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マンソン・ファミリーとシャロン・テート事件――六〇年代が終わった夜

## 1969年8月9日の朝、六〇年代が終わった
ロサンゼルスに住む人間の多くは、1960年代が1969年8月9日に終わったと思っている――という意味のことを、作家のジョーン・ディディオンが書いている。シエロドライブで何があったかという知らせが山火事のように広がった瞬間だ、と。張り詰めていた何かが切れた。病的な疑心暗鬼が、ちゃんと現実になってしまった。
この一文は、この事件を語るときに何百回と引用されてきた。ちょっとロマンチックすぎる気もする。だが、当時のハリウッドの反応を見ていくと、誇張でもないと思えてくる。事件の直後、ビバリーヒルズとベネディクトキャニオンの一帯では、銘柄のいい家の前に警備会社の車が並び、銃店の在庫が空になり、番犬の価格が跳ね上がった。パーティは一斉に消えた。「ヒッピー風の若者を家にあげる」という、あの時代特有の無防備さが、一晩で死んだ。
この記事では、1969年8月8日の夜から9日未明、そして翌々日の10日の夜に何が起きたのかを、できるだけ時系列で追う。その上で、なぜこの事件が半世紀以上も語られ続けているのか、そして、いまだにもめている動機論争の中身を見ていく。
なお、ここで扱う人物のうち、実行犯と首謀者はすべて裁判で有罪が確定している。推測ではなく、確定した事実として書いていく。そこだけは先に握っておいてほしい。
## シエロドライブ10050番地――坂の上の、行き止まりの家
まず、現場の地理を押さえておきたい。これがあとで効いてくる。
シエロドライブは、ロサンゼルスのベネディクトキャニオンを入っていった尾根にある、行き止まりの道だ。坂をぐんぐん登って、一番奥。隣家は見えない。道路からは門とフェンスで隔てられ、敷地に入ると母屋とプール、少し離れてゲストハウスがある。静かで、珍しく、高い。ハリウッドの人間が欲しがる物件だった。
1969年の時点で、この家に住んでいたのは映画監督ロマン・ポランスキーと、妻の女優シャロン・テート26歳。テートは妊娠8ヵ月半だった。男の子で、名前はもう決めていた。ポランスキーは仕事でロンドンにいて、家にはいなかった。
ここで効いてくるのが、その前にこの家に住んでいた人間だ。音楽プロデューサーのテリー・メルチャーと、女優キャンディス・バーゲンのカップル。1969年1月に引っ越している。この交代が、この事件の中心にある最大の悲劇だ。
もう一つ、後の話のために書いておく。事件の数ヵ月前、1969年3月のある日、この敷地に小柄な男が現れている。メルチャーを探していた。写真家のシャーロク・ハタミが対応し、「メルチャーはもうここには住んでいない」と告げて追い返した。そのとき、家の窓からシャロン・テートが何事かと顔を出している。彼女はその男の顔を見ている。この証言は後に法廷で提示された。男の名はチャールズ・マンソン。
## 出所したくなかった男
チャールズ・マンソンは1934年11月12日、シンシナティで生まれた。母親は16歳。父親はいない。幼少期から親戚の家をたらい回し、13歳で少年院。そこからは盗難車の運搬、小切手偽造、売春斡旋と前科を重ねていく。1967年の時点で、彼は人生の半分以上を施設の中で過ごしていた。
1967年3月、ターミナル・アイランドの刑務所から出所するとき、マンソンは職員に「ここにいたい」と頼んだと伝えられている。外の世界のことを何も知らない、刑務所が家だ、と。このエピソードはよく引かれるけれど、引かれる理由は分かる。その直後の彼の変身ぶりが、あまりにも急だからだ。
彼が向かったのはサンフランシスコのヘイト・アッシュベリーだった。タイミングができすぎている。その年の夏は「サマー・オブ・ラブ」だ。全米から家を飛び出した若者が流れ込み、路上にあふれていた。行き場のない人間と、人を読むことだけは長年の収容生活で磨いてきた男が、同じ場所にいた。
