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ペルージャ、鍵のかかった扉――メレディス・カーチャー殺害事件と、八年かけて壊れた「物語」の全記録

十一月一日、丘の上の街で時計が止まった

イタリア中部ウンブリア州、ペルージャ。石畳の坂と中世の城壁でできた、人口十六万ほどの小さな街だ。だがこの街には妙な二重構造がある。地元の暮らしがある一方で、外国人大学と国立大学が毎年何千人という留学生を吸い上げる。夜になると、坂道のバーからイタリア語と英語とスペイン語がまぜこぜになって漏れてくる。二十歳前後の若者が世界中から集まって、安いワインを飲んで、恋をして、半年か一年で帰っていく。そういう街だ。

二〇〇七年十一月一日は諸聖人の日、イタリアでは祝日だった。街は静かだった。学生の多くは実家に帰るか、旅行に出るかしていた。ヴィア・デッラ・ペルゴラ七番地の家も、そのせいで人が少なかった。

この家は坂の途中に建つ二階建てで、上階に女子学生四人、下階に男子学生四人が住んでいた。上階の四人は、イタリア人の法学部生フィロメーナ・ロマネッリとラウラ・メッツェッティ、イギリスから来た留学生メレディス・カーチャー、そしてアメリカのシアトルから来たアマンダ・ノックス。メレディスは九月十日に、アマンダは九月二十日にこの家へ入っている。つまり二人が同居していた期間は、たった六週間だ。

メレディス・カーチャーは一九八五年十二月二十八日生まれ。イギリスのリーズ大学からペルージャに来ていた。ヨーロッパ政治と、イタリア語と、映画。真面目で、几帳面で、家賃の管理をきちんとやるタイプだったと同居人たちは証言している。十一月一日の夜、彼女はイギリス人の友人たちの家でピザを食べ、映画を観て、午後八時四十五分ごろに帰路についた。歩いて十分ほどの距離だ。

そして翌日の午後、彼女は自室で発見された。二十一歳だった。

この記事は、そこから始まった八年間の裁判と、その裁判が終わったあとも終わらなかった十八年間の話だ。先に一つだけ確認しておく。この事件で殺人の有罪が司法上確定しているのは、ルディ・ゲデという一人の男だけである。アマンダ・ノックスとラファエレ・ソレシートは、二〇一五年三月二十七日にイタリア最高裁にあたる破毀院で殺人について無罪が確定した。ノックスにはもう一つ、まったく別の罪――中傷罪の有罪が残っている。この二つを混ぜて語ると、話は一瞬で嘘になる。だからこの記事では、そこだけは何度でもしつこく確認しながら進む。

鍵のかかった扉と、割れた窓

十一月二日の朝から昼にかけて、この家の周辺で妙なことが立て続けに起きている。

まず午前中、家から少し離れた斜面の下の庭で、携帯電話が二台見つかった。拾ったのは近所の住人だ。一台はモトローラ、もう一台はエリクソン。持ち主を確かめるために警察に連絡が入り、モトローラはフィロメーナ・ロマネッリの契約だと判明した。エリクソンのほうには着信履歴に「アマンダ」の文字があった。実際にはどちらもメレディスが使っていた端末で、片方はフィロメーナから借りたものだった。

この「庭に落ちていた携帯」から、通信関係の犯罪を扱う郵便警察が動いた。契約者を訪ねるためにヴィア・デッラ・ペルゴラ七番地へ向かったのだ。彼らが到着したのは午後零時半ごろ。まったく別件の、地味な確認作業のつもりだった。

ところが家の前には、すでにアマンダ・ノックスと、その恋人ラファエレ・ソレシートがいた。二人は郵便警察に、玄関のドアが開けっぱなしになっていたこと、フィロメーナの部屋の窓ガラスが割れていること、メレディスの部屋の扉が中から鍵がかかっていて開かないことを説明した。カラビニエリ、つまり軍警察に通報したところだとも言った。

アマンダの説明はこうだった。前夜はソレシートの家に泊まり、朝、シャワーを浴びて着替えるために自分の家に戻った。玄関が開いていたが、同居人が閉め忘れたのだろうと思った。浴室に血の染みがいくつかあったが、生理か、耳のピアスの出血か何かだろうと思った。メレディスの部屋の扉をノックしたが返事がない。鍵がかかっていた。それで不安になり、ソレシートの家に戻って彼を連れてきた。

午後一時ごろ、フィロメーナ・ロマネッリが恋人と友人夫婦を連れて帰宅した。自室が荒らされていることを確認し、しかし荒らされているわりに何も盗られていないことに気づく。そして午後一時十五分ごろ、フィロメーナの友人がメレディスの部屋の扉を蹴破った。

部屋の床には掛け布団が広げられていた。その下に人がいて、片方の素足だけが見えていた。壁と床には血。フィロメーナが悲鳴を上げ、郵便警察の警官が全員を部屋から出した。

ここで一つ、後々まで尾を引く問題が発生している。この家の玄関前に最初に到着した警察官は、殺人捜査の専門部隊ではなかった。彼らは携帯電話の契約者を探しに来た郵便警察だ。そして扉を破ったのは警察官ではなく、住人の知人である。つまりイタリア刑事司法史上でも有数の注目事件の第一発見現場は、鑑識が保全する前に、少なくとも七、八人の人間が出入りする状態で始まってしまった。この最初のボタンの掛け違いが、八年後の最高裁判決の文面に「衝撃的な捜査の失敗」という言葉で刻まれることになる。

四日で街がひっくり返った――初動捜査が転んだ場所

司法解剖はペルージャ大学の法医学者ルカ・ラッリが担当した。メレディスの体には多数の打撲と切創があり、致命傷は頸部の損傷だった。口と鼻のまわりの傷は、誰かが手で顔を押さえつけた形跡と一致した。性的暴行を受けた形跡もあった。ここではこれ以上詳しくは書かない。書く必要がないし、書けば被害者の尊厳を削るだけだ。

捜査は最初の四十八時間で、ある一つの結論に向かって収束した。「これは物盗りの犯行ではない」。

そう判断した中心人物の一人が、ペルージャ警察殺人課のモニカ・ナポレオーニ副署長である。彼女が注目したのはフィロメーナの部屋の窓だった。外から石を投げ込んで割ったにしては、ガラス片が室内の衣類や散乱物の「上」に載っていた。もし窓を割ってから部屋を荒らしたなら、ガラスは荒らされた物の下に潜り込むはずだ。加えて、その窓は地面から三メートル以上高い位置にあり、下には斜面と灌木がある。よじ登れないことはないが、面倒だ。そのうえ室内は荒らされているのに、目につく場所にあったパソコンやカメラや現金には手がつけられていなかった。

これらを合わせて、捜査本部は「侵入の痕跡は偽装である」と結論づけた。偽装するのは家の中の人間だ。事件当夜、同居人のうちフィロメーナは恋人と外泊し、ラウラは実家に帰っていた。残る一人が、アマンダ・ノックスだった。

同時に、警察はアマンダとラファエレの言動を不審に感じ始める。ここから先が、この事件をただの殺人事件から国際的な文化摩擦へ押し上げていく部分だ。警察署の廊下で待たされている間、アマンダは体を伸ばすようなストレッチをした。ラファエレの膝の上に座り、彼にキスをした。友人が泣いているのを見て、自分は泣かなかった。事件翌日、下着を買いに行った。血の飛んだ浴室でシャワーを浴びた。

