奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

「殺人ホテル」はどこまで本当だったのか――H・H・ホームズと、シカゴ万博の陰に建った「城」

## 白い都市が建つ前、シカゴの六十三丁目はまだ泥の道だった
一八九三年のシカゴを想像するとき、たいていの人はまず「白い都市」を思い浮かべる。ジャクソン・パークの湖畔に、真っ白な列柱と円蓋の建物群がずらりと並び、夜になると電灯が水面に映る。世界コロンビア博覧会、いわゆるシカゴ万国博覧会だ。五月に一般公開が始まり、およそ半年のあいだに二千七百万を超える入場が記録された。当時のアメリカの人口を考えれば、これはとんでもない数字だ。世界初の大観覧車が回り、電気が見世物になり、地方から出てきた人たちが生まれて初めて動く歩道に乗って笑っていた。
ただ、あの白さは石ではない。骨組みに麻と石膏を混ぜた材料を吹きつけて白く塗った、要するに巨大な張りぼてだった。半年で解体される前提の街だったのだ。この「本物みたいに見えるけれど中身は仮設」という感触は、これから話す事件の全体を貫くモチーフでもある。
そして白い都市の外には、当たり前だが普通のシカゴがあった。一八七一年の大火から二十年ちょっとで人口は爆発的に増え、食肉加工場の匂いが風向き次第で街を覆い、高架鉄道の工事があちこちで土を掘り返していた。万博の会場から西へ数キロ、六十三丁目とウォレス通りの交差点あたりがイングルウッドという地区で、ここは一八八九年にシカゴ市に併合されたばかりの、まだ半分田舎みたいな新興住宅地だった。舗装は途中、街灯もまばら、新しく引かれたガス管の匂いがする。人が毎週のように流れ込んできて、毎週のように誰かがいなくなる。誰かがいなくなっても、それを追跡する仕組みが街にほとんどなかった。この「記録の空白」こそが、のちに伝説が育つ最高の培養土になる。
万博の年、シカゴは同時にとんでもない不景気も迎えている。一八九三年恐慌だ。銀行が倒れ、鉄道会社が潰れ、翌年には失業者の行進が起きた。きらびやかな白い都市と、支払いが滞る現実の街。この二つが同じ年に同じ場所で重なっていた。詐欺師にとっては、これ以上ないほど都合のいい季節だった。

## ハーマン・マジェットという青年が、解剖室で覚えたのは医術より計算だった
のちにH・H・ホームズと名乗る男は、一八六一年五月十六日、ニューハンプシャー州ギルマントンで生まれた。本名はハーマン・ウェブスター・マジェット。父はリーヴァイ・ホートン・マジェット、母はセオデイト・ペイジ・プライス。地元では「よくできる子」で通っていたらしく、名門フィリップス・エクセター・アカデミーに学び、十六歳で地元のギルマントン・アカデミーを優等で卒業している。
十七歳の一八七八年七月四日、アルトンでクララ・ラヴァリングと結婚。息子ロバートが生まれた。一八七九年にヴァーモント大学へ入り一年で辞め、一八八二年にミシガン大学の医学・外科学部へ移って、一八八四年六月に卒業している。成績は特別よかったわけではない。ただ、この時期に彼が身につけたものははっきりしていた。解剖用の遺体をどう手に入れ、どう扱い、どう「書類の上の人間」に変えるかという知識だ。
当時のアメリカの医学校は、慢性的に解剖体が足りていなかった。墓を掘り返して遺体を医学校に売るという商売が、そこかしこに存在した。ホームズは解剖学の実習室で働き、その現場のど真ん中にいた。そして彼は、そこからもう一歩踏み出す。遺体を「誰か」に仕立てて事故死に見せかけ、その誰かにかけた生命保険を回収する。この発想を、彼は医学生のうちに手に入れてしまった。
ここは押さえておきたい。ホームズという人物の出発点は、猟奇趣味ではなく保険金詐欺だ。彼が獄中で書いた自伝でも、大学時代の友人と「開業医として食えなかった場合の最後の手段」として保険金詐欺の計画を練っていたことを、本人がわりと得意げに書いている。もっともその自伝は嘘だらけで、どこまで信じていいか分からない代物なのだが、少なくとも「詐欺の話をするときの彼は妙に生き生きしている」という手触りは伝わってくる。
彼の人生を追っていくと、詐欺の系譜がずっと一本の背骨として通っているのが分かる。薬品の卸をめぐる支払い踏み倒し、不動産の転がし、水から天然ガスを作るという触れ込みの機械、アルコール依存の特効薬、偽名での抵当設定、偽名での結婚。妻はクララのまま離婚が成立していないのに、一八八六年末から翌年にかけてミネアポリスでマータ・ベルナップと結婚し、一八九四年一月十七日にはデンバーでジョージアナ・ヨークとも結婚した。重婚が二重三重に積み重なっているのに、誰も気づかない。彼は書類と土地と女性の名義を、同じ手つきで動かしていた。

