。一八六〇年にボストンの名門ジョン・ローウェル・ガードナー・ジュニアと結婚し、ボストンの上流社会に入った。だが彼女は、その社会の規範にちっとも合わせなかった。ハーバードの講義に潜り込み、ボクシングの試合を見に行き、スキャンダルを振りまいても平気だった。
一八六五年、唯一の子を幼くして亡くしている。ひどい抑うつに陥った彼女を救ったのが旅行だった。ヨーロッパ、エジプト、アジアを回り、とくにヴェネツィアにのめり込んだ。一八九一年に父から巨額の遺産を相続し、本格的な収集を始める。若き日の美術史家バーナード・ベレンソンが助言者についた。
一八九八年に夫を亡くし、彼女はフェンウェイの沼地を埋め立てた土地に、ヴェネツィア風の宮殿を建て始める。建築家はウィラード・シアーズ。だが実質の監督は彼女自身だった。職人をクビにし、設計を途中で変え、材料を何度も突き返した。許可がなくても建てろ、市が止めるなら入館をさせない、という趣旨のことさえ口にしている。
開館は一九〇三年一月一日。招待客は広い階段を上がってバルコニーへ導かれ、そこでボストン交響楽団の演奏を聞かされた。演奏が終わると鏡張りの扉が開き、日本の提灯で照らされた中庭が現れたという。演出家だったんだよな。
空の額縁を掛け続ける、という決断
盗まれた五点の絵画は、額縁だけが現場に残された。フェルメールの一七世紀フランス製金地枠、レンブラント二点の一九世紀初頭の枠、フリンクの一九世紀後半フランス製枠、マネの一七世紀フランス製金地枠。
美術館はこれを、中身のないまま壁に戻した。ダッチ・ルームに四枚、ブルールームに一枚。今も掛かっている。
表向きの理由は、イザベラの遺言だ。展示を変えてはいけない。だが実際には、これはもっと強いメッセージになった。美術館側はこれを「帰ってくると信じて場所を空けておく」という意思表示として説明している。
実際に行ってみると、この空の額縁はかなり奇妙な体験をもたらすという。金色の枠の中に、古びた壁布だけが見える。見えないものを見に行く、という巡礼のような行為になっている。
懸賞金は百万ドルから一千万ドルへ
事件の三日後、一九九〇年三月二十一日に百万ドルの懸賞金が発表された。大手オークションハウス二社が協力した。
一九九七年に五百万ドルへ。当時、民間が出した美術品の懸賞金としては世界最高額だった。
二〇一五年五月十二日には、フィナイアルだけを対象に十万ドルの別枠が設けられた。十インチの青銅の鷲一つに十万ドル。とにかく何かひとつ戻ってくれば糸口がつかめる、という必死の手だ。
二〇一七年五月、懸賞金は一千万ドルに引き上げられた。当初は翌年一月一日という期限付きだったが、二〇一八年一月十一日、期限なしに変更された。民間機関が出す懸賞金としては異例の規模で、これを上回るのは国家規模の懸賞金くらいだ。
一九九四年の匿名の手紙と、新聞に紛れ込んだ「1」
この事件でもっとも惜しいすれ違いが、一九九四年の一件だ。
四月、美術館に匿名の手紙が届いた。差出人は自分を仲介者だと名乗った。絵は無事で、コモンローの国ではない国の、温度と湿度が管理された場所にあると書いていた。要求は二百六十万ドルと、完全な免責。
美術館側はFBIと相談し、次の手を打った。五月一日のボストン・グローブ紙の為替相場欄に、本来ありえない数字「1」を混ぜたのだ。事前に取り決めていた合図だった。
相手は気づいた。一週間後に二通目の手紙が届いた。だが内容は慎重になっていた。捜査当局が動いている気配がある、と。それきり連絡は途絶えた。
この件は、この事件の本質的な難しさを表している。仲介者は逆に、捕まらない保証が欲しい。当局は絵を取り戻したいが、犯罪者と完全な取引はしにくい。この不信の壁を、三十六年間一度も越えられていない。
一九九七年、ブルックリンの倉庫で懐中電灯に照らされた「嵐」
