アメリカには「ホッファはどこにいる」という決まり文句がある。誰かが行方不明になったとき、荷物が届かないとき、探し物が見つからないとき、とりあえずこう言っておけば場が持つ。それくらいこの名前は骨の髄まで染み込んでいる。
でも、その冗談の元になった出来事そのものは、まったく笑えない。晴れた夏の午後、デトロイト郊外のレストランの駐車場で、アメリカで最も有名な労働組合の元ボスが、車を停めたまま消えた。それが一九七五年七月三十日。以来五十年、この国は地面を掘り続けている。競技場の下、馬牧場、住宅の私道、野原、そしてニュージャージーの埋立地。掘って、掘って、何も出てこない。
午後二時、待ち合わせ相手が現れないという異常事態
その日の朝、ジミー・ホッファはミシガン州レイク・オライオンの自宅にいた。湖に面した家で、写真の撮影に応じている。六十二歳、白髪混じりの短髪、相変わらずがっしりした体つき。カメラの前に立った彼は、これが最後の写真になるとは思っていない。むしろ逆だ。この夏は彼にとって攻めの季節だった。翌年の組合選挙に向けて、彼は自分の返り咲きを本気で計画していた。
午後一時十五分ごろ、彼は自宅を出た。乗っていたのは緑色のポンティアック・グランヴィル。目的地はブルームフィールド・タウンシップにあるマチュース・レッド・フォックスというレストランだった。ここは高級店で、ドレスコードがある。上着とネクタイがなければ店内には通されない。この日のホッファは、開襟の青いシャツにスラックスという格好だった。つまり、彼は最初から店の中に入るつもりがなかったか、あるいは店側が例外を認める程度の顔だと思っていたか、どちらかだ。この服装のことは、後になって重要な意味を持ってくる。
途中、彼はポンティアックにあるルイス・リントーの事務所に立ち寄っている。リントーはリムジン会社を営む男で、かつてチームスターズのローカル六一四の委員長を務めていた。ホッファとは長い付き合いで、この日の待ち合わせについても事前に相談を受けていたとされる。だがリントーは昼食に出ていて不在だった。ホッファは従業員に伝言を残して、また車に戻る。
午後二時。約束の時刻だ。ホッファの手帳には、その日の欄に短いメモが残っていた。イニシャルと時刻と店の名前だけの、そっけない記述。相手はデトロイトのアンソニー・ジャコロン、通称トニー・ジャック。もう一人、ニュージャージーからアンソニー・プロヴェンザーノ、通称トニー・プロが来ることになっていたとされる。四日前の七月二十六日、ジャコロン兄弟がホッファのもとを訪れ、この会合の話を持ちかけていた。名目は和解の席だった。ホッファとトニー・プロの間には、刑務所の中で始まった深い亀裂があり、それを埋めるための「平和会談」という触れ込みだったのだ。
ところが、誰も来ない。
妻への電話と、四時に焼くはずだったステーキ
午後二時十五分から三十分ごろ、ホッファは店の裏手にある公衆電話から妻のジョセフィンに電話をかけている。この電話の内容が、事件の中でいちばん胸に刺さる部分かもしれない。彼は明らかに苛立っていた。ジャコロンが現れない、と。そして、四時までには家に帰るから、そうしたらステーキを焼く、と言った。
夫婦の会話としてはなんでもない一言だ。だが、この一言があるおかげで、ホッファがその時点で自分の身に何かが起きるとは微塵も思っていなかったことが分かる。彼は帰るつもりだった。肉を焼くつもりだった。夕方の予定が頭の中にあった。そういう人間が、その三十分後に消える。
駐車場での目撃証言はいくつも集まった。彼が車のそばに立っている姿。落ち着かない様子で行ったり来たりしている姿。店の関係者や通りがかりの客が、それぞれ断片的に彼を見ている。有名人だから、見た人は覚えている。そして最も重要な証言として、赤茶色の大型セダン――リンカーンだったかマーキュリーだったか、証言者によって揺れる――の後部座席に、ホッファが他の三人と一緒に乗っているのを見た、という話が出てきた。
FBIの推定では、ホッファが駐車場を離れたのは午後二時四十五分から五十分ごろ。ただしこれには少し厄介な事情がある。リントーは、ホッファからもう一度電話がかかってきたと証言していて、その時刻を午後三時二十分から三十分ごろだと述べた。電話の内容は、待ち合わせ相手が来ないという先ほどと同じ愚痴だった。FBIは他の通話記録との整合性から、この電話はもっと早い時間だったのではないかと疑っている。この三十分から四十五分のずれが、後の説の妥当性を判定する物差しになる。ある告白が正しければ、ホッファはその時刻にはもう生きていないことになるからだ。
翌朝七時二十分、鍵のかかっていない緑のポンティアック
その日の夜、ホッファは帰宅しなかった。妻は待った。深夜になっても帰らない。ホッファは家族に対して連絡をまめにする男だったし、四時に帰ると言った本人である。
七月三十一日の午前七時、ジョセフィンは息子のジェームズと娘のバーバラに電話をかけ、父親が帰っていないことを伝えた。二十分後の午前七時二十分、レストランの駐車場でホッファの車を見つけたのはルイス・リントーだった。緑のポンティアックはそこにぽつんと停まっていて、鍵はかかっていなかった。車内に争った跡はない。血もない。財布も、着替えも、遺書のようなものも、何もない。ただ、主のいない車があるだけだった。
午後六時、息子のジェームズが行方不明者届を提出した。家族は後に二十万ドルの懸賞金を出している。地元警察が動き、州警察が動き、FBIが動いた。誘拐の可能性がある以上、連邦の管轄になる。こうして、アメリカの犯罪史でもとびきり長い捜査が始まった。
そして八月二十一日、捜査は最初の、そしておそらく最大の物証にたどり着く。
犬が反応した車と、四十ポンドの冷凍サーモン
問題の車は、一九七五年式のマーキュリー・マーキー・ブロアム。色は赤茶色。所有者はジョセフ・ジャコロン、アンソニー・ジャコロンの息子だ。この車をその日借りていたのが、チャールズ・オブライエン、通称チャッキー。ホッファが少年時代から面倒を見て、ほとんど養子のように育てた男だった。ただし失踪時点で、二人の関係はかなり冷え込んでいた。