最初の仲間は、カリフォルニア大学バークレー校の図書館で働く23歳の女性、メアリー・ブルーナーだった。そこからは雪だるま式だ。マンソンはギターを弾き、しゃべり、居場所と優しい言葉を与えた。集まったのは中産階級の家庭出身の若い女性が多かった。ピーク時には100人前後が出入りしたとされる。
この集団がどうやって人を囲い込んだのかについて、後に心理学者やジャーナリストが山ほど分析を書いている。確認されているのは、家族や友人との接触が断たれていったこと、集団内での共同生活とLSDの使用が日常化していたこと、マンソンだけが外部の情報と解釈の窓口になっていたこと、周囲から地理的にも孤立した場所に居住していたことだ。手順を並べ立てるつもりはない。ただ、この四つが揃った場合に人間がどうなるかの実例として、この事件は何十年も参照され続けている。
## スパーン牧場と、ビーチ・ボーイズと、盗まれた曲
1968年8月ごろ、集団はロサンゼルス郡のスパーン牧場に拠点を移す。ここはかつて西部劇のロケに使われた古いセットだった。酒場、保安官事務所、馬小屋。すでに廃れかけていて、主のジョージ・スパーンは80歳近く、目がほとんど見えなかった。集団は雑用と相手をする代わりに、無家賃で住み着いた。映画のセットで暮らす集団。この絵面のイメージの強さが、後の神話化にも一役買っている。
この頃、マンソンは本気でミュージシャンになろうとしていた。そして、実際にチャンスは目の前まで来ていた。
ビーチ・ボーイズのドラマー、デニス・ウィルソンが、ヒッチハイクをしていた集団の女性二人を拾って自宅に連れ帰ったのがきっかけだ。やがてマンソンと仲間が居座り、ウィルソンは高額な生活費を背負い込むことになる。ウィルソンはマンソンを業界人に紹介した。そのひとりが、ドリス・デイの息子でもあるプロデューサー、テリー・メルチャーだ。
メルチャーはマンソンのオーディションをした。そして、契約しなかった。
さらにこじれたのが、ビーチ・ボーイズが1968年末にマンソンの曲をレコーディングした件だ。マンソンが「Cease to Exist」として作った曲は、歌詞を変えられ、タイトルも「Never Learn Not to Love」に変更され、作者クレジットはデニス・ウィルソン単独になった。シングルのB面として世に出た。マンソンは激怒したと伝えられている。
自分の名前が消されたレコード。契約してくれなかったプロデューサー。この二つが、あとで重い意味を帯びてくる。
## 『ホワイト・アルバム』が預言書に化けた夜
1968年11月、ビートルズのセルフタイトル・アルバム、通称『ホワイト・アルバム』が発売される。真っ白なジャケットに、ばらばらな曲が30曲。世界中のリスナーが「これはどういう意味なのか」と考え込んだアルバムだ。
マンソンは、これを自分宛のメッセージとして読んだ。
彼の読みはこうだった。アメリカではもうすぐ、黒人と白人の間に戦争が起きる。白人は滅びる。黒人が勝つが、彼らには国を統治する能力がないので、砂漠の地下に隠れていた自分たちが出ていって支配する。このシナリオの名前が、アルバム収録曲から取った「ヘルター・スケルター」だった。
もともとの曲は、ポール・マッカートニーが「いちばんうるさいロックを作ってやろう」と思って書いたもので、タイトルはイギリスの遊園地にあるらせん状の滑り台のことだ。人種戦争とは何の関係もない。だがマンソンは、「Helter Skelter」という言葉の響きと、「Revolution 9」のノイズコラージュと、「Piggies」の風刺と、「Blackbird」の歌詞を、全部自分の予言に縫い合わせた。新約聖書の黙示録と結びつける読み方までやっている。
外から見れば、これはただのこじつけだ。だが内側では違った。集団はデスバレー周辺の砂漠にも拠点を作り、「底なしの穴」と呼ぶ避難場所を本気で探し回った。バギーを改造し、食料を備蓄し、来るべき戦争に備えた。
