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サム・シェパード事件――ふさふさ髪の男を追った外科医と、新聞が一面で殺した裁判

湖のそばの家で、あの夜は静かに始まった

まず時計を一九五四年七月三日の夜まで巻き戻す。

舞台はオハイオ州クリーブランドの西のはずれ、エリー湖に面したベイビレッジという小さな町だ。人口は当時で一万人ちょっと。湖沿いのレイクロードには、医者や弁護士や工場の重役みたいな連中の家がゆったり並んでいて、芝生は青く、夜になると波の音が網戸ごしに入ってくる。犯罪なんてほとんど起きない、というかそういうことになっている町だった。

その通りに、三十歳の整骨外科医サム・シェパードと、三十一歳の妻マリリンの家があった。

二階建てなんだけど、道路側から見ると平屋みたいに低く見える。湖に向かって土地が急に落ちているから、湖側に回り込むと地下階が丸ごと外に出ていて、実質三層になっている変わった構造だ。庭のはずれから木の階段が湖岸まで降りていて、その先はもう砂利と流木の浜だった。玄関からいちばん近い部屋が居間で、そこには昼寝用のデイベッド、いわゆる長椅子兼寝台が置いてある。階段を上がると廊下があって、突き当たりが夫婦の寝室、その手前に七歳の息子の部屋がある。この間取りは、これから起きることを追いかけるうえでけっこう効いてくるので、頭の隅に置いておいてほしい。

七月三日は土曜日で、翌日は独立記念日。シェパード家には近所のドンとナンシーのアハーン夫妻が来ていた。夕食を食べて、酒を飲んで、テレビをつけて『ストレンジ・ホリデー』という映画を流していた。サムはその映画の途中で、居間のデイベッドに寝転がったまま寝落ちした。彼は前日から病院で働きづめで、その日も救急の呼び出しに出ている。マリリンは客を玄関まで見送り、鍵をかけたのかかけなかったのか、そこは今も判然としない。夫妻が帰ったのはだいたい午前零時半ごろ。マリリンは妊娠四か月に入ったところで、家族はもうすぐ二人目が来ると分かっていた。

サムの供述によると、彼が目を覚ましたのは妻の声だった。悲鳴とも、うめきとも、自分の名前を呼ぶ声ともつかない何か。彼は反射的に階段を駆け上がり、寝室の入口あたりで白っぽい人型の何か、彼の言葉では「白い二足歩行の形」を見た。そして直後に後頭部から首にかけて衝撃を受けて意識を失った。

次に気がついたとき、彼はベッドの脇に倒れていて、財布から札が抜かれ、部屋の中はもう取り返しがつかないことになっていた。ここは細かく書かない。書く必要がないし、書くべきでもない。彼は妻の首筋に指を当てて脈を探し、隣の部屋に走って息子の無事を確かめた。息子は眠っていた。まったく起きていなかった。

そのあと彼は階下で物音を聞いて、外へ飛び出す。庭を横切り、木の階段を駆け降りて、湖岸で背の高い男に追いついた。彼が後ろから組みつくと、揉み合いになり、また意識を失った。目が覚めたときには、体の半分が波打ち際に浸かっていて、あたりは白み始めていた。

彼はよろよろと家に戻り、居間で受話器を取って、隣家のスペンサー・ハウクに電話をかけた。時刻は午前五時四十分前後。ハウクはただの隣人ではなく、ベイビレッジの町長だった。「頼む、スペン、すぐ来てくれ、マリリンが殺された」という趣旨の、切迫した電話だったと伝えられている。

ハウク夫妻が駆けつけたとき、サムは上半身裸で、ズボンは濡れていて、膝のあたりに血が付いていた。彼は椅子に座り込んで、質問にうまく答えられない状態だったという。エスター・ハウクが二階に上がり、そして下りてきて警察を呼んだ。ここから、この家は事件現場になった。

「あの家では何もかもが遅すぎた」と後年の捜査官は言った

問題は、事件現場としての初動が壊滅的だったことだ。

ベイビレッジの警察は小さな所帯で、殺人事件の扱いに慣れていない。連絡を受けたサムの兄弟、リチャードとスティーブンが早々に到着し、サムを家から連れ出して一族の経営するベイビュー病院へ運んだ。医者一家が身内を守るために動いた、という絵は、あとから見るととんでもなく分が悪い。実際その場面は、のちに「一族ぐるみの隠蔽」という物語の出発点になる。

現場からは凶器が出てこなかった。最後まで出てこない。地元当局はランタンのような形状の器具を想定し、検死官のサミュエル・ガーバーは公判で「外科用の器具」という言い方をした。だがその器具そのものが押収されたことは一度もない。

血痕は寝室からあふれて、階段、廊下、階下にまで点々と落ちていた。庭の茂みからは、緑色の布袋に入ったサムの腕時計、キーホルダー、鍵、大学の友愛会の指輪が見つかった。表面上は物取りの偽装に見えるし、逆に「偽装工作を偽装した」と読むこともできる。この袋は、七十年ずっと両陣営が別々の意味に読み続けている物件だ。

さらに厄介なのが、サムの体だった。彼には頸椎の損傷、具体的には第二頸椎まわりの傷と、左側を中心とした反射の消失や減弱があった。神経外科医のチャールズ・エルキンズが診て、これは意図的に作れるものではないと述べている。一方で、あれだけ血が飛び散った部屋にいた人物にしては、サムのズボンには血の付き方が少なすぎた。この二つの事実は、どちらも「サムがやった」と「サムはやっていない」の両方に都合よく引用されてきた。証拠というのは、こういうふうに人の見たいものを見せてくる。

家の中の食い違いも数え上げるときりがない。犬のココは吠えなかったと語られる。息子は物音ひとつで起きなかった。マリリンの歯は折れていたが、口の中や唇にはそれに見合う損傷がなかった。のちに犯罪学者ポール・カークが指摘した点で、彼はここから「彼女は加害者の手か腕に噛みついたのではないか」という推論を立てた。だとすれば犯人の側に噛み傷が残っているはずだが、サムの体にその手の傷は記録されていない。

