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グリーンリバー・キラー――二十年逃げ切った男が、遺体の在り処と引き換えに死刑を免れた日

一九八二年七月十五日、川に浮いていたのは十六歳の少女だった

ワシントン州キング郡を流れるグリーンリバーは、名前のとおり緑がかった水の色をした、どこにでもあるような川だ。カスケード山脈のふもとから流れ出して、ケントやオーバーンといった郊外の町を抜け、シアトルの南でデュワミッシュ川と名前を変えて海に注ぐ。夏になれば子どもがゴムボートで下り、川辺には釣り人が座り、両岸には背の高い雑草と柳が茂って、水面に緑の影を落としている。工場と農地と新興住宅地が混ざり合った、退屈といえば退屈な風景だ。

一九八二年七月十五日、その川のペック橋のあたりで、通りかかった人が水に浮かぶものを見つけた。最初はマネキンか、捨てられた人形だと思ったという話が残っている。川べりでは珍しいことじゃない。誰かが粗大ごみを投げ込むなんてしょっちゅうあった。だが近づいて見た瞬間、それが人間だと分かった。

女性はウェンディ・リー・コフィールド、十六歳。七月八日から行方が分からなくなっていた。里親家庭を出たり戻ったりを繰り返していた少女で、家族に電話をかけると決まって「もうすぐ帰る」と言っていたそうだ。彼女はもうすぐ帰らなかった。

このとき、キング郡の捜査当局はまだ何も分かっていない。単発の事件として処理される可能性は十分あった。実際、最初の何日かは「よくある一件」として扱われている。誰も、この一件が二十年近く続く悪夢の入口だとは思っていなかった。

ひと月もたたずに、同じ川で三人が見つかった夏

八月十二日、同じグリーンリバーで二十三歳のデブラ・リン・ボナーが見つかった。ここでさすがに空気が変わる。同じ川で、同じような境遇の若い女性が、ひと月のうちに二人。偶然と呼ぶには気味が悪すぎた。

決定的だったのは八月十五日だ。この日、川でいかだ遊びをしていた男性が、水中に沈んでいる人影に気づいて通報した。駆けつけた捜査員が川の中から二人、そして岸の草むらからもう一人を見つけている。マーシャ・フェイ・チャップマン三十一歳、シンシア・ジーン・ハインズ十七歳、オパール・シャーメイン・ミルズ十六歳。オパールが行方不明になったのは、その三日前でしかなかった。

一日に三人。しかも一人はほんの数日前まで生きていた。つまり犯人はまだ近くにいて、まだ止まっていない。現場に立った捜査員たちの背筋が凍ったという証言はいくつも残っている。夏の午後の川辺で、蝉ならぬ蛙の声が響く中、彼らは自分たちが何と向き合っているのかをようやく理解した。

キング郡保安官事務所はこれを受けて特別捜査班を立ち上げる。のちに「グリーンリバー・タスクフォース」と呼ばれることになるチームだ。当時三十代前半の若手刑事デイヴ・ライカートが現場を仕切り、州司法長官事務所からはロバート・ケッペルという捜査官が助言役として加わった。ケッペルは一九七四年のテッド・バンディ事件を担当した経験を持つ、当時のアメリカでは数少ない「連続殺人の実務を知っている男」だった。

そして七月十七日に行方不明になっていたジゼル・アン・ラヴォーン十七歳の遺体が、九月二十五日にシアトル・タコマ国際空港の南側の藪の中から見つかる。川ではなかった。犯人は捨て場所を変えていた。この一点だけでも、捜査班が相手にしているのがどれだけ厄介な人間かが分かる。学習する犯人だった。

空港の南に伸びる一本の道が、すべての舞台だった

事件を理解するには、パシフィック・ハイウェイ・サウスという道路のことを知る必要がある。地元では単に「ザ・ストリップ」と呼ばれていた。シアトル・タコマ国際空港のすぐ脇を南北に貫く幹線道路で、当時は安モーテル、ドライブイン、ガソリンスタンド、けばけばしいネオンのバー、二十四時間営業のダイナーが延々と続いていた。飛行機の離着陸の轟音が数分おきに空を裂き、路肩には常に誰かが立っている。

一九八〇年代前半のこのエリアは、ちょうど景気の谷間にあった。ボーイングの雇用が揺れ、地域経済が冷え込み、家を出た若者が流れ着く場所になっていた。行政区としてもややこしい土地で、シアトル市でもタコマ市でもなく、郡の直轄地域が細切れに入り組んでいた。管轄がまたがるということは、事件の情報が一箇所に集まりにくいということでもある。市警に届いた失踪届と郡保安官が受けた通報が、別々のファイルに眠ったまま何年も突き合わされない。犯人にとってこれ以上都合のいい地形はなかった。

そして押さえておきたいのは、この道が「誰かが消えても誰も気づかない場所」として設計されていたわけではない、ということだ。ここで働き、暮らし、通っていた人々には全員に家族がいて、友人がいて、行きつけの店があった。ただ社会の側が、この道の上で起きることを真剣に受け取る習慣を持っていなかった。それが二十年の遅れを生む。