ところが1969年の夏になっても、人種戦争は始まらない。マンソンは苛立ち始めたとされる。予言が当たらないカリスマは、信用を失う。検察側はのちに、ここで彼が「じゃあこっちから始めてやる」と考えたと主張することになる。
## 発端は7月27日、ゲイリー・ヒンマンの家だった
この事件をシエロドライブから読み始めると、実は大事なところを見落とす。本当の発端は、その二週間前だ。
1969年7月25日から27日にかけて、ロサンゼルスのトパンガ・キャニオンに住む音楽教師、ゲイリー・ヒンマンの家で事件が起きた。ヒンマンは集団と面識があった。金を目当てに、ボビー・ボソレイらが押しかけ、監禁して譲渡書類にサインさせようとした。途中でマンソンも現場に現れ、ヒンマンの顔を刃物で傷つけた。最終的にボソレイが彼を刺し殺した。
現場では、壁に血で「POLITICAL PIGGY(政治的なブタ野郎)」と書かれ、ブラックパンサーを想わせる豹の足跡のようなマークが描かれた。黒人過激派の犯行に見せかける、というのが目的だったとされる。
ボソレイは8月6日、ヒンマンの車に乗っているところを警察に拘束された。つまりシエロドライブ事件の二日前だ。
この順番が重要なんだよな。後に弁護側や一部の研究者が主張する「コピーキャット説」の根拠はここにある。ボソレイが捕まっている以上、同じ手口の殺人が別の場所で起きれば、「真犯はまだ外にいる」ことになり、ボソレイを出せる。実行犯の一人スーザン・アトキンスは後に、シエロドライブのドアに「PIG」と書いたのはヒンマン事件の現場を真似るためだったと述べている。
## 1969年8月8日、23時過ぎ。四人が牧場を出た
8月8日の夜、スパーン牧場。
マンソンは、テックス・ワトソンに指示を出した。メルチャーが住んでいた家、つまりシエロドライブ10050番地へ行け、中にいる人間を全員殺せ、と。同行させられたのはスーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケル、そしてリンダ・カサビアン。カサビアンが選ばれたのは、彼女だけが有効な運転免許を持っていたからだという。
四人は古いフォードに乗り、ロサンゼルスの夜を横切ってベネディクトキャニオンへ向かった。到着は深夜0時前後。
ワトソンは門の柱に登り、電話線を切断した。外への連絡を止めるためだ。その上で、門を乗り越えて敷地に入った。
ここで、最初の誤算が起きる。
## 門の前の18歳と、その後の二時間
スティーヴン・ペアレンは18歳。高校を卒業したばかりで、オーディオ機器のセールスをやっていた。その夜、彼は敷地内のゲストハウスに住む管理人の若者にラジオを売りに来ていた。商談はまとまらず、帰ろうとして白い車で門に向かったところで、ワトソンと遭遇した。
ワトソンは彼を殺害した。ペアレンは、家の住人とは何の関係もない。たまたま、そこにいただけだった。
その後、実行犯たちは網戸を切って家に入った。居合わせたのは四人。シャロン・テート。彼女の元恋人で友人の、ハリウッドで知らぬ者のないヘアスタイリストジェイ・セビリング。コーヒー企業フォルジャー家の相続人で、ソーシャルワークに熱心だったアビゲイル・フォルジャー。そして、ポーランド出身の脚本家志望でフォルジャーの恋人、ヴォイテック・フリコフスキ。
ワトソンはソファで寝ていたフリコフスキを蹴って起こし、こう名乗ったとされる。「俺は悪魔だ。悪魔の仕事をしに来た」
そこからの経緯は、ここではできるだけ簡潔に書く。四人はリビングに集められ、拘束された。セビリングが、妊娠中のテートの扱いに抗議して最初に殺害された。フリコフスキとフォルジャーは拘束を振りほどいて逃げようとし、庭で追いつかれて殺されている。テートは最後まで子供の命を懇願したと、後の証言にある。聞き入れられなかった。
リンダ・カサビアンは、門のところで見張りを命じられていた。彼女は後に、家の方から聞こえてくる音に耐えかねて近づいたこと、アトキンスに「誰か来る」と嘘をついて止めさせようとしたことを証言している。彼女は家には入らなかった。この一点が、のちに裁判の行方を決める。
