東京のど真ん中で、人がひとり消えた。しかも、次の大統領になるかもしれないと言われていた男が、である。
1973年8月8日、午後1時19分。千代田区飯田橋一丁目一番一号、ホテルグランドパレスの地下駐車場から、一台のスカイライン2000が滑り出ていった。後部座席には、意識の混濁した48歳の韓国人政治家が押し込まれていた。名前は金大中(キム・デジュン)。二年前の大統領選で朴正熙(パク・チョンヒ)を九十四万票差まで追い詰め、そして負けた男だ。
この日から五日間、彼の行方は誰にもわからなかった。日本の警察にも、韓国の家族にも、アメリカの大使館にも。そして五十三年たった今も、この事件の核心部分は箱に入ったまま開いていない。誰が命じたのか。本当に殺すつもりだったのか。日本の当局はどこまで知っていたのか。答えの一部は出た。だが一番痛いところは、いまだに空白のままだ。
九十四万票の恐怖から始まった
話の起点は1971年4月27日にさかのぼる。この日行われた韓国の大統領選挙で、新民党の候補として立ったのが金大中だった。彼は全国を回りながら、こう演説した。この国は完全無欠な独裁主義国家である。徹頭徹尾、中央情報部の掌握下にある。新聞は確かに新聞記者が作るものだが、この国では中央情報部が作っている。嘘だと思うなら、この四年間の新聞を全部ひっくり返して見ろ、朴大統領批判と中央情報部批判の載った記事が一行でもあるか、と。
結果は敗北。だが差はわずか九十四万票あまり。国家予算の一割とも言われる金を注ぎ込み、メディアを統制し、地域感情を煽り、投票箱の取り替えまで囁かれるほど手を尽くした上での「辛勝」だった。公正にやっていたらどうなっていたか。それは朴正熙自身が一番よく知っていたはずだ。
そしてこの一か月後、金大中の身に最初の「事故」が起きる。5月24日、木浦から光州へ車で移動していた金大中の乗る車に、対向車線から大型トラックが突っ込んできた。後続のタクシーに乗っていた三人が即死。金大中は腰と股関節に生涯残る障害を負い、以後は独特の歩き方になった。のちに韓国政府は、これが中央情報部(KCIA)による交通事故を装った暗殺工作だったと認めている。つまり、1973年の拉致は「初犯」ではなかった。
1972年10月17日、金大中は治療のため来日していた。福田赳夫や河野謙三と会い、夕方に帝国ホテルの部屋に戻ってテレビをつけたところ、ニュースが流れた。朴正熙が非常戒厳令を布告し、午後7時をもって国会を解散、憲法の一部条項の効力を停止したという。いわゆる十月維新である。大統領の再任制限は撤廃され、大統領選は「統一主体国民会議」なる追従者集団による間接選挙になり、国会議員の三分の一は大統領が任命することになった。三権分立は紙くずになった。
金大中は一晩考えて、亡命を決断する。翌18日午後、彼は声明を出した。朴正熙大統領の今度の措置は、統一をかたって自身の独裁的永久執権をねらう、驚くべき反民主的措置である。この一文が、彼の運命を決めた。
亡命者は二、三日ごとにホテルを変えていた
1973年に入ると、金大中は日本と米国を往復しながら反朴運動の組織化に走り回る。1972年12月にはコロンビア大学の講堂で五百人を集めて時局講演をやり、海外の反朴勢力を束ねられるという手応えを得た。雑誌『世界』1973年1月号には「憤りをもって韓国の現状を訴える」を、『中央公論』同月号には「祖国韓国の悲痛な現実」を寄稿している。6月には日本滞在中の口述をまとめた『独裁と私の闘争』が光和堂から出た。7月6日には「韓国民主回復統一促進国民会議」、略して韓民統の米国本部が結成される。次は日本本部だった。8月15日の光復節に合わせて発足させる予定になっていた。
7月10日、金大中は米国から日本に入国する。ただし普通の旅券とビザではない。韓国政府はとっくに彼の旅券を無効にしていたから、赤十字国際委員会が発給した身分証明書を持ち込み、法務大臣の上陸特別許可というかたちで入れてもらった。身元引受人は前の駐韓大使、金山政英である。この「特別に入れてもらった客人」という立場が、のちに日本政府の責任論を重くする。
入国と同時に彼は徹底した警戒態勢に入った。二、三日ごとに宿を変える。日本人名義の偽名を使う。新宿区高田馬場二丁目の原田マンション十一階に事務所を置き、在日の若い支持者たちが「秘書団」を組んで警護計画を練った。素人集団である。当時副委員長を務めていた金君夫は後年、毎日新聞にこう語っている。僕たちは警備は素人だけれどもね、勉強だと思いまして、たとえばフォーサイスの『ジャッカルの日』なんかを買って読んだんですよ、ドゴール大統領はあらゆる暗殺者にねらわれながら、それをフランス警察が全部排除して、暗殺されないで死んでいきましたから、と。小説を教科書にするしかなかった。それが亡命者の警護の現実だった。
影のほうも、必死だった
一方、金大中を追う側も苦戦していた。駐日韓国大使館には多数のKCIA要員が「外交官」の身分で潜り込んでいた。拉致工作の現場責任者に指名されたのは金炳賛(キム・ピョンチャン)という要員で、彼は一等書記官「金東雲(キム・ドンウン)」という偽装身分で活動していた。ところがこの工作チーム、肝心の金大中の居場所がつかめない。
そこで7月15日、金東雲は飯田橋の興信所に調査を依頼する。「ミリオン資料サービス」。設立はその二週間前の7月1日。所長は坪山晃三といって、六月末まで陸上幕僚監部第二部にいた元三等陸佐である。数年前から北朝鮮情報を集めており、金東雲とは旧知の間柄だった。八月一日には二等陸曹だった江村菊男が自衛隊を退職し、この興信所に合流している。日本の情報機関のOBが、隣国の情報機関の下請けに入っていた。この構図が事件の後味を最悪にする。
ミリオン資料サービスは7月25日、27日、28日と原田マンションを張り込む。空振りが続く。焦れた金東雲は坪山に二千万円の小切手を差し出しかけた。坪山は多すぎると突き返したという。そして8月2日、ついに金大中が銀座第一ホテルで新聞記者と会っているのを掴む。坪山がその夜に報告すると、金東雲はこう持ちかけた。拉致してほしい、と。坪山は断った。翌3日、金東雲は未払いの調査費二十万円を渡した。二人が会ったのはこれが最後になる。
なお、KCIA内部では当初、日本の韓国系暴力団に金大中の殺害を依頼する案も検討されていたという元職員の証言がある。成功は難しいと判断して自前でやることになった、と。ただしこの証言については、元朴大統領側近が否定しており、別の元職員は「拉致の目的は海外での反政府活動を抑えることで、殺害計画などなかった」と述べている。ここも食い違ったままだ。
部屋番号を指定した予約
舞台装置は偶然のように整った。国会議員の金敬仁(キム・ギョンイン)が大阪の韓国総領事館に、順天堂医院の近くのホテルの予約を頼んだ。総領事館は東京の韓国大使館に取り次ぎ、大使館がホテルグランドパレスの部屋を押さえた。開業したばかりの、九段下交差点の脇に建つ新しいホテルである。8月3日、金敬仁は2028号室に入った。
8月4日、糖尿病の治療で順天堂医院に入院していた民主統一党党首の梁一東(ヤン・イルトン)が退院し、同じホテルの22階に移る。2211号室と2212号室、続き部屋のスイートだった。その日の昼過ぎ、部屋でテレビを観ている梁一東と金敬仁のところへ、駐日韓国大使館公使の金在権が「見舞い」に現れる。金在権は元KCIA第七局長の金基完が名を変えた人物だ。彼はさりげなく、金大中と梁一東の次の会談の日取りを探っていったとされる。