もうひとつの有名なエピソードが、一九九七年八月の出来事だ。
ボストン・ヘラルド紙の記者トム・マッシュバーグは、骨董商のウィリアム・ヤングワースという男から接触を受けた。ヤングワースは絵にアクセスできると主張し、マッシュバーグを目隠しの上でどこかへ連れていった。
たどり着いたのはニューヨーク、ブルックリンのレッドフック地区の倉庫だったという。暗闇のなかで、丸められたキャンバスが広げられ、懐中電灯で照らされた。マッシュバーグは、そこにレンブラントの署名と、切り取られた縁と、ひび割れを見たと書いている。
この記事は大騒ぎになった。だが検証は難航した。あのサイズの古い油彩を丸めて広げるなんて現実的ではない、という専門家の指摘もある。ヤングワースは完全な免責と、別の人物の釈放を条件に掲げ、交渉は決裂した。数か月後にFBIが倉庫を探したが、何もなかった。
絵の具の欠片という、いちばんもどかしい物証
ただし、ヤングワースの件には尾ひれがある。彼は絵の具の欠片を渡していたのだ。
ヘラルド紙が依頼した専門家は、これを「百パーセント純粋なレンブラント」と判定した。ところがFBIの鑑定は、切り取られたレンブラント二点と一致しないと結論した。
ところが話はここからネジれる。美術館側が雇った別の専門家二人は、この欠片がフェルメールの『合奏』と矛盾しないと判断した。さらに二〇〇三年、FBIの委託を受けた分析者が、『合奏』に描かれたテーブル掛けの赤と適合するレーキ顔料を検出したとされる。
顔料の組成は、ある意味で指紋に近い。この欠片が本物なら、ヤングワースは少なくとも一度は、盗品に手が届く位置にいたことになる。だがもう絵は出てこない。この数ミリの欠片は、三十年以上関係者を眩惑させ続けている。
メルリーノ一味説――FBIが二〇一三年に「わかっている」と言った日
二〇一三年、事件から二十三年目に、FBIは強いトーンで発表した。実行犯が誰であるかは高い確度で特定できている、と。ただし名前は公表しなかった。
描かれた絵図はこうだ。ボストンと中部大西洋岸にまたがる犯罪組織のメンバーが実行し、絵はコネチカットやフィラデルフィアに運ばれ、二〇〇二年ごろにフィラデルフィアで売却が試みられた。二〇一五年にはFBIは、実行犯二人はすでに死亡しているとの見方を示した。
この線の中心にいるとされるのが、ドーチェスター地区で自動車電装店を営んでいたカーメロ・メルリーノという男だ。彼は一九九九年のおとり捜査で現金輸送車倉庫襲撃未遂に問われ、二〇〇五年に収監中死亡している。
彼の周辺の人間として名前が挙がったのが、ジョージ・ライスフェルダー、レナード・ディミュージオ、デイヴィッド・ターナーらだ。ここではっきり書いておくが、この人たちは誰一人としてこの窃盗で起訴されていないし、有罪になった人間もいない。「そう指摘されている」以上のことは言えない。
ボビー・ドナーティ説と、宝石商が三十年黙っていた話
もう一つの有力線が、ボビー・ドナーティという男を中心に据える見方だ。
この説を押してきたのは、事件当時収監中だった美術泥棒のマイルズ・コナーだ。彼は以前ドナーティと一緒にこの美術館を下見したことがあり、ドナーティがとくにフィナイアルに執着していたと証言している。あの奇妙な「青銅の鷲に固執する犯人」の謎と、この証言は気味が悪いほどかみ合う。
そして二〇二一年十一月、引退した宝石商ポール・カラントロポが口を開いた。彼によれば、事件から一か月ほどした一九九〇年の春、ドナーティが金色の鷲の頂飾りを持ち込んできて、鑑定してくれと言ったという。
カラントロポは断った。これが盗品だとは世界中が知っている、だから価値はゼロだ、と。そして彼はこう言ったと回想している。「なぁボビー、どうせならモナ・リザを盗めばよかったのに」。