帰り際、アトキンスが現場のドアに、血で「PIG」と書き残した。四人は服を着替え、凶器を道中に捨て、牧場に戻った。
## 翌朝、家政婦が坂を駆け下りた
8月9日の朝8時ごろ、家政婦のウィニフレッド・チャップマンがいつも通りに出勤してきた。
門の電話が死んでいる。変だな、と思いながら中に入る。内線も通じない。ポーチに赤いしみがある。そして、庭に。
チャップマンは叫びながら坂を駆け下り、近所の家のドアを叩いた。このとき彼女が叫んでいた内容は途切れ途切れで、最初に通報を受けた人間は状況を把握できなかったという。連絡を受けたロサンゼルス市警の最初の制服警官が現場に到着したのは、その直後だ。
現場に入った惨状の模様は、ここでは細かく書かない。当時のロサンゼルス市警の殺人課刑事マイケル・マッガンは、後年のオーラルヒストリーでこう語っている。シャロン・テートはビキニ型のナイトウェアを着ていた。妊娠8ヵ月半だった。見れば十数カ所刺されているのが分かった――と。ベテラン刑事の、事務的で短い言葉だ。だからこそ、何十年経ってもこの一行は重い。
当初、警察はゲストハウスに住んでいた管理人の若者を容疑者として拘束した。彼は何も聞こえなかったと主張し、ポリグラフ検査を受けて数日で釈放されている。彼はその後の人生を、この一晩の記憶と一緒に過ごすことになる。
俳優のウォーレン・ビーティは、後年のインタビューでこう言っている。「10段階で表すなら27くらい動揺した。ジェイも、シャロンも、アビゲイルも、ヴォイテックも、俺の友達だった」。ビーティは同業者とともに、犯人逮捕のための懸賞金を拠出している。ハリウッドがこの事件をどう受け止めたかが、この短いコメントに全部入っている。匿名の悲劇ではなく、全員が誰かの友達だった。
## 翌々夜、ウェイバリードライブ。そして捜査は二つに割れた
8月10日の夜、同じことがもう一度起きる。
今度はマンソン自身が車に同乗した。目指したのはロス・フェリス地区のウェイバリードライブ3301番地。スーパーマーケットを経営するレノ・ラビアンカ44歳と、妻ローズマリー38歳の家だ。この家を選んだ理由は、隣の家にマンソンが以前パーティで行ったことがあったからだとされている。ラビアンカ夫妻自身は、集団と一切の接点がない。
ワトソン、クレンウィンケル、そしてこの夜から参加したレスリー・ヴァン・ホーテンの三人が家に入り、夫妻を殺害した。現場にはまた文字が残されている。壁に「DEATH TO PIGS」と「RISE」、そして冷蔵庫の扉に「HEALTER SKELTER」。ビートルズの曲名のスペルが間違っている。このスペルミスが、のちに検察にとって黄金の材料になる。
さて、ここからが捜査の問題だ。
シエロドライブとウェイバリードライブは、ロサンゼルス市警の別のチームが担当した。しかも両チームは、同一犯の可能性を真剣に検討しなかった。テート側の捜査には「ハリウッドのドラッグ・トラブル」という線があった。ラビアンカ側は、商売人の家での強盗殺人として見ていた。さらにヒンマン事件は保安官事務所の管轄で、これも別組織だ。
三つの現場、三つの組織、三つの仮説。血で書かれた「PIG」と「POLITICAL PIGGY」と「DEATH TO PIGS」が、同じテーブルに並べられなかった。ヒンマン事件を担当していた保安官が「似ている」と持ちかけたのに、市警側はとりあえず取り合わなかったとされる。結果、事件は三ヵ月もの間、実質的に行き詰まった。
この捜査のチューニングミスは、後に検証本やドキュメンタリーで何度も叩かれた。現代のプロファイリングや連続事件の紐づけに関する手法は、こういう失敗例の上に組み上げられている。
## 事件を解いたのは、留置場の世間話だった
決め手は、鑑識でも地道な聞き込みでもなかった。雑談だ。
1969年10月、デスバレーのバーカー牧場周辺で、保安官事務所と州警などの合同で大規模な家宅捜索が行われた。容疑は、なんと自動車窃盗だ。集団がダンバギーを盗んで改造していたのだ。この捜索で20人以上が拘束された。