オブライエンは、その日この車で魚を運んでいたと説明した。シアトルから届いた四十ポンドの冷凍サーモンを、知人に届けるために積んでいたのだ、と。この「サーモン」が、事件史上いちばん有名な魚になる。
デトロイトの新聞は当初、車内に血痕があったと報じた。魚の血なのか、人間の血なのか。だがFBIの検査では魚の血の痕跡は出なかったという。一方で、サーモン自体は実在したという記録上の裏付けがある、という主張もある。つまりこの魚は、オブライエンにとってアリバイでもあり、同時に一生ついて回る呪いにもなった。
八月二十一日、警察犬がこの車の中でホッファの体臭を検知した。さらに後部座席から毛髪が回収された。そして二〇〇一年、技術の進歩によって、ホッファのブラシから採取された毛髪と車内の毛髪のDNAが一致することが確認される。ホッファがその車に乗った、という物理的な裏付けが、二十六年遅れで出てきたわけだ。
ただし、この物証には限界がある。ホッファが別の日にその車に乗った可能性を、DNAは排除できない。オブライエンはホッファの身内同然の男で、ジャコロン家とも付き合いがある。同じ車に乗る機会は日常的にあり得た。物証は「乗った」を証明するが「その日に乗った」を証明しない。五十年たっても事件が決着しない理由の縮図が、ここにある。
苺の箱をひっくり返した少年から、二百三十万人のボスへ
そもそもジミー・ホッファとは何者だったのか。ここを飛ばすと、なぜ人々が半世紀も掘り続けるのかが分からなくなる。
ジェームズ・リドル・ホッファは一九一三年二月十四日、インディアナ州ブラジルという小さな町で生まれた。父は炭鉱で削岩機を扱う仕事をしていて、ホッファが七歳のときに亡くなっている。母は子どもたちを連れてデトロイトに移った。大恐慌の入り口で、少年は学校を早々に離れて働きに出る。
彼の伝説の始まりは、食料品チェーンのクローガーの倉庫だった。労働条件は最悪で、荷降ろしの待機時間には賃金が出ない。若きホッファは、生鮮品という弱点を突いた。腐りやすい苺が大量に運び込まれたタイミングを狙って、仲間と一緒に手を止めたのだ。会社側は交渉に応じるしかない。この一件から、彼らは「苺小僧」と呼ばれるようになった。
相手がいちばん困る瞬間を見抜いて、そこに全体重を乗せる。ホッファという人間の設計図は、この十代の一撃にすべて入っている。
やがて彼はチームスターズのローカル二九九に入り、めきめきと頭角を現す。夜通し走るトラックに自分の車を並走させ、休憩中の運転手を叩き起こして組合の話を聞かせる、という荒っぽい勧誘もやった。一九三〇年代初頭に七万五千人ほどだった組合員は、彼が力を持つにつれて膨れ上がり、最盛期には二百三十万人を超える。全米最大の労働組合であり、アメリカの物流の血管を握る組織になった。
彼の最大の功績とされるのが、全米統一トラック輸送協定だ。それまでばらばらだった各地の労働条件を一本の協定にまとめ、全国どこでも同じ基準にした。これは組合員にとっては革命だった。賃金が上がり、時間外の扱いが決まり、年金と医療保険がついてきた。運転手の家族の暮らしが目に見えて変わった。
だからこそ、後に彼が刑務所に入っても、組合員の多くはホッファを裏切り者だと思わなかった。むしろ「俺たちのために国とやり合って潰された男」だと思った。この感情が、失踪後の伝説を何十年も燃やし続ける燃料になる。
全米一の財布と、その金庫番になりたかった人たち
ただし、光の話だけでは終わらない。ホッファが作った組織には、途方もない額の金が集まっていた。中央州年金基金である。全米の運転手たちがこつこつ積み立てた金が、巨大なプールになって銀行のように機能した。そして、この金は貸し出された。ラスベガスのカジノホテルの建設に、リゾート開発に、正規の金融機関が相手にしない案件に。
一九五〇年代から六〇年代のアメリカで、そういう案件の周りに何がいたかは言うまでもない。組織犯罪の側にとって、この基金は夢のような資金源だった。そして組合の側にとっては、組織犯罪は使い勝手のよい実力部隊だった。同業他社の切り崩し、組合内の反対派の黙らせ方、ストライキ現場での押し合い。両者は互いを必要としていた。
ホッファ自身は、自分は組合員のために動いているだけで、必要なら誰とでも取引すると考えていた節がある。この割り切りが彼の力の源であり、最終的に彼を飲み込んだ沼でもあった。
だから、ホッファの立場は単純な「労働組合の委員長」ではない。彼は巨大な金庫の鍵を持つ人間だった。鍵を誰が持つかは、多くの人間の人生と収入に直結していた。この構図を頭に入れておくと、一九七五年に彼が「委員長に戻る」と言い出したことの意味が、まったく違って見えてくる。
ボビー・ケネディという、人生を食い合った天敵
一九五七年一月三十一日、上院に労働・経営分野の不正活動を調べる特別委員会が設置された。委員長の名前からマクレラン委員会と呼ばれる。この委員会の主任法律顧問に就いたのが、当時三十一歳のロバート・F・ケネディだった。
二人の対立は、ほとんど神話の域に入っている。歴史家の見立てでは、この二人は驚くほど似ていた。どちらも体格に恵まれない喧嘩っ早い男で、どちらも自分こそ普通の労働者の味方だと信じていた。だが立っている場所が正反対だった。ケネディはホッファを、組合員を殴りつけて数百万ドルを盗んだ絶対悪だと見ていた。ホッファはケネディを、苦労を知らない金持ちの坊ちゃんが売名のために自分を追い回していると見ていた。
公聴会の場面は語り草だ。上院の公聴会室で、二人は視線を合わせたまま睨み合い、やがてホッファが片目をつぶってみせる。ケネディは深夜まで働いた。ある夜、帰り道に車を引き返して二時間余計に仕事をしたのは、ホッファの事務所の明かりがまだついているのを見たからだった。後年ホッファは、あれはわざと明かりをつけたままにしていたのだと語ったという。相手を消耗させるための小細工だ。この関係は、捜査というより私闘に近い。
