町の人はみんな、彼のことを「いい先生」と呼んでいた。話をちゃんと聞いてくれる。往診を嫌がらない。年寄りに優しい。イギリス北部の小さな町で、二十年以上そう言われ続けた男が、実は患者を殺し続けていた。しかも二百人以上。
信じられない話だが、もっと信じられないのはここからだ。誰も気づかなかった理由が、あまりにも間抜けというか、あまりにも制度的だった。彼は医者だった。つまり、患者が死んだとき、その死因を紙に書き込む権限を持っていたのが、殺した本人だったのである。
ハロルド・フレデリック・シップマン。二〇〇〇年一月、イギリスの法廷で十五件の殺人について有罪が確定した。その後の公的調査は、確認できただけで二百人を超える患者が彼の手で殺されたと結論づけた。医師という職業が生まれてから、これほどの数を一人で殺した人間の記録はない。
この記事では、その全部を追いかける。生い立ちから、最初のつまずきから、町での二十年から、致命的な一枚の書類から、法廷から、そして事件のあとにイギリスという国が何を作り替えたかまで。長いが、途中で止まらないと思う。
一九四六年、ノッティンガム。母とモルヒネの記憶
ハロルド・フレデリック・シップマンは一九四六年一月十四日、イングランド中部のノッティンガムで生まれた。労働者階級の家庭で、三人きょうだいの真ん中だった。家は裕福ではなかったし、彼自身も学校で目立つ子どもではなかった。運動はそこそこできたが、成績はずば抜けてはいない。
ただ、家庭のなかには特殊な力学があった。母のヴェラが、彼を露骨に特別扱いしたのだ。長男でも末っ子でもない真ん中の子を、母は「あなたは他の子とは違う」という調子で育てた。のちに事件を分析した人たちがそろって指摘するのは、この時期に彼のなかに植えつけられた選民意識のようなものだ。自分は周囲より上等な人間である。その感覚は、彼が大人になってから同僚や事務スタッフに向けた見下すような態度と、きれいに地続きになっている。
そして一九六三年。彼が十七歳のとき、母ヴェラが肺がんで死んだ。
このくだりは、この事件を語るときに必ず出てくる。母の最期の数か月、痛みは激しかった。往診に来た医師がモルヒネを打つ。すると母の顔から苦痛が消える。少年だった彼は、その一部始終をそばで見ていた。薬が入る。苦しみが消える。人が静かになる。医師という職業が持つ、その圧倒的な力を、彼は母のベッドの脇で覚えた。
もちろん、母を亡くした少年がみんな殺人者になるわけではない。この経験を動機の説明として使いすぎるのは危険だし、のちの公的調査もそこは慎重に扱っている。それでも、彼が生涯を通じて用いた手口が、まさにあの往診とあの薬の再演だったという事実は動かない。彼は自分が十七歳で見たものを、その後の人生でひたすら反復した。
母の死のあと、彼は医学部を目指す。リーズ大学の医学部に願書を出したが、最初の受験には失敗している。翌年に再挑戦して、一九六五年に入学した。ここが重要で、彼は天才ではない。エリートでもない。ぎりぎりで滑り込んだ、平凡な医学生だった。この「平凡さ」は、あとで彼の最大の武器になる。
学生時代にプリムローズ・オクストビーという女性と出会う。厳格な家庭で育った、口数の少ない人だった。交際はすぐに深まり、彼女が妊娠したため、二人は一九六六年十一月に登記所で結婚する。翌年に長女サラが生まれた。夫婦は最終的に四人の子を持つ。プリムローズは、事件が明るみに出たあとも、そして夫が死んだあとも、公の場で夫の無実を主張し続けた数少ない人物になる。
ポンテフラクト、リーズ。若い医師の空白の数年
一九七〇年、彼はリーズで医師資格を得る。研修医としてポンテフラクト総合病院に入った。ここでの数年間が、事件のいちばん暗い部分だ。
のちの公的調査は、この病院時代にすでに不審な死が起きていたと認定している。一九七一年から七二年にかけて、彼が関わった何件かの患者の死について、調査は「殺害された可能性が高い」または「強い疑いがある」と結論づけた。名前が挙がったなかには、脳卒中から回復途上だった六十代の女性や、鍛冶職人だった六十代の男性が含まれる。さらに調査は、四歳の女児の死についても強い疑いを示している。この一件は、事件全体のなかでも突出して重い。
ただし、ここは慎重に書かねばならない。この時期の死について、彼が刑事裁判で有罪になったことは一度もない。有罪が確定しているのは、あくまで一九九五年から九八年にかけての十五件だけだ。病院時代の件は、証拠にもとづいて公的調査が高い蓋然性で認定したもので、法的な意味での「有罪」とは性質が違う。この記事では、以下ずっとこの二つを混ぜないで書く。混ぜてしまうと、この事件がいちばん大事にしている教訓――記録と手続きの厳密さ――を、書く側が裏切ることになるからだ。
いずれにせよ、病院という組織のなかでは、彼は「一人の若い医師」でしかなかった。看護師がいる。上級医がいる。カルテは共有される。薬品は数えられる。彼が本当に自由になるのは、この環境から出たあとだ。
トッドモーデン、一九七五年。最初の転落
一九七四年、彼はウェスト・ヨークシャーの小さな町トッドモーデンに移り、地元の医療センターの共同経営者として一般開業医のキャリアを始めた。丘に囲まれた、人口一万数千の町だ。彼は熱心に働いた。新しいことをやりたがった。診療所にコンピューターを入れようと主張したのも彼だった。町の人からの評判は悪くなかった。
そして一年余りで、崩れた。
彼はペチジンという鎮痛薬に依存していた。麻薬性の強い薬である。彼はこれを、存在しない患者の名前で処方箋を書き、あるいは実在の患者の名で必要量を水増しして、大量に手に入れていた。十九か月ほどのあいだに集めた量は、常識では説明のつかない規模だった。要するに、処方権限という「蛇口」を自分のために開けっぱなしにしていたのだ。
この構造は、覚えておいてほしい。彼が二十年後にやったことも、原理はまったく同じだからだ。医師は規制薬物を扱える。扱えるということは、書類の上で辻褄さえ合っていれば、手元に残せるということでもある。当時のイギリスの制度は、そこを事実上ノーチェックにしていた。
一九七五年、共同経営者たちが帳簿の異常に気づく。追及された彼は、最初は隠してくれと頼んだ。断られると、今度は感情を爆発させた。結局、彼は診療所を追われ、依存症の治療施設に入る。
一九七六年二月、彼はハリファックスの治安判事裁判所に出廷した。処方箋の偽造と、欺罔による薬物の取得。彼は罪を認めた。
判決は、罰金だった。数百ポンドの罰金。それだけ。
医師免許は取り上げられなかった。イギリスの医師登録を管理する英国医事評議会も、彼を登録から抹消しなかった。警告で済ませたのである。
この判断が、その後の二十数年を決定づけた。もしこのとき彼が医師の資格を失っていたら、この記事は存在しない。のちの公的調査は、この局面での医師規制のあり方を厳しく批判することになる。当時の医事評議会は、医師の不正に対して「同業者の身内」として振る舞いがちだった。一度の過ちで人生を終わらせるのは酷だ、という温情。その温情が向けられたのは、彼一人ではなかった。だが彼の場合、その先に二百人以上の死があった。
ハイド、一九七七年。「いい先生」の誕生
一九七七年十月一日、彼はグレーター・マンチェスター、タメサイド地区の町ハイドに現れた。ドニーブルック・ハウスという名の共同診療所に、新しい医師として加わったのだ。
面接で、彼は過去の薬物依存と有罪歴を自分から話したという。そして「完全に治った」と言った。診療所側はそれを受け入れた。当時、そういう情報が体系的に共有される仕組みも、継続的に監視する仕組みもなかった。彼は普通に働き始めた。
ハイドは、マンチェスターの東側にある古い工業の町だ。綿織物と帽子作りで栄え、戦後は徐々に活気を失った。年金生活者が多く、人の出入りが少なく、同じ通りに何十年も住み続ける人がたくさんいる。誰が誰の姪で、誰の家がどこかを、みんなが知っている。そういう町だ。
