夜明け前の海辺に、女の悲鳴が響いた。
二〇一〇年五月一日、ロングアイランドの南岸にあるオーク・ビーチという小さな集落でのことだ。住民は五十世帯ほど、道は行き止まり、外から来る人間はまずいない。その閉じた場所で、二十四歳の女性が家から家へ走り、ドアを叩き、助けを求め、そして消えた。警察が到着したのは彼女が最初に助けを求めてから四十分以上あとで、そのときにはもう誰もいなかった。
彼女を探すために警察が海岸道路沿いの藪を捜索したのは、その七か月後だ。そこで見つかったのは彼女ではなく、別の女性の遺体だった。二日後にはさらに三人。翌春には道路沿いの数キロにわたって、次々に人骨が出てきた。誰も探していなかった人たち、行方不明届すら出されていなかった人たち。
一人の女性の失踪が、十年以上誰にも気づかれていなかった連続殺人を掘り起こしてしまった、という話だ。
そして二〇二六年、この事件はついに終わった。終わり方は、たぶん多くの人が想像していたものとは違った。
夜明け前、彼女は家から家へ走り、そして誰にも入れてもらえなかった
シャナン・マリア・ギルバート。ニュージャージー州ジャージーシティに住んでいた二十四歳。
ブルックリン生まれ、ニューヨーク州北部のエレンビルで育った。歌がうまくて、子どものころは合唱で目立つ子だった。里親家庭を転々とした時期があり、双極性障害の診断を受けていて、薬を飲んでいた。生活のためにクレイグズリストという古い掲示板サイトに広告を出して、エスコートとして働いていた。
四月三十日の夜、彼女はマンハッタンからロングアイランドへ向かった。運転手兼護衛のマイケル・パクという男性が車を出した。行き先はオーク・ビーチ、ジョゼフ・ブリューワーという男性の家。ブリューワーがネット越しに彼女を呼んだ客だ。
オーク・ビーチはオーシャン・パークウェイという海沿いの一本道の途中から、細い分岐を入っていく私有地のような集落で、夜になると街灯もろくにない。海と湿地に挟まれていて、道を一本間違えると膝まで水に浸かる葦の原に迷い込む。土地勘のない人間には、暗闇では方角すらわからない場所だ。
深夜、彼女はブリューワーの家に入った。そこから数時間、何があったのかは正確にはわからない。わかっているのは、午前四時五十一分に彼女が911にかけたということだ。
その通報は二十一分続いた。
あとで公開された音声を聞いた人はみんな同じ感想を言う。話が噛み合わないのだ。オペレーターが「あなたはどこにいますか」と繰り返し聞く。彼女は「わからない」と答える。「家の中にいる」と言う。「どの家ですか」と聞かれると、また「わからない」。そして「私の場所を追跡できませんか」と頼む。「ロングアイランドにいる」というのは何度も口にしている。それ以上の情報が出てこない。
声のトーンは通報のあいだじゅう激しく上下している。落ち着いて話している場面がある。ろれつが回っていない場面がある。オペレーターの呼びかけにまったく反応しなくなる沈黙がある。そして突然、絶叫する。誰かが私を追いかけてる。誰かが追ってきてる、お願い。殺されそうなの。
音声には男性の声も二人分入っている。客のブリューワーと、運転手のパクだ。二人は彼女を落ち着かせようとしている。というより、家から出そうとしている。「さあ、行こう。みんなで外に出よう」とブリューワーが言う。彼女はパクに向かって「私をここから出して、マイク」と言う。ところが数十秒後には、同じパクに向かって「あなたも最初からグルだったんでしょう」と言い、「なんで、私を殺すつもり」と叫んでいる。
誰が敵で誰が味方なのか、彼女自身の中で像が結ばれていない。恐怖が現実の誰かに向いているのか、それとも彼女の内側から来ているのか、音声だけでは判別できない。ここが、この事件の十六年間の論争の出発点になる。
やがて彼女は家を飛び出した。走った先は、二百メートルほど離れたガス・コレッティという男性の家だった。当時七十代、退職した保険詐欺の調査員で、オーク・ビーチに三十年以上住んでいた人だ。
コレッティはあとでテレビの取材にこう答えている。朝の五時ごろ、洗面所で髭を剃っていたら、外で悲鳴と、ドアを叩く音がした。開けたら女性が立っていて、「助けて、助けて、助けて」とだけ繰り返している。何があったのかと聞いても答えない。ただこちらをじっと見て、同じ言葉を言い続ける。彼は電話に手を伸ばして911をかけ、「警察を呼んだから、その椅子に座っていなさい、すぐ来るから」と言った。その瞬間、彼女は自分を見て、そのままドアから走り出ていった。
コレッティが911に言った言葉は記録に残っている。十四歳くらいの若い女の子が、そのへんを走り回って叫んでいる。実際には二十四歳だ。それだけ小柄で、それだけ幼く見えたということだろう。誰かに追われているのか、危ないことはするな、どこへ行くんだ、とも呼びかけている。
そのあとコレッティは、庭に置いてあったボートの下に彼女がうずくまっているのを見つけた。同時に、黒いSUVがゆっくり近づいてくるのに気づいた。「ちょっと進んで止まる、また少し進んで止まる」という走り方だったという。運転していたのは彼女の運転手のパクだった。
コレッティは車に駆け寄って「どこへ行くつもりだ」と聞いた。パクは彼女を探していると答えた。コレッティが「警察を呼んだ。連れ戻しに来る」と言うと、パクは「そんなことすべきじゃなかった」と言ったという。そのやりとりの最中に、彼女はボートの下から飛び出して走り去り、パクは追いかけた。コレッティは止まれと叫んだが止まらなかった。彼が二度目の911をかけたのが午前五時二十一分だ。
彼女が次に叩いたのは、バーバラ・ブレナンという女性の家のドアだった。ブレナンも911にかけている。その通報の背景には、ドアを叩く音がはっきり入っている。知らない女の人が私の家のドアを叩いてる、とブレナンは言う。危険な目に遭っていると言ってる。オペレーターが「その人を知っていますか」と聞く。ブレナンの答えはこうだ。
いいえ、知らない。中には入れません。
責める気にはなれない。夜明け前に見知らぬ人間が絶叫しながらドアを叩いていて、後ろから男が追ってきている。一人暮らしなら、鍵をかけて警察を呼ぶ以外の選択肢はほとんどない。ただ、この一言はこの事件を語るときに何度も引用されることになった。彼女は五十軒たらずの集落で、三軒の家の前に立ち、そのうちどこにも入れてもらえなかった。
警察が到着したのは午前五時四十分ごろ。彼女はもういなかった。
現場に来た警官たちは、運転手の車でもう帰ったのだろうと判断した。彼らは彼女自身の二十一分の911通報のことを何も知らなかった。というのも、彼女が自分の居場所を説明できなかったせいで、その通報は途中でニューヨーク州警察に転送されていたからだ。地元の署に来ていた「若い女性が走り回って叫んでいる」という通報と、州警察が受けた「殺されそうです」という通報は、その朝、一本の線につながらなかった。彼女の家族がニュージャージーで捜索願を出したあと、その二つがようやく結びつくまでに、およそ一か月かかっている。
誰も本気で探さなかった十九か月と、犬が藪の中で止まった日
その後の数か月の警察の動きは、控えめに言っても熱意がなかった。
近所の住民に話を聞き、客と運転手に事情を聞き、数日後に上空からの捜索を一度やった。何も出てこないと、そこで手を止めた。当時の見立てはこうだ。彼女は薬か何かでパニックになって、暗闇の中を走って、湿地に入って溺れた。それだけの話だ、と。