## 薬局の向かいに、なぜあんな建物が建ってしまったのか
一八八五年から翌年にかけて、彼はシカゴに現れる。イングルウッドの六十三丁目とウォレス通りの角にあった、E・S・ホルトンという医師の薬局に雇われ、やがてその店を自分のものにした。
伝説では、この乗っ取りの過程でホームズがホルトン夫妻を殺したことになっている。だが記録はそう言っていない。ホルトンはがんで亡くなっており、夫人が「カリフォルニアへ行ったきり帰ってこなかった」という話も、後年の資料では裏づけが取れない。近年の研究者はこの一件を、伝説の最初のレンガとして扱っている。つまり、事件の語りは最初の一歩からすでに脚色されている。
さて、問題の建物だ。ホームズは薬局の向かいの空き地を手に入れ、一八八七年に工事を始めた。最初は三階建てではない。一階に店舗、二階に住居という、当時のシカゴの街角にいくらでもあった二階建ての雑居ビルだった。設計者もいる。エドワード・ガロウナーという建築家が引いた図面が、実は現代まで残っていた。どこに残っていたかというと、裁判所の訴訟記録の中である。
なぜ残ったか。ホームズが金を払わなかったからだ。一八八八年、資材と工事を提供したエトナ・アイアン・アンド・スティール社が彼を訴えた。設計者も同じ訴訟に加わっている。しかもこの訴訟の被告名義は、彼の義母ルーシー・T・ベルナップになっていた。建物の名義や抵当は、H・S・キャンベルという架空の人物の名前でも動かされていた。シカゴの法務アーカイブを掘った研究者は、ホームズがらみの訴訟をおよそ六十件も見つけている。彼は建物を建てながら、同時に建物を担保にした支払い逃れの機械を回していたのだ。
三階が乗ったのは一八九二年である。このとき彼は投資家や納入業者に「翌年の万博に合わせてホテルにする」と説明した。この一言が、のちの百年を決めてしまう。実際には、その三階が完成し、家具が入り、客に開放されたことは一度もなかったというのが、現在の研究の到達点だ。ホテルという計画そのものが、資材と信用を引き出すための口実だった。
家具の話は象徴的なのでもう少し書いておく。彼はトラック何台分もの家具や寝具や陶器やガス器具を掛けで買い込み、支払わなかった。しびれを切らした家具会社が引き取りに来ると、建物はもぬけの殻だった。運び出された形跡はないのに、家具が消えている。種明かしをしたのは、二十五ドルの謝礼で口を割った建物の管理人だった。ホームズは家具を一室にまとめて押し込み、扉の枠ごと外して煉瓦で塞ぎ、上から壁紙を貼っていた。陶器は屋根裏に隠してあった。
この一件が、あの建物の「奇妙な間取り」の正体をほぼ説明してしまう。壁紙で塞がれた扉、行き止まりの廊下、窓のない小部屋。それは殺人のための建築ではなく、差押えから逃げるための建築だった。少なくとも、記録が直接語っているのはそちらである。

## 「あの建物、なんか変だよな」が「城」という名前になるまで
近所の人たちは、この建物を早くから妙な目で見ていた。工事のたびに職人が入れ替わる。夜中に何かを運び入れている。一階の店子は次々に入れ替わる。ただし、当時の近隣の証言をよく読むと、彼らが不気味に思っていたのはあくまで「金払いの悪い、やたら口のうまい大家」であって、殺人鬼ではない。
流れが変わるのは一八九五年七月だ。フィラデルフィアで起きた事件の捜査が転がって、トロントで二人の子どもの遺体が見つかる。そのニュースが出た瞬間、シカゴの警察と新聞記者が、六十三丁目のあの建物に殺到した。
ここからが本番である。警察が掘る。記者が覗く。そして毎日、紙面に「発見」が載る。血の跡を辿ったら地下へ続いていた。地下から髪の毛の混じった血の塊が出た。血のついた子ども用の下着があった。管理人の部屋から、頭文字を塗り潰した旅行用トランクが二つ出てきて、それが行方不明のミニー・ウィリアムズのものだと分かった。行方不明のエメリン・シグランドの父親が、建物から見つかった写真について問い合わせてきた。煙突の中から女性の髪の束が出た。七月二十日には、地下の壁を崩したところで金属張りの巨大な槽が現れ、明かりを近づけた配管工の手元で爆発が起きて、地下が炎に包まれた。
ここで注意したいのは、これらの多くが「あった」ことと、それが「殺人の証拠として法廷で通る」ことのあいだには、深い溝があるという点だ。実際、シカゴの捜査はホームズを起訴できるだけの物証にたどり着けなかった。地下から出た骨片は、ジュリア・コナーのものかもしれないし、幼いパール・コナーのものかもしれない。ミニー・ウィリアムズの持ち物らしき焼けた時計鎖とドレスのボタンも出た。だが「かもしれない」を並べても有罪にはできない。だからこそ、彼はシカゴではなくフィラデルフィアで裁かれることになる。
そして新聞は、法廷が使えなかった素材を全部使った。八月十一日、ジョゼフ・ピューリツァーの『ザ・ワールド』紙が、あの有名な二階の見取り図を載せる。金庫室、火葬炉、床の落とし戸、骨の埋まった石灰の穴。この図は取材に基づく実測図ではなく、ほとんど創作だ。八月十八日には『シカゴ・トリビューン』が「現代の青ひげ」と題した大特集を組み、百室、秘密階段、死体を下ろす滑車、遺体を溶かす槽、アスベスト張りの鋼鉄の部屋、といった語彙を一気に定着させた。同じ記事の中で「彼には建築家がおらず、自分で設計した」とも書かれている。裁判所には設計者の図面が残っているのに、である。
八月十九日、建物は燃えた。深夜に三度の爆発音がして炎が上がり、裏口の階段の下から半分空のガス缶が見つかっている。ただし全焼はしていない。上の二階分が焼け落ちて建て直され、外観はホームズが見たものとは別物になった。塔屋には後の持ち主の名前が刻まれ、建物はその後も郵便局や店舗として使われ、最終的に取り壊されたのは一九三八年だ。今その場所に建っているのは、イングルウッドの郵便局である。つまり「城」は、事件のあと四十三年も普通の建物として生き続けた。