8月6日午前、梁一東は金大中の事務所に電話をかけ、グランドパレスの22階にいると告げた。この電話が盗聴されていた可能性が、のちに指摘される。そして同じ日の午後1時15分ごろ、「畑中金次郎」を名乗る人物から、2210号室を名指しした予約が入る。普通、ホテルは部屋番号の指定予約を受けない。まして隣室に外国の要人が入っているなら、なおさら断る。それが通ってしまった。同日午後6時45分、畑中金次郎と名乗る男が二泊でチェックインしている。
8月7日朝、金大中が梁一東に電話をかけた。昼食を一緒にしよう。梁一東は明日の午前11時ごろ、グランドパレスの2212号室に来てほしいと答えた。金大中はその日の午後2時から赤坂東急ホテルで衆議院議員の木村俊夫と会う約束も入れていた。宇都宮徳馬を通じて申し込んだ面会だった。8月8日は、彼にとって政治工作の一日になるはずだった。
8月8日、分刻みの九十分
その朝、雑誌『世界』9月号が店頭に並んだ。同誌には編集長の安江良介と金大中の対談「韓国民主化への道」が載っている。7月18日に収録されたものだ。
午前10時ごろ、金敬仁は梁一東に頼まれて『世界』9月号と『現代の眼』9月号を買いに神保町へ出た。本を抱えて自室の2028号室に戻る。
午前10時15分、一台のスカイライン2000がホテルグランドパレスの地下駐車場に入った。この車の所有者が拉致実行犯のひとりだったことが判明するのは、三か月後の11月5日である。
午前10時45分、金大中は宿泊先のパレスサイド・ホテルを出て、護衛の金康寿とともにタクシーでグランドパレスへ向かった。
午前11時、到着。金大中は金康寿を一階ロビーに残し、ひとりで22階に上がって2211号室の梁一東を訪ねる。梁一東は彼を隣の2212号室へ通した。二人が部屋に入るのを見届けた男たちが、予約済みの2210号室と、なぜか「たまたまドアが開いていた」という向かいの2215号室に分散して身をひそめる。
部屋の中では、二人の政治家が慎重に話していた。梁一東が、金敬仁議員が来ているから呼ぼうかと言うと、金大中は話が終わってからでいいと答えた。盗聴を警戒した梁一東がテレビのスイッチを入れる。金大中は、あなたの心配はわかるが東京では大丈夫だ、と言ってスイッチを切った。東京では大丈夫。この一言が、後から思うとこの事件でいちばん重い台詞になる。それでも二人は筆談を交ぜながら一時間ほど話した。用心はしていたのだ。ただ、用心の方向が違った。
午後零時20分ごろ、金敬仁が部屋に入って会話に加わる。ルームサービスで昼食を頼み、三人で食べた。事件後に撮られた2212号室の写真には、食べかけの食器がそのまま残っている。
午後1時過ぎ。金大中が席を立ち、金敬仁が見送りのためについて廊下に出た。エレベーターの方へ七、八歩。そこで2210号室から三人、2215号室から三人、計六人の男が飛び出してきて二人を取り囲んだ。
金敬仁が叫んだ。何をするんだ、お前たちは誰だ。男のうち二人が金敬仁を梁一東のいる2212号室へ押し戻し、こう言った。騒ぐと韓国の恥になる、国際的にも困難な問題だから、ちょっとだけ我慢しろ、俺たちはソウルから来た。
残る四人が金大中を2210号室に引きずり込み、麻酔剤を含ませたハンカチを鼻に押し当てた。金大中の意識が薄れていく。男たちは彼をエレベーターに乗せて地下へ降ろした。このとき同じエレベーターに乗り合わせた宿泊客がいた。のちに警察の事情聴取に対し、その人物は「エレベーター内で一人の男から、助けてくれ、人殺し、と助けを求められた」と証言している。周囲には五人の男がいた。誰も、何もできなかった。
午後1時19分、スカイライン2000がホテルを出る。
午後1時50分ごろ、梁一東が韓国大使館の金在権に電話をかけ、金大中が連れ去られたと告げた。連れ去られた事実を最初に外へ伝えた相手が、四日前に「見舞い」に来た大使館公使だったというのが、この事件の入り組み方をよく表している。
午後2時5分ごろ、金敬仁が宇都宮徳馬に電話。午後2時14分ごろ、宇都宮が警視庁の赤木泰二警備部長に電話し、続いて官房副長官の後藤田正晴にも電話した。午後2時20分ごろ、宇都宮は赤坂東急ホテルに電話して、部屋で金大中を待っていた木村俊夫に「まだ行かないか」と尋ねる。来ていないと聞くと、やっぱりそうか、何か起きたらしい、身辺に、と言って慌てて切った。
同じ午後2時20分ごろ、在日韓国青年同盟副委員長の金君夫が2210号室に駆けつけた。部屋にはすでに金在権がいた。
そして警察官がホテルグランドパレスに到着したのは、午後2時49分である。通報から三十五分。犯行から一時間半。この初動の遅れは、その後何度も国会で問題にされることになる。
部屋に残されていたもの
2210号室は、犯人たちが慌てて出ていったことを物語る状態だった。
大型のリュックサックが二つ。ショルダーバッグが一つ。長さ十メートルのナイロン紐。睡眠薬が入ったスタミナドリンクの瓶。麻酔薬が入っていたとみられる瓶。そして、北朝鮮製のたばこ。
このたばこが、事件の性格を象徴している。当時、警視庁公安部外事二課長として捜査を指揮し、のちに警視総監となる井上幸彦は、五十年後の2023年に朝日新聞の取材に応じてこう振り返っている。金大中氏拉致事件は日本の警視庁史上いちばん大きな事件で、謎だらけだった。日本の主権を踏みにじることを韓国がやったとは信じがたかった。現場にあった北朝鮮産のたばこなどは、まるで北朝鮮が拉致事件に関与したかのように装ったもののように見えた、と。
十メートルのナイロン紐と大型リュック二つ。この組み合わせが何を意味するのか。金大中自身は後年、こう主張している。犯人たちは自分を殺し、切断した遺体をリュックに入れて運び出す計画だったのだ、北朝鮮のたばこは北の犯行に見せかけるための小道具だったのだ、と。これは彼の解釈であって、証明されたわけではない。だが、部屋に残された物のリストを眺めると、単に人を連れ去るだけにしては装備が妙だという印象は、どうしても拭えない。
そして、決定的な物証がひとつあった。指紋である。現場から採取された指紋が、駐日韓国大使館一等書記官・金東雲のものと一致した。
大津と京都、そして海
車の中で、金大中は朦朧としながら外の音を拾っていた。「こちらが大津、あちらが京都」という案内らしき声を聞いた、と彼は後に証言している。一行は高速道路で関西へ向かっていた。
行き先は神戸市東灘区岡本のマンション、三階の一室だった。名義は在大阪韓国総領事館領事のもので、KCIAの「安全家屋」、いわゆるアジトである。車内で男たちが「アンの家に行こう」と話しているのを金大中は耳にしていた。安家、つまりセーフハウスの略語だったわけだが、当時の彼にはただの人名にしか聞こえなかっただろう。
一方、大阪港では別の歯車が回っていた。7月29日午前4時、総トン数五百三十六トンの韓国貨物船「龍金号(ヨングムホ)」が大阪港第八区に入港している。乗組員五人は岸壁近くのホテルに投宿していた。彼らは何日も、ただ待っていた。そして8月8日の夕方、突然マネージャーに「これからチェックアウトする」と告げ、入港手続きを担当していた日通の支店に電話して「翌朝九時に出港する」と伝えた。金大中が東京で消えてから、わずか数時間後のことだ。
翌9日朝、金大中はぼろぼろの服と靴に着替えさせられ、車で海岸へ運ばれ、モーターボートで沖合の龍金号に移された。午前8時過ぎ、日通の職員が燃料の量と船体の状況を記録し、出港許可証を渡す。職員がチェックをしている最中に乗組員が錨を巻き上げはじめたので、職員は慌てて通いのボートに飛び降りた。午前8時45分、龍金号は大阪外港第八区を出ていった。
