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西鉄バスジャック事件――「ネオむぎ茶」を名乗った十七歳と、誰にも読まれなかった犯行予告

昼過ぎに出た路線バスが、翌朝には全国生中継の的になっていた

二〇〇〇年五月三日、ゴールデンウィークのど真ん中。佐賀の街をいつも通りの時刻に出発した高速バスが、その日の深夜には広島県の山あいのサービスエリアで、報道各社のカメラの砲列に囲まれていた。

カーテンの閉まった車内には、刃物を持った十七歳の少年と、逃げることも眠ることもできない乗客たち。走った距離はおよそ二百七十キロ、時間にして十五時間半。日本のバスジャック事件で初めて人質が亡くなった夜であり、日本の警察が人質事件で初めて閃光音響弾を投げ込んだ夜でもあった。

そしてこの事件には、それまでの凶悪事件になかった要素がひとつくっついていた。インターネットの掲示板だ。

事件当日の昼、バスが佐賀を出発するより前の時間に、当時まだ一般にはほとんど知られていなかった掲示板に、地名と年齢だけを並べたスレッドが立っていた。立てたのは「ネオむぎ茶」と名乗る書き手だった。この一件をきっかけに、掲示板の名前は一夜にして全国区になり、「ネットに犯行予告が書かれていた」という物語が日本社会に初めてインストールされることになる。

ここから先は、その十五時間半をできるだけ細かく追いながら、掲示板に何が書かれていたのか、それは本当に予告だったのか、少年はどこで折れてしまったのか、そして四半世紀たった今もなぜこの事件が語り継がれるのかを、順番にほどいていく。

刺激的な部分をなぞるだけの話にはしたくないので、生々しい手口の描写は意図的に避ける。代わりに、車内で人と人のあいだに何が起きていたかを丁寧に見ていきたい。

「わかくす号」に最後に乗り込んだ少年

その日の便は、佐賀第二合同庁舎前を発ち、佐賀駅バスセンターを経て福岡の西鉄天神バスセンターへ向かう高速バス「わかくす号」だった。西鉄バス佐賀営業所の八五四四号車、一九九一年式の日野シャシに西日本車体工業のボディを載せた、当時としてはごく標準的な車両である。ナンバーは佐賀ナンバー。連休中とはいえ、佐賀から福岡へ買い物に出る人、帰省の途中の人、家族連れ。混雑というほどでもない、ゆるい昼の便だった。

出発は十二時五十六分。定刻通り。乗っていたのは運転手を含めて二十二人。この人数がのちに「二十二人の人質」として全国のニュースで繰り返されることになる。

乗客のなかには、佐賀の街で長く子どもたちを見てきた元教諭の女性と、その教え子だった五十歳の女性がいた。二人は連れ立って博多へ遊びに行く途中だった。前の方の席には十八歳の女性がいて、小さな女の子を連れた家族連れも乗っていた。要するに、どこにでもある連休の高速バスの光景である。

最後に乗り込んだのが、佐賀市内に住む十七歳の少年だった。前日、地元のホームセンターで刃物を買っている。バッグの中には、それが入っていた。少年は静かに席に着き、バスは高速に乗った。ここまでは、誰にとってもただの移動時間だった。

太宰府の手前で、行き先が「地獄」に変わった

異変が起きたのは十三時三十五分ごろ、九州自動車道の太宰府インターチェンジが近づいたあたりだった。

少年が席を立ち、運転席へ向かった。刃物を運転手に突きつけ、こう告げたと伝えられている。天神には行くな、このバスを乗っ取る。おまえたちの行き先は天神じゃない、地獄だ、と。

芝居がかった言い回しだが、車内の空気は一瞬で凍りついた。乗客たちは最初、何が起きているのか理解できなかったという。連休中の昼のバスで刃物が出てくるという事態を、人間の脳はすぐには処理できない。理解が追いつくまでの数十秒のあいだに、事態はもう後戻りできないところまで進んでいた。

十三時三十八分ごろ、眠っていた三十四歳の女性乗客が突然襲われ、負傷する。ここで車内の全員が、これは冗談でも訓練でもないと悟った。

少年は乗客に指示を出しはじめる。カーテンを閉めろ。席を移れ。携帯電話を出すな。運転手には高速を降りずに走り続けるよう命じた。バスは福岡を素通りし、中国自動車道へ、そして山陽自動車道へと、東へ東へ流れていく。

十四時四十分ごろ、五十歳の女性が顔を切りつけられた。この女性が、のちに事件の語り部になる山口由美子さんである。

彼女はその瞬間、恐怖よりも先に妙なことを考えたと後年語っている。今ここで自分が死んだら、この子を殺人者にしてしまう、と。切りつけてきた相手のことを、彼女はすでに「この子」と呼んでいた。

誰も知らないまま、バスは県境をいくつも越えていった

驚くべきことに、事件発生から警察が動き出すまでには時間差があった。

車内では乗客が身を潜め、少年の目を盗んで動くしかない。十四時四十七分ごろ、女性乗客のひとりが高速道路の非常電話を使って外部に連絡を取ったとされる。そこから福岡高速道路の管理室を経由して、十四時五十九分に一一〇番通報が入った。事件発生から実に一時間半近くが経っていた。

十五時八分から三十分ごろにかけて、警察は三百人規模の態勢で捜査本部を設置する。しかし現場は高速道路上を走り続けるバスだ。止めれば人質が危ない、追えば刺激する。パトカーは車間を空けて追尾するしかなく、車内で何が起きているかは外からまったく見えなかった。カーテンが閉まっているのだから当然である。

十五時三十三分から三十四分ごろ、車内でさらに乗客が襲われた。少年はときおり携帯電話を使い、十六時九分には自ら一一〇番に電話をかけて要求を伝えている。岡山の吉備サービスエリアまで行かせれば人質を解放する、という内容だった。この「まだ東へ行きたがっている」という情報が、その後の警察の判断を難しくした。どこで止めるのか。止められるのか。

