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ジョン・ウェイン・ゲイシー――誕生日会でピエロを演じた「いい人」の家の床下から、二十九人が出てきた

シカゴの北西、ノーウッドパーク・タウンシップという名前の、地図の上ではどうということもない住宅地がある。

一九七〇年代、そこのサマーデイル通り八二一三番地には、みんなが「いい人」と呼ぶ男が住んでいた。除雪機を出して近所の家の前の雪をどけてくれる。工具を貸してくれる。夏には裏庭で大きなバーベキューをやって、多い年には四百人が集まった。地元の民主党の集まりにも顔を出していて、ポーランド憲法記念日のパレードでは実行委員長までやっていた。おまけに休みの日には、自前で考えたピエロの衣装を着て、慈善イベントや小児病棟に出かけていく。

名前はジョン・ウェイン・ゲイシー。ピエロとしての名前は、ポゴ。

一九七八年十二月二十一日の夕方、その家の床下に鑑識官が這い込んだ。三十分もしないうちに、彼は暗がりの中から叫んでいる。ここは子どもでいっぱいだ、と。

最終的にこの家の敷地からは二十九人分の遺体が出た。床下から二十六人、庭とガレージの下から三人。さらに川から四人。合計三十三人。当時のアメリカで、一人の人間が有罪とされた殺人としては最多だった。

以下、その三十三人がどうして七年近くも「行方不明のままの若者たち」でいられたのか、どうやって発覚したのか、法廷で何が争われたのか、そして半世紀近く経ったいまも身元がわからないままの人たちがどうなっているのかを、できるかぎり細かく追いかけていく。ついでに、この事件がなぜ「殺人ピエロ」という怪物のイメージを世界中にばらまくことになったのかも。

殴られて育った子どもが、なぜ「みんなに好かれる人」を目指したのか

一九四二年三月十七日、シカゴのエッジウォーター病院生まれ。父はジョン・スタンリー・ゲイシー、自動車修理の機械工で第一次大戦の従軍経験があり、酒を飲んで家族を殴る種類の父親だった。母のマリオンは専業主婦。姉と妹に挟まれた、一人息子。

伝記的な資料に共通して出てくるのは、父から浴びせられ続けた「お前はバカだ、間抜けだ」という言葉と、母が庇うたびに「マザコン」「そのうち男みたいじゃなくなるぞ」となじられた記憶だ。四歳のとき、車のエンジン部品をいじって壊しかけただけで殴られた。九歳ごろには近所の家族ぐるみの知人から性的な被害を受けているが、父に言えばもっとひどいことになると思って黙っていた。

体は太っていて運動は苦手、しかも心臓に問題があると言われてスポーツを禁じられている。小学四年ごろから原因のはっきりしない失神の発作が出るようになり、十四歳から十八歳のあいだに合計で一年ぐらい入院した。父はそれすら仮病だと疑い、病室のベッドに寝ている息子に向かって嘘つき呼ばわりしたと伝えられる。

ここから先を「かわいそうな生い立ちだったから」と因果でつなぐ話にはしたくない。虐待を受けて育った人間の圧倒的多数は誰も殺さないからだ。

ただ、あとで効いてくる要素として押さえておきたいことがひとつある。ゲイシーは十代のうちから、外の世界に向かって「認められる自分」を作る才能を異様に伸ばしていった。十八歳で民主党候補の副地区責任者をやり、青年会議所に入れば猛烈に働いて役職を取り、刑務所に入ってさえ模範囚として表彰される。褒められる場所を嗅ぎ分けて、そこで最短距離で評価を積み上げる。この能力が、のちに七年ぶんの死角を作ることになる。

アイオワの「優秀な若手」が、十年の刑を十八か月で出てきた話

一九六四年九月、ゲイシーは同僚のマーリン・マイヤーズと結婚する。妻の父がアイオワ州ウォータールーでフライドチキンのフランチャイズ店を三軒買い、その経営を任された。年収一万五千ドルに利益配分つき。息子と娘が生まれ、本人があとで「完璧だった」と振り返る数年間がここにある。父からも「息子よ、お前のことは誤解していた」と謝られたという。

その裏で、ゲイシーはウォータールーの青年会議所の中でも羽振りのいい存在になっていた。会合では自分のことを「大佐」と呼ばせたがった。

そして一九六七年八月、地元政治家の息子である十五歳の少年に性的加害をおこなう。翌年三月、被害を受けた少年が父親に打ち明けたことで警察が動き、ソドミー罪などで起訴された。ゲイシーは証言を封じるために従業員に金を渡し、その少年を襲わせている。従業員は自白して雇い主の名前を出した。

一九六八年九月、アイオワ大学での精神鑑定は「反社会性パーソナリティ障害」と結論し、治療で改善する見込みは低く、今後も繰り返し社会と衝突するだろうと書いた。裁判能力はあるとされた。十二月三日、懲役十年でアナモサ州立刑務所へ。同じ日に妻が離婚を申し立て、翌年九月に成立している。ゲイシーは以後、最初の妻にも二人の子どもにも一度も会っていない。

刑務所での彼は、恐ろしく優秀だった。

数か月で調理場の責任者になり、囚人の青年会議所支部の会員を五十人から六百五十人に増やし、ミニチュアゴルフ場の設置まで実現させて表彰を受ける。高卒資格も獄中で取った。そして一九七〇年六月十八日、十年の刑のうち十八か月で仮釈放。条件は夜間外出禁止と、シカゴの母のもとで暮らすこと。翌日にはもうシカゴ行きのバスに乗っていた。

ここでひとつ、あとで致命的になる手続きがある。仮釈放は一九七一年十月十八日に終了し、その一か月後、アイオワでの犯罪記録は封印された。つまりシカゴの警察が普通に照会しても、あの前科は見えなくなった。

サマーデイル通りに越してきた、感じのいい建設業者

母の資金援助を受けて買ったのが、ノーウッドパーク・タウンシップのサマーデイル通り八二一三番地の平屋建てだった。

ここが重要で、この地区はどの市にも編入されていない区域、つまり市警ではなくクック郡保安官事務所の管轄だ。あとで出てくる「通報がどこにも集約されない」問題の一因になる。

一九七一年、彼はPDMコントラクターズという会社を立ち上げる。塗装、内装、メンテナンスの頭文字。最初は小さな修繕から始めて、リフォームや造園まで広げ、一九七五年には一日十六時間働くようになり、一九七八年には年商二十万ドルを超えた。ドラッグストアの改装を得意とする別の会社の現場監督も兼ね、同時に四つの現場を回すこともあった。地域の名士であると同時に、実際に腕のいい商売人だったわけだ。

そしてこの会社の労働力の中心が、高校生とハイティーンの若い男性だった。

ここが事件の構造そのものになっていく。彼は雇用主であり、車を貸してくれる人であり、金を前借りさせてくれる人であり、昇給を決める人だった。関係は最初から対等ではない。従業員の一人には、銃を持っていることをほのめかしながら「銃を取ってきてお前を殺して、死体を始末するのがどれだけ簡単か知ってるか」と言ったことがある、と証言されている。

