奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

ルーシー・ブラックマン事件――六本木で消えた二十一歳と、七か月後に海辺の洞窟から出てきたもの

二〇〇〇年七月一日、彼女は「海に連れて行かれる」と言い残した

その日の東京は、梅雨明け前のじっとりした土曜日だった。

ルーシー・ジェーン・ブラックマンは二十一歳。イングランド南東部ケント州セブンオークスの出身で、少し前まで英国航空の客室乗務員をしていた。日本に来たのは二〇〇〇年の五月。カード会社に残った借金を片づけて、ついでに東京という街をひととおり見てやろう、くらいの気持ちだったと家族は語っている。

同じ英国人の親友ルイーズ・フィリップスと一緒に来日し、二人で狭い部屋をシェアして、六本木のホステスクラブ「カサブランカ」で働きはじめた。英語が話せる白人の若い女性というだけで時給が跳ね上がる、当時の六本木ではありふれた選択だった。観光ビザでの就労だったから、法律上はまっとうな働き方ではない。この一点が、のちに彼女の失踪の扱いを決定的にゆがめていく。

七月一日、ルーシーは黒いワンピースにサンダル、銀色のハートのネックレスという格好で部屋を出た。相手は店の客で、いわゆる「同伴」の約束だった。客が食事代を持ってホステスを連れ出し、そのまま店に一緒に入る。店にとっては売上、ホステスにとっては指名の実績になる、水商売の定番の仕組みだ。この客は同伴を承知させるために、プリペイド式の携帯電話をプレゼントすると持ちかけていた。ルーシーは携帯を持っていなかったから、その申し出はそれなりに魅力的に響いたのだろう。

その日、彼女は三回電話をかけている。午後一時半、待ち合わせの相手と会えたという連絡。午後五時、「海のほうに連れて行かれるところ」という短い報告。そして午後七時、「あと三十分くらいで戻る」。同じ内容を、当時付き合っていた米海兵隊員のスコット・フレイザーにも伝えている。声はいつもどおりだったという。

三十分後、彼女は戻らなかった。その夜の東京のどこかで、二十一歳の英国人女性は完全に消えた。誰も彼女の姿を見ていないし、彼女の声を聞いていない。あとから振り返れば、この午後七時の電話が、生きているルーシー・ブラックマンの最後の記録になった。

翌日かかってきた電話は、彼女が新しい宗教に入ったと告げた

日曜日、ルーシーは帰ってこなかった。ルイーズは半分あきれ、半分不安になりながら待っていた。そこに電話が鳴る。相手は男で、たどたどしい英語だった。名乗った名前は「アキラ・タカギ」。男は、ルーシーは新しい宗教に入った、千葉のほうにある修行の場所にいる、しばらく戻らない、心配しないでほしい、というようなことを言った。捜さないでくれ、とも言った。

この電話が異様なのは、内容そのものよりも、その設計思想のほうだ。日本で二〇〇〇年に「新興宗教に入った」という説明を持ち出すのは、単なる思いつきではない。オウム真理教の一連の事件からまだ五年しか経っていない。若い人間がある日ふっと消えて、家族と縁を切って、教団の施設で暮らしはじめる。そういう物語のテンプレートが、社会の側にすでに用意されていた。

つまり、この電話をかけた人物は「日本の警察と社会が納得しそうな失踪の理由」を選んで差し出したことになる。誰かが、ルーシーの不在に説明をつけようとしていた。

さらに数日のあいだに、似たような電話がクラブや彼女の周辺にもかかっている。内容はどれも同じ方向を向いていた。彼女は自分の意思でいなくなった、だから捜す必要はない、という方向だ。のちに東京高等裁判所は、この一連の偽装工作を有罪認定の中核に据えることになる。生きているように見せかける電話をかける必要があったのは、彼女がすでに生きていないと知っている人間だけだ、という筋道である。

ただ、二〇〇〇年七月の時点では、この電話は「若い外国人女性が男とどこかへ行った」という説明を補強する材料としてしか受け取られなかった。

麻布署のカウンターで、二人の若い女は相手にされなかった

七月三日の月曜日、ルイーズは麻布警察署に行った。友人が消えた、不審な電話がかかってきた、と訴えた。返ってきた反応は、彼女の記憶によれば、驚くほど淡白だったという。

若い女の子が男と何日か消えるのはよくあること。水商売の女性は突拍子もない行動をとるもの。そもそも観光ビザで働いていたのなら、こちらとしても扱いに困る。そういう空気だったと、のちに彼女は繰り返し語っている。英国大使館の対応も、最初のうちは事務的だった。

ここが、この事件の最初の分岐点になる。二〇〇〇年の日本で、警察が失踪届を受けてすぐ動くかどうかは、失踪した人間が誰かによって決まっていた。未成年の日本人、事件性が明らかな成人、社会的地位のある人物。そういうカテゴリに入らない人間の失踪は、実務上は「家出人」として処理される。ルーシーは成人で、外国人で、観光ビザで水商売をしていた。日本の捜査機関の分類表のなかで、彼女は最も下の欄に置かれた。

英国の記者リチャード・ロイド・パリーは、のちにこの構造を丹念に書き残している。彼の見立てでは、個々の刑事は驚くほど献身的で、いったん本気になった捜査一課の執念は凄まじい。問題は個人ではなく制度で、日本の警察は物証よりも自白を軸に事件を作る癖があり、想像力に乏しく、手続きに縛られ、そして偏見を内蔵している。だからこそ、入口で「これは事件ではない」と判定されてしまった案件は、そこから先へ進まない。

七月の最初の二週間、東京の警察は事実上なにもしていない。この二週間が、のちに七か月に膨らむ。

父親が選んだのは、警察ではなく世界中のカメラだった

ルーシーの父ティム・ブラックマンは、失踪から一週間ほどで東京に飛んだ。妹のソフィーは七月五日に到着し、その後八日間ほとんど眠らなかったと語っている。

父娘がまずやったのは、警察に頭を下げることではなかった。ビラを刷ることだった。ルーシーの顔写真を大きく載せたチラシを三万枚用意し、六本木の路上で配り、駅に貼り、店に置いた。そして英国大使館で記者会見を開いた。一度ではない。八回開いたと記録されている。