船室で、金大中は両手を縛り直され、両足も縛られた。右腕と左手首に、それぞれ重りが付けられた。彼の回想によれば、板の上に死体のように括りつけられ、口には猿轡を噛まされ、目は包帯で覆われていたという。作業が終わると、男たちが話し始めた。海に投げ込むとき、外れないように縛ったか。布団に包んで投げ込めば浮いてこない。そして誰かが日本語で「フカ」と言った。鮫のことだ。
金大中はカトリック信者である。彼が神に助けを求めたのは、このときが生まれて初めてだったという。そして彼は「イエスが現れた」と語った。教会で見た姿そのままだった、袖を掴んで、私にはまだやることがたくさんあります、助けてくださいと必死に頼んだ、と。
その直後だった。ぱん、ぱん、と照明弾らしき破裂音が響き、「飛行機だ」という叫び声が上がり、船が狂ったように走り出した。金大中の証言はこうだ。船のエンジンが狂ったように動き出した。「飛行機」という声が聞こえた。あるいは海上自衛隊か米軍機かと思った。このあとから、私を殺すという雰囲気がなくなり、私は死地を脱したと思った。同日夜、急に暖かくなった。船員から「徳島付近」ということを聞き出すことができた。
追跡したのは何だったのか。海上保安庁のヘリコプターだったという説、自衛隊機だったという説、米軍機だったという説がある。そもそも何も飛来しなかったという主張まである。龍金号の乗組員の間でも、飛行機の音を「聞いた」「聞かなかった」と証言が割れている。記憶の混乱なのか、後年の圧力なのか、それも不明だ。
百二十九時間
8月11日深夜、船は釜山港内に着き、12日午前7時に接岸した。埠頭ではKCIAの日本課長や工作団の課長、医務室長らが待っていたとされる。金大中はソウル近郊の安全家屋に移され、二階建ての洋館に監禁された。
8月13日の夜、部屋に情報機関員が入ってきてこう告げた。我々は愛国青年救国隊員だ。上部の指示が下りた。家の近くで解放するから、一から十まで数えたあとで目隠しを解いて家に帰りなさい。
男たちは彼をソウル市麻浦区東橋洞の自宅から歩いて三分ほどの東橋教会前で車から降ろし、三分間目隠しのまま立っていろと命じて走り去った。
午後10時15分ごろ、東亜日報をはじめ新聞社と放送局に一斉に電話が入る。「愛国青年救国隊」の隊員を名乗る男の声だった。金大中を釈放した。金のように外国に出て軽挙妄動する奴を、そのまま放っておくことはできない。
午後10時20分ごろ、金大中は自宅の門のベルを押した。拉致から百二十九時間。海で三日、陸で二日。
午後10時32分ごろ、東亜日報が音楽番組を中断して臨時ニュースを流した。
自宅に殺到した記者団の前で、彼は日本人記者にメモを示した。そこには日本語でこう書かれていた。暗闇の中でも尚、明日の日の出を信じ、地獄の中でも尚、神の存在を疑わない。
三日後の8月16日から、金大中は自宅軟禁に置かれる。生きて帰ったが、自由は戻らなかった。
証言その一、捜査を指揮した男
事件の輪郭を語る証言のうち、日本側の捜査現場からのものは長らく少なかった。その空白を埋めたのが、事件から五十年の節目に口を開いた井上幸彦である。当時、警視庁公安部外事二課長。のちに警視総監まで上りつめた人物だ。
彼の回想の温度が興味深い。まず、拉致の事実を知ったのは日本の政治家からの一報だったという。捜査当局が独自に把握したのではなく、宇都宮徳馬のような政治家が動いて初めて警視庁が動いた。次に、彼は「日本の主権を踏みにじることを韓国がやったとは信じがたかった」と述べている。同盟に近い関係にある国の公館員が、東京のど真ん中で、白昼、政治家を薬品で昏倒させて運び去る。当時の警察官の常識では想像の外だった、ということだろう。
そして現場に残された北朝鮮製たばこについて、彼は北朝鮮の関与を装う仕掛けに見えたと述べている。つまり捜査当局は、早い段階で「これは偽装工作だ」と見抜いていた。
彼の言葉でいちばん重いのは最後の部分だ。私と警察の同僚たちは、政治的な合意に影響されず真相究明を続けようとした。犯人と被害者の供述がきちんと得られなかったことが心残りだ。捜査員たちは政治決着に納得していなかった。だが、供述が取れなければ事件は立たない。犯人は外交特権で本国に消え、被害者は韓国国内で軟禁されていた。手足を縛られた捜査だった。
証言その二、公安は事前に知っていた
もうひとつ、ぞっとする証言がある。ジャーナリストの金平茂紀が、日本記者クラブの機関誌に寄せた回想だ。
彼は1980年代初頭、TBSの社会部記者として警視庁記者クラブに詰めていた。担当は警備・公安。そこで外事二課の管理官と親しくなる。ノンキャリのトップにあたる、叩き上げの職人肌の人物だった。ある日、その管理官が机の引き出しを開け、大きな茶封筒からモノクロ写真を取り出して見せた。四つ切りサイズで数枚。走行中の車両を後ろから撮ったものだった。
管理官はこう言ったという。君らは、事件は金東雲一等書記官の指紋が現場から見つかってKCIAの犯行と分かった、という発表を鵜呑みにしているんだろうが、実は私らは、事前に何かをやるんじゃないかと確信していた。これは金大中を尾行している連中を、われわれが尾行して撮ったんだ。韓国大使館の諜報部門の連中が金大中をあまりにも露骨に追尾して奇妙な動きをしているので、やめろと警告していたんだ。主権侵害になるからな。そうしたら目の前でやっちゃった。
管理官はさらに、青焼きの捜査報告書のコピーを見せた。滞日中の金大中が何時何分にどこで誰と会っていたかが克明に記されている。決裁欄には、事件当時の警視庁公安部長のサインがあった。外事二課は、金大中の動きも、それを追うKCIAの動きも、両方を把握していた。それでも防げなかった。あるいは、防がなかった。
金平は1983年8月2日、TBS系のニュース番組でこれを特報する。十年前に起きた金大中事件の捜査本部が昨日解散されたが、日本の公安当局は事件発生前に金大中氏の拉致計画を知っていた事実が明るみに出た、と。他社は完全に無視した。当然だ。ソースにたどり着けないからである。放送に先立ち、当時警察庁長官になっていた元公安部長の定例会見で担当記者に質問してもらった。長官は絶句し、否定も肯定もしなかった。管理官はその後亡くなり、この話を裏付ける人はいなくなった。
証言その三、アメリカの公電を掴んだ記者
三つめは、共同通信のワシントン特派員だった金子敦郎の回想である。
彼はカーター政権期、情報自由法にもとづいて金大中事件に関する米国務省の文書公開を請求した。一年二か月かかって届いた束の中に、とんでもないものが混じっていた。事件二週間後にハビブ駐韓米大使が国務省へ送った公電で、事件をKCIAの犯行とする報道は「基本的に正しい」とし、韓国政府の行動に警告を発していると報告するものだった。もう一通は1975年1月のスナイダー大使の電報で、韓国外相が事件の責任者であるKCIA要員を密かに解職処分にした、内々の話にしてほしいと述べた、という内容だった。
支局は色めき立った。だが、おかしなことが起きる。国務省のセキュリティ・オフィサーを名乗る電話がかかってきて、誤って公開できない文書を入れてしまった、返してくれと言う。もう記事にして東京に送ってしまった、と断ると、今度は情報自由法の担当官から、記事の中で直接引用することは避けてほしいと言ってきた。結局「共同通信が入手した文書」として報じたところ、国務省スポークスマンが「公開した文書の中に秘密解除されていないものが含まれていた」と発表し、ミスを犯した担当官二人が処分されたという情報まで流れた。
