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新潟少女監禁事件――毛布の下から出てきた「9年2ヶ月」という時間

## 2000年1月28日、柏崎の一軒家の2階で毛布が動いた
この事件の話をするとき、どこから始めるかでいつも迷う。だから、いちばん信じられない瞬間から行く。
2000年1月28日、午後1時30分。新潟県柏崎市の住宅街にある、どこにでもある2階建ての一軒家に、12人の大人が集まっていた。医師を含む医療関係者5人と、保健所・市の職員7人。目的は「医療保護入院」だった。この家に住む当時37歳の男性、佐藤宣行が、長いことひきこもりと家庭内暴力を繰り返していて、同居する母親が限界を迎えていたからだ。
母親に案内されて、医師と職員が2階へ上がる。宣行の部屋だ。ドアを開けた瞬間、臭気がひどかったと後に証言されている。抵抗する宣行に鎮静剤を打ち、抱えるようにして階下へ連れ出す。部屋にはベッドがあり、その上に毛布のかたまりがあった。
そのかたまりが、わずかに動いた。
職員のひとりが気づいて、毛布をめくった。中から出てきたのは、ひとりの若い女性だった。痩せていて、肌が白く、ひどく衰弱していた。職員は当然、同居の家族かと思った。だが佐藤家は母と息子の二人暮らしだ。
名前を聞くと、彼女は答えた。その名前は、1990年11月に新潟県三条市で行方不明になった9歳の小学4年生の名前だった。彼女は消えた日から9年2ヶ月、この10畳ほどの洋間から一歩も外に出ていなかった。
ここからさかのぼっていこう。
## 1990年11月13日、三条市の農道で何が起きたか
1990年11月13日。火曜日。場所は新潟県三条市。金属加工と刃物の街として知られる、越後平野の真ん中にある地方都市だ。
夕方、小学4年生の女児Aさんが、学校からの帰り道をひとりで歩いていた。周囲は田んぼに囲まれた農道。人通りは少ない。そこに、1台の乗用車が入ってきた。運転していたのは、柏崎市から母親の車で出てきた当時28歳の佐藤宣行だった。
佐藤は刃長約13センチのナイフを突きつけてAさんを脅し、車のトランクに押し込んだ。そして三条から50キロ弱、日本海側の柏崎市まで車を走らせた。自宅の2階、小学1年のときに与えられた自分の部屋に彼女を連れ込んだ。
この日から、2000年1月28日まで、9年2ヶ月、日数にして3,363日。
数字にすると、もう意味がわからなくなる。小学4年生の子が、中学を飛ばし、高校を飛ばし、役所の手続きも選挙権も何もないまま、18歳になっていた。その間に世の中はバブルが弾け、阪神淡路大震災が起き、地下鉄サリン事件が起き、携帯電話が普及し、インターネットが家庭に入った。彼女はその全部を、部屋の外で見ていない。
## 消えた9歳と、動き出した107人
当然、警察は動いた。しかも相当な規模で動いている。
11月13日午後7時45分、Aさんの家族から捜索願が出される。翌14日、三条署と学校関係者を中心に100人以上で周辺を捜索。15日には県警機動隊など107名を投入して「女子小学生不明事案対策本部」を設置。16日には手配ビラ2,000枚を配り、市内の全小中学校でアンケートを実施。17日にはAさんの顔写真入りの手配書を2万枚作ってバラまいた。
気合いは入っていたんだ。当時の三条市はひっくり返った。下校は集団で、夜は子どもを外に出さない。パトロールが増えた。しばらくの間、市内の子どもの間では「さらわれる」がリアルな恐怖だったという。
だが、手がかりは何ひとつ出なかった。1991年4月23日から25日にも大規模な再捜索が行われたが、結果は同じ。三条署の警察官はその後も毎年11月13日になるとチラシを配って情報提供を呼びかけ続けた。もう9年だ。現場の人間は忘れてなんかいなかった。
問題は、探す場所だった。
## 手配書2万枚、それでも柏崎は「圏外」だった
県警は同種事案の前歴者をリストアップした。三条市と隣接する燕市を中心に、1,000人以上がリストに上がっている。これも相当な仕事量だ。
だが、柏崎市は重点捜査対象に入っていなかった。理由は地理だ。三条市は越後平野の内陸側、柏崎市は日本海に面した沿岸部。地図で見ると50キロ弱だが、当時の道路事情では車で1時間以上。生活圏はまったく別で、経済圏も違う。「こんな遠くから子どもをさらいに来るやつはいないだろう」。その常識が、結果として9年を生んだ。