十六時二十分ごろ、山口県の下松サービスエリア付近で、パトカーによる誘導が試みられたが失敗する。この混乱のなかで、男性の会社員がバスから飛び降りた。走行中の車両から身を投げ出したのだから当然大怪我をしたが、この人が救出されたことで、警察は初めて車内に負傷者がいることを具体的に把握する。テレビはすでに中継態勢に入っており、身を乗り出した乗客が救出される瞬間が全国に流れた。

そして、その直後の十六時二十一分ごろ。逃げた人が出たことに激高した少年は、見せしめです、あいつは裏切った、連帯責任です、といった言葉を口にしながら、六十八歳の女性を襲った。この傷が致命傷になった。

子どもたちを長く見守ってきた元教諭の女性が、走るバスの中で命を落とした。彼女は山口由美子さんにとって恩師にあたる人だった。二人は隣り合って座り、その日を楽しみにしていた。

「僕、そんなこと言ってくれる人すき」――車内で交わされた奇妙な会話

この事件の証言を読んでいて何より奇妙なのは、車内が終始一貫した恐怖一色ではなかったことだ。

少年は乗客に対して、寒くありませんか、と気遣うような声をかけている。乗り合わせていた小さな女の子には、トイレは大丈夫か、と尋ね、缶ジュースのふたを開けてやったりもしたという。当時十八歳だった女性乗客は、後年その落差について、恐ろしさと優しさが同じ人間の中で交互に出てくるのが一番怖かった、という趣旨のことを語っている。

とりわけ印象的なのが、負傷者の解放をめぐる場面で交わされたやりとりだ。

すでに何か所も傷を負って血まみれになっていた山口さんに向かって、少年は苛立ちまじりに、こいつしぶいな、といった意味のことを叫んだ。そのとき、同じ車内にいた若い女性乗客が佐賀弁で「もうよかやんね」と口をはさんだ。もういいじゃない、という意味である。

すると少年は、ふっと調子を変えてこう返したと伝えられている。僕、そんなこと言ってくれる人すき、と。

この短いやりとりに、この事件のいちばん苦い核心が詰まっている気がする。

刃物を握って二十二人を支配している少年が、「もういいじゃない」という一言に反応してしまう。裏を返せば、そういう一言を彼はずっと誰からももらえていなかった、ということでもある。

もちろんそれは犯行の言い訳にはならない。人がひとり亡くなり、二人が重い傷を負っているのだから、情状として持ち出す話でもない。それでも、車内にいた人たちが後年そろって「あの子は怖かったけれど、ただの化け物ではなかった」と証言していることは、記録として残しておくべきだと思う。

十七時二十四分ごろ、広島県安佐南区の武田山トンネル内で、男性の乗客四人がまとめて解放された。少年は男性を先に降ろした。力ずくで反撃されることを警戒したのだろう、という見方が一般的だ。残されたのは女性乗客と運転手だった。

奥屋パーキングエリアで、三人が運び出された

十七時五十分ごろ、バスは東広島市の奥屋パーキングエリアに停車する。ここで長い交渉が始まった。

少年は無線や携帯電話を通じて警察と話し、拳銃と防弾チョッキをよこせ、といった要求を出している。もちろん銃は渡せない。交渉役の警察官は、差し入れと引き換えに負傷者を解放するよう粘り強く説得を続けた。

十八時三十四分ごろ、首に傷を負った女性がひとり解放される。そして十九時二十一分から二十五分ごろにかけて、防弾チョッキなどを条件に、残る負傷者と、すでに息のなかった六十八歳の女性が車外へ運び出された。担架が慌ただしく動く様子は、中継のカメラがとらえていた。病院で死亡が確認され、日本のバスジャック事件で初めて人質が亡くなったという事実が確定する。

山口由美子さんは全身十か所以上を切られ、輸血と縫合手術を受けてかろうじて一命を取り留めた。顔、後頭部、首、腕。入院はおよそ一か月半に及び、四半世紀たった今も顔と手にしびれと痛みが残っているという。

彼女はのちに、あのとき自分は出血で意識が遠のいていて、助かるかどうかより先に、恩師がどうなったのかが気になって仕方なかった、と振り返っている。

二十一時三十七分ごろ、バスは再び動き出す。二十二時二分ごろ、東広島市高屋町の小谷サービスエリアで給油。ここが最後の舞台になった。

ちなみにこの事件、山口県のサービスエリアで突入と記憶している人がけっこう多いのだが、実際に突入があったのは広島県東広島市、山陽自動車道の小谷サービスエリアである。バスが山口県内を通過し、下松サービスエリア付近での救出劇がテレビに映ったことで、記憶が混ざってしまったのだろう。

小谷サービスエリアの長い夜と、拒まれた両親

小谷サービスエリアに落ち着いてからの数時間は、ひたすら膠着だった。

広島県警は食料、飲み物、簡易トイレ、毛布を差し入れた。人質の体力を保たせつつ、少年の緊張をゆるめる。教科書通りの持久戦である。二十二時三十七分ごろ、七十二歳の女性乗客が解放された。

同じころ、佐賀から少年の両親が現場に到着している。息子を説得したい、と申し出た。だが少年はこれを拒んだ。両親と話すことを最後まで受け入れなかった。この「親の説得を拒否した」という一点は、のちに事件を読み解くうえで何度も参照されることになる。彼が求めていたのは親の言葉ではなかった、という解釈だ。

日付が変わって五月四日の零時二十九分ごろ、亡くなった女性の遺族が遺体と対面した。連休の夜、思いもしない形で。零時四十一分ごろには五十二歳の女性が解放される。車内に残ったのは、女性乗客九人と運転手だった。

