フランス東部、ヴォージュ県。モミの森が黒く立ち上がり、谷底をヴォローニュ川が音を立てて流れていく。観光ガイドなら「静かで美しい渓谷」と書くところだ。ところがこの谷の名前は、フランス人にとってまったく別の意味を持っている。1984年10月16日。ここで4歳の男の子が死んだ。そして四十年以上たった今も、誰がやったのか決まっていない。
グレゴリー事件。フランス語では「ラフェール・グレゴリー」。単なる未解決事件じゃない。この国の司法と報道と家族というものが、まるごと一度壊れて見せた事件だ。判事が壊れ、警察が壊れ、新聞が壊れ、そして何より一族が壊れた。容疑者とされた男が射殺され、母親が国じゅうから殺人犯扱いされ、担当した判事は三十年以上あとに自ら命を絶った。犯人はまだ分からない。
しかも、これは「終わった昔話」ではない。つい先月、2026年7月15日に、ディジョン控訴院がこの事件についてまた新しい判断を出している。八十代の大叔母をめぐる決定だ。四十二年目にして、まだ動いている。
長くなる。でも順番に行こう。まずはあの日の夕方からだ。
1984年10月16日、ヴォローニュ川で起きたこと
夕方五時、砂利の山の上にいた子ども
その日、レパンジュ=シュル=ヴォローニュは冷えていた。ヴォージュの十月は、もう冬の前触れの匂いがする。
クリスティーヌ・ヴィルマンは十六時五十五分ごろ、勤め先を出た。ガイ・シャンの集合住宅にいる保育担当のクリスティーヌ・ジャコという女性のところへ寄って、息子のグレゴリーを引き取る。4歳。八月に生まれたばかりの、まだ小さい男の子だ。
家に帰ると、母親は子どもに毛糸の帽子をかぶせた。青と白の縞の帽子。庭に砂利の山があって、グレゴリーはそこで遊ぶのが好きだった。子どもを外に出して、母親は家の中に戻る。ラジオを大きめの音でかけていた。当時人気だったバラエティ番組の時間帯だ。この「ラジオを大音量でかけていた」という細部が、あとで彼女を地獄に突き落とすことになる。外の物音が聞こえなかった、という状態が、疑う側にとっては「聞こえないふりをしていたのでは」に化けるからだ。
十七時二十分ごろ、母親が外に出た。砂利の山に子どもがいない。
呼ぶ。返事がない。隣を見る。道を見る。近所の家をたたいて回る。この時点で彼女はまだ、迷子だと思っている。ヴォージュの村では、四歳児が勝手にどこかへ歩いていくくらい珍しくもない。十七時五十分ごろ、憲兵隊に通報が入る。
だがその三十分ほど前、まったく別の場所で、事件はもう「告知」されていた。
十七時三十二分の電話
グレゴリーの伯父にあたるミシェル・ヴィルマンの家の電話が鳴る。時刻はだいたい十七時三十二分。受話器の向こうから、しゃがれた男の声がした。
言った内容は、当時の記録に残っている。隣にかけたが出なかったからお前にかけている、という前置きから始まって、こう続いた。俺は「シェフ」に復讐した。奴の息子を誘拐した。首を絞めて、ヴォローニュに投げ込んだ。母親が探しているが、見つからないだろう――そんな趣旨だ。
「シェフ」というのは、この声の主が三年前からずっと使っていた、ジャン=マリー・ヴィルマンへの呼び名だった。工場で工長に昇進した従兄弟を、皮肉と憎しみを込めてそう呼ぶ。この一語だけで、電話の主が身内の事情を細かく知っている人間であることが分かる。
ミシェル・ヴィルマンという人は、この事件のなかでいちばん語られない登場人物のひとりだ。ジャン=マリーの兄。紡績工場の労働者で、読み書きが得意ではなかったと記録されている。派手なところがなく、弟のように出世もしていない。その彼が、弟の子どもが殺されたという電話をいちばん最初に受けた。人生でこれ以上ひどい着信音はない。彼は2010年に亡くなっている。
同じ日、消印の時刻から見て十七時十五分より前に、一通の手紙が投函されていた。宛先はグレゴリーの両親。中身はこうだ。お前が悲しみで死ぬことを願う、シェフ。お前の金では息子は戻ってこない。これが俺の復讐だ。哀れなばか野郎。
つまり犯人は、子どもがいなくなる前に犯行声明を書いて、ポストに入れていた。少なくとも、そう読める。この一点だけで、これが衝動的な犯行ではないことが分かる。誰かが計画していた。
二十一時十五分、ドセルの堰
捜索は日が落ちてからも続いた。川沿いを下っていく。レパンジュから七キロほど下流、ドセルという村の堰のところで、二十一時十五分ごろ、消防の救助隊が小さな体を見つけた。
グレゴリーは、堰に押しつけられるようにして水の中にいた。両手首と両足首が細い紐で縛られていた。首にも紐が回されていた。青と白の縞の毛糸の帽子が、顔の上まで引き下ろされていた。青いアノラック。濃い緑のコーデュロイのズボン。
現場には地元の写真家がいて、引き上げの瞬間を白黒で撮った。この写真が翌日から全国紙の一面に出る。フランス人が「グレゴリー事件」と聞いて頭に浮かべる画は、たいていこの一枚だ。四十年たっても消えない。
翌17日、ナンシーで司法解剖が行われた。担当判事も立ち会っている。結果は、はっきり言って捜査の役に立たなかった。体表に暴行の痕がない。頭皮をはがしてようやく直径一センチほどの皮下出血が見つかった程度。紐で縛られていたのに、その紐は皮膚に擦り傷ひとつ残していない。肺は膨らんでいて窒息の苦悶の所見はあるのに、水はほとんど入っていない。胃にはリンゴの残渣。アルコールもアドレナリンも検出されず。
死因として書かれた言葉は、専門用語だらけで、要するに「川で死んだ、ただし窒息と反射性の停止の両方が絡んでいる」という意味になる。生きたまま投げ込まれたのか、別の場所で死んでから捨てられたのか、縛られたのは死ぬ前か後か。全部「決められない」で終わった。
そして最大の失点。内臓が保存されなかった。薬物を飲まされていたかどうか、あとから確かめる術がなくなった。紐が皮膚を傷つけていないという事実は、縛られたとき子どもがすでに動かなかった可能性を示唆するのに、その裏付けを取る材料が消えた。
十一月九日には、川岸の近くで空のインスリンのアンプルが見つかっている。誰のものか、事件と関係があるのか、何も確定していない。この事件はこういう「宙ぶらりんの物証」の博物館みたいなところがある。
DNA鑑定は当時、まだ実用の外にあった。捜査官たちが1984年に採らなかったものは、二度と戻ってこない。
「カラス」――三年間、一族を削り続けた声
まず電話が来た
事件の話をするとき、多くの人は10月16日から始める。でも本当の始まりは、その三年も前だ。