時系列も曖昧なままだ。検死官は死亡推定時刻を午前三時から四時のあいだと見た。サムの腕時計は四時十五分で止まっていて、しかも血が付いていた。ハウクへの電話は五時四十分ごろ。この一時間半の空白を、検察は「後始末の時間」と読み、弁護側は「気を失っていた時間」と読んだ。同じ空白に、まったく反対の内容が書き込まれた。

「なぜサム・シェパードは刑務所にいないのか」――新聞が街を焼いた夏

ここから先が、この事件が単なる未解決殺人ではなく、アメリカの司法史そのものを書き換えた理由だ。

一九五〇年代のクリーブランドには三つの日刊紙があり、なかでも夕刊紙クリーブランド・プレスは部数でも影響力でも突出していた。編集主幹はルイス・B・セルツァーという男で、市長選の結果を左右すると本気で信じられていたほどの人物だった。この事件は、彼にとって理想的な素材だった。若い外科医、美しい妻、湖畔の豪邸、そして不倫。素材が良すぎた。

七月半ば、捜査が停滞していると見るや、プレスは一面で当局を叩き始める。七月二十日には「誰かが殺人をやって、そのまま逃げおおせようとしている」という趣旨の見出しが躍った。翌七月二十一日、一面編集長署名の社説が出る。見出しは「なぜ検死審問をやらないのか。今すぐやれ、ガーバー博士」。

この見出しが街に出た数時間後、検死官ガーバーは翌日から検死審問を開くと発表した。新聞が一面で命令し、公職者がその日のうちに従った。当時のクリーブランドでは、それが普通に起きた。

そして七月三十日、プレスは決定的な一発を撃つ。一面全部を使った社説の見出しは「なぜサム・シェパードは刑務所にいないのか」。後刷りの版では、これがさらに直截に「ぐずぐずするな、引っ張ってこい」に差し替えられた。

その日の夜、サム・シェパードは逮捕された。第一級殺人での起訴だった。

この因果関係の露骨さは、後年アメリカの法学部で必ず教材になる。新聞が「逮捕しろ」と書き、その晩に逮捕がある。新聞が「審問をやれ」と書き、翌日に審問が始まる。

プレスの側の言い分は、権力に近い一族が身内をかばい、警察が忖度して動かないから世論の力で押した、というものだった。実際そこには一片の理があった。サムの兄弟が彼を現場から連れ出し、最初の数日は身内の病院で彼を守っていたのは事実だからだ。ただ、報道が捜査を突き動かした結果として何が起きたかというと、捜査が「サム以外の可能性」を検討する体力をほぼ失った。捜査の方向を決めたのが証拠ではなく紙面だったなら、そこから先の全部が汚染される。

体育館に集められた数百人と、テレビカメラの前の五時間

七月二十二日から始まった検死審問は、この事件のグロテスクさが最初に全開になった瞬間だった。

会場はベイビレッジの学校の体育館。数百人分の椅子が並べられ、放送機材が持ち込まれ、記者たちが前列の長机を占領し、ラジオとテレビが中継した。検死官ガーバーが議長席に座り、サム・シェパードはそこで三日間、合計五時間以上にわたって質問を浴びた。弁護人は同席を許されていない。

サムの弁護士ウィリアム・J・コリガンが書類を提出しようとしたとき、ガーバーは彼を法廷から力ずくで退去させた。そして会場の観客が拍手した。これは誇張ではなく、のちに連邦最高裁の判決文にわざわざ書き込まれた事実だ。

町の学校の体育館で、殺人の容疑をかけられた男が、弁護人なしで、テレビカメラの前で五時間問い詰められ、その弁護人が追い出されるのを観客が喝采して見ていた。

このときすでに、陪審員になるかもしれない人々の頭の中に、事件の「筋書き」が刷り込まれていた。しかもその筋書きは、法廷で検証されたものではなく、新聞と体育館が作ったものだった。

二十六フィート掛ける四十八フィートの部屋で起きていたこと

一審は一九五四年十月十八日に始まり、十二月二十一日まで、およそ九週間続いた。裁判長はエドワード・J・ブライシン判事、検察側の主任はジョン・J・マホン、弁護側はコリガンだった。

法廷の物理的な大きさは、およそ二十六フィート掛ける四十八フィート。日本の感覚だと、八メートル掛ける十五メートルくらいの部屋だ。その中に、法廷の柵の内側――本来は弁護人と当事者だけが入る神聖な区画に、記者用の長机が特設された。二十人ほどの記者が、陪審席から数歩、被告人席からも数歩の距離に座り、審理のあいだじゅうサム・シェパードを至近距離から観察してメモを取った。柵というのは証人と陪審員を騒音から守り、弁護人と被告人が小声で相談できるようにするためにある。その機能が丸ごと潰された。

もっとひどいのは陪審員の扱いだ。陪審員候補の氏名と住所は、審理が始まる前に新聞に掲載された。当然、候補者のところには匿名の手紙や電話がかかってきた。審理中、陪審員の写真はクリーブランドの新聞だけで四十回以上掲載された。評決前日には、昼食に出た陪審員たちが一人ずつ写真に収まり、それが紙面に載った。しかも陪審は隔離されていない。毎晩自宅に帰り、新聞を読み、ラジオを聴くことができた。

審理の途中、ニューヨークのある女性がシェパードの愛人で彼の子を産んだという内容の放送が流れた。陪審員のうち少なくとも二人が、その放送を聞いたと認めている。ブライシン判事はその二人を解任しなかった。ちなみに裁判所の三階、陪審員の評議室のすぐ隣には、地元ラジオ局のWSRSが放送スペースを構えていて、審理中も評議中もそこからニュースを流し続けていた。

検察の柱は動機だった。ベイビュー病院の二十四歳の検査技師、スーザン・ヘイズとの関係だ。彼女は法廷に立ち、カリフォルニアでの旅行を含む関係の中身を語った。一九五四年のアメリカで、既婚の医者が病院の若い技師と関係を持っていたという事実がどれだけ致命的だったかは、想像がつくと思う。陪審にとって、それは動機である以前に人格の話だった。