一九七二年七月に二度目の結婚をした。相手は高校時代に知り合っていたキャロル・ホフ。娘が二人いる女性で、家族ぐるみで越してきた。

一九七五年ごろから夫婦関係は事実上終わり、キャロルは夜中に夫が若い男性をガレージに連れ込む姿を何度も見ている。ガレージからは男性向けの雑誌類と、他人の財布が出てきた。問いただすと激怒して「お前には関係ない」と言われた。離婚は一九七六年三月二日に成立。以後、ゲイシーはあの家で基本的に一人になる。殺害の大半は、この一人になったあとの二年間に集中している。

ポゴという名前の、笑っていない笑顔

一九七五年の終わりごろ、ムース・クラブのつながりで「ジョリー・ジョーカーズ」というピエロの同好会の存在を知り、そこに入った。慈善イベントやパレードで無償で演じる集まりで、入院中の子どもを訪ねることもある。ゲイシーは自分でメイクと衣装を考案して、陽気なほうを「ポゴ」、少し陰のあるほうを「パッチズ」と名づけた。報酬はほとんど取っていない。本人は、ピエロをやっているときは子どもに戻れる、というような言い方をしていた。

のちに「キラークラウン」という呼び名を作ってしまうのがこの活動だ。

ただ、事実関係として押さえておきたいのは、彼が子どもの誕生日会や病院でピエロをやっていた事実と、殺害された三十三人の関係だ。被害者はほぼすべてが十代半ばから二十代前半の若い男性で、ピエロの仕事先で目をつけられて連れ去られた人はいない。ピエロは犯行の道具ではなく、社会的信用を厚くする装置のほうだった。それでも人の記憶に焼きつくのは、白塗りの顔と床下の土のほうになる。

同じ時期、彼は民主党の地区責任者の肩書きを得て、一九七五年からはシカゴのポーランド憲法記念日パレードの責任者を務めた。この立場で一九七八年五月、ホワイトハウスのファーストレディだったロザリン・カーターと並んで写真に収まっている。しかも胸には、特別なクリアランスを示すバッジをつけていた。事件発覚後、この一枚はシークレットサービスにとって長く恥ずかしい写真であり続けた。

消えても誰も探しに来なかった――七年間、通報が宙に浮き続けた

ここが、この事件で本当に語られるべき部分だと思う。

彼は一九七二年一月三日にティモシー・マッコイという十六歳を殺害してから、逮捕までの約七年、一度も本気で疑われなかった。なぜか。理由は一つではなく、少なくとも五つある。

第一に、被害者の多くが「探されにくい人」だった。

バスターミナルに着いたばかりの家出少年、路上で生活していた若者、家族と縁が薄れていた青年、金を稼ぐために街に立っていた人。警察に届けが出ても「またどうせ家出だろう」で処理された。実際、ある被害者の家族は、息子はカリフォルニアに移り住んだのだと思い込んでいて、行方不明届すら出していない。この「探されにくさ」は偶然ではない。加害者の側が意識的にそこを選んでいた。

第二に、当時のアメリカには行方不明者の情報を横断的に照合する仕組みが事実上なかった。全国的なデータベースが整備されるのはもっとあとの話だ。シカゴ市警に出た届け、クック郡保安官事務所に出た届け、近隣のいくつもの自治体警察に出た届けは、それぞれの棚に別々に置かれたままだった。八二一三番地が市域外だったことは、この分断をさらに悪化させている。

第三に、被害者に若い男性が多く、その一部が同性愛者だったことが、当時の警察の関心の低さに直結した。

誤解のないように書いておくと、これは加害者の性的指向が事件を説明するという話では一切ない。むしろ逆で、当時の社会と警察が持っていた偏見のせいで、被害者の側が「まともに捜査してもらえない人」に分類されてしまったという話だ。加害者はその制度的な無関心を利用した。ここを取り違えると、被害者をもう一度侮辱することになる。

第四に、前科が見えなくなっていた。アイオワの記録は封印されており、シカゴで一九七一年に二度、若い男性への性的暴行で告発されたときも、一度は告発者が出廷せず、一度は金銭要求が絡んで取り下げられた。アイオワの仮釈放委員会にはどちらも伝わっていない。

第五に、そして一番厄介なのが、彼が「疑われにくい人」を七年かけて演じ続けたことだ。従業員が消えれば、真っ先に「一緒に探そう」と親に電話をかけた。警察が来れば愛想よく応対し、地元政治家の名前を出した。近所からは工具を貸してくれる親切な人として通っていた。周囲の全員が持っていた印象そのものが、彼のいちばん厚い装甲だった。

実は何度も「あと一歩」だった

七年のあいだ、警察がゲイシーの家の前まで行きながら引き返した場面が、少なくとも三回ある。

一九七七年一月、十九歳のジョン・シックが消える。ゲイシーは彼の車を買い取ると持ちかけて自宅に呼んだのだった。そして八月、その車をゲイシーから買った従業員がガソリン代を踏み倒して逃げ、店員が控えたナンバーから警察がサマーデイル通りに行き着いた。

ゲイシーは「二月にシックから買った。彼は町を出る金が要ると言っていた」と説明した。車検証を照会すればシックの所有だったことは確認できたが、警察はそれ以上進まず、シックの母親に「息子さんは車を売ったようです」と伝えて終わった。この時点で、彼はもう二十人以上を殺していた。

一九七七年十二月三十日、十九歳の大学生ロバート・ドネリーが、バス停で拳銃を突きつけられて車に乗せられ、あの家に連れて行かれ、何時間も暴行と拷問を受けたうえで、朝になって職場の近くに放り出された。

彼は届け出た。一九七八年一月六日、警察はゲイシーを呼んで話を聞いている。ゲイシーは性的な関係があったことは認め、ただし双方の合意だったと主張し、「約束した金を払わなかったから怒っているだけだ」と付け加えた。警察はそれを信じ、立件しなかった。

一九七八年三月二十一日には、二十六歳のジェフリー・リグナルが薬品で意識を奪われ、同じ家に連れ込まれ、拷問を受けたうえでリンカーンパークに放置された。彼は病院で警察に話したが、まともに取り合ってもらえなかった。

だから自分でやることにした。

断片的に覚えていた高速道路の出口と側道の風景を頼りに、友人二人とインターチェンジで張り込みを続け、四月についに黒いオールズモビルを見つけ、尾行して八二一三番地にたどり着いたのだ。ナンバーも住所も自分で警察に持ち込んだ。それでもゲイシーが逮捕されたのは七月十五日、しかも保釈されて、公判前の状態のまま十二月を迎えている。