そして彼は、その町でみるみる人気の医師になった。
理由ははっきりしている。彼はよく働いた。診療時間が終わっても患者を診た。電話をすればすぐ来た。往診を面倒がらなかった。高齢の患者の家に、頼まれてもいないのに寄って様子を見た。話をよく聞いた。専門用語を使わずに説明した。近所づきあいの話や孫の話にも付き合った。手を握った。冗談も言った。
ひげを生やした、少し野暮ったい中年男。眼鏡。ツイードのジャケット。声は穏やか。要するに、イギリス人が「昔ながらの町医者」と聞いて思い浮かべる姿そのものだった。
彼の患者登録は増え続け、二千数百人になった。地域の医師のなかでも際立って多い数字である。人々は自分から進んで彼のところに移ってきた。ある住民は、彼を「この町でいちばんの医者」と言った。母親が彼の患者だというだけで安心する、そういう空気が確かにあった。
一方で、彼にはもう一つの顔があった。同僚や、看護師や、受付の事務員や、製薬会社の営業に対しては、驚くほど尊大で、しばしば冷酷だった。相手を人前で罵倒する。無知を嘲笑する。自分の判断に異を唱えられると激高する。彼のなかでは、世界は明確に二層に分かれていた。自分を慕う患者。そして、自分より下等な、口を出してくる連中。
この二面性は、事件を理解するうえで決定的に重要だ。彼は「善人の仮面をかぶった悪人」ではなかった。彼にとって、患者に優しくすることと、患者を殺すことは、矛盾していなかったのだと思う。どちらも彼が相手を完全に支配している状態だからだ。
一九九三年、マーケット・ストリート。監視が消える
一九九三年、彼は共同診療所を出て、ハイドのマーケット・ストリートに自分の診療所を開いた。単独開業である。
このとき、彼の患者たちの多くが彼についてきた。町の中心部の、決して立派ではない建物。だが患者は増え続け、三千人近くに達した。単独の開業医としては相当な規模だ。
そして、この移転こそが、事件の構造を完成させた。
共同診療所には、たとえ形式的であっても他人の目がある。処方の傾向。往診の頻度。患者の死亡数。廊下ですれ違う同僚。カルテの共有。それらは監視として機能していなくても、少なくとも「他人が視界に入る」状態を作る。単独開業では、それが全部消える。彼の診療所で起きたことは、彼と患者しか知らない。彼が書いたカルテだけが記録になる。彼が書いた死亡診断書だけが公的な事実になる。
一九九三年以降、彼が関わる患者の死亡数は目に見えて増えていく。のちの統計分析によれば、彼の高齢患者の死亡率は、同年代の他の開業医と比べて明らかに高かった。しかも死亡時刻が午後に偏っていた。往診の時間帯である。一九九七年の一年間だけで、公的調査が彼による殺害と認定した死は三十件を超える。ほぼ十日に一人だ。
数字にすると異常なのに、リアルタイムの町のなかでは、それは異常に見えなかった。ここが恐ろしい。高齢者の多い町で、高齢者を多く抱える人気の医師のところで、高齢者が死ぬ。一件ずつ見れば、それは悲しいが自然な出来事だった。
午後の往診。繰り返された同じ光景
彼の犯行のかたちは、驚くほど一貫していた。
多くは午後だった。彼は高齢の、たいていは一人暮らしの患者の家を訪ねる。予定された往診のこともあれば、「近くまで来たから」と言って予告なしに寄ることもあった。相手は喜ぶ。お茶を出そうとする人もいる。
彼は診察のふりをする。血圧を測る。検査のために採血が必要だと言う。そして規制薬物を注射する。彼が使ったのはジアモルフィン――医療用に精製されたヘロインで、モルヒネと同じ系統の強力な麻薬性鎮痛薬だ。この薬をどう手に入れ、どれだけ使ったかという具体は、ここでは書かない。書く必要もない。押さえるべきは構造のほうだ。彼は医師として規制薬物を合法的に処方できる立場にあり、その権限を使って、書類上は正当に見えるかたちで薬を手元に溜め込んでいた。当時のイギリスには、開業医が扱う規制薬物の在庫を外部から突き合わせる実効的な仕組みが存在しなかった。
そして患者は死ぬ。多くは椅子やソファに座ったまま、服を着たままで。
しばらくして彼は「発見者」になる。あるいは近所の人や家族が発見し、彼が呼ばれる。彼は落ち着いて到着し、脈を診て、首を横に振る。救急車は呼ばない。呼んだふりをして、目の前で電話をかけ、「もう手遅れだから」とキャンセルする芝居を打ったこともある。のちに救急の通信記録を調べたところ、その通報は最初から存在しなかった。
そこから先が彼の本領だ。彼は家族に向かって、こう説明する。前から心臓が弱っていた。実は先週、胸の痛みを訴えていた。検査を勧めたが本人が嫌がった。年齢を考えれば、こういうことは起こりうる。眠るように、苦しまずに逝かれた。
家族は泣きながら頷く。だって、主治医が言うのだ。二十年その人を診てきた医師が言うのだ。
そして彼は死亡診断書を書く。老衰。心不全。脳卒中。彼が書けば、それが公式の死因になる。
彼は解剖を勧めなかった。むしろ、遠回しに、しかし確実に、遺族を解剖から遠ざけた。「解剖なんて必要ない」「お母さんを切り刻む必要はないでしょう」。悲しみのなかにいる家族に、そう言われて食い下がれる人はまずいない。
そしてカルテを書き換えた。存在しなかった症状。していなかった相談。あるはずのない持病。彼はそれを、患者が死んだあとにさかのぼって入力した。紙のカルテならそれで通ったかもしれない。だがマーケット・ストリートの診療所は電子カルテだった。彼はコンピューターに詳しいつもりでいたが、実は詳しくなかった。入力の日時が、消せない形でハードディスクに残ることを知らなかったのだ。この無知が、のちに彼を殺すことになる。
気づいていた人は、いた
ここで大事な事実を書いておきたい。「誰も気づかなかった」というのは、正確には嘘だ。気づいた人はいた。何人もいた。ただ、その気づきが制度に届かなかった。
まず葬儀屋である。ハイドで長く営業していたある葬儀社の一族は、一九九六年ごろから明確におかしいと感じていた。この診療所から回ってくる遺体が多すぎる。そして状態が似すぎている。普通、脳卒中や心臓発作で急死した人は、床に倒れていたり、ベッドで見つかったりする。服装も乱れている。ところがこの診療所の遺体は、判で押したように、きちんと服を着て、椅子やソファに座った姿勢で見つかる。しかも片方の袖がまくり上げられていることがある。
葬儀社の当主は思い切って診療所を訪ね、本人に直接尋ねた。うちに来る先生の患者さんが、ちょっと多いように思うのですが。相手はまったく動じなかった。書類ならいつでも見せる、何も隠していない、と言い切ったという。当主は引き下がった。相手は町一番の医師で、こちらは葬儀屋だ。証拠は何もない。名誉毀損で訴えられたら終わりだ。
タクシーの運転手も気づいていた。高齢の客を病院や買い物に運ぶのが仕事の男で、常連客が次々にいなくなることに違和感を持った。しかも死んだ客の多くが同じ医師の患者だった。彼と妻は、亡くなった客の名前を書き出してみた。リストは伸び続けた。それでも彼は動けなかった。タクシー運転手が医師を殺人犯呼ばわりする。そんな話を誰が聞いてくれるのか。
高齢者向け集合住宅の管理人も気づいていた。三十戸あまりの小さな施設で、入居者の死亡が特定の年に集中していた。そしてそのたびに、同じ医師がその場にいるか、直前まで来ていた。
ここに、この事件のいちばん苦い教訓がある。異変を最初に察知したのは、医療の外にいる人たちだった。彼らは正しかった。しかし彼らには、その直感を制度に接続する回路がなかった。彼らの言葉を受け取って調べる窓口が、どこにも用意されていなかったのだ。
一九九八年三月。隣の診療所の医師が動いた
そして、医療の内側からも声が上がる。
