- 1981年6月28日、午前0時40分――姉が見たもの
- 風呂の湯が沸いていた
- 「隣の部屋の物音で目が覚めた」と話した青年
- 別件逮捕という入り口、そして「夢遊病者」
- 麻酔をかけて引き出された言葉
- 毛髪三本という証拠の正体
- 1989年3月9日、無期懲役
- 裁判所が自らDNA鑑定を持ち出した日
- 53箇所の誤りと、15.6センチの毛髪
- 1995年6月30日、逆転無罪の法廷で
- 「神様、お許しください」――残された証言たち
- 犯人像をめぐる諸説と、その弱点
- 時効、当番弁護士制度、そして失われた十四年
- なぜこの事件は忘れられないのか
- 「古い時代の話」で片づけられない理由
- 人はどういうときに、やってもいないことを認めるのか
- この事件が制度に残していったもの
1981年6月28日、午前0時40分――姉が見たもの
舞台は大分市六坊町。いまで言えば六坊南町にあたる一帯に、かつて「みどり荘」という名前の、ごく普通のアパートがあった。学生や若い社会人が住む、どこにでもある二階建てのアパートで、外から眺めても目を引くところなんてひとつもない建物だ。
1981年6月28日、日付が変わってまもない午前0時40分過ぎ。外出先から帰ってきた姉が、ふたりで暮らしていた部屋に入り、その台所で仰向けに倒れている妹を発見した。妹は大分県立芸術短期大学の一年生で、当時まだ18歳。姉妹はふたりで、この部屋に住んでいた。
妹はすでに亡くなっていた。死因は窒息死。手で首を圧迫されたあと、衣服でさらに絞められたと推定されている。性的暴行の痕跡もあった。
これが、今に至るまで真犯人が分からない事件の始まりだ。でもこの事件が、日本の刑事司法史にいまも名を残している理由は、単に未解決だからじゃない。事件と全く関係のない隣室の青年が逮捕され、一審で無期懲役を言い渡され、控訴審で逆転無罪になるまでに十四年かかったからだ。
これだけは先に言っておく。この事件で逮捕された輿掛良一さんは、控訴審の判決を経て、無罪が確定している。この事件とは無関係だ。この記事で彼を犯人扱いする場面はひとつもないし、そういう読み方をされないように気をつけて書く。
風呂の湯が沸いていた
現場には、見れば見るほど首をかしげたくなるような奇妙な点が、いくつかあった。ひとつずつ見ていこう。
最初に目につくのが風呂で、浴槽には湯が張られていた。しかも風呂の焚口には火がついていた。当時のアパートの風呂は、いまみたいにボタンひとつ押せば、湯張りから沸かしまで完了するものじゃない。焚口に火をつけて、湯が沸くまでしばらく待つ。これは、被害者が風呂の準備をしていた直後に襲われたことを示すとも読めるし、犯人がしばらく現場にとどまっていたことを示すとも読める。
部屋には、土足で入った形跡がない。金品を物色した形跡もない。犯人は靴を脱いで、部屋に上がっている。強盗目的じゃない。この二点は、後の裁判で真犯人像が語られるとき、ずしりと重みを持つことになる。
話をややこしくするのがここで、現場からは、複数の血液型に由来すると見られる痕跡も検出されている。体液の鑑定でB型とされるものと、別の箇所から出たA型を含むもの。ここから後に、ネットや書籍で「複数犯だったのでは」という説が生まれる。ただ、アパートの居室には日常的に人が出入りするので、痕跡の存在そのものが犯人の人数を意味するわけじゃない。
いちばん大きな問題は、指紋も掌紋も足跡も、照らし合わせに使えるものが実質的になかったことだ。現場には入居者や友人のものが混在する。犯人に結びつく決め手になる物的証拠が、最初の段階から乏しい事件だったわけだ。
「隣の部屋の物音で目が覚めた」と話した青年
現場の隣、202号室に住んでいたのが、当時25歳の輿掛良一さんだった。彼は当初、捜査に対して「隣の部屋の騒ぎで目が覚めた」と、自分が聞いたままを話している。
これが、彼の人生を変えた。
考えてみれば当たり前の話で、壁一枚へだてた隣の部屋で大きな物音がすれば、誰だってその音で目が覚める。安アパートの壁は薄い。彼は見たことを、そのまま言っただけだ。でも捜査側は、このなんでもない供述を、「自分が現場にいたことをごまかすための作り話」と受け取ったとされる。