## 一八九四年秋、フィラデルフィアで本当に人が死んだ
ここまでが伝説の側だとすれば、ここからは記録の側だ。そして記録の側のほうが、はるかに寒い。
ベンジャミン・ピテゼルは大工で、前科があり、シカゴのデアボーン通りの建物で自作の石炭入れを展示していたところをホームズに見込まれ、以後ずっと彼の相棒を務めた。のちに検察官は彼を「ホームズの道具、彼の作り物」と呼んでいる。妻キャリーとのあいだに五人の子がいた。デシー、アリス、ネリー、ハワード、そして乳飲み子のウォートン。
一八九三年十一月九日、ピテゼルはフィラデルフィアのフィデリティ・ミューチュアル生命協会で一万ドルの保険に入る。受取人は妻。翌年七月、ホームズはセントルイスで抵当に入れた商品を売った容疑で短期間拘置され、そこでマリオン・ヘッジペスという受刑者と知り合い、信用できる弁護士としてジェプサ・D・ハウという名前を教わった。謝礼は五百ドルの約束だった。
計画はこうだ。ピテゼルが「B・F・ペリー」という発明家としてフィラデルフィアに店を構える。そこで事故死したように見える遺体が見つかる。遺体は別に用意する。保険金が下りたらピテゼルは家族のもとへ戻る。一八九四年八月十七日、ピテゼルはカロウヒル通りの二階に看板を出した。番地は記録によって一三一六とも一三二六とも書かれていて、そこすら一致していない。
九月、その二階で見つかったのは、別に用意された遺体ではなく、ピテゼル本人だった。現場は爆発事故のように整えられていた。検死陪審の評決は事故死。遺体は無縁墓地に埋められた。三週間後、弁護士ハウがホームズを連れて保険会社に現れ、遺体の身元確認が行われる。掘り返された遺体を父親だと確認させるために、フィラデルフィアまで連れてこられたのは、十四歳か十五歳のアリス・ピテゼルだった。保険金は支払われた。
崩れたきっかけは、しみったれた話だ。ヘッジペスに約束の五百ドルが渡らなかった。怒った彼が当局に密告した。保険会社も遺体の一件を疑い始め、探偵を放った。一八九四年十一月十七日、ホームズはボストンで逮捕される。持ち物の中に、投函されずに残されたピテゼル家の子どもたちの手紙が入っていた。彼はなぜかそれを捨てずに持ち歩いていた。この判断が、最終的に彼を絞首台へ運ぶ。
翌一八九五年六月三日、彼は保険金詐欺については素直に有罪を認めた。だがその時点で、アリス、ネリー、ハワードの三人の行方は依然として分からなかった。ホームズは「子どもたちはミニー・ウィリアムズという女性と一緒にロンドンにいる」と言い張り続けた。

## 探偵ガイヤーが、投函されなかった手紙だけを頼りに二千マイルを歩いた夏
ここから先は、アメリカ犯罪史でも屈指の、地味で執念深い捜査の話になる。
担当したのはフィラデルフィア市警の刑事フランクリン・P・ガイヤー。一八五三年生まれの、地味な長期勤続組だ。彼はその少し前に、自宅の火災で妻と娘を失っていたと伝えられている。子どもを探す仕事に、彼がどんな気持ちで臨んだかは想像するしかない。
一八九五年六月末、ガイヤーはフィラデルフィアを発った。手がかりはほとんど二つしかない。子どもたちが母親に宛てて書き、しかし投函されなかった手紙。そして各地のホテルの宿帳だ。手紙の中に出てくる地名、天気、食べたもの、退屈だという愚痴。それを地図に落とし、宿帳の筆跡と偽名を照合していく。彼はシンシナティへ行き、インディアナポリスへ行き、シカゴへ寄り、デトロイトへ回った。
追ううちに、彼はホームズがやっていたことの異様さを理解し始める。ホームズは、ピテゼルの子どもたちと、その母キャリーと、自分の三番目の妻ジョージアナ・ヨークを、同じ街の別々の宿に、それぞれ相手の存在を知らせないまま滞在させていた。デトロイトでは三組が三ブロックの範囲内に散らばっていた。母親は自分の子どもたちのすぐ近くにいながら、それを知らされていなかった。ガイヤーは後に、この時期の移動を「猫が鼠をなぶるような」と表現している。
インディアナポリスで、ガイヤーはホームズが「ハワードを施設に入れたい」と口にしていたことを聞き込む。手紙の中でアリスは、退屈で家が恋しいと書きながら、食事はちゃんと出ていると書いていた。ガイヤーはこの時点で、ハワードだけが生きてインディアナポリスを出ていないのではないかと疑い始める。
七月、彼はトロントに入った。地元のアルフ・カディ刑事と組んで、宿帳を洗い、不動産屋に子どもたちの写真を見せて歩く。この捜索は当時の新聞に連日書き立てられ、市民の関心を集めた。そして通報が来る。トマス・ライヴスという住人が「新聞に載っている男の人相が、去年の秋に隣の家を短期間借りていた男に似ている」と言ってきたのだ。ライヴスの記憶は具体的だった。その男は家具をほとんど持ち込まず、「じゃがいもを貯蔵する穴を掘りたい」と言ってシャベルを借りに来た。
一八九五年七月十五日、ガイヤーとカディは、その借りたのと同じシャベルを持って、セント・ヴィンセント通り十六番地の地下に入った。三フィートほど掘ったところで、耐えがたい臭気が上がってきた。アリスとネリーの遺体が重なって埋められていた。姉のアリスが下、ネリーがその上。ネリーの長い黒髪が、背中に流れたままだった。母キャリーがトロントに呼ばれ、遺体を確認した。決め手のひとつになったのは、その家に越してきた住人の息子が見つけていた、木でできた卵のおもちゃだった。開けると中から蛇が飛び出す仕掛けで、母親が申告していたおもちゃの特徴と一致した。
地下は徹底的に掘り返されたが、ハワードは出てこなかった。ガイヤーは自分の勘を信じてインディアナポリスへ戻る。地元のリチャーズ刑事、保険会社の調査員W・E・ギャリーと組み、一八九四年十月十日前後にホームズが借りた家を、しらみつぶしに探した。八月末、郊外のアーヴィントン、バトラー・カレッジのある町のはずれで、林に囲まれた空き家が浮かび上がる。横のポーチの下から、インディアナポリスのホテルから運び出されたトランクが出てきた。納屋には、家から移された円筒形の大きなストーブがあった。そして、ストーブが据えられていた床の穴を指さしたのは、ウォルター・ジェニーという近所の少年だった。バーンヒル医師が確認したその穴の中から、八歳から十歳ほどの子どもの遺骨が見つかった。近所の食料品店には、ハワードのオーバーコートが預けられたまま残っていた。取りに来ると言った男は、二度と現れなかった。
ガイヤーの捜索は、地図上でおよそ二千マイル、七つの州とカナダに及んだ。彼は翌一八九六年、この捜索の一部始終を『ホームズ=ピテゼル事件』という本にまとめて出版している。淡々とした文体で、宿帳の日付と聞き込みの順番が延々と続く本だ。だからこそ、今読んでも一番信用できる同時代資料になっている。