一九五七年、ホッファは委員会の内部資料を手に入れようとして贈賄の容疑で逮捕された。だが弁護人エドワード・ベネット・ウィリアムズの手腕もあって無罪になる。この裁判をめぐっては、ケネディが「有罪にならなければ議事堂から飛び降りる」といった趣旨の発言をし、無罪判決の後にホッファ側からパラシュートが送りつけられた、という逸話が語り継がれている。真偽の程度はさておき、二人の関係の温度はこれで十分に伝わる。
ケネディが司法長官になると、司法省の中にホッファ専従の班ができた。世間はこれを「ホッファ狩り班」と呼んだ。委員会時代は見出しばかりで起訴が伴わないと揶揄されたが、司法長官の権限を得た後は執念が形になっていく。
十三年の刑期と、恩赦に付いていた小さな但し書き
一九六四年、ホッファは二つの裁判で有罪になる。テネシー州チャタヌーガでは陪審員買収の罪で八年。シカゴでは年金基金をめぐる共謀と詐欺で五年。合計十三年という重い刑期になり、上訴が尽きた一九六七年、彼はペンシルベニア州のルイスバーグ連邦刑務所に入った。
ここで、彼の運命を決めるもう一つの人間関係が動く。獄中でホッファと同じ時期を過ごしていたのが、ニュージャージーのローカル五六〇を握るアンソニー・プロヴェンザーノだった。トニー・プロは組合幹部であると同時に、ニューヨークの犯罪組織の一員とされていた男だ。かつては互いに利用し合う関係だったが、刑務所の中で決裂する。年金の扱いをめぐる金の話がこじれた、というのが一般に語られる筋書きだ。狭い場所で顔を突き合わせた二人の間で、修復しがたい何かが壊れた。この決裂が、七五年七月三十日の「和解の席」という名目につながっていく。
一九七一年十二月二十三日、リチャード・ニクソン大統領がホッファの刑を減刑した。服役は五年に満たない。だがこれは恩赦ではなく減刑で、有罪判決そのものは消えない。そして、そこには決定的な条件が付いていた。一九八〇年三月六日まで、いかなる労働組合の直接的または間接的な運営にも関与してはならない、というものだ。
この但し書きが、どこから出てきたのか。ホッファ服役中に委員長代行から委員長になっていたのがフランク・フィッツシモンズで、彼にとってホッファの帰還は自分の椅子を失うことを意味した。当時の録音記録からは、フィッツシモンズがホッファを「条件付き」で出すことを望んでいた様子がうかがえる、と報じられている。そして一九七二年の大統領選で、長らく民主党寄りだったチームスターズはニクソン支持に回った。政治と組合と刑務所が、一本の線でつながる。
ホッファは黙っていなかった。この条件は憲法違反だとして訴訟を起こす。だが一九七四年七月、連邦裁判所は大統領には恩赦に条件を付ける権限があるとして彼の訴えを退けた。失踪のちょうど一年前である。
「戻る」と言ってしまった男が背負ったもの
裁判で負けたホッファは、法廷以外の道を探し始めた。条件の解除を求めて動き、同時に、組合内の支持を掘り起こしにかかる。一九七六年の選挙で、フィッツシモンズに挑む。それが彼の描いた絵だった。
そして彼は、そのことを隠さなかった。むしろ大声で言った。組合が汚れている、幹部が組織犯罪と癒着している、自分が戻って掃除する。彼は記者にも語り、講演でも語り、組合員にも語った。息子のジェームズは後年、当時父に危険を訴えたと語っている。父は取り合わなかった。自分は誰も恐れていない、計画通り進める、と言ったという。
ここで、さっきの「金庫の鍵」の話が効いてくる。ホッファの返り咲きは、単なる人事の話ではなかった。彼が委員長に戻れば、年金基金の運用方針が変わる。誰にいくら貸すかの判断が変わる。それまでの数年間に固まっていた利害関係が、根こそぎひっくり返る可能性があった。しかもホッファは、服役中に自分を裏切ったと考えている人間のリストを頭の中に持っていた。彼は忘れる男ではなかった。
息子のジェームズ・P・ホッファは、父の死をこう説明している。彼らは他の方法では止められなかった、父は止められない力そのものだった、と。この見立ては、FBIが内部でまとめた結論とも、実は方向が一致している。
ホッフェックス・メモが書いたことと、どうしても書けなかったこと
失踪から数か月後の一九七六年、FBIは捜査の全体像を整理した五十六ページの内部文書を作成した。事件のコードネームから、ホッフェックス・メモと呼ばれている。長く非公開だったが、二〇〇〇年代に入ってデトロイトの新聞が入手し、広く読まれるようになった。
この文書の結論は身も蓋もない。ホッファは組織犯罪側の意向によって殺された。理由は、彼が組合の政治に復帰しようとしたからだ。要点はそれだけである。
そのうえでメモは、当日の再現を試みている。赤茶色のマーキー・ブロアムを運転していたのはオブライエンで、ホッファは右後部座席にいた、という筋書きだ。根拠は警察犬の反応と後部座席の毛髪。車内からはポンプアクション式の散弾銃と多数の弾も見つかっている。ただしこれらは所有者側の事情による所持である可能性も含めて、決め手にはならなかった。
同時にこの文書は、自分たちに何が足りないかも正直に書いている。誰が実際に手を下したのか、遺体をどう処理したのか、そこは分からないか、分かっていても法廷で証明できない。この「知っているが証明できない」という状態こそ、ホッファ事件の本体だ。
一九七五年十二月には、連邦の捜査官が議会の場で、ある目撃者がニュージャージーの三人の男――トーマス・アンドレッタ、サルヴァトーレ・ブリグリオ、ガブリエル・ブリグリオ――をホッファの拉致と殺害に関与した者として特定した、と述べている。三人はいずれもプロヴェンザーノに近い人物とされた。だが、この線でも殺人罪の起訴には至っていない。誰一人としてホッファ殺害で有罪になっていない。これは五十年たった今も変わらない事実だ。
一九八九年、当時のFBIデトロイト支局長ケネス・ウォルトンが残した言葉が、この事件の空気を最もよく表している。誰がやったかは自分の中では納得している、だが起訴されることはないだろう、なぜなら情報提供者や秘匿された情報源を法廷で明かさなければならなくなるからだ、という趣旨の発言だ。捜査機関が「知っている」と言いながら「終われない」と言う。事件は、そこで凍りついた。