この発想の転換こそが恐ろしい。一度「こいつが怪しい」というフレームができあがると、同じ供述がまるで正反対の意味に反転する。黙っていれば「隠している」。話せば「ごまかしている」。これでは、どうやっても抵抗できない。
彼には他にも、不利に働く条件がいくつも揃っていた。隣室であること。同年代の男性であること。内向的で、口数が多いタイプじゃなかったこと。
人はこういうただの属性を、驚くほど簡単に、「あいつは怪しい」と決めるための根拠に変換してしまう。なんの証拠でもないのに。
別件逮捕という入り口、そして「夢遊病者」
事件から半年後の1981年12月、輿掛さんは別の件――タクシー運転手とのトラブルによる傷害事件――で逮捕された。その拘留中に、捜査側の本命だったみどり荘事件について、延々と取り調べられた。いわゆる別件逮捕というやつだ。
密室で何が起きていたのか、取り調べの実態は、後の弁護活動で詳しく明らかになっている。連日、朝から深夜まで、一日八時間以上。逮捕から最初の四日間で口にできた食事はわずか三回で、そのうち弁当は一食だけだったとも記録されている。寒風にさらされて風邪を引き、熱が出て体がつらい状態でも、取り調べは続いた。
捜査側は、存在しない証拠をあると告げたという。現場にあなたの体毛が残っていた、と。人間は、確実な証拠があると面と向かって言われると、やってもいないのに、自分の記憶のほうを疑い始める。しかも被害者の遺体写真を見せられて、追及されたという。
そこへ、決定的なフレーズが出てくる。「お前は夢遊病者のように現場に行ったのだ」。
この一言の巧妙さと悪質さは、いくら強調してもしすぎない。否認している人間にとって、「記憶がない」ことは本来なら無実の根拠だ。でも夢遊病というフレームを与えられると、「記憶がない」こと自体が、そのまま有罪の証拠になってしまう。これで、反論の材料を全部奪われる。
そうして迎えた四日目、輿掛さんはとうとう「現場から玄関を出た」という趣旨の供述をしている。後に彼は、「母親に会わせる」という条件と引き換えに、「被害者の部屋にいたことは覚えている」という虚偽の自白をしたと説明している。
正式な逮捕は1982年1月14日。事件発生からは、すでに半年以上が経っていた。
麻酔をかけて引き出された言葉
この事件の取り調べで、後々までいちばん話題になったのが、鑑定留置中に行われたとされる麻酔面接だ。
1982年3月6日。医師が、本人の同意を得ないままアモバルビタール系の麻酔薬を投与し、意識が淡い状態で質問をしたとされる。いわゆる自白剤と呼ばれるやり方のひとつだ。
この面接の中でも、彼は当初「犯行の記憶がない」と述べている。ところがやりとりの中で、「目が覚めて隣室に入った」という趣旨の発言が引き出された。後の控訴審では、この発言自体が医師の誘導によるものであり、証拠としての価値がないと厳しく批判されている。
現代の感覚からすれば、これはもう完全にアウトだ。本人の同意もなしに麻酔をかけて引き出した供述に、任意性なんてあるはずがない。でも当時は、こういう手法が実際に取り調べの現場で使われ、しかもそれが一審の判断の材料になってしまった。
輿掛さんは、代用監獄の日々についてこんなことを語っている。「代用監獄の風呂場は汚かった。冬で寒かったから、みんな湯船の中で垢を落とすんです。でもそのドロドロの湯に浸かるしかない」。
ドラマチックな告発じゃない。ただの日常の描写だ。だからこそ、代用監獄というそんな場所に何年も置かれることの重さが、読む側にもじわじわと伝わってくる。
毛髪三本という証拠の正体
自白と並んで、検察側のもう一本の柱になったのが、毛髪鑑定だ。
被害者の部屋から採取された体毛三本が、隣に住んでいた輿掛さんのものと同一である――というのが、国の機関である科学警察研究所の鑑定結果だった。
ここでどうしても知っておかないといけないのは、当時の毛髪鑑定が実際に何を見ていたのか、その中身だ。DNAを見ているわけじゃない。顕微鏡で、毛の形態を見る。太さ、髄質の具合、キューティクルの状態、断面の形。そういう見た目の特徴を一つずつ並べていって、最後は人の目で「似ている」と判断する。