一方その裏では、警察が本気の準備を進めていた。

三日の午後十一時半ごろから、小谷サービスエリアの近くで同型のバスを使った突入訓練が繰り返されていた。広島県警の機動隊に加え、福岡県警と大阪府警の特殊急襲部隊も現場に入っていたと伝えられている。窓のどこを割るか、何秒で座席の間を抜けるか、人質をどう覆うか。バスという細長い密室は、突入部隊にとって最悪の部類の現場だ。通路は一列分しかなく、身を隠す場所もない。

午前五時三分、手袋が路面に落ちた

決行の合図は、拳銃でも無線でもなかった。バスに近づいて説得を続けていた交渉役の警察官が、手袋を路面に落とす。それが合図だった。少年が人質の少女から少しだけ距離を取った瞬間を、部隊は待っていた。

五月四日の午前五時三分ごろ、待機していた十五人ほどの隊員が一斉に動いた。

左右の窓ガラスが同時に割られ、閃光と轟音を発する手榴弾が車内に投げ込まれる。日本の人質事件でこの種の装備が使われたのは、このときが初めてだった。目と耳を奪われた数秒のあいだに、五、六人が車内に飛び込む。中継のアナウンサーは「煙があがっています」と叫び、すぐに「捜査員がバスの中に入りました」と続けた。日本中の茶の間が、その瞬間を生で見ていた。

少年は取り押さえられ、刃物を奪われた。もみ合いのなかで隊員のひとりが左足を切られて負傷している。人質になっていた女性乗客九人と運転手は、全員無事に救出された。銃砲刀剣類所持等取締法違反と、人質による強要行為等の処罰に関する法律違反の現行犯で逮捕。五時五分ごろには制圧が完了し、十五時間半にわたる事件は終わった。走行距離は約二百七十キロ、県にして四つ分を横断していた。

証拠品として押収されたバスは、その後修復されて番号を変え、荒尾営業所に移って走り続けた。二〇〇五年に廃車になっている。あの車内で起きたことを知っている人が、その後もそれと知らずに乗っていたわけだ。

そして誰かが気づいた、「佐賀県佐賀市17歳・・・。」というスレッド

事件が解決したあと、この一件は別の意味で歴史に残ることになる。

テレビと新聞が犯人を「佐賀県佐賀市に住む十七歳の少年」と報じた瞬間、インターネットの掲示板を見ていた人たちがざわついた。見覚えのあるタイトルのスレッドがあったのだ。

そのスレッドが立ったのは五月三日の十二時十八分。タイトルは「佐賀県佐賀市17歳・・・。」。本文はと言えば、ほとんど内容のない、笑い声を模した数文字だけだった。投稿者名は「ネオむぎ茶」。バスが佐賀を出発したのが十二時五十六分だから、スレッドが立ったのはその四十分ほど前ということになる。

立った当時、このスレッドはまったく相手にされていない。当時の掲示板には中身のないスレッドが山ほど立っていて、これもその一つとして流されかけていた。レスもまばらだった。

ところが夕方以降、テレビが犯人像を報じはじめると、スレッドの意味がまるっきり変わってしまう。佐賀県佐賀市。十七歳。一致している。掲示板の住民たちが一斉にそのスレッドに殺到し、事態は「掲示板に犯行予告があった」という物語へと一気に転がっていった。

「キャットキラー」から「ネオむぎ茶」へ、改名の理由はレス番号だった

ネオむぎ茶という奇妙なハンドルネームには前史がある。

少年は事件の三か月ほど前、二月下旬から掲示板に出入りしていた。そのとき名乗っていたのは「キャットキラー」という名前である。当時の掲示板は、固定ハンドルネームを使う人間を嫌う空気が強かった。名乗って目立てば、それだけで叩かれる。少年はまさにその洗礼を浴びた。

二月二十六日ごろ、自分で立てたスレッドで「どんどんかかってこい」と挑発したところ、住民たちは彼の人物像を勝手に作り上げて遊びはじめた。そのなかに「存在感 無し」という一文があった。

この四文字が、少年にはこたえたらしい。彼はその日、母親に向かって、母さん、ぼく、存在感ないって言われた、と報告している。母親はその言葉を後になって思い出すことになる。

二月二十八日から二十九日にかけては、掲示板文化を知る人にはおなじみの一件が起きた。

当時の掲示板ではスレッドの千番目の書き込みに特別な意味があり、少年は「千番目を取ったやつが勝者ということにしないか」と持ちかけた。そして九百五十番台から九百九十九番まで、短い書き込みを連投して独占していく。あと一つ。しかし彼が最後に長めの文章を打っているあいだに、別の誰かがさらりと千番目をさらっていった。少年の投稿は千一番目になった。

そこからの荒れ方が、記録として残っている。キーボードを叩きつけたような意味不明な文字列が並び、罵倒が飛び、殺意めいた言葉が投げつけられた。

数時間後、彼は「キャットキラーだがここらで身を引かせてもらう」と宣言し、ハンドルネームを「ネオむぎ茶」に改めると告げて、その名前のスレッドを立てる。住民の反応は冷たかった。要するに、知らんがな、である。彼はそのスレッドに、友人からの書き込みという体裁で「彼は精神病院に入院しました」という内容を投稿している。日ごろから友達がいないとこぼしていたことを知る住民からは、自作自演だろうと見透かされていた。

このころ、少年は少年法の議論にも顔を出している。

別の少年事件で加害者を実名報道した雑誌をめぐる裁判の判決に強く反発し、この裁判官を更迭せよ、といった書き込みをする一方で、弁護人については世論に流されず信念を曲げていない立派な人物だ、と評価していた。無教養が来る場所ではない、と叩かれながらも議論に食い下がり、最後には「少年は強い、でも、ぼくが成人になったら少年法廃止でいいよ」と書き残している。事件の二か月ほど前の話である。