このスクープで日本の新聞各紙は社説で政治決着の見直しを要求した。だが日韓両政府は、米政府の公式文書が表に出ているにもかかわらず「伝聞証拠」だと強弁して押し通した。金子はのちに、これは米政府の意図的リークだったのではないかという説を聞かされるが、本人は否定的だ。公開要求から資料提供まで一年二か月かかっていること、別の全国紙にも同時期に別セットの文書が渡っていて内容のちぐはぐが説明できないこと。彼は座っている記者のところにリークは来ない、情報を出す側は自分の利益になる出し方をする、それを吟味してどう使うかがジャーナリズムの力量だ、と書き残している。
なお金子は1985年、亡命先の米国から帰国を決意した金大中の歓送会で、本人から色紙を贈られている。書かれていたのは「君子和而不同」の意を込めた一句だった。
証言その四、指示した側の周辺
韓国側の証言は、時期によって百八十度ひっくり返る。
李厚洛(イ・フラク)KCIA部長は、事件直後の1973年8月29日の記者会見で、中央情報部の関与を問われてしらを切った。中央情報部はそんな無謀なことをする機関ではなく、その程度の良識は持っていると自負している、と。
ところが1979年に朴正熙が暗殺され、1980年の「ソウルの春」が来ると、彼は郷里の友人にこう漏らしたと伝えられる。ある日、朴大統領が不快な口調で、金という男を消せという趣旨の罵声を上げた。数日後、大統領は私を大統領府に呼びつけて厳命を下した。悩んだ。彼を殺した場合、その責任がいつか自分に来ることがわからないほど馬鹿ではない。結局、拉致して韓国に連れてくる線で命令を消化することにした、と。
だがその後、全斗煥の新軍部が政権を握ると、彼はこの話を撤回する。1987年の月刊誌インタビューでは、朴大統領の直接指示はなかった、真相を明らかにするときが来るだろうと思う、と述べた。そのときは来ないまま、彼は2009年に亡くなった。
金大中はこの変転をこう解釈している。彼は賢い人だ。1980年にソウルの春が来て世の中が変わると思ったから、自分がやりたくてやったのではなく朴大統領が金大中を消せと言うから仕方なく動いたのだ、と漏らした。ところが全斗煥の新軍部が政権を取ったので、その発言を取り消したのだ、と。
一方、当時の首相だった金鍾泌(キム・ジョンピル)は正反対の証言を残している。2015年に中央日報に語ったところによれば、金大中が生還した翌日の8月14日午後、朴大統領に会うと、大統領は怒りを露わにしていきなり「あんたは知らなかったのか」と聞いてきた。そして、李厚洛のやつは金大中をソウルに連れてきたあとになって私に報告するのだ、私に一言もなくこんなことをしでかしたのだから、と怒りを隠せなかった。それでようやく私は、大統領が指示も関与もしていないと知って安堵した、と。
この二つの証言は両立しない。片方は嘘か、記憶違いか、あるいは演技を見せられたかのどれかだ。そして両当事者はすでに亡く、直接の裏取りはもう永久にできない。
証言その五、本人の口述
金大中自身は最後まで一貫していた。拉致は朴正熙が指示したことが確実であり、その目的は自分を殺すことだった。
彼は自伝や口述記録の中で、船上の場面を繰り返し語っている。真っ暗な甲板の下に監禁された。棺の底に敷く板のような板に、死体のように縛りつけられた。口には猿轡。両目は包帯。手足には石のように重い物体。綿布団を掛けなければ水中で浮いてくる、という声。「フカ」という日本語。そして、水葬の恐怖に震えたその瞬間にイエスを見た、という話。
彼はまた、米国の関与についてもはっきり語っている。米中央情報局は拉致の一時間後に情報を掴んだ。ハビブ駐韓米大使とグレッグCIA韓国支部長が韓国政府に対し、お前たちが金大中を殺すなら黙っていないと警告した。自分がイエスを見たその時刻に、日本が龍金号の上に飛行機を飛ばしたのは、米国の介入があったからだ。だから自分は命拾いした、と。
大統領になったあと、彼は一切の報復をしなかった。二男の金弘業が明かしたところによると、金大中の当選後、李厚洛が海外へ逃げようとしているという情報が入った。金大中は李厚洛側にこう伝えさせたという。海外に出なくてもよろしい。国内で気楽にいてください。李厚洛は金大中政権下で、この事件に関して取り調べも処罰も受けなかった。口を閉ざしたまま世を去った。
もうひとつ。2023年にソウルで開かれた事件五十年の討論会で、こんな逸話が紹介された。金大中の自伝を執筆した作家が、米国の北朝鮮担当特別代表を務めた人物の父親が事件当時の駐日韓国公使だったことを本人に伝えたとき、金大中はこう答えたという。息子に罪はない。絶対に蒸し返さないように、と。
指紋という物証と、外交特権という壁
日本の捜査は、じつは短期間でかなりのところまで到達していた。
2023年、朝日新聞が情報公開請求で警察庁から開示させた資料がある。1998年2月2日、金大中の大統領就任式の直前に警察庁外事課事件係が作成した「金大中氏拉致事件関係(捜査状況)」という十三枚の文書で、一枚目の上部には「秘(無期限)(用済後廃棄)」の判が押されていた。廃棄されるはずの文書が二十五年後に出てきたわけだ。
そこには、金東雲一等書記官が有力容疑者として浮上した根拠が並んでいる。エレベーターの中で「助けてくれ、人殺し」と助けを求められたという宿泊客の証言。そのとき周囲にいた五人の男の中に、金東雲とみられる人物が含まれていたこと。現場に残されたリュックサックの線を辿ると、販売した店が特定され、事件の二日前に二人の男に三個売られていたこと。店員が「購入者二人のうち一名は金東雲に似ている」と証言したこと。そして、現場から採取された指紋。
警察庁は1973年、外務省を通じて金東雲の任意出頭を求めた。9月5日朝、日本政府は李駐日韓国大使に出頭を要請している。大使は、金東雲がすでに出国していた事実を伏せたまま、外交特権を盾に拒否した。実際には、実行犯とされる人物たちは9月5日、6日と相次いで日本を出国しており、金東雲自身は8月19日にひそかに帰国していた。
警視庁は「少なくとも四つのグループ、総勢二十人から二十六人が事件に関与した」と公表している。だが、誰ひとり取り調べられていない。
ここは書き方に注意が要る。指紋が現場にあったこと、目撃証言に似た人物がいたこと、リュックの購入者に似ていたこと。これらは強力な状況証拠ではあるが、当人の弁明も、法廷での検証も、一度も行われていない。日本政府自身、1974年の国会答弁書の中で、金東雲一等書記官が拉致行為に関与していたという事実のみをもって、その行為を公的行為と断定することは現段階ではできない、と述べている。韓国側は1974年8月14日に金東雲を無罪とし、捜査打ち切りを発表した。1975年の第二次政治決着では「容疑事実を立証するに足る確証を見出し得ず不起訴処分となった」と通知している。つまり、法的には誰も実行犯と確定していない。この記事も、特定の個人を実行犯だと断定しない。名前が挙がっている人々は、捜査で容疑者として浮上した人物、あるいは後年の内部文書や報告書に記載された人物であって、司法の場で有罪が認定された人物ではない。
「パーにしよう」
日本の主権が真昼間に踏みにじられた。普通なら大事件である。ところが日本政府の動きは、驚くほど早く「収拾」へ傾いた。
8月26日、田中角栄首相はテレビのインタビューで、日韓関係の悪化を防ぐためできる限り譲歩したいという趣旨を述べている。翌27日付のロサンゼルス・タイムズは、日韓両国の指導者は事件を静かに葬り去るための捜査を欲しているようだ、と報じた。
9月末には、岸信介ら十一人がソウルを訪れて朴正熙や金鍾泌と会談し、中断していた日韓定期閣僚会議の早期開催を協議している。岸だけは残って10月6日に朴と単独会談し、帰国後の12日、訪欧訪ソから戻ったばかりの田中角栄を首相官邸に訪ねて「政治決着」を進言した。
