奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

木曽川・長良川連続リンチ殺人事件――十一日で四つの命が消え、少年三人に死刑が確定するまでの十六年半

木曽川と長良川。どちらも濃尾平野をゆったり流れる、地元の人にとっては散歩コースだったり釣り場だったり、要するに何でもない川だ。堤防にのぼると風が抜けて、対岸の灯りがぽつぽつ見えて、若い連中が夜中に集まって缶コーヒー飲みながら喋っている、そういう場所でもある。

一九九四年の秋、その二本の川の河川敷が、たった二晩のあいだに続けて殺人現場になった。しかもその二晩の前に、大阪の雑居ビルの一室ですでにひとり殺されていた。合わせて四人。負傷してかろうじて生き延びた人がもうひとり。

事件は当時、木曽川事件、長良川事件、大阪事件と個別の名前で呼ばれ、まとめて木曽川・長良川連続リンチ殺人事件、あるいは大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件と呼ばれるようになる。呼び名がややこしいのは、犯行が府県をまたいで移動しながら続いたからだ。加害者側の中心にいたのは、当時十八歳と十九歳の三人。彼らは十六年半にわたる裁判の末、日本の少年事件史上はじめて、三人同時に死刑が確定した被告人になった。

この記事では、その十日ほどの出来事と、そこから始まった長い裁判、そして今も終わっていない議論を追いかける。加害者は少年事件なので実名では書かない。少年A、少年B、少年Cという記号で通す。暴行の中身についても、書けば書くほど記事は読ませるものになるのは分かっているけれど、そこを娯楽にした瞬間にこの記事は書く価値を失うので、必要な範囲でしか触れない。そのぶん、判決文が何を言い、誰が何を語ったかに紙幅を割く。

そもそもこの三人は、どうやって出会ってしまったのか

話は一九九四年の夏に戻る。愛知県一宮市の出身で、この年に十九歳になっていた少年Aは、八月十日、津島市のパチンコ店の駐車場で会社員の男性に声をかけ、車に乗り込んで因縁をつけ、暴行して三万円を奪っている。強盗致傷だ。この一件で指名手配され、少年Aは奪った金を握って大阪へ逃げた。

逃走先で偶然出会ったのが、大阪府松原市出身の少年B。年齢は同じ十九歳。少年Bはこのとき、指定暴力団の系列組織に出入りしていた四十五歳の男Tとつながっており、少年AはBの紹介でTと引き合わされる。

九月に入ると、大阪市西成区出身の少年Cも同じ輪に加わった。当時十八歳。ここに、もうひとり同い年くらいの少年Uが加わって、九月なかば、四人はTと盃を交わし、代紋を受け取っている。要するに、正規の組員というより、暴力団の周辺に群がった半端な集団だ。

序列らしきものはあったが、それは年功でも実力でもなく、誰がいつ来たか、誰が誰の紹介かという偶然で決まっていた。あとで裁判所が繰り返し指摘することになるのだが、この序列の曖昧さと、互いに「弱く見られたくない」という見栄が、この事件の核心にある。

三人の生い立ちは、それぞれに重い。少年Aは、生母が出産直後に亡くなり、親戚の家に養子に出された。その家の周囲には暴力団関係者が複数いて、幼いころは日常的に暴力の気配のなかにいた。小学三年のとき、身に覚えのない盗みを疑われて警察沙汰になった経験を、のちに繰り返し語っている。十三歳で教護院に入り、十代の大半を少年院と娑婆の往復で過ごした。

少年Cは七人きょうだいの四番目で、父は元暴力団員、家は極度に貧しく、汚れた服が理由で小学校で激しいいじめを受けている。小学六年でシンナーを覚え、卒業と同時に学校に行かなくなり、十四歳で母が家を出た。

少年Bだけはやや事情が違い、経済的には恵まれた家庭の末っ子だったのだが、中学で部活をやめたあたりからシンナーと不良交友にのめり込み、定時制高校を一学期で中退している。

この劣悪な家庭環境という言葉は、のちに法廷でも報道でも数えきれないほど繰り返される。ただ、そこで思考停止すると事件は理解できない。裁判の過程で心理鑑定にあたった非行臨床の研究者は、この事件を「発達の未成熟」「不幸な出会い」「仲間同士のコミュニケーションの薄さ」という三つの言葉で説明した。とくに三つ目が重い。彼らは仲間だったのに、互いのことをほとんど知らなかった。信頼で結ばれていたのではなく、シンナーと暴力と、ここを抜けたら自分が下になるという恐怖でつながっていた。だから止められなかった。

九月二十八日、道頓堀の路上から始まった十七時間

一九九四年九月二十七日、グループは大阪市中央区島之内のビルの一室に拠点を移す。翌二十八日の午前三時ごろ、道頓堀の繁華街で、少年Aと少年Cが二十六歳の男性ふたりとトラブルになった。ひとりは逃げ、もうひとりが捕まった。その男性が、この連続事件の最初の犠牲者になる。