つまり、あの家の玄関には何度も人が立っていた。あと一歩どころか、玄関のノブに手はかかっていた。

一九七八年十二月十一日、母の誕生日の夜に消えた十五歳

十二月十一日の午後、ゲイシーはデスプレーンズのニッソン薬局を訪れ、改装の相談で店主と話し込んでいた。そのやりとりの、聞こえる範囲に一人のアルバイト店員がいた。

ロバート・ピースト、十五歳。優等生で、体操の選手で、両親の仲がよく、家族が毎日彼の帰りを待っている種類の少年だった。ゲイシーは店主に向かって、うちは十代の子を時給五ドルで雇っている、というようなことを言った。ピーストの薬局での時給のおよそ倍だ。

その日はピーストの母親の誕生日で、母親が息子を迎えに車で来ていた。ピーストは母に「請負業者の人が仕事の話をしたいって言うから、ちょっとだけ待ってて」と言い残し、午後九時に店を出た。すぐ戻る、と言って。

彼が戻らないとわかった時点で、家族はすぐにデスプレーンズ警察に届け出た。ここが分岐点になった。

ピーストは家出とみなされる要素が何ひとつない少年だった。家庭は安定していて、成績もよく、母親が現に店の前で待っていた。前の三十二人にはなかった条件がそろっていた。この非対称性はあとで嫌というほど議論されることになるが、事実として、この事件を動かしたのは「探されるほうの側にいた被害者」だった。

薬局の店主は、ピーストが話しに行ったであろう業者としてゲイシーの名前を挙げた。担当したデスプレーンズ署の警部補ジョセフ・コゼンザックは、自分の息子がピーストと同じ高校に通っていたこともあってか、この線を本気で掘った。そして照会の結果、ゲイシーにはシカゴで未処理の傷害容疑があり、さらにアイオワで十五歳の少年へのソドミー罪で服役していた事実が浮かんだ。封印されていたはずの記録に、今度はたどり着けたのだ。

尾行する刑事たちと、朝食をおごってくる容疑者

十二月十二日の夜、コゼンザックらが八二一三番地を訪ねた。

ゲイシーは、店の裏で改装資材について若い子と話した覚えはある、と認めつつ、仕事の勧誘は絶対にしていないと言い張った。八時過ぎに手帳を忘れて店に戻っただけだ、と。この夜、署に出頭すると約束しながら、彼は「おじが死んだところなんだ。あんたたち失礼だな。死者への敬意はないのか」と言って先延ばしにした。

彼が署に現れたのは十三日の午前三時二十分。全身が泥だらけで、車がスリップして事故を起こしたと説明した。同じ日、彼は関与を否定する供述を繰り返したが、そこに嘘があった。手帳のことで店主から電話をもらったと言ったのに、刑事たちはすでに店主から「電話などしていない」と聞いていたのだ。

十二月十三日、デスプレーンズ警察は一回目の捜索令状を取る。名目はピーストが家に監禁されている可能性だった。

この捜索で出てきたものが、ひどく雄弁だった。複数の警察バッジ、模造拳銃、注射器、手錠、同性愛と少年愛に関する書籍、成人向けフィルム、興奮剤のカプセル、両端に穴を開けた角材、鎮静剤の瓶、そして何人ぶんもの運転免許証。ゲイシーには小さすぎる下着。「J・A・S」と刻まれた高校のクラスリング。さらにゴミ箱から、ニッソン薬局の写真現像の預かり伝票と、一メートル弱のナイロンロープ。

このイニシャルの指輪は、のちにジョン・アラン・シックのものだと判明する。伝票のほうも決定的だった。十二月十八日、この伝票が薬局の同僚だった十七歳のキンバリー・バイヤーズのものだと突き止められる。彼女はその晩ピーストのパーカーを借りていて、ポケットに自分の伝票を入れたまま、店を出るピーストに返していた。つまり、ピーストが着ていた上着のポケットにあったはずの紙が、ゲイシーの家のゴミ箱にあった。

十三日以降、警察はゲイシーの車を押さえ、二十四時間の監視をつけた。ここからの一週間が、この事件のいちばん奇妙な期間になる。

ゲイシーは尾行する刑事たちと親しくなり、レストランに誘い、食事をおごり、知人には「俺のボディーガードだ」と紹介した。かと思えば交通法規を無視して尾行を撒き、警察を相手に七十五万ドルの民事訴訟まで起こしている。十八日の朝、刑事二人と朝食をとりながら、彼は仕事や結婚やピエロの話をした。その席で出た一言が、いまも引用され続けている。ピエロってのはな、殺しをやっても見逃してもらえるんだよ。

同じころ、周囲の人間が次々に口を開き始めていた。

元従業員のマイケル・ロッシは、十七歳のグレゴリー・ゴジクが消えていることを警察に伝え、さらに一九七七年の夏にゲイシーに言われて床下に石灰を十袋撒いた、と話した。もう一人の元従業員デビッド・クラムは、床下に溝を掘らされたと証言した。幅六十センチ、長さ一メートル八十、深さ六十センチほど。排水管を通すためだと説明されていたその溝の寸法を聞いて、刑事たちの顔色が変わった。人一人が入る大きさだった。

十二月十九日、暖房が動いた瞬間に流れてきたにおい

十二月十九日の午後、ゲイシーは監視中の刑事たちを家の中に招き入れた。一人が世間話で気を引いているあいだに、もう一人は寝室に置かれていたテレビの製造番号を確認しようとしていた。行方不明のシックの部屋からなくなっていた品と一致するかを見るためだ。

そのとき、暖房が動いた。

トイレを流していた刑事のボブ・シュルツは、送風口から流れてきたにおいに固まった。のちに彼はこう表現している。死体安置所のにおいだった、と。十三日の一回目の捜索でこれに気づかなかったのは、そのとき家が冷えていて暖房が回っていなかったからだ。

ここから警察は二回目の令状の準備に入る。目的は明確に、床下の掘削だった。

同じ二十日の夜、ゲイシーはパークリッジにある弁護士事務所へ向かう。民事訴訟の打ち合わせのはずだった。現れた彼は憔悴しきっていて、着くなり酒を要求した。弁護士サム・アミランテがウイスキーを出すと、コップに二杯を一気に空けた。アミランテは机の上に、ピースト失踪の記事が一面に載った地元紙を置き、こう促したという。何か大事な話があると言ったじゃないか、と。

ゲイシーは新聞を手に取り、記事を指さして言った。この子は死んでいる。死んでいるんだ。川の中にいる。

そこから朝方まで、支離滅裂な自白が続いた。自分は多くの人間にとって裁判官であり陪審であり執行人だった、というような言い方から始まり、少なくとも三十人を殺し、大半は自宅の床下に埋め、五人はデスプレーンズ川に捨てた、と述べた。

同時に、被害者たちを「男娼」「嘘つき」と切り捨てるような言葉も繰り返した。加害者本人が最後まで手放さなかったこの言い方こそ、被害者の名誉のためにきちんと否定しておくべきものだ。彼らは誰かの息子で、弟で、兄で、恋人だった。

酒のせいで、ゲイシーは自白の途中で眠り込んだ。翌朝起きて、あなたは三十人ほど殺したと話しましたよと弁護士に告げられると、首を振ってこう言った。いまはそんなこと考えられない。やることがあるんだ。そして彼は本当に仕事に出かけた。