11月2日、金鍾泌が訪日し、首相官邸で田中と会談する。金鍾泌は、金東雲の個人的犯行であって公権力は介入していない、捜査は続け法的手続きに従って処理する、と述べた。田中は、この事件を一段落させることで閣議の正式な了解を得たと応じ、これで外交決着をつけるが今後の捜査結果について日本国民の納得のいく通報を期待する、と言った。
表向きはそれだけの話だ。ところが2006年2月、盧武鉉政権下の韓国が外交文書一万七千ページを公開し、この会談の中身が出てきた。
田中が「韓国政府の介入事実が判明すれば、新しく問題を提起する」と言う。金鍾泌が聞き返す。必ずそうするということか、それとも「タテマエ」か。日本語の建前という語をそのまま使ったのである。田中の答えは、建前だ、この問題は「パー」にしよう、だった。ゴルフ用語である。
さらに、事件当時ソウル特派員だった毎日新聞の古野喜政が、この公開文書と格闘して書いた『金大中事件の政治決着』によれば、田中は「あの人がここに来なければいいと思います」とも発言している。あの人、とは金大中である。主権を侵害された国の首相の発言としては、なかなかのものだ。
原状回復についても手品があった。国際常識でいえば原状回復とは金大中が再び日本に来られるようにすることだが、これが「自由意思の回復」にすり替えられた。自宅軟禁を解除すれば日本に自由に行けるはずだから、それで足りるという理屈である。ところが韓国の旅券法には、刑事事件で起訴されている者への旅券発給を拒否できるという規定があった。朴正熙が最大の政敵をみすみす出国させるはずがない。古野は、この決着方の出所が日本の外務省であるとして「日本政府の陰謀」と断じている。
第一次政治決着の直後、凍結されていた対韓経済援助が12月24日に再開し、26日には第七回日韓定期閣僚会議が東京で開かれた。経済のパイプが元通りになった。1974年8月14日、韓国政府は金東雲を無罪とし、捜査を打ち切った。
1975年7月23日から24日にかけて、宮澤喜一外相が訪韓し、金東祚外相と会談する。宮澤は24日、韓国側は事件について最善を尽くしたと判断、これで決着した、と語った。韓国側はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関の関与を全面否定した。同時に、金大中の帰国前の海外での行為は不問にするという了解が両政府間で交わされた。文書の形はとっていない。第二次政治決着である。
この「不問」の約束は、五年後に紙くずになる。1980年の軍法会議で、金大中に死刑判決を下す理由のひとつとして、まさに日本滞在中の韓民統結成と活動が持ち出されたからだ。日本政府は、自分が結んだ了解が破られたときも、大きな声を上げなかった。
なお、田中角栄が朴正熙側から事件の揉み消し工作資金として現金を受け取ったという証言がある。『文藝春秋』2001年2月号の記事では、現金授受の場に同席したという元新潟県議が四億円という額を挙げている。ソウルでは三億円という数字が広く語られてきた。この件は証言のみで、公的に確認されたものではない。
米国は本当に止めたのか
「米国が止めた」という説は、この事件のもうひとつの核である。
事実として確認できるのは、まずタイミングの異常な早さだ。8月8日、フィリップ・ハビブ駐韓米大使はCIA韓国支部長のドナルド・グレッグを呼び、背後にKCIAがいるようだと怒りをあらわにして、明日の朝までに誰が拉致してどこにいるのかを調べろと指示した。グレッグは1964年から1973年まで東京に駐在し、その年の5月に韓国支部長になったばかりだった。大統領府はハビブの問い合わせに、韓国政府は誘拐事件について何も知らないと答えている。
8月9日午前1時30分(日本時間)、米国務省が声明を出した。米国政府は金大中の安全に深い関心を寄せている。この優れた韓国の政治指導者を尊重しており、訪米を歓迎するので、即時釈放を希望する。拉致から半日と経っていない。
同日朝、グレッグはハビブに報告した。犯行はKCIAによるもので、金大中は今、航海中の小型船舶に拉致されている。ハビブは大統領府に直行するかわりに、朴正熙にメッセージを伝えた。我々は金大中が拉致された事実を知っている。彼が殺されれば韓米関係に深刻な問題が発生する可能性がある。彼を生かせるように最善の努力を尽くしてほしい。
ハビブの本音は、少しあとの公電に出ている。1973年8月15日、ソウル発の国務省宛て電報でこう書いた。拉致をめぐる状況が次々と明らかになるにつれ、これはおそらく韓国政府が仕切った作戦だという私の当初の見解がますます裏づけられている。私はこれを、愚かな政府によるチンピラ仕事の典型例だと見ている。それから彼は続ける。この件で政府は、自らの唯一の本格的な政敵の背丈を、事実上高くしてやったのだ、と。
金平茂紀は2002年12月、ニューヨークでグレッグ本人に会い、最悪のシナリオを避けるためヘリコプターが緊急出動し、日本海上空から金大中を乗せた船に対して殺害をやめよと警告した事実を認めさせている。
一方、2007年の韓国国家情報院の報告書は、飛行機が飛来して殺害が中止されたという金大中の証言について「事実を確認できなかった」と結論づけた。米国の圧力が船の上の判断を変えたのか、それとも別の理由で計画が変わったのか、あるいは最初から殺害計画などなかったのか。ここは今も詰められていない。
ただ、確実に言えることがある。米国は事件の一日目にKCIAの犯行だと把握していた。日本の公安当局も、事前に不穏な動きを掴んでいた。そのうえで、金大中は連れ去られ、五日間行方不明になった。「知っていたのに止められなかった」のか「知っていたが止めなかった」のか。この問いは、五十三年たっても宙に浮いている。
三十四年後に韓国が認めたこと
真相究明は、日本ではなく韓国から動いた。
1977年6月22日、米国に亡命していた元KCIA部長の金炯旭が、米下院の国際機構小委員会、いわゆるフレイザー委員会で証言した。事件は李厚洛が指揮し、朴大統領の了承を得て実施された。警察はKCIA部員三人が金大中を尾行していることを知り、写真を撮った、と。1978年11月1日、同小委員会は最終報告書で、金大中はKCIAによってホテルから拉致された、と結論づけている。
1998年2月19日、金大中の大統領就任式の直前に、東亜日報が「KT工作要員実態調査報告」というKCIAの内部文書をスクープした。1979年3月10日付で作成されたこの報告書には、拉致に関与したKCIA要員四十六人の氏名、東京で拉致してソウルへ移送するまでの担当者と船員の氏名と役割が細かく記されていたという。同紙は当時のKCIA次長補だった李哲熙のインタビューも掲載し、事件は1973年春に李厚洛が「金大中を無条件に韓国に連れてこい」と指示したことでKCIA海外工作チームが行った、という発言を伝えた。
1998年6月には米国務省の資料が公開され、当時の駐韓米大使館が秘密電文で「李厚洛中央情報部長の指示の下、拉致事件が行われた。朴正熙大統領も明示的または暗黙的に承認したと見られる」と本国に報告していたことが明らかになった。
そして2007年10月24日。韓国国家情報院の「過去事件真実究明を通した発展委員会」が報告書を発表した。委員長は安炳旭。盧武鉉大統領が指示した現代史の見直し、独裁政権による権力犯罪の真相究明の一環である。
報告書の骨格はこうだ。事件は当時のKCIA部長・李厚洛の指示により、KCIA要員二十四人に駐日韓国大使館の公使らを加えた計二十七人による組織的犯行だった。事件後、韓国政府は組織的に真相の隠蔽を図った。朴正熙大統領の指示については、裏付ける直接の証拠は見つからなかったとしつつ、直接指示した可能性は排除できず、少なくとも暗黙の承認があったと判断される。