拠点に連れ込まれた男性は、両手を縛られたまま、丸一日近く監禁された。少年たちは当初、工事現場に人夫として送り込んで金にする、というようなことを言っていたらしい。つまり殺すつもりは最初はなかった。だが、その計画がうまくいかないと分かるにつれて苛立ちが募り、そのたびに理不尽な理由で暴力が繰り返された。トランプで負けた腹いせ。女友達とのやりとりで面子をつぶされた腹いせ。理由になっていない理由ばかりだ。

そして夕方、被害者の傷が深くなり、もう送り込むこともできないと分かった時点で、誰からともなく消してしまおうという言葉が出た。ここが恐ろしいところで、誰かひとりが強く主張したわけではない。少年Aが少年Cに「お前はどうする」と振り、いちばん立場が下だと自認していた少年Cが「俺がやりますわ」と応じた。その一往復のやりとりで、共謀は成立してしまった。午後八時ごろ、男性は亡くなっている。二十六年の人生が、行きずりの若者たちの、たった数分の会話で終わった。

夜になって拠点に現れた男Tは、事情を聞くと、大阪から離れた山中なら足がつかないと判断し、遺体の運搬に手を貸す。少年Aと少年Uを同乗させ、フェリーで四国へ渡り、高知県安芸郡奈半利町の山中に遺棄した。この遺体が発見されるのはずっと後のことで、それまで男性は行方不明者として扱われ続けた。家族は、息子がどこかで生きているかもしれないという、いちばん残酷な種類の希望のなかに置かれることになる。

十月六日、木曽川。仲間だったはずの男が標的になった

大阪の一件のあと、三人は愛知へ移動した。少年Aの地元だ。かつて一緒に遊んでいた不良仲間と合流し、知人宅でシンナーを吸っていた。そこにいたのが、二十二歳の型枠大工の男性。彼は少年Aの仲間だった。友人と呼べたかどうかは分からないが、少なくとも敵ではなかったはずの人物だ。

十月六日の深夜、些細な行き違いから、その男性が集団の標的になった。三人の主犯格に加えて、その場にいた別の若者たち、あわせて八人ほどが、木曽川の河川敷で長時間にわたって暴行を加え、堤防から突き落として立ち去った。男性は搬送先で亡くなっている。

この木曽川事件が、のちの裁判で最大の争点のひとつになる。殺意があったのか。あるいは、暴行と死のあいだの因果関係はどこまで認められるのか。第一審で弁護側は、搬送された病院に脳神経外科がなく、必要な手術が行えなかったという事実を医師名簿まで持ち出して立証し、結果として一件について傷害致死という認定を勝ち取った。この一点が、少年Bと少年Cの一審での無期懲役につながる。逆に言えば、控訴審でこの認定がひっくり返ったとき、二人の運命も一緒にひっくり返った。ひとつの法的評価が、三人の生死を分けたのだ。

仲間を殺した、という事実は、この事件の陰惨さを象徴している。通りすがりの他人ではなく、昨日まで同じ部屋でシンナーを吸っていた相手だった。仲間内の序列と面子でしか回らない集団では、内側にいる人間ほど簡単に外側に落とされる。そして落とされた瞬間、そこには何の保護もない。

十月八日未明、長良川。ボウリング場での一言から

その翌日、十月七日の深夜。三人は稲沢市のボウリング場にいた。そこで、たまたま居合わせた若い男性三人組に因縁をつける。お前らどこのもんや、というような、何の中身もない言いがかりだ。三人は車に乗せられ、何か所か連れ回された末、日付が変わった十月八日午前一時ごろ、岐阜県安八郡輪之内町の長良川右岸の堤防に降ろされた。

そこで待っていたのは集団による暴行だった。二十歳の男性と十九歳の男性が亡くなり、もうひとりの二十歳の男性は重傷を負いながらも生き延びた。奪われた現金は一万一千円ほど。三人目と四人目の命が、その程度の金額と、その程度の言いがかりで失われた。強盗殺人と強盗致傷、そして監禁。それが検察の付けた罪名だ。

亡くなったふたりは、どこにでもいる若者だった。地元で働き、休みの日には友達とボウリングに行く。そういう夜だった。彼らはこの日、たまたまその場所にいて、たまたま声をかけられた。事件の理不尽さというのは、結局この一点に尽きる。彼らが何かをしたわけではない。何もしていないのに選ばれた。

午前六時十五分ごろ、堤防を通りかかったトラック運転手が倒れている二人を見つけ、警察に通報した。ここから捜査が動き出す。

生き残った一人の証言と、十日で崩れた集団

捜査の突破口を開いたのは、長良川で生き延びた男性だった。彼の証言から、犯人グループの輪郭が急速に浮かび上がる。十月十日には主要メンバーが特定され、指名手配がかかった。十月十二日に少年Cが別件で身柄を取られ、十月十四日には少年Aが一宮署に出頭して、木曽川事件の殺人容疑で逮捕された。年が明けた一九九五年一月十八日、少年Bが和歌山市内で逮捕される。