アメリカ人の目には「二十歳のちょっと変わった子がショックで挙動不審になっている」と映るこれらの振る舞いが、イタリアの捜査当局と、その後に押し寄せるタブロイド記者の目には「まったく悲しんでいない女」と映った。人間の反応の幅というものを、この捜査は最初から狭く見積もった。

十一月三日から五日にかけて、警察は関係者を次々に呼んで事情を聴いた。アマンダとラファエレは、何度も、そして長時間呼び出された。

午前五時四十五分、通訳と刑事と二十歳の留学生

十一月五日の夜から六日の未明にかけて、ペルージャ警察署で起きたことは、この事件のすべての論争の原点である。

その夜、ラファエレ・ソレシートは別室で聴取を受けていた。彼は最初、事件当夜はずっとアマンダと自宅にいたと述べていた。だがこの夜、彼はその供述を弱めた。アマンダが夜のあいだ外に出ていたかもしれない、自分は寝ていたのでわからない、という趣旨のことを言った。彼はのちに、これも極度の疲労と圧力の下での発言だったと説明し、撤回している。

アマンダは、その夜、付き添いとして警察署に来ていただけだった。呼ばれていたのはラファエレのほうで、彼女は待合で待つつもりだった。ところが彼女も聴取室に入れられた。時刻は夜十一時前後。彼女はイタリア語をまだほとんど話せない。弁護士はいない。通訳としてアンナ・ドンニーノという女性が呼ばれた。

この聴取は明け方まで続いた。何人の警察官が交代で入れ替わったのか、記録は完全ではない。録音もされていない。ここが決定的に重要な点で、イタリアの捜査手続きにおいて、この夜の聴取は音声・映像記録が残されていない。あとから検証できるのは、警察官の証言と、アマンダ自身の証言と、彼女がサインした二通の書面だけである。

午前一時四十五分ごろ、一通目の書面が作られた。そこには、彼女がバイト先のバーのオーナーであるパトリック・ルムンバに呼び出され、一緒に家に行き、ルムンバがメレディスの部屋に入り、自分は台所で耳をふさいでいた、という趣旨のことが書かれていた。午前五時四十五分ごろ、二通目の書面が作られた。こちらは検察官ジュリアーノ・ミニーニが立ち会う形で作成されている。

この二通の内容は、事実としては成立しない。パトリック・ルムンバには堅固なアリバイがあった。彼は事件当夜、自分の店にいた。スイス人の教授が、その夜ルムンバと店で話していたと証言した。彼は十一月二十日に釈放された。

ではなぜアマンダは、まったく無関係の男の名前を口にしたのか。

彼女自身の説明はこうだ。あの夜、警察は自分の携帯のメッセージを突きつけてきた。ルムンバに宛てた「またあとで」という趣旨の英語の短信だ。英語圏では「じゃあね」という程度の慣用句だが、これが「あとで会う約束」と解釈された。誰と会ったのか、と何時間も問い詰められた。イタリア語がわからず、通訳を通し、名前を挙げるまで帰さないという空気の中で、頭の中に断片的な「イメージ」が浮かんだ。ルムンバの顔。両手で耳をふさいでいる自分。彼女はそれを「思い出した記憶」だと錯覚した。そして口にした。

彼女はまた、この聴取の最中に警察官から後頭部を二度叩かれたと主張した。警察側はこれを一貫して否定している。この点については、のちに欧州人権裁判所が「虐待があったと認定できるだけの証拠はない」としつつ、「虐待の訴えがあったのにイタリア当局がそれをまともに調査しなかったこと自体が条約違反である」という、微妙だが重要な判断を下すことになる。

いずれにせよ、十一月六日、アマンダ・ノックス、ラファエレ・ソレシート、パトリック・ルムンバの三人が逮捕された。そして十一月二十二日、アマンダは自ら書いた手記の中でこの供述を撤回している。獄中で、英語で、何ページにもわたって、自分の頭の中で何が起きたかを書き記した。「あれは夢のように非現実的だった」という趣旨のことを、彼女はそこに書いている。

しかし、いったん口から出た名前は消えない。パトリック・ルムンバはペルージャで店をたたむことになった。二週間の勾留と、その後の風評で、彼の生活は壊れた。のちに彼はポーランドへ移住する。この一件が、十八年後まで続く中傷罪裁判の種になる。

指紋が全部ひっくり返した――ルディ・ゲデという名前

逮捕から二週間もしないうちに、捜査は自分たちの立てた構図と噛み合わない事実にぶつかった。

十一月十九日、現場から採取された掌紋の照合結果が出た。メレディスの体の下にあった枕に、血に染まった手のひらの跡が残っていた。それはアマンダのものでもラファエレのものでもなかった。ルディ・エルメ・ゲデという、コートジボワールのアビジャン生まれ、五歳からペルージャで育った当時二十歳の男のものだった。

ゲデはこの家の下階に住む男子学生たちと面識があり、上階にも上がったことがあった。そして事件の五日前、十月二十七日には、ミラノの保育施設に侵入したところを取り押さえられている。所持品の中には施設の台所から持ち出した長いナイフと、ペルージャの法律事務所から盗まれた品があった。彼はその時、身柄を拘束されないまま解放されている。この一件は、あとから見ると強烈に不吉な前史だ。

十一月二日以降、ゲデはペルージャから消えていた。彼はドイツへ逃れ、十一月二十日にシュトゥットガルト近郊の列車で無賃乗車として拘束された。十二月にイタリアへ身柄が引き渡された。

現場に残されていたゲデの痕跡は、量が違った。掌紋。被害者の体に残った生体資料。室内の複数箇所。トイレの流されていない痕跡。彼が現場にいたことは、彼自身も否定していない。

ゲデの説明はこうだった。前夜にナイトクラブで会い、その日は約束して家を訪ねた。二人で親密になったが最後まではいかなかった。腹の具合が悪くなってトイレに入り、音楽を聴いていた。出てきたら悲鳴が聞こえた。ナイフを持った人影が逃げていき、「黒人がいた、犯人が見つかった、行こう」と流暢なイタリア語で言った。自分は怖くなって逃げた。

裁判所はこの話を信用しなかった。理由は明快で、彼の話と物証が合わないからである。とくに、彼が「服を着たままの状態で置いてきた」と主張する被害者の、その体の下にあった枕に、彼自身の血染めの掌紋が付いていた。この一点だけで、彼の物語は破綻する。

ゲデは二〇〇八年九月六日に略式手続を選択した。イタリアの制度で、証拠調べを簡略化する代わりに刑が三分の一減じられるやつだ。二〇〇八年十月二十八日、彼は殺人と性的暴行で有罪、懲役三十年を言い渡された。二〇〇九年に控訴審で二十四年に減軽され、略式手続の減刑が効いて最終的に十六年で確定した。

そしてここが効く。ゲデは最後まで、自分以外の誰が現場にいたのかについて、一貫した説明を法廷でしなかった。彼はアマンダとラファエレの裁判に証人として召喚されたが、二〇〇九年四月四日、証言を拒否した。彼は十六年の刑期のうち約十三年を務め、二〇二一年十一月に釈放された。その後、二〇二三年末には元交際相手からの被害申告を受けて接近禁止命令が出され、二〇二四年二月には特別監視処分が付され、二〇二五年には元交際相手に対する性的暴行と暴力の罪で公判に付されている。

つまりこの事件の司法的な決着はこうなっている。現場にいて、有罪が確定しているのは、ゲデ一人。そして判決は「ゲデ単独犯である」とは断定していない。破毀院はゲデの共犯者が存在した可能性を否定していないが、その共犯者が誰なのかは、司法上、特定されていない。ここが、この事件を十八年間ずっと燃やし続けている燃料の正体である。