1981年ごろから、ヴィルマン一族の電話が鳴りはじめる。無言のこともあった。鼻歌を歌うこともあった。しゃがれた男の声で、悪意のこもった言葉を吐いていくこともあった。狙われたのはジャン=マリーとクリスティーヌ、そしてジャン=マリーの両親であるアルベールとモニクだ。
1981年から1983年にかけて、その数はおよそ千件に達したとされる。千件。ちょっと想像してほしい。三年間、毎日どこかの誰かがあなたの家の番号を押している。1982年11月30日、祖父アルベールは一日に二十七回の電話を受け、ついに被害届を出した。
フランス語ではこういう匿名の嫌がらせをする人物を「ル・コルボー」、つまりカラスと呼ぶ。1943年のアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの映画の題名から定着した言い方で、田舎町を匿名の手紙が食い荒らしていく話だ。まさかその映画のタイトルが、四十年後にひとつの実在の一族を丸ごと表す言葉になるとは、誰も思っていなかった。
カラスが繰り返した主張には一貫した筋があった。ジャン=マリーはずるい。若いのに工長になって、新築の家を建てて、いい家具を入れて、ワインセラーまで持っている。それにひきかえ、兄のミシェルはずっと工場労働者のままだ。そしてもうひとり、一族のなかで「よそ者」扱いされてきた男がいる。カラスはこの「割を食った側」を執拗に代弁した。俺たちは友達だった、一緒に飲み歩いた仲じゃないか――そんな一節も残っている。
つまりカラスは、家の外の人間ではない。家の中の力学を、正確に知っている誰かだ。
そして手紙になった
1983年3月4日、最初の手書きの手紙がジャン=マリー宛てに届く。文面は短い。ヴィルマン家の皮を剥いでやる、という趣旨の一行。ただしフランス語として綴りが二か所おかしい。動詞の活用が間違っていて、家名の綴りまで違っている。この「間違い方」が、あとで鑑定人たちを何十年も悩ませる。
同年4月27日、祖父母アルベールとモニク宛て。内容は最後通牒だ。ジャン=マリーを一族から追い出せ、さもなければ「シェフ」とその家族への脅しを実行する。
5月17日、また祖父母宛て。今度は筆記体で書かれた別れの手紙のような文面で、一族への憎悪を並べたあと、最後に「さらばだ、俺の愛すべきばか者ども」で締めくくられている。この一通のあと、カラスは黙る。一年五か月ものあいだ、手紙は来なくなった。
そして1984年10月16日、事件当日の犯行声明。
さらに1985年7月24日、祖父アルベール宛てに追い打ちが届く。またヴィルマン家の皮を剥いでやる、次の犠牲者はモニクだ。この時点でグレゴリーはもう死んでいて、ラロッシュも死んでいて、母親クリスティーヌは勾留されようとしていた。それでもカラスは書いた。
文面の質感が気持ち悪い
この手紙群には、読んだ人間がだいたい同じ違和感を持つ特徴がある。
わざとらしい綴り間違いと、妙に洗練された言い回しが同居しているのだ。無学な人間を装っているのに、ときどき文学的なリズムが顔を出す。ある研究者はボリス・ヴィアンの文体を思い出すと書いた。手紙は活字体で書かれたり筆記体で書かれたり、書体そのものが揺れている。書き慣れていない手で書いたと見られるものもある。つまり「隠そうとしている」痕跡がある。
内容も一直線じゃない。家を焼くと書き、妻を襲うと書き、最後に子どもへ向かう。段階的にエスカレートしている。恨みの向け先が、資産から、配偶者へ、そして最も弱い一点へ移っていく。
そして復讐の理由は、最後まで書かれなかった。何をされたから復讐するのか。カラスは一度も説明していない。四十年、フランス中がこの空白を埋めようとして、埋められずにいる。
再捜査の過程で分析対象になった匿名文書は、およそ二千通にのぼるとされる。事件が有名になったあと、無関係な便乗のカラスが大量に湧いたからだ。2023年には、そのうちの一通の書き手が三十九年ぶりにDNAで特定されている。パリ在住のグアドループ出身の女性で、事件とは何の関係もなかった。この事件は、そういう「ノイズ」まで含めて肥大していった。
捜査はどこで壊れたのか
三十二歳の「小さな判事」
10月17日、事件はエピナルの予審判事ジャン=ミシェル・ランベールに配点された。当時三十二歳。フランスの司法制度では予審判事が捜査の指揮権を握るから、事実上この人が事件の全権を持つことになる。
問題は、この配点がまったく特別扱いされなかったことだ。ランベール判事はその1984年だけで二百二十九件の予審を抱えていた。グレゴリー事件はその百八十番目にすぎない。地方の若い判事の机の上に積まれた書類の山の一枚として、フランス犯罪史上最悪級の事件が置かれた。
彼はマスコミに開かれた判事だった。よく言えば風通しがいい。悪く言えば、捜査上の秘密が漏れ続けた。記者に情報を渡し、記者から情報をもらう。証言者の供述が、本人が撤回する前に新聞に載る。取調べの中身が翌朝のラジオで流れる。捜査と報道の境界線が、最初の一か月で溶けた。
のちに彼の仕事を引き継ぐことになる判事は、私的な手帳にこう書き残している。前任者の怠慢、違法、過誤の数々を前にすると、ただ茫然とする、と。ジャン=マリー・ヴィルマンの裁判では検事側からも厳しい指摘が飛んだ。
ランベール判事は「小さな判事」と呼ばれるようになった。愛称ではない。半分は嘲笑だ。
憲兵隊と司法警察の綱引き
初期捜査を仕切ったのは憲兵隊のエティエンヌ・セスマ大尉だった。彼のチームは十月から翌年二月まで動き、ある方向へ確信を固めていく。ところが1985年2月、事件はナンシーの地方司法警察局に移される。憲兵隊は外された。
引き継いだ司法警察は、まったく別の方向へ走った。母親クリスティーヌだ。
これがフランスの捜査機関にとって古典的な構図であることは、当時から指摘されていた。憲兵隊と司法警察は別組織で、仲がいいとは言えない。片方が積み上げた筋を、もう片方が全否定するところから始める。四か月の作業がリセットされ、以後の三十年が別のレールに乗った。
セスマは2006年に大佐で退官したあと、本を書いた。題は「二つのグレゴリー事件」。ひとつは子どもが殺された事件、もうひとつはそのあとに司法とマスコミが無実の人間たちを焼き続けた事件だ、という意味だ。彼は自分たちが最初に立てた筋が正しかったと今も主張している。同時に、憲兵隊は泥まみれにされたが、この件でいちばん恥じるべきことが少ない組織だ、とも書いた。手前味噌に聞こえるかもしれない。ただ、彼が最初の四か月で作った調書が、三十年後の再捜査で最も参照された資料群だったのも事実だ。