大阪事件のほうは、行方不明のまま時間が経っていた。共犯の少年Uが十一月二十六日に両親に付き添われて出頭し、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕されたことで、四国の山中に遺棄された遺体の存在が明らかになる。

ここに、あとから振り返るとぞっとするような分岐がある。捜査段階で弁護側は、大阪事件について自首が成立して減軽されると見込み、被疑者に自白を勧めた。ところが結果として、罪に問われる殺害の被害者が三人から四人に増え、死刑の可能性を跳ね上げてしまった。この判断について、担当弁護人は二十年後に公然と後悔を語ることになる。

最終的に、この一連の事件で刑事責任を問われたのは十人。成人が三人、少年が七人。起訴された八人は有罪が確定し、二人は少年審判で少年院送致となった。関与の度合いはまちまちで、傷害致死幇助や殺人幇助で執行猶予がついた者もいれば、不定期刑を受けて数年で社会に戻った者もいる。大阪事件の共犯だった少年Uは、少年刑務所を出たあと地元の不動産会社に就職し、二〇〇〇年代後半にジャーナリストの取材に応じている。同じ夜に同じ部屋にいた人間のあいだで、その後の人生がここまで分かれた。

一審に七年。名古屋地裁が出した「三人三様」の答え

初公判から判決まで、実に七年近くかかった。名古屋地裁が判決を言い渡したのは二〇〇一年七月九日。結論は、少年Aが死刑、少年Bと少年Cが無期懲役だった。

地裁の見立てはこうだ。少年Aは大阪、木曽川、長良川のすべてに関与し、しかも一連の流れのなかで主導的な役割を果たした。対して少年Bと少年Cは、木曽川事件について傷害致死にとどまる。だから責任には差がある、と。

判決理由のなかで裁判所は、彼らが自らの欲望や感情の赴くままに行動し、被害者を解放すれば警察に捕まると恐れ、仲間内で虚勢を張る心理から互いに同調して、事態を収拾できないまま最悪の結果を招いたと述べている。少年期特有の心理という表現も使われた。ただしそれは殺意の認定を覆すものではなく、あくまで情状としての考慮にとどまった。

弁護側は、この裁判で臨床心理学者による犯罪心理鑑定を持ち込み、彼らに確定的な殺意はなかったと主張していた。鑑定の中身は法廷でそれなりに重く受け止められたが、結論としては「情状では汲むが、殺意は認める」という線に落ち着く。もうひとつ、大阪事件について裁判所は自首の成立自体は認めながら、刑法上の減軽を適用しなかった。弁護側にしてみれば、いちばん効いてほしかったところで効かなかったことになる。

それでも、二人の無期懲役は当時としては大きな意味を持った。四人が亡くなった連続殺傷事件で、主犯格の二人が死刑を免れた。検察は当然控訴する。

控訴審のどんでん返し。「刑事責任は同等」の一行

名古屋高裁が判決を出したのは二〇〇五年十月十四日。ここで一審の構図は根本から書き換えられた。

高裁は、木曽川事件について傷害致死ではなく殺人と認定した。そのうえで、少年Bと少年Cの刑事責任は少年Aと同等であるとし、一審の無期懲役二件を破棄して、三人全員に死刑を言い渡した。少年事件で三人が同時に死刑を宣告されたのは、日本の司法史上はじめてのことだ。

この転換の重さは、いくら強調しても足りない。一審は主導と従属という枠組みで三人を見た。誰が言い出し、誰が引きずられたか。高裁はその枠組み自体を否定した。集団で人を殺すとき、言い出した者と手を下した者と場を煽った者のあいだに、量刑を分けるほどの差はない、という判断だ。実際、大阪事件の経緯を振り返れば、殺害の決定は誰か一人の意思ではなく、あの一往復で成立していた。高裁の認定は、その構造をそのまま量刑に反映させたとも言える。

同時にこれは、被告人ひとりひとりの生育歴や更生可能性といった個別事情の比重を下げる判断でもあった。三人はそれぞれまったく違う家庭に生まれ、違う経路でこの集団にたどり着いた。にもかかわらず、結論は同じ一行になった。弁護側はここを激しく争い、上告する。

二〇一一年三月十日、最高裁が打った終止符

上告審の弁論が開かれたのは二〇一一年二月十日。弁護側は、犯行時に彼らが少年であったこと、集団のなかでの役割に差があったこと、そして拘置所での長い年月を経て内省が深まっていることを挙げて、死刑の回避を訴えた。

判決は同年三月十日。最高裁は三人全員の上告を棄却した。異議申立ても同月三十日に退けられ、四月一日付で死刑が確定する。事件発生から十六年半、初公判からも十六年が経っていた。逮捕時に十代だった三人は、三十代半ばになっていた。