ハイドには、彼の診療所の近くにもう一つ、別の診療所があった。そこに勤める医師の一人が、火葬にまつわる書類の異常に気づいた。
当時のイギリスでは、遺体を火葬する場合、担当医が書く証明書に加えて、その死に利害関係のない別の医師が遺体を確認して署名する仕組みになっていた。二人目の医師のチェック、いわゆる「第二の署名」である。理屈の上では、これは強力な安全装置だ。
ところが実際には、これがほとんど形骸化していた。第二の医師は、多くの場合、担当医の説明を聞いて、遺体をちらりと見て、署名する。署名すれば手当が出る。忙しい開業医にとっては数分の仕事だ。そして遺体の外見からは、注射による死は原則としてわからない。
その診療所の医師たちは、この署名を頼まれる回数が異様に多いことに気づいた。しかも一人の医師の患者ばかりだ。若い医師がそれを口にし、診療所の年長の医師であるリンダ・レイノルズが受け止めた。
レイノルズは慎重な人だった。彼女はまず、自分の直感が的外れでないかを確かめようとした。数字を見た。同僚と話した。医師を守るための互助組織にも相談した。同僚の医師を殺人の疑いで告発する。それがどれほど重大な行為か、彼女はよくわかっていた。間違っていれば、自分の医師人生が終わる。
それでも彼女は一九九八年三月二十四日、地域の検死官ジョン・ポラードに連絡を取った。この診療所の死亡率がおかしい、と。
これは、恐ろしく勇気のいる行為だった。そして彼女は、そのあと事態がどう転ぶかを、最後まで見届けることができなかった。彼女自身が病に倒れ、事件の全貌が明らかになるより前にこの世を去っている。この記事のなかで、私が個人的にいちばん報われてほしかった人はこの医師だ。
潰えた最初の捜査
検死官は警察に話をつないだ。グレーター・マンチェスター警察が、ある警部を指名して内偵に当たらせた。
そして、その捜査は失敗した。
何が起きたか。捜査担当者は通報した医師から話を聞いた。だが、そこから先の踏み込みが決定的に足りなかった。彼は、当時まだ火葬されずに残っていた遺体について、解剖を求めなかった。彼は、その医師の死亡率を他の開業医の数字と突き合わせる作業をしなかった。彼は、遺族に話を聞くこともしなかった。
代わりに彼がやったのは、地域の保健当局にいる医師に、カルテを見てもらうことだった。そして、その医師は「記録に不審な点はない」と回答した。
当たり前である。カルテは、殺した本人が書いていたのだから。
さらに悪いことに、カルテを点検したその医師は、のちに、自分は「殺人の疑いがある」という前提を伝えられていなかったと述べている。単に問題がないか見てほしい、という依頼として受け取ったと。もし殺人の可能性を前提に見ていれば、まったく違う目で読んだはずだ、と。
捜査は一九九八年四月十七日に終結した。嫌疑なし。
この二十数日間について、のちの公的調査は容赦のない評価を下している。この捜査が適切に行われていれば、その後に殺された複数の患者は死なずに済んだ。調査は、そのうち三人の名前を具体的に挙げた。四月から六月にかけて命を落とした人たちである。
ここは強調しておきたい。この失敗は、担当者一人の怠慢に還元できる話ではない。より根深いのは、警察の側に「医師が患者を殺す」という犯罪類型についての想像力も知識もなかったことだ。彼らは職業的な常識に従って行動した。医師の記録を、専門家である別の医師に見てもらう。手続きとしては正しい。ただし、その手続きは「記録そのものが犯人の作文である」という可能性を想定していなかった。制度の欠陥とは、たいていこういう形をしている。
一九九八年六月二十四日。最後の患者
キャスリーン・グランディは八十一歳だった。
彼女はハイドでは知られた人だった。かつてこの町の市長を務めたことがある。夫を早くに亡くしたあとも、社会活動から手を引かなかった。高齢者向けの昼食会で配膳を手伝い、慈善団体の世話をし、集会があれば顔を出した。几帳面で、時間を守り、約束を破らない人だった。何より、年齢のわりに驚くほど元気だった。
一九九八年六月二十四日の朝、彼はグランディの家を訪ねている。高齢者に関する研究のために採血が必要だ、というような説明をしていた。
その日、彼女は昼食会の手伝いに来なかった。
来ないはずがない人が来なかったので、仲間が家に様子を見に行った。そして彼女を見つけた。ソファに横になっていた。服は着たままだった。すでに息はなかった。
呼ばれた彼は落ち着いて到着し、死亡を確認した。そして遺族に、解剖の必要はないと告げた。死亡診断書には、要するに「高齢による自然な死」と書いた。
ここまでなら、いつもの一件だった。この二十年、彼が何十回、何百回と繰り返してきた手順である。彼女は埋葬された。町は一人の元市長を悼んだ。
ところが今回、彼はいつもと違うことをしていた。
偽造された遺言書
葬儀から間もなく、ハイドの法律事務所から一通の連絡が届いた。故人の遺言書を預かっている、という。
内容はこうだった。全財産――家と現金を合わせて三十八万六千ポンドあまり――を、かかりつけの医師に遺す。理由として、彼女がその医師の役に立ちたいと考えていた、といった趣旨のことが書かれていた。娘にも孫にも、一切残されていなかった。
書類は打ち込まれたもので、末尾に署名があり、二人の証人の署名が添えられていた。
そして、この一枚が彼を終わらせた。
娘。弁護士だった
キャスリーン・グランディの娘、アンジェラ・ウッドラフは、イングランド中部で長年働いてきた事務弁護士だった。つまり、遺言書という書類を職業として毎日扱ってきた人間である。
彼女は母の遺言書を自分の事務所で作成していた。母の法的なことは全部自分が見ていた。だから、知らない事務所から知らない遺言書が出てきた時点で、話は最初からおかしい。
そして現物を見たとき、彼女は言葉を失った。
彼女がのちに法廷で語ったところによれば、まず打ち方がひどかった。タイプの体裁が素人じみていて、書式として成立していない。文言の言い回しが、法律家の作る文書のものではない。母が所有していた不動産についての記載も実態と食い違っていた。そして署名。大きすぎるのだ。母の筆跡を知り尽くした娘の目に、その署名は明らかに別人のものに見えた。
彼女は、こう述べている。母があんなにひどい体裁の書類に署名するなんて、どう考えても筋が通らない、と。
彼女は自分の直感を、弁護士のやり方で検証していった。証人として名前が載っている二人を探し出し、会いに行った。二人は町の住民で、そのうち一人は近所で店をやっている若い男性、もう一人は小さな子どもを持つ女性だった。二人の話は一致していた。あの日、診療所で医師に「ちょっと書類に署名してくれないか」と頼まれた。中身は見ていない。誰かが署名するところも見ていない。折り曲げられた紙の下のほうに、名前を書いただけだ。
その瞬間、娘のなかで結論が出た。母は殺された。それも、この財産のために。
彼女は警察に行った。最初は地元の警察、そしてハイドを管轄するグレーター・マンチェスター警察へ。
彼女自身が語っている。自分が弁護士だとわかった途端、警察の対応が変わった、と。この一言は、この事件の別の顔を照らし出している。この二十年、彼のもとで亡くなった患者の遺族のなかにも、おかしいと感じた人はいたはずだ。だが彼らの多くは、専門知識も、書類を読む訓練も、警察に自分を信じさせるだけの肩書きも持っていなかった。最後の被害者の遺族がたまたま弁護士だったから、この事件は終わった。逆に言えば、そうでなければ終わらなかった。
掘り起こされた遺体
捜査を引き継いだ警察官たちは、その遺言書を一目見て確信した。捜査を指揮した警視は、あれは一度見れば偽物だとわかる、子ども向けの印刷玩具で刷ったような代物だ、という趣旨のことを述べている。