ベルナール・ラロッシュと、十五歳の証言
まずアリバイを与えた少女
ベルナール・ラロッシュは1955年9月11日生まれ、事件当時二十九歳。ジャン=マリーの従兄弟にあたる。人当たりのいい、口数の少ない男だったと周囲は言う。1984年6月、六年越しの申請がやっと通って、グランジュ=シュル=ヴォローニュの織物工場で工長になったばかりだった。妻はマリ=アンジュ。息子のセバスチャンはグレゴリーと同い年で、嚢胞の摘出手術のあとドレーンを入れていた。夫婦仲は当時うまくいっていなかったとされる。
事件の六日後、十五歳の少女が自分から憲兵隊に電話をかけてきた。ミュリエル・ボル。マリ=アンジュの妹で、姉夫婦の家に暮らしていた。ブリュイエールの中学に通っていた。
彼女が言ったのは、義兄のアリバイだった。あの日の十七時二十分ごろ、ルイゼット・ジャコおばさんの家でベルナールを見た。セバスチャンも一緒だった。スクールバスで降ろされたあとのことだ、と。
11月2日から3日にかけて、彼女は身柄を取られて取調べを受ける。十五歳、弁護士なし。そこで話が変わった。
ベルナールがセバスチャンを乗せた車でスクールバスの降車地点まで自分を迎えに来た。そのままレパンジュのヴィルマン家の前まで行った。ベルナールが車を降りてグレゴリーを連れて行くのを見た。しばらくして、ドセルのあたりで、ひとりで戻ってきた――。
これが決定打になった。11月5日、ラロッシュは身柄を取られる。そして11月10日、殺人で予審請求。翌日の新聞は「殺人犯ラロッシュ」と打った。まだ何も証明されていないのに、だ。
そして撤回した
11月11日、少女は判事の前で証言をひっくり返す。憲兵に圧力をかけられたのだと言った。なぜラロッシュが迎えに来たのかとしつこく聞かれた、怖かった、あの人たちが言わせたいことを言った――そういう趣旨のことを述べている。
翌12日には記者たちの前でも撤回した。あたし、ベルナールの車になんか乗ってなかった。カメラの前で少女がそう言い切る映像が全国に流れた。
ここが、この事件のいちばん深い裂け目だ。
というのも、その撤回の直前に何があったのかが、今も決着していないからだ。11月5日の夜、つまりラロッシュが予審請求された日の晩、彼女は実家に戻っている。そこで何が起きたか。ある説では、母親と姉に殴られ、父親に罵倒された。少女は錯乱状態になって家を飛び出し、エピナルとサン=ディエのあいだの線路の上で発見された。もう生きていたくない、ベルナールが捕まったのは自分のせいだ、という意味のことを口にしたとされる。
一方で姉のマリ=アンジュは、妹を殴ったことなど一度もないと否定している。取材を重ねたジャーナリストのなかには、暴行ではなく神経の発作だったのではないかと見る人もいる。
2017年になって、彼女の従兄弟にあたるパトリック・フェーヴルという人物が捜査当局に語った。1984年11月5日、自分はその場にいた。ミュリエルは自分に「本当のこと」を打ち明けた。ベルナールの車に乗っていたと認めた――。ただしこの証言も激しく争われている。ミュリエル・ボル側の弁護人は、彼を大変な虚言癖の持ち主だと切り捨てた。彼女自身も2018年に出した著書「沈黙を破る」のなかで、それは嘘だと書いている。2019年、彼女はこの件をめぐって加重名誉毀損で予審請求されている。
十五歳の子どもの言葉が、大人の男の生死を決めた。そして、その言葉が本当だったのかどうかを、四十年たっても誰も確定できていない。彼女が真実を言ったのか、それとも大人たちに二度言わされたのか。どちらのシナリオでも、この人の人生が壊れたことだけは動かない。
ミュリエル・ボルという人生
事件のあと、彼女は学校に行けなくなった。同級生の罵声に耐えられなかったからだ。就職口も見つからなかった。近所の人間からの侮辱が続いた。ベビーシッターのような臨時の仕事をつないで生きた。二度結婚し、最初の結婚では三人の子どもをもうけたが十四年で別れ、二度目の結婚も2017年の捜査の過程で破綻した。
2002年、国は彼女に一万五千ユーロ余りの賠償金を支払うよう命じられている。捜査当局が職務を果たせなかったことに対する賠償だ。ラロッシュの未亡人マリ=アンジュにも同様に三万ユーロ余りが支払われた。金額の桁を見てほしい。これが「国が壊した人生」につけられた値段だ。
彼女は今も生活保護に近い状態で暮らし、ベルナール・ラロッシュの墓に定期的に花を手向けているとされる。
1985年3月29日
ラロッシュは1985年2月4日に釈放された。勾留は九十一日間だった。証拠が足りなかった。
釈放が決まったとき、ジャン=マリー・ヴィルマンは記者たちの前で、そして捜査官の前で、はっきりと殺意を口にした。誰も本気にしなかったのか、止められなかったのか、そのどちらもだったのか。
3月29日、オモンゼの自宅で出勤しようとしていたベルナール・ラロッシュを、ジャン=マリー・ヴィルマンが銃で撃った。ラロッシュは倒れる前に、こう言ったと伝えられている。あの人は自分の子を殺してなんかいない――。
この最後の言葉が本当に発せられたのかどうかも、実は確定していない。だが、この一文はフランスの犯罪史に刻まれてしまった。撃たれた男が、撃った男の無実を証言したという構図。あまりに文学的で、あまりに救いがない。
ジャン=マリー・ヴィルマンの裁判は1993年11月、ディジョンの重罪院で開かれた。六週間の審理。判決は懲役五年、うち一年執行猶予。未決勾留がすでに三十四か月に達していたから、判決の二週間後には自由の身になった。事実上の温情判決だ。フランスの世論は、この量刑を「陪審員たちはラロッシュが関与していたと内心では思っている」というメッセージとして受け取った。
だが法的に言えば、ベルナール・ラロッシュは有罪判決を受けたことが一度もない。予審請求されて釈放され、そのまま殺された。彼が誘拐に関わったのかどうかは、確定していない。ここは何度でも書いておきたい。彼は裁かれていない。裁かれる機会を奪われた。
母親を犯人にした国
筆跡鑑定という名の魔術
1985年、捜査の主導権が司法警察に移ると、標的はクリスティーヌ・ヴィルマンに切り替わった。
根拠として並べられたものは、今の目で見るとかなり心細い。ひとつは筆跡鑑定だ。カラスの手紙の書き手として彼女を「排除できない」という趣旨の鑑定が出た。ふたつめは行動時間の再検討で、保育を担当していた女性の証言と突き合わせると、彼女の申告した時間割に隙間があるとされた。三つめは、ヴィルマン家の地下室から、遺体を縛っていたものと似た細い紐が見つかったことだ。
