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ヒンターカイフェック事件――雪の上の足跡は、行きだけだった

ドイツ・バイエルンの片田舎に、地図に載らないくらい小さな農場があった。1922年の春、そこで六人が殺された。犯人は逃げなかった。数日間その家に住み、家畜に餌をやり、パンを食べ、暖炉に火を入れていた。そして誰にも捕まらないまま、百年が過ぎた。

世界中の未解決事件マニアが「一番怖い」と言うのがこの事件だ。理由はシンプルで、殺しそのものより、殺す前と殺した後がおかしいから。順番に見ていこう。

森の奥に一軒だけ。地図に載らない「ヒンターカイフェック」

まず場所の話をさせてくれ。ここを分かってないと事件の怖さが半分も伝わらない。

ヒンターカイフェックというのは、村の名前じゃない。オーバーバイエルン地方、インゴルシュタットとシュローベンハウゼンのあいだあたりにあった、たった一軒の農場につけられた通称だ。近くにカイフェックという集落があって、その「奥(ヒンター)」にあるからヒンターカイフェック。それだけ。役所の地名台帳に正式に載っていたわけでもない。ミュンヘンから北へおよそ70キロ。当時の感覚だと、馬車と徒歩の世界だ。

農場は森に囲まれた斜面の上にぽつんと建っていた。母屋と家畜小屋と納屋が、渡り廊下でつながった一体型の造り。つまり、家の中から靴を履き替えずに納屋まで行ける。これがのちに致命的な意味を持つ。一番近い隣家まで数百メートル、林を抜けないと着かない。夜になれば灯りは自分たちのランプだけ。悲鳴を上げても、たぶん誰にも届かない。

時代背景も押さえておきたい。1922年のドイツはワイマール共和国の初期で、第一次大戦の敗戦から四年。インフレが本格化する寸前で、社会はギスギスしていた。復員した兵士が仕事もなくうろついていて、義勇軍(フライコール)くずれの武装集団があちこちにいた。田舎の農家にとって、見知らぬ男が敷地をうろつくのは「あり得ないこと」ではなかった。だからこそ、グルーバー家の主人も最初は本気で怖がらなかったんだと思う。それが結果的に、いちばんまずい判断になった。

住んでいたのは六人。主人アンドレアス・グルーバー63歳。妻ツェツィーリア72歳。娘のヴィクトリア・ガブリエル35歳。ヴィクトリアの子である7歳のツェツィーリアと、2歳のヨーゼフ。そして、その日から働き始めたばかりの家政婦マリア・バウムガルトナー44歳。この六人が全員、一晩で死ぬ。

雪の上の足跡は、行きだけだった

事件の数日前、まだ雪が残っていた頃の話だ。

アンドレアス・グルーバーは、敷地の雪の上に足跡を見つけた。森のほうから農場に向かって、まっすぐ歩いてきた跡。彼はそれを目でたどった。そして、気づいてしまう。戻っていく跡がない。

これが「行きだけの足跡」として世界的に有名になったやつだ。要するに、森から来た誰かが、まだこの敷地のどこかにいる、ということになる。しかも足跡は機械小屋の扉のあたりで途切れていて、その扉の錠が壊されていたという記録がある。グルーバーは家の周りをひととおり見て回ったが、人影は見つけられなかった。

ここで普通なら憲兵を呼ぶ。呼ばなかった。彼は近所の人間にはこの話をしている。世間話みたいに「うちの雪に変な足跡があってな」と。聞かされた側も「へえ」で終わっている。誰も本気にしなかった。なんでだよ、と百年後の俺たちは思うわけだが、当時の田舎では放浪者が納屋で一晩寝るくらいはよくある話だった。追い出せば済むと思っていたんだろう。

ただ、この足跡には昔から反論もある。「一本しかなかった」というのは後年の語りで盛られた部分で、実際には雪の状態で往路が消えていただけかもしれない、という見方だ。それでも、扉の錠が壊されていたという事実は残る。誰かが敷地に入り込んでいたのは、たぶん本当だ。

