昭和三十八年の秋から冬にかけて、この国はひとりの男の顔写真をひたすら見せられ続けた。新聞にも出た。テレビにも出た。交番の掲示板にも、駅の壁にも、町内の掲示板にも貼られた。それでも男は捕まらなかった。七十八日間、九州から北海道まで移動しながら、五人の命を奪い、名乗る肩書きを次々に着替えた。大学教授。弁護士。厚生技官。どれも嘘だ。なのに、みんな信じた。
そして最後にその嘘を破ったのは、警察でも報道でもなく、熊本のお寺にいた小学五年生の女の子だった。
これは西口彰事件の話だ。戦後最悪の連続殺人と呼ばれることもある事件で、あまりにも「物語」として出来がよすぎるせいで、いつのまにか実話の輪郭がぼやけてしまった事件でもある。だからこそ、できるだけ細かく、順番どおりに追いかけたい。殺された五人には名前があり、家族がいた。その事実を面白がるつもりは一ミリもない。ただ、なぜこの男が七十八日も逃げ切れたのかという問いだけは、当時の警察が本気で頭を抱えた問いであり、いまでも考える価値がある。そこは遠慮せずに踏み込む。
一九六三年十月十八日、苅田の山道で見つかった二つの遺体
その朝、福岡県京都郡苅田町の大字提。国鉄日豊本線の苅田駅から西へ入った山道で、男性が血まみれで倒れているのが見つかった。日本専売公社福岡出張所に勤める村田幾男さん、五十八歳。たばこの配給と、その代金の集金を担当する職員だった。現場の近くには千枚通しのようなものが落ちていたと報じられている。
そして、ほぼ同じころ。そこから二キロほど離れた田川郡香春町の仲哀峠、国道のそばに、専売公社がチャーターしていた行橋通運の小型トラックが乗り捨てられていた。車から三百五十メートルほど離れた場所で、運転手の森五郎さん、三十八歳が倒れていた。手ぬぐいで首を絞められていた。
二人は前日の朝から集金に回っていた。苅田町内の得意先で夕食をごちそうになり、午後五時半すぎにそこを出たあと、消息が途切れている。車内にあるはずの集金額四十三万円のうち、二十七万円がなくなっていた。
当時の二十七万円は、大卒初任給が二万円に届くかどうかという時代の金だ。今の感覚に直せば軽く数百万円。だが、二人の命の重さと並べて語れる数字ではない。この記事のあいだじゅう、犯人が動かした金額はずっとこういう「間尺に合わない小ささ」でつきまとってくる。そこがこの事件の底の冷たさでもある。
捜査は速かった。速すぎるほど速かった
福岡県警の初動は、実は鈍くない。むしろ当時の水準では相当に速い。
決め手は、被害者たちの人間関係だった。村田さんと森さんが集金先を回るとき、ときどき連れてきていた男がいる、という証言が出たのだ。事件当日もその男がトラックに乗っていたのを見た者がいた。さらに車内から採れた指紋が、前科者の指紋原紙と一致した。
浮かんだのは西口彰。当時三十六歳とも三十七歳とも記録される。福岡県行橋市に住み、少し前まで運送会社でトラックの運転手をしていた。詐欺と窃盗で前科四犯。専売公社が運送業者に集金業務を委託していることを、仕事を通じて知る立場にあった男だ。
十月二十一日、福岡県警は西口を全国指名手配する。事件発生から三日。当時としては異例の速さだった。
つまりこの事件、犯人の名前も顔も、ほとんど最初から割れている。犯人不明のまま迷宮入りしかけた事件ではない。「誰がやったかは分かっている。なのに捕まえられない」という、まったく別種の地獄がここから七十八日続く。
朝刊で自分の名前を読んだ男
十月十九日、西口は福岡市の新柳町の旅館に、女連れで泊まっていた。翌朝、届いた朝刊を開く。自分の名前と顔写真がそこにあった。現場の遺留品から犯人を西口彰と断定した、と書いてある。
普通なら血の気が引く場面だ。ところが彼は、そこから妙に冷静な計算をはじめる。
ラジオが流していたのだ。殺人犯の西口彰は関西方面へ高飛びしたとみられ、大阪府警に厳重な手配と捜査が依頼された、と。
警察が自分を関西で探しているのなら、九州にいればいい。彼はそう判断して、佐賀県唐津市へ向かった。しかもそこで何をしたかというと、競艇に行っている。根っからのギャンブル好きで、唐津競艇の二日間で二十一万円を稼いだと記録されている。
指名手配されたその日に、公営競技場という人だらけの場所に平然と入っていく。この距離感の狂い方が、以後ずっとこの男の行動を貫く。
行橋署に届いた手紙と、瀬戸内海に残された靴
十月二十三日、行橋署に一通の手紙が届く。差出人は西口彰。前略で始まるその文面は、おおむねこういうものだった。手配のとおり自分が専売公社輸送強盗殺人の犯人である。犯行後、情婦と逃げるつもりだったが、前非を悔いて自殺することにした。警察には絶対に捕らえられない。悪しからず。末尾には「東京にて」と書き添えてあった。
実際には佐賀から出している。東京と書いたのは、そこを探させるためだ。
そして十月二十五日、福岡県警に香川県警から連絡が入る。宇高連絡船「瀬戸丸」から、指名手配中の西口彰が投身自殺した形跡がある、と。船には上着と靴が残されていた。上着のポケットには遺書。手配写真の男によく似た人物を見たという証言まで出た。
海上保安庁が航路を中心に捜索したが、遺体は上がらない。県警は偽装と断定した。
ここは評価が分かれるところだ。警察は騙されなかった、と言うこともできる。だが実際には、この一件で捜査の視線は瀬戸内へ、そして関西へと引っ張られた。手紙と靴の二段構えで、彼は「自分がどこにいると思われるか」を操作しようとした。全部が成功したわけではない。それでも、時間は稼いだ。
彼が実際にたどったルートは、神戸、大阪、京都、名古屋。手紙で東京と書き、船で瀬戸内に消えたことにして、そのまま東海道を東へ進んでいる。
「京大の正岡先生」が浜松の貸席に居ついた
十月二十八日、静岡県浜松市。市内の貸席「ふじみ」に、黒縁の眼鏡をかけてコートを着込んだ男が投宿した。京都大学教授の正岡、と名乗った。
貸席というのは、座敷を貸して芸者や仕出しを手配する業態のことだ。切り盛りしていたのは女将の藤見ゆきさん、四十一歳。母親のはる江さん、六十一歳と暮らしていた。
男は宿の帳場からときどき電話をかけた。相手は同じ浜松市内にある静岡大学の工学部。「静岡大学の者ですが」と自分から名乗る使い方をしていたという証言もある。要するに、大学と電話のやりとりをしている姿を人に見せていた。学者らしい専門書も持ち歩いていた。
三日目には、母娘とも彼を「先生、先生」と呼ぶようになっていた。
ここで手口の話をしておきたい。ただし、手順書としては書かない。書きたくないし、書く必要もない。この男がやったことの本質は、細かいテクニックではないからだ。
彼がやっていたのは、たったひとつのことだ。その場にいる人が「疑うと失礼になる肩書き」を選んで名乗る。それだけ。大学教授、弁護士、厚生技官。どれも当時の日本社会で、庶民が正面から本人確認を求めにくい相手だった。疑うほうが恥をかく空気がある。彼はその空気に住み着いた。
だから被害者を「なぜ信じたのか」と責めるのは筋違いだ。信じるのが普通の社会だったし、いまでも構造はそんなに変わっていない。
広島でテレビ四台、徳山で二泊、そして十一月十四日の再訪