ティムのやり方は、当時の日本の被害者遺族の作法からは大きく外れていた。日本の遺族は伏し目がちに、感情を抑えて、警察と検察に「お願いします」と頭を下げるのが通例だ。ティムは違った。カメラの前に立ち、警察の対応の遅さを名指しで批判し、報道機関に情報を投げ、懸賞金の話をした。妹のソフィーが八月二十二日の会見で一万ポンド、当時のレートでおよそ百六十万円の懸賞金を提示し、その後、匿名の英国人実業家が十万ポンドを積んだとも伝えられている。在日英国人のボランティアが情報提供のホットラインを回した。

このやり方は、日本の一部から強い反発を招いた。遺族が公然と捜査機関を批判するのは無礼だ、という感覚である。だが結果として、ティムのメディア戦略は事件を動かした。七月十三日ごろから日英の新聞が大きく扱いはじめ、英国のタブロイド紙が連日追いかけた。「東京で消えた元客室乗務員」という物語は、英国の読者にとって恐ろしいほど届きやすかった。そしてホットラインには、警察が持っていなかった種類の情報が集まりはじめる。

首相が首相に頼んだ瞬間、電話は突然たどれるようになった

二〇〇〇年七月、英国のトニー・ブレア首相は九州・沖縄サミットに合わせて来日していた。ブラックマン家は外務大臣ロビン・クックを通じて働きかけ、ブレアは日本滞在中に森喜朗首相との場でルーシーの件を持ち出した。首相どうしの会話に一人の失踪した若い女性の名前が上がる。それ自体が異常事態だった。

ここから先の展開が、この事件のなかで最も語られる皮肉だ。それまで日本の警察は、ルーシーがかけた電話や、彼女にかかってきた電話の発信元をたどることについて、通信の秘密の壁があり技術的にも難しい、という説明を繰り返していた。ところが首相ルートで圧力がかかったとたん、その技術的問題も法的問題も、まとめて解決してしまった。

ティム・ブラックマンはこの点を生涯忘れなかった人だ。彼が繰り返し語ったのは、警察が嘘をついていたということより、優先順位というものが実在するという冷たい事実のほうだったように思う。

捜査態勢も一変する。警視庁は捜査本部を大きく膨らませ、最終的には一九九五年の地下鉄サリン事件を上回る規模の捜査員をこの一件に投入したと報じられている。外国人被害者一人の失踪事件としては、前例のない規模だった。ただ、この時点ですでに失踪から一か月が経っていた。

七月の三浦で、警官はセメントのついた手を見ていた

捜査が本格化する前、七月の初旬に、実はもう一つ致命的な取りこぼしが起きている。

神奈川県三浦市の海沿いに建つリゾートマンションの管理会社が、四階の部屋の住人の様子がおかしいと警察に通報していた。臨場した警察官は、その男の手にセメントがついているのを見ている。浴室について尋ねると、男はひどく落ち着きを失った。近所の住人は、その男が夜に隣の浜辺をうろうろしている姿や、スコップを持って歩いている姿を目撃していた。

それでも警察官はその場を離れた。当時、三浦のこの通報と、東京の六本木で消えた英国人女性は、まったく別の紙の上にあった。管轄も違えば、扱っている事象の分類も違う。組織としての日本の警察が最も苦手とするのが、この種の「別々の紙をつなぐ」作業だった。この浜辺が本格的に捜索されるのは、翌年の二月である。半年以上、誰も掘らなかった。

一方で、動きはじめた情報もあった。七月二十二日、六本木のクラブのマネージャーが警察に対して、外国人ホステスを狙って薬を盛り、写真を撮って弱みを握ろうとする男がいる、と情報提供している。店の界隈でこの男は下の名前の通称で知られていた。

さらに報道が広がるにつれて、三人の外国人女性が名乗り出た。彼女たちの話はぞっとするほど似ていた。海に行こうと誘われ、部屋で飲み物を出され、そこから記憶がない。目を覚ますとその男のベッドにいて、ひどい吐き気と頭痛に襲われた。そのうち何人かは、当時すでに所轄署に相談していた。取り合ってもらえなかった、と彼女たちは証言している。

十月十二日、警視庁はこの男を、カナダ人女性に対する準強制わいせつの容疑で逮捕した。名前は織原城二、当時四十八歳、不動産管理会社の社長。逮捕後の家宅捜索で出てきたものが、この事件の性質を一変させる。

二〇〇一年二月九日、砂を六十センチ掘った先に白い袋があった

年が明けても、ルーシーの行方はわからなかった。織原は一貫して否認していた。手元にあるのは状況証拠だけで、そのなかで最も重い意味を持ちうる遺体が見つかっていない。捜査本部は三浦の海岸線を、文字どおり潰していく方針をとった。二か月近く、砂と岩を相手にする作業が続いた。

二〇〇一年二月九日。捜査員三人が、油壺の海沿いにある小さな洞窟に入った。洞窟と言っても、奥行きは六メートルほど。岩の裂け目に近い、人が数人入ればいっぱいになる程度の空間だった。織原が所有していたリゾートマンション「ブルーシー油壺」の四〇一号室からは、直線で百メートルから二百メートルほどしか離れていない。目と鼻の先である。

洞窟の入口付近には、ごみや漂着物が積み上がっていた。それをどけて奥へ進むと、水色の古い風呂桶が転がっていた。重しの石をどけ、浴槽を外へ運び出し、その下の地面を掘りはじめる。六十センチあまり掘ったところで、白いビニール袋が現れた。

中身は足首だった。野添という捜査員が、擦れた声を絞り出したという。出た、出た、足が。それから、オーイ、ちょっと来てくれ、と。

遺体はばらばらに切断され、複数の袋に分けられて埋められていた。頭部は髪を剃られ、コンクリートで固められていた。歯型と髪の色から身元が確認され、DNA鑑定で確定した。腐敗と屍蝋化が進んでおり、現場写真は捜査員自身が目を覆うような状態だった。

そして最も重大なことに、七か月という時間は死因の特定を不可能にしていた。彼女がどのように死んだのか、医学的に答えることは、この時点でもう誰にもできなくなっていた。