屋根裏の足音、消えた鍵、誰のものでもない新聞

奇妙な出来事はそれだけじゃない。事件前の数か月から数日にかけて、この家では変なことが立て続けに起きている。

まず屋根裏の足音。グルーバー家では、夜になると屋根裏で誰かが歩き回るような音を聞いていた。しかもこれ、家族が最初じゃない。事件の半年ほど前に辞めた家政婦のクレスツェンツ・リーガーという女性が、まさに同じ理由で辞めている。彼女は「この家は何かに取り憑かれている」「屋根裏で音がする」と言って出ていった。当時の田舎だから、幽霊のせいだと解釈したわけだ。今の視点で読み直すと、本当に人がいたんじゃないのか、としか思えないんだよな。

次に鍵。事件の数日前、家の鍵がひとつなくなっている。これも警察には届けていない。田舎の家でどこかに置き忘れる、なんてしょっちゅうだ。だが後で分かるとおり、犯行の日の夜、この家の戸締まりは完璧だった。犯人は鍵を持っていた可能性が高い。

そして新聞。三月に入ってから、グルーバーは敷地でミュンヘンの新聞を拾っている。誰も買った覚えのない新聞だ。ヒンターカイフェックにミュンヘンの新聞は届かない。つまり、都会から来た誰かがそれを落とした。もっと言えば、その誰かは敷地でその新聞を読むくらいの時間、ここに滞在していた。

極めつけがこれ。屋根裏の屋根瓦が何枚か外されていた形跡がある。外から見えるように、というより、中から外を覗けるように。あとで捜査員が屋根裏に上がったとき、そこには藁が敷かれていた。人が寝た跡のような藁と、足音を消すための敷物。つまり犯人は、事件の前から、この家の天井裏で暮らしていたことになる。家族が下で食事をして、祈って、眠っているあいだ、ずっと。

書いていて背筋が冷える。この家の人たちは、何日も何週間も、屋根一枚隔てた場所にいる誰かと同居していたわけだ。

三月三十一日、着任初日の家政婦

1922年3月31日、金曜日。この日は二つのことが起きている。

ひとつ。前日の3月30日、ヴィクトリアが父親と激しく口論して、森に逃げ込むという騒ぎがあった。数時間後に見つかって連れ戻されている。この家の空気がどれだけ悪かったかの傍証としてよく引かれる話だ。

ふたつ目。この日の午後、新しい家政婦マリア・バウムガルトナーが到着した。44歳。前の家政婦が半年前に辞めてから、この農場には人手が足りていなかった。噂のせいで誰も来たがらなかったとも言われる。マリアは姉に付き添われてやってきて、荷物を運び込み、家の中を案内された。姉はその日のうちに帰っている。

マリアがこの農場で過ごした時間は、たぶん半日もない。夜には死んでいる。着任初日に殺された家政婦。この事件で一番救いがないディテールがこれだ。彼女は農場の事情も、屋根裏の音の噂も、雪の足跡も、たぶん何ひとつ知らないまま来て、知らないまま死んだ。

その夜、納屋の扉の向こうで

何が起きたのか、遺体の位置から逆算するしかない。以下は捜査記録と検死結果から組み立てられた、もっとも有力な再現だ。

夕方から夜にかけて、家畜小屋のほうで物音がした。誰かが犬をけしかけたのか、家畜を騒がせたのか、あるいは単に「誰かいる」と思わせる音を立てたのか。とにかく、家の人間が一人ずつ、母屋から納屋のほうへ様子を見に行くことになる。

最初に行ったのが誰かは分からない。有力なのは、老夫婦のどちらか。納屋への通路は暗い。ランプを持って入ったところを、扉の脇で待っていた男に、つるはしで殴られる。声を上げる間もない。倒れた体は納屋の奥へ引きずられ、藁の上に置かれる。