韓国政府が自国の国家機関による犯行だと認め、関与を公式に認めたのは、これが初めてだった。同日、駐日大使が外務省に外務副大臣を訪ね、日本国に陳謝している。
ただし、二つの点で報告書は歯切れが悪かった。ひとつは殺害目的の有無。報告書は、一連の過程で殺害のための直接的な行動はなく、拉致直前まで自主的な帰国を説得していたとし、ホテルで拉致した時点で殺害目的はなかったと判断した。もうひとつは飛行機の件で、事実を確認できなかったとした。
金大中は不満を隠さなかった。発表直後の記者会見で、事件が朴大統領の指示で行われ、殺害目的だったことは明らかだ、と述べている。10月30日には京都市内のホテルで会見し、報告書がその点を明確に指摘しなかったことは遺憾だと主張した。
日本政府は公式謝罪と捜査当局による関係者聴取を求めたが、正式な謝罪はその後もない。日本の警察庁はすでに捜査本部を解散しているが、容疑者が国外にいるため公訴時効は停止しており、形の上での捜査は今も続いている。事件は法的にはまだ生きている。
報道はどう変わってきたか
この事件の面白さのひとつは、報道の記録そのものが事件史になっていることだ。
まず1973年8月23日。読売新聞の朝刊が一面をほぼ全面使い、「金大中事件、情報部機関員が関係――韓国政府筋が認める」「李情報部長ら引責か」という見出しでソウル支局発の記事を掲載した。その日の夕方、韓国の文化広報部長官が読売新聞社に記事の全文取り消しを要求し、応じなければソウル支局を閉鎖すると脅した。読売は、この記事は信頼できる確実な筋から取材し自信をもって掲載したものであるから取り消し要求には応じられない、と回答した。支局は閉鎖され、特派員は追放された。韓国側の記録には、海外公館に「介入がなかった」と広報するよう指示していた事実も残っている。
1979年、共同通信が米国務省の秘密公電を掴んで報じ、日本の新聞各紙が社説で政治決着の見直しを要求した。両政府は伝聞証拠だと突っぱねた。
1983年、事件から十年。捜査本部の解散に合わせてTBSが「日本の公安当局は事件発生前に拉致計画を知っていた」と特報した。他社は追わなかった。
1998年、金大中の大統領就任直前に韓国の東亜日報がKCIA内部文書をスクープ。同じころ日本の警察庁は「秘(無期限)(用済後廃棄)」の内部文書を作成していた。
2002年、日韓合作映画『KT』(阪本順治監督)が公開される。中薗英助の小説を原作とするこの作品は、韓国公開時に「単純拉致」を主張する保守派と「暗殺目的」を強調する進歩派で真っ二つに評価が割れた。映画では米軍の要請で自衛隊のヘリが出動したという説が採用され、元自衛官の関与も描かれた。史実と虚構を織り交ぜたフィクションだが、二十年以上たっても緊張感が落ちないのは、要するに現実の真相が今も定まっていないからだ。
2006年、韓国が外交文書を公開し、「パーにしよう」が世に出た。
2007年、国家情報院の報告書。
2021年6月、ホテルグランドパレスが閉館する。コロナ禍と施設の老朽化が重なった。閉館直前の6月27日に2212号室に泊まった書き手の記録によれば、部屋はきれいに改装されており、当時の面影はまったくなく、壁の風景画だけが当時と同じだった。スイートの室料は四万七千円。別の宿泊者は、2212号室が22階のいちばん奥まったところにあり、実際に見てみると逃げるのも難しいと感じた、と書いている。ホテルはその後、解体された。現場が消えた。
2023年8月、事件五十年。井上幸彦の回想が出て、ソウルでは討論会が開かれた。同年12月、朝日新聞が警察庁の資料を情報公開請求で開示させ、指紋とリュックと目撃証言の中身が公になった。
こうして並べると、真相は一気に暴かれたのではなく、二十年、三十年、五十年という間隔で少しずつ滲み出してきたのがわかる。そして滲み出るたびに、「あのとき決着させた政治」の姿だけが、はっきりしていく。
諸説と、その反証
事件をめぐる主要な論点を、ひとつずつ潰しておこう。
殺害目的だったという説。根拠は、現場に残された十メートルのナイロン紐と大型リュック二つ、船上で重りを付けられ手足を縛られたという被害者の証言、そして「布団に包んで投げ込めば浮いてこない」「フカ」という犯人側の会話である。反証として、2007年の国家情報院報告書は殺害のための直接的な行動はなかったと判断し、拉致直前まで自主帰国を説得していたとする。また、拉致の目的は海外での反政府活動を抑えることだったとする元KCIA職員の証言もある。ただし、その報告書自体、KCIAの後身組織による調査であり、殺害の意図を認定することの政治的重みを考えれば、慎重になった可能性は残る。金大中が「遺憾だ」と反発したのはそこだ。
朴正熙の指示があったという説。金炯旭のフレイザー委員会証言、米大使館の秘密電文、李哲熙の証言、そして李厚洛が1980年に漏らしたという話が根拠になる。反証として、金鍾泌が「大統領は激怒していた」と証言していること、李厚洛が1987年に発言を撤回したこと、そして国家情報院の調査でも直接指示の証拠が見つからなかったことが挙がる。一方で、絶対権力者の許可も黙認もなしに、隣国の首都で白昼、有力政治家を拉致するという外交上の大事件を実行できるとは考えにくい、という常識的な反論もある。報告書の「少なくとも暗黙の承認があった」という表現は、この綱引きの真ん中に着地した言い方だ。
北朝鮮の犯行に見せかけようとしたという説。現場の北朝鮮製たばこがその根拠で、当時の捜査幹部も偽装と見ていたと語っている。反証というほどのものはないが、たばこ一箱で世界を騙せると本気で思っていたのなら、工作としてはあまりに稚拙である。逆に言えば、拙速で計画が組まれていたことの傍証にもなる。
暴力団関与説。米誌『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』は、朴正熙と関係の深い在日の顔役がホテルのフロアをほとんど借り切ってKCIAに協力したと報じた。ニューズウィーク東京支局長は本社に、この人物はKCIAと緊密に動いて事件の背後にいたが、日本のどの新聞も取り上げないのは、その組が自分たちを誹謗する者を日本人であっても拷問し殺すことすら厭わないからだ、と書き送っている。金大中自身も、東京に着いたとき友人たちから在日の暴力団に狙われていると忠告された、彼らは民団やKCIAと強い結びつきがあるのだ、と後年語っている。ただしフロアを借り切ったという話は日本側の捜査記録では確認されておらず、噂の域を出ない部分が大きい。日本語版の記録では、犯行グループは2210号室を予約し、2215号室は「たまたまドアが開いていた」となっている。
自衛隊関与説。これは元自衛官が調査を請け負っていた点は事実として確認されている。ただし拉致の依頼を受けて断ったという話であり、組織としての自衛隊が加担したという証拠はない。1973年10月9日の衆議院内閣委員会で、社会党議員が陸幕二部の特別勤務班、通称「別班」に言及したところ、防衛局長は新聞や雑誌に別班という言葉が出ているが我々は陸幕二部で別班というものを持っていない、と存在を否定した。その直後、評論家が週刊誌で、当該人物は別班のOBだと自衛隊関係者からの情報として発表している。なお、9月末に官房副長官が元自衛官二人と直接会い、すべての連絡を絶って潜伏するよう指示し、逃避と生計の資金として計千三百万円を提供したとされる。事実だとすれば、日本政府の中枢が捜査の障害になっていたことになる。