三月一日、ブラックマン家はこの浜辺に記念の木を植えている。ティムはこのとき、娘がシャンパンを一杯飲んで、少しふらっとして、そのまま意識を失っていてくれたらいい、というような言い方をしている。父親が娘の最期について許せる唯一の想像が、それだった。

慶應を出た資産家は、ノートに「征服」の記録を残していた

織原城二という人物の輪郭は、逮捕後に少しずつ明らかになった。

一九五二年八月、大阪生まれ。出生時の名は金聖鐘。両親は在日韓国人で、父は戦後の混乱期に身一つから始めて、くず鉄から不動産、駐車場、タクシー会社、パチンコ店へと事業を広げ、十年ほどで大阪でも指折りの資産家になった人物だった。一家は帝塚山の屋敷に住んでいた。

彼は十五歳前後で単身上京し、慶應義塾の高校に入る。父は東京に家政婦つきの一軒家を用意した。田園調布である。十七歳のころ、父が香港で急死し、彼と兄弟は莫大な遺産を相続する。慶應義塾大学では政治学と法律を学び、卒業後は数年間アメリカとスウェーデンで過ごした。一九七〇年代に日本国籍を取得し、名前を織原城二に変えている。

三十代以降、不動産と駐車場の運用で資産をさらに膨らませ、一時は総資産が数十億円、ドル換算で四千万ドル近くに達したと報じられた。都心のマンションを複数所有し、地下の駐車場にはポルシェやフェラーリを含む高級車が並んでいた。

そして一九九〇年代の不況が、その資産を溶かした。バブル期に膨らませた不動産のポートフォリオは、地価の下落と金利の重みで崩れ、一九九九年には自宅が差し押さえの対象になっている。逮捕までの一年半ほどのあいだに、複数の物件を失っていた。事件当時の彼は、外形上はまだ資産家だったが、実質的には追い詰められた債務者だった。

家宅捜索で押収されたものは、四百本前後のビデオテープと、大量のノートだった。ノートの記述は一九七〇年前後にまでさかのぼる。彼はそこに、自分の行為を「征服プレイ」と呼んで記録していた。二百人を超える名前と符牒が並び、三十歳までに五百人と関係を持つ、といった目標が書かれていた。女は性のためだけに存在する、世界への復讐だ、といった書きつけもあった。

捜査当局が把握しただけで被害者は百五十人から四百人規模にのぼると見られたが、時効や本人の特定不能、被害者が名乗り出られない事情などが重なり、最終的に起訴されたのは十人分にすぎない。この落差そのものが、日本の性犯罪の扱いの縮図だった。

ノートのなかに、一九九二年に死亡したオーストラリア人女性カリタ・リッジウェイの名前と、薬物を過剰に使った旨の記述があった。彼女は当時二十一歳、女優学校の学費を貯めるため銀座で働いていた。急激な肝不全で亡くなり、当初はウイルス性肝炎と診断されていた。搬送したのは偽名を使った織原本人で、貝にあたったと説明していた。遺族は日本の警察にも豪州大使館にも取り合ってもらえなかった。皮肉なことに、病院に保存されていた肝臓の組織片が、八年後に決定的な証拠になる。そこからクロロホルムが検出されたのだ。

なぜ七か月もかかったのか――遅れの正体を分解する

この事件で最も厳しく問われたのは、警察の初動である。批判は感情論として語られがちだが、実際にはもう少し分解できる。

まず根っこにあったのは、被害者の属性による選別だった。観光ビザで水商売をしている外国人女性の失踪は、事件ではなく自発的な失踪として処理される。麻布署の窓口でルイーズが受けた対応がそれを端的に示している。この選別は明文化されたルールではなく、現場の常識として存在していた。だからこそ質が悪い。

その上に、組織の縦割りが重なった。三浦の管理会社からの通報も、六本木のクラブのマネージャーからの情報も、過去に所轄に相談していた外国人女性たちの訴えも、すべて別々の窓口に別々の紙として存在し、統合されなかった。それらがようやく一枚に並んだのは、報道と外交圧力によって捜査本部が肥大化してからのことだ。

さらに、証拠に対する文化的な偏りもあった。日本の刑事捜査は長らく自白を軸に組み立てられてきたから、被疑者が完全黙秘に近い姿勢を貫き、物証を積む以外に道がないタイプの事件に対して、当時の体制は必ずしも最適化されていなかった。織原は法律を学んだ人間で、取り調べへの耐性という点でも例外的だった。

そして最後に、性犯罪の被害申告を受け止める体制がそもそも存在していなかった。織原が二十年以上にわたって同じことを繰り返せたのは、被害女性が名乗り出にくく、名乗り出ても信じてもらえない環境が続いていたからだ。一九九八年には和歌山県白浜で盗撮により罰金刑を受けているが、そこから彼の過去が掘り返されることはなかった。点は何度も浮かんでいたのに、線にする仕組みがなかった。

こうした層が重なって七か月という空白が生まれ、その空白が死因の特定を不可能にし、死因の不明が裁判所の判断を縛った。捜査の遅れは単なる不手際ではなく、判決の中身にまで直結している。

六十一回の公判の果てに、裁判所は本件だけを無罪にした

公判は二〇〇一年に始まり、六十回を超える期日を重ねた。検察が起訴したのは、日本人女性四人と外国人女性六人、計十人に対する準強姦などの事件で、うち二人が死亡していた。カリタ・リッジウェイとルーシー・ブラックマンである。

二〇〇七年四月二十四日、東京地方裁判所の栃木力裁判長は、判決を言い渡した。結論は無期懲役。ただしその中身が、法廷にいた誰にとっても衝撃だった。八人に対する準強姦と、リッジウェイに対する準強姦致死は有罪。しかし、ルーシー・ブラックマンに関する準強姦致死および死体損壊・遺棄の各訴因については、無罪とされたのである。

理由はこうだ。ルーシーの死因が特定できない。遺体から彼女に薬物が投与されたことを示す所見が得られない。被告人が彼女を死に至らしめたことを直接示す証拠がない。裁判長は、被害者が被告人と一緒にいて、そして消え、その後遺体で発見されたという事実の並びは認めたうえで、被告人が単独でその死に関与したと証明することはできない、と述べた。日本の刑事裁判における無罪判決の理屈としては、教科書どおりに筋の通った判断ではある。