警察の調べでは、彼のパソコンにはおよそ二千のサイトへのアクセス記録が残っていたという。

あれは本当に「犯行予告」だったのか

ここが、この事件をめぐる最大の論点だ。

当時のメディアは、掲示板に犯行予告が書き込まれていた、と一斉に報じた。だが実際に残っていた文字列は、地名と年齢を並べたスレッドタイトルと、笑い声のような数文字だけである。バスを乗っ取るとも、人を傷つけるとも、日時も場所も手段も、何ひとつ書かれていない。

だから事件後しばらくして、あれは予告じゃないだろう、という反論が出てきた。

常識的に考えて、あの文字列を見て事件を予測できる人間はいない。実際、スレッドが立った当日、誰もそれを予告として受け取らなかった。予告として機能していなかったものを予告と呼ぶのは、結果を知ってから遡って意味を貼りつけているだけではないか、という指摘である。

この批判はかなり正しい。実際、事件を防げた可能性があった、という論調で当時の報道を読み返すと、無理があることに気づく。

一方で、まったくの無関係な落書きだったとも言い切れない。

少年は前日に刃物を買っており、母親は彼の部屋から中学校を襲撃するという趣旨の手記と大量の刃物を見つけている。事件の二か月ほど前には、総理大臣らに宛てて犯行声明めいた文書を送りつけてもいた。当初の計画は、いじめを受けた母校の中学校を襲うというものだった。ところが連休で学校が休みだったため、標的をバスに切り替えたとされる。

つまり彼の頭の中では、あの日は決行の日だった。その朝に掲示板へ立てたスレッドは、本人にとっては間違いなく「これから何かをやる」という宣言だったのだろう。ただ、それが他人に伝わる形式になっていなかった、というだけだ。

予告だったか否か、という二択で議論すると、この事件は必ずこじれる。もっと正確に言うなら、あれは本人だけに読める予告だった。掲示板に向かって石を投げるような行為が、たまたま結果とつながってしまった。そしてメディアはその偶然を、ネットが犯罪を生むという分かりやすい図式に翻訳した。ここに、その後二十年以上続く「ネットと犯行予告」をめぐる誤解の原型がある。

「警察はIPアドレスを一度も聞いてこなかった」

さらに話をややこしくするのが、掲示板の管理人だった人物の証言である。

彼は後年の取材で、この件について警察から接触は一切なかったと語っている。通常なら、犯行予告らしき書き込みがあれば、捜査機関は管理側にアクセス記録の照会をかける。ところがこのときは、そういう問い合わせが一度もなかったというのだ。

理由は推測するしかないが、単純な話でもある。少年はすでにバスジャックそのもので現行犯逮捕されている。掲示板への書き込みを立件したところで処分が重くなるわけでもない。捜査の実利がなかったのだろう。

ただしその結果として、少年本人が「あれは自分が書いた」と明確に認めた記録も、技術的に本人と紐づけた記録も、公にはっきりした形では残らなかった。日本中が「掲示板に予告があった」と信じた事実の足元が、実はかなりゆるいのである。

このねじれは、この事件が語り継がれる理由のひとつでもある。あれほど大きく報じられ、あれほど強い社会的インパクトを持った「ネット発の犯行予告」の第一号が、厳密には確認されていない。それでも社会は動いた。人は事実そのものより、事実らしく見える物語で動くのだ、という見本のような話だ。

少年はどこで折れたのか、踊り場から落ちた冬のこと

では、この十七歳はどんな道を歩いてきたのか。手に入る記録を並べると、崩れていく過程がはっきり見える。

家庭は、会社員の父と母、妹の四人。中流のごく普通の家庭だった。少年は中学二年のときに学級委員に選ばれるような、真面目な優等生だった。

ところが中学三年の夏ごろから、本格的ないじめが始まる。制服を刃物で切り裂かれる、体にあざを作られる。母親が後に残した意見書には、中学三年の夏ごろから勉強への意欲がなくなり、言葉の暴力が始まり、物を壊すようになり、家庭内暴力が始まった、と書かれていた。

決定的だったのは一九九八年一月、高校入試を目前に控えた時期だ。筆箱を返してほしければここから飛び降りろ、と学校の踊り場で強要され、実際に飛び降りて着地に失敗した。腰椎を圧迫骨折する重傷である。彼は入院したまま病室で受験することになった。学校も教育委員会も、いじめの事実を認めなかった。

第一志望には届かず、次のランクの高校に合格したが、通ったのは九日間だけだった。校風が合わないと言って登校をやめ、翌年三月末に退学する。

そこからは昼夜逆転の引きこもり生活だ。大学入学資格検定を目指す、と言っていたが、実態はパソコンの前に座り続ける日々だった。パソコンがほしいと言った息子に、両親はすぐ買い与えた。最初、母親は息子が何かに熱中していることに安心したという。だが表情がだんだん曇り、いらいらするようになっていくのを、母親は横で見ていた。

家庭内暴力は悪化する。とくに妹への暴力がひどく、制服を切り刻んだり、飼っていた動物を虐待したりした。近所の住民が妹の悲鳴を聞いている。父親には名古屋や大阪への日帰りドライブを頻繁に強要した。

両親は限界だった。警察にも精神科病院にも相談したが、事件を起こしていない以上こちらでは動けない、と両方から断られている。

二〇〇〇年三月、両親はメディアでよく見かける精神科医に助けを求めた。その医師は少年にも両親にも直接会わないまま、県警と国立の療養所に電話を入れる。療養所は速やかに医療保護入院の措置をとった。

入院が決まったとき、少年は両親に対して絶対に許さないと激怒したが、実際に入ってみるとスタッフにも他の患者にも礼儀正しく接した。やがて主治医との話し合いで外出と外泊の許可が出る。