でも、人間の体毛の形態なんて、似ている人はいくらでもいる。控訴審では、この鑑定が統計学的に見て、ひとりの人間を特定する個人識別に値しないことが詳しく論証された。「同一人物のものとして矛盾しない」ということと、「同一人物のものだ」ということは、全く別の命題だ。
鑑定という言葉には、不思議な権威がある。白衣を着た専門家が、素人には分からない専門用語を使って、国の機関の名前で正式な書類を出す。それを法廷で否定するのは、弁護側にとってひどく分が悪い。だからこそ一審では通ってしまった。
1989年3月9日、無期懲役
1989年3月9日。大分地裁は、輿掛さんに無期懲役を言い渡した。
事件発生から八年。逮捕から七年。この間、彼は一度も保釈されていない。人生でいちばん動ける二十代後半の七年間を、丸々拘置施設の中で過ごしている。
判決の根拠は、主に毛髪鑑定と自白供述だった。弁護側は矛盾点を並べて反論したが、判決文は多くの場面で「そうでない可能性もある」という言い回しで退けている。
この言い回しは、刑事裁判の原則から見ると逆さまだ。疑わしきは被告人の利益に、というのが基本だ。弁護側の指摘に対して「そうじゃない可能性もある」で潰していけば、どんな反論も封じられる。
後日明らかになるのだが、一審の弁護人たち自身にも問題があった。彼らは控訴審の段階で、被告人との人間関係を築くことを怠り、供述調書の検討を十分にしなかったことを認め、謝罪している。被告人に対する先入観が、弁護人側の判断まで曇らせていたわけだ。
誰も彼の話をちゃんと聞いていなかった。これが、この事件の一審までの構図だ。
裁判所が自らDNA鑑定を持ち出した日
控訴審は1990年から福岡高裁で始まった。一審のときと比べて、弁護団は十三名に拡大している。
ここでこの事件は、日本の司法史に残る局面を迎える。1991年5月、裁判所が自らDNA型鑑定を実施することを提案したんだ。
これは日本で初めての、裁判所職権によるDNA型鑑定だったとされる。検察が出したのでも弁護人が請求したのでもなく、裁判官が「これは調べないと判断できない」と考えたわけだ。
皮肉だと思う。ちょうど同じ頃、北関東では、まだ手探りの段階にあったDNA型鑑定が、無実の人間を有罪にする側に使われていた。それが大分では、まったく同じ技術が、一審の有罪判決をひっくり返す側に使われた。道具に善悪はない。使う側が、限界を知って使うかどうかだけだ。
鑑定を担当したのは筑波大学の三澤章吾教授。鑑定書が提出されたのは1993年8月だった。提案から二年以上。提案から結果が出るまでのこの長さを見るだけでも、当時のDNA型鑑定が、いかに手探りの技術だったかが分かる。
53箇所の誤りと、15.6センチの毛髪
ところが、このDNA型鑑定も手放しで信じられるものじゃなかった。
提出された鑑定書には、53箇所の誤りがあると認められている。五つや十じゃない。五十三だ。無期懲役か無罪かという、人ひとりの一生を決める書類として、とうてい肯定できる数字じゃない。
この鑑定で使われた試料の一つには、決定的な矛盾も見つかった。問題の毛髪の長さは15.6センチ。ところが輿掛さんは、当時常に短髪だった。短髪の人間の頭から、15.6センチの毛は落ちない。
この一点はとてつもなく大きい。なぜならこれは、機械や技術の精度の問題じゃなく、現場の毛と鑑定に回った毛をつなぐ、試料の紐づけそのものの問題だからだ。どんなに高精度の機械で分析しても、そもそも分析しているブツが違うなら、出てきた結果には何の意味もない。
現代の言い方をすれば、証拠のチェーン・オブ・カストディの問題だ。現場で拾ったものが、どう保管され、どう運ばれ、どう鑑定に回されたのか。この連鎖がどこか一か所でも断たれていたら、どれだけ立派な鑑定結果もただのゴミになる。当時はこの意識が、捜査側にも鑑定側にも薄かった。
1995年6月30日、逆転無罪の法廷で
1995年6月30日。福岡高裁の永松昭次郎裁判長は、一審の無期懲役という原判決を破棄して、輿掛さんに無罪を言い渡した。
事件発生から十四年。逮捕から十三年以上が経っていた。
判決の中身は徹底していた。毛髪鑑定の信用性を否定。自白の任意性と信用性を否定。DNA型鑑定についても、試料の同一性に疑問があるとして採用しなかった。毛髪も自白も、検察側が頼みにした柱が、一本残らず折られた形だ。