弁護側は、エルキンズ医師の診断書で頸椎損傷は偽装不可能だと主張し、あの血まみれの寝室にいたはずの人物のズボンに血痕がほとんどないことを突いた。だが、九週間かけて積み上げた技術論は、新聞が三か月かけて刷り込んだ物語には勝てなかった。

十二月二十一日、四日間の評議のあと、陪審は第二級殺人で有罪の評決を返す。第一級殺人での起訴に対して第二級での有罪という結果は、法律家のあいだで長く「陪審が確信を持てなかった証拠」と読まれてきた。それでも量刑は終身刑だった。

有罪判決の直後、サムの母は自ら命を絶ち、その数週間後に父も病で亡くなっている。一つの家が、一つの夏で消えた。

「あいつは間違いなく有罪だ」――判事の一言が十年後に効いてきた

サムはコロンバスのオハイオ州刑務所に送られた。コリガンは六年にわたって上訴を続け、全部退けられ、一九六一年七月三十日に死んだ。そのあと引き継いだのが、当時まだ二十代後半の若手弁護士F・リー・ベイリーだった。ベイリーはこの事件で全米区の弁護士になる。

流れを変えたのは、法廷の外の一言だった。

ドロシー・キルガランという、当時アメリカで最も有名だった女性ジャーナリストがいる。彼女は一九五四年の一審を取材していて、有罪評決が出たとき、一面記事で「衝撃を受けた」と書いた数少ない記者の一人だった。そのキルガランが一九六四年、ニューヨークの海外記者クラブの席で、十年前の裁判の裏話を明かす。陪審選任が始まる前に、ブライシン判事が彼女に個人的にこう言ったというのだ。「まあ、あいつは間違いなく有罪だよ。疑問の余地はない」。

裁判長が、陪審を選ぶ前から結論を持っていて、それを記者に漏らしていた。ブライシン判事は一九五八年にすでに死んでいたので、本人に確認する手立てはない。だがベイリーはすぐにキルガランから宣誓供述を取り、それを人身保護請求に添えた。

一九六四年七月十五日、連邦地裁のカール・ワインマン判事が請求を認め、一九五四年の裁判を「司法の茶番」と呼んだ。サム・シェパードは、およそ十年ぶりに刑務所の外に出た。翌一九六五年三月四日、第六巡回区連邦控訴裁がこれを覆す。そして事件は連邦最高裁へ行った。

一九六六年六月六日、最高裁が言ったこと

判決は八対一。多数意見を書いたのはトム・C・クラーク判事だった。反対はヒューゴ・ブラック判事一人だ。

クラーク判事の文章は、判決文としてはかなり感情がこもっている。彼は一審の法廷を指して「法廷では騒乱が支配していた」と書き、審理全体を「カーニバルのような雰囲気」と表現した。この二つの言葉は、そのままアメリカの法律用語として定着した。

判決の核心はこうだ。裁判所は、被告人を「大規模で、浸透的で、偏見に満ちた報道」から遮断する義務を負っている。そしてブライシン判事はその義務を果たさなかった。肝心なのは、最高裁が「陪審が実際に偏見を持っていた」という個別の立証を求めなかったことだ。あの環境なら公正な裁判は成り立たない、という判断でよい、と言い切った。ここが後の裁判実務にとって決定的だった。

そのうえでクラーク判事は、裁判官がやるべきだったことを具体的に並べた。報道が沈静化するまで審理を延期すること。報道に汚染されていない郡へ管轄を移すこと。陪審を隔離すること。法廷内の記者の人数と行動に厳格なルールを設けること。証人が記者に証言内容をしゃべらないよう遮断すること。そして、警察や検察や弁護人といった当事者側からの情報の流出そのものを止めること。

最後の点は特に重い。事件の関係者が記者に情報を流すのを裁判所が抑えるべきだ、という発想は、この判決以降アメリカの標準になった。

今の刑事裁判で当たり前に見かけるもの――報道規制命令、陪審の隔離、管轄変更、法廷内のカメラ規制、捜査当局の広報ルール。あれらの多くが、この判決を出発点にしている。日本で言えば、被疑者段階の実名報道や捜査情報のリークをどう扱うかという議論の、アメリカ側の原型がここにある。

皮肉なのは、この判決が同時に「報道の自由を制限してよい」という側の根拠にもなったことだ。クラーク判事はあくまで「裁判所が自分の法廷を管理しろ」と言ったのであって、報道機関を罰しろとは言っていない。にもかかわらず、この判決以降、裁判官が記者に猿ぐつわを噛ませる方向の運用が広がり、報道側は報道側で「シェパード判決の濫用だ」と抗議し続けることになった。この綱引きは今も終わっていない。

五ポンドの袋に十ポンドの戯言――二度目の裁判

再審は一九六六年十月二十四日に始まり、十一月十六日に終わった。前回九週間かかったものが、三週間ちょっとで片づいた。裁判長はフランシス・タルティ判事。今度は陪審が最初から隔離され、法廷内の記者は数を絞られ、柵の内側に机は置かれなかった。

ベイリーの戦術は徹底して攻撃的だった。特に有名なのが検死官ガーバーへの反対尋問だ。ガーバーは一審以来「凶器は外科用の器具だ」と主張し続けていた。ベイリーは、ではその器具を法廷に出せと迫り、探しに行ったのかと聞き、十二年間探して何が見つかったのかと詰めた。最終的にガーバーは、そんな器具は一度も発見されていないし、サム・シェパードとその器具を結びつけるものは何もない、と認めるしかなかった。