その外泊中、彼は愛知県豊川市で十七歳の少年が面識のない主婦を殺害した事件を知った。そして手記に、その加害少年を賞賛する言葉を書きつける。同い年であること、優等生であることに運命的なものを感じる、自分も早く彼のようになりたい、といった内容だ。

この手記の存在を主治医は知らなかった。知らないまま、外泊の許可が出た。仮退院の翌日、彼は近所のホームセンターで刃物を買っている。翌日が五月三日だった。

鑑定書に書かれていた「存在感」という言葉

逮捕後、簡易鑑定を経て本格的な精神鑑定が行われた。診断名は解離性障害。行為障害も指摘され、統合失調症の前駆状態を疑う記述もあった。

ただし鑑定は、事件当時に自分の行為の善悪を判断する能力が著しく低下していたとは認められない、として、ほぼ完全な責任能力を認めている。ここは大事なところだ。病名がついたから責任がない、という話ではまったくない。そして言うまでもないことだが、同じ診断名を持つ多くの人たちは、こうした事件とは何の関係もなく静かに暮らしている。病名は事件の説明にはならない。

鑑定書が描いた心理は、意外なほど平凡で、それだけに重い。

思春期の危機のなかで、猛勉強によって自分の存在を証明しようとしたが持続できず、燃え尽きた。自分が何者なのか分からなくなり、このままではホームレスになって自殺するしかない、と思い詰めるようになった。そして、自分の存在感を確認するために事件を起こした、と結論づけられている。中学校を襲撃して社会の注目を集め、自己顕示欲を満たし、英雄になって死のうと考えた、とも記されていた。

存在感という言葉が、鑑定書と掲示板の両方に出てくる。

掲示板で見知らぬ誰かに「存在感 無し」と書かれ、それを母親に報告した少年が、二か月後に「自分の存在感を確認するために」という文言で鑑定される。因果関係を直結させるのは乱暴だが、この符合を見なかったことにするのも難しい。

なお彼は、一九九七年の神戸の事件の加害少年と同学年だった。その加害者を崇拝していたことも分かっている。三月には、その事件の署名を騙った犯行予告文をあちこちに送りつけていた。憧れの対象が犯罪者だった、という点は、この事件の陰惨さの一部を成している。

二〇〇〇年九月二十九日、家裁が選んだ道

処分が決まったのは二〇〇〇年九月二十九日、佐賀家庭裁判所の保護処分決定である。結論は医療少年院送致。同年十月、京都医療少年院に収容された。精神障害やその疑いのある少年を受け入れる施設だ。

決定文は、この結論に至るまでのためらいを隠していない。

本件の非行は悪質で残忍かつ重大であり、保護処分ではなく検察官に送致して刑事裁判にかけることも十分に検討した、と明記されている。それでも医療的な矯正施設に収容するのが相当だと判断した理由は、大きく二つだ。

ひとつは、解離性障害の治療が終わるまでは原則として個別処遇が必要で、今後五年ほどは常に精神科医の目が届く環境が要る、という医学的な判断。もうひとつは、統合失調症が本格的に発病するのか、現在の解離性障害が深刻化するのか、あるいはそれらが混ざった形になるのか、予測が難しいという不確実性だ。

そして決定文は、こうも書いている。少年には被害者に対する悔悟の情がなく、情性を欠如していると言わざるを得ない。しかし加齢による脳の成熟と矯正教育によって、情性を獲得することは期待できる、と。

冷たい記述と、かすかな希望の記述が同居している。裁判所は賭けをしたのだ。

その後、二〇〇六年一月中に仮退院していたことが同年二月に報じられた。事件から五年九か月。社会復帰へ向けた訓練を始めたとされる。以後の消息は公表されていないし、公表されるべきものでもない。

両親のその後についても触れておきたい。

二人は涙を流しながら被害者を訪ね歩き、頭を下げ続けた。事件からおよそ一年後の二〇〇一年四月、被害を受けた二十二人に対する補償を決めている。亡くなった女性に五百五十万円、重傷を負った二人に合わせて三百五十万円、軽傷者を含む残りの人たちに一人あたり二十万円から四十万円。総額は千三百八十万円だった。

額の多寡について外野が論じるのは筋違いだろう。ただ、警察にも病院にも断られ続けた末に息子が加害者になった家族が、その後の人生をどう背負ったかという問いは残る。

あの年、日本中が「17歳」という数字に取り憑かれた

二〇〇〇年という年は、日本の少年犯罪報道にとって異様な年だった。

五月に愛知県豊川市の主婦殺害事件、その数日後に西鉄バスジャック事件。六月に岡山で金属バットによる母親殺害事件。七月に山口で母親が殺される事件。八月に大分で一家六人が殺傷される事件。十二月には歌舞伎町のビデオ店爆破事件。いずれも加害者が十七歳前後だった。

メディアはこれを一つの現象としてまとめ上げた。「キレる17歳」という言葉が生まれ、「一七歳」が流行語大賞のトップテンに入り、翌年には十七歳をタイトルに冠したテレビドラマまで作られた。理由なき犯罪世代、という呼び名も飛び交った。一九八二年生まれには何かある、という言説が、真顔で語られた。

だが、統計はそれを支持していない。

犯罪心理学の側からは当時から、一九八二年生まれに犯罪者が特別多いというデータはない、という指摘が出ていた。少年による凶悪犯罪の件数は長期的にはむしろ減り続けていて、二〇〇〇年に統計的な急増があったわけではない。起きた事件の一つひとつが強烈で、しかも短期間に集中したため、印象が現実を上書きしただけである。

ついでに言えば、その前後には引きこもりを犯罪者予備軍のように扱う空気も強まった。この事件の三か月ほど前に発覚した新潟の監禁事件と合わせて、引きこもりという言葉が一気に社会に広まり、そして猛烈に誤解された。当時この問題を扱っていた精神科医は後年、実情を知らずに印象だけで語る人たちとの戦いがまず自分の仕事だった、と述べている。