家族はそれを受け入れなかった。母親のマリ・ギルバートは、警察署に通い、記者に電話をかけ、テレビカメラの前に立ち続けた。母親としての執念というだけではなく、彼女には「娘がエスコートだから警察は本気で探さない」という確信があった。
実際、その確信を裏づける経験を、この事件の他の遺族もそれぞれ持っていた。行方不明届を出しに行って、「大人の女性が自分の意志でいなくなっただけでしょう」と門前払いされる。行方不明者リストに名前を載せてもらうことすら難航する。そういう扱いを、複数の家族が別々の州で受けていた。
事態が動いたのは二〇一〇年十二月十一日だ。
オーシャン・パークウェイ沿いの藪で、警察犬の訓練が行われていた。ブルーという名前の犬とハンドラーが、シャナン・ギルバートの捜索を兼ねて草むらを歩いていた。犬が一か所で立ち止まった。麻布の袋に包まれた人間の遺体があった。
その遺体は、二〇〇九年七月十二日にブロンクスの地下アパートを出たきり消息を絶っていたメリッサ・バーセルミー、二十四歳だった。
二日後の十二月十三日、同じ道路沿いを本格的に捜索した警察は、さらに三人分の遺体を見つけた。四人はすべて、四百メートルほどの範囲に、麻布に包まれ、ベルトやテープで拘束された状態で置かれていた。二〇〇七年七月に消えたモーリーン・ブレイナード=バーンズ、二十五歳。二〇一〇年六月に消えたミーガン・ウォーターマン、二十二歳。二〇一〇年九月に消えたアンバー・リン・コステロ、二十七歳。この四人が、のちに「ギルゴ・フォー」と呼ばれることになる。
四人とも二十代前半から後半、身長は百五十センチ前後、体重は四十キロ台。全員がネット広告経由でエスコートとして働いていた。全員が失踪から発見まで一年から三年半、放置されていた。そして全員が、同じ人物の手で、同じやり方で、同じ道路の同じ側に置かれていた。
年が明けて二〇一一年三月二十九日、捜索範囲を広げた警察は、さらに東側で頭蓋骨と両手と前腕を見つけた。DNA照合の結果、それは二〇〇三年七月にマンハッタンで消え、同月にロングアイランド島の内陸部マノービルの林で胴体だけが見つかっていたジェシカ・テイラー、二十歳のものだった。八年間、彼女の体は二つの場所に分かれて置かれていた。
四月四日にはさらに三体分。
一つは頭蓋骨と両手と右足で、これは二〇〇〇年十一月にやはりマノービルで胴体が見つかっていた身元不明女性のものと一致した。彼女が二十四歳のバレリー・マックだと判明するのは、遺伝子系図学という手法が使えるようになった二〇二〇年五月のことだ。彼女は生前、行方不明者として届け出されてすらいなかった。同じ日に、生後十八か月から二十四か月ほどの女の子の遺骨と、女性の服を着た若い男性の遺骨も見つかった。四月十一日にはナッソー郡側に捜索が広がり、さらに二人分。
こうして、一本の海岸道路と周辺から、合計十人分の遺骨が出てきた。全長にして十キロ以上にわたる、途方もなく広い遺棄現場だった。
そして二〇一一年十二月十三日。オーク・ビーチのすぐ近くの湿地で、シャナン・ギルバートの遺骨が見つかった。その一週間前、同じ湿地から彼女の携帯電話、財布、ジーンズ、靴、そしてリップグロスが見つかっていた。彼女が消えてから十九か月が経っていた。
彼女を探して始まった捜索が十人の死者を掘り起こし、最後に彼女自身にたどり着いた。
職業を書けば人物紹介が済むと思っている記事に、うんざりしている
ここで手を止めて書いておきたいことがある。
この事件の報道は長いあいだ、被害者を「売春婦」という一語で処理してきた。見出しにそう書き、本文でもそう書き、それで人物紹介が終わったことにしてきた。そのせいで、彼女たちがどんな人間で、何を大事にしていて、誰を愛していたのかは、ほとんど記録されないまま十年以上が過ぎた。
モーリーン・ブレイナード=バーンズは、コネチカット州ノリッジに住んでいた。ブラックジャックのディーラーをしていたことがあり、スーパーマーケットの店員をしていたこともあり、季節労働のテレフォンアポインターもやっていた。二人の子どもがいた。妹のメリッサ・キャンは彼女のことを「自由な魂を持っていて、芸術的で、大胆で、母親とはよく衝突していた」と語っている。
彼女は一度、性風俗の仕事から七か月離れていた。戻ったのは、家の立ち退き通知が届いたからだった。住宅ローンを払うためだった。二〇〇七年七月九日、マンハッタンの安宿から友人に電話をかけ、これから客に会うと言った。それが最後だ。
メリッサ・バーセルミーは美容学校を卒業していた。妹のアマンダによれば、彼女の夢は「ちゃんとした美容室に就職すること」だった。二〇〇九年七月十二日の夜、客と会い、九百ドルを口座に入金し、元恋人に電話をかけようとしてつながらず、そこで足取りが途切れる。
そして彼女が消えてから一週間後、当時十五歳だった妹の携帯に、姉の電話番号から着信が入り始めた。相手は男の声で、下品で、嘲るような内容だった。「お前も姉貴みたいな売女なのか」と聞いてきた。その電話は五週間続き、内容は次第にエスカレートし、最後には「姉は死んだ」「腐っていくのを見物してやる」と告げて終わった。警察はその発信をマディソン・スクエア・ガーデン付近、ミッドタウン、そしてマサピクアの周辺まで追跡したが、当時の技術と当時の熱意では、そこから先へ進めなかった。
ミーガン・ウォーターマンはメイン州スカーボロの出身だった。三歳の娘がいた。家族は彼女がニューヨーク行きのバスに乗るのを見送った。それが最後に姿を見た日になった。二〇一〇年六月六日の未明、ホーポージのホテルを出て客に会いに行った。行方不明届が出たのは二日後で、理由は「娘の様子を確認する電話をかけてこないなんて、あの子らしくない」だった。
娘のリリアナ・ウォーターマンは、母がいなくなったとき三歳、遺体が見つかったとき四歳だった。九歳のときにインターネットで事件の詳細を知り、祖父母に「売春婦って何、ポン引きって何」と聞いた。彼女は成人してからこう言っている。私は母親がいるってどういうことか、一度も知らないまま育った。
アンバー・リン・コステロはノースカロライナ州で育った。もともと成績のいい子だった。六歳のときに近所の男に性的暴行を受け、十代でドラッグに手を出した。フロリダでウェイトレスをしていた時期がある。二十八日間の入院型のリハビリを一度やり遂げた。ロングアイランドのウェスト・バビロンで、同じくヘロインに依存していた仲間数人と一軒家をシェアして暮らしていた。友人は彼女のことを「変わり者で、おどけていて、自分が着てるシャツでも脱いで人にあげちゃうような人」と語っている。二〇一〇年九月二日、二千五百ドルを提示してきた客に会いに家を出て、戻らなかった。彼女は行方不明届を出されていない。家族は彼女がリハビリ施設にいると思っていた。
ジェシカ・テイラーはニューヨーク州ポキプシー出身の二十歳だった。バレリー・マックは一九七六年生まれ、フィラデルフィア周辺でエスコートとして働いていた二十四歳で、二〇〇〇年の春から夏にかけてニュージャージーで家族に会ったのが最後だった。彼女には息子がいる。サンドラ・コステラは二十八歳、一九九三年十一月にサウサンプトンの林で見つかった。彼女の名前がこの事件と結びつくまでに三十一年かかった。カレン・バーガータは三十四歳、一九九六年二月十四日を最後に家族との連絡が途絶えた。彼女の遺体の一部がファイア島で見つかったのが同年四月二十日で、彼女の名前が判明したのは二〇二二年から二三年にかけてだ。