「フォクシー・ノクシー」はこうして作られた

ゲデの逮捕は、普通に考えれば捜査の構図を根本から書き換えるはずの出来事だった。だが実際には、検察は最初の構図を捨てなかった。三人が共同で犯行に及んだ、という筋に組み替えたのだ。

そしてこの時点で、事件はもう法廷だけのものではなくなっていた。

「フォクシー・ノクシー」という言葉が、イギリスとアメリカのタブロイドを覆った。これはもともと、アマンダが子どものころにサッカーのポジション取りが巧みだったことから付いた、身内のあだ名だった。彼女はそれを当時の交流サイトのハンドルネームに使っていた。記者たちはそのアカウントを掘り出し、ハンドルネームを見つけ、そこに載っていた写真を持ち去った。

あだ名は、そのまま人格の断定になった。「セクシーな殺人者」というキャラクターが、証拠より先に完成した。彼女の日記が流出し、抜粋が新聞に載った。彼女が拘置所で書いた過去の交際相手のリストが報じられた。「悪魔崇拝の儀式」という言葉が、ハロウィンの翌日という日付とセットで見出しに躍った。ペルージャの法廷には巨大な十字架が掛かっていて、彼女はその下で裁かれた。検察官のミニーニは彼女について、聖女の顔と二つの魂を持つ、という趣旨の表現を使った。

ここには構造的な問題があった。イタリアの刑事手続では、捜査資料が弁護側にも開示され、それがしばしば記者の手に渡る。加えて英米のタブロイドは、イタリアの法廷を「よその国の司法」として扱えるぶん、名誉毀損リスクの計算が甘くなる。結果として、まだ一審も始まっていない段階で、世界中の朝刊に「若い女が仕組んだ性的な儀式殺人」という完成品の物語が並んだ。

アマンダ・ノックス自身が後年、繰り返し語っているのはこの点だ。あのあだ名がなければ自分はここまで憎まれなかったと思う、と彼女は言う。あだ名が付いた瞬間に本物の自分は消え、代わりに世界中が知っている別のキャラクターが立ち上がった、と。

そしてこの騒ぎのなかで、決定的に軽く扱われた人がいる。メレディス・カーチャーだ。事件のたびに世界中の紙面を埋めたのはアマンダの顔写真で、メレディスの名前は「被害者」という記号に縮んでいった。この記事のタイトルにも本文にもアマンダの名前が何度も出てくるが、そのこと自体が報道の歪みの証拠でもある。殺されたのはメレディス・カーチャーだ。そこは何度でも言い直す価値がある。

二〇〇九年、重罪院の一年間

二〇〇八年七月十一日、検察は三人を殺人罪で起訴した。同年十月二十八日、アマンダとラファエレの公判前手続が終わり、正式に重罪院に送られた。裁判は二〇〇九年一月十六日に始まり、十二月まで続いた。裁判長はジャンカルロ・マッセイ。イタリアの重罪院は職業裁判官二名と一般市民から選ばれた参審員六名の合議体である。英米の陪審制とは違い、市民は裁判官と一緒に評議し、有罪無罪だけでなく量刑まで決める。そして重罪院は判決の理由を分厚い文書で書く義務がある。この事件では、その理由書が四百二十七ページになった。

検察の主張は、性的な暴力を含む場面が制御不能になり、三人が関与したという構図だった。動機については、家賃や掃除をめぐる同居人同士の摩擦、生活習慣の違いによる反目が積み重なった、という説明がなされた。この動機説明は当初から批判が多かった。人が人を殺す動機として、共同生活の小競り合いは弱すぎる、と。

検察側の証人には、いくつか印象的な人物がいた。近隣に住む中年女性ナラ・カペッツァーリは、夜十一時ごろに悲鳴を聞き、そのあと複数の人間が走り去る足音を聞いたと証言した。広場に寝泊まりしていた男性アントニオ・クラトーロは、事件当夜、アマンダとラファエレを近くで見たと証言した。食料品店主のマルコ・クインタヴァッレは、事件翌朝の開店直後にアマンダが来ていたと証言した。

弁護側はこれらの証人の信用性を徹底的に削りにいった。クラトーロについては、日付の記憶が別の日と混線している可能性、生活状況からくる記憶の不確かさが指摘された。クインタヴァッレについては、証言が事件から一年近く経って出てきたこと、当初は警察に話していなかったことが突かれた。カペッツァーリの聞いた時刻についても、通信記録との整合が争われた。

そして二〇〇九年六月十二日、アマンダ・ノックスが自ら証言台に立った。彼女はイタリア語で話した。二年近い勾留のあいだに、彼女のイタリア語は法廷で話せる水準まで上がっていた。彼女はあの夜の聴取について語り、警察官に叩かれたと述べ、その動作を身振りで再現した。怒鳴られ、嘘つきだと言われ、ただその部屋から出たかったのだと語った。

二〇〇九年十二月四日深夜、判決が出た。アマンダ・ノックスに懲役二十六年、ラファエレ・ソレシートに懲役二十五年。アマンダにはこれに加えて、パトリック・ルムンバに対する中傷罪の有罪も含まれていた。

ナイフとブラの留め金――科学が法廷で殴り合った日

この事件の技術的な核心は、二つの物体に集約される。台所用のナイフと、ブラジャーの留め金だ。

ナイフは、ラファエレ・ソレシートの自宅台所の引き出しから押収された、刃渡り十七センチほどの調理用ナイフである。捜査官がこれを選んだ理由は、率直に言えば直感に近い。押収に当たった警察官は後に、そのナイフから「妙な感じ」を受けたと述べている。科学捜査研究所のパトリツィア・ステファノーニのチームがこれを鑑定し、柄からアマンダのものと一致する遺伝子型、刃の一点からメレディスのものと一致するとされる遺伝子型を検出したと報告した。

問題は、その刃の検体があまりに微量だったことだ。得られた信号は極めて弱く、通常の鑑定であれば結論を出さない水準だった。しかも二回目の検査、すなわち再現性の確認は行われていない。微量検体は本来、専用の管理下で、複数回、慎重に扱わなければならない。国際的な指針はそれを求めている。

ブラジャーの留め金は、もっと厄介だった。それは事件直後の現場検証で発見され、写真も撮られていた。だが、そのときには回収されなかった。回収されたのは、四十六日後の十二月十八日、二度目の現場捜索のときである。しかもその間に部屋の中で位置が動いていた。写真を比べるとそれがわかる。回収時の映像には、鑑識員が同じ手袋のまま室内の別の物を触っている場面や、床のものを踏みそうになる場面が記録されている。この留め金からは、メレディスの遺伝子型と、ラファエレのものと一致するとされる男性型の混合プロファイルが検出された。

二〇一一年、控訴審のクラウディオ・プラティッロ・エルマン裁判長は、この二点について独立した再鑑定を命じた。担当したのはローマ・サピエンツァ大学のカルラ・ヴェッキオッティとステファノ・コンティ。二人の報告書は、この事件の流れを変えた文書として今も参照されている。

彼らの結論を要約すると、こうなる。ナイフの刃の検体については、そもそもそれが血液であるという科学的裏づけがない。得られた結果は微量検体の扱いに関する国際的な推奨手順を満たしておらず、採取・取扱い・分析のいずれかの段階で混入が起きた可能性を排除できない。したがって被害者への帰属は科学的に信頼できない。留め金については、細胞物質の存在自体が確認されておらず、電気泳動の読み取りにも誤りがある。四十六日間放置され、その間に位置が動いた物体である以上、環境由来の混入と取扱い過程での混入の両方を否定できない。