だが、この判決には日本国内でも異論が出た。元検事の土本武司は、和歌山の毒物カレー事件で林眞須美に対して状況証拠の積み重ねから有罪が認定された例を引き、証拠評価の基準に一貫性を欠くのではないかと批判している。専門家の多くが「異例の判決」と評した。

英国での反応はさらに激しかった。娘が消え、七か月後にばらばらの遺体で見つかり、それでも「殺した」とは認定されない。この結論を遺族に説明できる言葉は、英語にも日本語にも存在しなかった。

一年八か月後、高裁は無罪を破棄して、それでも「致死」は認めなかった

検察と弁護側の双方が控訴した。控訴審は二〇〇八年三月に始まり、検察側は一審で十分に評価されなかったとする鑑定資料を含め、状況証拠の再構成に力を注いだ。

二〇〇八年十二月十六日、東京高等裁判所の門野博裁判長は、一審判決を破棄した。そのうえで、あらためて無期懲役を言い渡した。刑の重さは変わらないのに一審を破棄したのは、ルーシー・ブラックマンに関する事実認定を書き換えるためである。

高裁が有罪と認定したのは、わいせつ目的での略取、そして死体損壊と死体遺棄だった。認定の柱になったのは、失踪の直後に偽名を使ってルイーズらへ「新興宗教に入った」と告げる電話がかけられていること、その時期に被告人がセメントやチェーンソーなどを購入していること、パソコンに死体の処理に関する検索の痕跡が残っていたこと、被害者の毛髪が被告人のマンションから見つかっていること、そして他の九件との手口の著しい類似性である。生存を偽装する電話をかけられるのは、彼女が死んだことを知る者だけだ、という推認が中核にあった。

ただし高裁も、準強姦致死の点までは踏み込まなかった。被告人が彼女を死亡させたと認定することはできない、というのが結論である。死因不明という壁は、二審でも越えられなかった。

つまり法的な状態を正確に言えば、織原城二はルーシー・ブラックマンを連れ去り、その遺体を損壊し遺棄した罪では有罪が確定しているが、彼女を死に至らしめた罪については、一審でも二審でも認定されていない。この区別は、報道でしばしば潰されてきたが、遺族の心情を語るうえでも、日本の刑事司法を論じるうえでも、絶対に潰してはいけない区別だ。

被告人は上告した。二〇一〇年十二月、最高裁判所が上告を棄却し、無期懲役が確定した。失踪から十年半が経っていた。

一億円の「見舞金」が、遺された家族を二つに割った

この事件をさらに複雑にしたのが、日本の刑事司法に独特の「見舞金」という慣行である。被告人側が被害者や遺族に金銭を渡し、それが量刑上の情状として斟酌されうる、という仕組みだ。示談が成立していれば、なおさら効く。

一審の弁論終結の直前、二〇〇七年の初頭に、ティム・ブラックマンは織原の知人を介しておよそ一億円、英ポンドで四十五万ポンド前後の見舞金を受け取った。警察は受け取らないよう助言していたとされる。ティムは、その相当部分を娘の名を冠したルーシー・ブラックマン・トラストに充てると表明した。海外で行方不明になったり犯罪に巻き込まれたりした英国人と、その家族を支援する慈善団体である。この団体はのちにLBTグローバルへと発展し、現在も活動している。

母親のジェーン・スティアは強く反発した。彼女は、娘の名前をつけた基金の設立について事前に相談すら受けていないと述べ、加害者側の金を受け取ることが量刑判断を軽くする方向に働くのではないかと懸念を表明した。英国の一部メディアはこれを「ブラッド・マネー」と書いた。妹のソフィーは母の言動を公然と批判し、家族の分裂はそのまま英国の紙面に載った。娘を、姉を失った人々が、その死の後始末をめぐって互いを傷つけ合う光景を、世界中が読んだ。

翌二〇〇八年七月には、リッジウェイ家に対しても同規模の見舞金が支払われていたことが明らかになった。織原側はこれを「お悔やみ金」であり、殺害を認めたものではないと主張した。裁判所は、これらの支払いを量刑上ほとんど重視しなかったと述べている。

それでも、遺族の側から見れば話は別だ。娘の死について有罪と認められていない相手から金を受け取ることの意味を、法廷の外で引き受けなければならなかったのは家族のほうだった。ティム自身は、その決断を最後まで説明し続けた人でもある。金を受け取ったのは、加害者を許したからではなく、失われたものから何かを取り戻すためだ、という趣旨のことを彼は繰り返している。この選択を非難するのは簡単だが、非難する側は誰も、彼の立った場所には立っていない。

最後の電話を受けた友人が見たもの

ルイーズ・フィリップスの証言は、この事件のあらゆる記録のなかで最も生々しい。

彼女はルーシーと同じ飛行機で日本に来て、同じ部屋に住み、同じ店で働いていた。二人にとって東京は、稼げて、面白くて、少し危なっかしい遊び場だった。七月一日の午後、ルーシーが黒いワンピースで出ていくのを見送ったとき、彼女は特別なことは何も感じていない。同伴に出るホステスなど、その店では毎日いた。夜になっても戻らないことに気づいたとき、最初に浮かんだのは事件ではなく、「男の家に泊まったんだろう」という程度の想像だったという。

翌日の電話が、その想像を粉々にした。相手は男で、英語は不自然で、名前も宗教団体の名前も初めて聞くものだった。ルイーズがすぐに気づいたのは、内容の異常さではなく、内容の都合の良さだった。ルーシーは連絡魔で、ルイーズに何も言わずに数日消えるような人間ではない。ましてや宗教に入るなど、彼女を少しでも知っていれば口にできない話だ。誰かがルーシーのことをよく知らないまま、彼女の失踪に説明をつけようとしている。そこまでは即座にわかったと彼女は語っている。

問題は、そのわかっていることを警察に伝えられなかったことだ。麻布署のカウンターで、彼女は自分が説明しているあいだ相手の目が動いていないことに気づいた。観光ビザで働いていた、という一点を言った瞬間に空気が変わったとも語っている。捜査してもらう立場のはずなのに、自分たちが咎められる側になっている。その居心地の悪さのなかで、彼女は最も重要な情報を持ったまま帰るしかなかった。