消えた女性たちは、「被害者」になる前に一人の人間だった

この事件について書かれた古い記事を読むと、被害者がまとめて一つの単語で呼ばれていることに気づく。当時の新聞もテレビも、彼女たちを職業の名前でひとくくりにした。それは報道の手抜きであると同時に、社会全体の姿勢そのものだった。だからここでは、できるかぎり一人ずつのことを書いておきたい。

最初に見つかったウェンディ・リー・コフィールドは、詩を書くのが好きな十六歳だったと家族が語っている。落ち着かない少女で、施設と家を行き来していたが、祖母のことを慕っていた。オパール・シャーメイン・ミルズは高校生で、両親と一緒に暮らしていた。行方不明になった日、彼女は母親に電話をかけて迎えに来てほしいと頼んでいる。母親が向かったときにはもういなかった。この一本の電話のことを、彼女の家族は何十年も抱えて生きることになる。

マーシャ・フェイ・チャップマンは三十一歳で、三人の子どもの母親だった。ミシシッピ生まれで、シアトルに移り住んでいた。近所の人は彼女のことを、よく笑う面倒見のいい女性として覚えている。デブラ・ロレイン・エステスはまだ十五歳だった。九月二十日に姿を消し、遺体が見つかったのは一九八八年、それも別人として登録されたまま長く放置されている。彼女が偽名を使っていたせいで、身元の確認が遅れた。偽名を使わなければ生きていけない年齢の子が、なぜそんな場所にいたのかという問いを、社会は当時ほとんど立てなかった。

リンダ・ジェーン・ルールは十六歳。父親のロバート・ルールという人物は、のちに法廷で忘れがたい言葉を残すことになる。メアリー・ブリジット・ミーハンは十八歳で、行方不明になったとき妊娠していた。ローリー・アン・ラズポトニクは十五歳で、一九八二年十一月に消えた。彼女の遺体は一九八五年に発見されていたが、身元が分からず「ボーンズ17」という符号で呼ばれ続けた。名前が戻ってきたのは、実に四十年後の二〇二三年、遺伝子系譜解析という新しい技術によってだ。

パトリシア・イエローロウブは先住民の女性で、確認されている被害者の中では最も遅い一九九八年に命を落としている。この事件が「一九八〇年代の話」ではないことを、彼女の名前が突きつけてくる。犯人は九〇年代を平然と生き延び、平然と続けていた。

四十九人という数字を口にするのは簡単だ。でも四十九人というのは、四十九の誕生日と、四十九の好きな食べ物と、四十九のいちばん仲のよかった友達と、四十九分の家族の食卓のことだ。捜査資料の整理番号ではない。

五十人がかりで追いかけて、それでも二十年逃した理由

グリーンリバー・タスクフォースは、当時としては桁外れの規模になった。最盛期には五十人を超える捜査員が投入され、FBIも加わり、アメリカ史上でも屈指の費用がかかった殺人捜査として記録されている。寄せられた情報提供は数万件。容疑者としてファイルが作られた人物は数千人にのぼった。

ここに落とし穴があった。情報が多すぎたのだ。一九八〇年代前半の捜査というのは、要するに紙とカードとファイルキャビネットの世界だった。数万件の通報を、名前と日付と特徴で横断的に検索する手段がない。ある捜査員のデスクにあるメモと、別の捜査員が三年前に取った供述が、同じ人物を指していても誰も気づかない。実際、ゲイリー・リッジウェイという名前は複数回、別々の経路でタスクフォースのファイルに登場している。それでも彼は網の目をすり抜けた。網の目が広すぎたのではなく、網が縫い合わされていなかった。

遺体の発見場所も捜査を混乱させた。犯人は少なくとも数箇所の「まとめ場所」を使っていて、それがスターレイク周辺、オーバーンの墓地の裏手、四一〇号線沿い、ノースベンド方面と広範囲に散っていた。さらに、オレゴン州のポートランド近郊で被害者の遺骨の一部が見つかったことで、捜査は州境をまたぐ話になる。管轄が増えれば増えるほど、意思決定は遅くなる。

森の中の捜索がどんなものだったかも書いておきたい。ワシントン州西部の林は、ダグラスファーとシダーが日光をほとんど通さない濃い森で、地面は倒木とシダと湿った腐葉土に覆われている。雨が多く、土は年中ぬかるんでいる。そこに数十人が横一列に並んで、棒で藪をかき分けながら一歩ずつ進む。何日も歩いて何も出ない日が続き、出たと思えば動物の骨だった、ということの繰り返しだ。捜索に加わったボランティアや若い保安官補が、あの湿った匂いを一生忘れられないと語っている。

そして九〇年代に入ると、事件はゆっくり冷えていった。予算が削られ、人員が引き上げられ、最後には数人、時期によってはほぼ一人の刑事が資料の山と向き合うだけになる。世間の関心も薄れた。新聞の一面から消えて、地元でも「昔あった未解決事件」という扱いになっていく。その間も犯人は、シアトル南郊のごく普通の家で、ごく普通に暮らしていた。