疑われる前に消える、というのは詐欺の基本らしい。彼は予定どおり「ふじみ」を出て、広島、徳山、沼津と流れていく。
広島では、養護施設や孤児院にテレビを寄付したいという名目を使った。カトリック教会の神父に紹介状を書いてもらったという話も残っている。電気店から時価二十二万円相当のテレビを引き出し、代金は払わず、そのまま質屋に入れて八万円を手にした。台数は四台とも五台とも記録されている。
徳山では東京大学教授と名乗って二泊した。ここで宿の若い女中と関係を持っている。彼女は「女将の許しを得たから」と言って部屋に来たという。
このあたりの、女性関係の記述が事件の語られ方をずっと歪めてきた。「とにかく女にモテた」という物語だ。実際、彼は獄中で書いた「罪は海よりも深し」と題する大学ノート八冊分の手記に、犯罪の裏に女あり、という言い回しを引いて、自分の場合は裏だけでなく表も横も上下も女だ、というようなことを書いている。
だが、そこに酔ってはいけない。彼が関係を持った相手は、そのまま殺される側に回っている。魅力の話ではなく、支配と使い捨ての話だ。
十一月十四日、彼は浜松に舞い戻り、また「ふじみ」に泊まる。ゆきさんは大喜びした。客室ではなく自分の居室に通し、新しい着物を用意していた。彼のために仕立てたものだったという。手記によれば、このときはもう「先生」とは呼ばれなくなっていた。
十一月十八日、貸席「ふじみ」
金が尽きた。それが引き金だった。
十一月十八日、西口はゆきさんとはる江さんを、細ひもで絞殺した。ロープと記す資料もある。
そして家の中の宝石や貴金属を持ち出し、前から目星をつけていた質屋に持ち込んで四万八千円に換えた。翌十九日には委任状を偽造し、藤見家の代理人を装って「ふじみ」の電話加入権を質屋に入れ、十万円を手にしている。当時の電話加入権は財産として扱われていたから、これも立派な現金化ルートだった。
殺害の場面をこれ以上細かく書くつもりはない。書けば読まれるのは分かっているが、二人には名前があり、この家で長く商売をしてきた生活があった。読み物としての刺激より、そちらを優先する。
遺体が発見されたのは十一月二十二日。この日、警察庁は西口彰を重要指名被疑者として特別手配することを決定した。
特別手配という切り札、そして家族に書かせた手紙
重要指名被疑者特別手配は、昭和三十一年十二月に制定された要綱にもとづく制度で、凶悪犯に再犯のおそれがあると判断された場合に指定される。警察庁が年一回行う総合手配より上位に位置づけられていた。
指定されると扱いが変わる。この事件に関する通信が、あらゆる通信に優先する。捜査費用の大半を国費で負担する。全国の警察本部に専従捜査員を置く。情報は警察庁が調整して交換する。
西口の指定は制度発足以来五番目。過去の指定は白鳥警部射殺事件、白昼連続通り魔事件、芦ノ湖殺人事件、高松露店商殺人事件だった。つまり戦後日本で五本の指に入る扱いを、この時点で受けている。
同じころ、行橋署の捜査官が大分県別府市に出向いている。西口の実家がある土地だ。捜査官は家族に自首を促す手紙を書かせ、それが全国紙に掲載された。身内の情に訴えて出頭させる、というやり方だ。
効果はなかった。というより、彼はその新聞も読んでいたはずだ。自分の名前が出ている紙面を、この男はずっと読み続けている。
教授から弁護士へ、肩書きの乗り換え
十二月に入ると、名乗る肩書きが変わる。大学教授から弁護士へ。
理由は身も蓋もない。裁判所と刑務所には、追い詰められた家族が現金を持って集まってくるからだ。
十二月三日、千葉。彼は千葉地方裁判所の建物に入り、会計課の職員だと称した。そこにいたのは、長男の交通違反の罰金を納めにきた六十一歳の母親だった。彼は六千円を受け取り、そのまま消えた。
同じころ、千葉刑務所にも現れている。窃盗罪で起訴され勾留中の息子の保釈金を用意してきた五十歳の母親から、五万円を詐取した。千葉県の弁護士会館で弁護士名簿を手に入れた、という記録もある。名簿があれば、実在する弁護士の名前を借りられる。
十二月五日、福島県常磐市、いまのいわき市。弁護士事務所に入り込んで弁護士バッジを盗んだ。あの、襟につける金色の記章だ。彼はそれを上着の襟につけた。
十二月七日、北海道沙流郡門別町。弁護士を装って洋品呉服店を訪れ、一万五千円。
十二月九日、東京都中央区日本橋兜町。証券詐欺で捕まった二十四歳の男の兄に近づき、保釈手続きの費用と称して四万円。
十二月十七日、栃木市内の旅館に弁護士として泊まり、代金七百七十円を踏み倒した。その足で市内の弁護士宅を訪ね、汽車賃を貸してほしいと言って千円を借りた。
千円。汽車賃。五人を殺している男が、同業を装って千円を借りている。
警察側は、彼の消費パターンをこう読んでいた。一日に八千円から一万円くらい使う。金がなくなると次の犯罪に着手する。それだけの生活だったと。
十二月十四日、警察庁は特別手配ポスターを配布する。枚数については五千枚とする資料と五十万枚とする資料があり、一致していない。ポスターには三枚の写真が並んでいた。左は眼鏡をはずした正面の顔。中央は眼鏡をかけた右横顔。右は眼鏡をかけた正面。人相の欄には、身長百六十五センチくらい、肩幅が広くやせ型、ちぢれ髪、二重まぶた、といった特徴が書かれていた。
この三枚組のポスターが、のちに熊本の小学生の記憶に焼き付くことになる。
十二月二十九日、雑司ヶ谷のアパート
弁護士を装って動き回るうち、彼は不満を持ちはじめる。バッジはある。名簿もある。だが訴訟書類がない。書類を抱えていれば、もっと本物らしく見えるはずだ、と。
そこで彼は東京地方裁判所に入り込み、控室で待っている弁護士たちを眺めた。そして、ひとりの老人に目をつける。
神吉梅松さん。東京弁護士会所属の現役弁護士で、検事出身。年齢は八十一歳とも八十二歳とも記録されている。
まず電話をかけた。民事事件を依頼したい、と。十二月二十九日、外で面談した。話しているうちに、神吉さんが独り暮らしであることが分かる。彼は打ち合わせを口実に、豊島区雑司ヶ谷のアパートまで同行した。
部屋に入って、殺した。背後から頭を殴り、ネクタイで首を絞めたと記録されている。奪ったのは現金と腕時計と弁護士バッジ、合わせて十四万円相当。
ここから先がいちばん薄気味悪い。
彼は遺体をタンスの中に移し、その部屋で四日間過ごした。それだけではない。その部屋にまた別の人間を呼び、五十七歳の男性から保釈金名目で現金を詐取している。東京地裁にも足を運んで、また保釈金を騙し取った。
死んだ弁護士の部屋を事務所として使い、死んだ弁護士の名義で商売をした。八十を越えた法律家の遺体が、タンスの中にあるあいだに。
年末になると東京を離れ、豊橋、名古屋に立ち寄ってから、九州を目指す。
一九六四年一月二日、玉名の寺に現れた男
熊本県玉名市。玉名温泉のそばに、立願寺という寺があった。
住職は古川泰龍さん、当時四十三歳。真言宗の僧侶で、福岡刑務所の教誨師でもあった。そして彼は、福岡事件と呼ばれる強盗殺人事件を冤罪と考え、二人の死刑囚を救う運動に自費で取り組んでいた。原稿用紙二千枚に及ぶ真相究明書を書き上げ、世に出そうとしていたころだ。免田事件の免田栄さんの支援にも関わっていたと伝えられる。