## 法廷は、たった一件だけを裁いた
一八九五年九月十二日、フィラデルフィアの大陪審はベンジャミン・ピテゼル殺害でホームズを起訴した。インディアナポリスとトロントも子どもたちの殺害で起訴状を用意していたが、検察側は「まずフィラデルフィアで一件だけやる」という方針を崩さなかった。地方検事ジョージ・S・グレアムの判断である。物証と証人が最もそろっているのがピテゼルの件だったからだ。
裁判は十月二十八日、オイヤー・アンド・ターミナー裁判所で始まった。裁判長はマイケル・アーノルド判事。検察はグレアムと次席のトマス・W・バーロウ。弁護人はサミュエル・ロータンとウィリアム・A・シューメーカー。
初日から法廷は荒れた。弁護人が準備不足を理由に延期を求め、判事が却下する。弁護人が辞任すると言い出すと、判事は「辞めたら処罰する」と言い放った。ホームズは立ち上がり、震える声で弁護人を解任すると宣言した。判事は「あなたに解任する権限はない」と切り捨てた。結局その日、ホームズは自分で陪審員候補を尋問することになる。最初の候補イーノック・ターナーに彼が投げた質問は「あなたは既婚者ですか。体調は良好ですか。この裁判を遅らせずに務められる状態ですか」というものだった。二人目の食料品店主フレデリック・スランプ・ジュニアは、双方が受け入れた。午後一時までに十二人がそろっている。十月三十一日になって、ホームズは前言をひるがえし、ロータンとシューメーカーに弁護を任せると告げた。
この裁判で最も大きかった判断は、証拠の範囲についてのものだ。検察はガイヤーを証人台に立たせ、子どもたちの死についても語らせようとした。弁護側が「本件と関係がない」と異議を出し、アーノルド判事はそれを認めた。この一言で、三十人前後の証人が沈黙させられ、トロントのトランクもアーヴィントンのストーブも法廷から締め出された。陪審が見たのは、ピテゼル一人の死をめぐる証拠だけである。
弁護側は証人を一人も呼ばなかった。ロータンはただ「合理的な疑いを超える立証はなされていない」と述べた。傍聴人のあいだでは無罪の予想すらあったという。しかし陪審は三時間ほどで戻ってきた。陪審長リンフォード・L・バイルズが「有罪」と告げる。十一月三十日の量刑手続で再審請求は却下され、絞首刑が言い渡された。ペンシルヴェニア州最高裁も判決を支持した。
ここは何度でも強調しておきたい。裁判所が「有罪」と認定したのは、ベンジャミン・ピテゼル殺害の一件だけだ。子どもたち三人の死について、彼が法廷で有罪判決を受けたことは一度もない。三人の死とホームズを結ぶ状況証拠は極めて強いが、それは法廷が確定させた事実ではなく、捜査と検死が示した強い蓋然性である。そして「城」で誰が死んだかについては、法廷は一言も判断していない。

## 一八九六年五月七日、モヤメンシング刑務所の朝
処刑の日、ホームズは五時半に起き、看守に朝の挨拶をした。緊張しているかと聞かれ、「まったく」と答えたと記録にある。卵とトーストとマーマレード、コーヒーの朝食をとった。デイリー神父とマクペイク神父が二時間ほど房にいて、そのあと弁護士ロータンが入れ替わりに入った。
見物人はおよそ百人。正式に招かれたのが六十一人、忍び込んだのが三十九人という数え方が残っている。判事は市会議員や元保安官、医師を含む十二人の立会人を指名していた。刑務所の大廊下に据えられた濃い緑色の絞首台は、一八五〇年以来五十人を吊るしてきたものだった。
台の上でホームズは短く話した。自分が人の命を奪ったのは、施術の失敗で二人の女性が亡くなった件だけであり、ピテゼル一家の誰も殺していない、と。前年に金を受け取って新聞に売った「二十七人殺した」という告白を、彼はここで完全にひっくり返したことになる。首に縄をかける係が手間取ると、彼は「ゆっくりでいいよ、リチャードソン。急いでないから」と言った。
十時十二分過ぎ、床が落ちた。首の骨は折れていたと医師二人が証明書に書いたが、指と手足の痙攣は十五分近く続いた。遺体が下ろされたのは十時四十五分。検死解剖の申請は出されたが、弁護士ロータンが強硬に反対して通らなかった。
彼は自分の遺体について、生前から細かい指示を出していた。棺を土に入れ、その上からセメントで固め、十フィートの深さに埋めること。医学生や墓荒らしに掘り返されるのを本気で恐れていたのだ。遺体を売ることで生きてきた男が、自分の遺体だけは絶対に売らせまいとした。この一点だけは、皮肉抜きに彼らしい。埋葬地はペンシルヴェニア州イードンのホーリー・クロス墓地。墓標は置かれなかった。