掘る、掘る、掘る――半世紀の穴の記録
ここからが、この事件をアメリカ的な現象にした部分だ。人々は、掘った。
最初の大がかりな捜索は失踪の年の秋、一九七五年十月に行われている。ミシガン州司法長官フランク・J・ケリーの指揮で、ウォーターフォード・タウンシップが掘られた。きっかけは情報提供者からのタレコミで、その中身が興味深い。マフィア側がホッファの遺体を「見つけさせたがっている」というのだ。遺体が出ないことで捜査の圧力が続くよりも、出てしまったほうが都合がいい、という理屈である。結果は空振りだった。
七〇年代には、カリフォルニア州ガーデナのポーカークラブの敷地も掘られている。地元の事業者との交渉がもつれたという噂が根拠だった。出てきたのは土だけで、その土地はのちにカジノになった。
二〇〇三年にはミシガン州ハンプトンで、匿名の通報に基づいてプールの裏庭が調べられた。何も出なかった。
二〇〇四年には、後で詳しく触れるフランク・シーランの供述に基づいて、デトロイト市内のビーバーランド通りにある住宅が調べられている。床板が剥がされ、ルミノールが撒かれ、そこで実際に反応が出た。この件は独立した章に値するので、後で書く。
二〇〇六年五月、FBIはミシガン州ミルフォード・タウンシップにある馬牧場を捜索した。この土地は、チームスターズの幹部だったローランド・マクマスターがかつて所有していたものだ。きっかけは、連邦の拘置施設にいたドノヴァン・ウェルズという人物からの情報だった。FBIは納屋を解体し、重機を入れ、二週間にわたって土をひっくり返した。費用はおよそ二十五万ドル。マクマスター本人は関与を否定し、当日は組合の用事でインディアナにいたと述べている。結果は、何も出ず。この捜索の映像は全米に流れ、「またホッファか」という空気を決定づけた。
二〇一二年九月、ミシガン州ローズヴィルで、ある住宅の私道が調べられた。近隣の男性が、一九七五年ごろにそこに遺体が埋められるのを見たと証言したためだ。地中レーダーで土の異常が検出され、警察が土壌サンプルを採取した。ミシガン州立大学の人類学者が分析したが、人骨は出なかった。
二〇一三年六月十七日、FBIはミシガン州オークランド・タウンシップの野原を掘った。情報源はトニー・ゼリリという、デトロイトの組織の元幹部とされる人物だ。彼はその年の一月、ホッファは北オークランド郡の浅い墓に埋められ、後で別の場所に移す計画だったが、その計画が実行されなかった、と語っていた。ゼリリの弁護士は掘削現場で、遺体はあの野原にある、間違いない、と断言した。かつて納屋があった場所のコンクリート板が目印だという。二十人ほどの捜査官が野原の中央付近に張りついた。三日後、捜索は打ち切られた。何も出なかった。
ジャイアンツ・スタジアムという、いちばん有名な嘘の作られ方
そして、この事件で最も広く知られている場所は、実際には一度も本気で捜索されなかった場所だ。ニュージャージー州イーストラザフォードのジャイアンツ・スタジアム。エンドゾーンの下にホッファが埋まっている、という話である。
出所ははっきりしている。一九八九年、ドナルド・フランコス、通称トニー・ザ・グリークという男が、男性誌のインタビューで自分は殺害に関与したと語った。彼の話によれば、ホッファは撃たれた後にばらばらにされ、ドラム缶に詰められてニュージャージーに送られ、コンクリートに封じ込められたという。
この話には無数の穴がある。まずホッファはデトロイトで消えた。デトロイト近郊には遺体を消すのに便利な場所がいくらでもある。わざわざ数百キロ離れた州の建設現場まで運ぶ理由がない。しかもホッファはアメリカンフットボールとも、ジャイアンツとも、イーストラザフォードという町とも、フランコスが指定した座席番号とも、何の縁もない。さらにフランコス本人が本当に殺し屋だったのか、そもそもホッファと会ったことがあるのかすら、はっきりしない。FBI側の関係者は、フランコスが持ち込んだ話はホッファについて書かれた本や記事から誰でも再構成できる範囲を出ていなかった、という趣旨の評価を残している。
にもかかわらず、この話は生き残った。理由は単純で、絵として強すぎるからだ。日曜日の午後、何万人もの観客が飛び跳ねている、その真下に組合のボスが埋まっている。この構図はコメディアンにとって宝物で、脚本家にとって使い勝手がよく、三十年にわたって繰り返された。二〇〇三年には人気検証番組が地中レーダーで走査して何も見つからないことを示し、二〇一〇年にはスタジアム自体が解体されたが、当然のように何も出なかった。それでも、この冗談はまだ死んでいない。ここに、この事件のもう一つの本質がある。反証されても、面白い話は消えない。
ニュージャージーの埋立地と、父の死の床で語られた話
二〇二一年、事件はもう一度だけ全国ニュースの一面に戻ってきた。
きっかけは、五十年にわたってこの事件を追い続けてきた調査ジャーナリスト、ダン・モルディアのもとに持ち込まれた話だった。ニュージャージー州ジャージーシティにあった民間の埋立地で働いていた男が、死の床で息子に打ち明けた、という筋の情報だ。息子は父から聞いた話を書き残し、それがモルディアに渡り、モルディアはそれをFBIに伝えた。
その話によれば、ホッファの遺体はスチールドラムに入れられ、埋立地の地中およそ十五フィートの深さに埋められた。場所は、ニューアークとジャージーシティを結ぶプラスキ・スカイウェイという高架道路の下あたり。この橋の名前は、二〇二一年の秋、アメリカ中のニュース番組で連呼されることになった。
FBIは捜索令状を取り、十月二十五日と二十六日に現地の調査を実施した。掘るのではなく、まずは非破壊の地中調査だ。土地の一部は道路管理当局の管轄下にあり、環境上の問題も抱えている場所で、手続きは簡単ではなかった。そしてFBIは取得したデータの解析に入った。