法廷でモーリーンの娘のニコレットが言った言葉が、この節の結論だ。彼女は母親が性風俗で働いていたことを法廷ではっきり認めたうえで、こう続けた。母の名前はそのせいで汚され続けてきた。でも、すべてのセックスワーカーがそうであるように、母は丸ごと一人の人間だった。母は心が若かったけれど、それ以前にただ若かった。私はもうすぐ、母が到達できなかった年齢を二歳分も超える。
十三年間、この事件はなぜ一ミリも動かなかったのか
四人の遺体が見つかった二〇一〇年末から二〇一一年にかけて、この事件はアメリカ中のニュースになった。連続殺人犯がロングアイランドの海岸に遺体を捨てていた。当時のサフォーク郡警察のトップは記者団の前で「連続殺人犯の可能性を見ている」と言った。捜査資源は投入された。
それなのに、そこから十年以上、捜査は文字どおり止まった。
止まった理由は、あとから振り返ると身も蓋もない。
一つ目は、サフォーク郡警察がFBIを事件に入れなかったことだ。連続殺人という類型は、行動分析や広域の通信記録の解析でFBIが圧倒的なノウハウを持っている分野だ。FBIは繰り返し、人員を出す用意があると伝えていた。ところがサフォーク郡側は、プロファイリングの助言と航空機による地図作成くらいまでしか受け入れず、それ以上の関与を拒み続けた。連邦の管轄に直接かかる犯罪の証拠がない以上、FBIは押し入るわけにもいかない。二〇一二年の時点で、連邦捜査官たちがこの状況に苛立っているという記事が出ている。
二つ目が、そのFBI排除の中心にいた人物の問題だ。
二〇一二年から二〇一五年まで郡警察のトップを務めたジェームズ・バークは、就任後、FBIとの協力を徹底して拒んだ。彼が捜査を握っていた三年間、この事件はほぼ完全に凍結した。
そしてバーク自身が何をしていたかというと、自分の車から鞄を盗まれた事件の隠蔽である。二〇一二年、彼のSUVから盗まれた鞄の中身が世間に知られては困る類のものだったため、彼は容疑者を留置場で殴り、首を絞め、弁護士に会わせず、母親を逮捕すると脅し、報告書を改竄させ、部下たちに口裏を合わせさせた。彼は二〇一五年に逮捕され、二〇一六年二月に公民権侵害と司法妨害で有罪を認め、服役した。
三つ目は、その隠蔽をさらに上から守ろうとした人間がいたことだ。
二〇〇二年から二〇一七年まで郡の地方検事だったトーマス・スポタと、その部下で汚職担当部門の責任者だったクリストファー・マクパートランドは、バークを守るために証人にFBIへの協力をやめさせようと動いた。二人は二〇一九年十二月に司法妨害などで有罪評決を受け、二〇二一年八月に実刑判決を受けた。
つまり、この事件の捜査を指揮する立場にあった警察のトップと検察のトップが、両方とも自分たちの犯罪の隠蔽に手一杯だったということだ。
四つ目、そしておそらく最も根の深い理由が、被害者が誰だったかということだ。
ジャーナリストのロバート・コルカーは、二〇一三年に出した『ロスト・ガールズ』という本の取材の中で、この点を繰り返し指摘している。彼が言うには、この警察に限らずアメリカの多くの警察には、エスコートとして働く女性が消えたときに「矮小化と否認」に走る文化がある。事件ではなく個人的な事情だと決めつける。捜索を後回しにする。届出を受け付けない。
だから彼女たちは、消えても最初の数か月、誰にも探されない。犯人の側から見れば、これほど都合のいい条件はない。
新しいトップが来ると事態は変わり始めた。二〇一八年に新しい警察本部長が就任して捜査を再起動させ、二〇二〇年には現場で見つかっていたベルトのバックルという証拠が初めて公開された。そして二〇二一年、ニューヨーク市警の刑事部門トップを務めた経験を持つロドニー・ハリソンがサフォーク郡警察の本部長に就任した。
ハリソンは着任してすぐ、殺人捜査班にこの事件の状況を説明させた。彼はあとで地元メディアにこう語っている。愕然とした、と。この事件を担当している刑事は一人だけだった。連邦とも州とも組んでいなかった。遺体が見つかったときからほとんど前進していなかった。
ベージュの一室に集められた十人と、三本の細い糸
二〇二二年一月、ハリソンの主導でギルゴ・ビーチ殺人事件特別捜査班が発足した。郡警察、郡保安官事務所、FBI、州警察から集められた中核メンバーはおよそ十人。サフォーク郡地方検事レイ・ティアニーの検察チームが密接に組んだ。彼らが作業したのは、壁じゅうに地図とタイムラインを貼った、なんの変哲もないベージュの一室だった。
最初にやったのは新しい捜査ではなく、証拠の総ざらいだ。十二年分の記録を一件ずつ読み直す。三千件近い情報提供を全部読む。誰も追いきれずに埋もれていた記述を掘り返す。
そこから三本の糸が伸びた。
一本目は車だ。
州警察から来た捜査官が、アンバー・コステロの当時の同居人たちの供述を読み込んだ。同居人たちは、彼女が消える前に家に来ていた客の一人について、やたらと具体的に覚えていた。身長二メートル近く、体重百三十キロ超、髪はぼさぼさで、とにかく体格が異様に大きい男。同居人たちは客から金を巻き上げる小細工を常習的にやっていたが、この男だけは体が大きすぎて手を出さなかった。だから記憶に残っていた。そして彼は緑色のシボレー・アバランチという初代型のピックアップトラックに乗っていた。
捜査官はこの記述を、別の情報と重ね合わせた。事件当時に使われていた携帯の基地局データが、マサピクア・パークとミッドタウン・マンハッタンという二か所に集中していたことだ。彼女は州警察のデータベースで、マサピクア・パーク周辺に登録されている緑のアバランチを検索した。ヒットしたのはごく少数だった。その中に、ミッドタウンに事務所を構えていて、同居人たちの描写に体格が一致する人物がいた。
二〇二二年三月十四日、その名前が初めて捜査資料に書き込まれた。レックス・ヒューアマン、建築士。
二本目は通信記録だ。
FBIの分析官が、被害者たちの携帯の基地局記録と、犯人が使ったとみられる七台のプリペイド式携帯、いわゆるバーナーフォンの記録を突き合わせた。バーナーフォンは匿名で買って使い捨てるためのもので、追跡を逃れるために使われる。
ところが人間は、バーナーフォンを持ち歩くときに自分の本来の携帯も一緒に持ち歩いてしまう。二台の端末が同じ基地局を、同じ時刻に、同じ順序で、何年にもわたって通過し続ける。捜査資料の表現によれば、通信が発生したどの時点においても、彼の個人の携帯とそれらのバーナーフォンが別々の場所にあった事例は一つも見つからなかった。しかも家族の通信記録と旅行記録から、それぞれの殺害時期に妻子が州外にいたことも確認された。
三本目が毛髪だ。
被害者の遺体や、遺体を包んでいた麻布の周辺から、複数の毛髪が回収されていた。ただしこれらは根がなく、長年屋外に放置されて激しく劣化していたため、従来のDNA検査ではまったく歯が立たなかった。ところが技術のほうが十年で進んだ。二〇二〇年の再検査で、ミーガン・ウォーターマンの遺体から採取された毛髪について、男性由来であることと、より詳細な遺伝情報が得られた。