どれも決定打ではない。似た紐など、ヴォージュの農村の家ならどこにでもある。時間の食い違いは、混乱した夕方の記憶としてはむしろ自然だ。そして筆跡鑑定については、この事件そのものが「筆跡鑑定を信じすぎるとどうなるか」の教科書になってしまった。同じ手紙群について、ある鑑定人はラロッシュを指し、別の鑑定人はクリスティーヌを指し、二十一世紀に入ってからの鑑定はまた別の人物を指している。少なくとも1980年代の筆跡鑑定は、捜査官が見たいものを見せる鏡として機能した。
1985年7月5日、クリスティーヌ・ヴィルマンは息子殺しの容疑で予審請求され、勾留された。彼女は妊娠していた。夫とともにハンガーストライキに入り、十一日間続けた。心身の消耗は深刻で、この時期に彼女は妊娠の一部を失ったと報じられている。七月半ばには釈放されたが、身分は「被疑者」のままだった。
1986年1月7日、ナンシーの起訴部は彼女を重罪院に送る決定を出す。積み上げられた「嫌疑」は二十五項目あった。ほとんどが状況推理と印象論だった。
一行の文章が国を割った
そして1985年7月、ひとつのテキストが火に油どころか、ガソリンを注いだ。
作家マルグリット・デュラスが、リベラシオン紙に「崇高な、必然的に崇高なクリスティーヌ・V」を寄稿した。編集長のセルジュ・ジュリーから依頼を受けて現地に赴いたものの、クリスティーヌ本人は面会を拒否している。つまりデュラスは、当事者に会えないまま書いた。
その文章のなかで彼女は、事実上クリスティーヌの犯行を前提にした。物証はない。取材もしていない。にもかかわらず、家を見た瞬間に犯罪があったと叫ぶ、という趣旨の一節を書きつけた。作家が霊媒のように真実に触れる、という身振りだ。そのうえで彼女は、この犯行を数千年にわたる女性の抑圧と、苦痛としての母性の物語へと引き上げようとした。文学的には強度がある。人権としては最悪だ。
反発はすさまじかった。フランソワーズ・サガンとブノワット・グルーは怒りを表明した。レジーヌ・デフォルジュはこれを「密告行為」と呼んだ。批評家のアンジェロ・リナルディは、文学婦人のうっとりした思い上がりだと切り捨てた。
クリスティーヌ本人の反応は、たった一言だったと伝えられている。この人、頭がおかしいんじゃないの――。
彼女はデュラスとジュリーを提訴した。無罪推定と肖像の権利の侵害を理由にしたが、訴えは退けられている。
このテキストが特別なのは、内容の暴力性だけではない。フランスで最も権威のある作家のひとりが、田舎の若い母親を素材として消費し、それを高級な文学として流通させた、という構図そのものだ。階級と、学歴と、パリと地方と、性別。この事件が抱えていた全部の断層が、あの一本の記事にきれいに出ている。
報道は取材ではなく戦争だった
もうひとつ、この事件を語るのに絶対に外せない人がいる。ジャーナリストのローランス・ラクールだ。
1984年、彼女はラジオ局ヨーロッパ1の若い記者だった。二日の予定でヴォローニュ渓谷に送り込まれた。結局そこに四年間いた。
彼女が後年書いた本の描写がすごい。事件初日、遺族の家に行くと、母親から「放っておいてください」と言われる。それなのに夕方六時にはもう、局は近隣住民の憤慨した声を電波に乗せている。犯人はまだ誰なのかも分かっていないのに、住民が復讐を叫ぶ声を流す。取材ではない。反応を集めて煮詰めて売る作業だ。
彼女は、雑誌が写真に金を払い、証言に金を払い、内輪の話に金を払っていく過程を目の前で見た。同業他社を出し抜くために、確認より先に書く。書いたことを守るために、あとから事実の方をねじ曲げる。
九百ページ近い分量の本を書き上げたあと、ラクールは報道の仕事を辞めた。自分がその一部だった機械の作動を、これ以上見ていられなかったのだと思う。事件が壊したのは、被害者の家族と、疑われた人たちと、判事だけではない。取材した側の人間も壊れた。
そしてこの熱狂は、地元にも尾を引いた。レパンジュの村には、ヴィルマン家を見に来るバスが来るようになった。近所の家の前にバスが止まり、降りてきた人たちが「ここがあの家ですね」と写真を撮る。関係のない家だ。この現象が、六年から十年ほど続いたと住民は語っている。今はさすがに落ち着いた。それでも年に何度かは、道を尋ねられるという。
1993年2月3日
クリスティーヌ・ヴィルマンの名誉が法的に回復されるまでに、事件から八年半かかった。
1987年、事件はディジョン控訴院に移され、モーリス・シモンという判事が予審を引き継いだ。この人の仕事ぶりは、前任者とは何もかも違った。一万九千ページの記録を積み上げ、二百件を超える聴取を行い、三日間かけた現場再現までやった。脅迫状も届いた。
彼は早い段階でクリスティーヌの無実を確信した。そして別の方向――一族のなかに答えがあるという方向――を疑った。ところが1990年、雑誌に載ったインタビューが問題視されて事件から外される。深く落ち込んだ彼はほどなく心臓の発作で倒れ、三日間意識を失い、目覚めたときには記憶を失っていた。そのまま退官し、1994年に七十一歳で亡くなっている。
2005年、彼の息子が父の遺した五冊のノート、およそ百八十ページを世に出した。そこには捜査の記録だけでなく、彼の怒りが書かれていた。前任判事の仕事に対する評価は、身も蓋もないほど厳しい。
そして1993年2月3日、ディジョン控訴院は、クリスティーヌ・ヴィルマンについて「嫌疑なし」による免訴を言い渡した。現状において、彼女が息子を殺したという嫌疑は存在しない――そういう書き方だった。フランスの司法用語としては異例中の異例で、単なる証拠不十分ではなく、事実上の全面的な名誉回復を意味する。
八年半。そのあいだに彼女は、フランスでいちばん憎まれた女と呼ばれた。テレビが、新聞が、大作家が、そして通行人が、彼女を殺人犯として扱った。彼女はまだ二十代だった。
この点はもう一度強調しておく。クリスティーヌ・ヴィルマンは司法によって完全に晴らされている。彼女を犯人視する材料は、当時も今も存在しない。
遅れてきた科学――2000年代以降の再捜査
DNAという希望と、その裏切り
1990年代の終わりから、ヴィルマン夫妻は繰り返し再捜査を求めた。理由はシンプルで、当時なかった技術ができたからだ。
2000年7月17日、カラスの手紙に貼られていた切手の断片からDNAを取ろうという試みが行われた。祖父母宛ての一通に使われた切手の半分。ナントの大学病院の研究室が担当した。結果は「解釈不能」。1983年から二十年近く、多くの人間の手を経て、湿度も温度も管理されない環境で保管されていた紙片だ。無理もない。