二〇二二年七月、答えが出た。証拠としての価値があるものは何も発見されなかった、という発表である。掘るところまで行ったのか、走査の段階で打ち切ったのかについては、当のジャーナリスト側から捜索のやり方が不十分だという批判も出ている。彼は五十年の取材の蓄積を根拠に、自分の報告は間違っていないと主張し続けている。いずれにせよ、公式にはまた一つ、空振りが記録された。
「私は家を塗った」という告白と、その周りに立った反証の壁
さて、いちばん有名な告白の話をしよう。
フランク・シーランは、ペンシルベニアの組合幹部で、第二次世界大戦の従軍経験があり、体格の大きなアイルランド系の男だった。ホッファとも、ペンシルベニアの組織の実力者ラッセル・ブファリーノとも親交があった。彼は二〇〇三年に亡くなる前、弁護士で作家のチャールズ・ブラントに長時間の告白を行い、それが二〇〇四年に本になった。原題は、業界の隠語をそのまま使ったものだ。「あんたは家を塗るそうだな」というのは、壁に血が飛ぶ仕事、つまり殺しを請け負う人間かという問いかけを意味する、とされる。
シーランの語ったところによれば、彼は当日ホッファを車で拾い、デトロイトの一軒家に連れて行き、そこで自分がホッファを撃った。遺体はその後、州外の火葬施設に運ばれて灰にされた。彼はこの話を、ブファリーノの指示だったという文脈で語っている。
この告白がなぜ強い印象を残すか。まず、告白者が自分の罪を認めているという形式が持つ説得力がある。次に、細部が妙に具体的だ。そして何より、二〇一九年にマーティン・スコセッシがこの本を原作に映画を作り、ロバート・デ・ニーロがシーランを、アル・パチーノがホッファを、ジョー・ペシがブファリーノを演じた。三時間半の映画は世界中で観られた。多くの人にとって、ホッファ事件の「答え」はこの映画の中にある。
だが、専門家の評価はほぼ真逆だ。
反証の中でも重いのは、シーラン自身の過去の発言である。一九七八年、彼はFBIの情報提供者に対して、あの日自分はデトロイトになどいなかった、ウィルクスバリにいた、という趣旨の話をしていたことが記録に残っている。後年の告白と、決定的に矛盾する。
次に時系列の問題。シーランは午後二時四十五分ごろにホッファを拾い、九マイルほど離れた場所で殺した、という筋で語っている。ところが前述の通り、ホッファはその後の時刻にリントーに電話をかけたとされている。この電話の時刻が正しければ、シーランの供述は物理的に成立しない。逆に言えば、シーラン説を守るためには、リントーの記憶が間違っていたと仮定する必要がある。
服装の問題もある。シーランは会合がレストランの店内で行われたかのように語る部分があるが、ホッファはその日、上着もネクタイも着けていない。店のドレスコードでは店内に入れない格好だった。実際、目撃証言はすべて駐車場のものだ。
さらに、シーランの供述の裏づけとされた重要な手書きメモについて、当時の捜査に当たったFBIの捜査官たちは、そんなものを発見した記憶はないと否定している。
そして物証だ。二〇〇四年、報道機関の取材班が、ミシガン州の元州警察捜査官らからなる法医学チームと、著者本人を伴って、シーランが名指しした家に入った。ルミノールを使った検査で、一階の玄関ホールと廊下に反応が出た。番号を書いた小さな札がいくつも床に並べられた。五十点の検体のうち二十八点が陽性だった。すごい話に聞こえる。
だが結末は違った。FBIの研究所がDNAを取り出せたのは二十八点のうちわずか二点。うち一点は男性由来と判明したが誰とも照合できず、もう一点はほぼ判定不能だった。そして最終的に、そこにあった血はホッファのものではないという結論が示された。二十九年という時間と環境劣化を考えれば一致が出るほうが奇跡だ、という留保はつく。それでも、シーラン説を裏づける物証にはならなかった。
事件の主任捜査官だった人物は、シーランのビデオ告白について、記録を作ろうとする笑ってしまうほど痛々しい試みだ、という趣旨の評価を残している。当時の捜査に関わった他の捜査官たちも、シーランの話を支える証拠は知らないと述べている。
念のために書いておくが、シーランの話が嘘だと確定したわけでもない。誰も殺人罪で有罪になっていない以上、この事件について「これが真相だ」と言い切れる人間は存在しない。分かっているのは、彼の告白が複数の独立した点で既存の記録と食い違っている、ということだけだ。そして、これはシーランに限らず、この事件のすべての「告白」に当てはまる基準でもある。
語る人が多すぎる事件――他の告白者たちと、その落ち方
ホッファ事件には、自分がやったと言った人間、あるいは自分は真相を知っていると言った人間が異様に多い。理由は分かりやすい。この事件を語れば、名前が売れる。本が出る。刑務所の中の人間にとっては、当局と取引する材料になるかもしれない。
一九八二年には、チャールズ・アレンという人物が上院の委員会で、ホッファの遺体はドラム缶に入れられてフロリダの湿地帯に沈められた、という趣旨の証言をしている。連邦側はこれを信用に足りないとして退けた。
冷凍殺し屋という異名で知られたリチャード・ククリンスキーは、獄中で、四人組がホッファを拉致して殺したという話を語った。彼は自分の関与を含めて詳細に語ったが、元FBI捜査官はこれを作り話だと切って捨てている。捜査当局の一般的な見方でも、彼の関与は考えにくいとされている。
ゼリリの話は前に書いた通りで、実際に掘削まで行ったが空振りだった。
こうした告白の共通点は、いずれも既に公表されていた情報の範囲を出ないことだ。つまり、新聞と本を熱心に読めば誰でも組み立てられる。捜査機関が「真犯人しか知り得ない情報」を握っている場合、そこと照合すれば嘘は見抜ける。この事件で告白が次々に沈んでいくのは、当局がまさにそれをやっているからでもある。
それでも残る、いくつかの筋の通った説
では、まともに検討する価値がある説はどれか。