一九八三年、その家のドアを叩いた警官がいた

取り逃がした場面をひとつずつ数えていくと、胸が悪くなる。中でも語り継がれているのが、一九八三年春のマリー・マルヴァーの一件だ。

十八歳のマリーが消えた夜、彼女と一緒にいた男性が、彼女が濃い色のピックアップトラックに乗り込むところを見ていた。彼は不審に思って車を追いかけたが、途中で見失っている。それでもナンバーの一部と車の特徴を覚えていた。数日後、彼と彼女の父親は自分たちで近隣を回り、条件に合うトラックが停まっている家を実際に見つけ出した。デモイン地区にある一軒の家だった。

彼らは警察に伝え、警官がその家を訪ねている。応対したのは中年の男で、そんな女性は知らないと答えた。警官はそれで引き上げた。家の主はゲイリー・リッジウェイだった。

マリー・マルヴァーの遺体が見つかったのは、二〇〇三年九月のことだ。リッジウェイ本人が場所を教えたことによる。あのとき警官がもう一歩踏み込んでいたら、というのは後知恵でしかない。当時のリッジウェイには前科らしい前科がなく、令状を取れる材料もなかった。それでも、家族が自力で犯人の家までたどり着いていたという事実は、この捜査の何かを象徴している。制度が届かなかった場所に、愛する人を探す人間の執念だけが届いていた。

同じ時期、タスクフォースは別の人物に強い関心を向けていた。地元のタクシー運転手だったメルヴィン・フォスターという男で、彼は自分から捜査に近づいてきて、被害者たちのことをよく知っていると語り、記者の取材にも積極的に応じた。捜査班は彼の身辺を徹底的に洗い、自宅の敷地を掘り返しさえした。だが起訴に足る証拠は出ず、彼は最後まで起訴されていない。この一件に注ぎ込まれた時間と人員は、そのまま本物の犯人への猶予になった。

嘘発見器が「この男はシロだ」と言った日

もうひとつ、この事件が捜査手法の教科書に載る理由がある。一九八四年、リッジウェイはポリグラフ検査、いわゆる嘘発見器の検査を受けている。そして、通っている。

彼はこの時点ですでに複数のルートで名前が挙がっていた人物だった。にもかかわらず「反応に問題なし」という結果が出たことで、捜査班の中での彼の優先順位は下がった。ポリグラフというのは心拍や発汗や呼吸の変化を測る装置で、嘘そのものを検出しているわけではない。動揺しない人間、罪悪感の回路が普通と違う人間には効かない。それが理屈としては知られていても、現場では「機械が通したのだから」という重みを持ってしまう。

後年、この結果は「ポリグラフを証拠として扱ってはいけない理由」の代表例として繰り返し引かれることになった。当のリッジウェイは、逮捕後の取り調べで検査を受けたときのことを問われ、特別なことは何もしていないという趣旨の答え方をしている。彼は緊張していなかった。それだけの話だった。

死刑囚が「協力させてくれ」と手紙を書いてきた

この事件を語るとき、どうしても出てくるのがテッド・バンディの名前だ。都市伝説めいた尾ひれが山ほどついているので、分かっている範囲を整理しておきたい。

一九八四年、フロリダ州の死刑囚監房にいたバンディが、ロバート・ケッペルに宛てて手紙を書いた。ケッペルは十年前、ワシントン州でバンディ自身を追っていた捜査官だ。手紙の中身は、要するに「グリーンリバーの犯人については自分が一番よく分かるはずだから、力を貸したい」というものだった。

ケッペルとライカートは実際にフロリダへ飛び、バンディと面会している。バンディは犯人のことを「リヴァーマン」と呼び、三人称で語り続けた。彼が出した見立てのうち、後になって当たっていたと評価されているのは、犯人が遺棄場所に何度も戻っているだろうという点だ。だから新しく遺体が発見されても公表を遅らせ、その場所を張り込め、と助言している。犯人は自分の作り出した状況を確認しに来る、というのが彼の主張だった。実際、リッジウェイは後の供述で現場に戻っていたことを認めている。

ただし、ここからが大事なところだ。バンディの助言でリッジウェイが捕まったという事実はない。張り込みは実行されたが成果には結びついていない。バンディが提供したのは大枠の心理的な当たりであって、名前も車も住所も出てこなかった。しかも彼の動機はきわめて怪しい。死刑執行を先延ばしにする材料が欲しかったこと、そして他人の事件を語るという安全な形で自分の記憶を味わい直したかったこと、この二つは当時の捜査官自身が指摘している。ケッペルは後に「リヴァーマン」という題の本を書き、この一連のやりとりを詳細に記録した。二〇〇四年にはテレビ映画にもなっている。

つまり「バンディが捜査に協力してグリーンリバー・キラーを追い詰めた」という話は、半分だけ本当だ。彼は確かに助言した。だが事件を動かしたのは彼ではない。ネット上でこの逸話が誇張されがちなのは、犯罪者同士の対話という構図がドラマとして強すぎるからだろう。バンディは一九八九年一月に処刑された。そのときリッジウェイはまだ捕まっておらず、まだ止まっていなかった。

プロファイルは当たっていた、ただし当たっただけだった

FBIの行動科学班からはジョン・ダグラスが加わり、犯人像の分析を出している。彼が描いたのは、この土地をよく知る地元の男で、目立たない仕事に就いており、女性を軽んじる感情を強く抱えていて、天才的な計画者などでは全くない、という像だった。