戻ってこないから、次の一人が見に行く。同じことが繰り返される。アンドレアス、ツェツィーリア、ヴィクトリア、そして7歳のツェツィーリア。四人が納屋で殺された。遺体は重ねるようにして並べられ、上から藁と扉板がかけられていた。隠したのか、それとも見たくなかったのか。

母屋に残っていたのは、2歳のヨーゼフと、家政婦のマリア。犯人は母屋に戻り、それぞれの寝床で二人を殺した。ヨーゼフはベビーベッドの中。マリアは自分にあてがわれたばかりの小部屋の中。

この一連の流れで一番おそろしいのは、犯人が「呼び出す」やり方を選んでいることだ。家に押し入って暴れたんじゃない。暗い場所で待って、一人ずつ来させた。この家の間取りと、家族の反応の仕方を知っていないとできない。

犯人は帰らなかった。四日間、その家に住んだ

殺しが終わって、普通の犯人なら逃げる。この犯人は逃げなかった。ここがこの事件を「ただの一家惨殺」から「世界一気味の悪い未解決事件」に押し上げている部分だ。

発見時の農場の状態はこうだった。牛と鶏に、ここ数日ぶんの餌が与えられていた。世話をされていない家畜は当然痩せるし騒ぐが、そうなっていなかった。台所のパンは全部なくなっていた。食料庫の肉は、切り取られた跡があった。かまどには火が入れられた形跡があった。そして壁のカレンダーは、3月31日のページが破り取られ、4月1日になっていた。

誰かが、六人の死体と同じ屋根の下で、朝起きて家畜に餌をやり、パンを食べ、暖を取り、日めくりをめくっていた。

目撃証言もある。近隣の住人が、週末にヒンターカイフェックの煙突から煙が上がっているのを見ている。だから誰も異常だと思わなかった。煙が出ている家は、生きている家だ。普通そう思う。

動機の話で言うと、この滞在が強盗説をほぼ潰している。家の中には現金も貴重品も残っていた。金目当てなら殺した直後に持って逃げればいい。四日も居座る理由がない。じゃあ何がしたかったのか。ここで多くの人が思考停止する。俺もする。

四月四日の午後、誰も出てこない農場

発見までの経緯は、細かく追うと結構もどかしい。ヒントは何度も出ていたのに、誰も踏み込まなかった。

4月1日土曜日。コーヒー行商のハンスとエドゥアルト・シロフスキーという二人がヒンターカイフェックを訪ねた。扉を叩いても返事がない。留守だと思って帰った。同じ日、郵便配達人が郵便物を置いていった。その郵便物は、四日後に発見されるまでそのまま置かれ続けた。

同じく4月1日の未明3時ごろ、農家で肉屋も営むジーモン・ライスレンダーという男が、森の縁に人影を二つ見たと証言している。こちらが気づいたと分かった途端、その二つの影は背を向けて森に消えたという。犯人が複数説の根拠としてよく引かれる証言だ。

そして職人のミヒャエル・プレックル。彼は農場のそばを通ったとき、かまどが最近焚かれた形跡に気づいた。さらに、誰かがランタンを持ってこちらに近づいてきて、そのランタンの光を顔に向けられ、目がくらんだ。彼は相手の顔を見ていない。もうひとつ、彼は煙の臭いについて妙なことを言っている。ぼろ布を焼いたような、吐き気のする臭いがしたと。何を燃やしていたのか。血のついた衣服だったんじゃないか、という説は当然出た。証明はされていない。

4月2日日曜日。ミサに一家が来なかった。田舎のカトリック農村で、一家全員が日曜のミサをすっぽかすのは相当な異常事態だ。それでも誰も見に行かなかった。

4月3日と4日。7歳のツェツィーリアが学校に来ない。土曜も来ていない。教師は気にしたが、動かなかった。

4月4日火曜日の午前、機械工のアルバート・ホフナーが、以前から頼まれていたエンジンの修理にやってきた。ここが本当にすごい。彼は誰にも会わないまま、農場で四時間半ほど修理作業をしている。四時間半だ。彼の証言によれば、聞こえたのは家畜の鳴き声と、納屋の中で犬が吠える声だけだった。彼は仕事を終え、誰にも会えないまま帰った。あとで彼は、あの日ずっと誰かに見られていた気がする、と語ったと伝えられている。真偽は分からない。ただ、四時間半のあいだ屋根裏に誰かがいたなら、それは十分ありうる。