いちばん厚みがあるのは、組合復帰を阻止するための殺害という説だ。動機がはっきりしていて、複数の独立した情報源が同じ方向を指していて、FBIの内部文書もこの結論を書いている。息子のジェームズ・P・ホッファも、デトロイトの兄弟と当時の委員長が関わる筋を主張してきた。ただし、これは「なぜ」の説明であって「誰が手を下したか」の証明ではない。ここが決定的に弱い。
次に、当日の車の説。ホッファが警戒せずに乗り込む相手は限られていた、という発想から、身内同然の人物が運転していたのではないかという見立てが長く支持されてきた。だが、この線には強い反論がある。担当した元検察官は、それほど重大な仕事を任せるには当人は信頼できる人材ではなかったはずだ、と指摘し、別の顔なじみが同行していた可能性を挙げている。加えて、当人の継子にあたる法学者が長年にわたって記録を洗い直し、彼は何も知らなかったと主張する本を出した。魚の話にも記録上の裏づけがあるとされる。事件を分かりやすくするために誰か一人に役を押しつける、という力学が最も強く働いたのが、この部分だ。
三つ目に、火葬あるいは焼却による遺体の消失説。これは場所ではなく方法の話で、掘っても出てこない理由を説明する。デトロイト周辺には、当時、組織と関係が取り沙汰された廃棄物処理の施設が存在した。専門家の間でも、遺体はすでに存在しない形になっているという見方は近年かなり有力になっている。これに対する反論は、当日の段取りとしてそこまで手際よく処理できたのか、という点に集中する。ただし、あらかじめ準備していたなら不可能ではない、という再反論もある。
四つ目に、埋立地説。ニュージャージーであれ、デトロイト近郊であれ、大量の産業廃棄物の下は、掘り返しても回収が絶望的な場所だ。二〇二一年の捜索はこの線だった。空振りに終わったが、この説自体が否定されたわけではない。
五つ目に、少し毛色の違う偶発説がある。州の捜査官だったヴィンセント・ピアサンテは、そもそも殺すつもりではなく、格下の使いを寄越して屈辱を与えるだけの段取りだったのが、ホッファの気性のせいで最悪の方向に転んだ、という見方を示した。ホッファという人物の短気を知る者ほど、この説を無視できない。ただし賛同者は多くない。
そして、掘り尽くされた末に出てきた変化球もいくつもある。地元の別の人物の家に埋められたとする研究者の見立て、輸出される車の中に入れられたとする話、はてはホッファは生きていたという類の説まで。最後のものは、失踪当時から家族が最も嫌った種類の噂だった。
語った人たちの言葉を、そのまま置いておく
証言というものは、要約すると死ぬ。だからここでは、この事件をめぐって人が語った内容を、少し長めに書いておきたい。
まず息子のジェームズ・P・ホッファ。彼は父と同じ組合で弁護士として働き、後に自分自身が委員長になった。彼が繰り返し語ってきたのは、犯人の名前よりもむしろ、家族に残された空白のことだ。自分たちには墓がない、と彼は言う。墓がないということが人間にとってどれほど大きいか、それは経験しないと分からない、と。父への愛情は残っているが、それ以外に何が残っているのか、心に穴が開いたままだ、とも語っている。
母のジョセフィンについては、失踪から五年後に亡くなり、それは心が壊れたからだと彼は考えている。彼女は最後まで立ち直れなかった。この語りには、犯人捜しの熱狂とはまったく別の温度がある。そして彼は五十周年に合わせて、政府に対し、この事件に関する連邦の記録を公開してほしいと求めた。捜査が終わらないなら、せめて何が調べられたのかを見せてほしい、という要求だ。
次に、FBIデトロイト支局の責任者だったケネス・ウォルトン。一九八九年、失踪から十四年が経った時点での発言が、この事件の骨格を言い当てている。自分は誰がやったのかについて納得のいく答えを持っている。しかしそれが起訴されることはないだろう。なぜなら法廷に出れば、情報提供者や秘匿された情報源を明かさなければならなくなるからだ。
この一言には二つのことが同時に入っている。捜査は失敗していない、という自負と、それでも司法的には決着しない、という諦めだ。捜査機関が事件について語る言葉として、これほど苦い種類のものは珍しい。生きた情報源を守るために、事件を未解決のまま置いておく。倫理的には理解できるが、遺族にとってはどう聞こえるだろうか。
三人目は、少し変わった立場の人物だ。ハーバード大学のロースクールで教え、かつて司法省の要職にあった法学者ジャック・ゴールドスミス。彼の継父が、この事件で最も長く疑われ続けてきたチャッキー・オブライエンだった。彼は若い頃、継父の出自を嫌って距離を取り、姓まで変えた過去がある。
その彼が中年になってから、大量の記録と関係者の証言を集め直した。そして、映画によって一人の男に永久に疑いが固定されてしまうことへの強い危機感を書き記した。誰がホッファを殺したにせよ、この映画は無実の人間に対する疑いを何十年も焼き付けることになる、という趣旨だ。彼は自分の立場が中立でないことを隠していない。それでも彼が並べた九つの疑問点は、感情論ではなく記録に基づいている。時系列の矛盾、過去の発言との食い違い、存在しないとされる証拠物、服装の問題。彼は最終的に、継父はあの日何が起きるか知らなかったと自分は九分九厘確信している、という言い方をしている。九分九厘。残りの一厘を捨てないところに、この人の誠実さが出ていると思う。
四人目として、二〇〇四年に例の家に入った取材班の話も残しておきたい。報道記者と番組プロデューサー、そして本の著者が、ミシガン州の元州警察の捜査経験者たちと一緒に、住宅の中でルミノールを噴霧した。暗くした室内で、床が青白く光る。番号札が並べられていく。玄関ホール、廊下。五十点の検体を採取し、二十八点が陽性反応を示した。その場にいた人間の興奮は想像できる。三十年近く誰も触れなかった床から、何かが出てきたのだ。
だが最後に残ったのは、DNAが取れた二点だけで、それもホッファのものではなかった。この一連の流れは、この事件の縮図でもある。強い手応え、大量の報道、そして静かな否定。それを五十年繰り返してきた。