彼らはさらに、鑑定人が二〇一一年に刃の別の部位から新たな検体を採取して分析したところ、そこから出たのはアマンダ自身の遺伝子型だった、という結果も報告している。自宅の台所にあったナイフから、そこに出入りしていた人物の遺伝子型が出るのは、当然といえば当然だ。

二〇一一年七月二十五日の法廷は、傍聴していた記者たちの記述によれば、検察側にとって相当きつい一日だった。証拠の採取と保管の手順そのものが問題視され、法廷で説明を求められた。この日を境に、公判の空気が変わった。

二〇一一年、無罪。そして二〇一三年、その無罪が消えた

二〇一一年十月三日、控訴審は殺人について二人を無罪とした。アマンダの中傷罪の有罪だけは維持され、量刑は三年に定められた。彼女はすでに約四年を勾留されていたから、その日のうちに釈放された。翌日、彼女はローマから飛行機に乗ってシアトルへ帰った。空港には報道陣が壁になっていた。

普通の国なら、話はここで終わる。だがイタリアは違う。

イタリアの刑事司法は三審制だが、その三審目、破毀院は事実認定をやり直す場所ではない。破毀院が審査するのは、法の適用に誤りがないか、判決の理由づけに論理的な破綻がないか、である。そして破毀院は、下級審の判決を「破棄」して差し戻す権限を持つ。加えて、イタリアでは検察官も無罪判決に対して上訴できる。二重の危険の禁止という概念の適用範囲が、英米法圏とはかなり違う。

二〇一三年三月二十六日、破毀院第一部は二〇一一年の無罪判決を破棄した。理由は「証拠評価に明白な非論理性がある」というものだった。控訴審は個々の証拠を一つずつ切り離して潰していったが、全体としての証拠の連関を評価していない、という趣旨の指摘である。事件はフィレンツェの控訴審に差し戻された。

差し戻し審は二〇一三年九月三十日に始まった。アマンダは出廷しなかった。彼女はすでにアメリカにおり、イタリアへ戻る義務はない。ラファエレは二〇一三年十一月六日に出廷し、起訴内容を「不条理だ」と述べた。アマンダは十二月十七日、弁護人を通じて書面を法廷に提出した。「私は無実です。私は何も奪っていないし、何も盗んでいないし、メレディスを殺していません」という趣旨の言葉が、そこに含まれていた。

二〇一四年一月三十日、アレッサンドロ・ネンチーニ裁判長のフィレンツェ控訴審は、二人を再び有罪とした。アマンダは二十八年六か月、ラファエレは二十五年。刑期はむしろ重くなった。この判決は、ナイフの証拠を再び有効なものとして扱い、二〇一一年の再鑑定の結論を採用しなかった。

この時点で、アマンダ・ノックスはアメリカにいた。有罪が確定すれば、イタリアが身柄引き渡しを求める可能性があった。米伊間には犯罪人引渡条約がある。アメリカ側がどう判断するか、法律家の間で真剣に議論された。彼女は「自分から進んで戻ることはない」と述べた。ラファエレは、イタリアに残っている以上、逃げ場がなかった。彼は一度、国境近くで身柄確認を受けている。

二〇一五年三月二十七日、破毀院第一部が書いたこと

そして二〇一五年三月二十七日。

破毀院第一部、裁判長ジェンナーロ・マラスカ、主任判事ブルーノ。彼らはネンチーニ判決を破棄した。ここまでは前回と同じだ。だが今回は差し戻さなかった。イタリア刑事訴訟法五三〇条二項、すなわち「証拠が不十分または矛盾している場合の無罪」を適用して、その場で無罪を言い渡した。差し戻しなし。再審なし。終わり。

判決理由書は同年九月に公開された。三百ページ近い文書で、その内容は、イタリアの捜査当局に対する激烈な批判で埋まっていた。

まず事実認定について。二人が犯行現場にいたことを示す証拠は存在しない、と破毀院は書いた。犯行が行われた部屋にも、被害者の身体にも、二人に帰属する生体資料は一切見つかっていない。一方で、その同じ場所からゲデに帰属する痕跡は多数見つかっている。したがって二人が「物理的に犯行に加担した」ことはありえない。

次に捜査手法について。破毀院は「センセーショナルな捜査の失敗」「記憶喪失」「有責な不作為」という強い言葉を使った。とりわけ、科学的証拠が事件の中核をなすにもかかわらず、その科学的証拠の採取と保全が国際基準を満たしていなかった点を指弾した。ナイフについては、そもそも被害者の家から押収されたものですらなく、被害者のものとされた微量検体の信頼性が確立されていないと判断した。留め金については、四十六日の放置と移動という事実だけで、証拠価値が決定的に損なわれるとした。

さらに破毀院は、この事件を取り巻いた異常な報道環境そのものが捜査に圧力をかけた、という趣旨のことも書いている。国際的な注目が捜査を急がせ、その結果として初期段階の重大な誤りが生じた、と。

一方で破毀院は、ゲデが単独で犯行に及んだと認定したわけでもない。共犯者がいた可能性は判決文の中で否定されていない。ただし、その共犯者がアマンダ・ノックスとラファエレ・ソレシートであるとする証拠はない、というのが判断である。この「共犯者がいたかもしれないが誰かはわからない」という宙吊りの結論が、遺族にとってはもっとも残酷な部分だった。

なお、中傷罪の有罪は維持された。パトリック・ルムンバの名を挙げたことについての三年の刑は、勾留期間で消化済みとされた。

検察側の構図を、いちど真面目に組み立ててみる

無罪が確定した事件について検察側の主張を書くのは慎重を要するが、この事件を理解するには避けて通れない。なぜならこの構図は、一審と差し戻し審の二度、職業裁判官と参審員を説得したからだ。以下は「かつて法廷で主張され、最終的に最高裁に否定された構図」として読んでほしい。

検察の骨格はこうだった。侵入の痕跡が偽装であるなら、偽装したのは内部の人間である。内部の人間で当夜の所在に説明がつくのは限られる。そこにゲデという外部の人物が加わったとして、ゲデがなぜこの特定の家、特定の部屋を選んだのか。ゲデはこの家の下階の住人と面識があり、上階にも上がったことがある。つまり彼はこの家と無関係な通りすがりではない。

次に、アマンダとラファエレの供述の変遷。二人が最初に述べた「一晩中一緒に家にいた」という説明は、その後、細部が動いた。ラファエレの自宅パソコンの使用履歴、携帯の電源のオンオフ、通話記録などの客観データと、二人の説明が完全には噛み合わない部分があった。とくに携帯の電源が切られていた時間帯の説明が、検察にとっては攻めどころだった。

そして物証。ナイフの柄からアマンダの遺伝子型が出て、刃からメレディスのものとされる微量検体が出た。留め金からラファエレのものとされる男性型が出た。現場の浴室と廊下には、被害者の血とアマンダの遺伝子型が混ざった痕跡がいくつか検出された。廊下には、犯行後に何かを拭き取ったような跡があると検察は主張した。

最後に、あの夜の供述である。アマンダは自ら、自分が現場の家にいて、悲鳴を聞いた、と書面に署名した。名指しした相手が間違いだったとしても、「自分がその場にいた」という部分が残る、と検察は主張した。