一月二日、その寺に、東京から来たという弁護士が現れた。
名乗ったのは「川村覚次」。資料によっては「川村角治」と記されている。東京の文京区在住、東京大学法学部卒。襟には弁護士バッジ。本物だ。神吉さんから奪ったものである。
男は言った。あなたの冤罪救済の活動を、東京から応援に来た。無償で引き受けたい。
古川さんは感激した。当時この運動は完全に手弁当で、法律家の支援は喉から手が出るほどほしいものだった。しかもこの弁護士は、古川さんの活動を支えている支援者たちの名前を、会話の中に自然に混ぜてくる。この人は本当に事情を知っている、と信じるには十分だった。
種明かしをすると、彼は前日のうちに古川さん宛ての年賀状を盗んでいた。差出人を読めば、誰と親しいかが分かる。逮捕後、彼のバッグからその年賀状が出てくることになる。
その晩、二人は遅くまで話し込んだ。話題は死刑論だったという。死刑制度をめぐって熱く語る自称弁護士と、死刑囚のために半生を捧げた僧侶。そういう夜だった。片方は五人を殺していた。
「お父さん、あの人、ポスターの人にそっくりよ」
その様子を、家族が見ていた。
古川さんの娘のるり子さんは小学五年生。年齢は資料によって十歳とも十一歳とも書かれている。次女とする記録が多いが、三女とする番組もあった。
彼女は男の顔を見て、はっとした。見覚えがある。どこで見たかも、すぐに思い出した。
通学路の掲示板だ。あの三枚組の指名手配ポスター。
なぜ彼女がそれを覚えていたのか。理由が切実で、そして妙にリアルだ。同級生に「西原彰」という、一字違いの名前の子がいたのである。だから毎朝、あのポスターの前を通るたびに、彼女は「西口彰」という文字を気にして眺めていた。そして写真の顔も、何十回と見ていた。
彼女は突然、家を飛び出した。走って確かめに行ったのだ。
戻ってきて、両親に訴えた。あの人は、指名手配されている西口彰にそっくりだ、と。
古川さんは取り合わなかった。お客さんに対して失礼なことを言うな、と叱ったという。
しかし彼女は引かなかった。伝えられている言葉が強烈だ。いや、あれは悪魔の使者だ。
十歳か十一歳の子が、大人相手に一歩も引かずにそう言い切った。この一言が、家の空気を変えた。
姉の愛子さんが手配書を確認しに行く。似ている。写真には、はっきりした二つのほくろがあった。資料によっては、右の額と頬に小さなあざがあると書かれていたともいう。母の美智子さんが、男の顔をそっと確認した。あった。
美智子さんは夫に伝えた。古川さんも念のため自分の目で手配書を見に行った。戻ってきて、男と会話しながら顔の特徴を照合した。
そして、話しているうちに別のことにも気づいた。ベテラン弁護士を名乗っているのに、法律の知識が素人並みなのだ。自分が卒業したという東京大学法学部の、有名な教授の名前を知らない。弁護士団体の名前を間違える。自由法曹団を「自由法曹院」と言った、という具体的な証言も残っている。
古川さんは確信する。この男は西口彰だ。
釘一本に二十分――古川家の、いちばん長い夜
ここからの古川家の判断が、この事件を語り継がれるものにした。
普通なら、すぐ警察に走る。だが古川さんはそれをしなかった。理由は二つある。
ひとつは、家族の命だ。相手は五人を殺して逃げている男である。不自然な動きを見せて気づかれたら、何をされるか分からない。
もうひとつは、家の構造だった。男に用意した部屋は窓に囲まれていて、外の見晴らしがよかった。電話で通報しても、警察が近づいてくる段階で気づかれる可能性がある。
そして三つ目に、宗教家としての判断があった。のちに語られたところによれば、古川さんはこう考えたという。自分や家族の安全よりも、この男にこれ以上罪を犯させないこと、確実に捕まえさせることのほうが大事だ、と。
だから彼は、連続殺人犯かもしれない男を、自宅に泊めることにした。眠らせてから通報する。それがいちばん安全だ、と判断したのだ。
そこから家族総出の作業がはじまる。まず、家族全員が避難できる部屋をひとつ決めて、そこに鍵を取り付ける。だが釘を打てば音が出る。
そこで妻の美智子さんが、男の話し相手になった。会話で気をそらしているあいだに、古川さんが釘を打つ。音を立てないよう、少しずつ、少しずつ。釘一本を打ち込むのに二十分かかったという。二十分後、ようやく鍵が付いた。
そのあいだ、居間では死刑論の続きが語られていたわけだ。
午後十一時すぎ。男に用意した部屋の明かりが消えた。
美智子さんと長女の愛子さんが、こっそり家を抜け出して警察へ向かった。
玉名署の一夜と、東京にいた本物の川村弁護士
ここで警察側の話をしておきたい。この夜の警察の対応は、しばしば「動きが鈍かった」と語られる。半分は当たっていて、半分は違う。
まず、時間が悪すぎた。正月二日の深夜である。玉名署は、いますぐ人数を集めるのは難しい、警察が動けるのは翌朝になる、と伝えた。
そして当時、西口の目撃情報は全国から山のように寄せられていた。特別手配された凶悪犯が新聞とテレビに大量に露出すれば、当然そうなる。似ている男を見た、という通報は毎日届く。そのすべてに即座に大部隊を出すことは物理的に不可能だった。
だが警察は、この通報を放置したわけではない。彼らはその夜のうちに、決定的な裏取りをしている。
男が名乗った「川村覚次」という弁護士は、東京に実在した。だから警察はその自宅に電話をかけた。すると、本物の川村弁護士は、その夜、東京の自宅にいた。
つまり、いま熊本県玉名市の古川家に泊まっている男は、川村覚次ではない。
これで話が決まった。熊本県警は捜査員を動員し、寺の周囲を包囲した。
ただし、すぐには踏み込まなかった。西口の行動パターンから、いますぐ寺の中で犯行に及ぶ可能性は低いと判断し、朝を待つことにしたのだ。家の中には子どもを含む一家がいる。強行突入は最悪の結果を招きかねない。この判断は、いま読んでも妥当だと思う。
古川さんにとっては、永遠に感じられる夜だっただろう。
一月三日、午前四時すぎ
夜が明ける少し前、男が起きた。
何かを感じ取ったらしい。これから福岡に出る、と言い出した。逃げるように出立しようとしたのだ。
そして家を出たところで、待ち構えていた警察官に取り囲まれた。
伝えられている彼の第一声はこうだ。弁護士の川村だ。何の用かね。
最後まで役を降りなかった。だが任意同行され、指紋を照合された時点で終わりだった。福岡県警が事件直後に押さえていた、あの車内の指紋である。
七十八日間の逃亡が終わった。七十七日と数える資料もある。数え方の違いだ。
逮捕後、警察が古川さんに伝えた話は、家族を凍りつかせた。西口の狙いは、古川さんの活動資金だった。信用させて金の在り処を把握し、折を見て一家を皆殺しにして奪い、沖縄へ逃げる計画だった、と供述したというのだ。
あの夜、るり子さんが黙っていたら。あるいは古川さんが最後まで「お客さんに失礼だ」と言い続けていたら。被害者は五人では済まなかった。