五人目、ジャーナリストのダン・モルディア。彼は二十代からこの事件を追い、組合と組織犯罪の関係を扱った本を出し、以来半世紀にわたって取材をやめていない。二〇二一年の埋立地の情報も、彼の手元に届いて彼がFBIに渡した。五十周年に際して彼が書いたのは、要約すればこういうことだ。自分は五十年間この呪われた事件を報じてきたし、その報道の内容を今も撤回するつもりはない。捜査機関のやり方には言いたいことがある。
一人の記者が人生の大半をひとつの失踪事件に捧げるというのは、常識的に考えれば異常なことだ。だが、この事件にはそういう人間を何人も生み出してきた磁力がある。
掲示板とSNSで、この事件はどう遊ばれ、どう検証されてきたか
インターネット以前から、ホッファはアメリカの定番ジョークだった。だからネットに移行してからの動きも早かった。未解決事件を扱う海外の掲示板コミュニティでは、ホッファ事件は定期的に立ち上がる定番の議題で、しかも他の未解決事件と違って「新情報がほぼ出ない」という特徴がある。だから議論は、新事実の検討ではなく、既存の材料の解釈をめぐる論争になりがちだ。
考察界隈で最も支持を集めているのは、遺体はもう存在しないという立場だ。土に埋めたなら五十年のうちのどこかで出ているはずだ、これだけ掘って出ないなら埋まっていないのだ、という消去法である。焼却か、産業廃棄物の底かのどちらかだろう、と。この見方は専門家の近年の傾向とも一致していて、掲示板の集合知が悪くない線を出している例だ。
これに対する反論もちゃんとある。掘られた場所は結局のところ、誰かの証言に基づいた点でしかない。デトロイト都市圏の広さを考えれば、掘っていない場所のほうが圧倒的に多い。出ないことは、埋まっていないことの証明にならない。この指摘は統計的には正しい。
映画公開後の反応は、界隈の力学がよく見える現象だった。二〇一九年の映画が配信されると、事件に初めて触れた層が大量に流入し、「もう犯人分かってるじゃん」という書き込みが増えた。それに対して、以前から追ってきた層が反証を並べる、という構図が延々と繰り返された。法学者の書いた批判記事や、雑誌に載った検証記事が何度も貼られ、原作の出版元が反論を出し、それにまた反論が出た。この論争で面白いのは、映画の質を否定する人がほとんどいなかったことだ。傑作であることと、事実であることは別だ、という整理が比較的早く共有された。
日本語圏の反応も少し触れておく。日本の掲示板やまとめサイトでは、ホッファ事件は「アメリカの都市伝説」の枠で紹介されることが多く、ジャイアンツ・スタジアムの話が事実として書かれているケースが今でもある。労働組合と組織犯罪の癒着という背景が日本の読者に馴染みにくいこともあって、政治的な文脈が抜け落ちて、猟奇的な失踪譚として消費されやすい。二〇二一年の埋立地捜索のときも、日本語の反応の多くは「まだ探してるのか」という驚きだった。半世紀にわたって国家機関が一人の行方を追い続けるという事実そのものが、外から見ると異様に映るのだと思う。
陰謀論寄りの説も一通り揃っている。ケネディ暗殺との関連を語るもの、政府が真相を握り潰しているとするもの、ホッファは保護されて別人として生きたとするもの。最後のものについては、彼の性格を知る人ほど否定的だ。ジミー・ホッファという男が、名前を捨てて静かに暮らすところを想像できる人はいない。
映画と本が塗り替えてしまった、事件の顔
この事件の姿は、二度大きく塗り替えられている。
一度目は一九九二年、ジャック・ニコルソン主演の伝記映画だ。監督はダニー・デヴィートで、自身も相棒役で出た。この映画のホッファは、荒々しくて、口が悪くて、でも組合員のために体を張る男として描かれている。ラストの描き方は、ある意味で潔い。真相が分からない事件を、分からないまま撮ったのだ。この映画は、労働運動としてのホッファ像を一般に広めた点で意味があった。
二度目が二〇一九年の映画だ。こちらは事情が違う。原作が一人の男の告白であり、その告白が事実として提示されている。つまり、この映画は「答え」を提示してしまった。しかも作り手が超一流で、俳優が超一流で、上映時間が長く、じっくり描かれている。人間の記憶は、精緻に描かれた映像に勝てない。今この事件を検索する人の多くが最初に触れるのは、あの映画の場面だ。
この構造がなぜ問題かというと、この事件は誰も有罪になっていないからだ。映画に登場する人物には実在の人がいて、その中には遺族がいる。長年疑われながら一度も起訴されなかった人物がいる。物語が事件を追い越すと、法廷が果たすはずだった役割――疑いを検証して、証明されなければ引き下がる――が丸ごと省略される。前述の法学者が声を上げたのは、まさにこの点だった。
一方で、書籍の側にはもっと地道な仕事もある。組合と組織犯罪の関係を七〇年代から調べ続けた記者の本、ケネディとホッファの闘争を丹念に再現した歴史書、そしてチャタヌーガの裁判だけを掘り下げた研究書。これらは映画ほど読まれないが、事件の骨格を作ってきたのはこちらだ。物語が広がりすぎたときに、事実に戻る道を残しておくのは、こういう仕事である。
なぜ、五十年たっても掘るのをやめられないのか
ここまで書いてきて、結局この問いに戻ってくる。
理由の一つ目は、身も蓋もないが、遺体がないからだ。人間は、遺体があると納得する。なくても事件は解決するが、心は解決しない。掘るという行為は、捜査であると同時に、儀式なのだと思う。何かが出てくるまで、この話は終われない。
二つ目は、答えが「知られているのに証明されていない」という中途半端な形で止まっていることだ。まったく分からない事件なら、人は諦める。だがこの事件では、捜査機関の側が「分かっている」と言ってしまった。分かっているのに終わらない、という状態は、人間の心にとって最も座りが悪い。だから、決定的な一片を探しにいく。
三つ目は、この事件がアメリカという国の自己像に触れているからだ。労働者のために戦った男が、その戦いのために組織犯罪と手を組み、最後にその手に消された。これは一人の男の物語であると同時に、二十世紀のアメリカ労働運動そのものの寓話でもある。組合が力を持ちすぎた時代、その力が何と結びついていたか、そして誰がそれを解体していったか。ホッファを掘るということは、その時代を掘るということでもある。