その最後の一日は、あとから見ると別れの挨拶回りだった。

ガソリンスタンドの店員に大麻の袋を手渡し、終わりが来る、あいつらは俺を殺す気だ、と言った。店員は袋をそのまま監視中の刑事に渡している。同業の建設業者の家に行き、その人を抱きしめて泣きながら、俺は悪い子だった、三十人ぐらい殺した、と言った。元従業員たちの家に寄り、最後に、父が眠るメリーヒル墓地へ車を走らせた。移動中の車内では、ロザリオを顎に当てて祈っている姿が尾行の刑事に目撃されている。

十二月二十一日、鑑識官が床下で最初に触れたもの

十二月二十一日、警察は自殺のおそれを理由に、まず大麻所持と譲渡の容疑でゲイシーの身柄を確保した。令状を待つあいだ、彼を外に出さないためだ。そして午後四時三十分、二回目の捜索令状が下りた。目的は床下の掘削。

警察が家に着くと、床下は水浸しになっていた。ゲイシーが排水ポンプのプラグを抜いていたのだ。差し直して、水が引くのを待った。

床下の広さは、およそ八メートル半掛ける十一メートル半。鑑識のダニエル・ゲンティが這って入り、南西の隅を掘り始めた。数分で、彼の手が土の中の腕の骨に触れた。ここは子どもでいっぱいだ、というのがそのときの叫びだ。

写真担当者が北東の隅から膝の骨を出す。南東でも骨が出る。掘り進めると、一人の遺体の脇からもう一人の頭蓋骨が出て、その下からさらにもう一人が出た。最初の溝に戻ると、四人目の肋骨があった。

いずれも、腐敗の進み具合からピーストではありえなかった。つまりこの家には、少なくとも十日以上前から複数の人間が埋まっていた。

十二月二十二日の未明、遺体が出たことと殺人罪で立件されることを告げられたゲイシーは、弁護士同席のもとで正式な自白をした。おおよそ三十人の若い男性を殺し、その大半は床下だと述べた。名前を覚えているのはごく一部だった。

彼は、自分が掘った墓は五つだけで、残りの溝は従業員たちが掘ったと主張した。さらに、一九七九年一月には床下全体をコンクリートで固めて隠すつもりだった、とも述べている。あと数週間で、この家は物理的に開かない箱になっていた可能性がある。

十二月二十三日、彼は警察と弁護士と姉に付き添われて州間高速五五号線の橋に連れて行かれ、遺体を投げ入れた場所を指し示した。それから自宅に戻され、ガレージの床にオレンジのスプレーで印をつけさせられた。そこに埋まっていたのは、一九七五年に消えたPDMの従業員、十八歳のジョン・バトコビッチだった。三年のあいだ、両親が警察に百回以上電話をかけ、もっと調べてくれと訴え続けた相手だ。

名前を取り戻していく作業――発掘の一週間

そこからの一週間、掘削は続いた。

床下から二十六人、敷地内の別の場所から三人。床材と壁が剥がされるたびに、身元につながる持ち物が出てきた。川からは、逮捕以前にすでに四人が見つかっていた。一九七八年十一月十二日にカモ猟の二人が見つけた遺体は、十一月四日に消えた十九歳のフランク・ランディンギンだった。ゲイシーは五人を川に捨てたと言っていたが、見つかったのは四人だ。一人は通りかかったはしけの上に落ちたと思う、と彼は言った。

出てきた名前を書き並べるのは、この記事の趣旨ではない。ただ、いくつかは覚えておきたい。

一九七六年五月十四日、同じ日に姿を消した十五歳のランドール・レフェットと十四歳のサミュエル・ステープルトン。二人は知り合い同士で、同じ晩に殺されたとみられ、床下でも近い場所から出た。

一九七六年八月五日、ミネソタから出てきた十六歳のジェームズ・ハーケンソンは、あの家の電話から「無事にシカゴに着いた」と家族に電話をかけている。

一九七六年十月、十四歳と十六歳の親友同士だったマイケル・マリノとケネス・パーカーがクラーク通りで一緒に消えた。一九七六年十二月、PDMで働き始めて三週間も経っていなかった十七歳のグレゴリー・ゴジクは、家族に「床下に排水管の溝を掘らされてる」と話していた。一九七七年九月十五日に消えたロバート・ギルロイは、シカゴ市警の巡査部長の息子で、ゲイシーの家から四ブロックのところに住んでいた。

被害者の年齢の中央値は十代の後半だ。多くが働き始めたばかりで、多くが仕事を探していた。「請負業者に仕事の話をされた」というのが、複数の被害者が失踪直前に家族や同居人に残した最後の言葉だった。

法廷で争われたのは「やったか」ではなく「わかっていたか」

裁判は一九八〇年二月六日に始まった。判事はルイス・ガリッポ。検察はウィリアム・カンクルとテリー・サリバン、弁護はサム・アミランテとロバート・モッタ。

ガリッポ判事は、裁判地の変更は認めない代わりに、陪審員をシカゴから百四十キロ以上離れたウィネベーゴ郡で選び、クック郡に移動させるという方法を取った。イリノイ州で初めての手続きだった。報道が飽和した地域で公正な陪審をどう作るか、という問題への当時なりの答えだ。

争点は最初から一つだった。やったかどうかではない。責任能力があったかどうかだ。

弁護側は精神障害を理由とした無罪、つまり刑務所ではなく病院への収容を求めた。弁護側の精神科医は、彼が自分をコントロールできない精神病的な状態に陥っていたと証言した。

これに対する検察の反論は、極めて実務的だった。検察側の専門家は、パーソナリティ障害はあるが一時的な心神喪失ではないと診断した。ある専門家は、埋葬のために床下の空間をあらかじめ用意していたこと自体が計画性の証拠だと述べている。さらに、彼を一生病院に閉じ込め続けることを保証できるかと問われた医師は、絶対に不可能だと答えた。この一言は陪審に強く残ったとされる。

弁護側の証人として出廷したのが、生還者のジェフリー・リグナルだった。

彼は自分が受けた暴行を「獣じみていた」と表現し、あの行為をした人間が正気だったとは思えないと述べた。弁護のための証言だった。しかし彼は証言の途中で嘔吐してしまう。法廷にいた人々が受け取ったのは「被告は病気だ」ではなく、この男が人にした仕打ちの生々しさのほうだった。弁護側の切り札が、そのまま検察の証拠として働いてしまった瞬間だと後年評されている。

一九八〇年三月十二日、陪審は一時間五十分で全訴因について有罪を評決した。翌三月十三日、二時間十五分の評議で死刑を選択した。三十三件のうち死刑を適用できたのは十二件だけだった。イリノイ州が死刑を復活させたのが一九七七年で、それ以前の犯行には適用できなかったからだ。

カンクル検事の最終弁論は劇場的だった。彼は被害者たちの遺影を一枚ずつ外し、法廷に持ち込まれていた床下の実物大展示の中へ投げ入れながら、こう言った。彼が示したのと同じだけの慈悲を示してやればいい、と。