その日の午後、隣人のローレンツ・シュリッテンバウアーがついに動く。息子たちに様子を見に行かせ、そのあと自分もミヒャエル・ペルとヤーコプ・ジーグルという二人を連れて農場へ向かった。扉はどこも施錠されていた。彼らは納屋の扉をこじ開ける。藁と扉板の下から、四人が出てきた。それから母屋に入り、残る二人を見つけた。

検死台の上の数字と、ミュンヘンへ運ばれた頭部

4月5日、ミュンヘンから捜査官が到着し、現場で検死が行われた。担当は法医のヨハン・バプティスト・アウミュラー。この検死報告が、この事件の「静かな暴力」を数字で突きつけてくる。

老ツェツィーリアの頭蓋には、右側に八つの穴。ヴィクトリアの頭蓋には右側に九つの穴、さらに首に絞められた痕。2歳のヨーゼフは頭部右側に強烈な一撃。マリア・バウムガルトナーは顔の右側と頭頂部。アンドレアスは致命傷が一箇所で、倒れた際につるはしの先端に落ちて頸動脈を切ったと見られている。

一番むごいのが7歳のツェツィーリアだ。顔の右側に一撃を受けたが、即死しなかった。彼女は納屋の藁の上で、祖母と母の遺体のそばで、数時間生きていた。自分の髪を束でむしり取った痕が残っていた。手が届く範囲の藁が握りしめられていた。最終的に、彼女の喉はナイフで切られている。使われたと見られる折りたたみナイフは、祖父アンドレアスの持ち物だった。犯人はその場にあるものを使ったわけだ。

凶器は農作業用のつるはし。ただし普通の既製品ではなく、この土地で誂えられたような、柄の長さ80センチほどの特徴的なものだった。事件当時は見つからなかった。1923年、農場が取り壊されたときに、屋根裏の床板の下から出てきた。犯人はそれを持ち帰らず、家の中に隠していた。

そして、この事件で最も奇妙な捜査上の判断がここで下される。ミュンヘン警察は、六人の頭部を切り離して持ち帰った。目的は骨相学的な検査、そして――これは当時の記録に残っているのだが――霊能者に見せて犯人像を探るためだった。1922年のバイエルン警察が、真顔で霊媒に頼ったわけだ。当然、何の成果もなかった。

さらに悪いことに、その頭蓋骨は戻ってこなかった。第二次世界大戦の混乱の中で行方不明になっている。ヒンターカイフェックの墓地には、頭のない六人が眠っている。DNA鑑定が可能になった時代に、鑑定できる遺体がない。この事件が永久に解けない理由の、かなり大きな部分がこれだ。

隣人ローレンツ・シュリッテンバウアー、疑われ続けた男

ここからは説の話。一人ずつ、丁寧にやる。ただし全員とっくに故人で、誰も有罪判決を受けていない。断定はしない。

最初に疑われ、そして百年疑われ続けているのが、遺体の第一発見者ローレンツ・シュリッテンバウアーだ。近隣の農家で、のちに地元の顔役になる男。ヒンターカイフェックから直線で350メートルほどの距離に住んでいた。

彼が疑われる理由は複数ある。まず、ヴィクトリアと関係があった。ヴィクトリアの息子ヨーゼフの父親は彼だという話があり、養育費をめぐって揉めていたという記録もある。動機になりうる。

次に、発見時の行動。彼は施錠された家に、あっさり入っている。当時の証言では、鍵の問題で手間取った様子がないとされる。さらに彼は納屋で遺体をひっくり返し、動かしている。理由を聞かれて「息子のヨーゼフを探していた」と答えた。現場は徹底的に荒らされ、そのあと台所で人が茶を飲んだりもしている。1922年に指紋が採取されていない最大の原因は、この現場保存のなさだ。