田中角栄の四億円説。証言者は現金授受の場に同席したという元県議一人。金額も三億とも四億とも言われ、確定していない。ただ、「パーにしよう」という発言が公文書で裏づけられている以上、金銭の有無にかかわらず政治的意図は明白だった、とは言える。
生き延びた男のその後
拉致された男は、そのあと何度も殺されかけた。
1973年8月16日から自宅軟禁。1976年、民主救国宣言に関わって禁錮八年。1979年10月26日、朴正熙がKCIA部長の銃弾に倒れる。翌1980年2月29日に公民権を回復し政治活動を再開するが、三か月後の5月18日に再逮捕された。この逮捕が引き金となって光州で民主化要求のデモが起き、軍がこれを武力で鎮圧する。
1980年9月17日、軍法会議は金大中に死刑を宣告した。内乱陰謀の首謀者とされた。日本では鈴木善幸首相が11月21日に駐日韓国大使と会談し、日韓親善から見て金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ないと発言、その旨を全斗煥大統領に伝えるよう求めた。朝鮮日報はこれを内政干渉だと批判した。ローマ教皇からも助命の訴えが届いた。国際的な批判が強まり、1982年1月に無期懲役へ減刑、さらに懲役二十年に減刑され、同年12月23日に刑執行停止で釈放されて米国ワシントンへ出国した。二度目の亡命である。
1985年2月、彼は危険を承知で帰国する。米国の政治家や人権活動家ら二十数人が同じ飛行機に乗り込んだ。金浦空港で情報機関員が同行者たちを突き飛ばし、金大中を引き離して連れ去った。それでも彼は生きて自宅に着いた。以後は五十五回に及ぶ軟禁生活が続く。
1987年の六月抗争で大統領直接選挙が実現したが、野党が金大中と金泳三に分裂して盧泰愚に敗北。1992年の大統領選でも金泳三に敗れ、政界引退を宣言して英国へ渡った。1994年に帰国してアジア太平洋平和財団を作り、1995年に政界復帰。
そして1997年12月、四度目の挑戦で当選した。奇妙なことに、このとき手を組んだのは、二十四年前に「パーにしよう」の場にいた金鍾泌である。韓国憲政史上初の、選挙による水平的政権交代だった。1998年2月、七十四歳で第十五代大統領に就任。通貨危機の後始末に追われながら、同年10月には国賓として来日し、小渕恵三首相と日韓共同宣言に署名して、韓国内の日本大衆文化の開放に踏み切った。拉致された国に、大統領として戻ってきたわけだ。
2000年6月、平壌を訪問して金正日と初の南北首脳会談を行い、六一五南北共同宣言を発表。同年12月、ノーベル平和賞を受賞した。韓国人として初めてだった。
ただし彼の対北政策には強い批判もある。首脳会談の裏で現代グループを通じた巨額の対北送金が行われていたことがのちの特別検事の捜査で明らかになり、会談は金で買ったものではないかという批判が今も残る。太陽政策そのものが北朝鮮の延命を助け核開発の余力を与えたという指摘もある。彼は聖人ではない。だが、拷問と死刑判決と亡命を経て大統領になり、自分を拉致した組織の元トップに「国内で気楽にいてください」と伝えた人物であることも、また事実だ。
2009年8月18日、金大中はソウルの病院で多臓器不全により死去した。八十三歳。同じ年の5月には盧武鉉が世を去っており、太陽政策を推し進めた二人の大統領経験者が四か月足らずで相次いで逝った。
そして2025年7月、金大中が1972年8月3日から1973年5月11日まで手書きで綴った日記二百二十三編が、韓国で書籍化された。妻の李姫鎬が2019年に亡くなったあと、三男が東橋洞の自宅で六冊の手帳を見つけたのだという。拉致される前の亡命者が、何を考え、何に怯えていたのか。史料はまだ増えている。
なぜこの事件は五十三年たっても薄れないのか
怪談ではない。心霊でもない。それでも、この事件には人をぞわりとさせる何かがある。理由はいくつかある。
まず、場所だ。九段下の交差点、新しい高級ホテル、22階のスイート、絨毯敷きの静かな廊下。日常の中でもとりわけ安全そうな場所で、真っ昼間に、人が薬品で昏倒させられて消えた。しかも隣の部屋には二人の証人がいて、廊下では叫び声が上がり、エレベーターの中では助けを求める声が聞こえていた。それでも誰も止められなかった。密室でも夜道でもない場所の無防備さが、いちばん怖い。
次に、犯人が国家だということ。強盗でも狂人でもない。外交官の身分証を持った、隣の国の公務員たち。そして彼らを止める役目の人たちは、事前に動きを掴んでいながら結果的に止められなかった。捜査は物証まで到達しながら、外交特権と政治判断の壁に当たって止まった。個人の悪意ではなく、制度と制度の隙間で人が消える。この構図は、いま読んでも古びない。
三つめは、「決着」という言葉の使われ方だ。政治決着という日本語がこれほど不気味に響く用例も珍しい。真相究明をやると言いながら、それが建前かと問われて建前だと答え、パーにしようで終わる。国家の主権が侵害された事件が、経済援助の再開と閣僚会議の日程と引き換えに、静かに畳まれていった。被害者の原状回復は言葉の言い換えで処理され、その言い換えすら五年後には反故にされた。
四つめは、いまだに開かない箱があることだ。誰が命じたのか。船の上で本当は何が起きたのか。日本の当局はどこまで知っていて、なぜ止められなかったのか。関係者はほとんどが世を去った。李厚洛も、朴正熙も、金鍾泌も、金大中本人も、あの管理官も。証言で埋めるしかない部分は、証言者がいなくなった時点で永久に埋まらなくなる。
そして最後に、この事件が「もしも」を含んでいること。あの日、船の上で計画が変更されていなかったら。金大中は日本海に沈み、韓国の民主化の歴史は違う形をとり、1998年の日韓共同宣言も、2000年の南北首脳会談も、韓国初のノーベル賞もなかった。歴史の分岐点が、東京発の貨物船の甲板の上に置かれていた。それを思うと、九段下のホテルが解体されてもう跡形もないという事実が、妙に落ち着かない。
わからない怖さではない。わかっているのに動かない怖さだ
ここからは腰を据えて、もう少し踏み込む。
まず、この事件を「未解決事件」と呼ぶことの意味を整理しておきたい。ふつう未解決事件といえば、犯人がわからない事件を指す。だが金大中事件は違う。実行組織はわかっている。指示者もほぼ特定されている。参加人数も報告書で二十七人と数えられ、1979年の内部文書には四十六人の氏名が列挙されていたという。被害者は生きて帰り、詳細な証言を残した。現場には物証があり、指紋まで出た。目撃者もいた。ここまで材料が揃っていて、なお未解決なのだ。足りないのは情報ではなく、手続きである。誰も取り調べられず、誰も起訴されず、誰も法廷に立たなかった。この事件が語りかけてくるのは、「わからない怖さ」ではなく「わかっているのに動かない怖さ」のほうだ。
その現実主義の代償を、誰が払ったのか
日本側の対応も、もう少し公平に見てみたい。当時の日本政府を弱腰と切って捨てるのは簡単だが、置かれていた状況を見れば、単純な意気地なしの話ではないことがわかる。1973年は、日韓国交正常化からまだ八年しか経っていない。冷戦の最前線に韓国があり、その安定は日本の安全保障の前提だった。同じ年の秋には第一次石油危機が来る。田中角栄内閣は日中国交正常化を成し遂げたばかりで、対外関係の同時多発的な処理に追われていた。ここで韓国と全面対決すれば、朴正熙政権が揺らぐ。揺らげば北が動くかもしれない。米国もそれを望まない。日韓の経済関係を握っていた保守政界の実力者たちが「政治決着」を進言したのは、彼らなりの現実主義だった。