一九九四年五月十日、〇時五十八分

死刑判決から執行まで十四年かかった。

連邦裁判所への上訴が繰り返され、そのあいだ彼は死刑囚棟で絵を描き、電話に出て、取材を受け、無罪を主張し始めた。自白は撤回された。従業員がやったのだと言い出し、その主張は何度も内容を変えた。

一九九四年五月十日、イリノイ州スティトビル矯正センター。最後の食事はフライドチキン、フライドシュリンプ、フライドポテト、そして生のイチゴだった。最後の日の彼は看守の言葉によれば「おしゃべり」で、シカゴ・カブスの話までしていたという。弁護士のカレン・コンティは、彼が死そのものより金銭の問題ばかり気にしていたと語っている。

執行は三種類の薬物を順に使う方式で行われた。最初の薬で意識が落ちたあと、点滴のラインが詰まり、二番目の薬に移るまで十分から二十分の中断が生じた。器具を交換して再開し、死亡が確認されたのは午前〇時五十八分。この不手際は、その後のイリノイ州の薬物注射手続きの見直しにつながった。

外には大勢が集まっていた。死刑に賛成する側と反対する側の両方が。賛成側の一団が歌っていた別れの歌は、執行棟の中まで聞こえたという。

最後の言葉については、いまだに証言が食い違う。悪態をついたという説、イリノイ州こそが自分を殺すのだと言ったという説、そして検事だったカンクル本人が「何も言っていない」と述べている説。この食い違いすら、この事件らしいとも言える。彼をめぐる情報は、本人の口から出たものであるほど当てにならなかった。

まだ終わっていない――五人の「番号だけの人」

一九七九年の時点で、三十三人のうち九人は身元がわからないままだった。骨と歯と、いくつかの持ち物しかない。彼らは番号で呼ばれていた。

二〇一一年、クック郡保安官のトム・ダートがこの件を開け直した。当時まだ八人が身元不明だった。遺体を掘り起こしてDNAを採取し、行方不明の家族の遺伝子情報と照合するプロジェクトを立ち上げたのだ。全国から問い合わせが殺到した。一九七〇年代に息子や兄弟が消えたまま、という家族がそれだけいたということでもある。

最初の成果は同じ二〇一一年、十九歳で消えたウィリアム・バンディの身元判明だった。

次が二〇一七年、あの「無事に着いた」という電話をかけた十六歳、ジェームズ・ハーケンソン。彼の甥がテレビ番組で保安官事務所の呼びかけを見て、自分から名乗り出たことがきっかけだった。

三人目は二〇二一年十月、DNAドウ・プロジェクトという非営利団体の遺伝的系図解析によって、二十一歳から二十二歳だったフランシス・ウェイン・アレクサンダーだと判明した。歯から採取したDNAが決め手になった。ノースカロライナ出身の彼は、一九七六年から七七年のあいだに殺され、一九七八年十二月二十六日に床下から掘り出されていた。四十五年近く「五番」だった人に、名前が戻った。

いまも五人が身元不明のままだ。

そして、このプロジェクトが生んだ副産物のほうも忘れてはいけない。保安官事務所はこの過程で、ゲイシーとは無関係の未解決の死亡事案を四件解決し、行方不明とされていた五人が生きていることを確認し、二人については家族の知らないうちに亡くなっていたことを突き止めている。ゲイシー事件の被害者と信じられていた人が、実は家出して生きていた、というケースまであった。四十年越しで、生きている人と家族がつながり直した。

この作業は現在進行形だ。一九七〇年代に十代から二十代前半の男性が行方不明になったまま、という家族がいれば連絡してほしい、という呼びかけはいまも続いている。

墓石に刻まれた名前が違うかもしれない、という別種の地獄

そしてもう一つ、身元をめぐる問題がある。一度確定した身元が、間違っていたかもしれないという話だ。

一九七六年十月に十四歳で消えたマイケル・マリノは、当時の歯科記録の照合によって被害者の一人と特定され、埋葬された。だが母親のシェリー・マリノは、最初からその結論を信じ切れなかった。歯科記録の照合には疑問があり、掘り出された遺体の推定身長も息子と合わないように思えたからだ。彼女は墓参りのたびに、墓石に向かって「本当にあなたなの」と問いかけていたと語っている。

二〇一二年、弁護士のスティーブン・ベッカーの助けで遺体が掘り起こされ、DNA鑑定にかけられた。結果は、母親と一致しなかった。つまりあの墓に入っているのは、マイケル・マリノではない誰かだ。同じ日に一緒に消えた友人ケネス・パーカーとの取り違えの可能性も指摘されている。

これが正しければ、身元不明の被害者は五人ではなく六人ということになる。そして、マイケル・マリノという少年は「見つかった被害者」ではなく、いまも行方不明の少年ということになる。クック郡側は当時の鑑定手続きを擁護する立場を取り、この件は完全には決着していない。

四十年経ってから、自分の子の墓に別の家の子が入っていたかもしれないと知らされる。これは事件そのものとは別の種類の残酷さだと思う。

論争その一、共犯者はいたのか

ゲイシーの事件で最も長く続いている議論が、これだ。

根拠として挙げられるのは、まずアリバイの問題だ。一九七七年九月十二日から十六日まで、ゲイシーは仕事でピッツバーグにいた。ところが十五日に十八歳のロバート・ギルロイが消えている。これをどう説明するのか、というのが共犯者説の中心にある。ほかにも、被害者の失踪日と彼の出張日程が噛み合わないケースがいくつか指摘されてきた。

第二に、床下の溝を掘っていたのは主に従業員たちだったという事実がある。ゲイシー本人も「自分が掘った墓は五つだけ」と言っている。掘った側は何も知らなかったのか、という問いは自然に出てくる。ただし、掘らされた本人たちが警察に自分から連絡し、掘った溝の寸法を証言し、石灰を撒いた事実まで話したことは、彼らを疑う方向に働かない材料でもある。

第三に、ゲイシーの周辺にいたフィリップ・パスキという人物が、未成年者を巻き込む大規模な性的搾取のネットワークを率いていたジョン・ノーマンという男とつながっていた、という線がある。ゲイシー自身が「ノーマンが殺した子もいる」と主張したこともあった。二〇一二年には、この事件に関わった複数の弁護士が、彼が単独犯ではなかったと公に述べて話題になった。

一方で、反証も重い。

最大の問題は、ゲイシー本人が異常なほどの嘘つきだったことだ。彼は共犯者として、時期によって従業員二人とパスキの三人全員を名指ししている。しかもそれは、自白を撤回して無罪を主張し始めたあとの話だ。自分の罪を薄めるために他人の名前を出すことに何の躊躇もない人間の証言を、共犯者説の根拠にできるのか。出張日程との矛盾も、失踪日は「最後に目撃された日」であって殺害日そのものではない、という当たり前の指摘で相当程度は説明がつく。四十年以上、共犯者を裏付ける物証は一つも出ていない。