決定打っぽく語られるのが、彼の口の軽さだ。1925年、地元の教師ハンス・イブラガーに対して、犯人が遺体を埋めようとしたが地面が凍っていて掘れなかった、という趣旨のことを話したとされる。地面が凍っていて埋められなかった――そんなの、やろうとした本人しか知らないだろ、というわけだ。酒の席で「足跡は後ろ向きだった」と言ったという話も伝わっている。

ただし反論も強い。彼は生前、自分を犯人扱いした相手に対して名誉毀損の訴えを起こし、複数勝訴している。当時の捜査当局も彼を立件できるだけの材料は掴めなかった。1941年に亡くなるまで一貫して否認した。そして冷静に考えると、遺体をひっくり返した理由は「息子を探した」で普通に説明がつくし、鍵の件も、近所付き合いの深い農家同士なら合鍵くらい持っていておかしくない。教師への発言も、伝聞の伝聞で、記録に残ったのは事件から数年後だ。

地元では長らく「あいつだ」という空気があった。だがそれは証拠じゃなくて、村の空気だ。この区別は、百年後に語る側がいちばん気をつけるべきところだと思う。

戦死したはずの夫は、本当に死んだのか

ヴィクトリアの夫、カール・ガブリエル。彼は1914年12月、第一次大戦のアラスの戦いで戦死したとされている。ヴィクトリアが「未亡人」なのはそのためだ。

ところがこの戦死、遺体が確認されていない。塹壕戦で行方不明扱いのまま戦死認定された、というパターンだ。ここに「実は生きていて、戻ってきたら妻に他人の子が二人いた」という筋書きが乗る。復讐としては分かりやすすぎるくらい分かりやすい。

この説には後年、燃料が追加されている。第二次大戦後、ソ連から帰還した元捕虜が、収容所で「ヒンターカイフェックの犯人だ」と名乗るドイツ系の男の話を聞いた、と証言した。ただし証言者たちはのちに供述を修正したり曖昧にしたりしていて、信頼性はかなり低いと見られている。伝言ゲームで膨らんだ噂の可能性が高い。

加えて、生存説そのものにも無理がある。戦死通知を受けた家族が、七年以上も帰ってこない夫を「生きてるかも」と思い続けるだろうか。仮に彼が生きて帰ったなら、村のどこかで誰かが顔を見ているはずだ。ヒンターカイフェックのような土地で、よそ者の顔は目立つ。

それでもこの説が消えないのは、たぶん「戦争が家に帰ってくる」という物語が強すぎるからだ。1922年のドイツで、戦死者が幽霊のように帰還するイメージは、当時の人たちの実感にも刺さったんだと思う。

死の床の告白と、その他の名前たち

容疑者リストは、実はもっと長い。数百人が事情聴取を受けている。

グンプ兄弟の話は外せない。事件から数日後の4月9日、アドルフ・グンプという男が容疑者として浮上した。当時の義勇軍オーバーラント絡みの経歴が理由だったとされる。兄弟のアントンは一度勾留され、釈放されている。この兄弟の名前が再浮上したのが1951年で、姉妹のクレスツェンティアが死の床で「兄弟たちがやった」と語ったとされる。デスベッド・コンフェッション(死の床の告白)は真実味があるように聞こえるが、裏付けは取れなかった。捜査は1954年に打ち切られている。

もうひとつ興味深いのが、半年前に辞めた家政婦クレスツェンツ・リーガーの証言だ。彼女は屋根裏の音を証言した人物であると同時に、複数の名前を出している。アントン・ビヒラーという地元の男について、「あの一家は死んだほうがいい」という趣旨のことを言っていた、と。さらに、農場の犬はビヒラーには決して吠えなかった、とも。これは重い。あの晩、犬が吠えなかった説明になるからだ。彼女はまた、ヨーゼフ・ターラーという男が、家族が誰の部屋で寝ているかを妙に細かく知りたがっていた、とも語っている。どちらも立件には至らなかった。