警察は診療所と自宅を捜索した。そこから古い携帯用タイプライターが出てきた。書体が一致した。そのタイプライターと遺言書からは彼の指紋が検出された。一方で、遺言書に署名しているはずの故人の指紋も、証人二人の指紋も、そこにはなかった。
だが、遺言書の偽造は詐欺であって殺人ではない。決定的なのは遺体だった。
一九九八年八月、キャスリーン・グランディの遺体が墓から掘り起こされた。組織が採取され、毒物検査に回された。
九月初旬、結果が出た。彼女の体内から、致死量の麻薬性鎮痛薬が検出された。老衰ではなかった。
ここで、ひとつ皮肉なことを書いておく。彼は遺族に火葬を勧める癖があった。火葬されれば遺体は残らず、あとから調べようがない。ところが、この最後の一件では、故人が埋葬された。だから掘り起こせた。そして、この系統の薬物は、遺体が土のなかにあっても長期間にわたって検出できる。彼は二十年間、証拠を灰にし続けてきたのに、最後の最後で、いちばん調べられたくない一人を土の下に残してしまったのである。
一九九八年九月七日、逮捕
一九九八年九月七日の朝、彼は弁護士を伴ってアシュトン・アンダー・ラインの警察署に出頭した。午前九時十八分、逮捕された。容疑はキャスリーン・グランディの殺害と、遺言書の偽造、そして欺罔による財産取得の未遂。
取り調べで、彼は最初のうち、いつもの態度を崩さなかった。専門用語を並べて説明し、警察官の無知を鼻で笑い、自分の記録の正しさを主張した。ある捜査員がコンピューターのデータを取り出そうとしたとき、彼は「素人が触るとデータが壊れる」と脅すようなことを言ったという。ところが相手のほうが彼より詳しく、その場で言い負かされた。
そして電子カルテが解析された。
これが全部を壊した。彼が「以前から症状があった」として示していた記録の多くが、患者の死後に、あるいは死の直前に、まとめて入力されていたことが判明したのだ。ある患者については、十か月ぶんの心臓症状の記載が、実際には数十分のあいだに作られていた。時刻の記録は嘘をつかない。彼は自分の作文の日付を、自分で刻印していた。
事件は一気に膨らんだ。あのタクシー運転手が警察に接触し、書き溜めていた名簿を差し出した。警察が当初想定していた期間をはるかに超える、六年ぶんのリストだった。遺族からの問い合わせが殺到した。
一九九八年九月から十二月にかけて、警察は十二体の遺体を掘り起こした。ひとつの捜査で行われた掘り起こしとしては、イギリスの犯罪史上でも異例の規模である。町の墓地に警察のテントが立ち、雨のなかで作業が続いた。町の人々はそれを、言葉もなく見ていた。
検査の結果、遺体からは次々と麻薬性鎮痛薬が検出された。
最終的に彼は、十五件の殺人と一件の遺言書偽造で起訴された。十五人のうち三人は火葬されており、遺体は残っていなかった。それでも起訴に踏み切れたのは、電子カルテの改竄、目撃者の証言、彼自身の説明の食い違いという状況証拠が、積み上げると崩しようがなかったからだ。
プレストン刑事法院、一九九九年十月五日
裁判は一九九九年十月五日、ハイドから五十キロほど離れたプレストンの刑事法院で始まった。地元では公正な裁判が難しいと判断されたためだ。裁判長はセイン・フォーブス判事。
起訴された十五人は、いずれも一九九五年から九八年にかけて亡くなった患者だった。マリー・ウェスト。アイリーン・ターナー。リジー・アダムズ。ジーン・リリー。アイビー・ローマス。ミュリエル・グリムショー。マリー・クイン。キャスリーン・ワグスタッフ。ビアンカ・ポムフレット。ノラ・ナットール。パメラ・ヒリアー。モーリーン・ワード。ウィニフレッド・メラー。ジョーン・メリア。そしてキャスリーン・グランディ。十四人が女性で、年齢は四十代から八十代にわたる。
検察側の立証は二十五日間に及んだ。積み上げられた証拠は、大きく四つの束になっていた。
ひとつは、遺族と近隣住民の証言だ。多くは高齢者だった。弁護側は当然、記憶の曖昧さを突こうとした。だがこの人たちの証言は揺るがなかった。人は、家族が死んだ日のことを忘れない。あの日の天気も、玄関のチャイムの音も、医師が言った言葉も、覚えている。
ひとつは、毒物検査の結果だった。掘り起こされた遺体から検出された薬物の濃度は、治療目的の投与では説明がつかない水準だった。弁護側は遺体の腐敗による測定の信頼性を争ったが、専門家の証言に潰された。
ひとつは、電子カルテの解析だった。これは陪審にとっていちばんわかりやすい証拠だったと言われる。難しい医学の話ではない。文書がいつ作られたか、それだけの話だからだ。
そして最後のひとつが、彼自身の言葉の矛盾だった。彼はある人物には「入院の手配をした」と言い、別の人物には「本人が入院を拒んだ」と言っていた。彼は「救急車を呼んだ」と言ったが、通信記録にその通報は存在しなかった。彼は蘇生を試みたと言ったが、その場にいた人間は誰もそれを見ていない。
被告人席の男
一九九九年十一月二十五日から、彼は自ら証言台に立った。七日間しゃべった。
そして、これが彼の最大の失敗だった。
彼は事実を認めなかった。ひとつも認めなかった。すべての死は自然死であり、すべての記録は正当であり、自分は無実である、と。
キャスリーン・グランディについては、彼女が実は薬物を常用していたのだ、という主張を持ち出した。八十一歳の元市長で、地域の慈善活動に明け暮れていた女性が、密かに麻薬を使っていた。それを裏づける証拠は、何ひとつなかった。この主張は、陪審の心証を決定的に悪くしたと言われている。死んだ人の名誉を、自分が助かるために踏みつけたからだ。
診療所内で死亡した患者については、自分が部屋を離れているあいだに患者が自分で薬物を使ったのではないか、という趣旨の説明をした。これも同様に、荒唐無稽だった。
カルテの後追い入力については、事務処理が溜まっていたので後からまとめて入力しただけだ、と説明した。では、なぜ「入力していなかった内容」が、死の直後に限って大量に発生するのか。彼は答えられなかった。
そして、ある被害者について問われたとき、彼は証言台で静かに泣き始めた。自分は遺族よりも彼女の死を悲しんでいたかもしれない、というようなことを言った。法廷にいた人々は、それを演技と見た。
追及に対して、彼は何度も態度を切り替えた。傲慢に専門知識を振りかざす。次の瞬間には被害者ぶる。そして質問が核心に触れると、答えを拒む。二十年間、患者と遺族の前ではあれほど有効だった話術が、法廷ではまったく通じなかった。
なぜ一度も蘇生を試みなかったのか。なぜ死亡時刻が自分の訪問時刻と重なるのか。なぜ午後に偏るのか。なぜ体内から薬物が出るのか。なぜ記録が死後に作られているのか。彼はこの五つに、最後まで説明を与えなかった。
二〇〇〇年一月三十一日
陪審は数日にわたって評議した。
二〇〇〇年一月三十一日、評決が読み上げられた。十五件の殺人すべてについて有罪。遺言書偽造についても有罪。全員一致だった。
判事は、彼が高齢の患者たちの信頼を裏切り、その信頼を殺人の道具として使ったことの重大さを指摘したうえで、十五件それぞれについて終身刑を言い渡した。そして、この男を生涯釈放すべきではないという趣旨の勧告を付した。偽造については四年の刑が加えられた。のちにこれは、仮釈放の可能性を一切残さない終身刑として確定する。
判決の瞬間、傍聴席にいた遺族たちの多くは泣いた。安堵ではなかったと思う。有罪判決は、彼らの母や祖母が「老衰で穏やかに逝った」のではなかったことを、公式に確定させる文書でもあったからだ。何年ものあいだ信じてきた最期の物語が、その日、公的に上書きされた。
彼は表情を変えなかったと伝えられている。そして最後まで、何も認めなかった。
証言――町の人たちが語ったこと
事件が明るみに出てから、ハイドの人々は繰り返し取材を受けてきた。ここでは、報じられてきた証言のうち三つを、少し丁寧に紹介したい。数字と制度の話をする前に、この事件が誰の身に起きたのかを、もう一度確かめておきたいからだ。