少年法は変わった。そして被害者は「変えるな」と言った

二〇〇〇年十一月、少年法が改正された。

改正の柱は、刑事処分が可能な年齢を十六歳から十四歳に引き下げること、十六歳以上の少年が故意に人を死なせた場合は原則として検察官に送致すること、家庭裁判所が保護者に対して訓戒や指導ができるようにすること。加えて、裁判官三人の合議制の導入、重大事件での検察官の審判関与、被害者や遺族への記録の閲覧と意見陳述の道を開くことなどが盛り込まれた。

一連の事件と改正の直接的な因果関係を単純化して語るのは危ういが、当時の空気が改正を後押ししたことは間違いない。厳罰化を求める声は非常に強かった。

そのなかで、事件で最も重い傷を負った当事者のひとりが、まったく別の方向から発言していたことは記憶されていい。

山口由美子さんは二〇〇〇年十一月の参議院法務委員会に参考人として出席し、年齢を下げて罰することに反対する意見を述べた。全身を切りつけられ、恩師を目の前で失った人が、である。

彼女の論は感情論ではない。刃物を振り回している少年から、彼自身の苦しみをじかに感じ取った、というのが出発点だ。加害者のほとんどは、その前にまわりから傷つけられてきた被害者でもある。あの少年は、心を傷つけられ、そのやり場のない気持ちを誰にも理解されないまま、ぎりぎりのところで自分の尊厳を守ろうとしていた。だから、必要なのは罰ではなく、信頼できる大人と出会うことだ。

子どもは罰では変わらない、信頼できる大人に出会うことで変わる。彼女はそう繰り返し語ってきた。自分の娘にも不登校の経験があり、少年の姿と重なるものがあった、とも語っている。

語り継ぐ人たち、四つの証言

ひとつめは、山口由美子さん自身の歩みだ。

彼女は事件から四年後、京都医療少年院にいる少年と面会している。会いたいと申し出たのは彼女の側だった。最初の面会で、彼女は少年に「誰にも理解されず、つらかったね」と声をかけた。

だが同時に、はっきりとこうも伝えている。あなたの罪を赦したわけではない、赦しはこれからあなたがどう歩くかを見てから決まる、と。少年は後に、そのときのことを、自分の罪の重さと温かさを同時に受け取った、という趣旨で書き残している。面会は三度にわたった。

彼女は事件の翌年に不登校の子を持つ親の会を立ち上げ、その翌年には子どもの居場所となるフリースペースを開いた。全国での講演は五百回を超え、刑務所で受刑者に向けて話すこともある。九州大学の大学院でも学び、二〇二四年、事件から二十四年目に自身の体験と考えをまとめた本を出した。

被害者として生きるのではなく、こういう少年を生まない社会をつくる側に立つ、という選択である。

ふたつめは、車内にいた若い女性乗客の証言だ。当時十八歳。前の方の席に座っていた彼女は、事件のあいだじゅう、少年の二つの顔を至近距離で見ることになった。

乗客に弁当を配るよう指示を出し、寒くないかと尋ね、小さな子どもにジュースのふたを開けてやる少年。その同じ人物が、逃げた乗客が出るたびに、裏切った、連帯責任だ、と激高して刃物を振るう。

彼女が佐賀弁で「もうよかやんね」と口をはさんだのは、恐怖に耐えかねてというより、この場をこれ以上悪くしたくないという、ほとんど反射のような判断だったのだろう。その一言に少年が素直に反応してしまったことを、彼女は後々まで考え続けたという。

この事件で最も語られるべきなのは、たぶん凶器の描写ではなく、この数秒間のやりとりのほうだ。

みっつめは、突入する側の記録である。

広島県警は、走行するバスという最悪の現場を前に、深夜零時近くから同型車両で訓練を繰り返した。福岡と大阪の特殊部隊も合流していた。バスの車内は通路が一列しかなく、遮蔽物がなく、人質と犯人の距離が常に近い。突入すれば人質が巻き込まれる確率は高い。

それでも人質の体力が限界に達し、これ以上は待てないという判断が下された。合図は手袋を路面に落とすこと。窓を割り、閃光音響弾を投げ込み、五、六人が飛び込む。数十秒の出来事だった。隊員のひとりが足を切られたが、人質は全員生きて外に出た。

この事件を教訓に、広島県警は刑事部捜査第一課に人質救出を専門とする突入チームを新設している。あの夜の反省が、その後の体制を作った。

よっつめとして、少年の両親のことも証言に数えたい。

彼らは事件の前、危険を感じて警察と精神科病院の両方に相談し、両方から断られている。事件を起こしていないから動けない、というのが理由だった。この「起きてからでないと動けない」という壁は、この事件のあとも何度も日本社会で問題になり続けている。

そして事件後、彼らは被害者の家を一軒ずつ訪ね、頭を下げ、補償を支払い、その後の人生を息子の罪とともに生きることになった。加害者家族という立場について社会が語りはじめるのは、これよりだいぶ後のことだ。

掲示板の住民たちは、あの夜どんな顔をしていたか

事件当夜から翌日にかけて、掲示板は騒然としていた。

自分たちが日常的に眺めていたスレッドの主が、テレビの中で人質を取っている。そのスレッドを開けば、たった数文字の書き込みがある。この現実感のなさに、住民たちの反応は真っ二つに割れた。

一方には、面白がる声があった。当時の掲示板は、悪趣味と皮肉と煽りが通貨として流通する場所である。事件が実況され、ネタにされ、揶揄された。

もう一方には、はっきりとした動揺があった。自分たちが日常的にやっている煽り合いが、現実の刃物につながることがあるのかという当惑だ。実際、少年に対して犯罪を煽るような書き込みを繰り返していた東京都内の男性が、事件後に佐賀県警から事情聴取を受けている。あの叩きの輪の中に自分もいたかもしれない、という感覚は、当時それなりの人数に共有されたはずだ。