変わり種としては、アメリカの著述家ビル・ジェイムズが提唱した「パウル・ミュラー説」がある。同時期にアメリカで斧殺人を繰り返していたドイツ系移民が犯人で、彼が一時ドイツに戻っていた、という筋書きだ。手口の類似は確かに指摘できるが、この人物がその時期にバイエルンにいた証拠はない。国境をまたぐロマンとして人気があるだけ、というのが正直なところだと思う。

「父の子」という噂と、動機の暗がり

この事件を語るとき、避けて通れないのが家族の内側の話だ。ここは慎重にいく。

記録として残っている事実はこうだ。1915年、アンドレアス・グルーバーとヴィクトリアは近親相姦の罪に問われ、有罪となっている。父に懲役1年、娘に1か月。これは裁判記録の話であって、噂ではない。

そこから先が噂の領域になる。1915年以降に生まれた子どもたち、特に2歳のヨーゼフの父親は誰なのか。隣人だという話と、実の祖父だという話が、どちらも当時から流れていた。ヴィクトリアがシュリッテンバウアーに向かって「父の子を身ごもったほうがまだましだ、そうじゃなきゃ父に殴り殺される」と言った、という証言も記録に残っている。ただしこれは事件後に出てきた伝聞で、言った本人はもう死んでいる。裏は取れない。

この噂が事件とどう結びつくのか。ひとつの筋は、家の中の関係のもつれが暴力に転化したというもの。もうひとつは、村の誰かがこの家を「汚れた家」として憎んでいたというもの。どちらも動機としては成立するが、証拠はどちらにもない。

近親者が犯人だという説は昔からあるし、ネットでも根強い。ただ、この説は決定的な証拠が一度も出ていないし、当事者は全員死んでいて反論もできない。「そういう噂が根強くある」以上のことは、正直、書くべきじゃないと思っている。百年前の田舎の人間関係を、俺たちは断片しか知らない。

海外掲示板は百年後も、この家の中を歩いている

この事件、英語圏のネットではもう完全にレジェンド枠だ。Redditのr/UnresolvedMysteriesでは定期的にスレッドが立ち、そのたびに同じ議論が繰り返される。BuzzFeed Unsolvedが取り上げ、Amazonの『Lore』でもエピソード化された。日本語圏でも、オカルト系まとめや個人ブログ、noteで何度も紹介されている。

ネットで支持されている主な考察と、その反証を並べておく。

一番人気は当然「シュリッテンバウアー犯人説」。動機、鍵、現場の荒らし方、口の軽さ。役者が揃いすぎている。ただ反証も強くて、そもそも彼が犯人なら、なぜ自分が発見者になるという最悪の目立ち方をしたのか。四日も待つ必要があったのか。そして彼は一貫して否認し、名誉毀損訴訟に勝っている。

二番目が「屋根裏の侵入者は精神的に不安定な放浪者だった説」。事件前の徘徊、屋根瓦を外して覗く行動、殺した後も居座って生活する行動。これは合理的な犯罪者より、執着した個人の行動パターンに近い。反証は、そういう人物が四日間まったく足がつかず、村の誰にも目撃されずに消えるのは難しいという点。

三番目が「複数犯説」。ライスレンダーが見た二つの人影、六人を制圧する労力、遺体を運ぶ手間。確かに一人でやるには重労働だ。反証は、複数犯は必ず口が割れるという経験則。百年間、誰も自白していない。

ネット考察で必ず出る「なぜ犬は吠えなかったのか」も面白い論点だ。実際、農場には犬がいて、発見時は納屋に閉じ込められた状態で吠えていた。ということは、事件の夜、犬は犯人に対して沈黙していたか、あるいは早い段階で隔離されていた。前者なら顔見知り、後者なら家の構造を知っている人物。どっちに転んでも「外から来た通りすがり」ではない。