三本の糸が一人の人物を指した以上、あとは彼のDNAが必要になる。
ピザの耳が、十三年分の空白を埋めた
二〇二二年七月、捜査班はマサピクア・パークの自宅前に出されていたゴミから瓶を十一本回収した。ミトコンドリアDNAを調べたところ、そこから出た女性の遺伝情報は、ミーガン・ウォーターマンとアンバー・コステロの遺体から見つかっていた女性の毛髪と矛盾しなかった。この毛髪は、夫の衣類に付着して現場に運ばれたものだと考えられた。妻はいずれの殺害時にも州外におり、立件対象にはなっていない。
ただ、必要なのは本人のDNAだった。監視が強化された。ここで捜査班が神経質だったのは、対象が事件の報道を熱心に追っていたことだ。ティアニーはあとでこう言っている。私たちは、たった一人の観客の前で芝居を打っているようなものだった。
二〇二三年一月二十六日、ミッドタウンで彼を追尾していた監視チームが、彼が五番街のゴミ箱にピザの箱を放り込むのを見た。捜査員が箱を回収した。中に残っていたピザの耳が郡の科学捜査研究所へ送られた。四月二十八日には、ミーガン・ウォーターマンの遺体から採取され保管されていた男性の毛髪の一部が、刑事の手で同じ研究所に直接持ち込まれた。
六月十二日、結果が出た。ピザの耳から得られたミトコンドリアDNAと、毛髪から得られたものは同一のプロファイルだった。北米人口の九九・九六パーセントが、この毛髪の供給者から除外される、という数字が付いていた。
その一か月後、二〇二三年七月十三日、彼はマンハッタンの自分の事務所で逮捕された。
逮捕時、彼はバーナーフォンを一台持っていた。その端末は、捜査班が把握していた不審な検索履歴を持つメールアカウントと紐づいていた。二〇二二年三月から二〇二三年六月にかけて、そのアカウントからは二百件以上の検索が行われていた。検索対象は、現役の連続殺人犯に関する情報、そして四人の被害者それぞれの失踪と殺害と捜査の進捗だった。
彼はマサピクア・パークで数十年暮らしていた。そこから海岸道路の遺棄現場までは、湾を渡る道を使って車で二十五分ほどだ。彼は逮捕の時点で五十九歳、マンハッタンで建築コンサルタントの事務所を経営し、妻と二人の子どもがいた。前科はなかった。
地下室のハードディスクから出てきた「設計図」という名の文書
逮捕後、自宅の捜索で押収されたものの中に、地下室に置かれていたハードディスクがあった。その中に、二〇〇〇年に作成され、二〇〇二年に何度も編集されたマイクロソフト・ワードの文書があった。ファイル名は「HK2002-04」。
二〇二四年六月、検察はこの文書の内容を公判前に公開した。内容はあまりに具体的で、報道各社が扱いに困ったほどだ。
文書には四つの見出しがあり、それぞれ「問題点」「備品」「DS」「TRG」と書かれていた。「問題点」の下に並んでいたのは、DNA、タイヤ痕、血痕、足跡、毛髪。つまり自分が残しかねない証拠の一覧だ。「備品」にはロープ、防水シート、テープ、医療用手袋、洗浄剤、靴カバー、警察無線の受信機などが挙がっていた。「DS」は遺棄場所、「TRG」は標的の略とみられ、標的の項目には「小柄なのがよい」と書かれていた。実際、判明している被害者は全員が小柄な女性だった。
文書には「事前準備」「準備」「事後」という時系列の区分があり、天気予報の確認から、作業拠点の設定、証拠の処分までの手順が並んでいた。「偵察報告」の項には、町内の防犯カメラの設置位置に関する記述があった。さらに「次回のために覚えておくこと」という項があり、そこには自分の失敗を踏まえた手順の修正が書き込まれていた。要するに、彼はこの文書を回ごとに改訂していた。
そして、この文書は一九九六年に出版された、FBIの犯罪プロファイリングを扱ったノンフィクションを参照していた。同じ著者の本が自宅から複数見つかっている。ティアニー検事は、彼がこの本を「女を狩る者としての技術を磨くため」、そして捜査側がどう動くかを学ぶために使っていたと述べた。押収された端末群からは、一九九四年まで遡る大量の暴力的なポルノグラフィが見つかった。捜索では約三百丁の銃器も押収されている。
起訴状が、一年ごとに厚くなっていった
逮捕時の起訴は三人分だった。メリッサ・バーセルミー、ミーガン・ウォーターマン、アンバー・リン・コステロ。モーリーン・ブレイナード=バーンズについては「最重要容疑者」とだけ記され、起訴は保留された。
二〇二四年一月、ブレイナード=バーンズの殺害で追起訴。彼女を拘束していた革ベルトから見つかった毛髪から得られた遺伝情報が、被告の当時の妻のものと一致した。妻は殺害時に州外におり、事件への関与は疑われていない。
二〇二四年六月、ジェシカ・テイラーとサンドラ・コステラの殺害で追起訴。コステラの事件は一九九三年で、それまでこの事件群と結びつけられてすらいなかった。つまり、この人物が女性を殺し始めた時期が、それまで考えられていたよりずっと早かったことになる。両者の遺体付近から見つかった毛髪が、九九・九六パーセントの確度で被告と一致した。
二〇二四年十二月、バレリー・マックの殺害で追起訴。マックの遺体とともに見つかった毛髪から得られた遺伝情報は、被告の娘のものと一致する可能性が高いと判定された。娘に何らかの嫌疑がかかっているわけではない。マックが殺害された当時、彼女は三歳か四歳だった。家族の毛髪が、父親の衣類に付着して現場に運ばれた、という説明である。
これで起訴は七件になった。彼はそのすべてについて無罪を主張し、保釈は認められず、リバーヘッドの郡拘置所の隔離房に収容され続けた。
前例のない鑑定を法廷に入れるかどうかで、一年が費やされた
この事件の裁判が長引いた最大の理由は、証拠の中心にある毛髪のDNA鑑定が、それまでニューヨーク州の法廷で一度も使われたことのない手法だったからだ。
根のない、劣化した毛髪から核DNAを抽出するために使われたのは、全ゲノムシーケンシングという手法である。断片化した微量のDNAをまるごと読み取り、SNPと呼ばれる一塩基多型のデータからプロファイルを組み立てる。そして、そうして得られたプロファイルと既知の人物のプロファイルを比較するために、IBDGemという確率的遺伝子型判定プログラムが使われた。開発したのはカリフォルニアの研究者と、アストレア・フォレンジックスという民間の研究機関だ。
弁護側はこれに真っ向から反論した。この手法は科学界で一般的に受け入れられているとは言えず、証拠として採用すべきでない、というのが主張だ。ニューヨーク州では新しい科学的手法の証拠能力を判断するのにフライ基準という古い枠組みが使われる。要するに「その分野の科学者一般に信頼できると受け入れられているか」を裁判所が判定する。
二〇二五年三月から七月にかけて、この点だけを争うフライ聴聞が九日間にわたって開かれた。
検察側は集団遺伝学とバイオインフォマティクスの専門家、法医学の専門家、手法の開発者本人を証人に立て、査読論文を大量に提出し、アイダホ州とカリフォルニア州の実際の事件でこの手法が使われた事例を示した。うち一件は、古い毛髪の鑑定で無実の受刑者が再審で救われ、そのあと同じ毛髪から全ゲノムシーケンシングで真犯人が特定されたという経緯を持つ事件だった。
弁護側は、IBDGemを使っているのは開発者のチームだけであり、それを扱った査読論文は事実上一本しかない、と反論した。さらに、この手法が答えているのは従来のDNA鑑定が答えてきた問いとは違う問いだ、という指摘もした。