そして警察庁長官は、こういう趣旨のコメントを出した。警察官十二万人の目は、ひとりの少女の目にかなわなかった。警察の要職を歴任した高松敬治は後年の著書で、全国十三万人余りの警察官の目は幼いひとりの少女の目に及ばなかった、と書いている。数字が十二万と十三万で揺れているのは、資料の年次の違いだろう。趣旨は同じだ。
証言その一――浜松の宿で「先生」と呼んだ人たち
ここからは、事件を外側から見ていた人たちの記録を、いくつか厚めに紹介したい。
まず、浜松の貸席「ふじみ」の周辺だ。この宿の母娘がどう男を受け入れていったかは、皮肉なことに、加害者本人の獄中手記に細かく残っている。信用できるのかという問題はある。自分を主人公にした語りだからだ。それでも、当時の宿の空気は伝わってくる。
彼は書いている。ふじみでは京都大学の正岡と名乗り、いつものように旅館からしばしば静岡大学へ電話をかけて装った。三日目には女将も母親もすっかり信用して、先生、先生と呼んだ。最初の日に女の子を頼み、翌日も同じ子を頼んだ。三日目には女将のほうから、もっといい子がいますよ、と勧めてきた。そして次の日、自分が女将のそばを通ると、こう言われた。先生、あしたは女の子を呼ばないで、いっしょに映画に行きましょう。
さらに再訪したときのことも書いている。ゆきさんは客室ではなく居室に案内して、新しい着物を着せてくれた。自分のために仕立てたものだった。二人とももう自分を先生とは呼ばず、ふとんは彼女の部屋に敷いてくれた。
読んでいて胃が重くなるのは、この文章に一片の後ろめたさもないことだ。彼はこれを「もてた」話として書いている。相手を殺したあとに、である。
同時に、この記述は当時の商売宿の現実も映している。地方都市の貸席は、客の身元を照会する仕組みなど持っていない。名乗った肩書きと立ち居振る舞い、そして「大学に電話している姿」だけで判断するしかなかった。だます側にとって、これほど都合のいい環境はない。責められるべきは宿ではなく、それを狙った男のほうだ。
証言その二――毎朝ポスターを見ていた子ども
二つめは、逮捕の決め手になった少女の側の話だ。
彼女がなぜあの写真を覚えていたのか。何度でも書きたいのは、それが「勘が鋭かったから」ではないという点である。理由はきわめて具体的だった。
同級生に、西口彰と一字違いの名前の子がいた。西原彰。子どもというのは、そういう偶然の一致にやたら反応する。だから彼女は登校のたびに、掲示板の手配書を「知ってる名前に似てる人だ」という目で眺めていた。名前を見て、顔を見て、また名前を見る。それを何十日も繰り返した。
大人はポスターの前を通り過ぎる。子どもは立ち止まる。この差だ。
そして家に来た男を見た瞬間、彼女の中で照合が起きた。顔立ちだけではない。写真にあった二つのはっきりしたほくろまで同じだった、と伝えられている。
彼女は走って確かめに行き、戻ってきて両親に訴えた。叱られても引き下がらなかった。あれは悪魔の使者だ、という言葉が、大人の側の「まさか」を破った。
のちのテレビ番組で、姉の愛子さんが西口の泊まった部屋を案内している。るり子さん本人はほとんど公の場に出ていない。それは当然だと思う。あの夜、彼女が味わったのは武勇伝ではなく、家族全員が殺されるかもしれないという恐怖だ。この記事でも、彼女や家族の現在について詮索するつもりはない。事件の中で彼女がしたことの重みだけを書けば十分だ。
証言その三――拘置所で同じ時期を過ごした人
三つめは、まったく違う角度からの証言だ。
免田栄さん。一九四八年の熊本の一家殺傷事件で死刑が確定し、六度目の再審請求でようやく無罪を勝ち取った人である。日本で初めて、死刑確定者が再審で無罪になった事件の当事者だ。
その免田さんが、福岡拘置所で同時期に収監されていた西口を見ていた。
免田さんがテレビの取材で語ったところによれば、西口の最期は潔かったという。死刑執行を前に、自分が最後に着る服を自分で作るなど、準備を冷静に進めていた。免田さんが三十四年間を獄中で過ごすあいだに見た中で、いちばん立派な最期だった、と。
この証言をどう受け止めるかは、正直むずかしい。獄中で静かに死を受け入れたことと、五人を殺したことは、まったく別の帳簿に載る話だ。潔かったから何かが差し引かれるわけではない。
それでも、この証言には妙な重さがある。無実の罪で三十四年を奪われた人が、五人を殺した男の最期を「立派だった」と語っている。死刑という制度の下では、無実の人も真犯人も同じ房の並びにいた。古川泰龍さんが生涯かけて訴え続けたのは、まさにそこだった。
証言その四――「悪魔の申し子」と呼んだ法廷
四つめは、法廷での言葉だ。
西口は殺人五件、詐欺十件、窃盗二件で起訴された。詐取した総額はおよそ八十万円と集計されている。
検察は論告で彼をこう形容した。史上最高の黒い金メダルチャンピオン。翌年に東京オリンピックを控えた時期の、いかにも当時らしい言い回しだ。
そして一九六四年十二月二十三日、福岡地方裁判所小倉支部。求刑どおり死刑判決。判決文の中で彼は「悪魔の申し子」と呼ばれた。
捜査関係者のあいだで注目されたのは、彼が犯罪類型の常識を壊したことだった。それまで詐欺のような知能犯と、殺人のような強力犯は、別種の人間がやるものだと考えられていた。頭を使う犯罪者と、暴力を使う犯罪者。西口はその両方を軽々とまたいだ。
しかも、老人でも女性でも平気で殺すのに、奪う金は数千円から十数万円という規模だ。割に合わない。合理性がない。
取調室で彼が漏らしたとされる言葉が、これまた気持ち悪い。詐欺というのはしんどいね。やっぱり殺すのが、いちばん面倒がなくていいよ。
面倒がない。人を殺すことについて、この男はそういう語彙を使った。
精神鑑定は必要だったのか――弁護側の三つの主張
裁判の最大の争点は、精神鑑定だった。
一審で弁護側は精神鑑定を請求したが、退けられている。判決後の一九六五年一月五日、弁護側は控訴し、理由を三つ挙げた。
第一に、これほど犯罪史上まれな凶悪事件を起こしたのは異常性格によるものであり、一審が精神鑑定の請求を退けたのは訴訟手続き上不当である。
第二に、死刑は国家の名による殺人であり憲法違反の疑いもあるから慎重でなければならないのに、犯行当時に心神耗弱状態で責任能力のなかった被告人に死刑は重すぎる。
第三に、連続殺人の起点となった行橋事件の動機について、一審の考察は不十分で、被告人に不利な点だけが採用されている。
裁判長は精神鑑定の請求をいったん保留にし、三つめの点に関する証人として、西口と最後に交際していた行橋市の理容師の女性を呼ぶことを決めた。
一九六五年七月十日、福岡高裁の控訴審第二回公判。保留になっていた精神鑑定について、合議のうえで判断が示された。供述態度および内容から判断して、犯行当時に心神耗弱でなかったのは明らかである。却下。
八月二十八日、福岡高裁は一審判決を支持して控訴を棄却した。理由の中でこう述べている。西口は欲望の表し方などに若干の異常が見られ、情操の欠如は認められるが、刑法上、責任能力を減少させるほどのものではない。犯罪のやり方は残忍で、被告人に有利な証拠一切を考慮に入れても死刑は相当である。
ここは慎重に書きたい。