一方で、ネットで盛られている話も多い。「犯人が屋根裏から家族を毎晩覗いていた」「鏡に文字が書かれていた」みたいな細部は、出所が怪しいものが混ざっている。この事件は元の記録がドイツ語で、しかも百年前の手書き調書だ。英語まとめを経由するたびに少しずつ物語が育っている、という自覚は持っておいたほうがいい。

2007年、警察学校の学生十五人が出した答え

捜査は1955年にいったん打ち切られた。1986年にも、退職間際の捜査官が最後の事情聴取をしている。それでも終わらなかった。

2007年、フュルステンフェルトブルックの警察学校で、十五人の学生がこの事件を教材として再検証した。現代の犯罪捜査の手法を、1922年の記録に対して適用してみるという試みだ。

彼らの報告は、まず当時の捜査を評価している。聞き込みの範囲、記録の細かさは、1922年としては相当まじめだった、と。批判されたのは科学捜査の欠如で、とくに指紋を採取しなかった点が厳しく指摘された。あの現場は、遺体を動かす前に写真と指紋さえ取っていれば、まったく違う結末になっていた可能性がある。

結論としては、動機は個人的・感情的な対立に起因する、とされた。強盗でも、無差別でもない。誰かがこの家に対して個人的な感情を持っていた、という判断だ。

そして、ここが一番語り草になっている部分。十五人は独立に検討して、主要な容疑者が誰かという点で一致した。ただしその名前は公表されなかった。理由は、その人物の子孫への配慮。とっくに死んでいる人間を名指ししても、生きている家族が傷つく。だから言わない。

事件解決としては最悪に近い着地だ。「分かったけど言わない」なんて、ミステリなら読者が本を投げる。でも現実の警察の判断としては、たぶん正しい。証拠がないまま名前だけ出せば、それは捜査じゃなくて私刑になる。

なぜこの事件だけが、眠らないのか

未解決の一家殺害事件は、世界中に山ほどある。それなのにヒンターカイフェックだけが百年も語られ続けているのは、この事件の構造が「怪談の文法」で出来ているからだと思う。

家に向かう足跡だけがある。天井の上で足音がする。鍵がなくなる。見知らぬ新聞が落ちている。前の家政婦が「取り憑かれている」と言って逃げ出す。新しい家政婦が着任初日に死ぬ。そして殺した後も、犯人はその家で普通に暮らす。ひとつひとつが、怪談として完成しすぎている。実話であることのほうが信じられない。

もうひとつは、証拠が全部消えたという事実の重さだ。指紋は取られなかった。現場は荒らされた。農場は事件の翌年に取り壊された。頭蓋骨は戦争でなくなった。関係者は全員死んだ。今のDNA捜査があれば一日で解けたかもしれない事件が、技術が追いつく前に物証を全部失った。悔しさが、この事件をずっと現在形にしている。

そして最後に、7歳のツェツィーリアのことがある。彼女は数時間、暗い納屋で生きていた。母と祖母の遺体のそばで。髪をむしって。この事実がある限り、この事件は「不思議な話」で終わらせられない。誰かがやった。その誰かは、朝になったらパンを食べて日めくりをめくった。それだけは間違いなく本当だ。

四日間、あの家で何をしていたのか

あらためて全体を眺め直すと、この事件でいちばん異様なのは殺害そのものじゃなくて、犯人の「時間の使い方」だと思う。ここを深掘りしたい。

普通、衝動的な殺人は現場滞在時間が短い。計画的な殺人も、計画的であればあるほど現場から早く離れる。ところがこの犯人は真逆をやっている。事件の前に何日も、あるいは何週間も、屋根裏に潜んで下の生活を観察していた。屋根瓦を外して外を見張り、藁を敷いて寝て、足音が響かないように敷物を置いた。そして事件の後も、四日間その家で生活した。前後合わせると、この人物はヒンターカイフェックという場所に、とてつもなく長い時間を投資している。