ひとつめは、母親を救ったという女性の話だ。パトリシア・パウエルという人で、一九九八年、当時六十四歳だった母のマーガレット・ベックウィズに付き添って診察を受けた。医師は母親に薬を投与しようとした。彼女は理由をはっきり説明できないまま、それを拒んだ。母には飲ませません、と言った。そして、その場を離れなかった。彼女はのちに、あの人は母に何かをしようとしていたと思う、自分がそこにいたから、それがうまくいかなかったのだ、と語っている。母親は生き延びた。だが彼女は、そのことを単純な幸運の物語として語らない。自分の母は助かった。では、付き添う家族がいなかった人たちはどうなったのか。彼女は、もう医者を信用できないとも語っている。その一言は、この事件が個人にどんな傷を残したかを、ひとことで表している。
ふたつめは、犠牲者の何人かを知っていたという地元の女性、ルイーズ・アリセートの話だ。彼女自身は、皮膚の発疹を診てもらおうとして、まともに取り合ってもらえなかった経験を語っている。彼女にとってその医師は、決して「みんなが言ういい先生」ではなかった。そして、自分の知り合いが次々にいなくなったあとで真相を知ったとき、彼女が口にした言葉は率直だった。あの人は、人にあんなことをする、ひどい、邪悪な男だった、と。学術的でも分析的でもない。ただ、隣人を奪われた人間の言葉である。事件から二十年以上が経っても、この温度は下がっていない。
みっつめは、子どものころにその診療所の患者だったという男性、イアン・ワイアットの話だ。彼が覚えているのは、優しい町医者ではない。彼の記憶のなかのその医師は、患者を上から見下ろすような態度をとる人物だった。まるで、お前などここに来るべきではない、とでも言いたげだったという。そして彼は、事件が発覚したあとの町の空気について語っている。人々が抱えた恐怖と、その後も長く続いた重苦しさ。友人たちが家族を奪われ、その傷を抱えたまま生きていること。町にとってこの事件は、過去の出来事ではなかった。診療所のあった通りを歩くたびに思い出す、現在進行形の何かだった。
もうひとつ、付け加えておきたい証言がある。町の高齢の男性、アラン・ブラドックは、その医師に処方を受けたときのことを語り、はっきりとは説明できない違和感があった、あの人には独特の雰囲気があった、と述べている。彼は、事件が発覚したとき驚かなかったという。もちろん、これは事後的な記憶の再構成かもしれない。人は結末を知ってから過去を並べ替える。それでも、こういう小さな違和感が町のあちこちに散らばっていたのに、それが一度も集められなかったという事実は残る。
そして、遺族の証言のなかで最も広く知られているのは、やはりアンジェラ・ウッドラフのものだ。彼女は法廷で、母の遺言書とされる文書について、母がこんなにひどい体裁の紙に署名するなどありえない、と語った。娘としての確信と、法律家としての判断が、同じ結論を指していた。彼女の証言は裁判の最初に置かれ、その率直さと執拗さは陪審に強い印象を残したと伝えられる。彼女がいなければ、この事件は終わらなかった。それは誇張ではなく、事実である。
シップマン・インクワイアリ――六分冊が明かしたもの
有罪判決だけでは、この事件は終わらなかった。判決が出た十五件は、明らかに氷山の一角だったからだ。遺族の団体と地域社会は、公開の場での徹底調査を求めた。政府は当初、非公開の調査で済ませようとしたが、猛烈な反発を受けて方針を変えた。
こうして「シップマン・インクワイアリ」が始まった。座長は判事のジャネット・スミス。二〇〇一年から公開の審理が行われ、以後、六つの報告書が段階的に公表されていく。合計で五千ページ規模。二千五百人前後から聴取し、二十七万ページ相当の資料を検討し、費やされた費用は二千万ポンドを超えた。
第一報告書は二〇〇二年七月に出た。表題は「偽装された死」。ここで調査は、一九七〇年代半ばから一九九八年までのハイドとその周辺で、彼が二百十五人の患者を違法に殺害したと認定した。うち圧倒的多数が女性で、年齢は四十代から九十代に及んだ。さらに、殺害された疑いが濃厚だが確定はできない事例が四十五件、判断材料が不足する事例が三十八件あるとされた。
ここは丁寧に読む必要がある。「二百十五人」は、刑事裁判の有罪判決とは異なる性質の認定だ。刑事裁判は合理的な疑いを超える証明を要求するが、この調査は民事に近い基準――どちらがより確からしいか――で判断している。だから、この二百十五という数字を「有罪確定二百十五件」と書いてしまうと嘘になる。有罪は十五件。調査が高い蓋然性で認定したのが二百十五件。この区別は、この事件を語る者が絶対に崩してはいけない線だ。
第二報告書と第三報告書は二〇〇三年七月に出た。第二報告書は、一九九八年三月の警察捜査を検証したものだ。ここで調査は、あの捜査が不十分だったと明確に結論づけ、適切に行われていれば救えたはずの命があったと認定した。第三報告書は、死亡診断と検死官による死因調査の制度そのものを扱っている。つまり、なぜ「死亡診断書を書く側」の犯行が二十年以上も素通りしたのか、という問いに正面から答えようとした巻だ。
第四報告書は二〇〇四年七月。規制薬物が地域医療のなかでどう管理されているかを検証している。開業医が扱う麻薬性医薬品の在庫と処方の記録を、誰がどうやって突き合わせるのか。当時の答えは、実質的に「誰も」だった。
第五報告書は二〇〇四年十二月。医師の監督制度、すなわち英国医事評議会のあり方を扱った巻で、内容は苛烈だった。調査は、この組織が患者ではなく医師の利益を守るために設計されてきたと断じた。原則よりも便宜が優先されてきた、地位の確立した医師に対しては特に甘かった、という趣旨の指摘もなされている。一九七六年に薬物犯罪で有罪になった医師が、警告だけで現場に戻れた事実が、ここに直結する。
第六報告書は二〇〇五年一月に公表された最終巻で、ハイド以前の時代――病院研修医時代とトッドモーデン時代――に踏み込んだ。ここで調査は、キャリア全体を通じた犠牲者数をおよそ二百五十人と見積もった。前述の四歳の女児についての強い疑いも、この巻で示されている。ハイドで最初に確認された犠牲者より前、一九七〇年代半ばのトッドモーデン時代にすでに殺害があったことも認定された。
つまり、彼は開業医としてのキャリアのほぼ全期間にわたって殺し続けていた。中断はあった。失敗して患者がすぐに死ななかったとき、あるいは遺族が苦情を申し立てたとき、彼はしばらく手を止めている。だがまた始めた。そして年を追うごとに、頻度は上がり、標的の選び方は雑になっていった。
初期の犠牲者は、すでに重い病を抱えた人が多かった。死んでも不自然に見えない相手だ。ところが一九九〇年代になると、彼は元気な高齢者を選ぶようになる。前日まで買い物に行き、友人と電話し、庭の手入れをしていたような人たちだ。これは、彼が慎重さを失っていった過程であると同時に、彼が「不自然に見えても誰も何もできない」と学習していった過程でもある。
なぜやったのか。答えは、ない
動機。この事件について語られるときに必ず出てくる問いで、そして最後まで答えの出なかった問いだ。
理由ははっきりしている。本人が何も言わなかったからである。逮捕から死ぬまでの五年余り、彼は一貫して無実を主張した。取り調べでも、法廷でも、獄中でも、支援者への手紙でも。公的調査に対しても、彼は証言を拒んだ。二百人以上を殺した人間が、その理由を一言も残さずに死んだ。これはこの事件の、最も不気味な部分だ。
それでも、いくつかの説がある。順に見ていこう。