ルイーズはその後、事件の重要な証人として法廷に立ち、長い年月を証言と報道への対応に費やすことになる。友人を失っただけでなく、失った理由を語り続ける役を、二十代前半で引き受けさせられた人だった。

妹が恐れていたのは「自業自得」という一言だった

妹のソフィー・ブラックマンは、姉の失踪から四日後に東京に着いた。当時二十歳前後。それから八日間、まともに眠っていない。ビラを配り、六本木の店を回り、記者会見に同席した。彼女がインタビューで語った姉の人物像は、身内の美化を注意深く避けた、率直なものだった。ルーシーはとりわけ頭が良かったわけではないし、かといって愚かでもなかった。二十一歳の普通の女の子がやることを、普通にやっていただけだ、と。

そのうえで彼女が口にしたのは、遺族としてはかなり異例の懸念だった。姉は日本で違法に働いていた、だから何が起きても自業自得だと考える人が出るのが怖い、という趣旨のことである。失踪した肉親を捜す渦中で、被害者の落ち度をあげつらう社会の反応を先回りして防御しなければならない。この一言に、二〇〇〇年当時の空気がそのまま封じ込められている。

実際、日本の新聞の投書欄には、そういう店で働いていたのだから当然の報いだ、という趣旨の読者の声が載った。英国側にも、若い女がホステスなどやるからだ、という論調はあった。彼女の恐れは杞憂ではなかった。

ソフィーのその後は、この事件が遺族に何をしたかを最も直接的に示している。二〇〇六年、父ティムは、ソフィーが自ら命を絶とうとしたことがあり、精神科病棟で入院治療を受けていると公にした。弟についても、姉の死によって深く傷つけられ、苛まれ続けていると語っている。

事件は二〇〇一年に遺体の発見で「解決」し、二〇一〇年に判決で「終結」した。だが遺された家族の時間は、そのどちらの日付でも止まっていない。ソフィーはのちに、見舞金をめぐって母を公然と批判し、家族の亀裂を自分の言葉で引き受けもした。彼女が背負ったものの総量を考えると、あの八日間眠らなかった二十歳の姿がなおさら重く見えてくる。

父は娘を探しながら、記者会見の作法を覚えた

ティム・ブラックマンについては、日本でも英国でも評価が真っ二つに割れている。行動力の塊のような人だ、という評価と、目立ちすぎる、金を受け取った、という批判が同時に存在する。

ただ、彼が語った失踪直後の感覚は、誰が読んでも動かされるものだと思う。二〇二三年の映像作品のなかで彼は、子どもが行方不明になったときの感覚を、盲目的なパニックが自分の上に崩れ落ちてくる、という言い方で説明している。何も見えず、何も考えられず、ただ体だけが動く状態だ。

その状態のまま、彼は東京で記者会見のやり方を学んだ。どの角度で写真を撮らせれば娘の顔が新聞に大きく載るか。どのタイミングで警察を批判すれば記事になるか。英国大使館をどう使えば外務省が動くか。父親が一週間で身につけていい技術ではない。それでも身につけなければ、娘の名前は誰の目にも触れないまま消えていった。彼が八回の会見を開き、三万枚のビラを刷り、首相にまで手を伸ばしたのは、日本の捜査機関を信頼できなかったからではなく、信頼できるものが他に何もなかったからだ。

彼の言葉のなかで最も忘れがたいのは、遺体発見の直後、三浦の浜辺に記念樹を植えたときのものだ。ルーシーがシャンパンを一杯飲んで、少しふらついて、そのまま意識を失っていたのならいい、と彼は言った。ここには推測も願望も混ざっている。だが、父親が娘の最期について自分に許した唯一の物語がそれだったという事実は、死因が特定できないという捜査上の失敗が遺族の内面に何を残すのかを、あらゆる法律論より鮮明に伝えてくる。

彼はまた、娘を殺した相手に対して、憎しみとは別種の感情、ある種の憐れみのようなものを抱いたことがあるとも述べている。この告白は英国でも物議をかもしたが、単純な怒りだけでは立っていられなかった人間の、率直な記録として読むべきだと思う。

砂を掘っていた捜査員の喉から出た声

日本側の証言としていちばん短く、いちばん重いのが、遺体発見の現場に立ち会った捜査員のものだ。

二〇〇一年二月九日、三浦の海岸。ごみをかき分けて洞窟に入り、水色の風呂桶をどけ、砂を掘っていた三人のうちの一人、野添という捜査員が、六十センチほど掘ったところで白いビニール袋を見つけた。出た、出た、足が。それから、擦れた声で、オーイ、ちょっと来てくれ。

この二つの短い言葉が伝えているのは、七か月分の緊張が切れる瞬間の質感だと思う。捜査本部にはとっくに答えは見えていた。あとは物理的に彼女を見つけるだけだった。それでも、実際に掘り当てるまでは何も確定しない。捜査一課の記録をまとめた高尾昌司の著作には、この捜査が三千日を超えて続いたことが記されている。着手から確定判決まで、三千八十九日である。

現場の状況は、捜査員たちにとっても直視しがたいものだった。ある捜査員は、遺族のことを思うと目を覆うばかりの状態だった、と証言している。刑事という職業の人間が、遺体そのものではなく、それを見せられる家族のことを先に口にしている。この語り方には、二〇〇〇年の麻布署の窓口とはまるで別種の誠実さがある。だからこそ、パリーが書いた「個人は献身的だが制度が壊れている」という見立てが、いっそう厄介な真実として響く。

二〇二三年に公開された映像作品では、日本初の女性性犯罪捜査官とされる山口美津子や、法医学の側から捜査を支えた原藤慶造といった人々が証言に立ち、外国人被害者に対する当時の日本の警察の冷淡さを、内側から語り直した。

東京に住む英国人記者が書いた、警察という組織の話

リチャード・ロイド・パリーは英タイムズ紙の東京特派員として、失踪の直後からこの事件を追い続けた。取材は十年以上に及び、二〇一一年に出版された著作は、事件報道というより一つの都市と一つの家族についての長い散文になっている。日本語版は二〇一五年に刊行され、この事件についての日本語の理解を大きく更新した。