まず前提として、精神疾患があることと危険であることはまったく別の話だ。精神疾患のある人の圧倒的多数は誰も傷つけない。むしろ被害を受ける側に回ることのほうが多い。だから「異常だから精神鑑定」「精神鑑定だから減刑」という乱暴な連想はしてはいけないし、当時の弁護側の主張の立て方も、いまの目で見れば粗い。
そのうえで、手続きの問題としては議論の余地がある。責任能力の判断は、行為時の精神状態を医学的知見をふまえて評価するものであって、「供述が理路整然としているから正常」で片づけられるほど単純ではない。現在の実務では、犯行前後の生活状態、動機、態様などを総合して判定すべきだという考え方が定着している。当時の福岡高裁の判断は、その総合判断の入り口を鑑定なしで閉じたことになる。
弁護人が最高裁に提出した上告趣意書には、こうある。原判決は絞首刑であり、これは憲法第十三条および第三十六条に違反する。死刑は残虐であり、無期懲役で充分と思料する。およそ、この主張をしない弁護人は存在しないといえる。また、犯行の原因と結果は、通常人では理解できない。原審における精神鑑定の却下は、きわめて遺憾である。
犯行の原因と結果は、通常人では理解できない。この一文が、事件のいちばん奥にある不気味さを言い当てている。動機が金だとしても、金額と殺害数がまるで釣り合わない。何を得ようとしていたのかが、最後まで説明されないままなのだ。
八月十五日に上告を取り下げた男
一九六六年八月十五日、西口は上告を取り下げた。死刑が確定する。
なぜ八月十五日だったのか。終戦記念日と結びつける見方が当時からあったが、本人は否定していた。終戦を彼は刑務所の中で迎えている。
知人に宛てた手紙で、彼は理由をこう説明している。聖フランシスコ・ザビエルが伝道のために発ったのが一五四九年八月十五日であり、もっと大きな意味を持つのは聖母被昇天が八月十五日、すなわち聖母マリアが天の御国へ還られた日だから、この被昇天祭はカトリックにとってクリスマスと並ぶ大きな祝いにあたる、と。
彼は長崎県五島列島にルーツを持つカトリックの家に生まれ、幼くして洗礼を受けている。父は彼を司祭にしたがった。中学から福岡のミッションスクールの寮に入れられ、戒律の厳しい生活に耐えられず三年で中退した。そこから十六歳で最初の逮捕。以後二十年、窃盗と詐欺と恐喝を重ね、刑務所の内と外を往復し続けた。
信仰の言葉を、自分の死のタイミングを飾るために使う。彼のやってきたことの縮図みたいな話だ。
一九七〇年十二月十一日、福岡拘置所で死刑が執行された。四十四歳。最後に残した言葉は、遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン、だったと伝えられている。
佐木隆三が八百枚で書き直した事件
事件から十一年後の一九七五年、講談社から一冊の本が出る。佐木隆三『復讐するは我にあり』。上下巻、原稿用紙にして八百枚を超える長編だ。翌年、第七十四回直木賞を受賞する。
佐木は八幡製鉄所で働いたのち作家になった人で、この作品ではトルーマン・カポーティの『冷血』を強く意識していた。膨大な調書と公判記録を読み込み、事件関係者に執拗に聞き込みをして、作家の想像をできるだけ排除する。事実に語らせる。そういう方法だった。
タイトルは新約聖書のローマの信徒への手紙第十二章十九節から取っている。愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せよ。復讐するは我にあり、我これに報いん。ここでいう「我」は神だ。復讐は人がするものではない、という意味である。
佐木自身は、この題を選んだ理由をこう説明していた。主人公を肯定も否定もしたくない。こういう男がいたことを調べた、という気持ちを込めた、と。
直木賞の選考も割れている。水上勉は、調書を手がかりに傍証また傍証を重ねる執拗な眼と足の延びに感嘆した、現代小説の新しい試みとして成功している、と絶賛した。源氏鶏太も、仕事が終始丁寧で犯行当時の経緯を見事に再現している、と評価した。石坂洋次郎は最初から最高点をつけていたと書いている。
一方で柴田錬三郎は真っ向から否定した。ノンフィクション・ノベルという奇妙なジャンルがあるらしいが、そんなジャンルを認めることのばかばかしさが先に立つ。犯行のありさまと逃亡経過を丹念にたどったところで、それは小説のリアリティにはならない、と。
いま読むと、この論争そのものが面白い。実在の事件を素材に文学を作ることの是非は、五十年経ってもまだ決着していないからだ。
作中で西口彰にあたる人物は「榎津巌」という名前になっている。俺は千一屋だ、千に一つしか本当のことを言わない、と豪語する男。この台詞、実は西口が服役中にムショ仲間に語っていた言い回しがもとになっている。
今村昌平の映画が、事件像を上書きした
一九七九年四月、映画『復讐するは我にあり』が公開される。監督は今村昌平。主演は緒形拳。父親役に三國連太郎、妻役に倍賞美津子、浜松の女将にあたる役に小川真由美。上映時間百四十分。
この映画には制作前から一悶着あった。原作の映画化権をめぐって、黒木和雄、藤田敏八、深作欣二、そして今村昌平が競合したのだ。しかも佐木が口約束で複数の監督に承諾を与えてしまったせいで大揉めになった。文書契約がなかったのである。最終的に、一番遅く正式に申し込んだ今村が権利を取った。
今村にとっては、一九六八年の『神々の深き欲望』以来、およそ十年ぶりの劇映画だった。その『神々の深き欲望』の長期撮影がたたって今村プロダクションは二千万円の負債を抱え、以後テレビのドキュメンタリーで食いつないでいた。つまりこれは崖っぷちの復帰作だ。
結果は圧勝だった。キネマ旬報ベストテン一位。ブルーリボン賞作品賞。日本アカデミー賞最優秀作品賞。配給収入六億円。松竹作品としては、その年の『男はつらいよ』二本に次ぐ三位の成績。今村プロは負債を返済し、次作の制作にゴーサインが出た。
今村のこだわりは徹底したロケだった。三分の二をロケで撮り、残りが浜松のセット。福岡の殺害現場や東京のアパートも、実際の現場周辺で撮っている。ただし弁護士殺害のアパートについては、実際に殺人があった部屋そのものではなく、その向かいの部屋で撮影したと伝えられている。
映画は圧倒的に強い。強すぎる。人を殺して血だらけになった手を自分の小便で洗い、目の前の柿をもぎって齧りつく。しかもその柿が渋柿だ。そういう場面の積み重ねで、観る側の倫理感覚をぐしゃぐしゃにしてくる。ポン・ジュノが影響を公言している、というのも納得の一本だ。
ただし、榎津巌は西口彰ではない
ここが大事なところだ。
映画で描かれる主人公像は、原作からもさらに一歩踏み込んで作り込まれている。父親との確執。父と妻の関係を疑う嫉妬。カトリック信仰と原罪。ラストで父親が息子の遺骨を空に投げるあの有名な場面も、実際の事件にそのままあったことではない。
映画の中では、女将が映画館のニュース映画で指名手配写真を見て正体を知り、それでも惚れているから匿う、という展開になっている。実際の浜松では、女将が正体を知った形跡はない。