## 「二十七人」という数字は、新聞社が買った数字だった
事件を語るとき、必ず出てくるのが「二十七人」である。だがこの数字の出どころを追いかけると、犯罪ではなく商取引に行き着く。
有罪判決のあと、あらゆる新聞が彼に告白を書かせようと交渉していた。ニューヨークの『ザ・ワールド』紙は交渉に失敗し、腹いせのように「ホームズは二十人を殺したと告白する予定だ」と先回りして書いた。すると、実際に交渉が成立していた側は、二十人を下回る数を出せなくなる。結果として一八九六年四月十二日に紙面に載ったのは、二十七件の殺人と六件の殺人未遂という数字だった。彼はこの原稿で七千五百ドルを受け取っている。当時の労働者の年収の何倍もの額だ。
そして、その二十七人の中身がひどい。少なくとも六人前後は、記事が出た時点で普通に生きていた。ケイト・ダーキーという「被害者」は、まったく無事だった。医学校時代の同級生ロバート・リーコックを一八八六年に保険金目当てで殺したという記述もあるが、リーコックが実際に亡くなったのは一八八九年十月五日、オンタリオ州ワトフォードである。何人かはそもそも実在の確認すら取れない。
つまり、あの告白は「彼が何をしたか」の記録ではなく、「彼がいくらで何を売ったか」の記録だ。書いた本人が、絞首台の上でそれを否定している。数字を額面通り受け取る理由は、どこにもない。
では実際は何人なのか。ここは正直に「分からない」と書くしかない。近年もっとも徹底的に一次資料を洗った研究者は、ホームズと結びつけて論じうる死者を九人前後と見積もっている。そのうち裁判で確定しているのはピテゼル一人。捜査によって遺体が発見され、状況証拠がきわめて強いのが子ども三人。残りは、失踪の時期と状況からホームズの関与が濃厚とされる人たち――ジュリア・コナーと娘のパール、エメリン・シグランド、ミニー・ウィリアムズとその妹アンナ――である。一方で、二百人説を最初に世に広めた側に立っていた作家の一人でさえ、後年になって「自分が書いたものも相当に誇張されていたと気づいた」と認めている。数字は減っていく方向にしか動いていない。
ただし、ここで振り子を逆に振りすぎるのも間違いだ。九人でも十分に恐ろしい。そして、その九人にはそれぞれ名前と暮らしがあった。数字が減ったから事件が小さくなるわけではない。むしろ、二百という数字が幅を利かせているあいだ、この人たちの名前は「二百分の一」に薄められていた。数字を削る作業は、名前を取り戻す作業でもある。

## 伝説の部屋を、一つずつ開けてみる
ここから、あの建物にまつわる有名な「設備」を、ひとつずつ記録と突き合わせていく。まとめてやると雑になるので、順番に扱う。
まず「百室以上の迷宮」という話。実際の建物は三階建てで、一階が店舗、二階が賃貸の住居、三階が例のホテル予定の空間だ。三階は完成せず、家具も入らず、営業もしていない。設計図面が裁判記録に残っている以上、「本人が設計して図面を隠した」という前提そのものが崩れる。部屋数はそれなりにあったが、迷宮というより、細かく区切られた賃貸物件だった。
次に「地下の火葬炉」。地下に大型の窯があったのは事実だ。ただし、その窯についてもっとも説得力のある説明は、地下を借りていたガラス曲げ加工の業者が使っていた工業用の炉だというものである。ガラスを曲げるには高温の窯がいる。人を焼くために作られた設備という前提を外すと、この炉はごく普通の商業設備に見えてくる。
「防音・鉄板張りのガス室」について。ガス器具を大量に買い込んでいたのは本当だ。ただしそれは、支払う気のない掛け買いの一部でもあった。窓のない小部屋や金庫状の空間があったことも記録にある。しかし、それらの用途を「ガス室」と名指したのは、警察の鑑定ではなく新聞の見取り図だった。誰が名前を付けたのかを確かめると、たいてい記者に行き着く。
「拷問台」「人体を引き伸ばす装置」というくだり。これは一八九五年の同時代記事には出てこない。この装置が事件の語りに入り込むのは、一九四三年に『ハーパーズ』誌に載った長い読み物あたりからだ。半世紀後に足された小道具が、今では事件の代名詞になっている。
「死体を落とす滑り台と昇降機」。建物に荷物用のシュートと昇降路があったのは事実だが、当時の商業ビルではごく普通の設備である。一階に店舗が入っていれば、荷物を上げ下げする仕組みは必要になる。設備の存在と、その用途の断定は別の話だ。
「万博の客が次々に消えた」。これがいちばん根強く、いちばん根拠が薄い。三階のホテル区画は開業していない。万博の来訪者があの建物に泊まったという宿泊記録も、行方不明者と建物を結びつける当時の届出も、確認されていない。名前を挙げられた「被害者」の何人かは、後から生存が確認されている。
「殺した相手の骸骨を医大に売った」。ホームズが遺体を医学校に流していたのは事実だ。ただしその入手経路として記録に残っているのは、墓を掘る側の商売である。骸骨を組み立てたと証言した職人は、のちに証言の信頼性が崩れた人物だった。それでも、その証言が出た時点で新聞は大きく報じており、訂正はほとんど届かなかった。
「工事のたびに職人を替えて、誰にも構造を知られないようにした」。職人が入れ替わったのは事実である。理由は、彼が金を払わなかったからだ。訴訟記録には、支払いを求めて争った職人や業者の名前が並んでいる。秘密保持というより、支払い逃れの副産物だった。
「一八九五年の火事で城は焼け落ちた」。焼け落ちていない。上の二階分が焼けて建て替えられ、外観は変わったが、建物自体は一九三八年まで残り、その間ずっと普通の用途に使われていた。今そこにあるのは郵便局だ。心霊スポット巡りに来た人が最初に戸惑うのが、この「あまりにも普通」の風景である。