結論としては、断定できない、が正直なところだ。ただ「決着していない」ことと「共犯者がいた」ことは違う。ここを混ぜて語る人がとても多い。

論争その二、三十三人という数字は正しいのか

三十三というのは、有罪判決の対象になった数だ。実際の数がそれ以上だった可能性は、当初から語られてきた。ゲイシー自身が捜査官の一人に「四十五人かもしれない」と匂わせたことがある。彼は川に五人捨てたと言ったが、見つかったのは四人だった。

数を増やす方向の材料はある。彼は一九七〇年代を通じて仕事で各地を回っていて、その先での失踪との関連を疑う声は昔からある。二〇一二年以降、保安官事務所には全米から「うちの家族もそうではないか」という問い合わせが寄せられ続けている。

一方で、数を増やしたがる語りには注意も要る。連続殺人の事件では、加害者本人が自分の「実績」を膨らませて話す例が繰り返し確認されている。ゲイシーは自分を裁判官であり執行人だと呼んだ人間だ。数字は彼にとって権威の道具でもあった。彼の口から出た数を積み上げるやり方は、彼にもう一度マイクを渡すことに近い。

同時に、マリノのケースが示すように、数字は下方向にもぶれる。三十三という数字は「確定した人数」ではあっても「実際の被害者数」ではない。この二つを分けて考えるのが、いまのところ一番誠実な態度だと思う。

論争その三、獄中で描いた絵を売っていいのか

死刑囚棟にいた十四年のあいだ、ゲイシーは膨大な数の絵を描いた。

ピエロ、ピエロ姿の自画像、宗教画、髑髏、鳥、ディズニーの七人の小人、そしてほかの連続殺人犯の肖像。写真を送れば似顔絵も描いた。獄中では一枚五十ドル前後で売られ、総額で三万ドルほどになったと報じられている。処刑後、価格は跳ね上がった。近年のオークションでは一枚が一万二千ドルを超えて落札されたこともある。ジョージア州の私設博物館には、関連品を含めて一万点を超えるコレクションがあり、真贋鑑定まで行っているという。市場には偽物も大量に出回っている。

これに真正面からぶつかったのが、遺族たちだ。

一九九四年六月、処刑の翌月、遺族や関係者が集まり、買い集めたゲイシーの絵を積み上げて燃やすという行事が行われた。二十五点ほどが火にくべられたと報じられている。あれは芸術ではない、あの男の名前を残す道具だ、というのが焼いた側の言い分だった。

擁護する側の論理も、一応ある。芸術と道徳は別だ、歴史的資料としての価値がある、絵そのものが人を傷つけるわけではない、という主張。心理学の専門家の中には、こうした品に人が惹かれるのは、理解できない暴力に「触れられる形」を与えたいという欲求のせいだと説明する人もいる。

ただ、収益がどこへ行くのかという問題は残る。多くの州には、犯罪者が自分の犯罪を材料に得た収益を没収する法律がある。しかしゲイシーの絵は転売市場で回っており、いま金を受け取っているのはコレクターと業者だ。被害者の家族には一円も入らない。しかも、絵が高く売れるほど「ポゴ」というブランドは強化されていく。

個人的には、この構図こそが問題の核心だと思う。焼いた遺族たちが燃やそうとしたのは絵ではなく、あの男が死んだあとも生き続ける知名度のほうだった。

自分で犯人の車を追いかけた生還者

ここからは、口を開いた人たちの話をしたい。

ジェフリー・リグナルは一九七八年三月、二十六歳のときに薬品で意識を奪われ、あの家に連れ込まれ、リンカーンパークに放置された。

彼が最初に取った行動は正しかった。病院で警察に話したのだ。だが警察は動かなかった。そこで彼は、断片的に覚えていた記憶を頼りに自分で犯人を捜し始める。高速道路の特定の出口を通った感覚、側道の風景。友人二人と何日もインターチェンジで張り込み、四月についに黒いオールズモビルを見つけて尾行し、住所を突き止めた。ナンバーも住所も自分で持ち込んだ。

それでも逮捕は七月で、しかも軽い容疑での起訴にとどまり、保釈されたまま十二月を迎えた。

彼はその後、この経験を本にまとめて一九七九年に出版している。裁判では弁護側の証人として法廷に立ち、あの人間が正気だったとは信じられないと述べ、証言の途中で嘔吐した。

事件後の彼の人生は平坦ではなかった。体重が激減し、深刻な抑うつを抱え、医療費の負担も重かった。ケンタッキー州ルイビルに移り、人前から遠ざかり、二〇〇〇年、四十九歳で亡くなっている。

彼が張り込みで持ち帰った住所は、あと少し早く扱われていれば、その後に消えた何人かの命につながっていたかもしれない。この「もし」は、彼自身がいちばん重く背負ったものだったはずだ。

何時間も耐えて、朝に解放された大学生

一九七七年十二月三十日、十九歳の大学生ロバート・ドネリーは、バス停で拳銃を突きつけられて車に乗せられた。連れて行かれた先で、何時間にもわたる暴行と拷問を受けた。のちの証言によれば、あまりの苦痛に「もう殺してくれ」と頼み、相手は「そのうちな」と答えたという。

夜が明けると、彼は職場の近くに車から降ろされた。警察に言っても信じてもらえない、という言葉つきで。事実、彼は届け出たのに、一九七八年一月六日の事情聴取は加害者の弁明を採用して終わった。

この人が本当にすごいのは、それでも一九八〇年の法廷に立ったことだ。

検察側の証人として、自分の身に起きたことを陪審の前で証言した。証言中、被告席の男が笑っているように見えて、彼は途中で言葉に詰まったと伝えられている。

生還者が公開の法廷で被害を語る負担は、いまでも計り知れない。まして四十数年前、被害者が若い男性で、性暴力の被害を証言するとなればなおさらだ。彼の証言は、加害者が計画的に、繰り返し、同じやり方で人を選んでいたことを示す柱の一本になった。

三年間、警察に百回以上電話をかけた父親

一九七五年七月三十一日に消えたジョン・バトコビッチは十八歳で、PDMで二年ほど働いていた。前日、彼と友人二人は未払いの賃金二週間分を払えとゲイシーに詰め寄っていた。

ゲイシーは警察に「三人で来て、話し合って、三人とも帰った」と説明し、バトコビッチの父親には「息子さんは家出したんだろう。俺も一緒に探すよ」と言った。

父親はそれを信じなかった。以後三年間、彼と妻は警察に百回以上電話をかけ続けた。あの雇い主をもっと調べてくれ、と。誰も動かなかった。

息子の遺体が見つかったのは、一九七八年十二月二十三日、ゲイシー自身がガレージの床にオレンジ色のスプレーで印をつけた場所からだった。三年半。この時間の長さの前では、どんな謝罪も足りない。

同じ構図はグレゴリー・ゴジクの家族にもある。彼らがゲイシーに電話をかけると、彼は「あの子は家出したがっていた」「留守番電話にメッセージが入っていたが消してしまった」と答えた。息子が家族に「床下に溝を掘らされている」と話していた、その相手の言葉だ。