彼の記述で決定的だったのは、警察の描き方だった。彼は現場の刑事たちの執念を高く評価する。一方で、日本の警察は物証より自白を重んじ、その体質ゆえに、本物の凶悪犯罪と正面からぶつかった経験そのものが乏しい、と手厳しく書いた。治安が良いことと、犯罪捜査が上手いことは別物だ、という指摘である。この視点は、日本国内の事件報道からはまず出てこない。

もう一つ、彼が強く釘を刺したのが出自の扱いだった。日本のワイドショーは織原を「謎の大富豪」として扱い、その民族的出自にはほとんど触れなかった。触れたのは起訴直前の一部の週刊誌だけだった。この沈黙をどう評価するかは難しい。パリーは、犯罪と民族的出自を結びつけて語ることは人種差別主義者と同じ振る舞いだと明確に警告している。同時に、在日コリアンをめぐる話題全般に日本の報道機関が神経質になっていることも、日本社会にはタブーがある、という言い方で指摘した。

米国の研究者ローラ・ミラーは、日本国内において被告人の反社会的な振る舞いをコリアン出自に結びつけて説明しようとする言説が現れたことを報告している。パリー自身はのちに、拘置所での被告人の振る舞いに関する報道をめぐって織原から名誉毀損で提訴された。この訴訟は最終的にパリー側が勝ったが、新聞社側は多額の弁護士費用を負担している。

状況証拠は、どこまで人を有罪にできるのか

第一の論争は、一審無罪と二審有罪の落差そのものだ。同じ証拠を見て、東京地裁は「足りない」と言い、東京高裁は「足りる」と言った。何が違ったのか。

地裁は死因という一点に厳格にこだわり、そこが埋まらない以上、彼女の死に関する被告人の関与は認定できないとした。高裁は認定の対象を組み替え、死に至る過程ではなく、連れ去りと死後の処理という別々の行為を証拠から積み上げた。法律家の目で見れば、これは証拠評価の違いというより訴訟法上の技術の違いに近い。ただ一般の感覚からすれば、同じ事実から違う答えが出たようにしか見えない。この落差が、日本の刑事裁判における状況証拠の使い方について、長く議論の火種であり続けた。

出自を書くこと、書かないこと

第二の論争は、被告人の民族的出自の報じ方をめぐるものだ。

二〇〇八年、織原は『マンガ嫌韓流』の第三巻の記述をめぐり、著者らを提訴した。争点は、二人を死亡させたとする誤った記述、有罪判決が確定していないのに確定したかのように読める記述、そして「元在日」と書いたことがプライバシー侵害にあたるか否かだった。著者側は、国籍を述べることが名誉毀損なのか、と反論した。

一審は原告の主張をおおむね認めて慰謝料の支払いを命じ、二審の東京高裁は金額を減額したうえで、当時その出自が広く知られていたとは言えないとしてプライバシー侵害を認定した。同時に高裁は、重大事件で有罪判決を受けた者については民族的出自を公表する利益が公表しない利益を上回りうる、とも判示している。

この二つの判断は矛盾しているように見えて、実は日本の報道が抱えているねじれをそのまま写し取っている。書けば差別に接続し、書かなければ隠蔽になる。この事件は、その袋小路を可視化してしまった。

「冤罪」を叫ぶウェブサイトは誰が作っていたのか

第三の論争は、無罪主張キャンペーンの正体だ。

二〇〇六年九月、「真実究明班」を名乗る一群がウェブサイトを立ち上げ、検察の立証の不確かさを列挙し、被告人が冤罪である可能性を訴えはじめた。翌二〇〇七年五月には、飛鳥新社から『ドキュメンタリー ルーシー事件の真実』と題する書籍が刊行された。

だがその実態は、被告人から委託を受けた弁護士による自費出版に近いもので、版元も被告人側の指示と監督のもとで作られたと認識していた。二〇一〇年二月には、飛鳥新社が被告人と弁護士に対し、千三百十四万円あまりの未払金の支払いを求めて提訴している。

さらに問題だったのは、このサイトが被害者の日記や遺族の署名書類、公判の速記録といった資料を裁判所の許可なく掲載していたことだ。警視庁は立件を検討したが、ドメインが海外のものだと誤認したことなどから捜査に至らなかった。実際のホストは京都の会社だった。

加害側が「冤罪」の物語を金で流通させ、被害者の私的な記録がその材料に使われる。この一件は、真相究明という言葉がどれほど汚れうるかを示している。

なぜ彼女の名前だけが世界に届いたのか

第四の論争は、報道の偏りだ。

この事件が国際的な大ニュースになったのは、被害者が白人の英国人女性で、写真映えする経歴を持ち、英語で発信できる家族がいたからではないか、という問いである。同じ時期、同じ六本木や新宿で、東南アジアや南米から来た女性たちが行方不明になり、あるいは死亡していた。彼女たちの名前を世界は知らない。首相が首相に話を持ちかけることもなかった。

実際、織原の被害者には日本人もアジア出身者も含まれていたが、報道の中心には常にルーシーがいた。この非対称は、日本の警察の対応の非対称と鏡合わせになっている。動かなかった警察を動かしたのは正義ではなく、国籍と外交と映像の力だった。この事実は、事件が解決したあとも消えない後味として残っている。

第五の論争は、加害者自身の振る舞いだ。彼は服役後も訴訟を続けている。週刊誌を名誉毀損で訴え、外国人記者を訴え、ブログの記述に訂正を求めた。近年は千葉刑務所の所長を相手取って提訴したとも報じられている。逮捕以来、自分の顔を撮影させることを徹底して拒み続けてきた人物でもある。

この執拗さを単なる異常性で片づけるのは簡単だが、彼が慶應で法律を学んだ人間であることを思い出すと、別の読み方も浮かぶ。法という道具の使い方を知っている者が、その道具を自分の像の管理のために使い続けている。被害者や遺族が法廷で語る言葉を持たされないまま消耗していったのと、まったく対照的な光景だ。

掲示板とSNSが二十六年かけてこの事件に出した答え

事件当時、日本のネット空間はまだ匿名掲示板が中心だった。そこでの反応は、控えめに言っても荒れていた。

最初に目立ったのは、水商売で働く外国人女性への冷笑と自業自得論で、新聞の投書欄に載ったのと同じ論調が、匿名の場ではもっと露骨な形で書き込まれた。やがてその冷笑への強い反発が広がる。日本の警察がまともに動かなかったことへの怒りと、被害者を責める言説への批判が、事件の推移とともに次第に優勢になっていった。