彼が三十年黙っていた理由は、聞けば当然だ。ドナーティは一九九一年に殺されている。ボストン近郊の自宅外で襲われ、自分のキャデラックのトランクに詰められた状態で発見された。カラントロポはグローブ紙にこう語っている。絵のありかの秘密は、ボビーと一緒に死んだと思う、と。
警備員リック・アバスをめぐる、消えない疑い
この事件でもっとも人生を変えられた人物は、たぶんリック・アバスだ。
二十三歳、ミュージシャン志望の若者。夜番のバイトで、あの夜だけは制服を見てボタンを押してしまった。その一回の判断で、彼の残りの人生は「ガードナーの警備員」という肩書きに縛られた。
彼に向けられた疑いは三つある。ひとつ、マニュアルを破ってドアを開けたこと。ふたつ、犯人到着の数分前に、側面のドアを一度開けて閉めていること。みっつ、マネが盗まれたブルールームに入った記録が、彼の足音しかないこと。
一方で、彼を擁護する声もずっとあった。あるFBI捜査官は、この二人の警備員はこんな仕事を成し遂げられるほど器用じゃなかった、という趣旨のことを言っている。酷い擁護だが、現場を見た人間の実感でもあったのだろう。
アバスは生涯無実を主張し続け、二〇二四年二月に亡くなった。五十七歳だった。彼が何かを知っていたのか、もう誰にも確かめられない。二〇二五年の三十五周年に、長年この事件を担当した元FBI捜査官は、アバスが何らかの形で関与していたと考えていると述べている。あくまで、彼の見方だ。
ランディ・ヘスタンドという、もうひとりの当事者
アバスの影に隠れがちだが、もう一人の警備員ランディ・ヘスタンドの体験もすさまじい。
彼はこのシフトが初めてだった。つまり、この美術館の夜のルーチンも、ドアの位置も、非常ボタンのことも、まだ体に入っていなかった。無線で呼ばれて降りていったら、同僚が壁に向かって立たされていて、目の前に警官が二人いる。
彼は素直に「なぜだ」と聞いた。制服を着た人間に対して、若い人間がとるごく自然な態度だ。そして答えは「これは強盗だ」だった。
地下室で、彼は自分がこのまま殺されるのだと覚悟したと回想している。何時間も、上の階で何かが壊されていく音を聞きながら。彼はその後この仕事を離れ、長い間公の場で語らなかった。後年の取材で彼が語ったのは、二十五歳の自分があの夜に感じた無力感だった。
一九九一年に死にすぎた男たち
この事件には、気味の悪いパターンがある。名前の挙がった人間が、事件の翌年に集中して死んでいるのだ。
ジョージ・ライスフェルダーは一九九一年七月、クインシーのアパートでコカインの過剰摂取により死亡。彼の親族は後に、彼の寝室のベッドの上に、マネの『トルトーニにて』に見える小さな絵が掛かっていたと語っている。彼の死後、その絵はなくなっていた。
レナード・ディミュージオは同じ年、行方不明ののち、射殺された状態でイーストボストンで見つかった。ボビー・ドナーティは同じ年の秋、ボストン近郊で自車のトランクから発見。ジェームズ・マークスという男も同じ年に射殺されている。
一年のあいだに四人。これを偶然と見るか、口封じと見るかで、この事件の見え方は大きく変わる。当時のボストンの裏社会は実際に死人が多かったので、統計的に異常とまでは言い切れない。だが、この四人が生きていたら事件は解けていたかもしれない。
時効という壁と、「返せば罪に問わない」という取引
この事件の奇妙なところは、もはや「犯人を捕まえる」ことが目的ではなくなっている点だ。
窃盗罪自体の公訴時効は一九九五年に完成している。つまり、当夜実行した人間が今名乗り出ても、窃盗では罪に問えない。さらに連邦検察側は、作品を自発的に返還する者を訴追しないとの方針を示してきた。
ここまでお膳立てしても、絵は戻ってこない。なぜか。
考えられる理由はいくつかある。もはや現物が存在しない可能性。現在の所持者が、盗品と知らずに、あるいは知っていても名乗り出せない立場にいる可能性。そして、返還すれば窃盗以外の罪、つまり盗品の受領や司法妨害を問われるのではと恐れている可能性。