この判決でもうひとつ目を引いたのが、真犯人像にまで踏み込んだことだ。判決は、犯人は被害者と親しく信頼関係のある者ではないか、という趣旨の指摘をしている。
この指摘は、事件そのものを見るうえで大きな重みを持つ。現場に土足の形跡がない。物色の形跡もない。深夜にもかかわらず強い抵抗の形跡がはっきりしない。これらを一つずつ並べていくと、被害者が自ら部屋に入れた、顔見知りの相手だった可能性が浮上する。
1995年7月14日、福岡高検が上告を断念して無罪が確定した。輿掛さんは、事件の十三年後にようやく保釈され、1996年4月には大分市で仕事に就いている。
「神様、お許しください」――残された証言たち
この事件には、強烈な証言がいくつか残っている。
ひとつ目は、事件当夜の声についてのものだ。アパートの関係者から、「神様、お許しください」という声が繰り返し聞こえたという話が伝えられている。このフレーズは、この事件を語ろうとする人間にとって、いつまでも一番引っかかる部分だ。なぜ神様なのか。なぜ謝っているのか。
この声から後に、宗教関係者説が生まれることになる。ただ、声の証言は形に残らない。その声がどの程度確かめられたものなのかは、いまとなっては誰にも検証しようがない。
二つ目は、輿掛さん自身の言葉だ。彼は無罪後の取材で、こういう趣旨のことを語っている。青空の下で、汗を流して働きたい。十三年間、ずっと壁の中で過ごすしかなかった人間の願いがこれだ。
壮大な復讐でも、壮大な夢でもない。外で働きたい。彼は実際に職業訓練を受け、工事用機械の操作を覚え、採石場で働き、やがてダンプカーを買って独立した。市民運動で知り合った女性と結婚もしている。
三つ目は、一審の弁護人たちの告白だ。彼らは控訴審の場で、自分たちの弁護活動の不十分さを認めている。被告人と向き合うことをしなかった。供述調書の中身を検討しなかった。
最後が、先入観で相手を見てしまったこと。これを公の場で言うのは、なかなかできることじゃない。弁護人だって先入観から自由じゃない、ただの人間だということを、この事件は残酷な形で見せてくる。
四つ目に、取り調べ室の描写をもう一度置いておきたい。発熱しながら、十分な食事もないまま、連日八時間以上。目の前には遺体写真。
あるはずのない証拠をあると告げられる。この状態で一週間も置かれて、自分の記憶を保てる人間がどれだけいるか。自白した人間を「なぜやってもいないことを認めたのか」と責めるのは、この条件を知ってからにしてほしい。
犯人像をめぐる諸説と、その弱点
真犯人は分かっていない。それを踏まえたうえで、これまでネット上や書籍で論じられてきた説を、ひととおり並べておく。いずれも推測であり、特定の個人を指すものじゃない。
一つ目は、面識のある人物による犯行という説。控訴審判決が指摘した方向と重なる。土足でないこと、強盗目的でないこと、深夜に部屋に入れていること。
矛盾が少ない。でも、この説の弱点は、当時のアパートの施錠管理が緩いことだ。部屋に鍵をかけない人も普通にいた時代で、面識のない人間がふらりと入り込むことも十分ありえる。
二つ目は、学生関係者によるものという説。事件当日、周辺で学生のイベントと飲み会があったとされ、そこから抜け出した人物の可能性を論じるものだ。この説は、被害者が帰宅直後に襲われていること、姉が不在だと知っていたことを根拠とする。この説の弱点は、具体的な裏付けがないことだ。状況から逆算した人物像に過ぎない。
三つ目は、宗教的背景を持つ人物によるものという説。「神様、お許しください」という声の証言を基にしている。ネットの書き込みには、現場の物音を宗教的な所作と結びつける考察も見かける。でも弱点は明白で、声の証言自体の確度が低い。しかも、ぎりぎりまで追い詰められた人間が思わず神仏に詫びるのは、宗教信者でなくてもありうる。
四つ目は複数犯説。現場の痕跡に複数の血液型が含まれていたことを根拠とする。でも先にも書いた通り、人の出入りする居室では、痕跡の存在がそのまま犯行時の人数を意味しない。この説は、強めすぎると危うい。