弁護側の技術的な柱は、ポール・カークの血痕分析だった。カークはカリフォルニア大学バークレー校の犯罪学者で、一九五五年一月に現場の家に入り、血の飛び散り方を一つずつ分析していた。彼の結論は、加害者は左利きの可能性が高いこと――サムは右利きだ――そして寝室のクローゼットの扉に付いた大きな血痕が、被害者のものでもサムのものでもない第三者のものである可能性が高いこと。今でこそ血痕飛沫分析は当たり前の技術だが、一九五五年にこれを法廷に持ち込むのは相当に先進的だった。一審の裁判所はカークの報告を新証拠として受け付けなかったが、再審では正面から使われた。

ベイリーは最終弁論で検察の主張を「五ポンドの袋に十ポンドの戯言を詰め込んだようなものだ」と切り捨てた。サムもスーザン・ヘイズも証言台に立たなかった。立たせない、というのは弁護戦術としてはかなり強気だが、機能した。十一月十六日、およそ十二時間の評議のあと、陪審は無罪の評決を返した。

十二年と四か月ぶりに、サム・シェパードは法的に自由な人間になった。

自由になった男が、自由をどう使ったか

無罪判決の三週間後、彼はジョニー・カーソンの『トゥナイト・ショー』に出演している。この時点でもう、彼はただの元被告人ではなく、全米が知っている顔になっていた。彼は『耐えて、そして打ち勝つ』という手記を出した。ゴーストライターを務めた人物はのちに、書きながら彼の無実に疑いを持っていたと語っている。

私生活も派手に動いた。一九六四年に釈放された三日後、彼は獄中の彼と文通を続けていたドイツ人女性アリアーヌ・テッベンヨハンスと結婚した。この結婚は一九六九年十月に破綻する。彼はオハイオ州ゲイハナで医院を開いたが、十年のブランクは外科医にとって致命的だった。手が戻らない。加えて酒がひどくなった。

一九六八年五月、彼はヤングスタウンの整骨病院で手術の権限を与えられる。その五日後、椎間板の手術で動脈を傷つけ、患者は翌日死亡した。同じ年の八月には別の患者の腸骨動脈を傷つけ、その患者も内出血で亡くなっている。医療過誤訴訟が起こされ、彼は辞職した。

その次の展開は、この事件の年表の中でいちばん現実感がない。

一九六九年八月、四十五歳のサム・シェパードはプロレスラーとしてデビューした。リングネームは「キラー」サム・シェパード。四十試合以上をこなし、タッグを組んだのはジョージ・ストリックランドという現役レスラーで、サムは死の半年前にストリックランドの娘コリーンと結婚している。ちなみに彼が使っていた顎の神経を締め上げる関節技は、のちに別のレスラーが「マンディブル・クロー」の名前で有名にした。元神経外科医が考案した技だと言えば、それらしく聞こえる。

一九七〇年四月六日、彼はコロンバスの自宅で死体で発見された。四十六歳。死因はウェルニッケ脳症、要するに末期のアルコール依存による脳の損傷だった。一日にウイスキーを一リットル半近く飲んでいたと伝えられている。

無罪になってから死ぬまで、三年四か月しかなかった。彼が刑務所で過ごした時間の三分の一だ。この落差を前にすると、無罪という言葉が何を回復して、何を回復しなかったのかについて、簡単なことは言えなくなる。

息子が始めた、終わらない裁判

事件の夜、隣の部屋で眠っていて何も知らずに朝を迎えた七歳の少年は、サミュエル・リース・シェパードという。家族は彼を「チップ」と呼んだ。彼は母を失い、父を十年間刑務所に取られ、十六歳のときにその父の遺体と対面した。

大人になった彼は、父の名誉を回復するために動き始める。

一九九七年九月、サム・シェパードの遺体が墓から掘り出された。目的はDNA鑑定のための試料採取だ。法医学者が解剖を行い、DNA分析はモハマド・タヒルという法科学者が担当した。結果として示されたのは、現場から採取された血液のうちに、マリリンのものでもサムのものでもない第三者の血液が存在する、という所見だった。少なくとも「あの家にはもう一人いた」という主張に、四十三年ぶりに物的な足場ができた。

一九九九年には、マリリンの遺体も裁判所命令で掘り出された。狙いは、彼女が身ごもっていた胎児のDNAを調べることだった。原告側代理人テリー・ギルバートはこのとき、その胎児がかつて解剖されていた事実がこれまで一度も開示されていなかったと指摘している。ただ、四十五年という時間には勝てなかった。組織の劣化が激しく、父性の判定はできなかった。

そして二〇〇〇年、クーヤホガ郡の民事法廷で「不当拘禁」を争う裁判が始まる。原告はサムの遺産管理人でありサムの旧友でもあったアラン・デイビス、実質的な主導者は息子のサム・リース・シェパードだった。裁判長はロナルド・サスター判事。審理は十二週間に及び、七十六人の証人が立ち、証拠物は数百点に達した。半世紀近く前の殺人事件が、もう一度まるごと法廷に持ち込まれたわけだ。

結論は原告の敗訴だった。二〇〇〇年四月十二日、八人の陪審は、わずか三時間の評議で全員一致の評決を出す。原告は、サム・シェパードが不当に拘禁されたことを証拠の優越によって立証できなかった、という判断だった。十二週間かけた審理に対して三時間。この数字が、当時の空気を全部語っている。

その後、二〇〇二年二月二十二日に第八地区控訴裁が、そもそも出訴期限が過ぎており、不当拘禁の請求権はサム本人の死とともに消滅していたのだから陪審に判断させるべき事案ではなかった、と全員一致で判示した。同年八月、オハイオ州最高裁は上告を受理しなかった。法的には、これで終わっている。

ここで押さえておきたいのは、この民事裁判の敗訴は「サムが犯人だと認定された」という意味ではまったくない、ということだ。刑事の無罪判決は一九六六年に確定していて、それは動かない。民事で問われたのは「州が不当に彼を閉じ込めたことを、原告側が立証できるか」という別の問題だ。立証責任は原告にあり、原告はそれを果たせなかった。無実の証明と、不当拘禁の証明は、ぜんぜん違う作業なのだ。この区別を飛ばして「結局クロだった」と要約する記事は今でも山ほどあるが、それは単純に間違っている。