答え合わせをすると、かなり当たっている。リッジウェイはこの地域の高校を出て、レントンのケンワース社のトラック工場で塗装工として何十年も働き続けた男だった。学習障害があり、知能検査の数値も高くない。近所づきあいはむしろ良好で、宗教活動にも顔を出していた。プロファイルは的を外していない。

だがそれが何の役に立ったかというと、正直、あまり役に立たなかった。「この地域に住む、目立たない仕事の中年男性」という条件に当てはまる人間は、シアトル南郊に何万人といる。プロファイリングは容疑者リストを絞る道具にはなっても、リストを作る道具にはならない。この事件は、プロファイリングという手法の有効性と限界を同時に証明してしまった。当時のメディアはプロファイラーを一種の超能力者のように描きたがったが、現場の捜査官はもっと冷静だった。彼らが欲しかったのは犯人の性格分析ではなく、物証だった。

一九八七年に採った唾液が、十四年間ただ眠っていた

一九八七年四月、捜査班はついにリッジウェイの自宅の捜索令状を取った。家の中を調べ、毛髪を採り、そして口の中にガーゼを含ませて唾液を採取した。当時としては先を見た判断だった。DNA鑑定という言葉自体がまだ真新しく、法廷で使われ始めたばかりの時代だ。

しかしその時点の技術では、この試料から犯人と結びつく答えは出せなかった。当時の鑑定法は大量の、しかも状態のいい試料を必要とした。屋外に長期間放置された遺体から採取された微量の資料など、まったく歯が立たない。試料は証拠保管室に収められ、そのまま十四年間眠り続けた。

ここが、この事件のいちばん残酷な部分かもしれない。答えは一九八七年からずっと箱の中にあった。誰も読めなかっただけだ。そしてその十四年のあいだに、被害者は増え続けた。

似た話がもうひとつある。一九八二年の最初期の被害者の衣類に、ごく小さな塗料の粒が付着していた。これも回収され、保管され、そして二十年近く分析されなかった。理由は単純で、当時の捜査は無数の物証を抱えていて、優先順位をつけざるを得なかったからだ。だがその粒が何だったのかは、後で分かる。

二〇〇一年十一月三十日、工場の駐車場で

風向きが変わったのは二〇〇一年だ。デイヴ・ライカートは当時キング郡の保安官になっていて、彼はもう一度この事件に人と金をつけると決めた。冷えきったファイルを掘り返す作業の中心にいたのが、この事件を何年も一人で抱え続けてきたトム・ジェンセン刑事だった。彼は保管されていた古い試料を、州の犯罪研究所に送り直した。

このころの鑑定技術は、一九八七年とは別物になっていた。STR型検査、つまり短い反復配列を見るタイプの検査と、PCRによる増幅技術の組み合わせによって、微量で劣化した試料からでも個人識別ができるようになっていたのだ。研究所は、複数の被害者から採取されていた資料と、リッジウェイの唾液から得られた型を突き合わせた。一致した。

二〇〇一年十一月三十日、リッジウェイはレントンのケンワース工場での仕事を終えて出てきたところを逮捕された。五十二歳。作業着姿の、どこにでもいる中年の工場労働者だった。近所の人も同僚も、報道を見て言葉を失っている。彼は物静かで、几帳面で、車が好きで、聖書の勉強会に出ていて、要するに「そういう人には見えなかった」男だった。

このとき起訴されたのは四件。証拠が固いものだけに絞った、抑制された立件だった。

塗料の粒が、さらに三人の名前を呼び戻した

続いて効いてきたのが、あの塗料だ。初期の被害者の衣類に付いていた微細な球体を顕微鏡と成分分析にかけたところ、ケンワースの工場で当時使われていた特定の工業用塗料の組成と一致した。リッジウェイはそこで塗装工として働いていた。作業着に付いた塗料が持ち出され、被害者の衣類に移った、という筋道が立つ。

この分析によって、ウェンディ・コフィールド、デブラ・ボナー、デブラ・エステスの三件が追加され、起訴は七件になった。二十年近く前に袋に入れられ、ラベルを貼られ、棚に置かれたままだった小さな粒が、三人の名前を法廷に呼び戻した。

物証の保管という地味な作業が事件を解いた、というのはこの事件の重要な教訓だ。誰かが一九八二年にきちんと袋詰めして記録を残していなければ、二十年後の技術は何も見ることができなかった。

「これが真実にたどり着く唯一の道だった」

さて、ここからが最大の論争点になる。キング郡の検察官ノーム・マレンは、当初この事件で死刑を求める方針を明らかにしていた。ワシントン州には当時、死刑制度があった。四十九人を殺した男に極刑を、という世論は圧倒的だった。

ところが二〇〇三年、検察と弁護側のあいだで取引がまとまる。条件はこうだ。リッジウェイは死刑を免れる。その代わり、彼はまだ発見されていない遺体の場所を明かし、余罪を含めてすべてを供述する。