それと並行して書かれ続けたのが、外交圧力で捜査が動いたことへの複雑な感情だ。国内の被害者は放置されるのに外圧なら動くのか、という皮肉が繰り返し投稿された。この皮肉は、感情としてはねじれているが、事実としては的を射ている。

考察界隈で長く語られてきた仮説もいくつかある。最も根強いのは、被告人には協力者がいたのではないか、という説だ。遺体の切断と運搬、洞窟への埋設を一人でやりきるのは相当な労力で、しかも失踪から遺体発見までの期間に、被告人本人は途中から身柄を拘束されている。この点を根拠に、共犯者の存在を疑う声は今も消えない。

ただ、この説には決定的な反証がある。裁判で認定されたのは、被告人が失踪直後の時期にセメントなどを購入し、その前後に現場周辺でスコップを持って目撃されていたという事実の連なりだ。時系列上、遺棄は逮捕よりずっと前に完了していたと考えるほうが自然で、共犯者を持ち出さなくても説明はつく。弁護側が公判で持ち出した、すでに死亡していた知人の関与という主張も、裁判所には採用されなかった。

もう一つよく語られるのは、被告人はルーシーだけは撮影していなかったのはなぜか、という疑問だ。他の事件では大量の映像が残っていたのに、この一件だけ映像がない。だから彼は関与していないのだ、という主張が無罪キャンペーンの側から出た。

これに対する反証はシンプルで、映像がないことは関与がないことを意味しないし、そもそも事後に処分された可能性が排除できない。むしろ「この一件だけ痕跡を丁寧に消している」という事実のほうが、彼にとって不都合な意味を持ちうる。裁判所は映像の不在を無罪の根拠とはせず、他の状況証拠の総合によって連れ去りと死体損壊・遺棄を認定した。

二〇二三年に映像作品が国際配信されたことで、この事件はSNSで再燃した。二十年以上前の事件を初めて知った世代が、当時の警察の対応や、見舞金をめぐる家族の分裂に驚き、議論した。そのなかで一つ、当時にはなかった論点が育っている。被害者を「ホステス」という属性で呼び続けることの是非だ。事件を紹介するときに職業をどこまで書くべきか。書けば状況の理解が進むが、同時に読者の偏見を呼び出す。二十六年かけてネットが辿り着いたのは、明確な答えというより、この問いを問うようになったこと自体だったのかもしれない。

六本木は変わったのか――興行ビザとヒルズと条例のあいだで

事件の舞台になった六本木も、この事件を境に少しずつ形を変えていった。

戦後の占領期に米軍関係の施設と人間が集まったことで外国人向けの色を帯び、七〇年代から八〇年代にディスコの街として全盛期を迎え、九〇年代には外国人ホステスが働くクラブが密集する地区になっていた。英語が話せる白人女性は高値で雇われ、フィリピン、ロシア、東欧、南米から来た女性たちがそれぞれの店で働いた。多くは興行ビザでの入国だった。

ルーシー・ブラックマン事件は、この構造に国際的な照明を当ててしまった。二〇〇四年、米国務省の人身取引に関する年次報告書は日本の評価を引き下げ、興行ビザが事実上の人身取引の抜け道になっていると指摘した。当時、興行ビザの発給数は年間十三万五千件という過去最高に達しており、そのうち六割強がフィリピン国籍だった。日本政府は翌年から在留資格の審査を大幅に厳格化し、発給数は数年で激減する。六本木や新宿の店から、それまで働いていた女性たちが目に見えて減った。この変化を「浄化」と呼ぶ人もいるが、実際に起きたのは、より見えにくい場所への移動でもあった。制度を締めれば需要が消えるわけではない。

街の景観そのものも変わった。二〇〇三年に六本木ヒルズが開業し、二〇〇七年には東京ミッドタウンが続く。雑居ビル群の一部は再開発の敷地に飲み込まれ、外資系企業とIT企業のオフィス、美術館、高級住宅が入る街区が生まれた。二〇一一年に東京都で暴力団排除条例が施行され、翌年には六本木のクラブで暴力団関係者による襲撃事件が起きて、深夜営業のありようが再び問われた。ホステスクラブは消えていないが、事件当時のような、英語を話す外国人女性が並んでいる店の密度は明らかに下がっている。

一方、三浦の海岸はほとんど何も変わっていない。油壺の一帯は、いまも何の変哲もない漁村の風景のままだ。防波堤は傷み、海藻を干す作業が続き、マリーナには小型船が並ぶ。遺体が見つかった洞窟は、洞窟と呼ぶのがためらわれるほど小さな岩の裂け目で、数人入ればいっぱいになる。すぐ近くの五階建てのリゾートマンションも建ったままだ。家族連れが釣りをしている、その横にその場所がある。二十六年経ってなお、遺族が花を手向けに訪れることがあるという。

なぜこの事件は語り継がれるのか

理由はいくつも挙げられるが、突き詰めれば話は単純だと思う。

まず、この事件は日本社会が見ないふりをしていた線を、いくつも同時に踏み抜いた。外国人労働と在留資格の建前と実態。水商売という業態の法的なあいまいさ。性犯罪の被害申告を受け止められない捜査体制。被害者の属性によって捜査の熱量が変わるという公然の秘密。報道が民族的出自をどう扱うかという長年の宿題。どれか一つでも十分に重いテーマなのに、この事件はそれらを一本の時系列に串刺しにしてしまった。だから何度でも参照される。

そして、法的な決着がきれいに終わらなかった。無期懲役は確定した。連れ去りも死体損壊も遺棄も有罪になった。それでも、彼女がどう死んだのかは司法の認定として空白のままだ。一審で無罪、二審で逆転有罪という異例の経過も、その空白の周りをぐるぐる回った結果として生じている。物語として閉じないものは、人の頭のなかに残り続ける。