二〇二五年九月三日、ティモシー・マゼイ判事は二十九ページの決定を出し、この鑑定結果と関連する専門家証言を公判で使うことを認めた。判事は、弁護側の専門家は検察側が示した実証的証拠を覆すだけの実証的な反証を提出しなかった、と書いた。ニューヨーク州の法廷でこの手法が認められたのは初めてであり、全米でも数例しかない。弁護人はただちに、別の論点で除外を求めると表明した。
この決定が、その後の展開を決めたと見る法律家は多い。
二〇二六年四月八日、彼は静かな声で七回「有罪」と言った
裁判は二〇二六年に入っても続くはずだった。ところが四月八日、逮捕からちょうど千日目にあたるその日、リバーヘッドの法廷で彼は罪状認否を覆した。
法廷は記者と警察官と遺族で埋まっていた。黒いスーツに青いシャツ、ネイビーのネクタイ。身長二メートル近い男が判事の前に立ち、一件ずつ問われて、七回「有罪」と答えた。
声は小さくなかった。落ち着いて、はっきりしていた。取材していたテレビ局の記者は、その様子をこう表現している。淡々と、次から次へと有罪を並べていく。まるで建築の打ち合わせをしているようだった。感情がなく、自信があって、この件を早く終わらせたがっているように聞こえた。
一級殺人三件、二級殺人四件。認めたのはメリッサ・バーセルミー、ミーガン・ウォーターマン、アンバー・リン・コステロ、モーリーン・ブレイナード=バーンズ、ジェシカ・テイラー、バレリー・マック、サンドラ・コステラの七人だ。それに加えて、起訴されていなかったカレン・バーガータの殺害も認めた。この一件は司法取引の一部として扱われた。
判事の質問に対して、彼は詳細をほとんど語らなかった。金を払うと持ちかけて誘い出したこと。殺害方法を問われて答えた一語は「絞殺」。遺体の一部を切断したこと。頭部と脚を縛ったこと。それらを海岸沿いに遺棄したこと。ほとんどが「はい」と「はい、裁判長」という答えだった。傍聴席では遺族の何人かが声を殺して泣いていた。彼は一度も後ろを振り返らなかった。
遺族側の代理人を長年務めてきた弁護士のジョン・レイは、閉廷後にこう言った。あの男の顔には、後悔のかけらもなかった。氷のように冷たかった。
弁護人のマイケル・ブラウンは、方針転換の理由をこう説明した。本人が責任を取ることを決め、公判に進みたくないと言った時点で、弁護側としては彼の利益を守る方向に切り替えた。その内容にはFBIの行動分析部門への協力が含まれている。彼は遺族に公判という試練を経験させたくないと考えたし、自分の家族にも同じことをさせたくないと考えた、と。
もっとも、この説明を額面どおり受け取る法律家は少ない。事件と無関係の弁護士の一人はテレビでこう言っている。方針転換の本当の理由は誰にもわからない。ただ、証拠の積み上がり方と、この裁判で下されてきた判断を見れば、無罪評決の可能性はまったくなかったと思う。
六月十七日、順番に立ち上がった人たち
正式な判決は二〇二六年六月十七日に言い渡された。その日の法廷では、まず十数人の遺族が順番にマイクの前に立った。
メリッサ・バーセルミーの妹アマンダ・ファンダーバーグは、被告に向かって「私が話しているときは、こっちを見て」と言った。彼女が十五歳のときに受けた電話の内容を、法廷で読み上げた。私は十五歳だった。そして、あなたが苦しむことを願う。あなたが誰かにしたことより酷いことを、私はあなたにしてやりたい。地獄で席を取っておいて、私も行くから。傍聴席から息を呑む音が漏れた。
モーリーンの娘ニコレット・ブレイナード=バーンズは、七歳で母を失い、その後三年間、母が行方不明のまま過ごした。私は小さな女の子で、母が必要だった。
彼女の姉妹メリッサ・キャンは、何十年も生存者の罪悪感を抱えてきたと言って泣き崩れた。もっと何かできたのではないか、と。そして、でもこの罪悪感は私が背負うものじゃない、あの男が、あの男だけが背負うものだ、と言った。彼女はまた、被告に向かってこう言っている。あなたは知らなかったでしょうけど、私はあなたにとって最悪の敵になった。私たちの声はどんどん大きくなった。
ミーガン・ウォーターマンの娘リリアナは、母が消えたとき三歳だった。私は母親がいるってどういうことか、一度も知らないまま育った。
ジェシカ・テイラーの親族は、体の一部が海岸で見つかったという電話を受けたときのことを話した。胴体、という言葉を、どうしても頭が受け付けなかった。頭部がない、手がない、と繰り返した。二十三年待った。この日が来ないんじゃないかと思っていた時期もあった。
バレリー・マックの父親は、静かにこう言った。あなたはバレリーの体には酷いことをした。でも、本当のバレリーには指一本触れていない。母親のジョアン・マックは、あの子には夢があった、あなたはそれを全部奪った、正義は果たされた、でも奪われたものは戻ってこない、と言った。
最後に被告に発言の機会が与えられた。彼はこう言った。言える言葉はありません。この部屋で語られたことすべてについて、私に責任があります。私が何を言っても意味を持たない。今はここまでにしておきます。判事が「少しは申し訳ないと思っているのか」と聞くと、「はい」と答えた。
マゼイ判事は判決を言い渡す前にこう述べた。八人の女性を絞め殺したことについて、少しは申し訳なく思っているのだろうと思うことにする。私たちが知っている限りで八人だ。そして、あなたは大男だと言われてきたが、実際には吐き気がするほど小さな男だ、男と呼べるならの話だが、そして卑怯者だ、と続けた。
判決は、一級殺人三件について仮釈放なしの終身刑、二級殺人四件について二十五年から終身、すべて連続して服役する。判事の最後の一言は「連れて行け」だった。
被告の元妻と二人の子どもは法廷に来なかった。代理人を通じて、被害者の遺族に配慮して出席を控えると伝えていた。元妻は逮捕直後に離婚を申し立て、二〇二五年に成立している。彼は逮捕以来ずっと郡拘置所の隔離房にいたが、判決後に州の刑務所へ移送された。控訴権は司法取引で放棄されており、実質的にこの起訴事件は終結した。
それでも、シャナン・ギルバートの死は決着していない
ここが、この事件のいちばん厄介な部分だ。
八人の殺害を認めた男の名前の中に、シャナン・ギルバートはいない。彼女の死は、彼の起訴対象にも、司法取引の対象にも入っていない。捜査当局は一貫して、彼女の死はこの連続殺人とは無関係だという立場を取り続けてきた。当局の見立ては、彼女がパニック状態で暗闇の湿地に走り込み、そこで溺れたというものだ。
サフォーク郡の検死局は二〇一二年、彼女の死因と死の様態をいずれも「不詳」と分類した。積極的に事故死と断定したわけではない。ただ、他殺と判断できるだけの所見も得られなかった、ということだ。遺体は湿地に十九か月あったので、軟部組織はほとんど残っていなかった。
家族はこれを受け入れなかった。
二〇一六年二月、遺族の代理人ジョン・レイが、ニューヨーク市の元主任検死官マイケル・バーデンによる独立した検死報告を公表した。バーデンの見解はこうだ。首の骨、特に舌骨に損傷がある。舌骨は絞頸や縊死でほぼ必ず折れる骨だ。しかもその折れ方が奇妙で、一方の端は粗く割れており、骨の中央には穴が開いていた。この所見は他殺による絞殺と矛盾しない。そして、薬物中毒、溺死、低体温症のいずれについても、それを支持する証拠は見当たらない。