まず金銭。これはいちばんわかりやすい説明で、だからこそ最初に否定される。確かに彼は最後の一件で遺言書を偽造した。過去にも、亡くなった患者の家から装身具や現金を持ち去っていた事例が確認されている。ある被害者については、遺産をめぐる事情が背景にあったのではないかとも指摘された。だが、二百件を超える殺害の大半に、金銭的な利益はまったく見当たらない。彼が奪ったもののほとんどは、換金価値のない、ささやかな品だった。金目当ての犯行なら、二十年もかけてこんな効率の悪いことはしない。むしろ興味深いのは、彼の窃盗が戦利品の収集に近い性質を持っていたことだ。奪ったものを売らず、しまい込んでいた形跡がある。
次に性的動機。これも早い段階で検討され、そして支持されなかった。犠牲者の遺体に性的暴行の痕跡は確認されていない。一部のタブロイド紙はこの線を煽ったが、公的調査はその見立てを採らなかった。
三つめが、いわゆる「慈悲殺」説だ。苦しむ患者を楽にしてやったのだ、という物語。これは、彼自身が心のどこかでそう思っていた可能性はある。しかし、事実がこれを許さない。犠牲者の多くは苦しんでいなかった。前日まで元気に生活していた。誰も死を望んでいなかったし、誰も彼に死を頼んでいない。もし本当に慈悲だと信じていたなら、なぜ隠したのか。なぜカルテを偽造したのか。なぜ火葬を勧めたのか。慈悲は隠さない。
四つめが、母の死の反復という説。十七歳の少年が見た光景を、生涯にわたって再演し続けたのだという読み方だ。犠牲者に高齢女性が圧倒的に多いこと、往診という設定、注射という手段。確かに符合はする。だがこの説は、なぜ再演するのかを説明していない。心理学的な物語としては魅力的だが、証明のしようがない。
そして五つめ。公的調査が最終的にたどり着いた見方に近いのは、これだと思う。彼は、人の生死を自分の意思で決めるという行為そのものに、取り憑かれていた。
考えてみてほしい。彼の犯行の瞬間、そこには誰もいない。証人もいない。喝采もない。彼は誰にも自慢しなかった。捕まったあとも誇らなかった。つまり、彼の報酬は完全に内側にあった。今この部屋で、この人が生きるか死ぬかを決められるのは自分だけである、という感覚。その感覚を、彼は繰り返し味わい続けた。
しかも彼は、殺したあとに「いい先生」としての報酬も受け取っていた。遺族に寄り添い、慰め、感謝される。彼が殺した人の葬儀に、彼は医師として参列した。遺族は彼の手を握って礼を言った。この二重構造が、彼にとって決定的に重要だったのではないか。彼は殺すことと愛されることを、同時に手に入れていた。
公的調査を率いた判事は、最終的に、彼が患者の信頼を裏切った程度は歴史上に類を見ない、という趣旨の言葉を残している。動機の解明ではなく、行為の重さの認定として。それが、この問いに対して制度が出せる限界だった。
ただ、ひとつだけ注意を促しておきたい。動機がわからないことを、事件が理解不能であることと混同すべきではない。彼の内面は闇のままでいい。だが彼が「なぜ二十年も続けられたのか」は、完全に説明可能だ。そしてそちらのほうが、はるかに重要である。
二〇〇四年一月十三日、ウェイクフィールド刑務所
有罪判決のあと、彼はいくつかの刑務所を移された。当初は自殺防止の監視下に置かれ、その後、北部の刑務所に移送された。一時は所内の医務部門で働かせるという話が出て、報道されると大変な批判を浴びた。
彼は獄中でも自分の立場を変えなかった。上訴の道を探し、無実を訴える手紙を書いた。手紙のなかで彼は、名乗り出てくる遺族たちを「売名目的」と決めつけ、警察は自分ではなく本物の犯罪者を追うべきだと書いた。反省という言葉から、彼はどこまでも遠かった。
二〇〇三年から二〇〇四年にかけて、最後に移送されたのはヨークシャーのウェイクフィールド刑務所だった。ここでの処遇は厳しかった。テレビが取り上げられ、諸々の優遇が剥がされ、居室に戻される時刻が早められた。
そして二〇〇四年一月十三日の朝、彼は独居房で死んでいるのが見つかった。寝具を使って首を吊っていた。五十八歳の誕生日の、前日だった。
この死は、いくつもの議論を引き起こした。
ひとつは、遺族の感情である。反応は割れた。これで終わったと感じた人がいた。だが、多くの遺族は怒った。彼は最後まで何も語らなかったからだ。自分の母がいつ、どんなふうに死んだのか。あの日、家で何があったのか。それを知っている唯一の人間が、何も言わずに勝手にいなくなった。ある遺族は、彼は最後まで自分の思い通りにした、と語ったと伝えられる。答えを永久に持ち去るという形で、彼は最後にもう一度、人の運命を自分の手で決めたことになる。
もうひとつは、年金をめぐる指摘だ。彼が六十歳になる前に死んだ場合、妻が遺族給付を受け取れる制度になっていた、という点が当時さかんに報じられた。彼の死は、家族に金を残すための計算だったのではないかという見方である。これは推測の域を出ないし、断定はできない。ただ、この推測が広く語られたこと自体が、彼という人物が周囲にどう見られていたかを物語っている。
そして、公的調査はまだ終わっていなかった。最終報告書が出たのは、彼の死からちょうど一年後のことである。彼は自分についての最終的な判定を、聞かずに逃げた。
妻のプリムローズは、有罪判決のあとも、夫の死後も、公の場で夫は無実だと主張し続けた。彼女がどこまで知っていたのか、あるいは何も知らなかったのかは、外部からは判断できない。少なくとも彼女が共犯であったと認定した公的な判断は存在しない。家族への根拠のない断罪は、この事件を語るうえでやってはいけないことのひとつだ。
イギリスは何を作り替えたか
この事件のあと、イギリスは制度をかなり本気で作り替えた。ここは、事件の遺産としていちばん大事な部分なので、丁寧に見ていきたい。
まず、死亡診断の仕組みだ。
事件当時の制度は、乱暴に言えば「主治医の自己申告」で成立していた。患者が死ぬ。主治医が死因を書く。それが公的な記録になる。不自然な死であれば検死官に回るが、その「不自然かどうか」を最初に判断するのも主治医だった。火葬の場合だけ第二の医師の署名が要るが、これも実務では形式化していた。
つまり制度は、「医師は患者を殺さない」という前提の上に建てられていた。その前提が崩れた瞬間、装置は一枚残らず無力になる。
そこで導入されたのが、メディカル・エグザミナー――独立した立場で死亡を精査する医師の制度である。試験的な運用は二〇〇〇年代後半に始まり、二〇一九年から全国的な仕組みとして動き出し、そして二〇二四年九月、法的な義務として本格稼働した。現在のイングランドとウェールズでは、検死官の調査対象にならないすべての死について、担当医とは別の独立した医師が記録を確認し、必要に応じて遺族に聞き取りを行い、そのうえで死亡登録に進む。火葬のときだけ形式的に署名を集める古い仕組みは、この新制度への移行にともなって役割を終えた。
要点は、単に「もう一人チェックする」ことではない。「担当医と利害関係のない者が、担当医の説明の妥当性そのものを問う」段階を、すべての死に義務として差し込んだことだ。彼のやり口が成立した唯一の理由は、彼の説明を検証する第三者がいなかったことである。制度はそこを塞ぎにいった。
次に、検死官制度である。事件当時のイギリスの検死官制度は、地域ごとにばらばらで、統一的な基準も、全国的な指導役も、まともな研修体系もなかった。二〇〇九年に成立した法律によって、全国の検死官を統括して基準の統一と研修を担う首席検死官の職が新設され、地域ごとの職名と権限も整理された。制度が全国的に足並みをそろえて動くようになったのは、これ以降だ。
三つめは、規制薬物の管理だ。彼が使ったのは、彼自身が処方できる立場にあった薬物である。公的調査の第四報告書はここに切り込んだ。その後、医療機関や地域組織ごとに、規制薬物の取り扱いを統括して責任を負う担当者を置く仕組みが法令で整えられた。処方の記録と実際の使用や在庫を突き合わせ、異常な傾向を検出し、必要なら関係機関に通報する。彼の時代には存在しなかった突き合わせが、いま制度として存在する。