最高裁の判断の骨格は、犯行時に少年であったことは量刑上考慮すべき事情ではあるが、死刑を回避すべき決定的な事情とまでは言えない、というものだ。これは一九八三年の永山則夫事件の最高裁判決、いわゆる永山基準の延長線上にある。永山基準は、犯行の罪質、動機、態様、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状といった要素を総合的に考慮して、やむを得ない場合に死刑が許されるとした。年齢はその一項目にすぎず、それ自体が死刑を排除する要素ではない、というのが永山判決の到達点でもあった。

日弁連は判決当日、会長声明を出した。一九八三年以降、犯行時少年に対して死刑が確定した例はごくわずかであり、極めて稀有なケースであること。国連が死刑廃止を求める決議を重ねていること。子どもの権利条約や、いわゆる北京ルールズが、少年の行ったいかなる犯罪についても死刑を科してはならないと定めていること。そのうえで、少年事件の特性への配慮を欠いた判断だと批判し、死刑執行停止法の制定と制度の根本的検討を政府に求めた。

なお、これでこの事件が法廷から消えたわけではない。三人はその後それぞれ再審請求を行い、二〇一六年十二月に最高裁で請求棄却が確定し、その月のうちにまた次の請求を出している。二〇一〇年代半ばの動きというのは、上告審ではなく、この再審請求をめぐる攻防のことだ。刑は確定したが、争いは続いている。

永山基準という物差しを、十代に当てるということ

少年法五十一条は、犯行時に十八歳未満だった者について、死刑をもって処断すべきときは無期刑を科すと定めている。裏を返せば、十八歳と十九歳には死刑がありうる。この事件の三人は、犯行時に十八歳と十九歳だった。つまり法律の線引きの、ぎりぎり内側にいた。

ここが議論の焦点になる。十八歳の誕生日を境に、法律上の扱いは断崖のように変わる。しかし人間の成熟がその日を境に変わるわけではない。少年Cは犯行時、十八歳の誕生日から十一か月ほどしか経っていなかった。もし事件がもう一年早ければ、彼に死刑判決はありえなかった。この誕生日の偶然をどう考えるかは、法哲学の問題であると同時に、きわめて具体的な生死の問題だ。

一方で、線引きが必要だという立場も筋は通っている。どこかで線を引かなければ制度は動かないし、十八歳という線は選挙権や成年年齢とも整合する。そして何より、被害者側から見れば、加害者が十七歳十一か月だったか十八歳一か月だったかは、失われた命の重さに何の関係もない。

永山基準そのものについても、この事件は難しい問いを投げている。基準は九つほどの要素を総合考慮せよと言うが、要素の重みづけまでは定めていない。被害者が四人という結果の重大性は、若さや生育環境や更生可能性を何倍上回るのか。それを測る目盛りは、どこにも書かれていない。一審と控訴審で結論が正反対になったのは、まさにその目盛りが人によって違うからだ。同じ事実を見て、同じ基準を当てはめて、無期懲役と死刑という最も遠い二つの結論が出た。この事件がいまも刑事法の教材として引かれ続けるのは、その落差のせいでもある。

弁護人の懺悔。「あのとき黙秘を勧めるべきだった」

この事件をめぐって残された証言のなかで、いちばん生々しいもののひとつは、第一審で被告人のひとりの弁護を担当した名古屋の弁護士が、二十年後に自身のブログに書いた文章だ。彼は一九九四年十月から二〇〇一年七月まで、およそ七年にわたってこの事件に関わっている。

彼は懺悔という強い言葉を使った。捜査段階で、まだ発覚していなかった大阪事件について、自首が成立して減軽されるはずだと考え、自白を勧めた。しかし結果として、罪に問われる被害者の数が三人から四人に増え、死刑の可能性を決定的に押し上げてしまった。判決は自首の成立自体は認めたのに、減軽は適用しなかった。彼は、被疑者の黙秘権を最大限に使うべきだったと振り返り、あのとき大阪事件が表に出なければ状況は違ったかもしれないと書いている。自らの判断の甘さが事件全体の流れを当初の筋書きから大きく外させた、というのが彼の総括だ。

その同じ人物が、法廷では確かな仕事もしている。木曽川事件で、搬送先の病院に脳神経外科がなかったことを医師名簿で立証し、因果関係の主張を通して、一件を傷害致死に落とした。それが一審での無期懲役につながった。プロとして勝つべきところで勝ち、それでも最終的にはすべてが覆った。

さらに彼は、死刑判決のあと控訴審も弁護してほしいと長文の手紙を受け取ったとき、あえて断っている。理由は、自分は全力を出し切ってこの結果なのだから、新しい視点を持った弁護人に代わるべきだ、というものだった。突き放したように見えて、これほど誠実な判断もない。そして確定後も、彼は死刑囚となった元少年が雑誌報道で名誉やプライバシーを侵害されたときに救済に動き、確定死刑囚には人権がないのかと問い続けている。ひとりの弁護士が三十年近くこの事件を抱え続けているという事実そのものが、この事件の重さを物語る。