## 記録に残った声を、いくつか拾ってみる
事件を人の声から見ると、印象がまた変わる。
ひとつめは、建物で働いていた従業員C・E・デイヴィスの回想だ。彼はホームズについて、こんなふうに語っている。ホームズはよく「面倒ごとから自分を守るために弁護士を雇ってある」と言っていた。しかし自分の見るところ、彼を救っていたのは弁護士ではなく、あの礼儀正しくて図々しい悪党ぶりそのものだった。アメリカ中で、あんな真似ができるのは彼だけだった――。この証言が面白いのは、そこに一切の超自然性がないことだ。デイヴィスが記憶しているのは怪物ではなく、感じがよくて、押しが強くて、どこか薄気味の悪い雇い主である。同時代に彼を知っていた人たちの証言は、だいたいこの温度で一致している。彼の恐ろしさは、恐ろしく見えなかったことにあった。
ふたつめは、トロントの住人トマス・ライヴスだ。彼は一八九四年の秋、隣の家を借りた男のことをよく覚えていた。家具をほとんど持ち込まず、子どもを連れていて、じゃがいもを貯蔵する穴を掘りたいからシャベルを貸してほしいと言ってきた。近所付き合いとしては、なんということもない出来事だ。ライヴスは貸した。翌年の夏、新聞に載った人相書きを読んで、彼はその男を思い出し、警察に連絡した。捜査を決定づけたのは、名刑事の閃きでも科学捜査でもなく、シャベルを貸したことを覚えていた隣人の記憶である。そしてガイヤーたちが地下を掘るのに使ったのは、そのライヴスから借りた同じシャベルだった。事件の全体像の中で、この細部はやけに人間くさい。
みっつめは、探偵フランク・ガイヤー自身の記録だ。彼は捜索の翌年、一部始終を一冊の本にまとめた。読むとすぐ分かるのだが、この本には劇的な描写がほとんどない。何月何日にどの街へ行き、どのホテルの宿帳を何冊見て、不動産屋を何軒回り、何人に写真を見せたか。それが延々と続く。彼が唯一感情をこぼすのは、子どもたちの手紙を引用するときと、遺体を確認しにきた母親の姿を書くときだけだ。この抑制のきいた記録が、結果としてこの事件で最も信頼できる一次資料になった。感情を抑えた文章のほうが長く生き残るというのは、報道の教訓としても悪くない。
よっつめは、一九四三年に雑誌『ハーパーズ』へ長編の読み物を書いた記者ジョン・バートロー・マーティンの筆だ。彼は「外から見れば、あれは九十年代によくあった不格好な建物にすぎなかった。だが内部は落とし戸と隠し通路と塗り込められた部屋で蜂の巣のようになっていて、少年が夢に見る幽霊屋敷そのものだった」と書いた。そして「城は家具を飲み込んだ。のちに人間を飲み込んだのと同じように」という一文を残した。うまい。うますぎる。この記事は事件から半世紀後に書かれており、拷問台や引き伸ばし装置といった小道具をひとまとめにして後世に手渡した張本人でもある。伝説がどこで太ったかを知りたければ、この記事を読むのが早い。
いつつめは、現代の研究者の作業だ。シカゴの法務アーカイブに折り畳まれて眠っていた設計図面を見つけ、六十件近い訴訟記録を掘り起こし、告白に出てくる「被害者」の生死を一人ずつ照合していったのは、地味で気の長い仕事である。その結論は、乱暴に要約すれば二つだ。ひとつ、あの建物は殺人装置ではなく詐欺装置だった。ふたつ、それでもこの男は人を殺している。この二つは矛盾しない。伝説を壊すことと、罪を軽くすることは、まったく別の作業だ。

## 切り裂きジャック説と、二〇一七年に掘り返された墓
さて、後日談である。ここは「説」として、はっきり隔離して扱う。
ホームズの子孫にあたる元弁護士のジェフ・マジェットは、二〇一〇年代に入って「ホームズは切り裂きジャックと同一人物だった」という主張を展開した。根拠として挙げられたのは、家に伝わったという日記である。そこにはロンドン滞在の記述や、実行役を訓練したという話まで書かれているとされた。二〇一七年には、この説を追う番組がケーブル局で放送された。
同じ年、ペンシルヴェニア州の判事が墓の発掘を許可した。子孫の申立てによるもので、番組の企画でもあった。四月末から五月にかけてホーリー・クロス墓地が掘られ、大学の考古学・人類学チームが作業にあたった。まず空の松材の箱が出て、さらに掘り下げるとセメントの塊が現れた。生前の指示どおりだった。セメントを割ると、男性の骨格が出てきた。歯科記録とDNAの照合の結果、その遺体は申立人と血縁関係にあると結論され、同年八月末にその結果が公表された。遺骨は同じ墓地に埋め戻されている。
この発掘が答えたのは、実はひとつの問いだけだ。「ホームズは身代わりを立てて処刑を逃れたのか」という、一八九八年ごろの新聞記事に端を発する古い噂に、否という答えが出た。それだけである。切り裂きジャック説については、当人が公表結果の後も「自分の考えを変える材料は出ていない」と述べている。
では、その説はどれくらい持ちこたえるのか。率直に言って、かなり厳しい。ホワイトチャペルの一連の事件が起きたのは一八八八年の秋だが、その時期のホームズはシカゴにいたことが、彼が抱えていた訴訟や商売の書類からかなり細かく追える。金を払わない男は、その分だけ書類の中に足跡を残す。皮肉なことに、彼の詐欺癖そのものがアリバイになっている。手口も似ていない。ホームズの殺害は一貫して金銭と口封じのための実務的なものであり、ロンドンの事件の性質とは方向が違う。根拠とされる日記は、写真版が公開されて第三者の検証を受けたわけではない。大西洋を渡った記録も確認されていない。
つまりこの説は「面白い仮説」ではあっても、証拠としては成立していない。ここでは説として並べるにとどめ、事実として扱わない。