しかも、もっと致命的なミスがあった。
## 前歴者リストに載らなかった男
事件の1年強前、1989年6月13日。佐藤はすでに一度、警察に捕まっている。
現場は柏崎市宮川の国道。下校中の小学4年の女児を尾行し、強制わいせつ未遂容疑で現行犯逮捕された。同年9月19日、新潟地裁長岡支部で懲役1年・執行猶予3年の判決。
対象は小学4年の女児。手口は下校中の尾行。場所は柏崎市。――この3つが、1年5ヶ月後の三条市の事件と不気味なほど重なる。もしこの前歴がデータベースになっていて、「小学4年女児・下校中・周辺市郡」で検索されていたら、佐藤の名前は間違いなく引っかかっていた。
だが、柏崎署と新潟県警本部は、この佐藤を「前歴者リスト」に登録していなかった。刑が確定した後も登録漏れのまま放置されていた。これは後に国会でも追及される重大な不備だ。
以降9年、佐藤の家には一度も警察が来なかった。家の2階には、行方不明の子どもがいたにもかかわらず。リスト登録という、1行の事務作業の欠落で、ひとりの人間の9年が消えた。これを思うと、本当に胸が悪くなる。
## 2階10畳の部屋で、何が起きていたのか
監禁場所は、佐藤が小学1年のときに与えられた2階の10畳ほどの洋間だった。普通の家の、普通の子供部屋だ。
公判や鑑定で明らかになった内容は、読むのがつらい。最初の2ー3ヶ月は手足を縛られ、両脚の拘束は1年ほど続いた。残された供述では、軽い殴打が約700回、強いものが200ー300回程度。監禁の1年目からスタンガンが使われている。
食事は当初は弁当を与えていたが、1996年ごろ、Aさんの体の痕に気づいた佐藤が「体重を落とさせれば動けなくなる」と考え、1日1食に制限した。体重は46キロから38キロまで落ちた。失神することが頻繁にあったという。入浴は、1992ー93年ごろにベッドから落ちて埃まみれになったときに一度シャワーを浴びただけ。排泄はビニール袋。
体を動かすことも禁じられていた。床の上で足踏みすることはできたが、母親が2階にいるときはそれさえ禁止されていた。音を立てさせないためだ。
この生活が9年2ヶ月。人間の体は、それでも一応生きていられてしまう。保護時の診断では、著しい栄養不良に加えて両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血が認められた。普通に歩くことができない状態だった。
## 母親は、階下にいた
この事件で一番多くの人が引っかかるのがここだ。母親はどうしていたのか。
佐藤宣行の母親は保険外交員だった。高齢の夫との間に遅くにできた子が宣行で、彼は「ボクちゃん」と呼ばれ、欲しいものは何でも与えられて育ったという。中学1年のときに不潔恐怖症と診断され、やがて父親に暴力をふるうようになる。宣行が19歳のとき、父親は老人介護施設に入所し、母と息子の二人暮らしが始まった。
その後の9年、母親はこの家に住み続けていた。だが宣行の家庭内暴力は激しく、彼女自身がスタンガンで殴られ、トイレに行くことさえ自由にならない時期があったとされる。2階は宣行の支配領域で、母親は上がれなかった。
監禁を知っていたのか。この問いに対しては、事件当時から世間でもネットでもさんざん議論されてきた。しかし刑事責任を問われていない以上、ここで断定的なことを書くのはフェアじゃない。事実として確認されているのは、彼女が9年間同じ屋根の下にいたこと、1999年12月に「息子の家庭内暴力が激しい」と精神病院に相談したこと、そしてその相談がめぐりめぐって1ヶ月後のAさん保護につながったことだ。
皮肉としか言いようがない。警察の2万枚の手配書ではなく、家庭内暴力の相談窓口がこの事件を解いた。
## 「友達だと思っていた」――加害者が語った歪んだ関係
佐藤の供述で、最も寒いのは暴力の部分じゃない。彼がAさんをどう認識していたかの部分だ。
佐藤はAさんに漫画や新聞を与えていた。テレビも見せていた。時事問題やニュースについて議論することもあったという。そして彼は取り調べで、彼女のことを「友達」と表現し、「対等に話ができた」と述べている。
ナイフで脅してトランクに押し込み、数百回殴り、スタンガンを使い、食事を制限し、入浴も排泄の尊厳も奪った相手を、友達と呼ぶ。この認識の歪み方が、正直、いちばん気持ち悪い。