これがかつての構図だ。そして破毀院は、この構図の根っこにある物証がすべて崩れると判断した。物証が崩れれば、供述の変遷も、動機の推測も、それ単独では人を有罪にできない。裁判とはそういうものだ。

弁護側はどこを崩したのか

弁護側の反論は、大きく四本の柱でできていた。

第一の柱は、現場の痕跡の非対称性である。犯行が行われた部屋の中に、二人の痕跡が「ない」。これは決定的に不自然だ。三人が狭い部屋で暴力的な状況に関与したのなら、その部屋には三人分の痕跡が残るはずである。実際、ゲデの痕跡は大量に残っている。にもかかわらず、他の二人の痕跡だけが、その部屋にだけ、きれいに存在しない。これを説明する唯一の仮説が「二人が徹底的に自分たちの痕跡だけを消した」というものだが、では同じ現場でゲデの痕跡を消し忘れるのはなぜか。そんな器用な清掃を、二十歳の学生二人が一晩でやれるのか。しかも同じ家の他の場所には、日常生活由来のアマンダの痕跡が普通に残っている。

第二の柱は、証拠の取扱いである。四十六日放置された留め金。再現性の確認をしていない微量検体。手袋を替えずに現場を動く鑑識映像。押収されたナイフの選定根拠の薄さ。これらは個別に見れば「不手際」だが、まとめて見ると、この事件の物証全体の信頼性を支える土台が抜けているという主張になる。

第三の柱は、あの夜の聴取である。録音がない。弁護人がいない。通訳の立ち位置が中立ではなかった。二十歳の外国人が、母語ではない言語で、明け方まで問い詰められた。この条件下で出てきた供述を証拠として使うことは、そもそも手続的に許されるのか。この論点は、のちにストラスブールの欧州人権裁判所が正面から扱うことになる。

第四の柱は、そもそも動機の不在である。アマンダとメレディスの間に、殺人に至る対立が存在した形跡がない。同居人同士の些細な摩擦は、どの共同生活にもある。それが動機になるなら、世界中の学生寮が殺人現場になっている。

報道という、四人目の被告

この事件が世界的に異常な熱量を持ったのは、報道が単なる観察者ではなく、事件の当事者になってしまったからだ。

構造を分解するとこうなる。まず、被害者が写真映えする若いイギリス人女性で、容疑をかけられたのが写真映えするアメリカ人女性だった。イギリスの新聞にとってもアメリカのテレビにとっても、これ以上ないほど「自国の物語」として売れる素材だった。次に、舞台が中世の城壁に囲まれたイタリアの学園都市だった。異国情緒がある。ハロウィンの翌日という日付があった。悪魔崇拝という見出しが立てやすい。

そこにイタリア側の事情が重なる。イタリアの刑事手続では捜査資料が比較的早期に開示され、それが記者に流れる。日記も、供述調書も、鑑定書も、公判前に紙面に載る。一方で英米のタブロイドは、外国の司法手続について書くぶん、訴訟リスクの計算が甘い。結果として、事実確認のハードルが二重に下がった状態で、世界中の読者が「確定した物語」を毎朝受け取った。

そしてもう一つ。この事件は、インターネット上の考察文化が本格的に立ち上がった最初期の大事件でもあった。二〇〇七年から二〇一五年という期間は、ちょうど掲示板文化から交流サイト全盛期への移行期にあたる。事件の一次資料――判決理由書、鑑定書、法廷証言の記録――が有志によって翻訳され、無料で公開された。誰でも四百ページの判決理由書を読める時代が来た。それは民主的で、同時に地獄の入り口だった。

三つの証言――手記、遺族、そして鑑定人

ここからは、この事件に関わった人たちが実際に語った言葉を、少し長めに追いかけたい。

一つ目は、アマンダ・ノックス自身の言葉である。彼女は釈放後、複数の手記とインタビューで、あの八年間について語ってきた。とくに繰り返し出てくるのが、無実であることは自分を守ってくれなかった、という感覚だ。彼女は、有罪判決が出た瞬間について、自分の世界が崩壊した、と書いている。無実だから大丈夫だと信じていた。その信念が、判決文の朗読によって粉々になった。愛も、家族も、旅も、仕事も、自分の人生に含まれるはずだったすべてが、そこで奪われたと感じた、と。

彼女はまた、裁かれる空間そのものの圧力についても書いている。イタリアの法廷には巨大な十字架が掛かっている。宗教の中で育っていない自分にとって、その下で裁かれるのは異様に威圧的だった、と。獄中で唯一、判断せずに接してくれたのは、ドン・サウロという高齢の司祭だけだった、とも語っている。信仰の話ではない。ただ一人だけ、自分を「事件の登場人物」ではなく人間として扱った大人がいた、という話だ。

そして「フォクシー・ノクシー」について。彼女はあのあだ名が付けられた瞬間に、本当の自分が消えたと語っている。あだ名が世界中に広まったあと、人々が知っているのは自分ではない誰かで、その誰かをどれだけ否定しても、本物の自分が戻ってくることはない。あの名前がなければ、ここまで憎まれることはなかったと思う、とも。

二つ目は、遺族の言葉である。二〇一五年の無罪確定を受けて、メレディスの母親アーリーン・カーチャーが語った言葉は、拍子抜けするほど短く、そして重かった。少し驚いていて、とてもショックを受けている、しかし今言えるのはそれだけだ、二度有罪になったものが今になって覆るのは奇妙だ、という趣旨のことを彼女は述べた。怒鳴ってもいないし、誰かを非難してもいない。ただ、理解できない、と言っている。

カーチャー家の代理人を務めた弁護士フランチェスコ・マレスカは、もう少し踏み込んだ。これは検察の敗北というより、イタリアの司法制度そのものの敗北だ、という趣旨のことを彼は述べた。そして、ゲデと共に行動した人物が誰なのかは、依然として特定されていないと指摘した。この「誰かがいたかもしれないが、それが誰かはわからない」という状態こそが、遺族にとって最大の苦痛だった。犯人を憎むことすらできない。憎む対象の輪郭がない。

遺族が繰り返し表明してきたもう一つの立場も、記録しておく価値がある。二〇一一年の無罪判決の際、カーチャー家は「間違った人間が有罪になることを望まない」という趣旨のことを述べている。彼らは復讐を求めていたのではなく、何が起きたのかを知りたかった。そしてその願いは、八年たっても十八年たっても叶っていない。

メレディスの父ジョン・カーチャーは、娘についての本を書いた。収益は娘の名を冠した基金に充てられた。彼はその本の中で、事件そのものよりも、娘がどんな人間だったかを書こうとしている。世界が「ノックス事件」と呼び続けたこの事件の中心にいたのは、二十一歳のイギリス人学生だった、という当たり前のことを、家族はずっと言い続けなければならなかった。

三つ目は、法廷に立った科学者の言葉である。二〇一一年七月、カルラ・ヴェッキオッティとステファノ・コンティが控訴審の法廷で証言した日のことだ。傍聴していた記者たちの記述によれば、その日、法廷では失笑が起きたという。彼らが示したのは、現場での証拠採取の映像だった。同じ手袋のまま複数の物体に触れる場面。四十六日後に回収された留め金が、最初に撮影されたときとは違う場所にある写真。国際的な指針が求める微量検体の取扱いと、実際に行われた手順のずれ。