この取引が結ばれた背景には、冷徹な計算があった。検察が確実に有罪を取れるのは七件だけだった。残りの被害者については、遺体が見つかっていないか、見つかっていても証拠が朽ちていて立証できない。死刑判決を求めて七件で裁判をやり、仮に勝ったとしても、四十人以上の女性はそのまま「行方不明」の欄に残る。家族は娘を埋葬することもできない。マレンはそれを「真実への道」と表現した。ある副検事は、四十一人の被害者はこの取引がなければ起訴状に名前すら載らなかっただろう、と述べている。

取引の後、リッジウェイは半年近くにわたって取り調べを受けた。彼は捜査員に付き添われて森や崖の斜面を歩き、二十年前に自分がどこへ行ったかを思い出そうとした。二〇〇三年の夏から秋にかけて、エナムクロー付近から、そしてデモイン方面から、実際に新たな遺骨が回収されている。マリー・マルヴァーの家族が娘を取り戻したのはこのときだ。

そして二〇〇三年十一月五日、彼は四十八件の第一級加重殺人と、四十八件の証拠隠滅について有罪を認めた。

取引を支持した人たちの言い分

賛成側の論理はまず何より、遺体が戻ったという一点に尽きる。取引がなければ、四十を超える家族が永久に葬儀を挙げられなかった。行方不明のまま二十年を過ごした親にとって、遺骨が一片でも戻ることの意味は、外側からは測りきれない。娘の死を確定させることが、ようやく悲しむことを許してくれる、と語った遺族がいる。

もうひとつは、事件の全体像が記録として残されたことだ。取り調べの記録は膨大な量になり、捜査手法の検証、行動科学の研究、そして今後の未解決事件の照合に使える資料になった。ある意味で、この取引は司法が犯人から知識を買い取る取引でもあった。

さらに現実的な事情もある。死刑を求める裁判は途方もなく時間と金がかかり、判決が出ても上訴が何十年も続くのが通例だ。ワシントン州は結局、二〇一八年に州最高裁が死刑を違憲と判断し、二〇二三年には法律上も廃止している。つまり仮に死刑判決が出ていたとしても、彼が処刑された可能性は現実には低かった。この点を挙げて、取引は損をしていない、と論じる法律家は多い。

取引に納得できなかった人たちの言い分

一方で、反対の声も当然あった。もっとも根本的なのは、四十九人を殺した人間が生きて刑務所で老いていくことを司法が認めた、という事実そのものへの拒絶感だ。制度が用意した最も重い罰を、犯人自身が持っている情報と引き換えに免除される。これは、情報を多く持っている犯人ほど得をする仕組みではないか、という批判が出た。逆説的だが、殺した人数が少なければ死刑になり、多ければ取引材料が増えて助かる。

次に、供述の信頼性の問題がある。リッジウェイが言うことを検証する手段は限られていた。彼は自分に有利になるように話を調整できる立場にいた。実際、彼の供述には食い違いや、後に否定された部分がある。捜査側が求める答えに合わせて話を作っている、と感じた関係者もいた。真実と引き換えに命を助けたのに、その真実が本当に真実だと誰が保証するのか。

三つ目に、被害者の家族の一部にとっては、取引は自分たちの声を聞かずに決められたものだった。もちろん検察は遺族に説明し、意向を確認している。だが四十九家族すべての意見が一致するはずもない。娘を埋葬できることを取ったほうがいいという家族と、それでも極刑を求めたい家族が、同じ部屋に座らされた。その居心地の悪さを、後年インタビューで語った遺族がいる。

二〇〇三年十二月十八日、法廷でマイクの前に立った人たち

判決言い渡しは二〇〇三年十二月十八日、リチャード・A・ジョーンズ判事のもとで行われた。四十八件の連続する終身刑と、証拠隠滅について一件あたり十年、合計四百八十年が加算された。仮釈放はない。

だがこの日、法廷でいちばん記憶されたのは判決文ではなかった。遺族が一人ずつマイクの前に立ち、被告に直接語りかける時間が設けられていて、それが何時間も続いたのだ。

娘のことを語り続けた父親がいた。あの子は歌が好きだった、犬を拾ってきた、口げんかの最後はいつも自分から謝ってきた。そういう話を、殺した男の顔を見ながら順番に語る。会場には四十を超える家族が集まっていた。写真を掲げる人、途中で言葉に詰まって泣き崩れる人、原稿を用意してきたのに一行も読めなかった人がいた。憎しみをまっすぐぶつけた家族もいる。ある被害者の兄は、お前は毎日少しずつ死んでいくことになる、という趣旨のことを言い放った。傍聴席が静まり返った。

そして、この日の空気を変えた人物がいる。リンダ・ジェーン・ルールの父親、ロバート・ルールだ。長い白髭をたくわえたサンタクロースのような風貌の男性で、彼はマイクの前に立ってこう言った。ここにはあなたを憎んでいる人がたくさんいる。私はその一人ではない。あなたがしたことを、私は赦す。

それまで表情ひとつ変えなかったリッジウェイが、このとき初めて泣いた、と複数の傍聴者が証言している。赦しを受けて泣くというのは、どう解釈すべきなのか、いまだに議論がある。演技だったという見方もあれば、憎悪には慣れていたが赦しには耐えられなかったという見方もある。ロバート・ルール自身は、あれは相手のためではなく自分のために言ったのだと後に語っている。憎み続けることは自分を蝕む、それを娘は望まない、と。