「情とか育ちなんて関係ない」。遺族が語ったこと

加害者側の生育歴が報じられるたび、遺族の心には別の種類の刃が刺さる。ジャーナリストの取材に応じた被害者遺族は、こう語ったと記録されている。情とか育ちなんて関係ない、犯したことの責任はきっちり法廷で取ってほしい、と。

この短い言葉には、遺族が置かれる構造がまるごと入っている。裁判が進むほど、法廷では加害者の生い立ちが詳細に語られる。母を亡くした、いじめられた、少年院を出たり入ったりした。それは弁護活動として当然のことだし、量刑判断に必要な情報でもある。だが遺族の側から見れば、自分の息子がなぜ殺されたのかという問いに対して、返ってくるのは加害者の人生の物語ばかりだ。息子の人生については、誰も同じ密度で語ってくれない。

同じ遺族が、死刑に反対する意見にも耳を傾けようとしたことが記録されている。廃止論の話を聞き、考え、しかし最後には「結局事件に戻ってきてしまう」。この一言も重い。理屈としては理解できる、でも身体がそこに戻ってしまう。遺族の感情を厳罰感情の一語で片づける議論が、いかに雑かということでもある。

長良川事件で息子を失った遺族は、その後、犯罪被害者支援の場で語り部として活動している。二〇二〇年代に入ってからの講演で語られたのは、捜査と裁判のなかで被害者が証拠のモノとしか扱われなかったという実感と、報道による二次被害だった。事件そのものの傷に、制度と報道が上塗りしてくる。この事件が起きた一九九四年は、犯罪被害者等基本法の成立より十年以上前で、被害者参加制度も意見陳述の仕組みもまだ整っていなかった。遺族は、自分の家族の事件について、公判の日程すら誰からも知らされないことがあった時代だ。

拘置所で聖書を読む男たち。更生は死刑を止める理由になるか

確定前後の彼らの様子は、複数の取材で伝えられている。これは読む人によって印象が正反対になる部分だ。

東京拘置所に移された少年Aは、拘置所のなかで本を読むようになった。家族の愛や友情や夢が核にある人は強い、そう知ったけれど自分にはそれがなかった、という趣旨のことを語っている。一九九八年から面会を続けたクリスチャンの女性を、二〇〇〇年代半ばから「おかん」と呼ぶようになった。拘置所関係者は取材に対し、事件直後は社会への敵意を剥き出しにして弁護士にすら警戒心を露わにしていたが、宗教教誨を受け、弁護士や篤志面接委員や教誨師との交流を重ねるなかで、徐々に内省を深めていったと証言している。

名古屋拘置所にいた少年Bは、時給二十数円という請願作業を続け、そのわずかな収入を被害者遺族に送れないかと考えていた。ジャーナリスト宛ての手紙には、悔やんでも悔やみきれない、人との出会いが人生を左右するとしか思えない、と書いている。同じ拘置所の少年Cは、独房で聖書を熱心に読み、三人のなかで最も教誨に真剣に取り組んでいると関係者に評された。プロテスタント系の教会から洗礼を受け、もし許されるなら伝道師になりたいと語ったことも伝わっている。

この事実をどう受け取るか。死刑存置の立場から見れば、これは刑が確定してから反省しても遅い、という典型例に見える。四人の命はもう戻らない。拘置所で聖書を読むことは、被害者の家族にとって何の慰めにもならない。むしろ、加害者だけが救われていくように見えることが、新たな苦痛にすらなる。

死刑廃止の立場から見れば、まったく逆に見える。人間はここまで変わりうる。十代で何の教育も愛情も受けずに育った人間が、環境と関わりを与えられれば内省に至る。それは少年法が前提としている可塑性そのものではないか。可塑性があると認めながら、その人を殺すという結論は矛盾していないか。

どちらの読み方も、事実そのものは共有している。事実は同じで、意味づけだけが正反対だ。この事件が三十年たっても議論を呼び続けるのは、まさにそこに理由がある。

死刑を支持する側が、この事件について言ってきたこと

存置論の立場からこの事件を見ると、論点は驚くほど明快になる。

四人が殺され、しかもその四人全員が、九月二十八日から十月八日までのわずか十一日のあいだに殺されている。誰ひとり抵抗できる状況になく、動機と呼べるものは金銭でも怨恨でもなく、その場の苛立ちと面子だけだった。しかも一件目のあとに二件目があり、二件目のあとに三件目があった。つまり彼らには止まる機会が二度あって、二度とも止まらなかった。この連続性こそが、彼らの危険性を証明しているという主張だ。