彼らの証言の核にあったのは、「間違っている」ではなく「わからない」という主張だった。この検体が混入によるものではないと言い切れるだけの手続的裏づけが存在しない。だから科学的な結論として使えない。これは検察の主張を「嘘だ」と言っているのではなく、「検証不能だ」と言っている。そしてこの違いこそが、法廷における科学の役割の本質だ。科学者は真実を言い当てる魔術師ではない。どこまでが言えて、どこからが言えないかの線を引く人間である。この事件では、その線を引く作業が、四年遅れて行われた。

ネットの戦場――有罪派と無罪派、十八年の消耗戦

この事件がインターネットにもたらしたものは、たぶん事件そのものと同じくらい研究に値する。

早い段階から、英語圏のネット上に二つの陣営ができた。無罪を主張する側は、支援サイトを立ち上げ、判決理由書や鑑定書の英訳を無料公開し、証拠の技術的な問題点を一つずつ検証していった。彼らの主張の中心は科学的検証だった。微量検体の扱い、混入のリスク、再現性の欠如。物理学者や遺伝学の専門家が匿名で参加し、電気泳動のグラフの読み方を素人向けに解説する記事が量産された。

有罪を主張する側も、同じくらい熱心だった。彼らの拠点も判決文の英訳公開だった。ただし彼らが強調したのは、一審判決と差し戻し審判決の論理である。すなわち、個々の証拠を切り離して一つずつ潰していけばどんな事件も崩れる、見るべきは証拠の総体だ、という主張だ。彼らは、無罪派が資金力のある広報活動によって世論を作ったのだと批判した。実際、ノックス家がアメリカで広報の専門家を雇ったことは事実であり、この点は有罪派にとって決定的な攻撃材料になった。

この二つの陣営の争いは、単なる意見の対立を超えていった。互いの実名を暴き、職場に連絡し、家族に嫌がらせをするところまでいった。事件の百科事典的な項目は、記述をめぐって編集合戦の対象になり、長期間の編集制限がかけられた。片方の陣営が作った用語が、もう片方の陣営では侮蔑語として使われた。日本のネット掲示板や考察系の界隈でも、この構図はほぼそのまま輸入された。「イタリアの司法が腐っている」派と「アメリカの世論操作が勝った」派の対立である。

論点として繰り返し登場したものを整理しておく。

もっとも激しく戦われたのは、やはり微量検体の扱いだ。無罪派は、そもそも刃の検体が血液だと証明されていない点、再検査が行われていない点、混入を排除する手続がなかった点を突く。有罪派は、独立鑑定人の結論はあくまで「排除できない」であって「混入があった」ではない、可能性の指摘は反証ではない、と返す。この応酬は今も終わっていない。

二つ目は、留め金の四十六日である。無罪派は、四十六日の放置と室内での移動という事実だけで証拠価値は消えると主張する。有罪派は、混入源となる資料が室内にどれだけあったのか、実際に混入が起きうる経路は具体的にどれなのか、と問い返す。抽象的な可能性ではなく具体的な経路を示せ、という反論だ。

三つ目は、あの夜の供述である。無罪派は、録音のない、弁護人のいない、母語でない長時間の聴取から出た供述に証拠価値はないとする。加えて、虚偽自白の心理学的研究を根拠に、若く、疲弊し、権威に対して従順な人物ほど虚偽自白しやすいことを指摘する。有罪派は、それでもなぜ実在の知人の名前が出てきたのか、白紙から作られる虚偽自白と、特定の人物を名指しする供述は違うのではないか、と問う。

四つ目は、痕跡の非対称性だ。これは無罪派の最強のカードであり、有罪派がもっとも苦しむ論点でもある。犯行の行われた部屋に二人の痕跡がゼロで、ゲデの痕跡だけが多数ある。この事実の説明として、有罪派は現場の清掃を挙げるが、その清掃仮説はゲデの痕跡を残したことを説明できない。

五つ目は、動機だ。有罪派は、動機は有罪認定の必須要件ではないと言う。法的にはその通りである。無罪派は、動機の不在に加えて、そもそも三人が一緒に行動する理由がないと指摘する。アマンダとゲデの間に、事件前に交流らしい交流があった証拠はない。

こうした論争は、判決確定後もぴたりと止まらなかった。むしろ確定したことで、「司法が間違えた」と言い続ける自由がどちらの陣営にも生まれた。ネット考察界隈にとって、確定判決は終着点ではなく、新たな出発点になってしまう。この事件はその典型例だ。

イタリアの三審制という迷路

日本から見ると、この事件の最大の不可解さは「有罪、無罪、有罪、無罪」という判決の乱高下だろう。これはイタリア刑事司法の構造を理解しないと意味がわからない。

まず一審。重罪院は職業裁判官二名と市民の参審員六名で構成される。彼らは有罪無罪と量刑を一緒に決め、判決の理由を長大な文書で書く。この理由書が、のちの審級で徹底的に読まれ、批判される。

次に控訴審。これがイタリアの特徴で、控訴審は法律問題だけを扱う場ではない。事実認定を最初からやり直せる。証人を呼び直せるし、新しい鑑定を命じることもできる。二〇一一年にエルマン裁判長が独立鑑定を命じたのは、この権限に基づく。つまりイタリアでは、一審と控訴審が実質的に二回の裁判になる。

そして破毀院。ここは事実認定をやり直さない。審査するのは法の適用と、理由づけの論理的整合性だ。破毀院は「この判決の理由づけは論理的に破綻している」と判断すれば、無罪判決だろうと有罪判決だろうと破棄できる。二〇一三年に二〇一一年の無罪が破棄されたのは、まさにこれだ。

さらに大きいのが、検察官の上訴権である。イタリアでは検察官が無罪判決に上訴できる。英米法圏の感覚では、無罪判決が出たら検察はそこで終わりだが、イタリアでは違う。判決は、全審級を尽くすまで「確定」しない。だから二〇一一年に釈放されたアマンダは、法的には無罪が確定した人間ではなかった。仮釈放でもなく、確定無罪でもない、宙吊りの状態で四年近くを過ごした。

この制度は、それ自体が不正義なのではない。むしろ「一審の誤りを控訴審が事実レベルで正せる」という点では、誤判救済に厚い設計だとも言える。実際、この事件で最終的に二人を救ったのも、控訴審の再鑑定権限と破毀院の理由づけ審査だった。制度が二人を八年間苦しめ、制度が二人を救った。皮肉だが、そういうことだ。

二〇一九年、ストラスブールからの通告

殺人については無罪が確定した。だが中傷罪は残った。アマンダ・ノックスはこれを不服として、欧州人権裁判所に申立てをした。イタリアが欧州人権条約に違反しているという主張である。

二〇一九年一月二十四日、欧州人権裁判所は判断を示した。結論は、イタリアによる三つの条約違反の認定である。

一つ目は第三条の手続的側面。アマンダは聴取中に不当な扱いを受けたと繰り返し訴えたのに、イタリア当局はその訴えを実効的に調査しなかった。虐待があったかどうか以前に、訴えを調べなかったこと自体が違反だと裁判所は判断した。ただし第三条の実体的側面、つまり実際に虐待があったかどうかについては、認定するに足る証拠はないとした。ここは彼女の主張が通らなかった部分である。

二つ目は第六条第一項および第三項(c)、弁護人の援助を受ける権利。二〇〇七年十一月六日午前五時四十五分の聴取の時点で、彼女はすでに実質的に被疑者の立場にあった。にもかかわらず弁護人がいなかった。裁判所はこれについて、手続全体の公正さを回復不能なまでに損なった、という強い表現を使った。