五つ目に、もっとも地味で、もっともやりきれない説がある。真犯人は当時の捜査対象の中にいたのに、輿掛さんに焦点が定まった瞬間に対象外になった、というものだ。捜査は無限のリソースを持っていない。ひとつの線を固めれば、他の線は細る。
しかもこの事件では、その固めた線が間違っていた。冤罪はひとりの人生を壊すだけじゃなく、真犯人を逃がす。被害者の遺族にとっても、冤罪は二重の損失なんだよな。
時効、当番弁護士制度、そして失われた十四年
無罪確定の翌年、1996年6月28日。この事件の殺人罪の公訴時効が成立した。当時の時効は15年だ。
数字にすると、こうだ。事件発生から時効までの15年のうち、実に13年以上を、捜査と司法は「無実の人間を裁く」ことに使った。真犯人を探す時間は、実質的に残っていなかった。
それでもこの事件は、制度を動かしている。いちばん大きいのは、当番弁護士制度の創設につながったことだ。
当番弁護士制度というのは、逮捕された人が要請すれば、弁護士会から当番の弁護士が、一回目は無料で接見に来てくれる仕組みだ。いまでは当たり前のように思えるが、この事件の頃には存在しなかった。
逮捕直後のいちばん大事な数日間に、もし弁護士がついていれば、という仮定は、この事件ではとりわけ重い。外から誰も入れない代用監獄の密室で、食事も十分に与えられないまま連日追及される。その間に一度でも、弁護士という外部の人間が入っていたら、その後の展開は違ったかもしれない。もちろん仮定の話だけど。
この事件は、報道被害の事例としても語られてきた。1982年の逮捕時、地元報道は当然大きく扱った。大分は地方都市で、人のネットワークは濃い。
一度名前と顔が地元の報道に出れば、十三年後に無罪になっても、周囲の記憶は完全には上書きされない。無罪判決のニュースは、逮捕ニュースより小さい。この非対称は、いまも大筋で変わっていない。
なぜこの事件は忘れられないのか
未解決事件はたくさんある。その中でこの事件が特別な位置を占めているのは、いくつか理由がある。
ひとつは、事件の本体よりも、事件のあとに起きたことのほうが怖いからだ。隣に住んでいただけ。見たことを話しただけ。それで十三年。
これは幽霊や怪物が出てくるホラーじゃなく、社会の仕組みの話だ。仕組みは誰にでも適用される。だからこそ、読んでいる誰にとっても自分ごとになる。
もうひとつは、この事件が、科学という言葉に人が寄せてしまう小気味の悪い信頼を描いているからだ。一審を支えたのは毛髪鑑定だった。でも控訴審で導入されたDNA型鑑定も、そのままは信じられなかった。53箇所の誤り。
長さの合わない試料。だからこの事件は、古い科学の間違いを新しい科学がすっきり正した、という単純な物語じゃない。新しい科学も含めて、全部を法廷がゼロから検証した物語だ。そこがこの事件の一番重要なところだと思う。
三つ目に、未完の形が特殊だからだ。普通の未解決事件は、「犯人が見つからなかった」。この事件は、「一度見つけたと思って十三年間拘束して、違ったと分かったときにはもう時間がなかった」。この局面は、やりきれなさの質が違う。
四つ目に、輿掛さんがその後の人生をちゃんと生きていること。採石場で働き、ダンプを買い、結婚し、冤罪をなくすための講演に立っている。冤罪の悲劇だけで話が終わらなかったということが、この事件をいまも語り継ぐ人たちのモチベーションになっている。
締めくくりに。十八歳で亡くなった女性の事件は、まだ何も解決していない。冤罪の話に引っ張られすぎてここを忘れると、事件の半分を見落とすことになる。
「古い時代の話」で片づけられない理由
ここからは総括と、本文で収まりきらなかった追加の考察を置いておく。
ひとつ目に、この事件を「古い時代の話」として片づけないための注意を書いておきたい。1981年というのは、確かに古い。携帯電話もなければ防犯カメラもない。でも、この事件を成り立たせた構造の多くは、いまも形を変えて残っている。
取り調べに使われた代用監獄は、いまも廃止されていない。逮捕後の取り調べは一部の重大事件を除いて全面可視化されているわけでもない。別件逮捕という手法も、法的には厳密に禁じられているわけじゃない。
DNAを含めて鑑定の精度は桁違いに上がったが、試料の取り扱いや保管のミスは現代でも報告されている。どれだけ技術が進んでも、それを扱う人間の運用が、結局は同じところで転ぶ。