そして三つめの、いちばん現実的な反応が「これで大変なことになる」という危機感だった。

実際そうなった。マスメディアは掲示板を名指しで批判し、無法地帯として報じた。掲示板の名前は一夜にして全国に知れ渡り、その結果、皮肉なことに利用者が爆発的に増えた。前年の家電メーカーをめぐるクレーマー騒動である程度知られていたとはいえ、一般層への浸透という意味では、この事件が決定的な転換点だった。批判報道が最大の宣伝になるという構図の、日本における初期の代表例である。

掲示板の管理人が取材に応じ、その素顔が世に出たのもこのときだ。ちなみに、千番目の書き込みをめぐる仕様は翌年に変更された。少年を逆上させたあの仕組みは、もう存在しない。

「ネオ」を名乗る者たちが、その後ぞろぞろ現れた

この事件が残した最も直接的な後遺症は、模倣だった。それも犯行そのものより、名乗り方の模倣である。

二〇〇一年には、「ネオむぎ酒」を名乗る人物が掲示板に北海道の祭りを妨害するという予告を書き込み、書き込んだ少年が補導された。二〇〇二年十一月には「ネオ烏龍茶」を名乗る人物が鉄道会社への爆破予告を書き込み、威力業務妨害の疑いで逮捕され、翌年に執行猶予付きの有罪判決を受けている。

飲み物の名前に「ネオ」を付けるという、字面だけ見ればふざけた命名法が、犯行予告の記号として定着してしまった。

バスジャックそのものの模倣も起きた。二〇〇一年一月には京都市営バスが刃物を持った人物に乗っ取られる事件があり、対向車を運転していたバス会社の社員が通報して追跡し、大阪府茨木市内で解決している。二〇〇八年七月には愛知県の東名高速でハイウェイバスが乗っ取られ、逮捕された中学二年の少年は取り調べで、母親から西鉄バスジャック事件のことを聞いていた、と供述した。事件から八年後、当時まだ生まれて間もなかった世代にまで、話として伝わっていたわけだ。

より大きな流れで言えば、この事件は「ネット上の犯行予告」というカテゴリーそのものを社会に発明させた。

それまで掲示板の物騒な書き込みは、基本的に放置されるか、せいぜい削除されるだけのものだった。ここから先、書き込みは捜査対象になる。脅迫罪、偽計業務妨害罪、威力業務妨害罪といった条文が、ネットの文言に対して適用されるようになっていく。

決定的だったのは二〇〇八年の秋葉原の事件だ。加害者が携帯サイトの掲示板で犯行直前までの経過を書き続けていたことが分かると、社会の反応は一変した。事件後の三か月ほどで、犯行予告を書き込んだとして六十六人が逮捕されている。

警察庁のサイバー部門が定期的にキーワード検索をかけるようになり、書き手のほうは「殺す」を別の字に置き換えるといった小細工を始めた。犯行予告を集めて共有するウェブサービスが有志によって作られ、警察は市民に対し、犯行予告を見かけたら通報するよう呼びかけるようになった。二〇一二年のパソコン遠隔操作事件では、他人のパソコンを乗っ取って予告を書き込むという手口が現れ、誤認逮捕という最悪の副作用まで生んだ。

二〇〇〇年五月の、地名と年齢だけのスレッドタイトル。そこから二十数年かけて、社会はここまで来た。最初の一件が厳密には予告ですらなかったかもしれない、という事実を思うと、なんとも据わりの悪い話ではある。

バス会社と警察が、静かに変えていったもの

事件の実務的な遺産についても書いておきたい。

日本バス協会はこの事件を受けてバスジャックへの統一対応マニュアルを作り、緊急連絡体制を整備した。車両にも仕掛けが増えた。異常事態を外から分かるようにするため、ハザードランプを高速点滅させる仕組み、車両後部に非常灯を付ける仕組み、行き先表示器に緊急事態を示す文字を出せる仕組みが導入された。

西鉄は独自に、ヘリコプターから車両を特定できるよう屋根の上に車両番号を書くようにした。この対策はその後、東京や大阪、名古屋のバス事業者にも広がっている。一般路線バスでは、窓から脱出しやすいように窓の形状の仕様まで変えられた。バスジャック保険という商品も整備された。

そして二〇一四年七月、西鉄で再びバスジャック事件が起きたとき、これらの備えが働いた。

運転手が通報装置を作動させ、会社は即座に緊急態勢に入る。バスの後部に表示された緊急事態を知らせる文字を見た複数のドライバーが、県警と会社に通報した。あの夜、誰も車内の様子を知りようがなかったという状況は、確実に改善されていた。十四年かけて、あの十五時間半は制度になったのである。

なぜ、この事件は今も語り継がれるのか

理由はいくつも重なっている。

まず単純に、日本中がリアルタイムで見てしまった。深夜から明け方まで中継が続き、閃光と煙とともに突入が終わる瞬間を、多くの人が自宅のテレビで目撃した。共有された記憶の強度が違う。

次に、この事件が二つの時代の継ぎ目に立っているからだ。

片側には、いじめ、不登校、引きこもり、家庭内暴力、精神医療の受け皿という、九〇年代からずっと積み残されてきた問題がある。もう片側には、匿名掲示板、ハンドルネーム、荒らし、煽り、そして犯行予告という、これから二十年以上をかけて社会を変えていく問題がある。この二つが一台のバスの中で交差した。だから語り口をどう変えても、必ずどこかの現在につながってしまう。