隣に住んでいた人たちの「気づけたはずのこと」

近隣住民の証言でよく出てくるのが、においの話だ。

夏になると、あの家の周りが下水のようなにおいがすることがあった。だが彼らはそれを、湿った地面と古い配管のせいだと解釈した。地下水位が高い地域で、床下に湿気がこもるのは珍しくなかったからだ。ゲイシー自身も、においの話になると「配管の調子が悪くてね」と説明していた。

ある近隣の人は、事件後の取材でこう言っている。あの人は町内で一番よくしてくれた人だった、と。この言葉には二種類の意味がある。一つは素朴な驚き。もう一つは、いま考えると背筋が寒くなるという意味だ。

彼は毎年夏に四百人規模のパーティーを開き、地元の政治家も来ていた。その庭の下に何があったのかを、招かれた誰も想像しなかった。

事件のあと、この地区の住民は長く報道陣と見物人に悩まされた。家は一九七九年四月に取り壊され、更地のまま何年か置かれた。一九八〇年代半ばに新しい家が建てられ、番地は八二一三から八二一五に変えられた。二〇二一年三月には三十九万五千ドルで売買されている。番地を変えるという判断は、住民が「あの家」を地図から消そうとした集団的な意思表示だった。

尾行を担当した二人の刑事

十二月十三日から二十一日まで、ゲイシーを二十四時間張り込んだのはデスプレーンズ署のマイク・アルブレヒトとデーブ・ハックマイスターだった。

この一週間の話が異様なのは、監視される側が監視する側を懐柔しようとしたところだ。ゲイシーは彼らを食事に誘い、勘定を払い、知人に「俺のボディーガードだ」と紹介した。かと思えば信号を無視して撒きにかかる。刑事たちのほうも、目の前の男が何をしたのかを確信しながら、令状が下りるまで手を出せない状態で一週間を過ごした。

十八日の朝食での「ピエロは殺しをやっても見逃してもらえる」という発言は、この距離感の中で出たものだ。挑発でもあり、たぶん自白の予兆でもあった。

二十日の夜、弁護士事務所の外で待機していた二人のところに、青ざめたアミランテ弁護士が出てきて、車を塞げ、逃げようとしたらタイヤを撃て、と言った。

捜査側から見たこの事件は、劇的な一発の推理ではなく、一週間ずっと相手の目の前に立ち続けた粘りの結果だった。トイレの水を流していた刑事が暖房のにおいに気づいたのも、令状が下りるまで誰かがずっとあの家の中にいたからだ。

ネットの考察界隈は、この事件の何を掘り続けているのか

インターネット時代に入ってから、この事件はいくつかの方向に語り直されてきた。

一番大きいのが共犯者説だ。掲示板やSNSでは、出張日程と失踪日のずれ、掘削を担当した従業員たち、そしてパスキとノーマンの線をつなげた図解が定期的に流れてくる。中には、被害者数の多さを一人で処理するのは物理的に無理だという「作業量からの推論」を持ち出すものもある。

これに対する反証は前述の通りで、失踪日イコール殺害日ではないこと、物証が一つも出ていないこと、そして情報源の大半がゲイシー本人の後年の主張であることだ。ネット上の図解の多くは、この最後の点を意図的に伏せている。

二番目に多いのが「なぜ警察は止められなかったのか」という追及だ。

これは正当な議論で、実際に一九七七年の車の照会、一九七八年一月のドネリーの届け出、同年三月から七月のリグナルの件と、止められた可能性のある地点が三つ以上ある。ただし、ここで「警察は無能だった」で終わらせると、話が痩せる。当時は全国的な行方不明者データベースがなく、管轄が分断されていて、被害者への社会的な偏見が捜査の優先度を露骨に下げていた。人ではなく仕組みの問題だったからこそ、あとの時代に仕組みが変わった。

三番目に、二〇一〇年代後半以降に増えたのが、被害者側に焦点を戻そうとする流れだ。保安官事務所の身元特定プロジェクトが報じられるたび、SNSでは「五番」「番号で呼ばれていた人」の話が広く共有される。二〇一七年のハーケンソンの特定が、テレビで呼びかけを見た甥の連絡から動いたことは、この流れを後押しした。一般人が見て、思い出して、電話をかける。それで四十年動かなかったものが動く。

四番目に、真偽の怪しい枝葉もある。あの家の跡地に建った家が呪われているという類の話、ゲイシーが某有名事件に関与していたという説、獄中の絵に暗号が隠されているという説。どれも一次資料の裏づけはない。この事件は情報量が膨大なぶん、本物の未解決部分と作り話の見分けがつきにくく、そこに付け込む話が生まれやすい。

ピエロが怖いものになった日

「殺人ピエロ」という言葉が世界的な記号になったのは、間違いなくこの事件が起点にある。ただ、因果関係はもう少し複雑だ。

まず、ピエロが不気味だという感覚自体は事件より古い。オペラの道化、笑いながら人を殺す役柄、白塗りで表情の読めない顔。人間に似ているのに人間ではない何か、という不気味の谷の話でもある。心理の専門家がよく言うのは、厚い化粧が表情という情報を消してしまい、相手の意図が読めなくなることへの警戒だ。この不安の土台はもとからあった。

そこに一九七八年から八〇年の報道が乗った。

地域の子どもたちの前でピエロを演じていた男が、床下に二十九人を埋めていた。この一文が持つ破壊力は、当時のアメリカの家庭にとって尋常ではなかった。「あなたの町のいい人」というイメージと「白塗りの顔」が、たった一つの事件で永久に結びついてしまった。

その後の連鎖は速い。一九八一年、ボストンを皮切りに「ピエロが子どもを車に誘っている」という噂が全米に広がり、警察が出動する騒ぎになった。実在した証拠は結局出ていない。典型的な都市伝説の伝播だが、噂の形が明らかにゲイシー報道の形をなぞっていた。

一九八六年、スティーブン・キングが『IT』を発表する。ペニーワイズという、子どもの前に現れる道化の姿をした捕食者。キング本人はゲイシーだけを下敷きにしたわけではないと語っているが、この小説と一九九〇年のテレビ映画、そして二〇一七年の映画版が、ピエロ恐怖を世界標準にしたのは間違いない。二〇一四年の連続ドラマに登場した道化の怪物も、この系譜にある。

二〇一六年には、アメリカから始まって世界中に広がった「不気味なピエロ目撃」の騒動が起きた。学校周辺にピエロが出るという通報が相次ぎ、実際に模倣した悪ふざけや逮捕者も出て、ピエロの職業団体が抗議声明を出す事態になった。この年、本業のピエロたちは仕事を失った。

つまりこういうことになる。ゲイシーはピエロを怖いものにした唯一の原因ではないが、決定的な触媒だった。彼が作ったのは記号だ。そしてその記号は、彼の被害者たちの名前より遥かに広く、遥かに長く流通してしまった。この非対称性が、この事件のもっとも腹立たしい部分かもしれない。