二つ目に、毛髪鑑定というものの位置づけについて。この事件の一審を支えたのは、形態学的な毛髪鑑定だった。形態定性鑑定というのは、専門家の目で見て「特徴が一致する」と判断するもので、根っこのところで主観が入る。しかも鑑定人は、自分が何の事件の、検察と弁護のどちらの立場のために鑑定しているかを、最初から知っている。これは心理学でいうバイアスが入り放題の状態だ。
現在の法科学の世界では、鑑定人に事件情報を伝えないブラインド鑑定の重要性が強く議論されているが、その問題意識はまさにこういう事件から育ってきた。ちなみに欧米でも、毛髪の形態鑑定を根拠とした有罪判決が後年DNA型で覆された例は何件もある。日本だけの問題じゃない。
人はどういうときに、やってもいないことを認めるのか
三つ目に、自白というものをもう一歩深く見ておきたい。一般に、人は「やってもいないことを認めるはずがない」と思っている。でも虚偽自白の研究は、一定の条件下に置かれると、ごく普通の大勢の人が虚偽自白をすることを示している。鍵になるのは三つだ。
長時間の隔離と疲労。逃げ場の提示(「認めれば楽になる」「母親に会わせる」)。最後が、自分の記憶への信頼を崩す情報(「証拠がある」「夢遊病者のように行ったのだ」)。
この事件では、三つ全部が揃っている。教科書に載せたいくらい典型的だ。おまけに、麻酔面接という押し込みまであった。
四つ目に、ネット上のこの事件の扱われ方について。未解決事件まとめサイトや個人ブログ、動画考察の分野で、この事件は定番のテーマだ。良質なものも多い。
ただ、定期的に問題のある語られ方も出てくる。ひとつは、無罪確定後もなお輿掛さんを疑うような書き方。これははっきりアウトだ。無罪判決は「証拠不十分だっただけ」という見方をする人がいるが、刑事裁判では無罪は無罪だ。
その先にグレーゾーンを作るのは、司法の基本を崩すことになる。もうひとつは、被害者や遺族の私生活に踏み込む推理だ。この事件の控訴審判決が真犯人像に言及したことを受けて、被害者の交友関係をあれこれ推測する書き込みは昔からある。でも事件の被害者は、死後に生活をあげつらわれるために死んだわけじゃない。ここは線を引くべきだと思う。
五つ目に、当時の大分という場所の背景。大分市は1980年代に入って新日鉄の城下町から地方中核都市へと変わっていく途中で、学生向けの木造・軽量鉄骨アパートが大量に建っていた。鍵の掛け方は緩い。
隣の部屋の生活音は丸聞こえ。住人同士の面識はあるけれど深い付き合いはない。このちょうど良い距離の共同体が、事件のときには最悪の形で働いてしまった。
隣人は物音を聞いてしまうくらい近いのに、飛び込むほどの関係はない。しかも、壁一枚ぶんのその近さが、そのまま容疑の根拠にされてしまう。
この事件が制度に残していったもの
六つ目に、この事件が後の冤罪事件の議論に与えた影響だ。当番弁護士制度はもちろんだが、もうひとつ、「裁判所が自ら鑑定を命じる」という前例を作ったことの意味は大きい。検察が提出する証拠を評価するだけじゃなく、裁判所のほうが能動的に動いて、真相を確かめに行く。これは日本の刑事裁判では珍しい。後の再審請求事件で、弁護側が証拠の開示や再鑑定を求めるとき、この事件はしばしば引き合いに出される。
おしまいに、この事件を読むときのバランスについて。この事件には二つの悲劇がある。十八歳の女性が命を奪われ、真犯人がいまだに分からないこと。
もうひとつは、無実の青年が十三年を奪われたこと。この二つは別々の悲劇でありながら、完全にセットになっている。間違った逮捕がなければ、捜査は別の線を追えたかもしれない。
だからこの事件を「冤罪事件」としてだけ語るのも、「未解決事件」としてだけ語るのも、どちらも半分しか見ていないことになる。両方を同時に抱えておくこと。重いけど、それがこの事件に対する唯一まともな態度だと思う。
大分市六坊のアパートは、もうない。事件を知らない人のほうが、ずっと多い。それでも、この事件が日本の司法に残した痕跡は、いまの刑事手続きの制度のあちこちに、目立たない形で埋め込まれている。逮捕されたときに弁護士を呼べるという、当たり前のことも含めて。