一千万ドルは魅力的な金額だ。だが、自分の安全と天秤にかけられたとき、人はこの手の金を取りに行かないことが多い。
ネット考察界隈で繰り返される仮説と、その反証
この事件は、海外の掲示板から日本のまとめサイト、動画考察まで、とにかく年中語られている。主要な仮説を並べておく。
内部協力者説。規則破り、非常ボタンからの引き離し、ビデオとプリントアウトの回収。内部情報なしには難しい。反証としては、美術館のセキュリティは当時かなりルーズで、下見を重ねれば外部からでも把握できたという指摘がある。
担保説。絵を売らず、裏社会での取引の担保や交渉カードに使ったという説。反証は、その手の取引の痕跡が三十六年で十分に固められていないこと。
依頼主説。リストを渡したコレクターがいるという説。選択の雑さと、フィナイアルへの執着が根拠とされる。反証は、本当にコレクターがいるならティツィアーノを外すはずがないこと。
日本語圏で強いのは、もう絵は存在しないだろうという悲観論だ。だがこれにも反証がある。美術品は、現金にならなくても「持っていること自体に意味がある」タイプの品物で、長い年月を経て地下室や倉庫から出てくる例は実際にある。ノルウェーやオランダでは、十数年後の回収例が出ている。
鳴門の陶板と、日本から見たガードナー
日本からこの事件を見るとき、面白い接点がある。
徳島県鳴門市の大塚国際美術館は、世界の名画を陶板で原寸大再現する美術館だ。ここが二〇二五年三月十八日、事件から三十五年ちょうどの日に、フェルメール『合奏』の原寸大陶板を公開し、常設展示に加えた。地下二階のフェルメール展示室で、七二.五×六四.七センチ。
つまり、現在地球上で『合奏』の実寸の姿を見られる場所のひとつが、日本にあるということになる。本物は行方不明のままだ。ボストンには空の額縁があり、鳴門には中身のある複製がある。なんとも奇妙な対照だと思う。
日本ではこの事件は、ドキュメンタリーや美術メディアの特集を通じて少しずつ知られてきた。「美術ミステリ」として消費されがちな一方で、美術館関係者からは別の受け止められ方をされている。どこの館にとっても他人事ではないからだ。
なぜこの空っぽの額縁に、人は三十六年も引き寄せられるのか
未解決事件として見たとき、この事件にはひとつ決定的な特徴がある。被害者が死んでいない、ということだ。
だから安心して楽しめる、と言ってしまうと不謹慎だが、実際、この事件にはフィクション的な魅力がある。偽の警官。地下室のダクトテープ。八十一分。五億ドル。空の額縁。一千万ドルの懸賞金。要素がすべて、映画の脚本にしたら「できすぎ」と言われるレベルで揃っている。
もうひとつは、不在をこれほど見える形で展示し続けている例がほかにないことだ。普通、盗難にあった美術館は壁を埋める。別の作品を掛ける。ここだけは、失われたものの形を毎日来館者に見せている。
そして三つ目。この事件は、美術というものの契約を剥がして見せてしまった。名画は「人類の財産」だと言われる。だが実態は、一枚の布に顔料が乗っているだけの物体で、刃物で切れば外れる。あの夜、少なくとも二人の男は、美術史を完全に無視してナイフを入れた。その事実が、見る側の心のどこかをずっとざわつかせ続けているんだと思う。
計画した人間と、実行した人間は別だった
最後に、この事件をもう少し引いた位置から整理しておきたい。
まず、この事件を「完璧な犯罪」と呼ぶのは、実はかなり不正確だと思う。侵入は共犯を疑うに十分なほど上手だった。だが、建物の中での振る舞いは素人そのものだ。キャンバスをナイフで切る、価値の低い小品に時間を使う、最高額の作品のある階にすら上がらない。上手い強盗というより、「侵入の手順だけを誰かに仕込まれた人間」の動きに見える。