マンソンは、小さな洗面台の下の戸棚に身を折りたたんで隠れていた。見つけたカリフォルニア州警のジェームズ・パーセル警官は、その場面を後年こう回想している。扉を開けると、人影がゆっくりと体を伸ばしながら出てきて、ごく人懐っこい声で「やあ」と言った――と。世界中を震撼させた事件の首謀者の拘束の瞬間が、この拍子抜けさなんだ。
ただしこの時点では、誰も彼らを殺人と結びつけていない。
拘束されたメンバーの一人、スーザン・アトキンスはロサンゼルス郊外のシビル・ブランド女子拘置施設に入っていた。そこで彼女は、同室の収容者ロニー・ハワードとヴァージニア・グレアムに、自分がやったことを自慢げに喋った。
グレアムは後年の証言で、アトキンスがシャロン・テートの懇願に対してどう応じたかを、本人の口調のまま再現している。目をまっすぐ見て、もうどうでもいいという意味のことを言った――と。この証言を聞いたときのグレアムの、強盗や麻薬で何度も拘置所を出入りしてきた女性の背筋が凍ったというのは、分かる気がする。もう一人のロニー・ハワードが、意を決して看守を通じて警察に連絡した。これが全ての入り口だった。
1969年12月1日、ロサンゼルス市警はテート事件の容疑者を発表した。四ヵ月だ。
もう一人、記録しておきたい証人がいる。バーバラ・ホイト。彼女は集団のメンバーだったが、検察側の証人になることを選んだ。そのために彼女は脅され、実際に健康を損なう事態にまで追い込まれている。なぜ証言したのかと問われて、彼女はこう答えている。「自分が年を取ったとき、自分自身と一緒に生きていけるかどうかを考えた。そして、生きていけるようにしようと決めた」。この一行は、この事件の膨大な記録のなかで、俺が一番好きな言葉だ。
## 法廷という見世物小屋
裁判は1970年6月に始まり、異様な長期戦になった。
検察側の主任検事はヴィンセント・ブグリオーシ。彼の直面した問題は単純だった。マンソンはシエロドライブの現場にいない。自らは手を下していない。この男をどうやって殺人で有罪にするか。
答えが「ヘルター・スケルター」だった。マンソンは人種戦争を人工的に発火させるために、白人の金持ちを殺して黒人の仕業に見せかけろと命令した。だから共同正犯として死刑に値する。この理屈だ。だからこそブグリオーシにとって、冷蔵庫の扉の「HEALTER SKELTER」は至宝だった。彼は後年、あの文字が現場にあったことは「マンソンの指紋を見つけたのに等しい」と語っている。
検察側の最大の武器は、免責と引き換えに証言台に立ったリンダ・カサビアンだった。彼女は家に入らなかったので、殺害には直接関与していない。その上で、すべてを見ていた。彼女の尋問は18日間に及び、うち7日が反対尋問だった。弁護側は彼女のLSD使用歴を攻めて信用性を崩しにかかったが、崩れなかった。
法廷でのマンソンの振る舞いは、現代の基準でも異常だ。彼はある日、額にXの字を刻んで出廷し、「俺はお前たちの世界から自分を抹消した」と宣言した。女性被告人たちもすぐに同じことをした。後には全員が頭を剃った。裁判所の外には、公判中ずっと座り込む信奉者グループがいた。
1970年10月には、マンソンが鉛筆を握って裁判長席に飛びかかろうとした。以降、オールダー裁判長は法服の下に拳銃を帯びて法廷に座ることになった。マンソンは証言台でも挑発を繰り返し、判決の際には「お前たちに俺への権限はない」と叫んだと記録されている。
そして、事件のなかでもとくに不気味な出来事が起きる。弁護人のロナルド・ヒューズが、休廷中の週末にキャンプに出かけたまま行方不明になった。数ヵ月後、遠隔地で遺体で発見されている。彼は担当していた被告人について、マンソンに不利な弁護方針――つまり「マンソンの支配下にあった」という線――を取ろうとしていた。因果関係は立証されていないが、この件は今も事件史の黒い穴として残っている。