## 掲示板とSNSは、この話をどう回してきたか
この事件のネット上での扱われ方には、はっきりした世代の層がある。
最初の層は、活字時代からの「本当なのか」派だ。一九七〇年代末には、アメリカの有名な雑学コラムがすでに「ホームズは本当に城で二百人殺したのか」という質問に答えている。掲示板時代に入ると、二〇〇〇年代半ばの大手フォーラムに、エリック・ラーソンの『悪魔と白い都市』をめぐる長い議論のスレッドが立った。そこで多かった感想は、意外にも「万博パートのほうが面白い」というものだった。ホームズ側の記述については、資料が少なすぎて薄い、心の中を書きすぎている、という指摘が繰り返し出ている。「アメリカ最初の連続殺人鬼」という宣伝文句に対して、当時から「調べが甘い、こういう煽りは嫌いだ」と怒っている書き込みもある。
次の層は、二〇一七年前後のテレビ企画が生んだ反応だ。切り裂きジャック説を扱う番組が始まると、犯罪史に詳しい層のあいだからは「この説はとっくに否定されている」「時系列を並べれば無理だと分かる」という反発が一斉に出た。同時に、墓の発掘という絵になる企画に引っ張られて、事件そのものへの関心は確実に広がった。否定と拡散が同時に起きるのは、この手の話題の宿命でもある。
三つ目の層は、二〇二〇年前後からの「解体済みの伝説」派だ。研究書が出て、百科事典の記述が書き換わり、動画やポッドキャストが「実は城は存在しなかった」という切り口を量産した。ここで面白いのは、そこからさらに揺り戻しが起きていることだ。要するに「否定しすぎ」への反論である。隠し部屋は実際にあった。地下から骨片は出た。ジュリア・コナーとパール、エメリン・シグランド、ウィリアムズ姉妹は本当に消えたまま戻ってこなかった。建物が詐欺のための構造だったとしても、その中で人が死ななかったことの証明にはならない。この指摘はまったく正しい。伝説の解体は、無罪の宣告ではない。
四つ目の層は、純粋な娯楽としての消費だ。テレビドラマの一話に登場し、ホラーゲームの題材になり、脱出ゲームやハロウィンの企画に「殺人ホテル」が流用される。イングルウッドの現地には今も見物に行く人がいて、住民からは「うちの近所の郵便局を心霊スポット扱いするのはやめてくれ」という当然の声も出る。ここまで来ると、事件は歴史というより地名の付いたジャンルになっている。
考察界隈で繰り返し議論される論点を三つだけ挙げるなら、第一に「実際の死者数」、第二に「ラーソンの本はどこまで再現でどこから創作か」、第三に「連続殺人鬼という分類がこの人物に当てはまるのか」だろう。三つとも、決着はついていない。ただ、一つ目と二つ目については、資料に当たれば当たるほど「盛られていた」側に傾く。三つ目は定義の問題なので、たぶん永遠に終わらない。

## 「アメリカ最初の連続殺人鬼」という称号は、いつ発明されたのか
この呼び名は、当時のものではない。そもそも「シリアルキラー」という言葉自体が一般に広まったのは一九七〇年代から八〇年代にかけてで、ホームズの死から八十年以上あとの話だ。一八九〇年代の新聞が彼に与えた称号は「現代の青ひげ」「今世紀の悪鬼」といった、聖書と伝承由来のものだった。
「最初の」という部分も怪しい。アメリカだけ見ても、一八七〇年代のカンザスで宿を営みながら旅人を襲っていた一家がいるし、一八八四年から翌年にかけてテキサス州オースティンで連続殺人が起きている。イギリスとアメリカを行き来しながら毒殺を重ねた医師もいた。ホームズが「最初」である理由は、事実の側にはない。
では何が理由か。動機と分類の話になる。近年の研究者は、そもそもホームズを標準的な意味での連続殺人鬼と呼べるかどうかにも留保をつけている。彼の殺害には、たいてい明確な実務的理由があった。知りすぎた人間、邪魔になった人間、保険金や財産の名義が絡む人間。快楽そのものが目的だったと断定できる材料は乏しい。彼は殺人者であると同時に、というより第一義的には、詐欺師だった。
にもかかわらず「アメリカ最初の連続殺人鬼」という称号が定着したのは、一九九〇年代以降だ。一九九四年に出た評伝が広く読まれ、二〇〇三年の『悪魔と白い都市』が決定打になった。この本は、万博を作った建築家と殺人者を交互に描くという構成で大ベストセラーになり、映画化の権利は二〇一〇年に有名俳優が買い、その後は配信ドラマ企画として長く難航した。企画が動くたびに、彼の名前は新しい世代に届く。
ただ、この本自体は誠実な作りでもある。巻末の注記で、著者は「この場面は既知の細部から編んだ、ありそうな一つの筋である」と自分で断っている。困るのは、注記まで読む人が少ないことだ。本文は小説のように読め、注は学術書のように書かれている。読者が受け取るのは当然、本文のほうである。称号は、この落差から生まれた。誰かが嘘をついたわけではなく、誰も注を読まなかった。それだけのことだ。