四つ目は、単純に、話として強すぎるからだ。真昼の駐車場、待ち人来たらず、妻への電話、四時に焼くはずだったステーキ、鍵のかかっていない車。この配置は、どんな脚本家が考えても出てこない完成度をしている。だから五十年語られ、これからも語られる。
そして二〇二五年七月、失踪から五十年の節目に、FBIデトロイトは声明を出した。捜査は今も継続している、信頼できる手がかりはすべて追う、情報を持っている人は連絡してほしい、と。半世紀前の失踪について、国家機関が今も公式に情報提供を呼びかけている。この事実そのものが、この事件の異常さを物語っている。
同じ日、息子は連邦政府に対し、父に関する記録の公開を求めた。事件を知る世代は年々減っていく。当時三十代だった捜査官は今や九十代だ。証言できる人間がいなくなる前に、記録だけでも残してほしい、というのが遺族の切実な願いだった。
穴はまだ掘られるだろう。またどこかで、誰かの親が死の床で何かを語り、その話が記者に渡り、令状が出て、重機が入る。そして高い確率で、何も出てこない。それでもやる。ジミー・ホッファは、まだアメリカのどこかにいることになっている。
情報が足りないのではない、多すぎるのだ
改めて全体を並べ直すと、この事件の異様さは「情報が足りない」ことではなく「情報が多すぎる」ことにあると分かる。目撃者はいた。物証もあった。動機は明快で、容疑をかけられた人物の名前も早い段階で挙がっていた。FBIは失踪から一年以内に内部文書で結論を書いている。普通の事件なら、ここまで揃えば裁判が始まる。それが始まらなかった。ここに、この事件の本当の構造がある。
その構造の中心にあるのは、証明という手続きの厳しさだ。捜査機関は情報提供者を通じて多くを知った。だが情報提供者は法廷に立てない。立たせれば命がなくなるか、少なくとも今後の捜査網が全部つぶれる。この取引を五十年間続けた結果、事件は「捜査上は解決、司法上は未解決」という奇妙な状態で固定された。
そして遺体が出れば、この均衡は崩れる。物証が一つあれば、生きた情報源に頼らずに立件できたかもしれない。だから掘る。掘る行為は、実は法廷に持ち込むための最後の希望だった。もっとも、容疑をかけられた世代の人間はすでにほぼ全員が亡くなっている。今から誰かを裁くことは事実上できない。だとすれば、現在の捜索の目的は起訴ではなく、記録を確定させることに移っている。遺族に墓を作らせること、歴史に句点を打つこと。それだけのために、国家機関はまだ動いている。
もう一つ、五十年を通して見えてくるのは、証言というものの脆さだ。この事件では、告白のたびに捜索が行われ、そのたびに空振りした。共通していたのは、告白者が語ったのは「自分の記憶」ではなく「自分が読んだ話の再構成」だった可能性が高い、という点である。
人は語りたがる。特に、語れば注目される事件については。刑務所の中の人間、余命の短い人間、名前を残したい人間。彼らにとってホッファ事件は、参加権が誰にでも開かれた物語だった。捜査機関はそのたびに真面目に対応せざるを得なかった。無視して、もしそれが本物だったら取り返しがつかないからだ。この非対称性――嘘の代償は小さく、見逃しの代償は大きい――が、五十年分の穴を掘らせた。
誰一人、この事件で有罪になっていない
だからこそ、この記事で何度でも確認しておきたいのは、名前を挙げられた人たちの立場だ。
トニー・ジャックも、トニー・プロも、ニュージャージーの三人組も、そしてチャッキー・オブライエンも、ジミー・ホッファ殺害で有罪になっていない。一人もだ。彼らについて語られてきたのは、あくまで「そういう説がある」「そういう証言があるが裏づけはない」という次元の話でしかない。
特にオブライエンについては、当時から半世紀にわたって世間の視線を浴び続け、最後まで起訴されなかった。彼を弁護する立場の人間が身内であるという事情は差し引くべきだが、その人物が持ち出した記録上の反証は、身内かどうかとは無関係に検討されるべきものだ。
フランク・シーランの告白についても同じで、彼の話が本当である可能性を完全には消せない一方、複数の記録との食い違いが指摘されている以上、それを「解決」と呼ぶことはできない。映画が与えた確信は、証拠が与えた確信ではない。この区別だけは、絶対に崩してはいけないと思う。
視点を引いてみると、この事件は「一人の男が消えた話」であると同時に、「アメリカの労働運動が最も強かった時代の終わり方」を象徴する話でもある。ホッファがいた頃のチームスターズは、大統領選の行方を左右し、全米の物流を止められる組織だった。その力を維持するために、彼は誰と手を組んでもいいと考えた。組合員の暮らしは実際に良くなったし、それは今も評価されるべき成果だ。
だが、力の使い方に例外を作った瞬間、その例外は組織の内部に住みついた。彼が最後に戦おうとした相手は、かつて自分が招き入れたものだった。復帰を宣言し、組合を掃除すると公言した時点で、彼は自分が作った仕組みそのものと正面からぶつかることになった。四時にステーキを焼くつもりだった男が、その日の午後に消えたという事実は、この皮肉をあまりにも鮮やかに示している。
掘っているのは遺体ではなく、切断された午後の続きだ
最後に、なぜ日本にいる私たちがこの話に引き込まれるのかも考えておきたい。
組合と犯罪組織の癒着という背景は、正直、日本の読者には遠い。それでも心に残るのは、細部が生活の匂いを持っているからだ。開襟シャツ、公衆電話、待ち合わせに遅れる相手への苛立ち、家族に告げた帰宅時刻、夕飯の献立。事件の中心にあるのは、権力でも陰謀でもなく、ありふれた夏の午後である。
その午後が突然切断され、五十年たっても続きが来ない。人が惹きつけられるのは、たぶんその感覚のほうなのだと思う。掘っているのは遺体ではなく、切断された午後の続きなのだ。だからきっと、次の穴も掘られる。