ただし、バーデン自身も「確定的な死因を特定するには証拠が不十分」と書いている。サフォーク郡警察の反論はそこを突いた。この一ページ半の書面には新しい情報は何もなく、結論としては郡の検死局と同じく、死因を確定するには情報が足りないと言っているだけだ、と。
科学的には、両方の言い分に一理ある。長期間屋外にあった白骨化した遺体の頸部骨の損傷は、絞頸によるものか、死後の環境要因や動物によるものか、判別が極めて難しい。だから「絞殺と矛盾しない」も「断定できない」も、どちらも嘘ではない。
家族の側の主張の核心は、実は法医学ではない。妹のシェリー・ギルバートが二〇二二年に言ったことがそれを言い当てている。彼女がロングアイランド連続殺人の被害者だと信じるかどうかは、どうでもいい。あの夜、彼女に何かが起きた。彼女は命がけで走った。恐怖の中にいた。
二十一分の通報の中で、彼女は繰り返し「誰かが追ってくる」と言っている。その恐怖が幻覚だったのか現実だったのかを、警察は結局一度も真剣に調べなかった。家族が怒っているのはそこだ。
母親のマリ・ギルバートは、その決着を見ることなく死んだ。二〇一六年七月二十三日、ニューヨーク州エレンビルの、次女の部屋で遺体で発見された。逮捕されたのは次女本人だった。娘を探して十年闘い、警察と喧嘩し、テレビに出続けた女性の人生の終わり方が、これだった。
複数犯説は、どこへ消えたのか
二〇一一年から二〇二三年まで、この事件を追っていた人のあいだで最も強力だった仮説は「犯人は一人ではない」というものだった。
根拠は明確だった。
二〇一〇年十二月に見つかった四人は、麻布に包まれ、ベルトやテープで拘束され、遺体は損壊されておらず、四百メートルの範囲に集中して置かれていた。ところが二〇一一年春に見つかった遺体群は様子が違った。ジェシカ・テイラーとバレリー・マックは切断されており、しかも体の一部が四十キロ以上離れたマノービルの林に、もう一部が海岸道路に、別々に遺棄されていた。
当時のスポタ地方検事自身が二〇一一年五月の会見で、この二人の遺棄方法は互いに似ているが「ギルゴの四人とは際立って異なる」と述べている。同じ会見で、犯人が複数いる可能性が公式に示唆された。
結果からいえば、この複数犯説は少なくとも二人分については外れた。テイラーとマックの二件は、二〇二四年に同じ人物の起訴対象となり、二〇二六年に本人が認めた。切断という手口の違いは、犯人の違いではなく、時期の違いだったということになる。
地下室から出てきた「設計図」文書には、遺体の切断と「識別のための痕跡の除去」に関する記述があり、実際にテイラーのタトゥーは鋭利な刃物で損壊されていた。身元判明を遅らせるための技術として、彼はある時期にそれをやり、ある時期にはやらなかった。
ただ、複数犯説がまるごと消えたわけではない。この海岸で見つかった遺体のうち、二人はまったく別の事件の被害者である可能性が高いことが、その後の捜査で明らかになった。
「ピーチズ」と呼ばれ続けた女性と、その娘の物語は、別の道をたどった
一九九七年六月二十八日、ヘンプステッド・レイク州立公園で、緑色のプラスチック容器に入れられた女性の胴体が見つかった。左胸に、一口かじられた桃の形をしたハート型のタトゥーがあった。だから捜査員は彼女を「ピーチズ」と呼んだ。名前がわからなかったからだ。
二〇一一年四月十一日、ジョーンズ・ビーチ州立公園の近くで、ビニール袋に入った遺骨が見つかった。「ジェーン・ドウ三号」と呼ばれた。二〇一六年十二月、DNA鑑定で、この二つが同一人物だと確認された。さらに、この人物が、同じく二〇一一年四月にオーシャン・パークウェイ沿いで見つかった生後二歳前後の女の子、「ベビー・ドウ」の母親であることも判明した。母子は似た金製の装身具を身につけていた。
彼女たちに名前が戻ったのは二〇二五年四月二十三日だ。
母親はタニヤ・デニース・ジャクソン、二十六歳。アラバマ州モービル出身で、アメリカ陸軍の退役軍人だった。医療助手として働いていた可能性がある。ブルックリンのサンセットパークで、二歳の娘と暮らすシングルマザーだった。娘の名前はタチアナ・マリー・ダイクス。ジャクソンは家族と疎遠になっており、行方不明届は一度も出されていなかった。彼女もまた、二十八年間、誰にも探されていなかった人だった。
ナッソー郡警察の刑事部門の責任者は、この記者会見でこう言っている。彼女たちは遺棄された時期と場所のせいで、長らくギルゴ・ビーチの連続殺人と結びつけて語られてきた。しかし、その捜査とは無関係である可能性を、我々は排除していない。彼はさらに、被告について「彼だとも言わないし、彼ではないとも言わない」と述べた。
そして二〇二五年十二月、ナッソー郡警察は、タニヤ・ジャクソン殺害の容疑でフロリダ州在住の六十六歳の男性を逮捕した。逮捕されたのは、娘タチアナの父親だった。ただしこの人物は容疑をかけられて訴追された段階であって、有罪が確定したわけではない。そのうえで、捜査当局の位置づけとしては、この件はギルゴ・ビーチの連続殺人とは別の事件だということになる。
海岸道路の捜索が、たまたま無関係の未解決事件の遺骨を掘り出していた、という形だ。
まだ、名前のない人が一人いる
二〇一一年四月四日、四人の遺体が見つかった場所のすぐ近くで、もう一体が見つかった。
若い人物で、女性の衣服を着ていた。染色体はXY型で、法医人類学の分析ではアジア系、おそらく漢民族系。年齢は十七歳から二十三歳ほど。身長は百六十センチから百七十五センチくらい。歯が四本欠けていた。歩き方に影響する骨格の疾患があった可能性がある。死因は頭部への鈍的外傷。死亡してから発見までに五年から十年経っていたとみられる。
捜査当局はこの人物を「アジア系ドウ」と呼んできた。二〇一一年九月に男性としての復顔像が公開され、二〇二四年九月には女性としての復顔像が新たに公開された。トランスジェンダー女性だった可能性が考慮されるようになったからだ。特別捜査班は、衣服の写真、衣服のブランドラベルの画像、遺伝子系図学のデータを公開し、それらを複数のアジア言語に翻訳して情報を求めている。
二〇二六年八月現在、この人物の身元はまだわかっていない。海岸道路で見つかった十人のうち、九人には名前が戻った。残る一人は、十五年経っても誰なのかわからないままだ。誰かの子どもで、誰かの友人だったはずの人が、いまだに「ドウ」という仮の名で呼ばれている。この事件について語るとき、この一点だけはまだ現在進行形だ。
名前を出されてしまった人たちのこと
この事件には、長年にわたって「怪しい」と噂され続けた実在の人物が何人かいる。ここは慎重に書かなければならない部分だ。
シャナンの客だったジョゼフ・ブリューワーと、運転手のマイケル・パク。二人はいずれも警察の事情聴取に応じ、捜査に協力し、ポリグラフ検査を受け、犯罪への関与はないと判断された。ブリューワーはテレビ取材に、彼女がなぜあの通報をしたのか自分にもわからない、彼女の恐怖は現実のものではなかったと思う、自分は彼女に危害を加えていない、家から出ていってほしかっただけだ、と語っている。パクは書面で、彼女に指一本触れていないし失踪とは無関係だと述べている。二人とも、その後十五年以上、この事件が語られるたびに名前を出され続けた。それがどういう経験なのかは想像するしかない。