そして何より、逮捕の顛末が違う。映画では売春婦の目撃がきっかけになる。実際は、熊本の寺にいた小学五年生だ。
つまり、多くの人が「西口彰事件」として記憶しているイメージは、かなりの部分が佐木の再構成と今村の演出でできている。父親との相剋も、原罪の主題も、作品の骨格であって事件の骨格ではない。
これは作品の欠陥ではない。文学と映画は、そういうことをするためにある。ただ、実際の事件を語るときには、いったん映画を頭から追い出す必要がある。実際の西口彰は、もっと即物的で、もっと退屈で、もっと薄気味悪い。金がなくなると人を殺し、また名刺を刷り直すみたいに肩書きを替える。そこに壮大な原罪の物語はない。
ちなみに松竹は、事件直後の一九六四年にも映画化を計画していた。仮題は『国民の目』。だが西口の家族から反対意見が出て、法務省人権擁護局からも制作を控えてほしいという要望書が出され、同年二月十六日に断念を発表している。事件が生々しすぎたのだ。作品として消化されるには、十年以上の時間が必要だった。
制度が変わった――広域重要指定事件の誕生
この事件がいちばん具体的に残したものは、たぶん作品ではなく制度だ。
昭和三十年代、日本ではモータリゼーションが一気に進んだ。道路が整備され、車が増え、人の移動範囲が広がった。当然、犯罪も広域化する。犯人が犯行地から遠く離れた土地へ逃げる、という事態が普通になった。
ところが警察の組織は都道府県単位だ。しかも当時は各県警のあいだに縄張り意識が強く、情報共有がうまくいかない。西口が九州から関西、東海、関東、東北を経て北海道まで行き、また九州へ戻ってくるあいだ、彼を追う体制は県境ごとに細切れになっていた。
すでに手は打たれつつあった。一九五六年に犯罪手口資料取扱規則、翌五七年に犯罪捜査共助規則が制定され、都道府県警察相互の協力関係が定められている。特別手配の制度も一九五六年からあった。
だが西口事件は、それでも足りないことを見せつけた。
そこで一九六四年四月十三日、警察庁は「広域重要事件特別捜査要綱」を策定する。これにより、広域捜査を必要とする重要事件を警察庁が指定事件として指定し、警察庁の調整のもと、国が予算を出して関係都道府県警察が特別捜査を行う仕組みができた。世に言う警察庁広域重要指定事件である。
警察庁自身が後年の白書で、この要綱制定の契機を「広域にわたる連続強盗殺人事件、いわゆる西口事件」と明記している。手前味噌ではなく、公的な総括としてそう書かれているわけだ。
指定番号は百一号から始まる。第一号にあたる百一号は一九六四年五月十五日指定の連続学校金庫破り事件。以後、百五号が古谷惣吉連続殺人事件、百八号が永山則夫連続射殺事件と続く。永山事件と言えば死刑基準の「永山基準」で知られるが、その事件が広域指定の枠組みで捜査されたのは、西口事件の反省があったからだ。
制度はその後も改定されていく。一九七四年に「広域重要捜査要綱」へ移行して指定対象を社会的反響の大きい凶悪または特異重要の事件に絞り、一九八一年には準指定制度が加わった。一九九四年の警察法改正では、合同捜査の際に関係都道府県警察の指揮権を一元化できるようになる。この長い流れの出発点に、あの七十八日がある。
ついでに書いておくと、同じ一九六三年には東京の吉展ちゃん事件と埼玉の狭山事件も起きている。どちらも犯人と接触する機会がありながら取り逃がし、被害者が殺害された。警察への批判はすさまじく、同年に刑事警察強化対策要綱が作られた。一九六三年という年は、日本の警察が刑事捜査のやり方を根っこから作り直さざるを得なくなった年なのだ。
指名手配の運用は何を突きつけられたか
もうひとつ、この事件は指名手配というものの限界を露呈させた。
新聞に顔写真が出た。テレビでも流れた。ポスターも全国に配られた。露出量だけ見れば、当時としては最大級の公開捜査だ。
なのに捕まらなかった。それどころか、彼は指名手配されている自分の顔写真が貼られた町を、平然と歩き回っていた。裁判所にも刑務所にも入っている。警察署のすぐそばで詐欺を働いた日もある。
理由のひとつは、情報の洪水だ。顔写真が全国に出れば、似ている人を見たという通報が毎日大量に届く。当時は照合の手段が人力しかない。すべてに捜査員を割くことはできず、優先度をつけるしかない。結果として、本物の情報が偽物の山に埋もれる。
そしてもうひとつ。人は「文脈」で人を見ている、という単純な事実だ。
町を歩く見知らぬ男を、人は手配写真と照合しない。だが目の前の男が弁護士バッジをつけて弁護士だと名乗り、こちらの事情を知っていて、支援を申し出てくれるなら、その男は「弁護士」というラベルの箱に入る。いったん箱に入ったものを、人はもう一度取り出して検分したりしない。
古川泰龍さんですら、そうだった。手配写真を何度も見ていたはずの人が、目の前の男と結びつけられなかった。娘に指摘されて初めて、箱から取り出して見直したのだ。
この点で、るり子さんの目が特別だったのは、彼女がまだ「肩書き」という箱を持っていなかったからかもしれない。弁護士が偉いとか、大人の客に失礼だとか、そういうフィルターが薄い。彼女はただ、顔とポスターを比べた。それだけだ。
以後、警察は公開捜査の運用に少しずつ手を入れていく。現在の被疑者の公開捜査に関する通達では、公開の要件が細かく定められ、被疑者本人だけでなく被害者や関係者の名誉やプライバシーへの配慮も明文化されている。写真だけでなく似顔絵や防犯カメラ画像、音声の活用も想定されている。手配書は全警察官に携帯させることになっている。あの時代の反省が、条文の細かさとして残っている。
それでも解けない問い――なぜ七十八日も逃げられたのか
ここまでの材料を並べて、いちばんの問いに戻る。名前も顔も割れていた男が、なぜ七十八日ももったのか。
ひとつめは、逃げなかったから、だと思う。
普通の逃亡犯は隠れる。山に入る、簡易宿泊所に潜る、人に会わないようにする。西口は逆をやった。人前に出て、名乗って、話しかけた。旅館に泊まり、裁判所に入り、寺に泊まった。隠れている人間を探す網には、堂々としている人間はかからない。
ふたつめは、警察の想定を外し続けたこと。関西に逃げたという報道を聞いて九州に留まる。東京と書いた手紙を佐賀から出す。瀬戸内で死んだことにしてから東海道を東へ行く。彼は捜査側の予測を読んでいた。読めたのは、捜査状況が新聞とラジオで流れていたからだ。公開捜査は諸刃の剣だという、いちばん苦い教訓がここにある。
みっつめは、県境。事件は福岡、佐賀、静岡、広島、山口、千葉、東京、福島、北海道、栃木、愛知、熊本にまたがった。捜査の主体は福岡県警だ。他県で起きた詐欺の断片は、それぞれの県で処理される。点と点が結ばれるまでに時間がかかる。その隙間で彼は生きていた。この隙間を埋めるために作られたのが、さっきの広域重要指定事件の制度である。
よっつめは、彼が「疑いにくい肩書き」を選び続けたこと。大学教授と弁護士。どちらも当時、庶民が本人確認を求めるのが心理的に難しかった相手だ。
いつつめ。これがいちばん厄介なのだが、彼には長期的な計画がなかった。今日の宿代と明日の遊び代が尽きたら次をやる。それだけの行動原理は、パターン分析を無効化する。目的から逆算する捜査が効かないのだ。