四つめが、医師の監督だ。公的調査の第五報告書に叩かれた英国医事評議会は、その後、組織のかたちを大きく変えた。処分を審理する部門を分離して独立性を高め、評議会そのものの規模を縮め、医師と非医師の代表を対等に近づけた。そして二〇一二年、医師が診療を続けるための「診療免許」と、それを定期的に更新する仕組み――再認証――が導入された。医師は毎年の評価を受け、実績と研修の記録を積み上げ、数年ごとにその総体を審査される。一度資格を取れば生涯有効、という時代は終わった。
さらに、開業医の診療データを分析して異常な死亡率を検出しようとする試みも進んだ。これは有効性をめぐる議論もある。統計は万能ではない。ある研究は、監視の仕組みがあったとしても、統計的に有意な異常として警報が鳴るまでには相当な数の死が必要だと指摘している。つまり統計監視は、彼を止められたとしても、かなり遅れてからだったかもしれない。
そして、負の副作用もあった。「シップマン効果」と呼ばれるものだ。事件のあと、イギリスの医師たちは麻薬性鎮痛薬の処方に慎重になりすぎ、本来なら痛みを取るべき患者に十分な鎮痛が行われなくなる傾向が生じたと指摘された。検死官への届け出も過剰になった。制度を締めれば、必ずどこかが軋む。この事件は、そのことも含めて教材になっている。
なぜ二十年以上、誰も止められなかったのか
ここまで来たら、いちばん大きな問いに答えよう。なぜこんなに長く続いたのか。
理由は五つに整理できると思う。
第一に、彼が記録を作る側にいたこと。これが最大の要因だ。犯罪捜査の出発点は、たいてい「記録と現実のずれ」である。ところがこの事件では、記録を書く人間と犯人が同一だった。彼はカルテに前兆となる症状を書き足し、死亡診断書に自然死と書き、火葬を勧めて物証を消した。事件が事件として登録されないのだから、統計にも、検死にも、警察にも、そもそも上がってこない。彼は犯行を隠したのではない。犯行を「出来事ではないもの」にしていた。
第二に、被害者の属性だ。犠牲者の圧倒的多数は高齢者、とりわけ一人暮らしの高齢女性だった。この属性は、社会が持っている「死んでもおかしくない人」という無意識のカテゴリーと重なる。八十歳の女性が家で亡くなっていた、という知らせを受けたとき、人はまず「まあ、お歳だったから」と思う。彼はその思考の癖を利用した。彼が殺したのは、社会が最初から死を織り込み済みにしている人たちだった。
第三に、信頼という装甲だ。彼は町で最も評判のいい医師だった。この評判は、単なる副産物ではなく、機能する防御だった。誰かが疑いを口にすれば、周囲が反発する。あの先生に限ってそんなことはない、と。実際、葬儀屋もタクシー運転手も住宅の管理人も、その壁の前で立ち止まっている。彼らは臆病だったのではない。合理的だったのだ。町一番の医師を殺人犯だと言い出したときに自分が失うものを、正しく計算していた。信頼は、疑いのコストを吊り上げる。
第四に、単独開業という構造だ。一九九三年に彼が単独開業に移ったことで、最後に残っていた「他人の視線」が消えた。同僚もいない。処方の傾向を横から見る人もいない。死亡数の異常に気づく人もいない。専門職の自律性は本来、良質な仕事のための条件だ。だがそれは、外部からの点検とセットでなければ、単なる密室になる。
第五に、通報が届いても機能しない仕組みだったこと。これがいちばん悔しい部分だ。一九九八年三月、内部から正規のルートで通報が上がった。検死官に届き、警察に届いた。ルートは機能したのだ。にもかかわらず、二十数日で「嫌疑なし」になった。なぜか。警察には、この種の犯罪を調べる手順がなかった。彼らは医師の記録を別の医師に見せるという、常識的で、そして完全に的外れな手を打った。犯人が書いた記録を、犯人と同じ職業の人間に見せて、おかしくないと言われた。そして、その照会は「殺人の疑い」という前提を明示せずに行われた。
制度は、通報を受け取る口は持っていた。だが、受け取ったものを正しく処理する内臓を持っていなかった。この事件の教訓を一行に圧縮するなら、たぶんそこになる。
ハイドという町の、そのあと
二〇〇五年七月三十日、ハイドの公園の一角に小さな庭が作られた。「安らぎの庭」と名づけられた、犠牲者のための追悼の場所である。派手なものではない。町の人が座って、静かにできる場所だ。
町にとって、この事件は取り返しのつかない出来事だった。人口数万の町から、二十数年かけて二百人以上が消えた。ほとんどの家に、直接または間接に、関係者がいる。友人の母親。近所のおばあさん。教会で会う人。
そして、遺族の多くが背負ったのは、死そのものより「上書きされた記憶」だった。母は眠るように逝った。苦しまなかった。最期に先生が付き添ってくれた。何年ものあいだ、その物語を支えに生きてきた人たちが、ある日、それが全部作り話だったと知らされる。しかも、その物語を語ってくれた優しい医師こそが、殺した本人だったと。
二重の喪失、という言い方がされる。家族を失い、そのあとで、家族を失ったときの記憶までを失う。
町の人々の医療への信頼も、深く傷ついた。事件後、地元では医師にかかること自体をためらう人が出た。前述の女性のように、もう医者を信用できないと語る人がいる。これは非合理な反応ではない。彼女たちは、信頼が裏切られたときに何が起きるかを、実物で見てしまったのだ。
一方で、この町の人々がやったことは、静かに評価されるべきだと思う。彼らは声を上げ続けた。非公開の調査で幕を引こうとした政府に抗議し、公開の場での徹底調査を勝ち取った。その結果が、あの六分冊の報告書であり、そこから生まれた制度改革である。いま、イングランドとウェールズで人が亡くなるたびに独立した医師が記録を精査するあの仕組みは、遡ればハイドの遺族たちが引き出したものだ。
彼らは、自分たちの家族を取り戻せなかった。その代わりに、他人の家族が同じ目に遭わない仕組みを作らせた。これ以上のことができた人たちは、そういない。
十五、二百十五、二百五十。この三つを混ぜてはいけない
ここからは腰を据えて書く。年表をなぞるだけでは見えてこない部分の話だ。
まず整理しておきたいのは、この事件を数字で語るときの作法である。
この事件には三つの数字が出てくる。十五、二百十五、そして二百五十前後。この三つは、それぞれ性質がまったく違う。
十五は、刑事裁判で有罪が確定した件数だ。合理的な疑いを超える証明という、最も厳しい基準をくぐり抜けた数である。この十五件については、彼が殺したと断言してよい。
二百十五は、公的調査の第一報告書がハイド周辺について認定した数だ。刑事裁判より緩い基準――どちらがより確からしいか――で判断されている。これは「有罪」ではない。だが「憶測」でもない。個々の事例について証拠を突き合わせ、根拠を示して下された公的な事実認定である。この報告書はさらに、判断を保留した事例も別枠で明示した。この誠実さこそが、この報告書の価値だ。
二百五十前後は、最終報告書が病院勤務時代とトッドモーデン時代まで含めて出した全期間の見積もりである。もっと多いという見方もあるし、実際、より大きな数字を主張する分析も存在する。ただ、それらの数字は性質としてさらに推定の度合いが強い。
この三層を混ぜないこと。ここを混ぜると、事件はたちまち「二百五十人殺した怪物」という一枚絵に潰れてしまう。そして一枚絵になった瞬間、この事件から学べることはゼロになる。なぜなら怪物の物語には、制度の話が出てこないからだ。
制度は彼を捕まえていない。彼が足を踏み外しただけだ
この事件を「特異な個人の犯罪」として片づけることの危うさについても書きたい。