1971年1月25日、陪審員は全員に第一級殺人の有罪評決を出した。3月29日、死刑判決。だが翌1972年、カリフォルニア州最高裁が死刑を違憲としたため、全員の刑が終身刑に減刑された。この減刑が、その後半世紀にわたる仮釈放審査の連鎖を生む。マンソンは12回却下され、2017年11月19日に服役中に死亡。アトキンスは14回却下され、2009年に脳腫瘍で死亡。レスリー・ヴァン・ホーテンは22回の却下を経て2023年7月に釈放された。
## ヘルター・スケルター動機は本当か――異説を一つずつ
ここからが、この事件のネット考察界隈で一番熱いゾーンだ。
有罪は確定している。誰が何をしたかも確定している。争われているのは「なぜやったのか」だけだ。主な異説を、一つずつ見ていこう。
一つ目、コピーキャット説。さっき書いたとおり、ボビー・ボソレイを拘置から出すために、ヒンマン事件と同じ手口の殺人を外で起こしたという説。これはアトキンス自身が初期に供述しているので、不整合な説ではない。反論は、ならばなぜ二晩連続で、しかも全く属性の違う家を選んだのか、だ。コピーキャット目的なら一件で十分だし、もっとヒンマン事件に似せるはずだ。
二つ目、ドラッグ・バーン説。シエロドライブは当時、ハリウッドのパーティとドラッグの結節点だった。フリコフスキはMDAなどの薬物を扱っていたとされる。取引のこじれ――英語で言う「ドラッグ・バーン」――の報復だったという線。この説は作家エド・サンダースの取材以来、何度も強化されてきた。反論は、実行犯のうち誰もフリコフスキとの取引を語っていないこと、そして何より、報復ならターゲットを確認するはずなのに、実行犯は家の中に誰がいるかも把握せずに踏み込んでいることだ。
三つ目、メルチャーへの報復説。契約を断られた恨みで、あの家に人を向かわせたというもの。マンソンがあの家の住人が交代したことを知っていたのかどうかが争点で、知っていたとする証言と、知らなかったとする証言の両方がある。この説だと、ラビアンカ家の説明がつかなくなる。
四つ目が、一番注目を集めているやつだ。ジャーナリストのトム・オニールが20年近くを費やして書いた『CHAOS』(2019年)だ。オニールはもともと「事件30周年の雑誌記事」を書くだけのはずだった。ところが取材の過程で、公式記録のかなりの数の矛盾にぶつかる。
オニールが一番こだわったのは、マンソンが事件前の数年間、なぜ何度も仮釈放条件に違反しながら収監されなかったのかという点だ。未成年の女性を含む集団を引き連れて州をまたいで移動しても、何も起きない。さらに彼は、マンソンが出入りしていたヘイト・アッシュベリーの無料診療所周辺に、当時CIAの行動制御研究計画と接点を持つ研究者がいたことを提示した。LSDと集団心理の研究だ。
ただし、ここは正確に書いておきたい。オニール自身は「CIAが事件を仕組んだ」とも「マンソンはプログラムされた暗殺者だった」とも主張していない。彼がやったのは、公式の物語に穴があると指摘することまでだ。本の末尾でも、彼は結論を出していない。この「出さなさ」が、皮肉にもネットでは勝手に補完されてしまっている。
反論側の言い分も強い。仮釈放のズルさは、当時のカリフォルニアの予算不足と事例過多を考えれば珍しくもない。ヘイト・アッシュベリーに研究者がいたのは、そこにドラッグカルチャーがあったからで、因果が逆だ。そして決定的なのは、この手の仮説が実行犯たちの供述を一つも説明できていないことだ。
俺の見方を書いておくと、「ヘルター・スケルターが唯一の動機」というブグリオーシの絵は、法廷で勝つために単純化されすぎていると思う。ボソレイを出したいという実利、メルチャーへの恨み、集団内で失墜しかけていたマンソンが一発逆転を狙ったこと。これらが全部同時に動いていたと考えるほうが、人間のやることとしては自然だ。ただしそれは「マンソンは悪くない」という話では全然ない。彼が命令し、人が死んだ。そこは動かない。