説その一・彼がやったのだという見方

ここからは、七十年のあいだに積み上がった主要な説を、一つずつ根拠と反証つきで見ていく。念のため書いておくと、この事件で有罪が確定した人間は一人もいない。サム・シェパードは無罪判決を受けており、以下はすべて「そう主張する説がある」という話だ。

まず本人犯行説。検察が一九五四年と一九六六年の両方で立てた筋で、いまだに最も支持者が多い。

根拠として挙げられるのは、密室に近い状況で家族三人しかいなかったこと、侵入の痕跡が乏しいこと、犬が吠えなかったこと、盗まれたはずの品が庭の茂みから緑の袋に入って出てきたという偽装くさい状況、スーザン・ヘイズとの関係という動機、そして事件後の一族の身内固め的な振る舞いだ。血まみれの寝室にいた人物にしてはサムの衣服に血が少ない、という点も、上着を脱いでいたなら説明がつく、と読まれてきた。

反証も同じくらい厚い。まず頸椎の損傷だ。第二頸椎まわりの傷と反射の異常は、自分で作ろうとして作れるものではないというのが当時の神経外科医の見立てだった。次に凶器が七十年間出てこないこと。家の中でも湖でも見つからず、しかも捜索は事件直後から相当に大がかりだった。加えてポール・カークの血痕分析が指し示した左利きという特徴は、右利きのサムと合わない。そして一九九七年以降のDNA所見が示した第三者の血液。

決定的なのは、あの日の彼の行動と時間の使い方が、計画殺人としてはあまりに粗雑で、衝動殺人としては後始末が丁寧すぎるという、居心地の悪い中間に落ちていることだ。どちらの類型にもきれいに入らない。

説その二・外から誰かが入ってきたのだという見方

第三者侵入説は、要するにサムの供述をそのまま採る立場だ。

夏の夜、湖側の扉は開いていたか鍵がかかっていなかった可能性が高い。湖岸から庭の階段を上がれば、誰でも家の裏手に到達できる。当時この一帯では空き巣が続いていた。金目当てで入った人間が二階で鉢合わせしてパニックを起こした、と考えると、財布から札が抜かれていたことも、庭の茂みの緑の袋も、素直に説明がつく。慌てて持ち出したものを、逃げる途中で捨てたわけだ。

そして何より、DNA所見が第三者の血液の存在を示した。侵入者が家の中で怪我をしたなら、その血がそこにあるのは当然だ。マリリンの歯が折れていたのに口内の損傷が少なかったという件も、彼女が相手に噛みついたという解釈につながる。

反証はどうか。まず犬が吠えなかった件は、この説にとって都合が悪い。見知らぬ人間が夜中に入ってきたのに、家の犬が誰も起こさなかったのは説明しづらい。息子が最後まで眠っていたことも同様だ。

そして最大の弱点は、その第三者の血液が「いつ付いたか」を特定できないことにある。血液型の検査が行われた一九五五年の技術水準、四十年以上の保管、繰り返された取り扱い。二〇〇〇年の民事裁判では、被告側が「証拠は数十年のあいだに汚染されている」と主張し、陪審はそちらを取った。クローゼットの扉の血痕については、当時の型判定でO型とされていたことも争点になった。DNAが「別人がいた」と言っているのか、「別人の血が四十年のあいだに混ざった」と言っているのか、そこを厳密に切り分けられない。

説その三・窓を拭きに来ていた男だという見方

この事件を語るとき必ず出てくる名前がリチャード・エバーリングだ。もう一度書くが、彼はマリリン・シェパード殺害について起訴も有罪判決もされていない。以下は、彼を犯人と主張する側が積み上げてきた材料と、それに対する反論だ。

エバーリングは一九二九年生まれ。里子として転々とした少年期を送り、一九四八年に自分の姓をエバーリングに変えている。清掃と窓拭きの会社を経営していて、レイクロード沿いの家々を得意先にしていた。シェパード家もその一軒だ。彼は事件のあった時期に同家の窓を拭いており、指を切って屋内で手当てをしたと述べている。つまり彼自身の血が家の中にあった可能性を、彼自身が認めていた。

一九五九年、彼は連続する空き巣の件で刑事に事情を聞かれ、自分の「戦利品」を見せた。その中に、マリリン・シェパードの指輪が二つ含まれていた。彼はサムの兄弟の家から持ち出したと説明した。マリリンの遺品を保管していた箱には、彼女の名前が書かれていたという。

彼は生涯にわたって、周囲の女性の不審な死と縁が切れなかった。裕福な未亡人エセル・メイ・ダーキンの件では、書類の偽造なども絡んで一九八九年に殺人で有罪となり、終身刑を受けている。ダーキンの姉妹二人も不審な死に方をしていた。一人は殴られて絞殺され、もう一人は地下室で転落して四肢を骨折している。獄中の彼が、同房者や介護に関わっていた人物に対して「マリリン・シェパードを殺したのは自分だ」という趣旨のことを語った、という証言も複数出た。二〇〇〇年の民事裁判では、キャシー・ワグナー・ダイアルという女性が、一九八三年にエバーリングから告白を受けたと証言している。

反証はしっかりある。まず血液型の問題だ。決め手になるはずのクローゼットの扉の血痕は、一九五五年の判定でO型とされていた。エバーリングの血液型はA型だ。DNA鑑定については、原告側の専門家が「ある血痕はエバーリングのものである確率が九割」と述べたが、この意見は証拠採用のルールで法廷に入らなかった。別の重要な血痕については、成人白人の八割以上と一致してしまうという指摘もあった。つまり「彼を排除できない」という程度で、「彼だと特定できる」水準ではなかった。

彼が窓を拭いた際に自分の血を残したという説明も、犯人説の側から見れば「予防線」に見えるし、無関係説の側から見れば「素直な事実」に見える。同じ発言が、立場によって正反対に読める。獄中の告白についても、被告側は証言者の信用性を徹底的に突いた。刑務所での自慢話や、事件から三十年後の記憶に、どこまで証拠価値を認めるか。エバーリングは一九九八年七月に獄中で死んだので、本人を法廷に立たせて確かめる道は永久に閉じた。