同年9月30日、ディジョン控訴院は予審を終結させ、免訴を確定させた。同時に、この事件の公訴時効が2027年10月16日に設定された。四十三年後だ。当時の感覚では、それは「永遠」とほぼ同義だった。
2008年12月、両親の申立てを受けて再び手続きが開き、手紙、遺体を縛っていた紐、その他の証拠についてDNA鑑定が行われた。結果は決定的にならなかった。2013年4月には衣服と靴が調べられた。これも同じだ。
そのあいだに、家族の側も動いていた。ジャン=マリー・ヴィルマンは二十五年以上にわたって、ほとんど独力で資料を集め直し、手続きを起こし続けた。息子を殺した犯人を探す父親が、自分でファイルを作り、専門家に当たり、弁護士を回す。今日まで事件が生きているのは、かなりの部分この執念のおかげだ。
アナクリムが吐き出したもの
2016年10月18日、両親の要請で捜査が再開される。このとき投入されたのが、犯罪分析ソフトのアナクリムだ。
これは何かというと、膨大な調書を全部データベースに落とし込んで、時間と空間の軸で矛盾を可視化する道具だ。2005年ごろから欧州の捜査機関が使ってきた。グレゴリー事件の記録は、一万二千点の資料、四百件の採取物、およそ百人の証人聴取、そして分析対象になった匿名文書が二千通近く。人間の脳では処理しきれない量が、三十年分たまっていた。
憲兵隊の担当者は、作業の実態をこう説明している。調書を一枚ずつ読み直し、必要な要素を丁寧に書き写して、時空間のデータベースに入れていく。地味だ。信じられないほど地味だ。だが三十三年たった書類の山に、初めて「新しい目」が入った。
そして出てきた結論が、捜査を根本からひっくり返した。犯行に関与した人物は複数いる――アナクリムはそう示唆した。
単独犯ではない。誰か一人の狂気ではない。もっと厄介な何かだ、と。
2017年6月、そして崩壊
2017年6月14日、三人の身柄が取られた。グレゴリーの大叔父と大叔母にあたるマルセル・ジャコとジャクリーヌ・ジャコの夫婦、そして2010年に亡くなったミシェル・ヴィルマンの妻だ。ミシェルの妻はほどなく解放された。ジャコ夫妻は黙秘した。
6月16日、ジャコ夫妻は「死をともなう誘拐」で予審請求される。6月29日にはミュリエル・ボルも同じく予審請求され、三十六日間身柄を拘束されたのち、八月に釈放された。
同じころ、憲兵隊は自分たちの見立てをあらためて示している。ベルナール・ラロッシュは誘拐の実行に関与した可能性が高い。ただし彼自身は、子どもがどうなるかを知らなかったかもしれない。誘拐を仕組んだ「首謀者」が別にいて、ラロッシュは駒だったのではないか――という筋だ。
12月18日には、リヨンの検査機関が、1985年に祖父アルベール宛てに送られたカラスの手紙から、二種類のDNAを検出したと報告した。男性のものと女性のもの。どちらもグレゴリーの両親のものではなかった。
ところが2018年5月、この積み上げが法的に崩れる。ディジョンの起訴部が、三人の予審請求をすべて取り消したのだ。理由は手続きの瑕疵だった。決定は合議で下されなければならないのに、裁判長が単独で署名していた。中身の話ですらない。書式の話で、一年分の捜査の法的足場が消えた。
2020年1月には、パリ控訴院がミュリエル・ボルの1984年の身柄拘束そのものを無効と判断した。十五歳、弁護人の立会いなし。当時の運用としては珍しくなくても、現在の憲法解釈には耐えない。この判断により、拘束下でなされた供述は記録から除外された。ただし、拘束の外で述べたこと――たとえば最初にラロッシュを指した部分――は記録に残っている。ここの切り分けが、法律家以外にはとても分かりにくい。そして、この分かりにくさこそが四十年の実態でもある。
2020年4月19日、祖母モニク・ヴィルマンが新型コロナウイルスによる合併症で亡くなった。八十八歳。2017年の捜査の過程で、彼女は1990年にモーリス・シモン判事へ送られた脅迫状の書き手であると捜査当局に見なされていた。孫を殺した犯人を追っていた判事に、祖母が脅迫状を書いていたかもしれない。この一族の関係を一行で説明できる人がいたら、ぜひ教えてほしい。
文体が指を差す――ステロメトリーという新兵器
2020年末には、スイスで行われた分析が、複数のカラスの手紙は同一人物の手によるとの見方を示した。2021年、そこにさらに新しい道具が加わる。ステロメトリー、日本語でいえば文体計量だ。
やっていることは、筆跡ではなく「書き癖」の統計だ。語彙の選び方、句読点の打ち方、接続の癖、一文の長さ、綴り間違いの種類と分布。人間は書体は変えられても、文体はそう簡単に変えられない。指紋よりは弱いが、印象論よりははるかに強い。
2024年3月20日、控訴院は新たなDNA鑑定と音声鑑定を命じた。1980年代に録音された「しゃがれ声」の分析だ。
そして2025年、ジャコ夫妻の自宅から押収された手紙類が、あらためて専門家の手に渡った。担当したのはクリスティーヌ・ナヴァロ。破毀院の認定鑑定人で、憲兵隊の犯罪捜査研究所で筆跡比較部門の責任者を務めた経歴を持つ。ディジョン控訴院の起訴部長からの委嘱だった。
四十七ページの鑑定書の結論はこうだ。1983年3月と4月の最初の二通は、ジャクリーヌ・ジャコの筆跡と多くの類似点を持ち、かつ有意な相違点がひとつもない。彼女が書いた可能性が高い。さらに、1983年5月と1984年10月の手紙は同じ書き手によるものだが、利き手ではない方の手で、意図的に隠そうとして書かれたものと見られる、と。
ここで注目してほしいのは、1985年の当初捜査でマルセルとジャクリーヌのジャコ夫妻の筆跡が一度も検討されていなかった、という事実だ。四十年間、比べてすらいなかった。
2025年10月24日、八十一歳のジャクリーヌ・ジャコが聴取を受け、「犯罪者集団の結成」にあたる容疑で予審請求された。根拠は2017年の二つの筆跡鑑定と、2021年の文体計量分析、そして当時の行動の検討だった。
2026年7月15日、そして今
彼女の弁護団は反撃に出た。2026年4月7日、二つの無効申立てを行っている。ひとつは手続き上のもので、2025年10月の聴取で十分に説明する機会が与えられなかったという主張。もうひとつが本丸で、そもそも「犯罪者集団の結成」は軽罪であって、時効がとっくに完成しているという主張だ。実は聴取の場で、検察側自身が時効という法的リスクの存在を認めていた。