一方でAさんの側は、保護後にこう語っている。「縛られていないのに、見えないガムテープで縛られているような感覚だった」。「気力がなく、生きた心地がしなかった」。そして母親に向かって、佐藤のことを「最低の人」と言い切っている。
事件当時、一部のメディアや論者が「ストックホルム症候群ではないか」と指摘した。だがこれは、帝塚山学院大学教授だった小田晋氏らによる鑑定の中でも、直接否定されている。彼女は佐藤に愛着していたのではなく、逃げられなかった。というか、監禁が始まったのは9歳のときだ。世界の全体像を知る前に、世界をこの部屋に限定されている。
なお、保護後の検査では、彼女の知的水準に目立った低下は見られなかった。知識量も語彙も同年代と同等だったとされる。新聞とテレビで、彼女は外の世界を知識としては入れていた。入れていたのに出られなかった。この事実の重さが、この事件の中核だと思う。
## ひきこもり、家庭内暴力、そして1月28日の7人
1999年末の時点で、佐藤家の状況は限界に来ていた。
宣行は長年仕事に就いていない。日中は寝て、夜に行動する。買い物はコンビニ。家族との会話は成立せず、要求が通らないと暴力になる。母親は1999年12月、ついに精神病院に駆け込んだ。
2000年1月19日、保健所職員と柏崎市の職員が家を訪問する。宣行は面会を拒否した。この時点では、誰も2階に上がっていない。
その後、精神病院・保健所・市役所が協議し、医療保護入院――本人の同意がなくても保護者の同意と指定医の判断で入院させる制度――を行うことを決めた。そして1月28日、午後1時30分、医療・行政の合計12人が佐藤家に入った。
ここで確認しておきたいのは、この12人は誰ひとりとして「行方不明の少女を探しに行った」わけではないということだ。彼らは、1人の精神疾患患者を入院させるために来た。目的は完全に別のところにあった。だからこそ、毛布が動いたときの衝撃は、想像を絶する。
## 発覚の瞬間――「この子は、だれ?」
時間を追ってみる。
午後1時30分、訪問。宣行を鎮静し、階下へ。部屋に残された職員がベッド上の毛布の動きに気づく。めくると女性がいる。
午後2時ごろ、彼女は職員に対して「2階からは出ていない」と告げている。この一言だけで現場の空気は一変したはずだ。午後2時54分、佐藤家の敷地外で、逃走後の佐藤に逮捕を実行。
彼女は病院に搬送された。そこで職員がもう一度名前を確認し、9年2ヶ月前に失踪したAさん本人であることが定まった。
その日の夜、三条市から母親が駆けつけた。前に娘を見たのは9歳の小学4年生のとき。目の前にいるのは18歳の女性。この再会の場面を、何度想像しても身の置き場がない。嬉しいはずなのに、失われた9年の重さが同時にのしかかってくる。
このニュースは翌日から全国を一周した。新潟日報はその年の「県内10大ニュース」の1位にこの事件を置いている。国内の10大ニュースでも8位だった。
## 傍聴席倍率84倍、そして懲役14年→11年→14年の迷走
初公判は2000年5月23日、新潟地裁。裁判長は榊五十雄。
傍聴希望者2,272名。新潟地裁史上最多で、抽選倍率は84.1倍。地裁の敷地ではさばききれず、新潟市の体育館で傍聴券を配布するという異例の対応になった。地裁の敷地外での配布は初めてだったとされる。世間の関心の高さが、この数字に出ている。
そしてここから、日本の刑事司法史に残る量刑論争が始まる。
問題は、適用できる罪名が限られていたことだ。略取誘拐罪はすでに公訴時効が完成しているという弁護側の主張もあり、主たる罪名は逮捕監禁致傷。この罪の法定刑の上限は懲役10年でしかない。9年2ヶ月監禁しても、10年。
ここで検察が使ったのが窃盗罪だ。2000年6月26日、追起訴されたのは1998年10月上旬の万引き。下着のキャミソール4枚、被害額約2,464円。この窃盗と逮捕監禁致傷を併合罪として加重すれば、上限は15年になる。検察は2001年11月30日、懲役15年を求刑した。
2002年1月22日、新潟地裁は懲役14年を言い渡す。判決は犯行を「最悪の所業」と断じた。心神耗弱は認めなかった。
ところが2002年12月10日、東京高裁(山田利夫裁判長)がこれを懲役11年に減刑した。理由は併合罪の解釈だ。逮捕監禁致傷の上限10年に、窃盗の分を足し算で乗せるのが筋だとして、10年+1年=11年とした。