犯罪心理の観点で言えば、これは目的が「殺すこと」だけじゃない可能性を示している。殺すのが目的なら、屋根裏で何日も過ごす必要はないし、殺した後に家畜の世話をする必要は絶対にない。牛に餌をやる行為には、実利的な意味がほとんどない。あえて意味を探すなら、家畜が騒いで近隣に気づかれるのを防ぐため、という説明はできる。でもそれなら、なぜ日めくりをめくったのか。誰にも見せる必要がないのに。

ここから浮かんでくるのは、この犯人にとってヒンターカイフェックが「奪いたかった場所」だったんじゃないか、という読みだ。人を排除して、その家に住む。家畜に餌をやり、台所のパンを食べ、火を入れ、暦をめくる。それは家主の振る舞いだ。動機が金でも、痴情でも、復讐でもなく、「この家の主になりたかった」だとしたら、四日間の説明はつく。ただこれは俺の読みであって、証拠は一片もない。念のため。

捜査史の観点でも、この事件は教科書に載るべき失敗例だ。1922年時点で、指紋鑑定はすでに実用化されていた。ドイツ警察も導入していた。それなのにヒンターカイフェックでは採られなかった。理由は単純で、現場が壊滅的に汚染されていたからだ。発見者三人が納屋に入り、遺体を動かし、母屋に上がり、台所を使った。その後、近隣の住民や野次馬が現場に出入りしたという記録もある。犯人の痕跡と、見に来た人間の痕跡が、完全に混ざった。当時の田舎の警察に「現場保存」という概念が浸透していなかった、という以上でも以下でもない。

さらに、頭部をミュンヘンに運んで霊能者に見せたという判断。これを笑うのは簡単だが、当時の状況を考えると少し違う見え方もする。1922年のドイツは敗戦とインフレで社会が壊れかけていて、心霊主義がインテリ層にも広く受け入れられていた時代だ。警察が藁にもすがった、というより、当時は霊視も「試す価値のある手法のひとつ」と本気で思われていた側面がある。結果として、それが遺体の科学的再検証の可能性を永久に奪った。良かれと思ってやったことが最悪の結果を生む、という捜査の典型例なんだよな。

もうひとつ考えたいのが、「なぜ誰も助けに行かなかったのか」という点だ。土曜にコーヒー売りが来て返事がなく、日曜のミサに一家が来ず、月曜に子どもが学校を休み、火曜に修理工が四時間半いても誰にも会わない。四日間、少なくとも五人以上がこの農場の異常に触れている。それでも誰も踏み込まなかった。

これは当時の農村社会の距離感を考えるとわかる。ヒンターカイフェックは孤立していただけじゃなく、近親相姦の裁判があった家として村から半ば孤立していた。噂のある家に、用もないのに立ち入りたくない。呼んでも返事がないなら、留守だと思っておく。踏み込むのは失礼だ。その積み重ねが四日を作った。犯人が四日間居座れたのは、この農場が物理的に孤立していたからだけじゃなくて、社会的にも孤立していたからだ。犯人がそれを計算していたなら、相当に地元を知っている。

最後に、この事件の現在地について。ヒンターカイフェックの建物は1923年に取り壊され、跡地には現在、記念の祠と十字架が立っている。訪れる人は今もいる。地元では、事件をエンタメとして消費されることへの複雑な感情がずっとある。2007年の警察学校が容疑者名を伏せた判断も、その延長線上にあると思う。

俺たちがこの事件を語るとき、たぶん一番大事なのは「解けなかった」という結論を受け入れることだ。犯人を当てたくなる気持ちは分かる。俺もある。でも、証拠は焼けて、埋められて、戦争でなくなって、もう戻らない。残っているのは、雪の上の足跡の話と、屋根裏の足音の話と、四日間パンを食べていた誰かの話だけだ。そのわからなさごと保存するのが、この事件に対する一番まともな扱い方なんじゃないかと思っている。だから百年後も、俺たちはあの家の周りを歩き続けている。中には入れないまま。

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