このギャップこそが、事件の核心なんだと思う。計画を立てた人間と、実行した人間が別だった。計画側はセキュリティの穴を把握していた。実行側は絵の価値を知らなかった。だからリストの選択が奇妙になり、取り扱いが乱暴になった。この仮説は、現場に残されたものともっとも矛盾が少ない。
次に、なぜこの事件が解けないのかを、捜査の構造から考えてみる。一番大きいのは、この事件には「回収されるなら犯人はどうでもいい」という目的の二重性があることだ。美術館は絵が戻ればいい。FBIは事件を解きたい。情報提供者は金と安全が欲しい。三者の利害が微妙にずれていて、交渉のたびにこのずれが交渉を壊してきた。一九九四年の匿名の手紙も、一九九七年の倉庫の件も、全部ここで崩れている。
先に信用を差し出す側がいない。仲介者は先に絵を見せれば捕まる。当局は先に金を払えば騙される。古典的な囚人のジレンマが、三十六年回り続けている。
もうひとつ、この事件の時間的な悪さも大きい。一九九〇年のボストンは、地元の組織犯罪集団が当局の大規模な潰しにあっていた時期と重なる。事件の直後から、関係者と目される層の人間が次々に死ぬか収監されるかしていく。絵の行き先を知っていた人間の連鎖が、どこかで切れた可能性は高い。カラントロポが言った「秘密は一緒に死んだ」という感覚は、捜査に携わった多くの人間が共有しているものだ。
では、もう望みはないのか。そうも言い切れない。盗難絵画は、二十年、三十年を経てから戻ってくる例が実際にある。持ち主が世代交代した瞬間が、もっとも可能性が高い。相続人は、自分が盗んだわけではない。地下室や貨物倉庫から奇妙な包みが出てきて、弁護士に相談する。そういう入り口を想定して、美術館側は今も情報提供の窓口を開け続けている。
技術面でも変化はある。現場に残された微量の証拠、とくにダクトテープや手錠などの接触痕は、当時の技術では活かせなかったものがある。遺伝子鑑定の感度は上がり続けているし、系譜データベースを用いた特定手法も実用化されている。他の古い事件では、この手の手法で四十年前の事件が動いた例がある。
ただし、ここで冗談にしてはいけないことをひとつ。この事件の容疑者として名前が流通している人物は、誰ひとりとしてこの窃盗で有罪になっていない。起訴すらされていない。FBIが二〇一三年に「特定できている」と言ったのも、名前を伴わない声明だった。後年の元捜査官の本や発言も、彼の見立てであって司法判断ではない。警備員アバスについても同じだ。彼は一度も起訴されていないし、死ぬまで無実を主張した。ネットではこの段階がよく飛ばされて「犯人はこいつだった」と断定されるが、それは事実と違う。
そしてもうひとつ、この事件を語るときに忘れられがちなことを書いておきたい。失われたのは「五億ドル」という金額じゃない。フェルメールの『合奏』は、チェンバロの台に当たる光と、後ろの壁の絵と、歌う女性の口元の動きが一枚に収まっている。あの小さな画面を目の前で見るという体験自体が、一九九〇年三月十八日の未明を境に、この世から消えた。次に誰かがあの絵の前に立てるのは、いつになるのか。
レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』も同じだ。嵐のなかで帆にしがみつく人間たちのなかに、こちらをじっと見ている顔がひとつある。描いた本人だとされている。三十六年、その目はどこかの暗がりのなかにある。あるいはもう、ない。
ボストンのあの部屋に行くと、金色の枠が五つ、今日も何も入れずに掛かっている。これはちょっとした挑発でもあると思う。忘れさせない、という意思表示だ。盗んだ側にとっても、これほど厄介な展示はないだろう。一千万ドルの懸賞金と、空の額縁と、時効の切れた罪。この三つを並べて三十六年待ち続けている美術館は、たぶん世界でもっとも忍耐強い被害者だ。