この判決には世間が激怒した。「万引きしたキャミソール4枚の値段で、9年2ヶ月が3年安くなるのか」。正直、この反応は当然だと思う。法律の体系が、この種の事件を想定して作られていなかったということが、このとき一気に可視化された。
最高裁は2003年、高裁の解釈を退け、一審の懲役14年を支持して確定させた。併合罪加重は「重いほうの刑の1.5倍まで」という従来の解釈を確認した形だ。
だが、それでも14年。監禁された年数より、刑期のほうが長いとはいえ、差は5年強しかない。
## 新潟県警の醜態と、時代の空気
この事件を語るとき、もうひとつ外せないのが警察の不祥事だ。
まず、すでに書いた前歴者リストの登録漏れ。これだけでも十分重い。だが、問題は保護当日にも起きていた。
2000年1月28日、まさにAさんが発見されていたその日、新潟県警のトップは上級庁による特別監察を受けていた。ところがその監察の場は、実質的に温泉旅館での接待になっていて、監察する側とされる側が卓を囲んでマージャンをしていた。少女保護の一報が入っても、すぐには現場に戻らなかったとされる。
さらに、保護の経緯について県警が当初発表した内容が実態と違っていた。実際に彼女を見つけたのは保健所と市の職員なのに、県警が主体的に動いて保護したかのような説明がなされ、後に訂正されることになった。この一連の対応は国会でも取り上げられ、県警本部長は辞職、警察庁長官も国家公安委員会から処分を受ける事態になった。
一方で、時代の文脈も大事だ。2000年は、この事件の発覚と5月の西鉄バスジャック事件が重なった年だ。どちらも「ひきこもり」というキーワードで語られ、ワイドショーが連日特集を組んだ。「部屋から出ない若者」が社会問題として一気に認知された。これは良い面と悪い面の両方があって、支援の必要性が知られた一方で、ひきこもりの人を潜在的な犯罪者のように見る偏見も拡大した。当事者団体が強く抗議したのもこの頃だ。
## その後の佐藤と、語られない被害者
佐藤宣行は懲役14年が確定し、2015年4月に刑期を終えて出所した。その後は千葉県内のアパートで暮らし、2017年ごろ、その一室で病死したとされる。孤独死だったという。
一方、Aさんについては、当然ながらその後の人生は公表されていないし、公表されるべきでもない。保護直後、一部のメディアは彼女の入院先の病院に押しかけ、実家周辺にカメラを向け、小学校時代の写真を流した。今の感覚で見れば、信じられない取材攻勢だ。
だからこの記事でも、彼女の現在については何も書かない。書けることもないし、書くべきでもない。この事件のコンテンツ化には、どこかで必ずブレーキがいる。彼女は事件の登場人物ではなく、いまも生きている人間だ。
## なぜこの事件は、今でも背筋を凍らせるのか
日本の事件史には、もっと残虐な事件も、もっと犠牲者の多い事件もある。なのに、この事件は別格に嫌な感じで語り継がれている。理由は、いくつかある。
ひとつは、現場が住宅街だったこと。地下室じゃない。山小屋でもない。隣家があって、郵便が届いて、回覧板が回っている、あの普通の一軒家の2階だ。あなたの家の向かいの家の2階で、同じことが9年間起きていても、たぶん気づかない。この事実が、じわじわ来る。
もうひとつは、時間の長さだ。監禁事件は他にもある。だが9年2ヶ月というのは、人間の人生のフェーズを丁度ひとつ丸ごと奪ってしまう長さなんだよな。9歳から18歳。人間が友達を作り、初恋をし、失恋を重ね、自分が何者かを探す期間。そこを丸々奪われた。この損失は、どんな量刑でも埋められない。
そして三つ目。この事件を解いたのが、捜査ではなかったことだ。107人の機動隊でも、2万枚の手配書でも、1,000人の前歴者リストでもなく、「息子が暴れて困っている」というひとりの母親の相談と、それを受けた保健所職員の訪問が、結果としてページをめくった。偶然だ。でも、だからこそ思う。もしあの日、医療保護入院の判断が下りなかったら。もし職員が毛布の動きに気づかなかったら。彼女は今もあの部屋にいたのかもしれない。
その「もし」の重さが、この事件を忘れさせてくれないんだ。
## 捜査の穴、制度の穴、刑法の穴

この事件を改めて俯瞰すると、日本社会の「穴」が3つ重なっていたことが見えてくる。捜査の穴、制度の穴、そして刑法の穴だ。