余談として、F・リー・ベイリーは二〇〇〇年の民事裁判で証言し、一九六六年当時に自分がエバーリングを容疑者候補から外した理由を語っている。彼はポリグラフに通ったと聞いていたからだ、と。そして、独立した専門家がその結果を「不確定または欺瞞の兆候あり」と再評価していたと知っていたなら、再審でエバーリングを別の容疑者として法廷に持ち出しただろう、とも述べた。これは、一九六六年の無罪判決が「別の犯人像を示さずに取った無罪」だったことの裏返しでもある。

説その四・隣の家の話をする人たちがいる

主要三説の外側に、根強く語られてきた見方がもう一つある。事件の朝いちばんに現場に入ったスペンサー・ハウク町長とその妻エスターをめぐるものだ。弁護側の一部は当時から、ハウク夫妻の証言の細部が変わっていることや、マリリンとの近所づきあいの深さを問題にしていた。

ただ、この説を支える物証は、他の三説と比べても明確に薄い。動機として語られる話は伝聞と推測の域を出ず、時系列上の詰めも甘い。それでも消えないのは、あの朝いちばんに現場に触れたのが警察ではなく隣人だったという、初動の異常さそのものが人の想像を掻き立てるからだ。ここも当然、有罪判決を受けた人間は誰もいない。「そういう見方をする人がいる」以上のことは書けないし、書くべきでもない。

誰かの声で聞いたほうがいい話が、いくつかある

事件の輪郭を年表でなぞると、どうしても抜け落ちるものがある。人の言葉だ。この事件には、七十年のあいだにいろんな立場の人間が残した記録が積み上がっていて、そのどれもが同じ夜を違う角度から照らしている。

ひとつめ。ドロシー・キルガランのこと。

彼女は一九五四年当時、アメリカで最も名前の売れた女性ジャーナリストで、テレビのクイズ番組のレギュラーでもあった。つまり、クリーブランドの地元記者とはまったく違う立ち位置から一審を見ていた。彼女は有罪評決が出た日、一面に「衝撃を受けた」と書いた。検察の立証には穴が多く、それで終身刑が出たことに納得がいかない、という主旨だった。当時のクリーブランドの空気の中で、これはかなり勇気のいる原稿だ。

そして十年後、彼女は海外記者クラブの席で、ブライシン判事が陪審選任の前に自分に漏らした言葉を明かした。「あいつは間違いなく有罪だ。疑問の余地はない」。この一言が、彼女の宣誓供述という形で人身保護請求に添えられ、一九六四年七月にサム・シェパードを刑務所から出す一撃になる。

キルガラン自身は一九六五年十一月に死んでいて、翌年の最高裁判決も、無罪判決も見ていない。自分の証言が何を動かしたかを、彼女は知らないままだった。

ふたつめ。スーザン・ヘイズのこと。

彼女は事件当時二十四歳、ベイビュー病院の検査技師だった。彼女がやったことは、既婚の医師と関係を持ち、その事実を法廷で聞かれて答えた、それだけだ。にもかかわらず一九五四年の彼女は、全米の新聞に顔と名前を晒され、「殺人の動機」という役柄を与えられた。二十四歳の女性が、自分の私生活を国じゅうの朝刊で読まれる。彼女はその後も長く沈黙を守り、この事件について進んで語ることをほとんどしなかった。

ちなみに、彼女はのちに、あるテレビ番組の音楽担当者と結婚している。その番組が『逃亡者』だ。この偶然が、後述する都市伝説にさらに燃料をくべることになるのだが、彼女自身にとっては、ただ人生が続いただけの話だっただろう。事件記事の中で最も雑に消費され続けている人物は、たぶん彼女だ。

みっつめ。一九五四年の陪審のこと。

彼らは隔離されず、毎晩家に帰り、自分たちの写真が四十回以上載った新聞を読み、匿名の電話を受けながら九週間を過ごした。評決前日には昼食休憩中に一人ずつカメラの前に立たされた。彼らは第一級殺人の起訴に対して、四日の評議のあと第二級殺人という答えを返している。第一級なら死刑の可能性があった。第二級を選んだということは、彼らの中に「計画的だったとまでは言い切れない」という留保があったことになる。

あの環境で九週間、名前も住所も顔も晒されたまま座り続けて、それでも留保を残した。彼らを責めるのは簡単だが、最高裁が問題にしたのは陪審の資質ではなく、彼らをそんな環境に放り込んだ裁判所の側だった。この順番は間違えないほうがいい。

よっつめ。息子のサム・リース・シェパードのこと。

彼は七歳で母を失い、その日から「殺人犯の息子」というラベルを貼られて生きた。学校でどんな目に遭ったかは想像がつく。大人になった彼は歯科衛生士や語学教師として働き、やがて死刑制度の廃止運動に深く関わるようになる。父の名誉回復のための民事訴訟は、そういう長い道のりの一部だった。

三時間で敗訴の評決が出たとき、彼はそれでも、この裁判を起こしたこと自体は間違っていなかったと語り続けている。彼にとっての目標は勝訴ではなく、記録に残すことだった。父の遺体を掘り起こし、母の遺体を掘り起こす決断をするというのが、どういう重さかを考えると、ここは軽々に評価できない。

『逃亡者』は本当にこの事件から生まれたのか

さて、日本でこの事件が語られるとき、九割方セットで出てくるのがテレビドラマ『逃亡者』の話だ。

妻殺しの濡れ衣を着せられた医師リチャード・キンブルが、真犯人である隻腕の男を追って全米を逃げ回る。一九六三年から一九六七年までABCで放送され、最終回は当時の全米視聴率記録を作った。一九九三年にはハリソン・フォード主演で映画化されている。

この筋書きがシェパード事件に似ているのは、誰が見てもそうだ。医師、殺された妻、被告人だけが見たという謎の男、そして真犯人を追う執念。だが、作り手の側は一貫してこれを否定してきた。