だが、その現実主義の代償は誰が払ったのか。まず金大中である。原状回復は言い換えで消され、海外での言動を不問にするという約束は五年後の死刑判決の材料に化けた。次に、日本の捜査員たちだ。指紋まで詰めた事件を、政治の判断ひとつで凍らされた。井上幸彦が五十年後になお「犯人と被害者の供述がきちんと得られなかったのが心残りだ」と語るのは、その悔しさの残響だろう。そして三番目に、日本の主権という概念そのものが払った。国家の主権は抽象的な言葉だが、それが具体的に試されるのはこういう瞬間だけだ。試された結果、日本は「経済援助の再開と閣僚会議」と交換した。この交換レートが妥当だったかどうかは、五十三年たっても議論が終わっていない。
「知っていた」という、いちばん重い一語
次に、「知っていた」という問題を掘りたい。金平茂紀の証言によれば、警視庁外事二課はKCIA要員の露骨な追尾を把握し、韓国側に警告まで発していた。そのうえで目の前でやられた。ここには二つの読み方がある。ひとつは、警告した以上まさか本当に実行するとは思わなかった、という単純な読み違い。井上幸彦が「日本の主権を踏みにじることを韓国がやったとは信じがたかった」と語っているのと符合する。もうひとつは、外事警察の情報が政治レベルで止まったか、あるいは意図的に泳がされていたという読み方だ。後者は魅力的な仮説だが、それを裏づける公的資料はいまのところない。ただ、9月末に官房副長官が元自衛官二人を潜伏させ資金まで渡したとされる話が事実なら、政府中枢が捜査の完結を望んでいなかったことは間違いない。潜伏させたのは、彼らが日本の情報機関の元関係者だったからだろう。ここを掘ると、事件は韓国の犯罪であると同時に、日本国内の情報コミュニティの問題にもなる。だから箱が開かない。
甲板の下で、証言がいちばん食い違う
船の上の九十分についても書いておく。この事件で最も証言が食い違うのがここだ。金大中は明確に、重り、猿轡、包帯、板、そして「フカ」という言葉を語った。乗組員の証言は「飛行機の音を聞いた」と「聞かなかった」に割れている。2007年の報告書は飛行機の飛来を確認できなかったとし、殺害の直接行動もなかったとした。グレッグはヘリコプターの出動を認めた。
これらをどう整合させるか。ひとつの読み筋は、船上には複数の判断層があったというものだ。工作チームの現場指揮者、船長、そして無線の向こうにいる本部。本部の指示が「連行に切り替えろ」に変わったのが、飛行機の飛来より前だったのか後だったのか、乗組員の位置によって見えていたものが違ったのではないか。全員が甲板にいたわけではないのだから、音を聞いた者と聞かなかった者がいて当たり前だ。もうひとつの読み筋は、殺害計画が最初から「保険」として用意されていただけで、実行の決断は最後までなされていなかったというもの。この場合、重りを付ける作業は威嚇と準備の両方の意味を持つ。金大中にとっては殺される準備そのものに見えたし、実際に見えるように仕組んでもいた、という解釈だ。
どちらにせよ、当事者に殺意があったかどうかを、外から後年に確定するのは難しい。だからこそ、この記事では誰が実行犯で誰が殺そうとしたか、という断定を避けている。名前が出ている人々は、日本の捜査で容疑者として浮かんだ人、韓国の内部文書や報告書に記載された人であって、司法の場で責任を確定された人ではない。この区別は面倒くさいが、面倒くさいまま維持するしかない。事件を政治で畳んだ側と同じ雑さで、こちらが人を裁いてしまっては話にならないからだ。
一年後、立場が入れ替わった
この事件が日韓関係に残したものにも触れたい。皮肉なことに、事件のちょうど一年後、1974年8月15日に文世光事件が起きる。光復節の式典で朴正熙が狙撃され、弾は逸れて妻の陸英修に当たり、彼女は死亡した。犯人は日本で発行された旅券を使って渡韓し、凶器の拳銃は日本の交番から盗まれたものだった。韓国政府は日本に謝罪と協力を要求し、一年前とは立場が入れ替わる。ここでも米国が仲裁に入り、田中角栄から朴正熙への親書で収拾された。二つの事件は鏡像のように並んでいて、どちらも真相が完全には詰められないまま外交で処理された。国境をまたぐ事件が、司法ではなく外交の案件として扱われる。この前例が、その後の日韓の懸案の処理の仕方に長く影を落としたと見ることもできる。
同じ真相を、片方の国だけが掘った
なぜ韓国側から真相究明が動いたのか。答えは単純で、韓国が民主化したからだ。1987年の直接選挙制導入、1993年の文民政権、1998年の政権交代、そして2000年代の過去事清算。国家が自分の過去の犯罪を調べるという作業は、体制が変わらないと絶対に始まらない。2007年の報告書が出せたのは、拉致された当人が大統領を務めた国で、その後継政権が過去の権力犯罪を洗う方針を掲げていたからである。逆に日本側では、政治決着を主導した勢力の系譜がそのまま続いていたから、真相究明の動機が生まれなかった。同じ事件の、同じ真相を、片方の国だけが掘った。この非対称性こそが、事件の後半生を決めている。
誰かが規則どおりに捨てなかったおかげで、残った
記録の消え方についても書いておきたい。ホテルは2021年に閉館し、解体された。2212号室も2210号室も、もうこの世に存在しない。関係者はほとんど鬼籍に入った。警察庁の文書には「用済後廃棄」の判が押されていた。廃棄されていれば、2023年の開示はなかった。つまり我々がいま知っていることの一部は、誰かがルール通りに捨てなかったおかげで残っている。歴史というのは、そういう偶然の積み重ねで辛うじて形を保っている。金大中の亡命日記が三男によって自宅で発見されたのも同じだ。手帳六冊が、五十年以上ただ置かれていた。
悪意より、正当化された合理性のほうが人を遠くまで運ぶ
最後に、この事件を今読む意味について。金平茂紀は、あの回想の締めくくりで、公安情報や諜報の世界を取材する記者が陥りやすい自家中毒について警告している。敵と味方、スパイと味方、活動家と味方、悪者と正義、非同盟国と同盟国。二分法のレンズを通してしかものが見えなくなる病だ。記者だけでなく、政治家や学者にも見られると彼は書く。そしてこの傾向が近年この国をおかしくしているのではないか、杞憂に終わればよいのだが、と結んでいる。
金大中事件は、まさにその二分法が生んだ事件だった。朴正熙の側から見れば、金大中は北に利する危険人物であり、除くべき敵だった。だから海外で反政府活動をする「敵」を国境を越えて排除することが、愛国の行為として正当化された。実行チームの名乗りが「愛国青年救国隊」だったことを思い出してほしい。彼らは自分たちを悪だとは思っていなかっただろう。国家の名において、味方でない者を消しにかかる。その論理に一度火が点くと、外交特権も国境も他国の主権も、単なる手続き上の障害物になる。
そして日本の側は、その論理を止める側に立つのではなく、経済と安全保障という別の合理性でそれを畳んだ。どちらの側にも、それぞれの理屈があった。理屈があるということが、いちばん厄介なのだ。悪意より、正当化された合理性のほうが人を遠くまで運ぶ。
九段下の交差点に立っても、もう何も残っていない。ホテルは消えた。だが、白昼のロビーに護衛を残して一人でエレベーターに乗った男が、その八十分後にはもう東京から連れ出されていた、というスピード感だけは覚えておいていいと思う。国家が本気で人を消しにかかるとき、かかる時間はそのくらいなのだ。そして、それを止めるはずの仕組みが動き出すには、通報から三十五分、政治が結論を出すには三か月、国が事実を認めるには三十四年かかった。この時間差こそが、この事件の正体である。