両親側の弁護人は、手続きは完全に適法かつ正規だと反論した。
2026年7月15日、ディジョン控訴院の起訴部が決定を出した。内容は、フランス的というほかない。
無効の申立ては退ける。予審請求そのものは維持する。ただし、問われている事実はすでに時効にかかっている――。
つまり、疑いの根拠は残す。だが訴追はできない。裁判にはならない。一方で検察は、筆跡鑑定の反対鑑定の結果が今年の秋に出るとしている。手続きはまだ完全には止まっていない。
そして2027年10月16日には、殺人そのものの公訴時効が来る。2000年に設定されたあの日付が、もう目の前まで来ている。
生き残った人たちのその後
ジャン=マリーとクリスティーヌのヴィルマン夫妻は、事件のあとヴォージュを離れた。彼らには三人の子どもが生まれた。1994年には自分たちの手記を出している。夫婦は別れなかった。これは、この事件で唯一と言っていい救いのある事実だ。片方が疑われ、片方が人を撃ち、両方が刑務所を知り、それでも一緒にいる。
2004年、ジャン=マリーの決断で、グレゴリーの遺体は墓から出され、火葬された。墓は空になった。墓は何度も荒らされ、見せ物にされてきた。区切りをつけるための決断だったと伝えられている。同じ年、国は両親それぞれに三万五千ユーロの賠償を命じられている。
ジャン=ミシェル・ランベール判事は、ずっとこの事件と一緒に生きた。彼は事件について本を書き、テレビに出て、批判に反論した。2017年6月、捜査が再開され、逮捕が続き、報道が再燃する。そして2017年7月11日、彼はル・マンの自宅で亡くなっているのが見つかった。六十五歳。自ら命を絶ったと報じられた。地元紙に宛てた文面のなかで、事件の再燃による圧力について触れていたという。
その二年後、ネットフリックスがこの事件のドキュメンタリー・シリーズを配信した。2019年11月20日の公開で、フランス国外でも一気に知られるようになった。判事の未亡人は、この作品が危険な憎悪を煽っていると強く批判した。番組内で捜査関係者が語った言葉に対して、視聴者から怒りの声が上がる場面もあった。2021年にはドラマ版も作られている。
事件は、消費されるコンテンツになった。四十年前、報道の暴走が人を殺しかけた事件が、今度は配信サービスの再生数に変わっている。この構造を居心地悪く感じないなら、たぶん何かを見落としている。
なぜフランスはこの事件に狂ったのか
考えてみると不思議だ。子どもが殺される事件は、悲しいことに、どこの国にもある。なぜこれだけが四十年も国民的な記憶になったのか。
まず、絵が強すぎた。ドセルの堰から引き上げられる小さな体の白黒写真。縛られた手足。顔まで下ろされた毛糸の帽子。あれは一目で全部を語ってしまう画だ。テレビとラジオと写真週刊誌が、ちょうど全国を同時に覆えるようになったタイミングで、この画が来た。フランスの「テレビ時代の事件報道」の原型がここで作られた。
次に、舞台装置だ。ヴォージュの谷、モミの森、霧、川、閉じた村、絡み合った親戚関係。ゴシック小説の書き割りがそのまま用意されている。そして匿名の脅迫状という、古典的にして最高に不気味な小道具。カラスという名前まで、映画からもらってきたようによくできている。
三つめは、階級と嫉妬の物語がそこにあったことだ。二十六歳で工長になった男。新築の家。ワインセラー。それを見ている兄。それを見ている親戚。1980年代のフランスの地方社会で、誰かがほんの少し上に行くことが、どれほど周囲の空気を歪めるか。この事件は、そこを容赦なく見せた。多くの人が、自分の親戚づきあいの嫌な記憶を重ねられてしまった。
四つめは、女性が裁かれた事件だったことだ。働く母親。ラジオを大きな音でかけていた母親。泣き方が足りないと言われた母親。世論はごく短期間で彼女を怪物に仕立てた。そこに大作家の文章が乗った。今この事件が繰り返し語り直されるのは、それが未解決だからだけではない。あの時代がひとりの若い女性に何をしたかを、この国がまだ清算しきれていないからでもある。
五つめが、司法への不信だ。判事が壊し、警察が割れ、鑑定人が矛盾し、手続きの不備で一年の捜査が消える。市民が「この国の司法は本当に大丈夫なのか」と思うための材料が、これ以上ないほど揃っている。
誰が殺したのか――並べておくべき仮説
ここからは推測の領域だ。断定はしない。できない。以下に並べるのは、四十年のあいだに真剣に検討されてきた見立てであって、どれも証明されていない。名前の挙がる人たちは、法的には全員が潔白だ。
ラロッシュ単独説
最初の捜査班が固めた筋がこれだ。嫉妬に駆られた従兄弟が、衝動的に子どもを連れ出した。ミュリエル・ボルの最初の詳細な供述と、初期の筆跡鑑定が支えになる。憲兵隊の初代責任者は、今もこの筋が正しかったと考えている。彼に言わせれば「謎など存在しない」。
弱点は分かりやすい。決定的な物証がない。唯一の目撃証言は撤回され、しかも2020年には拘束下の部分が法的に無効とされた。そして三年にわたる千件の電話と五通の手紙という執拗さは、衝動的な犯行像とうまく噛み合わない。彼はこの点について有罪判決を受けていない。
一族共謀説
2017年以降、捜査当局が重心を置いてきたのがこれだ。アナクリムの分析が示した「複数関与」がその出発点になっている。カラスは一人ではなく、複数の人間の意思が絡んだ長期的な嫌がらせであり、その延長として誘拐が計画された。実行役と、書き手と、仕組んだ側が別々にいた可能性がある。子どもの死は、計画されていた結果ではなかったかもしれない。
支えになっているのは、文体計量と筆跡の再鑑定、そして手紙から出た二種類のDNAだ。弱点は、それが四十年たった紙と記憶に依存していること、そして2018年に手続きの瑕疵で法的基盤が一度消えたこと、さらに2026年7月に時効の壁にぶつかったことだ。ジャコ夫妻は一貫して無実を主張しており、有罪と認定されたことは一度もない。
母親説
1985年に司法警察が走った方向。今は完全に否定されている。1993年の「嫌疑なし」の免訴は、フランスの司法が出せる最も強い形の名誉回復に近い。にもかかわらず、当時この説が国民的な支持を得たという事実そのものが、この事件の重要な一部だ。仮説として並べるのは、それが正しいかもしれないからではなく、それがどうやって作られたかを見る必要があるからだ。
外部の第三者説