さらに存置論者は、量刑の公平を持ち出す。同じような事件で成人が死刑になるとき、犯行時十八歳や十九歳だったというだけで無期になるなら、それは被害者側から見て説明のつかない差別ではないか。生まれた日付という、被害者にも加害者にも制御できない偶然によって生死が分かれる制度のほうが、よほど恣意的ではないか。そして、遺族が受けた被害の回復という観点からは、加害者が生き続けることそのものが刑罰の不十分さを意味するのだ、という感情に根ざした論点も、無視できない重みを持って語られてきた。

死刑に反対する側が、この事件について言ってきたこと

廃止論の側からの反論も、感情論ではない。

第一に指摘されるのは、一審と控訴審で結論が正反対だったという事実そのものだ。同じ証拠、同じ法律、同じ基準を使って、無期懲役と死刑という最も遠い二つの結論が出た。これは死刑の適用が、裁判体の構成という偶然に大きく左右されることを示している。取り返しのつかない刑罰が、その程度の不安定さで決まっていいのか、という問いだ。

第二に、国際的な基準との齟齬がある。子どもの権利条約は十八歳未満への死刑を明確に禁じており、少年司法の運用に関する国連の準則も、少年の犯した罪について死刑を科してはならないと述べている。日本の少年法が十八歳を境界にしているのは条約に反しないという整理はあるものの、少年司法の理念からすれば、犯行時十代の若者を国家が殺すことには強い抑制が働くべきだ、という主張になる。

第三に、可塑性の問題がある。少年法が保護と教育を前提としているのは、若い人間は変わりうるという経験則に基づいている。実際にこの三人は、確定に至るまでの十六年間で明らかに変化した。変化しうると認めながら殺すのなら、少年法の理念とは何だったのかということになる。そしてもうひとつ、三人が育った環境について、社会の側にまったく責任はなかったのかという問いも突きつけられる。教護院と少年院を往復し続けた十代を、誰も救えなかった。その失敗の帳尻を、最後に死刑で合わせているのではないか、と。

名古屋アベック殺人事件と並べると、何が見えるか

この事件が語られるとき、ほぼ必ず引き合いに出されるのが一九八八年の名古屋アベック殺人事件だ。愛知と三重で、少年三人、少女二人、成人男性一人の計六人が、十九歳の男性と二十歳の女性を襲い、二日にわたって殺害した事件である。集団、少年、河川敷、そして動機らしい動機のなさ。構図はよく似ている。

しかし裁判の結末は正反対だった。名古屋地裁は一九八九年六月二十八日、主犯格の少年に死刑を言い渡す。十年ぶりの少年への死刑判決だった。ところが控訴審の名古屋高裁は一九九六年十二月十六日、これを無期懲役に減刑した。控訴審は六年を要し、被告人が訴訟指揮に反発して弁護団を二度解任するという異例の経過をたどっている。翌一九九七年一月に判決は確定した。

つまり、名古屋アベック事件は一審死刑から控訴審で無期へ。木曽川・長良川事件は一審で二人が無期、控訴審で三人とも死刑へ。振り子が逆方向に振れている。同じ愛知の地で、同じ高裁で、八年ほどの時間差で、正反対の向きに。

この対比は、二つのことを示している。ひとつは、少年への死刑がいかに紙一重の判断で決まるかということ。もうひとつは、一九八八年から二〇〇五年のあいだに、世の中の空気が確実に変わったということだ。

そのあいだに何があったか。名古屋アベック事件と、一九八八年から八九年にかけての女子高生コンクリート詰め殺人事件が凶悪少年事犯の双璧と呼ばれ、少年法への批判が噴き出した。一九九七年には神戸の連続児童殺傷事件が起き、少年法は二〇〇〇年に大きく改正されて、刑事処分可能年齢が十六歳から十四歳に引き下げられる。被害者側の権利を求める運動が広がり、二〇〇四年に犯罪被害者等基本法が成立する。木曽川・長良川事件の控訴審判決は、この一連の変化のちょうど真ん中に落ちた。判決が世論を作ったのか、世論が判決を作ったのか。それは誰にも言えない。ただ、判決が真空のなかで出されるものではないことだけは確かだ。

研究者のなかには、この事件と女子高生コンクリート詰め事件、名古屋アベック事件の三つを並べて、犯行の残虐性と連続性、集団事件特有の心理、グループ内の関係の希薄さ、そして全体を貫く安易さと無責任さという共通点を指摘する者がいる。とくに三つ目の関係の希薄さは効いている。強固な絆で結ばれた集団が暴走したのではない。むしろ絆がないからこそ、誰も止められなかった。

ネットの海でこの事件がどう語られてきたか

一九九〇年代後半、匿名掲示板が広まってから、この事件は繰り返し話題になってきた。とくに二〇〇五年の控訴審判決と二〇一一年の確定のときは、大量のスレッドが立った。反応の傾向は、時期によってはっきり違う。

確定当時の掲示板の空気は、圧倒的に当然だという声が多かった。四人殺してなぜ無期という一審への怒りが、控訴審の逆転で解消されたという受け止めだ。少年法への不信感がもともと強い層にとって、この判決は象徴的な意味を持った。一方で、少数ながら、生育環境の凄まじさを知って、この子たちには最初からチャンスがなかったと書き込む声もあった。