なぜ半世紀近く経っても、この話は終わらないのか

理由は三つあると思う。

一つ目は、この事件が「隣人という制度」への疑いを突きつけたからだ。

人が他人を信用するとき、私たちは肩書きと評判と態度を見る。彼は全部持っていた。事業主で、地区の役職者で、親切で、慈善活動をしていた。ファーストレディと写真を撮っていた。私たちが日常的に使っている信用の判定基準が、まるごと役に立たなかったという事実が、この事件を単なる猟奇譚ではなく、社会の設計の話にしている。

二つ目は、まだ終わっていないからだ。五人が名前を取り戻していない。マリノの墓の問題も片づいていない。二〇一一年に始まった作業がいまも続いていて、二〇一七年にも二〇二一年にも新しい名前が判明した。過去形で語れない事件は、記憶から落ちない。

三つ目は、これが「教訓が制度になった」珍しい例だからだ。全国的な行方不明者データベース、身元不明遺体の登録制度、DNAと遺伝的系図解析の運用、そして「家出だろう」で通報を打ち切らない捜査文化。どれもこの事件だけで生まれたわけではないが、この事件はその必要性を最も残酷な形で証明した事例として、いまも研修や講義で引かれ続けている。

最後に一つだけ。この記事を書くにあたって、資料をひたすら読んで一番強く思ったのは、記憶の配分がおかしいということだ。

「ポゴ・ザ・クラウン」という名前を知っている人は世界中に何億人もいる。だがランドール・レフェット、サミュエル・ステープルトン、ジェームズ・ハーケンソン、フランシス・ウェイン・アレクサンダー、ジョン・バトコビッチといった名前を挙げられる人は、ずっと少ない。加害者は名前を残し、被害者は数字になった。

この事件を語り継ぐことにもし意味があるとしたら、それはピエロの怖さを増幅することではなく、この配分を少しでも戻すことのほうだと思う。

「加害者の異常性」ではなく「社会の目の粗さ」の物語

ここまで書いてきて、あらためて整理しておきたいことがいくつかある。

まず、この事件の構造を一言で言うなら、加害者がどれだけ異常だったかの話ではない。社会の網目がどれだけ粗かったかの話だ。

ジョン・ウェイン・ゲイシーが特別に頭が良かったから七年逃げ切れたのではない。彼は嘘が下手で、供述は矛盾だらけで、しかも生還者を三人以上そのまま帰している。普通の意味では、ずさんだった。

それでも捕まらなかったのは、彼が選んだ被害者たちが、当時の社会にとって「消えても大きな穴があかない人」に分類されていたからだ。バスターミナルに着いたばかりの十代、家族と連絡が薄れた青年、路上で稼いでいた若者。どれも、いなくなったときに大人が本気で走り出す仕組みの外にいた。だから七年もつながらなかった。

逆に言えば、ロバート・ピーストという「制度の内側にいた十五歳」が消えた瞬間、たった十日で全部が崩れた。この落差そのものが、この事件の最大の告発だと思う。

次に、証言の扱いについて。

この事件は資料が異様に多い。本人の自白、法廷証言、捜査記録、獄中インタビュー、テープ、そして関係者の回想。ところが、そのうち最も引用されやすいのが本人の言葉で、そして本人の言葉が最も信用できない。

彼は自白の内容を何度も変え、最終的には自白そのものを撤回して従業員に責任を押しつけようとした。「四十五人かもしれない」も、「共犯者がいた」も、「川に五人捨てた」も、ぜんぶ同じ口から出ている。だから、この事件について何かを語るときは、その情報が誰の口から出たのかを毎回確認する必要がある。物証と第三者の証言に裏づけられた部分と、彼の主張しか根拠のない部分。この二つを混ぜないだけで、ネットに流れている考察の何割かは自動的に沈む。

三つ目に、身元特定の話をもう一段深く。

二〇一一年に始まったクック郡保安官事務所のプロジェクトが本当に画期的だったのは、技術よりも発想のほうだ。彼らは「未解決の殺人を解く」のではなく、「名前のない遺体に名前を返す」ことを目的に置いた。犯人はもう死んでいる。裁くべき相手はいない。それでも掘り起こしてDNAを取る意味があるのか、と当時は言われたらしい。

答えは、この十数年が出した。三人の名前が戻り、しかも同じ手法の副産物として、無関係の未解決死亡事案が四件解決し、行方不明者五人の生存が確認された。中には、ゲイシーの被害者だと思われていた人が生きていた例まである。四十年間、家族は最悪の想像と一緒に生きていたわけだ。それが一本の電話でひっくり返る。名前を返す作業は、死者のためだけの作業ではない。

四つ目に、絵の問題をもう一度。

個人的な結論を書くと、あの絵の売買がまずいのは「不謹慎だから」ではないと思う。市場が存在すること自体が、あの人物の知名度を資産に変換し続けるからだ。絵が高く売れるほど、彼の名前とピエロのイメージは強化される。彼が生前いちばん欲しがっていたものが、まさに注目と評価だった。褒められる場所を嗅ぎ分けて最短距離で承認を積み上げるという、十代のころから彼が磨き続けた能力の、死後も続く延長線上にあれがある。

一九九四年に遺族が絵を積み上げて燃やしたのは、感情的な行動というより、その循環を物理的に断とうとした行為だった。効果があったかどうかは別として、意図は極めて明確だ。

五つ目に、映像作品との付き合い方について。

二〇二二年の配信ドキュメンタリーは彼の獄中テープを大量に使い、二〇二五年のドラマシリーズは加害者よりも被害者と捜査側に軸足を置いた作りだと評価された。この差は小さくない。彼の声をそのまま流すという選択は、彼にもう一度マイクを渡すことでもある。逆に、被害者の側から語り直す作品は、記憶の配分を戻す側に働く。作り手がどちらを選ぶかで、この事件の残り方は変わっていく。視聴する側も、たぶん同じ責任の一部を持っている。

最後に、この記事で意識的にやらなかったことを書いておきたい。

手口を細かく書かなかった。遺体の状態を描写しなかった。性暴力の場面を再現しなかった。加害者の生い立ちを「だから仕方なかった」の方向に使わなかった。彼をカリスマ的な怪物として演出しなかった。

理由は単純で、そういう書き方をした瞬間、この文章はあの男の宣伝になるからだ。彼はあの家で、地域の名士という肩書きと、白塗りの笑顔と、就職の誘いという餌を使って、社会がいちばん守り損ねていた若者たちを選んだ。それが全部だ。それ以上の物語を彼に与える必要はない。

覚えておくべきなのは、三十三という数字ではなく、その一つひとつが誰かの家に帰るはずだった人間だったということ。そしていまも五人が、名前を待っているということだ。一九七〇年代に若い男性の家族が行方不明になったまま、という人がもしいたら、その記憶にはまだ役目がある。

この話が終わるのは、最後の一人の名前が戻った日だ。

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