## Redditが半世紀かけて掘った穴と、映画・音楽に住み着いたもの
海外の掲示板やRedditの犯罪コミュニティでは、この事件はもはや一つのジャンルになっている。定期的に蒸し返される論点は、だいたい決まっている。
「マンソンは誰も殺していないのに、なぜ一番有名なのか」。これはよく出る。反論は単純で、共謀と教唆は英米法では実行と同等に重いからだ。だが「有名さ」の説明にはならない。彼が有名なのは、メディアに対して強烈にキャラクターとして機能したからだ。ここはちゃんと分けて考えたほうがいい。
「ブグリオーシの本は検察の自己弁護だ」という指摘も定番だ。彼の『ヘルター・スケルター』(1974年)はノンフィクション犯罪本として史上最も売れた一冊で、この事件の世界的なイメージをほぼ単独で形作った。つまり、俺たちが知っているこの事件は、マンソンを有罪にした検察官のバージョンだ。中立の記録ではない。この自覚は必要だと思う。一方で、だからといって判決そのものが誤りだという論理にはならない。
ソーシャルメディアでは、実行犯の女性たちを「被害者でもあった」として見直す議論も周期的に起きる。十代後半から二十代前半で、孤立した環境に置かれていたのは事実だ。ヴァン・ホーテンの釈放をめぐっては、賛否で激しく割れた。一方で、遺族側の発信もネット上で強い。シャロン・テートの母ドリスは、娘の死後に犯罪被害者の権利運動の先頭に立ち、カリフォルニア州の被害者権利法の成立に大きく関わった。仮釈放審査に遺族が意見を述べられる現在の制度は、こういう動きの上にある。事件が制度を変えた実例だ。
文化への流れ込み方は、もっと不気味だ。
シエロドライブ10050番地の家は、1992年から1993年にかけて、ミュージシャンのトレント・レズナーが借りてレコーディングスタジオにしていた。スタジオ名は「Le Pig」。現場のドアに書かれた文字から取っている。レズナーは後に、当初は家の歴史を知らなかったと語った。だがあるとき、シャロン・テートの妹に直接問われる。「あなたは私の姉の死を利用しているのか」と。レズナーはインタビューで、この問いで初めて遺族がいることの重さを実感したと語っている。家は1994年に取り壊され、住所番号も変更された。
同じ頃、ガンズ・アンド・ローゼズがマンソンの書いた曲をカバーして大炎上し、印税がヴォイテック・フリコフスキの遺児に渡るよう手配されるという奇妙な事態も起きている。マリリン・マンソンというアーティスト名は、マリリン・モンローとチャールズ・マンソンを足したものだ。アメリカのポップカルチャーは、この事件を意味もなく引用し続けている。
そして2019年、クエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開される。1969年のハリウッドを丁寧に再現した上で、事件を起こさせないという選択をした作品だ。賛否両論だったけれど、あの映画がやろうとしたことははっきりしている。半世紀後でも、人はまだこの事件に対して「起きなければよかったのに」と思っている。
## 六〇年代が終わった、と人が言うようになった理由
この事件を調べ直して、あらためて引っかかったのは、「なぜこれだけが時代の区切りになったのか」という問いだ。
1969年は、アメリカにとって異様な密度の年だった。7月に人類が月に立ち、8月の中旬にはニューヨーク州の牛舎の周りに40万人が集まってウッドストックが開かれた。ベトナムでは戦死者が積み上がり、反戦運動はピークに向かっていた。そして12月には、オルタモントのローリング・ストーンズのフリーコンサートで、警備を担当していたバイカー集団によって観客が刺殺される。
つまり、ウッドストックの一週間前にシエロドライブがあり、その四ヵ月後にオルタモントがあった。「愛と平和」のスローガンと、そのスローガンを口にしていた若者たちによる殺人が、同じ年の同じ季節に並んだ。この同時性が、この事件を単なる凶悪犯罪以上のものにした。カウンターカルチャーが自分の影を見てしまったという、引き返しのつかない瞬間だった。