一族と無関係な、あるいはごく周辺にいた誰かが、長期の嫌がらせの果てに実行した、という見方も消えていない。カラスが一族の内情に詳しかったのは事実だが、村社会では「詳しい他人」はいくらでもいる。工場の同僚、近所、かつての知人。この説の弱点は、あまりに候補が広すぎて検証しようがないことだ。
事故説
縛られていた紐が皮膚に痕を残していないこと、肺に水が少ないことから、まず別の場所で死んでから川に入れられたという見方が強い。だからこそ、子どもが自分でさまよって落ちたという単純な事故の可能性は、事件当日の犯行声明電話と犯行声明の手紙が存在する時点で、ほぼ否定される。誰かが子どもを連れ出し、誰かが「復讐した」と宣言した。それだけは動かない。
反証として置いておきたいこと
どの仮説にも共通する弱点がある。物証が薄すぎるのだ。1984年の解剖で内臓が保存されなかった。DNAという概念がまだ捜査になかった。現場は増水した川で、痕跡は流された。証言は取調べの圧力と報道の汚染を受けた。四十年後に残っているのは、変色した紙と、老いた記憶と、統計的な文体分析だけだ。
そのうえで、こういう反証も持っておきたい。文体計量は強力だが、書き手を特定する技術としては歴史が浅く、法廷での位置づけも各国で議論の途中にある。四十年前の筆跡鑑定が二転三転した歴史を思えば、新しい科学に飛びつく前に一拍おく理由は十分ある。そしてアナクリムが示す「複数関与」も、あくまでデータの整合性から導かれた推論であって、誰か特定の人物を指す証拠ではない。
だから結論はこうなる。分からない。今のところ、誠実に言えるのはそれだけだ。
四十年語られ続ける理由
未解決事件が語り継がれる条件はいくつかある。謎が単純で強いこと。関係者に感情移入できること。そして「もう少しで分かりそう」という感触が消えないこと。グレゴリー事件はこの三つを全部満たしている。
だが本当の理由は、たぶんもっと身も蓋もないところにある。この事件が、犯人を突き止められなかった代わりに、他のあらゆるものを暴いてしまったからだ。
判事の未熟さを暴いた。組織間の縄張り争いを暴いた。筆跡鑑定という技術の脆さを暴いた。報道が金と速度で動く仕組みを暴いた。知識人の傲慢を暴いた。地方社会の嫉妬と沈黙を暴いた。そして司法手続きが、真実ではなく形式によって動くという冷たい事実を暴いた。
犯人は分からないまま、それ以外の全部が丸見えになった事件。だから語り続けられる。誰も物語を閉じられないからだ。
そして子どもは、そこにいない。四歳で、砂利の山で遊んでいて、青と白の帽子をかぶっていた男の子は、この巨大な議論のどこにも登場しない。四十年の議論は、その子のためというより、その子の死をきっかけに壊れた大人たちの物語になった。ここが、この事件のいちばん苦い部分だと思う。
四十二年ぶんを、もう一度だけ乾いた形で並べ直す
さて、ここからは総括と追加の考察をやる。時系列でもう一度整理しながら、記事本編で書ききれなかった論点を潰していきたい。
事件の骨格をもう一度、乾いた形で
1981年ごろから匿名の電話が始まる。標的はジャン=マリー・ヴィルマンとその両親。三年で約千件。1982年11月30日、祖父が一日二十七回の着信を受けて被害届を出す。1983年3月4日から手紙に切り替わる。以後、1983年4月27日、5月17日と続き、そこで一年五か月の空白。1984年10月16日、犯行当日に犯行声明の手紙が投函され、同日十七時三十二分ごろに伯父へ犯行声明の電話が入る。十七時二十分ごろに子どもが消え、二十一時十五分ごろに七キロ下流で発見される。翌1985年7月24日、祖父宛てに最後の手紙が届く。
この時系列を並べ直すと、ひとつのことが浮かび上がる。カラスは事件の前後で「同じテンポ」を保っていない。三年間の執拗な嫌がらせ、一年五か月の沈黙、そして突然の実行と犯行声明。この不連続を説明できる仮説が、たぶん正解に近い。
沈黙の期間に何があったのか。犯人が満足したのか、環境が変わったのか、そもそも書き手が入れ替わったのか。1983年5月の手紙が「これで最後だ、さらばだ」と書いて終わっていることを思い出してほしい。あれは本当に終わりの宣言だったのかもしれない。だとすれば、1984年10月に再開したのは、別の動機か、別の人物か、あるいは同じ人物の別の局面だ。
文体計量の分析が「1983年5月と1984年10月の手紙は同じ書き手だが、隠すために利き手でない手で書かれている」という方向を出したのは、この空白の説明として興味深い。書き手が、途中から自分の筆跡が特定されるリスクを意識しはじめた、という読み方ができるからだ。だがこれも仮説にすぎない。
物証の目録と、その全部が使えない理由
この事件の物証は、多いようで少ない。
紐がある。遺体を縛っていた細い紐と、ヴィルマン家の地下室にあった似た紐。ところがこの種の紐は当時の農村家庭にありふれていて、同一性の証明にならなかった。
帽子がある。顔まで下ろされていた青と白の毛糸の帽子。この「顔を隠す」という行為には、犯人の心理が出ているはずだ。犯罪心理の一般論では、被害者の顔を覆う行為は加害者が被害者を直視できない状態、つまり近しい関係を示唆するとされる。ただしこれは統計的な傾向の話であって、証拠ではない。この事件では、それ以上の意味を引き出せていない。
手紙がある。これが最大の資産だ。だが四十年、何十人もの手を経てきた紙だ。2000年の切手鑑定は解釈不能で終わり、2017年に二種類のDNAが出たときも、それが犯行時のものか、その後の取り扱いで付いたものかは切り分けられていない。関係者が言う「接触DNA」というのは、要するにそういう意味だ。触った人の細胞が付いているだけかもしれない。
録音がある。1980年代に押さえられたしゃがれ声。2024年3月に音声鑑定が命じられている。当時の録音品質と、四十年の技術差を考えれば、これはむしろ有望かもしれない。ただ、比較対象となる本人の音声サンプルがどれだけあるかという問題が残る。
そして解剖記録がある。これがいちばん痛い。内臓が保存されていない。薬物の有無が永久に不明のままだ。もし子どもが眠らされていたなら、抵抗の痕跡がないことも、紐の跡が薄いことも、川に投げられたときの状況も、全部説明が変わる。1984年10月17日の一日の判断が、以後四十二年を縛った。
手続きが真実を殺す、という話
この事件を追っていて、途中で気持ちが折れそうになるのはここだ。
2018年5月、三人の予審請求が取り消された。理由は、決定を合議でなく裁判長が単独で出したから。犯人かどうかの話ではない。書類の作り方の話だ。