そして最後に、運。これは認めるしかない。捜査員とすれ違ってもおかしくない場面は何度もあったはずだ。
ただ、この六つを全部足しても、七十八日という数字は説明しきれない気がする。結局のところ、あの時代の日本社会が、名乗った肩書きをそのまま信じる社会だったということに尽きる。彼はその信頼を食って移動した。信頼は社会の潤滑油であって欠陥ではない。だから同じ手口は、形を変えていまも通用してしまう。
事件のあと――古川泰龍が選んだこと
事件のあと、古川家は一躍時の人になった。メディアが押し寄せ、勇気ある決断として賞賛された。
だが古川泰龍さんが本当にやったのは、その先だ。
彼は死刑確定後も、西口と手紙のやりとりを続けた。書物も差し入れた。犯罪者は心の病気だ、という信念があったという。罪を憎んで人を憎まず、という言い方をしていたとも伝えられている。自分と家族を皆殺しにする計画を立てていた男に、である。
それだけではない。彼は西口の家族にも手を差し伸べた。息子の学費援助まで申し出ている。
そして、るり子さん自身も西口の息子と文通していた。残っている抜粋は、たまらないほど子どもの手紙だ。お元気ですか。私は今カゼをひいています。私達いつまでもなかよくしましょうね。返す側はこう書いている。僕は一生懸命に頑張ろうとファイトを燃やしています。るり子ちゃんも、お体をお大事になさって下さい。
西口の息子は、一時グレてしまったという。世間の風当たりを思えば当然だ。そのとき西口は獄中から二十通もの手紙を書いて、息子を思いとどまらせたと伝えられている。
古川さんは一九六九年にアルベルト・シュバイツァーの遺髪を授かり、一九七三年に玉名で「生命山シュバイツァー寺」を開山した。一九八一年からは産業医科大学で、仏教的観点から「死学」の講義を始めている。一九八六年には、この寺で暮らしたイタリア人神父との対話からカトリックの別院を設けた。真言宗の寺にカトリックの別院である。いま、その場所は諸宗教対話センターと名を改めている。
福岡事件の再審運動は最後まで実らなかった。一九七五年六月十七日、法務省は突然、死刑囚のひとりに恩赦を与えて無期懲役に減刑し、同時にもうひとりの死刑を執行した。事件から二十八年後の、唐突な執行だった。減刑された側が仮出所したのは一九八九年十二月八日。逮捕から四十二年七か月ぶりだった。
古川さんは二〇〇〇年八月二十五日に亡くなっている。八十歳だった。福岡事件の再審請求は、いま子どもたちが引き継いでいる。
死刑囚に寄り添い、冤罪を訴え、そして自分を殺そうとした死刑囚にも同じように寄り添った。この人の一貫性は、正直、常人の理解を超えている。事件のいちばん怖い場面のすぐ隣に、こういう人がいたということは、記録しておく価値がある。
私たちが覚えているのは、事件ではなく映画かもしれない
さて、ここからは総括と、書ききれなかった考察を厚めに置いておきたい。
まず、この事件を語るときに毎回起きるねじれについて。
西口彰事件は、犯罪史の事件でありながら、日本ではほとんど「物語」として流通してきた。直木賞と映画賞の総なめという、あまりに強い上書きを受けたからだ。結果として、事件を検索した人がまず出会うのは、緒形拳の顔と、渋柿を齧る場面と、遺骨を投げる父親になる。実際の被害者五人の名前より先に、俳優の名前が来る。
これは悪意でも怠慢でもなく、単に作品が強すぎたということだ。だが、そのせいで見えなくなったものはある。
たとえば、村田幾男さんと森五郎さんという二人の名前。たばこの集金という、地味で誠実な仕事を毎日していた人たちだ。前日の朝から回り、得意先で夕食をごちそうになり、そこを出て、帰らなかった。二人が乗っていたトラックは、いま日本たばこ産業と呼ばれる組織の前身が委託していた車だった。
藤見ゆきさんとはる江さん。母娘で浜松の貸席を切り盛りしていた。娘が四十一歳、母が六十一歳。二人は「先生」と呼んだ客を信用した。信用したことは罪ではない。
神吉梅松さん。検事を務め、八十を越えてなお現役の弁護士だった人だ。民事事件を依頼したいという電話を受けて、律儀に会いに行った。そして、遺体はタンスに入れられた。八十年生きて積み上げてきたものが、十四万円相当の金品と引き換えにされた。
この五人がどういう人だったかを、事件の骨格として置き直す。それがこの記事で一番やりたかったことだ。
次に、「なりすまし」という現象そのものについて。
西口の詐欺は、技術としてはたいしたものではない。バッジを盗み、名簿を盗み、年賀状を盗み、専門書を持ち歩き、それらしい電話をかける。それだけだ。突飛な発明は何もない。
彼が突出していたのは、むしろ「役に入りきる度胸」のほうだった。逮捕の瞬間まで、弁護士の川村だ、何の用かね、と言い切っている。あの状況で。
ここに、なりすまし詐欺の本質がある。だます側が用意するのは書類でも道具でもなく、「疑うと自分が損をする状況」だ。疑えば失礼になる。疑えば助けてくれる人を追い返すことになる。疑えば恥をかく。その圧を作られると、人間はチェックをやめる。
現代の特殊詐欺やなりすまし詐欺の研究でも、権威と正当性の演出、感情への訴えかけ、恥の感情の利用、時間的な切迫感といった要素が繰り返し指摘されている。西口がやっていたことは、名称が違うだけで同じ構造だ。六十年前の手口が古びていないのは、狙われているのが技術の穴ではなく、人間の社会性の穴だからである。
だから対策も、当時とそんなに変わらない。肩書きを名乗る相手に対しては、その肩書きを別ルートから確認する。相手がその場で完結させたがるほど怪しい。この当たり前のことが、いまも難しい。玉名署がやったのは、まさにそれだった。名乗った弁護士の自宅に電話をかけた。それだけで嘘は崩れた。
三つめ。逮捕のきっかけをめぐる語り方について。
「十歳の少女が見破った」というフレーズは、あまりにキャッチーだ。実際、当時から警察庁長官が十二万人の目が少女の目に及ばなかったと言い、以後六十年、この言い回しが繰り返されてきた。
でも、この語り方はちょっと不正確だと思っている。
あの夜に起きたのは、少女の直感が奇跡的に当たった、という話ではない。少女が具体的な観察を持ち出し、姉が確認し、母が男の顔を見て裏を取り、父が会話の内容から矛盾を洗い出し、警察が実在の弁護士に電話をかけて確定させた。五段階の検証だ。
そして、いちばん難しかったのは最初の一歩ではなく、二歩目だった。子どもの言うことを大人が本気で聞くかどうか。古川さんは最初、失礼だと叱っている。そこで話が終わっていた家庭のほうが、たぶん多い。
るり子さんが引き下がらなかったことと、古川さんが自分の判断を撤回できたこと。この二つが揃って初めて検証が進んだ。子どもの言い分を捨てなかった大人、という点で、あの家はやはり特殊だったのだと思う。
四つめ。あの夜の判断の危うさについても、正直に書いておきたい。
殺人犯かもしれない男を自宅に泊める。家族全員を一部屋に集めて、内側から鍵をかける。父親は別の部屋にいる。妻が犯人の話し相手をして、そのあいだに釘を打つ。