もう一つ、取材していて重いなと思ったのは、この事件の被害者が、長い間「シャロン・テート事件」という一人分の名前に回収されてきたことだ。実際には五人が殺されている。ジェイ・セビリング、アビゲイル・フォルジャー、ヴォイテック・フリコフスキ、そしてスティーヴン・ペアレン。翌々日にはレノとローズマリーのラビアンカ夫妻。さらにはゲイリー・ヒンマンと、牧場のスタントマンだったドナルド・シェイ。合計すれば九人だ。
とくにスティーヴン・ペアレンは、事件の語られ方のなかで長らく一行で消費されてきた。18歳。卒業したばかり。敷地の奇麗なプールも、住んでいる女優のことも、彼には関係がなかった。小遣い稼ぎに行って、帰ろうとしただけだ。彼の名前をちゃんと書くことは、この手の記事を書く側の最低限の仕事だと思っている。
動機論争について、もう少し踏み込んでおきたい。この事件には、実はもっと地味で、もっと恐ろしい説明がありうる。マンソンは1969年の夏、集団内での権威を失いかけていた。預言した人種戦争は起きない。音楽の契約も取れない。金はない。牧場を追い出される可能性もあった。彼には、自分の言うことが現実になることを証明する必要があった。予言が当たらないなら、自分で当てる。この読みは、ヘルター・スケルター説と矛盾しないし、ボソレイを出したいという実利とも矛盾しない。人間は一つの理由で動かない。
だから、ネットでよく見る「ヘルター・スケルターはデッチ上げだった」という主張には、半分賛成して半分反対しておく。賛成するのは、あれが唯一の動機として描かれたのは法廷戦術の結果だという点。反対するのは、あの思想が集団内で実際に共有されていたことは、複数のメンバーが独立に証言している事実だからだ。デッチ上げにしても、そもそもそのデッチが実在していなければ上げられない。
最後に、なぜこの事件がこれほど長く語り継がれるのかについて。理由は三つあると思っている。
一つは、現場があまりにも象徴的だったこと。ビバリーヒルズの坂の上、プール付きの邸、人気女優、コーヒー企業の相続人。アメリカの成功というイメージそのものの中心に、あの夜の出来事が落ちた。もし同じことがダウンタウンの安アパートで起きていたら、ここまでの話にはなっていない。それを認めるのは少し嫌な気分だが、事実だ。
二つめは、実行犯が「選ばれた怪物」ではなかったことだ。クレンウィンケルはカトリック系の学校に通っていた。ヴァン・ホーテンは高校のホームカミング候補だった。ワトソンはテキサスの優等生で、陸上の記録を持っていた。どこにでもいる若者だ。これが一番恐い。「特別な悪人がやった」という説明が使えないから、人は何十年も「では何が彼らをそうさせたのか」を問い続けている。
三つめは、この事件が「あの時代に何が起きていたのか」の説明装置として便利すぎることだ。ヒッピーも、LSDも、カルトも、ロックも、人種問題も、ハリウッドも、全部がこの一件に集まっている。だから誰が語っても、自分の言いたいことを話に乗せられる。保守側は「カウンターカルチャーの帰結」と語り、リベラル側は「福祉と家庭の崩壊が生んだ悲劇」と語り、陰謀論側は「国家の実験」と語る。事件は、語りの器になってしまっている。
だからこそ、時々引き戻さないといけないと思う。1969年8月9日の未明、あの坂の上で起きたのは、思想でも時代精神でもない。五人の人間が、自分の家と、仕事先の帰り道で、何の理由もなく殺された。シャロン・テートは26歳で、あと十数日で母親になるはずだった。スティーヴン・ペアレンは18歳で、自分の車の中で死んだ。事件をどんなに大きな物語にしても、その事実の重さは変わらない。
六〇年代はこの夜に終わった、と人は言う。それはその通りなんだろう。だが終わったのは時代だけじゃない。名前のある人間の人生が、具体的に、一つずつ終わった。この事件を語るときは、そこを先に置いておきたい。

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