三つ目は第六条第一項および第三項(e)、通訳を受ける権利。裁判所は、警察の通訳が中立的な通訳者の職分を超えていたと認定した。母親のような態度で接し、仲介者として振る舞い、供述の形成そのものに関与した、と。通訳は言語を移し替える装置であって、供述内容の共同制作者になってはならない。

一方、起訴内容の速やかな告知に関する主張は、明白に理由がないとして退けられた。

賠償は、非財産的損害として一万四百ユーロ、費用として八千ユーロ。合計で二万ユーロ弱である。八年間の裁判と四年近い勾留に対する額としては、あまりに小さい。だが金額が問題なのではない。ヨーロッパの人権裁判所が、あの夜の聴取は条約違反だったと公式に認定した、という事実が重要だった。

二〇二四年、また同じ判決が下りた

この欧州人権裁判所の判断を根拠に、アマンダ側はイタリア国内での中傷罪の再審理を求めた。条約違反と認定された聴取から生まれた供述を根拠に有罪とするのは維持できない、という主張である。イタリアの破毀院はこれを受け入れ、中傷罪の部分についてフィレンツェ控訴院での再審理を命じた。

二〇二四年六月五日、フィレンツェ。アマンダ・ノックスは自ら法廷に立った。事件から十六年七か月ぶりのイタリアの法廷である。彼女は法廷でこう述べた。警察の圧力に抵抗できるほど強くなかったことを、とても申し訳なく思う、と。二十歳で、イタリア語がほとんどできない状態で、夜通し追及されたのだと説明した。

判決は、有罪。イタリアの裁判所が彼女を中傷罪で有罪と認定するのは、これで六度目だった。刑期は三年で据え置かれ、勾留期間で消化済みのため追加の服役はない。弁護人のカルロ・ダッラ・ヴェドヴァは、依頼人は十七年近い司法手続にようやく蓋ができると期待していた、と落胆を語った。

そして二〇二五年一月二十三日、破毀院はこの有罪を確定させた。アマンダ・ノックスは判決後、こう述べた。超現実的な一日だ、自分がやっていない罪でまた有罪になった、と。弁護人は、まったく不当で予想外の決定だ、とコメントした。

一方、パトリック・ルムンバは判決を歓迎した。この判決は彼女の残りの人生についてまわるべきだ、という趣旨のことを彼は述べた。この言葉は冷たく響くかもしれない。だが彼の立場を考えれば、当然の感情でもある。彼は二週間勾留され、店を失い、街を出た。彼が受けた損害は、誰にも補填されていない。

ここには、この事件の最後の、そして最も割り切れない構造がある。アマンダ・ノックス自身が、あの夜の聴取の被害者だと欧州人権裁判所に認められた。同時に彼女は、あの夜の聴取から生まれた発言によって、別の人間に決定的な損害を与えた加害者でもある。この二つは矛盾しない。両方とも同時に本当だ。そして司法制度は、その両方を同時に処理する仕組みを、うまく持っていない。

なぜこの事件は世界を狂わせたのか

十八年たった今も、この事件が語られ続けるのはなぜか。

第一に、この事件が「見た目で人が裁かれる」という、誰もが薄々知っていて口にしない恐怖を、これ以上ないほど露骨に可視化したからだ。アマンダ・ノックスに向けられた敵意の量は、彼女に対する証拠の量とまったく釣り合っていなかった。釣り合っていたのは、彼女の顔写真の流通量と、あだ名の語感のよさだった。事件の重心は証拠から人格イメージに移動し、そして一度移動した重心は戻らなかった。

第二に、「悲しみ方が間違っている」という理由で人が疑われる、という恐怖だ。警察署でストレッチをした。恋人にキスをした。泣かなかった。これらは、少なくとも初期段階では、物証と同じ重みで扱われた。人間が極度のショックを受けたときにどう振る舞うかについて、私たちは驚くほど狭い正解イメージしか持っていない。そしてその正解から外れた者は、外れたという理由だけで疑われる。これは制度の問題ではなく、人間の認知の問題だから、制度を変えても消えない。

第三に、虚偽自白という現象の生々しさだ。無実の人間がやってもいないことを自分から言い出す、という現象は、直感的にはまったく理解できない。だから多くの人は「自白したなら何かある」と考える。だが、睡眠を奪われ、母語でない言語で、弁護人なしで、権威に囲まれ、記憶の細部を執拗に問い直され続けたとき、人間の記憶は驚くほど簡単に可塑化する。ありもしない映像が、記憶として立ち上がる。これは特殊な人間だけに起きることではない。誰にでも起きる。この事実こそが、この事件でいちばん怖い部分だと思う。

第四に、科学の権威という問題だ。遺伝子鑑定は現代の刑事司法における最強の証拠とされている。だがその強さは、採取と保管と分析の手続が完璧であることを前提としている。手続が崩れれば、遺伝子鑑定は「魔法の真実装置」から「もっともらしい数字を吐き出す装置」に変わる。しかも、そのもっともらしさは、法廷の素人にはほとんど見抜けない。この事件では、その見抜けなさが四年間、二人の人生を奪った。

第五に、この事件が「誰も納得しないまま終わった」ことだ。有罪確定者はいる。だが判決文は共犯者の存在を否定していない。共犯者がいるかもしれないが、誰かはわからない。この宙吊りは、真相を求める人間の欲望を永久に満たさない。だから語り続けられる。だから何度も映像化される。だから今も、掲示板でも交流サイトでも、同じ論点が延々と往復する。

そして最後に、忘れてはいけない第六の理由がある。この事件はあまりに多く語られたのに、被害者本人についてはあまりに語られなかった。世界が消費したのは「アマンダ・ノックス事件」という物語であって、「メレディス・カーチャー殺害事件」ではなかった。二十一歳のイギリス人留学生が、留学先の下宿で殺された。その事実が、彼女の名前ごと、他人の物語の背景に押しやられた。それが、この事件のいちばん静かで、いちばん救いのない部分だ。

無罪が確定しても、名前は戻ってこない

ここからは、事件の再話ではなく、十八年分の材料を並べ終えたあとに残るものについて書く。

まず整理しておきたいのは、この事件の司法的な現在地だ。二〇二五年一月時点で、この事件について確定している司法判断は三つある。ルディ・ゲデの殺人と性的暴行についての有罪。アマンダ・ノックスとラファエレ・ソレシートの殺人についての無罪。そしてアマンダ・ノックスの中傷罪についての有罪。この三つ以外は、すべて確定していない。「本当は誰がやったのか」という問いに対する司法の回答は、ゲデが関与した、それ以外は不明、である。この不明という部分を各自の想像で埋めようとした瞬間に、人は誰かを私的に断罪する側に回る。ここは本当に危ない境界線で、事件を語る側の人間が最初に守るべき一線だ。

そのうえで、この事件から実際に社会が学んだこと、学ばなかったことを見ていきたい。

学ばれたことの筆頭は、初動の現場保全である。この事件で最初に現場に入ったのは殺人捜査の専門チームではなかった。扉を破ったのは民間人だった。第一発見の場に多数の人間が出入りした。四十六日後に回収された物証が、証拠の中核として使われた。同じ手袋のまま室内を移動する映像が法廷に出た。これらは教科書に載る失敗例になった。実際、この事件は各国の法科学教育で「証拠汚染がどう裁判を壊すか」の事例として使われている。二〇一六年には法科学の専門誌に、この事件を誤判事例として分析した論文が掲載された。