三つめに、この事件には分かりやすい教訓が用意されていない。

ネットが悪い、と言えば管理人の証言と反論に足をすくわれる。親が悪い、と言えば警察と病院に断られ続けた記録が出てくる。学校が悪い、と言ってもいじめを認めなかった学校を責めるだけでは足りない。少年が異常だった、と切り捨てれば、鑑定書が示した「存在感を確認したかった」というあまりに凡庸な動機に突き当たる。誰か一人を悪者にして終われないから、人は何度でもこの話に戻ってくる。

四つめは、被害者本人が全然違う方向へ歩き出したことだ。

全身を切られ、恩師を失った人が、厳罰ではなく居場所を、と言い続けている。加害少年と三度会い、赦してはいないと告げたうえで、あなたの歩き方を見る、と言った。この選択があることによって、この事件は怖い話として消費されきることを免れている。語り継がれているというより、語り継いでいる人がいる、というほうが正確なのだろう。

最後にひとつ。あの日、掲示板に立ったスレッドは、誰にも読まれなかった。地名と年齢と、意味を成さない数文字。読まれなかったからこそ、後から強烈な意味を持ってしまった。

今のインターネットには、あの日と比べものにならない量の言葉が流れている。そのなかに、誰にも読まれないまま流れていく叫びがどれだけあるのか。この事件がいちばん静かに突きつけてくるのは、たぶんその問いだ。

二十六年後の視点から読み直すと、当時の診断はどこを外していたか

二〇〇〇年の日本は、この事件を主に二つの言葉で処理した。ひとつは「キレる17歳」、もうひとつは「インターネットの闇」。どちらも、事件の中心にあったものを取り逃がしている。

「キレる17歳」という枠組みは、加害者を突発的に爆発する不可解な存在として描いた。だが記録を追うと、この少年ほど「キレて」いない加害者も珍しい。

彼の犯行は突発ではなく、少なくとも数か月かけて準備されていた。刃物を集め、手記を書き、犯行声明めいた文書を送り、母校の襲撃を計画し、休校で断念して標的を変更した。順序立てて考え、計画を修正する能力があった。鑑定もほぼ完全な責任能力を認めている。

突発的な爆発ではなく、長い時間をかけた自己破壊の設計だったのだ。にもかかわらず「キレる」という語が選ばれたのは、そのほうが理解しやすかったからにすぎない。理解しやすい言葉は、しばしば理解を妨げる。

「インターネットの闇」という枠組みも同様だ。

当時の報道は、掲示板が少年を狂わせたという因果を強く示唆した。だが実際に起きていたことは、もっと平凡で、もっと今日的である。学校で居場所を失った十七歳が、家にこもってパソコンの前に座り、名前を名乗って人と関わろうとした。そして名乗ったがゆえに叩かれ、遊ばれ、「存在感 無し」と書かれた。

彼が求めていたのは承認で、掲示板はそれを与える場所ではなかった。むしろ真逆のことをした。掲示板が彼を犯罪者にしたのではない。彼が最後に残っていた場所として掲示板を選び、そこでも同じ失敗をした、という順序だ。

この構図は、二十六年後のいま、規模を何千倍にもして続いている。承認を求めて名乗り、叩かれ、さらに過激なことを言う。プラットフォームの名前が変わっただけで、力学は一ミリも変わっていない。

そのうえで、二十六年後だからこそ言えることが三つある。

ひとつめは、「予告があったのに防げなかった」という当時の物語が、ほぼ確実に誤りだということ。

あの文字列を予告として検知するのは、人間にもアルゴリズムにも不可能だ。事後に意味が確定した記号を、事前に検知可能だったと錯覚する。これは今日の予測型の監視技術をめぐる議論にそのまま接続する問題である。膨大な言葉の海から未来の加害者を見つけ出す、という発想の原型が、この事件の誤読の中にある。誤読から生まれた発想が、その後の制度と技術を規定していったという点で、この事件は情報社会史の資料でもある。

ふたつめは、この事件の防波堤がことごとく制度の隙間で機能しなかったこと。

いじめは学校と教育委員会に認められなかった。危険を訴えた両親は、警察からも病院からも「まだ何もしていないから」と断られた。医療保護入院という強い介入がいったんは実現したのに、外泊中に何が起きているかを把握する仕組みがなかった。仮退院の翌日に刃物を買うところまで、誰も見ていなかった。

それぞれの機関は、それぞれのルールの範囲では間違っていない。にもかかわらず、全体としては誰も守れなかった。この「全員が正しくて、結果は最悪」という形は、その後の日本社会が何度も繰り返す失敗のパターンそのものだ。犯人探しではなく、隙間の設計を問うべきだった、というのが今から見た最大の教訓だと思う。

みっつめは、被害者の選択が持つ射程の広さだ。

全身を切られ、恩師を目の前で失った人が、厳罰化に反対する立場を国会の場で述べ、加害者と面会し、赦していないと告げたうえで見守り、子どもの居場所を作り、五百回以上語り続けている。

これは立派な被害者の話ではない。仕組みの話だ。彼女がやったのは、自分に起きた出来事を、次の誰かを守る資源に変換することである。事件を消費するのではなく再利用する。この変換をひとりの個人が二十四年かけてやってのけたという事実は、制度の失敗を並べ立てた後だからこそ重く響く。

そして最後に、この事件がいちばん静かに残した問いを、もう一度書いておく。

あの日の昼、誰にも読まれないスレッドがひとつ立った。読まれなかったから、事件は防げなかった。だが本当に問うべきは、読まれていれば防げたか、ではない。

彼が名乗ったときに叩かれる代わりに、車内で聞いたあの一言、もうよかやんね、に相当する言葉が、どこかで一度でも返っていたらどうなっていたか、である。刃物を握っていた少年が、その一言に「僕、そんなこと言ってくれる人すき」と応じてしまったこと。これが二十六年後まで残る、この事件のいちばん苦い記録だ。

事件を防ぐ技術の話は、たぶんその後でいい。

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