もう一人が、オーク・ビーチに住んでいた医師のピーター・ハケットだ。彼は郡の救急医療部門の元責任者で、地元では顔役のような存在だった。警察無線を自宅に置いていて、近所で何かあると自分の車で駆けつけるような人だったという。
彼が事件と結びつけられた発端は、シャナンが消えた二日後の五月三日に、彼女の母親マリ・ギルバートに電話をかけたことだ。マリによれば、そのとき彼は、シャナンが自分の家に来た、自分は困窮した女性のための施設を運営している、という趣旨のことを言ったという。
ハケットは当初、その電話をかけたこと自体をテレビで否定した。しかし通話記録が公表されて、電話をかけた事実が確認された。彼はその後、電話をかけたことは認めたうえで、時期は違うし、友人に頼まれて励ますためにかけただけであり、彼女に会ったことも医療行為をしたこともないと主張した。
二〇一二年十一月、遺族側の代理人が彼に対して不法死亡の訴訟を起こした。ただしこの不法死亡の請求は二〇一三年に却下されている。サフォーク郡警察は一貫して、彼を容疑者とはみなしていないと述べてきた。当時の刑事部門の元責任者は、彼は誇張癖のある目立ちたがりではあるが、シャナンの死についても他のどの死についても容疑者ではない、と明言している。
書いておかなければならないのは、これらの人たちは誰も、この連続殺人について起訴されていないし、有罪判決も受けていないということだ。そして二〇二六年に判明した事実によれば、海岸道路の八人を殺したのは、オーク・ビーチの住民でも、その夜あの集落にいた誰かでもなかった。二十五分離れた郊外の住宅街で、家族と暮らし、マンハッタンに事務所を構えていた建築士だった。
「地元の有力者が絡んでいて、だから捜査が止まった」という説は、十年以上この事件の考察の主流だった。実際には、捜査が止まった理由はもっと単純で、もっと制度的だった。警察のトップが自分の暴行事件を隠すのに必死で、FBIを入れることを拒み、検察のトップがそれを庇い、そして被害者が誰も本気で探されない属性の人たちだったからだ。陰謀ではなく、機能不全だった。ただ、機能不全のほうが陰謀より罪が軽いかというと、そんなことはない。
掲示板が十三年間やっていたこと、当たったことと、外したこと
この事件は、ネット上の素人捜査コミュニティが本格的に育った時期と、そっくり重なっている。二〇一一年から二〇二三年まで、海外の大手事件掲示板には、シャナンの二十一分の通報だけを扱ったスレッドが何十ページも積み上がった。オーク・ビーチの航空写真に線を引き、潮位表を持ち出し、彼女が走ったルートを何十通りも再現する人たちがいた。
その集合知が当てたことは、実はかなりある。
捜査の停滞が警察内部の腐敗と結びついているという指摘は、掲示板では二〇一五年のバーク逮捕より前から出ていた。被害者が性風俗で働いていたことが捜査の優先度を下げているという批判も、報道が本格的に書くよりずっと早くから書かれていた。「ピーチズ」と「ベビー・ドウ」が他の被害者とは別系統の事件ではないかという指摘も、二〇一〇年代の段階で繰り返し出ていた。これは結果的に当たった。
外したことも同じくらい多い。
名前を挙げられた個人の数は数十人にのぼる。そのほとんどは、根拠らしい根拠のない状態で「怪しい」と書かれ、写真を貼られ、家族の情報まで晒された。海岸道路の地形に詳しい人物、つまり漁師や測量士や地元の役人でなければ遺棄場所を知り得ない、という論理も長く支持されていた。
実際に起訴された人物は、地元の住民ではあるが、遺棄現場から二十五分離れた場所に住み、特別な地形の専門知識を必要としない、道路脇の藪という誰でもアクセスできる場所を使っていた。犯人像を推理しようとする努力が、実際の犯人像とは違う方向に大量の注目を集めてしまった。
もう一つ、掲示板の議論が構造的に苦手だったことがある。「犯人は複数」という仮説は、遺棄方法の違いという観察から出発しており、論理としては筋が通っていた。しかし実際には、同じ人物が三十年のあいだにやり方を変えていっただけだった。
人間は変わる。連続殺人犯も学習し、道具を替え、失敗から手順を修正する。押収された「設計図」文書が繰り返し編集されていたという事実そのものが、それを示している。手口の同一性から犯人の同一性を推定する方法論は、長期にわたる事件では思ったほど効かない。
二〇二〇年代に入ると、この事件は映画やドキュメンタリー、無数のポッドキャストの題材になった。この可視化には確実に功があった。遺族の言葉が広く届き、捜査を再起動させろという圧力が世論として存在し続けた。同時に、遺族にとっては、いちばん見たくない画像や音声が娯楽として消費され続ける十数年でもあった。二〇二六年四月の罪状変更のとき、被告の生家の前に大勢の記者と事件愛好家が押し寄せたことが報じられている。功と罪を切り分けるのは難しい。
一本の道路と、その両側にあるもの
ロングアイランドという場所について、少し書いておきたい。
オーシャン・パークウェイは、大西洋に面した細長い砂の島の上を東西に走る一本道だ。ジョーンズ・ビーチからロバート・モーゼズ州立公園まで、片側には海、もう片側には湾と湿地。両脇には人の背丈を超える葦と低木の藪が延々と続く。夏の週末には駐車場が満車になるビーチだが、それ以外の季節、それ以外の時間帯には、ほとんど人がいない。特に真冬の夜は、車のヘッドライトの外側は完全な闇だ。
そしてこの道路は、ニューヨーク市の中心部から車で一時間かからない。マンハッタンのオフィス街から、地図の上ではすぐそこにある。それがこの土地の性格を決めている。数百万人が生活する巨大都市圏の縁に、人が誰も見ていない場所が長く伸びていて、しかもそこには舗装された道路が通っていて、車で乗りつけられる。都市の便利さと、荒野の匿名性が、一本の道路の上で同居している。
ロングアイランドのもう一つの顔は、郊外住宅地だ。マサピクア・パークのような町には、芝生の前庭と二台分のガレージがある家が並び、学校があり、教会があり、近所づきあいがある。この事件の被告は、そういう町で数十年暮らしていた。近所の人は彼を、体の大きい、ちょっと変わった、しかし挨拶をする隣人として知っていた。判決のあと地元の住民に取材した記事はどれも似た反応を伝えている。すぐそこにいたのに、と。
この二つの顔――何も見られない海岸道路と、すべてが見られている住宅街――は、たった一本の湾を渡る道でつながっている。車で二十五分だ。この地理そのものが、なぜ十三年かかったのかという問いの一部の答えになっている。捜査は長いあいだ、遺棄現場の地形に詳しい人物を探していた。しかし探すべきだったのは、その道を毎日ふつうに往復している人物のほうだった。
なぜ、この事件は語り継がれるのか
この事件が二〇二六年の判決で終わったあとも語られ続ける理由を、三つに整理しておきたい。
一つ目は、発見のされ方があまりに偶然だったということだ。
もしシャナン・ギルバートがあの夜あの集落に行かなかったら、もし彼女が911にかけていなかったら、もしガス・コレッティが二度目の通報をしていなかったら、もし家族が一年半にわたって警察に食い下がっていなかったら、あの藪は捜索されなかった。誰も探していない女性たちの遺体が、海岸道路沿いに置かれたまま、何十年もそのままだったはずだ。八人分の名前が世に出たのは、誰にも守られなかった一人の女性が、誰にもドアを開けてもらえないまま消えたからだ。この皮肉は、どんな結末が来ても消えない。