ジョーンズ判事は最後に被告に向けて、あなたが殺した女性たちは使い捨ての存在ではなかった、あなたの欲望を満たすためにこの世界に置かれた菓子の粒などではなかった、という趣旨のことを述べている。この一文は、事件を通じて社会が被害者に対して取ってきた態度そのものに向けられた言葉だった。

リッジウェイ自身も短い謝罪文を読んだ。長く続けてきたことを申し訳なく思う、被害者の家族の苦しみを理解している、という内容だった。抑揚のない読み上げだったと報じられている。多くの遺族はそれを受け取らなかった。

四十九か、七十一か、八十か。数字が信用できない理由

有罪が確定しているのは四十九件だ。二〇〇三年に四十八件、そして二〇一一年二月に、レベッカ・マレーロという女性についてもう一件が追加された。彼女の遺骨は二〇一〇年十二月にオーバーン近郊の谷で見つかっている。

ところが本人の供述はそこにとどまらない。取り調べの過程で彼は六十五人と言い、七十一人と言い、最終的には八十人近いと語ったとされる。数えきれなくなったと述べたとも伝えられている。

この数字をどう扱うべきかは難しい。まず、過大に申告する動機が彼にはあった。取引の枠組みの中で、彼が持つ価値は「情報の量」だった。多く語れば語るほど、自分は捜査にとって有用な存在であり続けられる。加えて、この種の人間には自分の「実績」を誇りたがる傾向があるという指摘は、複数の専門家から出ている。逮捕を主導したライカートは、彼のことを病的な嘘つきだと明言してきた。

逆に、過小に申告している可能性もある。彼が捨てた場所のうち、いくつかはいまだに特定されていない。森に置かれた遺体は数年で骨だけになり、動物に散らされ、腐葉土に沈む。行方不明のまま届出すら出されなかった女性がいた可能性は、当時の社会状況を考えれば低くない。そして実際、身元不明のまま何十年も番号で呼ばれていた遺骨が、二〇二三年に十五歳のローリー・アン・ラズポトニクだと判明している。二〇二四年にも別の身元判明の報道があった。つまり四十九という数字は、確定というより「現時点で証明できた分」に過ぎない。

さらに二〇二四年秋、リッジウェイが一時的にキング郡の拘置施設に移送された事実が伝えられ、その理由は当初伏せられていた。翌年になって、新たな遺体の所在に関する捜査だったことが明らかにされている。事件は二〇二〇年代になってもまだ終わっていない。

他の事件と結びつけたがる誘惑と、その落とし穴

ここまで巨大な事件になると、周辺の未解決事件を全部この男に結びつけたくなる引力が働く。ネット上には、ワシントン州やオレゴン州の八〇年代の未解決事件をリストにして、これも彼ではないかと並べる考察がいくつも流通している。彼が長距離のドライブをしていた時期や、出張で州外に出ていた記録を根拠に、カリフォルニアやネバダの事件との関連を主張するものもある。

だが冷静に見るべき点がいくつかある。まず、リッジウェイの行動には強い地理的な偏りがあった。彼はほぼ一貫して、自宅と職場を結ぶ数十キロの範囲で動いていた。捜査当局が確認できた州外の関連は、オレゴン州で遺骨が見つかった件など、ごく限られている。しかもその件も、彼が捜査をかく乱するために遠くへ運んだという説明で理解されている。

次に、彼自身が「やった」と言った事件のうち、確認作業で否定されたものがある。実在しない被害者を語ったり、時期が合わなかったり、すでに別の犯人が特定されている事件を口にしたこともあった。逆に、彼が関与を否定した有名な事件を彼のものだと主張する説もあるが、そちらにも決め手はない。有罪が確定していない事件を彼の犯行だと断定するのは、被害者の遺族にとって二重の残酷さになりかねない。誰かの事件を間違った犯人に貼りつけるということは、本当の犯人を野放しにするということでもある。

この事件の教訓のひとつは、まさにここにある。二十年間、捜査を遅らせたのは、証拠のない推測に人と時間を吸い取られたことだった。同じことを、いまインターネットの上で繰り返す必要はない。

掲示板と考察界隈が、四十年経ってもまだ噛み続けているもの

海外の掲示板でも日本語圏でも、この事件は定期的に蒸し返される。噛まれ続けている論点はだいたい決まっている。

最大のものは、やはり「二十年放置された物証」だ。一九八七年の唾液も、一九八二年の塗料も、ずっとそこにあった。なぜもっと早く調べなかったのか、という怒りは今でも根強い。これに対する反証としては、当時の技術で調べていたら試料を使い切って失っていた可能性が高い、という指摘がある。DNA鑑定は初期には多量の試料を消費した。慎重に温存したからこそ、二十年後の技術が使えた。皮肉な話だが、遅らせたことが結果的に事件を解いた側面がある。

次に多いのが、バンディの助言をめぐる誇張だ。「バンディが犯人を言い当てた」「バンディの推理で逮捕された」といった書き込みは今も出回る。実際には前述のとおり、逮捕を実現したのは科学捜査だ。ただし「犯人は現場に戻る」という見立てが当たっていたこと自体は事実であり、そこを認めた上で誇張を剥がす、というのが正確な扱いになる。