まず捜査の穴。当時の日本には、都道府県をまたいで性犯罪前科を検索できる統一的なシステムが実質的になかった。いや、同じ県内ですら、前歴者リストへの登録は手作業で、現場の判断に任されていた。佐藤のケースは、その手作業が抜けた典型例だ。しかも、強制わいせつ未遂で執行猶予という「軽い事案」は、当時の感覚では重大事件の容疑者候補にならなかった。小さな性犯罪がエスカレートするという知見は、日本では2000年代に入ってからやっと実務に反映され始める。この事件は、その転換点のひとつになった。実際、子どもを対象とした性犯罪の前歴管理、存在確認、地域連携の仕組みは、この後の数年で大きく強化されていく。
次に制度の穴。これが一番皮肉で、一番考えさせられる部分だ。Aさんを見つけたのは、精神保健福祉法に基づく医療保護入院という制度の運用だった。これは、本人の同意なしに人を入院させる、かなり強い強制力を持つ制度だ。人権上の問題も長く議論されてきた。だがこのケースでは、その強い強制力がなければ、誰もあの部屋のドアを開けなかった。刑事の令状もない、令状の疑いもない、ただ「家族が困っている」という入り口だけがあった。福祉行政が、結果として刑事捜査が9年かけて達成できなかったことをやってのけた。これは、地域福祉の価値を考えるうえで、もっと語られていい事実だと思う。同時に、保健所職員がこういう現場に何の装備もなく入っていくということのリスクも、同じくらい重い。
三つ目の刑法の穴。量刑論争は、単なる「軽すぎる」という感情論では終わらない。日本の刑法は、逮捕・監禁を「自由を奪う罪」として見てきたが、その重さを「期間の長さ」ではなく行為の態様で量ってきた。だから1日の監禁と9年の監禁が、同じ条文の同じ上限で処理される。これは、制度設計の側が9年監禁を想定していなかったというだけの話でもある。後の年代、同意によらない行為や長期の支配をどう評価するかは、刑法学の重要テーマになっていく。併合罪の解釈をめぐって一審・二審・上告審で結論が振れたこと自体が、この事件が既存の枠に収まらなかった証拠だ。
## 「もういない」という前提が、ひっくり返った日

もうひとつ、この事件が人を惹きつける理由を心理の側から考えてみたい。人間は、消えた人については「もういない」と思うことで心を落ち着かせる。行方不明の子どもの事件は、何年も経てば社会全体がゆるやかに「最悪の結末」を前提にしてしまう。ところがこの事件では、その前提がひっくり返った。しかも9年間、ずっと生きていた。これは希望の話でもあるし、同時にとてつもない恐怖でもある。というのは、今この瞬間も、どこかの家の2階で同じことが起きている可能性を、この事件は完全には否定させてくれないからだ。実際、この事件以降も、国内外で長期監禁の事件は複数発覚している。
さらに、2000年という年のメディア環境も見逃せない。ワイドショー全盛期で、ネット掲示板が普及し始めたばかりの頃だ。当時の2ちゃんねるでは、この事件のスレッドが長期にわたって回り続けた。議論の中心は「母親は知っていたのか」「なぜ逃げなかったのか」の2つだった。どちらも、外部の人間が安全な場所から問うにはあまりに乱暴な問いだ。9歳でナイフを突きつけられ、数百回殴られ、スタンガンを使われ、体重を8キロ落とされて筋力を奪われた人間に向かって、「なぜ逃げない」はありえない。なのに当時は、そういう言葉が平気で飛び交った。監禁被害者に対する社会の理解が、当時はその程度だったということだ。
## 結局は、現場のひとりの注意力にぶら下がっていた

最後に、どうしても戻ってしまうのはあの毛布のシーンだ。あの日、部屋に入った職員は、9年前の行方不明事件なんて頭の片隅にもなかったはずだ。臭い部屋で、暴れる中年男性を入院させるという、重いけれど日常的な仕事だった。そのとき、視界の端で毛布がわずかに動いた。見逃してもおかしくなかった。疲れていたかもしれないし、緊張してもいただろう。でもその職員は、手を伸ばして毛布をめくった。
その一つの動作で、9年2ヶ月が終わった。司法も、組織も、制度も、結局は現場のひとりの人間の注意力にぶら下がっている。この事件が残した教訓のなかで、一番地味で、一番大事なのはそこだと思う。

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