二つ目は、制度の失敗が例外的なものではなかったということだ。
この事件で起きたことは、特別に悪質な誰かが特別に悪いことをした結果ではない。行方不明届が受理されにくい人たちがいて、探されにくい人たちがいて、その属性が犯人にとって最も有利な条件になっていた。そして捜査を指揮する立場の人間が自分の保身に忙しく、外部の専門機関を拒み、それを上司が庇った。どの部分も、他の場所で他の事件について何度も繰り返されてきたことだ。二〇二六年の判決後、サフォーク郡の地方検事は、過去の捜査の失敗について郡を代表して謝罪した。謝罪が出たこと自体は前進だが、それは十六年遅かった。
三つ目は、結局のところ終わりきっていないということだ。
八人については、本人が法廷で認め、終身刑が確定した。しかしシャナン・ギルバートの死は、公式には「不詳」のままで、遺族は今も他殺だと主張している。海岸で見つかった一人は、いまだに名前がない。二〇二五年に名前が戻った母娘は別の事件の被害者であり、その裁判はこれからだ。そして担当した検事が判決の日に言ったとおりだ。クロージャーというのは難しい言葉です、この家族たちに、決着が来ることはありません。
彼女たちを、職業で要約してはいけない。この事件から持ち帰るべき教訓を一つだけ選ぶとしたら、それだと思う。法廷でニコレット・ブレイナード=バーンズが言ったとおり、どんなセックスワーカーもそうであるように、彼女の母親は、丸ごと一人の人間だった。
解決したあとに残るもの
事件が解決したあとに残るものは何か、という視点でもう少し掘り下げておきたい。
まず、この事件は法科学の歴史の中でかなり重要な位置を占めることになった。
決め手になったのは、根のない、二十年近く屋外に放置されて劣化した毛髪から核DNAを取り出すという技術だ。従来の毛髪鑑定は、母系でしか追えないミトコンドリアDNAか、顕微鏡による形態比較しか使えなかった。後者は冤罪の温床として悪名高く、アメリカでは過去の有罪判決の見直しにつながった経緯がある。全ゲノムシーケンシングとそれを扱う確率的判定プログラムは、この長年の壁を破る可能性を持っている。二〇二五年九月のニューヨーク州の証拠採用決定は、その手法が主要な州の刑事法廷を通過した最初期の事例の一つになった。
ただし、ここには慎重に考えるべき論点がある。
フライ聴聞で弁護側が突いたのは、単に「新しすぎる」ということではなかった。従来のDNA鑑定が答えてきた問いは「無関係な他人がたまたま同じ遺伝的プロファイルを持つ確率はどれくらいか」だった。一方、この新しい手法が答えているのは「既に配列が解読されている数千人の集団の中で、この試料の供給者である可能性が最も高いのは誰か」という別種の問いだ、というのが反論の骨子だった。
裁判所はその主張を、実証的な反証を欠くとして退けた。結論として妥当だったと考える研究者は多いが、この論点そのものが消えたわけではない。今後、被告側にとって不利な事件だけでなく、有利な事件でもこの手法が使われるようになったとき、同じ議論がもう一度必要になる。技術が法廷に入るのは一瞬だが、その技術の限界を法廷が理解するには時間がかかる。
次に、捜査手法の面での教訓だ。
二〇二二年の特別捜査班が六週間で突破口を開いたという事実は、しばしば「新しい技術が解決した」という話に還元される。だが実際に最初の一歩を作ったのは、技術ではなく読み直しだった。緑のシボレー・アバランチという情報は、二〇一〇年の時点で被害者の同居人が警察に話していた。基地局データも、大部分は当時から存在していた。つまり、犯人を指す情報は十二年間ずっと資料の中にあった。足りなかったのは、それを他の情報と突き合わせる人手と、突き合わせようという意思だ。
これは大事な区別だと思う。
技術の進歩を待つしかなかった部分と、その時点でもやろうと思えばできた部分が、この事件では混ざっている。毛髪から核DNAを取るのは、二〇一〇年には物理的に無理だった。しかし、目撃された特徴的な車種を車両登録データベースで絞り込むのは、二〇一〇年でもできた。バーナーフォンと個人の携帯の基地局記録を突き合わせるのも、当時の技術で可能だった。実際、その作業をやろうとしていたのはFBIで、それを止めたのが当時の郡警察のトップだったと複数の関係者が証言している。「技術が追いついていなかった」という説明は、半分は正しく、半分は責任の所在をぼかす言い方になってしまう。
三つ目に、二〇二六年四月の罪状変更の意味を考えたい。
有罪答弁は遺族にとって公判という長い試練を回避させた。証言台に立たされる遺族はいなくなり、法医学的な細部が何週間も報道されることもなくなった。同時に、失われたものもある。公判が開かれていれば、証拠が一つずつ法廷で検証され、記録として残ったはずだ。捜査の失敗の経緯も、証人尋問という形で公的に記録された可能性が高い。
有罪答弁は事件を終わらせるが、事件の完全な記録を作ることはしない。彼が答えたのは「はい」と「有罪」と「絞殺」だけで、動機についても、なぜ特定の時期に殺し、別の時期には殺さなかったのかについても、法廷では何一つ説明されなかった。彼はFBIの行動分析部門への協力に同意しているので、そこで何かが語られる可能性はある。しかしそれは公開の記録にはならない。
そして、最も大きな未解決の問題として残っているのが、この人物が認めた八人がすべてなのか、という問いだ。
判事は判決の場で「私たちが知っている限りで八人だ」とわざわざ付け加えた。捜査当局も、他にも関連する可能性のある事件を調べていると繰り返し述べてきた。三十三年にわたる期間、一九九三年に最初の殺害があり、二〇一〇年に最後の殺害があった。その間に十七年の幅がある。この種の事件で、犯行が完全に均等に分布することはまずない。空白期間があったのか、それとも未発見の被害者がいるのか。答えを持っているのは本人だけで、本人は法廷でそれを話さなかった。
最後に、この事件が残した文化的な影響についても触れておきたい。
二〇一三年に出たロバート・コルカーの著作は、この事件を「連続殺人犯を追う話」ではなく「アメリカで最も探されにくい人たちの話」として書いた。この視点の転換は、その後のこの分野の書き方をかなり変えた。犯人が誰かに紙幅の大半を割くのではなく、被害者一人ひとりの生活と、その人が消えたときに社会がどう反応したかを書く。この事件の報道の質が、最初の数年と最後の数年でまったく違うのは、その影響が大きい。
二〇二六年六月十七日、法廷で発言した十数人の遺族のうち、多くは事件当時まだ幼い子どもだった人たちだ。三歳で母を失った娘が二十歳になり、七歳だった娘が二十四歳になって、母を殺した男の前に立った。
彼女たちが法廷で語ったのは犯人のことではなく、母親のことだった。母の声、母の癖、母が果たせなかった約束。ある人はこう言った。母は心が若かったけれど、それ以前にただ若かった、と。
この事件で最終的に記録に残されるべきものは、たぶんそういう言葉のほうだと思う。海岸道路の藪から出てきた骨の数でも、押収された端末の台数でもなく。