三つ目は、ポリグラフへの不信だ。彼が検査を通過したという事実は、捜査ドラマ的な常識をひっくり返す衝撃を持っていて、いまだにネットの議論で引かれる。

四つ目は、より重い論点で、警察が最初から本気で動いていれば何人助かったのかという問いだ。ここには反証というより、複雑な事情がある。少なくとも一九八二年八月以降、キング郡は大規模な捜査班を作っている。動かなかったわけではない。問題はそれ以前の段階、つまり個々の失踪届が受理された時点での扱いだった。連続殺人として認識されるまでのタイムラグと、認識された後の捜査能力の限界は、分けて考える必要がある。

五つ目は、司法取引への評価が今も割れていることだ。ワシントン州が結局死刑を廃止したことを踏まえて、あの取引は正しかったと評価する意見が近年は増えている。一方で、それは後付けの正当化だという反論も根強い。

そして日本語圏の議論では、この事件が「被害者が社会的に軽く扱われたせいで捜査が遅れた」という構図で語られることが多く、そこから自国の未解決事件や失踪事件の話に接続していくパターンがよく見られる。事件が国境を越えて反復されるのは、犯人の異常さではなく、社会の側の癖が似ているからだ。

川はいまも流れていて、あの道はもう別の顔をしている

事件の舞台になった土地は、この四十年で大きく変わった。パシフィック・ハイウェイ・サウス沿いの安モーテルの多くは取り壊され、ライトレールが通り、空港は拡張され、周辺には物流倉庫とチェーン店が並ぶ。一九九〇年にはシータックという市が正式に発足し、行政の網の目は細かくなった。八〇年代のあのネオンの帯は、もうほとんど残っていない。

グリーンリバー自体も整備が進み、川沿いには自転車道と遊歩道が続いている。晴れた日には家族連れが歩き、犬が走り、カヤックが下っていく。四十年前にここで何があったかを知らずに通り過ぎる人のほうが、いまでは圧倒的に多い。

キング郡保安官事務所にとって、この事件は組織の記憶として残り続けている。証拠の保管方法、失踪届の扱い方、複数機関にまたがる情報の共有、被害者遺族との連絡体制。どれも、この事件の失敗から書き直された部分がある。未解決事件の担当部署が定期的に古い試料を再検査に出す仕組みも、ここから広がった発想のひとつだ。デイヴ・ライカートはこの事件で全国的に名を知られ、後に連邦議会の議員になった。トム・ジェンセンのように、ひとつの事件に人生の大半を捧げた刑事もいる。彼の同僚の息子が後年、事件を題材にしたグラフィックノベルを書き、高い評価を受けた。父親の職業を子どもがそういう形で引き受けたというのは、それ自体がひとつの物語だ。

作家のアン・ルールはこの土地の出身で、事件を長く追い続け、二〇〇四年に一冊の本にまとめている。彼女はかつてテッド・バンディと同じ電話相談所で働いていたという奇妙な縁を持つ人物でもあった。ケッペルの本、弁護人の一人が書いた記録、当時の記者たちの回想。この事件は、異様に多くの言葉を残している。それは事件が長すぎて、関わった人間が多すぎたからだ。

被害者の家族の多くは、今もこの地域に暮らしている。毎年、命日に川辺に花を置きに行く人がいる。名前を刻んだ小さな記念のしるしを作ろうという動きも、何度か起きている。四十年経っても、この事件は誰かにとって過去になっていない。

なぜ、この事件だけがこれほど語り継がれるのか

アメリカには連続殺人事件が数えきれないほどあり、被害者の数だけで言えばこの事件が突出しているとはいえ、話題性ということなら他にも派手な事件はいくらでもある。それでもグリーンリバーの話が繰り返し語られるのは、たぶん犯人が特別だからではない。

ゲイリー・リッジウェイという男には、物語的な魅力が何もない。天才でもなければカリスマでもなく、暗号を送りつけてくるわけでもない。三十年同じ工場で働き、上司の評価は可もなく不可もなく、聖書の勉強会に出て、隣人に挨拶をしていた。彼を捕まえられなかった理由は、彼が賢かったからではなく、彼があまりに平凡だったからだ。この身も蓋もなさが、かえって恐ろしい。犯人像を思い浮かべようとしても、輪郭が結ばない。

もうひとつは、この事件が「誰が消えても社会が探しに行く価値があるのか」という問いを、四十九回繰り返して突きつけたことだ。被害者の多くは、家出中で、貧しく、身寄りが薄く、法の外側で生きることを余儀なくされていた。犯人はそれを知っていて選んでいた。彼は取り調べで、探されないと思ったから選んだという趣旨のことを語っている。つまりこの事件は、犯人一人の犯行であると同時に、社会が用意した空白を利用した犯行だった。犯人が凶悪だったから四十九人が死んだのではなく、社会が四十九人分の空白を用意していたから、それを使う人間が現れた。