医療の場で起きる連続殺人は、残念ながらこの一件だけではない。世界各地で、医師や看護師による同種の事件が繰り返し発覚してきた。共通する特徴がいくつかある。犯人はしばしば「熱心でよく働く職員」と評価されている。犯行は職務の遂行と外形上ほとんど区別がつかない。被害者はもともと死亡が想定されうる集団から選ばれる。そして発覚は、たいてい統計や監査ではなく、現場の人間の違和感か、犯人自身の凡ミスによってもたらされる。
この事件でも、決め手になったのは統計ではなかった。遺言書という、医療とまったく関係のない紙一枚だった。彼が最後にあの欲を出さなければ、いまも真相は闇のなかだった可能性が高い。ここは、いくら強調してもしすぎることはない。制度は彼を捕まえていない。彼が自分で足を踏み外しただけだ。
だからこそ、改革の中身が重要になる。「もっと注意深くあれ」という精神論ではなく、注意深くない人間が回しても機能する仕組みを作れるかどうか。事件後のイギリスが取った方向は、おおむねそちらだった。独立した医師による死亡精査を、例外ではなく全件の標準にした。規制薬物の突き合わせに責任者を置いた。医師免許の永続性をやめて更新制にした。どれも、個人の善意に依存しない設計になっている。
「医者を信用するな」は、答えとして間違っている
信頼というものについても書いておきたい。
この事件の教訓を「医者を信用するな」と要約するのは、たぶん間違っている。信頼がなければ医療は成り立たない。診察室で服を脱ぎ、体に針を刺されることを許すという行為は、途方もない信頼の上に成立している。それを疑えと言うのは、医療を壊せと言うのに等しい。
問題は、信頼が「検証されない信頼」になった瞬間に何が起きるか、である。彼が持っていたのは、信頼そのものではなく、検証を免除された信頼だった。彼は疑われない立場にいた。だから彼の書いた紙は、誰にも読み返されなかった。
信頼と検証は対立しない。むしろ、検証があるからこそ信頼は安全に預けられる。事件後の改革が目指したのは、まさにそこだ。医師を疑うのではなく、医師の書いた紙を、誰かが必ず一度読む。そのささやかな習慣が、二百人を守れたかもしれない。
最初に「おかしい」と言う人間は、いつだって割に合わない
一九九八年三月に声を上げた医師のことを、もう一度書いておきたい。彼女は、同業者を殺人の疑いで通報するという、職業人生を賭けた行為をやった。しかも、そのとき彼女の手元にあったのは、統計的な違和感だけだった。決定的な証拠は何もない。それでも彼女は動いた。
そして、彼女の通報は生かされなかった。彼女はその後、事件の全貌が明らかになる前に亡くなっている。自分の直感が正しかったことを、公的に確認する場面に彼女は立ち会えなかった。
組織のなかで最初に「おかしい」と言う人間は、いつだって割に合わない。証拠が揃ってから言えば安全だが、証拠が揃うころには手遅れだ。だから最初の声は、常に不完全な形で発せられる。制度が本当に問われるのは、その不完全な声をどう扱うかである。この事件では、その声は正しく届き、そして雑に処理された。
いまの内部通報の仕組みは、この種の失敗から少しずつ学んで作られている。だがどんな仕組みも、受け取った側が「まさか」と思った瞬間に無力化する。一九九八年四月に捜査を打ち切った担当者は、たぶん怠けていたのではない。彼は「医師が二百人殺す」という可能性を、本気で想像できなかっただけだ。想像力の欠如は、制度の欠陥として設計に織り込むしかない。前提を疑うのが仕事の部署を、どこかに置いておくしかない。
犯人の内面より、犯罪を可能にした構造のほうを書け
報道と社会の反応についても書いておく。
彼が逮捕され、有罪になったとき、イギリスの報道は当然ながら過熱した。一部のタブロイド紙は、動機について根拠の乏しい性的な物語を組み立てて売り上げを伸ばした。彼の内面を勝手に想像し、断定的に書いた記事も多かった。
だが同時に、この事件をめぐる報道には、別の側面もあった。遺族の声を丁寧に伝え、非公開の調査で幕引きを図る動きに批判を向け、制度の欠陥を粘り強く追いかけた報道も確かに存在した。公開調査が実現した背景には、遺族の運動と、それを支えた報道の圧力があった。
事件報道が持ちうる最良の機能は、犯人の内面を推測することではなく、その犯罪を可能にした構造を可視化することだ。この事件は、その好例でもあり、同時に、そうならなかった記事の山も生んだ。書く側としては、そこは肝に銘じておきたい。
黙って死ぬことは、最後の支配だった
彼が最後まで否認したことの意味についても、もう少し。
否認は、彼にとって最後に残った支配の手段だった。彼が語らない限り、遺族は真相を知れない。何月何日の午後、母の家で何が起きたのか。母は何か言ったのか。怖がったのか。それを知る唯一の証人が、口を閉ざしたまま死んだ。
これは、遺族にとって残酷な形の未完成だ。刑事裁判は十五件を確定させた。公的調査は二百件超を認定した。だが、個々の家族が知りたいのは統計ではない。自分の母の、最後の十分間だ。それは永遠に空白のまま残った。
同時に、彼の否認は別のことも示している。彼には自己の物語がなかった、ということだ。多くの連続殺人犯は、捕まったあとに自分なりの説明を語りたがる。世界への復讐だとか、選ばれた使命だとか。彼にはそれがなかった。あるいは、語る必要を感じなかった。彼の行為は徹頭徹尾、自分の内側だけで完結していた。誰にも見せる必要がなく、誰にも理解される必要がなかった。だから最後まで何も出てこなかった。
申請する人と承認する人が同じ、という構造はどこにでもある
この事件は、いまの日本を含むどこの社会にも刺さる。
制度の細部は国ごとに違う。だが、この事件の核にある構造――専門職が、自分の仕事の結果を自分で記録し、その記録を外部が検証しない――は、医療に限らずどこにでもある。監査を受けない会計。第三者の検査が入らない工事。同じ人間が申請して同じ人間が承認する手続き。規模が小さいほど、そして関係者が信頼し合っているほど、この構造は生まれやすい。
そして、この構造の怖いところは、九十九パーセントの場合、何の問題も起こさないことだ。だから誰も直さない。直すコストのほうが目に見えて高いからだ。彼が二十年以上続けられたのは、その百分の一に備えるコストを、社会が払っていなかったからである。
玄関を開けた八十一歳は、何ひとつ間違っていなかった
この記事を書きながら、何度も戻ってきた光景がある。一九九八年六月二十四日の朝、ハイドのある家の玄関で、八十一歳の女性が、二十年来のかかりつけ医を招き入れた場面だ。
彼女は元市長で、社交的で、几帳面で、その日も昼から人の役に立つ予定が入っていた。彼女は玄関を開け、いつものように挨拶をして、たぶんお茶でもどうかと言った。目の前にいる男は、この町でいちばん信頼されている医師だった。
その信頼は、間違っていた。しかし、間違っていた理由は彼女の側には一つもない。彼女は、社会が用意した合理的な判断基準に従って、正しく振る舞っただけだ。医師を信じる。診断書を信じる。専門家を信じる。それは、まともな社会に生きる人間の、まともな態度である。
だから、この事件で問われるべきは彼女ではない。彼女がその信頼を安全に預けられるだけの仕組みを、社会が用意していたかどうかだ。用意されていなかった。だから二百人以上が死んだ。
いま、イングランドとウェールズでは、人が亡くなるたびに、担当医とは別の医師がその死の記録を読む。地味な作業だ。ほとんどの場合、何も出てこない。だが、その地味な一手間は、ハイドの遺族たちが二十数年分の悲しみと引き換えに手に入れたものだ。
制度改革の条文には、誰の名前も書かれていない。それでも、あの条文の一行一行の裏側には、名前を持った二百人以上の人生がある。この事件について書く意味があるとすれば、たぶんそこにしかない。