二〇一〇年代以降、SNSに議論の場が移ると、様相はやや変わる。事件の詳細を知らない世代が、まとめ記事や動画をきっかけに知り、加害者の生い立ちに驚くというパターンが増えた。同情ではなく、社会がここまで人を放置できるのかという驚きだ。

考察界隈で繰り返し語られてきた見立てはいくつかある。ひとつは、暴力団に利用された若者たちだ、という説。実際、成人男性Tがグループを取りまとめ、遺体の遺棄にも関与している。この構図から、少年たちは背後にいた大人の駒にすぎなかったのではないか、という読みが生まれた。ただしこれには明確な反証がある。Tが問われたのは死体遺棄罪であり、その量刑は懲役一年八月にとどまった。捜査でも公判でも、殺害の指示や共謀は認定されていない。少年たちは自分たちの判断で殺している。大人がいたことは事実だが、大人が殺させたわけではない。

もうひとつは、一審が正しく控訴審は世論に流された、という説。少年法批判が高まっていた時期に、裁判所が空気を読んで死刑を出したのだ、という見立てだ。これも一定の説得力はあるが、控訴審が変えたのは量刑判断だけではなく、木曽川事件の事実認定そのものだったという点を見落としている。傷害致死か殺人かという法的評価が変われば、量刑の前提が変わる。空気だけの問題ではない。

三つめは、三人の役割には差があったのにまとめて処理された、という説。これは弁護側が最後まで争った論点でもあり、まったく的外れとは言えない。ただ、大阪事件の経過を見ると、殺害の合意は特定の一人の命令ではなく、互いに顔色をうかがう短いやりとりで成立していた。役割の差を量刑の差に直結させるべきかどうかは、まさに一審と控訴審が分かれた論点そのものであり、まとめて処理されたという表現は、高裁が正面から理由を述べたことを軽く見すぎている。

それでも、なぜこの事件は語り継がれるのか

三十年以上たっても、この事件は忘れられない。理由はいくつかある。

まず、記録として際立っている。少年事件で三人同時に死刑が確定したのは、これが最初だ。統計上の異例は、それだけで記憶に残る。次に、裁判の長さがある。事件から確定まで十六年半。逮捕されたときに十代だった人間が、確定したときには三十代半ばになっていた。この時間の長さそのものが、死刑という制度の性質を露わにする。国家は、事件を起こしたときの若者ではなく、十六年後の別人のようになった人間に対して、刑を執行することになる。

そして何より、この事件にはここで止まっていればという分岐が多すぎる。津島の一件で早く身柄が取られていれば。大阪で誰かひとりが止めていれば。木曽川の夜に誰かが警察を呼んでいれば。長良川の堤防に降りる前に、誰かが車を停めていれば。そのどれもが起こらなかった。読む者が何度も同じ場所で足を止めてしまう構造を、この事件は持っている。

さらに、この事件は日本社会が少年犯罪と死刑をどう考えるかという二つの難問を、一度に突きつけてくる。片方だけなら、まだ整理できる。だが両方が絡み合うと、どんな立場に立っても矛盾が残る。矛盾が残る話は、人の頭のなかから消えない。だから語り継がれる。

最後に、忘れてはいけないことをもう一度書いておく。この事件の中心にいるのは、法律論でも制度論でもなく、四人の亡くなった人と、その家族だ。二十六歳、二十二歳、二十歳、十九歳。それぞれに仕事があり、友人がいて、翌日の予定があった。ボウリング場で笑っていた夜が最後になるなんて、誰も思っていなかった。事件をどれだけ精密に分析しても、その事実だけは動かない。分析はそこから始めるべきで、そこを踏み越えて娯楽にしてしまったら、書く側が二度目の加害をすることになる。

怪物ではなく、恐ろしいほど凡庸な力学

ここまで書いてきて、あらためて引っかかるのは、この事件が「例外的に凶悪な少年たちの物語」として消費されがちなことだ。

確かに結果は凄惨だし、判決も異例だった。けれど、事件の中身を細かく追っていくと、そこに現れるのは怪物ではなく、むしろ恐ろしいほど凡庸な力学だ。誰も強く望んでいないのに、誰も止められない。序列の下にいる者が、自分がやらないと下に見られる、と思い、上にいる者が、引くと面子が立たない、と思う。その掛け算だけで人が死ぬ。

大阪の一室で交わされた「お前はどうする」「俺がやりますわ」という短い応酬は、暴力集団に固有の言葉づかいではあるけれど、その構造自体は、部活でも会社でも同調圧力の効いた場所ならどこにでもある。違うのは、彼らの場に歯止めが一切なかったことだ。歯止めというのは、要するに、これ以上やるとまずいと言える誰かのことで、彼らの集団にはその役割を引き受けられる人間が一人もいなかった。互いに知り合って数週間から数か月、シンナーと代紋で結ばれただけの関係に、そんな役目を果たせる者がいるはずもない。