三つ目は、科学の側の物語だ。一九八二年に袋に入れられた証拠が、二〇〇一年の技術で解読された。人間の記憶も証言も薄れていくのに、分子は待っていた。これは未解決事件に関わるすべての人にとって、絶望と希望が同じ形をしている瞬間だった。いま解けない事件も、二十年後の道具なら解けるかもしれない。だからとにかく、きちんと保管しろ、と。

そして四つ目に、あの法廷の一日がある。憎しみを語った家族と、赦しを語った父親が、同じマイクを使った。どちらが正しいという話ではない。人が耐えがたいものに耐えるとき、その形は一つではないということを、あの日の記録は残している。四十年後にこの事件を読む人が最後まで覚えているのは、犯人の名前ではなく、たぶんその光景のほうだ。

層をはがしていくと、いちばん底に出てくるもの

改めてこの事件全体を眺めると、いくつもの層が重なっていることに気づく。表層は連続殺人の物語だが、その下には捜査技術の世代交代の話があり、さらに下には司法制度の設計思想の話があり、いちばん底には、社会がどの人間の失踪を「事件」として扱うかという話がある。どの層を切り取るかで、まったく違う教訓が出てくる事件だ。

捜査技術の層から見ていくと、この事件は情報処理の失敗の記録として読める。一九八〇年代前半のキング郡には、数万件の通報と数千人の容疑者候補を横断的に照合する手段が存在しなかった。手がかりがなかったのではなく、手がかりが多すぎて溺れたのだ。リッジウェイの名前は複数回ファイルに現れ、彼の車の情報も、彼の勤務先も、彼と被害者を結びつける状況証拠も、断片としてはすでに手の中にあった。ただそれらが同じ机の上に並ばなかった。逮捕を実現したのは、新しい情報を掘り当てたことではなく、古い情報を新しい道具で読み直したことだった。これは現代の未解決事件捜査の基本方針そのものになっている。新しい証言を探すより、古い証拠箱を開け直すほうが解ける確率が高い。二〇二〇年代に入って遺伝子系譜解析が普及し、四十年前の身元不明遺体に次々と名前が戻ってきているのは、その方針が正しかったことの証明でもある。ローリー・アン・ラズポトニクが四十年かけて名前を取り戻したことは、統計的には小さな一件でも、彼女を待っていた家族にとっては世界が動いた出来事だ。

司法制度の層は、もっと居心地が悪い。あの司法取引は、制度が犯人と交渉した記録だ。国家が持つ最も重い罰を交渉材料に差し出し、その見返りに情報を買った。功利的に見れば成功している。四十を超える家族が遺骨を取り戻し、膨大な供述記録が残り、州はその後死刑制度そのものを手放したので、極刑を選んでいたとしても執行されなかった公算が高い。にもかかわらず、この取引に何かが引っかかり続けるのは、それが「殺した人数が多いほど交渉力が上がる」という構造を露出させてしまったからだと思う。制度の側にそんな意図はない。だが結果として、四十九人分の情報を握っていたことが彼の命を救った。この不快さを完全に解消する設計は、たぶん存在しない。遺族に遺体を返すことと、犯人に相応の罰を与えることが、同時には成り立たない場面があるという事実を、この事件は隠さずに見せてしまった。だからこそ議論が終わらない。

最も深い層、つまり誰の失踪が真剣に扱われるかという問題は、四十年経っても解決していない。当時の報道は被害者を職業名で束ね、記事の中で名前より属性を先に書いた。失踪届を出しに行った母親が、「そういう子はよく戻ってくる」と言われて帰された話は複数残っている。犯人はその空気を正確に読んでいた。彼が選んだのは「弱い女性」ではなく、「消えても社会が本気で探さない立場に置かれた人」だった。その二つは似ているようで全く違う。前者は個人の属性の話で、後者は社会の側の運用の話だ。犯罪学の分野には、社会が価値を低く見積もる被害者ほど捜査資源が向かわないという指摘が古くからある。この事件はその教科書的な実例になってしまった。

では今はどうなのか、と考えると、改善はある。失踪届の受理基準は厳格化され、若年者の行方不明には自動的に一定の初動が割り当てられるようになった。データベースは統合され、身元不明遺体の情報は全国規模で照合される。被害者遺族との連絡担当を置く制度も広がった。どれもこの事件の失敗から書き直された部分だ。それでも、報道の量が被害者の属性によって変わる現象は消えていない。ある失踪が全国ニュースになり、別の失踪が地元紙の片隅で終わる線引きは、いまも存在する。

最後に、この事件が残したいちばん奇妙な感触について書いておきたい。四十九人という数字と、その全員の名前と、二十年という時間の長さを並べたとき、普通なら物語の中心には巨大な悪が座るはずだ。ところがこの事件の中心にいるのは、レントンの工場で三十年間トラックを塗り続けた、口数の少ない中年男でしかない。恐ろしいのは彼の異常性ではなく、その異常性が四十九回も見過ごされたという事実のほうだ。彼は隠れる名人だったわけではない。ただ、彼が使った隙間が、あまりにも大きく空いていた。だからこの事件を読むときに考えるべきなのは、次の犯人がどんな怪物かということではなく、いまどこにどんな隙間が空いているのか、ということになる。川はいまも同じ場所を流れている。変わらなければならないのは、川ではない。

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