原案者のロイ・ハギンズは、シェパード事件をもとにしたという説を繰り返し否定している。彼が挙げた着想源は、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』における追う者と追われる者の構図、西部劇の放浪者もの、そしてヒッチコック的な巻き込まれ型サスペンスだった。

細部を見ても、決定的な違いがある。サム・シェパードが見たと述べたのは「ふさふさした髪の男」だ。ドラマのキンブルが追うのは「片腕の男」だ。ふさふさの髪を片腕に置き換える理由が、もし本当に事件を下敷きにしていたのなら、どこにもない。むしろ「そのまま使わなかった」ことのほうが説明を要する。加えて、キンブルは有罪判決を受けて逃走する立場だが、シェパードは服役していた。逃げていない。

一方で、当時の視聴者がこの二つを重ねて見ていたのは間違いない。放送が始まった一九六三年、シェパードはまだ獄中にいた。全米が知っている「妻殺しの医師」がいる状況で、妻殺しの濡れ衣を着た医師のドラマを流せば、視聴者の頭の中で勝手に接続される。しかも前述のとおり、この番組の音楽担当者はスーザン・ヘイズと結婚している。偶然としてはできすぎているが、偶然は偶然だ。

結論としては、直接の翻案ではないが、無関係でもない、というあたりが妥当なところだと思う。ハギンズは事件を下敷きにしていないと言い、それを疑う具体的な証拠もない。だがこの企画が通り、当たった背景に、当時のアメリカが「無実の男が新聞に殺されるかもしれない」という感覚を共有していたことは確実にある。ドラマがシェパード事件をなぞったのではなく、シェパード事件がドラマの土壌を耕した、という言い方のほうが実態に近い。

ネットの向こうで七十年目の議論が続いている

この事件は、インターネット以前から議論され尽くしているようでいて、実は掲示板やSNSの時代になってからのほうが議論が細かくなっている。過去の裁判記録や新聞紙面が大量にデジタル化され、誰でも一次資料に近いものを読めるようになったからだ。

英語圏の未解決事件系のコミュニティで長く続いてきた主流の見方は、意外にも「サム犯行説寄り」だ。理由は身も蓋もなくて、家庭内で妻が殺されたとき統計的に最も疑わしいのは配偶者だから、というものだ。加えて、不倫という動機が明確にあり、侵入の痕跡が薄い。この「ベイズ的に考えろ」という議論はかなり強い。

これに対する反論も洗練されている。統計的な事前確率は捜査の出発点であって結論ではない、という指摘がまず来る。そして、この事件で最も奇妙なのは「凶器が七十年出てこない」ことだと。家庭内の衝動的な犯行なら、凶器は家の中か近くにあるのが普通で、そうでない場合は計画性を疑うことになる。だが計画性を疑うなら、あの粗雑な現場と辻褄が合わない。この矛盾を統計だけで潰すのは無理だ、という反論だ。

血痕分析をめぐる議論も盛んだ。ポール・カークの一九五五年の分析を、現代の血痕飛沫分析の水準から再検証する試みは何度も行われてきた。カークの手法は当時としては先進的だったが、現代の基準で見ると解釈の余地が大きい、という指摘は専門家からも出ている。特に「左利き」の推定については、飛沫の分布から利き手を断定するのは現在では慎重に扱われる。ただ、カークの主張のうち「クローゼットの扉の血痕は第三者由来の可能性がある」という部分は、後年のDNA所見と方向が一致しているのが面白いところだ。

エバーリング説については、ネット上の温度差が激しい。彼の経歴と周辺の不審死の多さから「限りなく黒に近い」と見る層と、「他の事件で有罪だからといってこの事件で犯人ということにはならない」と冷静に線を引く層が、延々と噛み合わないまま続いている。後者の指摘はまっとうで、血液型の不一致という具体的な反証がある以上、感情で埋めていい溝ではない。

もう一つ、ここ十年ほどで存在感を増しているのが「報道倫理の教材として読む」層だ。事件そのものの真相よりも、一九五四年のクリーブランド・プレスがやったことを現代のSNSに重ねて論じる。一面社説で逮捕を要求し、その日のうちに逮捕がある構図は、今なら炎上と世論の圧力に置き換えられる。違うのは、当時は新聞社という単一の主体が責任を負っていたのに対し、今は誰も責任を負わないことだ、と。この読み方が広がってきたのは、たぶん健全なことだと思う。

なぜ七十年たっても、この話は終わらないのか

理由はいくつもあるが、根っこは三つだと思う。

一つめは、物証が中途半端に多くて中途半端に少ないことだ。凶器がない。目撃者がいない。しかし血痕はあり、DNAの所見もあり、緑の袋も、頸椎の傷も、庭の階段も残っている。何もなければ人は諦める。全部あれば結論が出る。ちょうど中間にあるものが、いちばん長く人を掴んで離さない。

二つめは、司法が二つの相反する答えを出したまま止まっていることだ。一九五四年に有罪、一九六六年に無罪、二〇〇〇年に「不当拘禁の立証は失敗」。法的にはこれで整合しているのだが、一般の感覚からすると三回とも答えが違うように見える。しかも三つとも、真犯人が誰かという問いには答えていない。裁判は「この人がやったと証明できるか」を扱う装置であって、「では誰がやったのか」を答える装置ではない。この当たり前のズレが、この事件では極端な形で露出している。

三つめは、被害者が置き去りにされてきたことだ。マリリン・リース・シェパードは三十一歳で、二人目の子を身ごもっていた。夫と高校時代からの付き合いで、一九四五年にカリフォルニアで結婚し、九年間の結婚生活のあいだに一人の息子を育てた。彼女がどんな人だったかを丁寧に語る記事は、七十年のあいだにほとんど書かれていない。彼女は事件の中心にいるのに、いつも「動機」や「証拠」の背景として扱われてきた。一九九九年には、真相究明のために遺体まで掘り出された。彼女の遺族にとって、この七十年は一度も終わっていない。