決定的なのは、遺された人々の姿があまりに人間的だったことだ。父は記者会見の技術を身につけ、金を受け取る決断をして批判され、それでも説明し続けた。母は加害者側の金を拒み、元夫を公然と批判した。妹は姉のために眠らずに走り回り、その後何年も自分の心と闘った。友人は最後の電話を受けた人間として、その日のことを何度も語らされた。捜査員は砂を掘り当てた瞬間の声を記録に残した。誰も英雄ではないし、誰も単純ではない。二〇〇〇年七月の三十分が、これだけ多くの人生を巻き込んで、いまも終わっていない。

最後に一つだけ確認しておきたいことがある。ルーシー・ブラックマンは「六本木のホステス」ではない。それは彼女が二か月足らずやっていた仕事の名前でしかない。彼女はケントの家に家族がいて、友達と笑い、借金を返そうとして、東京という街を面白がっていた二十一歳だった。事件を語るときに最初に来るべきなのは職業でも国籍でもなく、その事実のほうだと思う。

二十六年たって、ようやく見えてきた構造

二十六年が経ったいま、この事件をあらためて見直すと、当時は見えていなかった構造がいくつも浮かび上がってくる。

まず言えるのは、この事件が日本の刑事司法にとって「死因不明の殺人をどう裁くか」という問題の教科書的な事例になったということだ。遺体が七か月後に発見され、屍蝋化が進み、切断され、コンクリートで固められていた。この状態では、どんな法医学者にも死因は言えない。にもかかわらず、被告人が連れ去り、遺棄したことは状況証拠から強く推認できる。

東京地裁は死因の空白を理由に本件だけを無罪とし、東京高裁は認定の枠組みを組み替えて有罪にしたが、致死の点までは踏み込まなかった。この二段構えの帰結は、日本の裁判所が状況証拠に対して抱えている慎重さと、その慎重さが被害者側に何を強いるのかを、これ以上ないほど鮮明に示している。裁判員制度が始まる前夜の判断だったことも、いま振り返ると意味深い。市民が事実認定に加わるようになった現在、同じ証拠が同じ結論を生むかどうかは、正直なところわからない。

次に、この事件を「日本の警察の失敗談」として消費することの危うさについても触れておきたい。

初動が遅れたのは事実だし、麻布署の窓口対応も、三浦での取りこぼしも、弁解の余地は小さい。だが、いったん本気になったあとの捜査は、三千日を超えて執拗に続いた。二か月近く海岸線を潰し続けて洞窟にたどり着いた作業も、八年前に亡くなったオーストラリア人女性の肝臓の組織片を探し当てて薬物を検出した作業も、片手間でできることではない。

問題は個々の刑事の能力ではなく、誰の失踪を事件として立ち上げるかを決める入口の設計だった。ここを混同すると、教訓が「日本の警察は無能だった」という短い言葉に丸められてしまい、肝心の入口の話が消える。実際、いま日本の警察は行方不明者の初期対応や性犯罪の相談体制をかなり変えてきている。特異行方不明者という枠組みの運用や、性犯罪捜査に女性捜査員を配置する体制、被害者支援の窓口の整備は、この事件を含む一連の失敗の上に積み上がったものだ。それでも、外国人被害者や非正規滞在者が相談をためらう構造は、二〇二六年のいまも完全には解消されていない。

見舞金という制度が、家族に選択を押しつけた

三つ目に、見舞金という慣行についてもう一歩踏み込んでおきたい。

日本の刑事手続きでは、被告人が被害者側に金銭を渡すことが情状として考慮されうる。この仕組みは、軽微な事件では被害回復として合理的に機能する。だが、被害者が死亡している重大事件で、しかも被告人が犯行を否認したまま金を渡すとき、その金は何なのか。謝罪ではない。賠償でもない。実質的には、量刑判断への働きかけの色を帯びる。

ティム・ブラックマンが受け取った一億円は、まさにその微妙な位置にあった。彼はその金を娘の名を冠した支援団体に投じ、いまも海外で行方不明になった英国人の家族を助ける仕組みとして機能させている。結果だけ見れば、これ以上ない使い道だ。しかし、遺族がそういう判断を迫られること自体が制度の欠陥ではないか、という問いは残る。母親のジェーン・スティアが拒んだのも、妹のソフィーが母を批判したのも、それぞれに筋の通った立場だった。家族が割れたのは家族が悪かったからではなく、制度が家族に選択を押しつけたからだ、という見方をわたしは支持する。

四つ目に、報道と出自の問題を現在の目で読み直したい。

事件当時の日本のテレビが被告人の民族的出自にほとんど触れなかったことは、二つの正反対の評価を受けてきた。差別を煽らない配慮だったという評価と、事実の隠蔽だったという評価だ。だが、いま振り返ると、どちらの評価も的を外している気がする。実際に起きていたのは、配慮でも隠蔽でもなく、思考停止に近い回避だった。触れれば面倒だから触れない。

その結果、被告人像は「謎の大富豪」というワイドショー向けのキャラクターに縮められ、彼が三十年近くにわたって同じことを繰り返せた社会的な条件のほうが議論されなくなった。出自を書くか書かないかではなく、何を説明するために書くのか。この基準がないまま扱えば、どちらに転んでも失敗する。二〇〇八年から二〇〇九年にかけての一連の裁判で示された判断が、いまも参照され続けているのはそのためだ。

怖いのは、周囲があまりに「普通」だったことだ

最後に、この事件がいまなお読まれ続ける理由をもう一度考えたい。

二〇二三年の映像作品をきっかけに事件を知った人たちの反応を見ていて印象的だったのは、犯人の異常性よりも、周囲の「普通さ」に驚く声が多かったことだ。友人はごく普通に見送った。店はごく普通に営業していた。警察はごく普通に手続きどおり処理した。管理会社は通報したし、警察官は現場に行った。誰も特別に怠慢だったわけではない。

それぞれの持ち場でそれぞれの普通をこなした結果として、二十一歳の女性が七か月間見つからなかった。この構図は、二〇二六年の日本にそのまま置き換えても成立してしまう。だからこそ怖い。

この事件が語り継がれるのは、犯人が特殊だったからではなく、彼を止められなかった仕組みのほうが少しも特殊ではなかったからだ。ルーシー・ブラックマンの名前を覚えておくというのは、その仕組みを覚えておくことと、ほとんど同じ意味だと思う。

タイトルとURLをコピーしました