美談として語られてきたが、これは相当に危険な賭けだ。もし途中で気づかれていたら、あの家で何が起きたか分からない。いま同じ状況に置かれた人に、これを勧めることは絶対にできない。現代なら、家を出られるなら出て、離れた場所から通報するのが基本だろう。
古川さんがそれを選ばなかった理由は、家の構造と、宗教家としての信念にあった。窓に囲まれた部屋にいる男に、近づく警察が見えてしまう。そして何より、この男にこれ以上罪を犯させたくない、確実に捕まえさせたい、と考えた。自分たちの安全より、それを優先した。
その判断を美談として消費するのは簡単だが、あの家族が背負ったリスクの実際を思うと、簡単に「感動」と書きたくはない。翌朝までの数時間、家族はどんな気持ちで天井を見ていたのか。それを想像するほうが、たぶん誠実だ。
五つめ。精神鑑定をめぐる論点を、もう少し引き延ばしたい。
一審も控訴審も、精神鑑定を実施しなかった。控訴審は、供述態度と内容から判断して犯行当時に心神耗弱でなかったのは明らかだ、と述べている。
現在の実務感覚からすると、この理由づけは相当に薄い。責任能力の有無や程度は、犯行当時の状態、犯行前の生活状態、動機、態様などを総合して判定すべきだというのが、その後に確立していく考え方だ。「話し方が理路整然としている」ことは、その総合判断の材料のひとつにすぎない。
とはいえ、鑑定をしていれば結論が変わったかというと、それはまったく別の話だ。彼の行動は一貫して目的合理的である。金がほしい、だから奪う。邪魔だ、だから消す。追われている、だから偽装する。そこに現実認識の破綻はない。鑑定をしても、責任能力を否定する結論には至らなかった可能性が高いと思う。
問題は結論ではなく手続きだ。争点として正面から出されたものを、鑑定なしで否定した。だから遺族の側から見ても、事件を理解したい社会の側から見ても、「なぜこの男はこうなったのか」という問いに答える資料が、ついに作られなかった。上告趣意書にあった「犯行の原因と結果は、通常人では理解できない」という嘆きは、そのまま残された。
いま西口彰をサイコパスと呼ぶ人は多い。冷淡さ、良心の呵責のなさ、表面的な魅力、他者を道具として扱う態度。確かに当てはまりそうな特徴は並ぶ。だがそれは事後の当てはめであって、診断ではない。本人が生きているあいだに専門家が体系的に調べた記録は、存在しないのだ。
六つめ。この事件が犯罪類型に与えた衝撃について。
当時の捜査関係者がいちばん動揺したのは、知能犯と強力犯の境界が壊れたことだった。詐欺師は暴力を使わない。それが常識だった。だから詐欺師の前科がある男が、いきなり五人を殺すという事態に、捜査の勘が追いつかなかった。
しかも彼は、詐欺と殺人を状況に応じて使い分けている。金が要る、詐欺で足りる、なら詐欺。詐欺では足りない、相手が邪魔、なら殺す。取調室で漏らしたという、詐欺はしんどい、殺すのが一番面倒がなくていい、という言葉は、その使い分けが完全にコスト計算になっていたことを示している。
この「手口の連続性」という発想は、その後の捜査に受け継がれた。前科の罪名だけで人物像を固定しない。手口の背後にある行動原理を見る。犯罪手口資料の運用が強化されていった背景には、こういう反省がある。
七つめ。作品化が事件像を決定づけることの、功と罪について。
『復讐するは我にあり』がなければ、この事件はここまで記憶されなかった。それは間違いない。佐木の徹底した取材と今村の演出は、事件を日本の戦後史の中に埋め込んだ。
一方で、事件像は変形した。榎津巌には父との相剋と原罪があり、西口彰には金の切れ目があった。作品が与えた「意味」は、事件そのものにはなかったものだ。
これは実話犯罪ものの永遠のジレンマでもある。人は意味のない暴力に耐えられない。だから物語は意味を与えようとする。そして意味を与えられた瞬間、その事件は少しだけ理解可能なものになり、少しだけ嘘になる。
柴田錬三郎の批判は、意地悪に見えて、実はこの問題を正面から突いていた。犯行と逃亡をどれだけ丹念にたどっても、それは小説のリアリティにはならない、と彼は言った。裏を返せば、小説のリアリティを与えた瞬間、それは事件のリアリティではなくなる、ということでもある。
だから両方読むしかない。作品を読み、そのあとで記録に戻る。この記事が少しでもその「戻る」作業の役に立てばいいと思う。
八つめ。一九六三年という年について。
この年、日本のテレビ受信契約は千五百万件を突破し、世帯普及率は七割を超えた。紅白歌合戦が視聴率八十一パーセントを記録し、鉄腕アトムの放送が始まり、大河ドラマが始まった。十一月には日米間のテレビ宇宙中継実験が成功し、その最初の映像がケネディ暗殺のニュースだった。十二月には力道山が刺された。
つまり、テレビが「全国民が同じ映像を同時に見る装置」になった最初の年だ。西口の顔写真が全国に流れたのは、その装置が完成した直後だった。
にもかかわらず、捕まえたのは装置ではなく、町内の掲示板に貼られた紙のポスターと、それを毎朝見ていた子どもだった。
これは象徴的だと思う。マスメディアは情報を広く薄く行き渡らせる。だが「照合」という作業は、結局その場にいる個人の頭の中でしか起きない。情報がどれだけ流れても、目の前の人間と結びつける誰かがいなければ、意味を持たない。
いまは防犯カメラも顔認証もある。それでも構造は変わっていない。装置が候補を出し、最後に「これだ」と言うのは人間だ。
九つめ。最後に、この事件をどう記憶すべきかについて。
西口彰は有罪が確定し、刑も執行されている。だから彼のしたことは事実として書ける。書いていい。ただし、彼を「稀代の知能犯」として面白がる語り方には、ずっと引っかかりがある。
彼は天才ではなかった。盗んだバッジをつけ、盗んだ名簿を持ち、盗んだ年賀状で人間関係を調べただけだ。詐取した金は七十八日で八十万円。一日一万円ほどの暮らしのために、五人が死んだ。
そして最後は、東大法学部卒を名乗りながら有名教授の名前を答えられず、自由法曹団を言い間違えて、小学五年生に見破られた。知能犯としては、むしろ粗い。
彼が持っていたのは知能ではなく、他人への無関心だった。信じてくれる人を、信じてくれるという理由で消費する。その一点だけが徹底していた。
だから、この事件から持ち帰るべき教訓は「賢い犯罪者に気をつけろ」ではないと思う。むしろ逆だ。人を信じる能力は社会の基盤であって、それ自体は正しい。ただ、肩書きは自称できる。自称できるものは、別ルートで確かめられる。それだけの話だ。
そして、大人が子どもの「なんか変」を最後まで聞く。あの夜、それができた家があったから、六人目の被害者は出なかった。
七十八日の逃走を終わらせたのは、捜査本部でも、テレビでも、新聞でもなかった。通学路のポスターを毎朝見ていた子どもの記憶と、それを叱ったあとで撤回できた大人の柔らかさ。この二つだ。
制度は変わった。広域捜査の仕組みができ、公開捜査の運用も整備された。それでもいちばん最後に効いたのが、そういう人間くさい部分だったというのが、この事件がいまだに語られる理由なのだと思う。
亡くなった五人と、その遺族に、あらためて。