そして最後に、いちばん厄介な理由がある。この事件を追いかける人の多くは、実は真犯人を知りたいのではなく、「一九五四年の夏に起きたこと」に納得したいのだ。

新聞が一面で逮捕を要求し、その晩に逮捕があり、学校の体育館で弁護人が観客の拍手の中で追い出され、二十六フィートの法廷の柵の内側に記者の机が置かれ、陪審員の顔が四十回も紙面に載り、評議室の隣からラジオが流れていた。あれは何だったのか。あんなことが本当にあってよかったのか。連邦最高裁は一九六六年に「よくなかった」と答えたが、それは手続きの話であって、失われた十年と、一つの家族と、一人の女性の人生については何も答えていない。

答えの出ていない問いが残っているかぎり、人は湖畔のあの家に戻り続ける。

同じ名前で呼ばれている、二つの別々の事件

ここまで書いてきて、どうしても最後に整理しておきたいことがいくつかある。

まず、この事件の「二重構造」について。サム・シェパード事件は、実のところ二つの別々の事件が同じ名前で呼ばれている状態にある。

一つは一九五四年七月四日未明にベイビレッジの家で起きた殺人事件で、これは未解決だ。もう一つは、一九五四年七月から十二月にかけてクリーブランドで起きた司法事件で、こちらは決着がついている。連邦最高裁が一九六六年六月六日に八対一で、あれは公正な裁判ではなかったと判断した。ここは動かない。

にもかかわらず、この二つはずっと混同されてきた。「シェパードは無罪になった」と言うとき、それは「彼が殺していないと証明された」ではなく「州が彼の有罪を適正な手続きで証明できなかった」という意味だ。逆に「彼は結局怪しい」と言うとき、その根拠の多くは一九五四年の汚染された情報環境の中で作られた印象の残滓である可能性がある。二つの事件を切り分けて考えないと、七十年前の新聞が仕込んだ枠組みの中で議論し続けることになる。これは案外、今の私たちにも起きていることだ。

次に、証拠の時間的劣化という問題。この事件の面白さと絶望は、後年の科学が確かに新しいことを言えたのに、それが決定打にならなかったところにある。

一九九七年のDNA分析は「第三者の血液がある」と示した。これは一九五四年には絶対に得られなかった情報だ。だが同時に、四十三年という時間は、その血液が「事件の夜に付いた」ことを保証してくれない。証拠は保管され、運ばれ、開かれ、触られ、また閉じられる。その一回一回が情報を薄める。

二〇〇〇年の陪審が三時間で結論を出したのは、原告側の科学的主張が弱かったからというより、その主張が背負わされていた「四十六年ぶんの不確かさ」が重すぎたからだと思う。冷凍保存も証拠管理の厳格化も、まだ発明されていなかった時代の事件を、現代の技術で解こうとするときにいつも出てくる壁がここにある。似た構図は他の古い事件の再検証でも繰り返し起きていて、DNA鑑定万能論への冷や水として、この事件はかなり教育的だ。

一九五四年の紙面には、少なくとも書いた人の名前があった

三つめに、報道と司法の距離の話。

シェパード判決がアメリカにもたらしたものは、単なる「マスコミを抑えろ」ではなかった。クラーク判事が並べた処方箋を読み返すと、彼が最も強く求めていたのは、裁判所が自分の法廷を管理することと、当事者側からの情報流出を止めることだった。つまり、悪いのは記事を書いた記者だけではなく、記者に情報を流した警察と検察と、それを放置した裁判官である、という構図だ。

この視点は今でも有効だと思う。捜査段階のリークで容疑者像が固まり、その像が世論を作り、世論が捜査に圧力をかけ、圧力が新たなリークを生む。この循環は、媒体が新聞からSNSに変わっただけで、構造としては一九五四年のクリーブランドとまったく同じだ。

むしろ今のほうが悪い面がある。一九五四年にはルイス・B・セルツァーという名前と顔のある責任者がいたが、今のタイムラインには誰も責任者がいない。あの夏に「なぜサム・シェパードは刑務所にいないのか」と一面に書いた人間は、少なくとも自分の名前でそれを書いた。

四つめに、無罪判決のあとに残るものについて。

サム・シェパードは一九六六年十一月十六日に無罪になり、一九七〇年四月六日に四十六歳で死んだ。三年四か月だ。その間に彼は医師として戻ろうとして失敗し、二度の医療事故を起こし、酒に沈み、四十五歳でプロレスラーになった。

この経過を「やはり後ろ暗いところがあったからだ」と読む人もいるが、十年の収監と全米規模の晒し者としての生活を経て、元の職業に元の水準で戻れる人間がどれだけいるかを考えたほうがいい。手術というのは毎日やっていないと確実に鈍る技術だ。彼から奪われたのは自由だけではなく、彼を彼たらしめていた技能そのものだった。無罪判決は名誉の一部を返したが、十年は返さなかった。刑事司法における救済の限界という意味でも、この人生は重い。

七十年かけて、彼女は何度も墓から出された

最後に、この事件を書くときにいちばん気をつけるべきことを書いておく。

中心にいるのはマリリン・リース・シェパードという一人の女性で、彼女は三十一歳で、二人目の子を待っていた。七十年のあいだに彼女は「事件の被害者」「動機の対象」「血痕の出所」「胎児の母親」として扱われ、そのたびに掘り起こされてきた。彼女がどんな人で、何を面白がって、何を大事にしていたのかを書き残した文章は、驚くほど少ない。

真相が知りたいという欲求そのものを否定はしないが、その欲求が七十年かけて彼女を何度も墓から出させたことは、覚えておいたほうがいい。

そして、犯人については誰も知らない。サム・シェパードは無罪判決を受けた人間であり、名前の挙がってきた第三者たちも、この事件で有罪を宣告された者は一人もいない。分かっているのは、一九五四年七月四日の未明にあの家で誰かが人を殺し、その誰かは見つかっていない、ということだけだ。

七十年たっても議論が終わらないのは、単純に、まだ何も終わっていないからだ。

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