裁判の経過を振り返ると、この事件は日本の刑事司法が抱える構造的な不安定さを、これ以上ないほど明瞭に示している。一審は七年かけて三人を区別した。控訴審は同じ記録を読んで三人を同等とした。最高裁はそれを是認した。

ここで肝心なのは、どちらが正しかったかを外野が決められないという点だ。木曽川事件を傷害致死と見るか殺人と見るかは、暴行の態様と、その後の経過と、被告人の認識の三つをどう評価するかにかかっている。事実そのものが変わったわけではなく、事実の読み方が変わった。読み方が変わっただけで、二人の人間の生死が入れ替わった。永山基準は総合考慮を求めるが、要素の重みづけを決めていない以上、この揺らぎは制度に内蔵されている。裁判員制度が始まる前の事件だから、判断したのはいずれも職業裁判官だ。プロが読んでも結論が割れる。その事実は、死刑という不可逆な刑罰の運用について、存置か廃止かという立場を超えて共有されるべき問題提起だと思う。

加害者には可能性として、遺族には喪失として流れる時間

もうひとつ、この事件は時間というものについて考えさせる。

一九九四年十月の十日間で起きたことに対して、確定判決が出たのは二〇一一年四月。その間、加害者の三人は少年から中年に近い年齢まで拘置所で過ごし、少なくとも記録の上では大きく変わった。ある者は本を読み、面会に通う女性をおかんと呼ぶようになり、ある者は時給二十数円の作業でためた金を遺族に送ろうとし、ある者は洗礼を受けて伝道師になりたいと言った。

この変化を更生と呼ぶかどうかは立場によるが、変化が起きたこと自体は否定しがたい。ここに、死刑という制度の最も苦しい部分がある。制度は、罪を犯した時点の人間を裁くのか、それとも執行される時点の人間を殺すのか。理屈の上では前者だが、実際に執行台に立つのは後者だ。十六年半という歳月は、その二つを別人と呼べるくらいには長い。

一方で、遺族にとっての十六年半はまったく違う質を持つ。加害者が変わっていくその同じ時間、亡くなった人は一秒も年を取らない。息子はボウリング場の夜のまま止まっていて、家族だけが年を重ねる。加害者の変化を報じる記事が遺族にとってどれほど残酷に響くか、想像するのは難しくない。時間は、加害者には可能性として流れ、遺族には喪失として流れる。同じ十六年が二つの意味を持つ。

そして、この事件が現在に投げかけているものについて。二〇二二年に成年年齢が十八歳に引き下げられ、少年法も改正されて、十八歳と十九歳は特定少年という新しい枠に入った。原則逆送の対象は広がり、起訴後の実名報道も条件付きで可能になった。もしこの事件がいま起きたら、三人はほぼ確実に特定少年として扱われ、社会の目にさらされる度合いは当時よりずっと強かっただろう。

制度は、この三十年で明らかに厳罰化と可視化の方向に動いてきた。その動きの起点のひとつが、まさにこの事件を含む一九八〇年代末から九〇年代の少年事件群だった。名古屋アベック事件で一審の死刑が控訴審で覆ったとき、多くの人が司法に失望した。木曽川・長良川事件で控訴審が一審を覆して死刑にしたとき、多くの人が納得した。その振り子の動きを、世論の勝利と呼ぶのか、司法の揺らぎと呼ぶのかは、いまだに決着していない。

両立しないものを、両立しないまま置いておく

最後に、書き手として自分に言い聞かせていることを書く。

この種の事件を扱うとき、いちばん簡単なのは、加害者がいかに残酷だったかを細かく描いて読者の感情を動かすことだ。アクセスは伸びる。でもそれは、亡くなった四人を、恐怖を演出するための素材に格下げする行為でもある。

同じくらい簡単なのは、加害者の生育環境を並べて社会が悪いと結論することで、これもまた、遺族が最も傷つく言い方になりうる。

どちらにも滑らないためには、事実の順序を丁寧に並べ、判決が何を言ったかを正確に書き、当事者の言葉を引き写しの態度で扱うしかない。情とか育ちなんて関係ない、犯したことの責任は法廷で取ってほしい、と語った遺族の言葉と、確定死刑囚には人権がないのかと問い続けた弁護人の言葉は、どちらも本気で、どちらも切実で、そして両立しない。

両立しないものを両立しないまま置いておくのは気持ちの悪い作業だけれど、この事件について書くというのは、たぶんそういう気持ちの悪さを引き受けることだ。答えを出さないまま、事実を手渡す。三十年たっても議論が終わらないのは、この事件が本質的に答えの出ない場所に立っているからで、それを無理に閉じようとしないことが、いまのところ唯一まともな態度だと思っている。

タイトルとURLをコピーしました