もう一つ学ばれたのは、微量検体の扱いに関する慎重さだ。ごく微量の資料から得られる遺伝子型は、混入に極端に弱い。だから再現性の確認が要る。だから採取から分析までの管理記録が要る。だから「出た」という報告だけでは足りない。この事件は、その当たり前を世界に叩き込んだ。同時に、この事件の反動として「微量検体の鑑定はすべて信用できない」という逆方向の極論も生まれた。それはそれで間違いだ。適切に扱えば微量検体は強力な証拠になる。問題は手続であって、技術そのものではない。

では学ばれなかったことは何か。ひとつは、聴取の全過程記録である。あの夜、録音があれば、この十八年の論争の半分は存在しなかった。何が言われ、何が問われ、どんな圧力があったのか、すべて検証できた。だが録音はなかった。そして今も、世界の多くの司法管轄で、被疑者聴取の全過程記録は徹底されていない。日本でも、取調べの録音録画は一部の事件類型に限られている。この事件が突きつけた教訓のうち、もっとも実装コストが低くて、もっとも実装されていないのが、これだ。

もうひとつ学ばれなかったのは、報道の側の反省である。「フォクシー・ノクシー」を作った媒体のうち、事件後に体系的な検証記事を書いたところはほとんどない。無罪確定を報じた記事は、かつて自分たちが有罪を前提に書いた記事群への言及なしに書かれた。これはこの事件に限った話ではない。報道の自己検証は、報道の速度に対してあまりに遅い。

そしてもう一段深いところに、この事件が突きつけている問題がある。それは「無罪確定は名誉を回復しない」という事実だ。

アマンダ・ノックスは二〇一五年に無罪が確定した。だが二〇一六年に配信された記録映像作品でも、二〇二一年に公開された映画でも、二〇二五年に配信された連続ドラマでも、彼女は「あの事件の人」として消費され続けている。彼女は自ら製作総指揮に加わることで、自分の物語のコントロールを取り戻そうとしている。それは戦略として理解できる。だが同時に、自分の人生の最悪の期間を商品として売り続けなければ、その物語を他人に奪われる、という構造そのものが残酷だ。無実を証明した人間が、無実を証明したあとも、その証明の仕事を一生続けなければならない。

同じことは、より過酷な形でパトリック・ルムンバに起きている。彼は完全に無関係だった。アリバイがあった。二週間で釈放された。それでも彼の店は潰れ、彼はペルージャを離れ、最終的に国を出た。彼が受けた損害について、誰も責任を取っていない。彼を名指しした人物は、その名指しが条約違反の聴取から生まれたと国際裁判所に認められている。つまり彼を破滅させた行為の責任は、行為者と、行為を引き出した捜査機関に分散し、分散した結果として誰も引き受けていない。この構造は、冤罪報道の被害者一般に共通する。

ラファエレ・ソレシートについても書いておきたい。彼はこの事件の物語において、常に脇役だった。世界の視線はアマンダに集中し、彼は「アマンダの恋人」として扱われた。だが刑期の重さは同等で、勾留期間も同等だった。彼は事件当時、二十三歳のコンピュータ工学の大学院生で、卒業論文を準備していた。事件がなければ、彼はそのまま技術者になっていただろう。彼はイタリア国内に残り、イタリア社会の中で、有罪判決と無罪判決の間を八年間往復した。アマンダにはアメリカという逃げ場と、アメリカの世論という後ろ盾があった。彼にはどちらもなかった。この非対称性は、あまり語られない。

そして、メレディス・カーチャーの家族だ。父ジョン、母アーリーン、姉ステファニー、兄ライル。彼らは八年間、イタリアの法廷に通い続けた。判決が出るたびに世界中のマイクを向けられ、そのたびに節度を保った言葉を返した。彼らが繰り返し言ったのは、間違った人間が有罪になることを望まない、そして何が起きたのかを知りたい、という二つだけだった。この二つは、被害者遺族の要求としては、控えめすぎるほど控えめだ。それでも叶わなかった。

家族は基金を作り、奨学金を設け、娘の名前が事件名ではなく人物名として残るように動いた。それは、世界中が「ノックス事件」と呼んだこの事件に対する、静かな抵抗だった。

さて、では結局この事件をどう受け止めるべきか。

私は、この事件の教訓を「イタリアの司法はひどい」に落とし込むのは、たぶん間違いだと思っている。イタリアの控訴審は独立鑑定を命じる権限を持っていて、実際にそれを行使した。破毀院は最終的に、自国の捜査機関を名指しで批判する判決理由書を公開した。三百ページ近い文書で、自分たちの警察と検察の失敗を克明に記録した。これは、隠蔽ではなく記録を選んだということだ。同じことが他の国の司法でできるかというと、決して自明ではない。

同時に、「アメリカの世論工作が勝った」という説明も、私は採らない。破毀院が無罪の根拠として挙げたのは世論ではなく、犯行の行われた部屋に二人の生体痕跡が一切ないという物理的事実と、物証の取扱い手続の崩壊だった。この二点は、広報活動でひっくり返せる種類のものではない。

では何が問題だったのか。私の見立てはこうだ。この事件の致命傷は、捜査の初期二日間に立てられた仮説が、その後に出てきた事実によって修正されなかったことにある。侵入は偽装だ、だから内部の人間だ、という仮説が立った。その二週間後、まったく想定外の第三者の掌紋が、被害者の体の下から出てきた。この時点で、仮説はゼロから組み直されるべきだった。だが組み直されなかった。既存の仮説に新しい事実を接ぎ木する形で、三人共犯という構図が作られた。

これは特別に悪意ある捜査ではない。人間の認知が普通にやることだ。一度立てた仮説は、それを支持する情報を集めやすくし、それに反する情報を軽く見積もらせる。捜査でも、医療でも、経営判断でも、同じことが起きる。この事件が恐ろしいのは、特別に邪悪な誰かがいたからではなく、ごく普通の認知の癖が、国際的な注目という圧力と、記録の残らない聴取という制度の穴と、手続の甘い科学捜査という技術的欠陥に重なったときに、二人の若者の人生から八年を削り取ったという点にある。

同じ組み合わせは、どこの国でも成立しうる。日本の刑事司法にも、長時間の聴取という文化があり、録音録画の範囲に限界があり、報道が捜査情報を先行して流す構造がある。この事件を「遠いイタリアの珍事」として消費するのは、いちばん学びのない読み方だろう。

最後に、ネット考察の話をもう一度したい。この事件でネットがやったことには、確かに功績があった。判決理由書の翻訳を無料公開し、専門的な鑑定書の読み方を素人に開いた。それがなければ、独立鑑定の中身が世界に知られることもなかった。情報の民主化は、確実に、この事件で無実の側に有利に働いた。

だが同じネットが、双方の陣営で、無関係な人間への嫌がらせと、実名の暴露と、家族への攻撃を生んだ。同じ道具が、検証にも私刑にも使われた。両者を分けるものは、たぶん一つしかない。「自分は真相を知っている」と思っているかどうかだ。真相を知っていると思った瞬間、人は検証者から執行者に変わる。

この事件について確実に言えるのは、二〇〇七年十一月一日の夜、ヴィア・デッラ・ペルゴラ七番地でメレディス・カーチャーという二十一歳の女性が殺されたということ。その現場にルディ・ゲデがいて、その罪で有罪が確定していること。アマンダ・ノックスとラファエレ・ソレシートは殺人について無罪が確定していること。パトリック・ルムンバは完全に無関係だったこと。そして、それ以外は、司法的には不明のままだということだ。

この「不明」を、不明のまま抱えていられるかどうか。それが、この事件を語る全員に突きつけられている、たぶん唯一の宿題だ。

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