## それでも、この話が百三十年も死なない理由
最後に、なぜこの話がこれほどしぶといのかを考えてみたい。
第一に、舞台装置が完璧すぎる。人類の進歩を祝う真っ白な博覧会と、その数キロ先に建つ黒い城。この対比は、誰かが設計したかのようによくできている。実際には博覧会の建物も張りぼてで、城のほうも詐欺のための建物だった。両方が「見せかけ」だったという点でこそ二つは似ているのだが、物語としては光と闇の対比のほうが強い。強い物語は、正確な物語に勝つ。
第二に、見取り図というものが持つ魔力がある。一八九五年に新聞が描いたあの平面図は、事実としては創作だが、形式としては圧倒的に説得力がある。人は図面を見ると信じてしまう。落とし戸に矢印が引かれ、部屋に「窒息室」と書き込まれていれば、それはもう証拠に見える。文章の嘘は疑えても、図の嘘は疑いにくい。この事件は、情報の見た目が信頼性を作ってしまう例として、今でも教材になる。
第三に、記録の空白が大きすぎる。建物は建て替えられ、取り壊された。当時の捜査資料は散逸し、告白は本人が撤回し、法廷は一件しか裁かなかった。空白があると、人はそこに自分の恐怖を入れる。二百人説も、切り裂きジャック説も、身代わり処刑説も、すべて空白の形をしている。
第四に、これがいちばん効いていると思うのだが、この話には被害者が足りていない。物語の中心にいるのはいつも犯人だ。だが実際にいたのは、二十代で消えたジュリア・コナーと、まだ小さかった娘のパール。故郷から出てきて働いていたエメリン・シグランド。テキサスの土地を持っていたミニー・ウィリアムズと、遊びに来ていた妹のアンナ。相棒として使い潰されたベンジャミン・ピテゼル。そして、父の遺体を確認させられ、そのあと自分も帰れなくなったアリスと、ネリーと、ハワード。トロントの地下に埋められた姉妹の遺体を確認しに行った母キャリーは、そのとき体を壊しかけていたと記録にある。彼女はその後、残った子どもたちを育てて生きた。
城の間取りを何度描き直しても、この人たちの人生は一行も増えない。逆に、伝説を一枚ずつ剥がしていくと、その下から出てくるのは彼らの名前だ。だから伝説の解体という作業は、地味だけれど、たぶんいちばん誠実な弔い方なのだと思う。

## 確度は四層に分かれている――混ぜて語ると、途端に嘘になる
ここまでを整理すると、確度は三層に分かれる。第一層は裁判所が確定させた事実で、これはベンジャミン・ピテゼル殺害の一件だけだ。第二層は、捜査によって遺体が発見され、状況証拠が積み上がっているもの――アリス、ネリー、ハワードの三人の死である。ここは法廷では判断されなかったが、探偵ガイヤーの追跡、宿帳、投函されなかった手紙、複数の目撃者の写真識別、遺留品の一致が重なっており、歴史的にはほぼ争いがない。第三層は、失踪の時期と状況からホームズの関与が濃厚とされる人たち。ジュリア・コナーと娘パール、エメリン・シグランド、ウィリアムズ姉妹あたりがここに入る。そして第四層――「二十七人」「二百人」「万博客の大量殺害」は、証拠の層ではなく、新聞と本と映像が作った層だ。この四層を混ぜて語ると、途端に話が嘘になる。
もう一歩踏み込んで考えたいのは、この事件が「情報の壊れ方」の見本になっているという点だ。一八九五年の夏、シカゴの新聞各社は日刊で競い合い、確認より速度を優先した。一社が「秘密の部屋」と書けば、他社は「拷問室」と書かないと売れない。訂正記事は出ても一段組で、煽り記事は一面である。訂正は伝説を追い越せない。ここに、本人が金を受け取って書いた告白という、極めて質の悪い一次資料が加わる。犯人の自白は普通なら最強の証拠だが、この場合は逆で、原稿料という動機がついた瞬間に信頼性がゼロに近づいた。さらに半世紀後、雑誌の読み物が拷問台のような小道具を足し、二十一世紀のベストセラーが場面の再現を足した。どの段階にも悪意はない。あるのは、それぞれの媒体の都合だけだ。そして都合が四回積み重なると、事実は元の形を失う。現代のSNSで起きていることと構造は変わらない。違うのは速度だけである。
その上で、伝説の解体作業そのものにも注意点がある。「実は全部嘘だった」という語り口は、それ自体が新しい売り文句になりうるからだ。研究者が言っているのは「全部嘘」ではない。建物に隠し部屋があったのは本当で、地下から骨片が出たのも本当で、彼のまわりから人が消えたのも本当だ。訂正されたのは、あの建物が万博客を狩るために設計された装置だったという筋書きと、犠牲者の桁である。この区別を雑にすると、今度は逆方向の伝説――「H・H・ホームズはただの詐欺師で、殺人鬼ですらなかった」という話――が育つ。それもまた事実ではない。彼は少なくとも一人を殺して有罪判決を受け、三人の子どもの死に決定的に関与している。
これから何か新しいことが分かる可能性はあるか。物理的な手がかりは、ほぼ尽きている。建物は一九三八年に消え、その下の土地も掘り返された。遺体の多くは特定されないまま、あるいは特定できない状態で失われた。二〇一七年の発掘が答えたのは身代わり処刑説だけで、それ以上のことは分からない。残っている望みは、地味な紙の側にある。シカゴとフィラデルフィアの訴訟記録、保険会社の内部書類、各地のホテルの宿帳、教区の記録、そして地方紙のマイクロフィルム。設計図面が訴訟記録の中から出てきたように、まだ誰も開いていない箱がある可能性は十分にある。この事件の続きは、地下室ではなく書庫にある。
最後にもう一度だけ書いておきたい。この話を面白がるのは構わないと思う。実際、面白い。詐欺師の狡猾さ、探偵の執念、法廷の混乱、新聞の暴走、百年後の発掘。物語としての強度は本物だ。ただ、面白がるときに何を数えているのかは、時々確認したほうがいい。「二十七人」も「二百人」も、誰かが売った数字だ。数字を大きくするほど話は盛り上がるが、大きくなった数字の中では、アリスもネリーもハワードも見えなくなる。十四歳の少女が、父親の掘り返された遺体を確認させられ、そのあと母親宛に書いた手紙が投函されないまま犯人のカバンに入っていた。この一つの事実の重さは、二百という数字より、たぶんずっと重い。伝説を削る作業が退屈に見えるとしたら、それは削ったあとに残るものが、派手ではないが本物だからだ。

タイトルとURLをコピーしました