2020年1月、ミュリエル・ボルの1984年の身柄拘束が無効とされた。十五歳、弁護人なし。これは人権の観点からはまったく正しい判断だ。だが結果として、事件の核心に触れる可能性がある供述が記録から抜けた。
2026年7月15日、ジャクリーヌ・ジャコの予審請求は維持されたのに、事実は時効だと宣言された。疑うことはできるが、裁くことはできない。
法治国家というのは、こういうものだ。手続きの厳格さは、無実の人を守るための装置だから、緩めていいものではない。この事件でクリスティーヌ・ヴィルマンやミュリエル・ボルに起きたことを見れば、手続きが甘い捜査がどれだけ人を壊すかは明らかだ。
だから皮肉なのだ。手続きを軽んじた最初の捜査が事件を迷宮にし、手続きを厳格に守る後の司法が、その迷宮から出る扉を閉じている。どちらも正しい理屈で動いていて、結果として真実だけが取り残されている。
2027年10月16日、殺人の公訴時効が来る。あと一年ちょっとだ。それが来れば、仮に明日誰かが自白しても、フランスの裁判所はその人を裁けない。この記事を書いている時点で、その日は確実に近づいている。
「複数関与」という結論が持つ重さ
アナクリムが出した「複数の人物が関与した」という示唆を、もう少し掘っておきたい。
これは単なる共犯の話ではない。もしこれが正しいなら、この四十年、複数の人間が事実を知りながら黙り続けたことになる。一族の中で、誰かが何かを知っていて、葬儀に出て、法廷に立って、テレビの取材を受けて、老いていった。そういう構図だ。
そして沈黙は伝染する。知らない人間も、疑わしいものを見た人間も、家族が壊れるのを恐れて口を閉じる。ヴォージュの谷の閉じた社会で、四十年の沈黙が可能だったかどうか。可能だったと思う。むしろ、可能でありすぎたと思う。
一方で、この見立てには危うさもある。「複数関与」という結論は、データの矛盾から導かれた推論であって、名前を指し示すものではない。捜査が行き詰まったとき、より複雑な説明に飛びつくのは人間の癖だ。単独犯の証拠が足りないから共謀を疑う、というのは論理としては逆立ちしている。ここは冷静に見ておきたい。
ミュリエル・ボルという名前について
この事件で最も理不尽な位置にいるのは、たぶんこの人だ。
十五歳のとき、彼女の言葉ひとつで大人の男が牢に入り、撤回ひとつでその男が出て、出た男が殺された。以後の人生は、学校を追われ、職を得られず、二度の結婚が壊れ、テレビの前で何度も同じ質問をされ続けるものになった。2017年には五十代で三十六日間拘束された。2020年、その1984年の拘束が違憲だったと認められた。
彼女が真実を語ったのか嘘を語ったのかは、私には分からない。両方の可能性がある。だがどちらであっても、この人が背負わされたものの量はおかしい。十五歳の証言に一件の殺人事件の全体を吊るした大人たちの側に、まず責任がある。
そして彼女は今も、義兄の墓に花を持っていくという。この一点だけは、ずっと変わっていない。それが何を意味するのかも、私には分からない。分からないままにしておくのが、たぶん誠実だ。
判事たちの話
この事件は三人の判事の人生を変えた。
ジャン=ミシェル・ランベールは三十二歳で二百二十九件目の書類のひとつとしてこれを受け取り、そのあとの三十三年をこの事件とともに生きて、2017年に自ら命を絶った。彼の未熟な捜査が事件を迷宮にしたのは事実だ。同時に、当時の彼にどんな体制と支援が与えられていたのかという問いも残る。地方の予審判事一人に国家的事件を丸投げする仕組みそのものが、この惨事の設計図の一部だった。
モーリス・シモンは1987年に引き継ぎ、一万九千ページを積み上げ、三日間の現場再現をやり、脅迫状を受け取り、そして1990年に外された。落胆のうちに倒れ、記憶を失い、1994年に亡くなった。彼のノートは2005年に世に出て、前任者への評価は容赦がなかった。この人は、真実にいちばん近づいたかもしれない人物として語られている。
そして現在の起訴部長は、2025年に新しい鑑定を命じ、2026年7月に「維持するが時効」という決定に署名した。三人目の判事もまた、この事件から無傷では出られないだろう。
司法が個人を消耗させる装置になっていることは、ここでもはっきり見える。
報道の四十年をどう総括するか
1984年の報道は、控えめに言って犯罪的だった。捜査情報が垂れ流され、少女の供述が撤回前に紙面に載り、まだ何も証明されていない男が「殺人犯」と呼ばれ、母親が国民的な標的になった。写真に金が払われ、証言に金が払われた。ローランス・ラクールはその内側にいて、四年後に報道の仕事そのものを降りた。
2019年以降の配信ドキュメンタリーは、この四十年前の暴走を批判的に検証する形式をとっている。それ自体は正しい。だが同時に、遺族と関係者の人生をふたたび世界規模の消費財にした。判事の未亡人が危険な憎悪を煽っていると抗議したのは、そこに理由がある。
そして今、この記事もその連鎖のなかにある。私は自分がその外側にいるふりをするつもりはない。だからこそ、書くときのルールだけは決めておきたい。名前の挙がる人を犯人扱いしない。撤回された供述を確定した事実として書かない。証明されていない仮説を、証明されたように並べない。四十年前にそれをやった人たちが何を壊したかを、この事件は嫌というほど教えてくれる。
最後に残るもの
四十二年たった。カラスの正体は分からない。誰が子どもを連れ出したのかも分からない。手紙の書き手をめぐる最新の鑑定は特定の人物を指しているが、その事実は時効の壁の向こう側にある。反対鑑定の結果が今年の秋に出る予定で、それがどう転ぶかも分からない。2027年10月16日には殺人の時効が来る。
たぶん、この事件は解けないまま終わる。フランスの司法が最後に出す答えは「時間切れ」だろう。それは敗北だが、同時に、この国が四十年かけて学んだことの証明でもある。四十年前なら、誰かを犯人に仕立てて終わらせていた。実際そうしようとして、若い母親をひとり壊しかけた。今はそれをやらない。証拠がないなら、決めない。
冷たい結論だ。でも、決めつけて誰かの人生を焼くよりはるかにましだ。この事件が四十年かけて残した教訓があるとすれば、それだと思う。
ヴォローニュ川は今も流れている。ドセルの堰も、レパンジュの家も、そこにある。バスで見物に来る人はもういない。谷は静かだ。四歳の男の子が青と白の帽子をかぶって砂利の山にいた、あの夕方の続きが、まだ書き終わっていないだけだ。
