その夏、ニューヨークの女たちは鏡の前で髪を切った
一九七七年の夏、ニューヨーク市の美容室には妙な行列ができていた。
注文はだいたい同じだった。短くしてほしい、それから色を変えてほしい。長い黒髪の女性が肩より上まで切り落とし、明るい髪の女性がわざわざ暗く染めた。ウィッグの卸問屋には注文が殺到して、在庫が追いつかなくなった。
理由はひとつしかない。街に、若い女を狙って撃つ男がいたからだ。しかも新聞の報道では、その男は「長い黒髪の女」を好んで狙っているらしい、ということになっていた。
だから人々は髪を切った。
何百万人が暮らす大都市で、髪型という個人的きわまりないものが、一斉に、恐怖によって書き換えられた。これがどれほど異常なことか、考えてみてほしい。街全体が同じ夢を見て、同じ悪夢にうなされていた。
夜の駐車場に停まった車の中で、誰かがバックミラーを何度も見た。ディスコの帰り道、若いカップルが車のドアをロックした。ラジオは新しい犠牲者の名前を読み上げ、タブロイド紙は一面に大きな活字を並べた。
そしてその活字の下には、犯人が自分で名乗った言葉があった。サムの息子、と。
この記事では、その夏に何が起きたのかを、できるかぎり細かく追いかけたい。事件そのものの経過、犯人が書いた手紙、報道が事件をどう加速させたか、警察がどう行き詰まりどんな偶然で終わりを迎えたか。そして事件が終わったあとに始まった長い長い論争――「犬が命じた」という供述、カルト集団関与説、犯罪者が手記で儲けることを禁じる法律の誕生まで。
半世紀近く前の話なのに、いまだに片付いていない部分がいくつもある。そこが、この事件がいまも語られ続けている理由でもある。
始まりは銃声ではなく、クリスマスイヴの刃物だった
すべての始まりとされる日付は、じつは銃声ではなかった。
一九七五年十二月二十四日、ブロンクスのコープシティという巨大な集合住宅群で、二人の女性が刃物で襲われている。ひとりは身元が最後まではっきりしなかった女性、もうひとりは十五歳のミシェル・フォアマンという少女だった。フォアマンは六か所を刺され、一週間入院した。命は助かった。
当時、この事件が後の連続銃撃と結びつけられることはなかった。犯人が自分でそう語ったのは、ずっとあとになってからだ。
この時点でのデビッド・バーコウィッツは、街の誰からも注目されていない二十二歳だった。
一九五三年にブルックリンで生まれ、生後まもなく養子に出され、ネイサンとパールというユダヤ系の夫婦のもとで育った。育ての母は彼が十代のときに癌で亡くなり、育ての父は再婚して南部へ移った。陸軍に入って韓国にも派遣され、除隊してニューヨークに戻ってきた。生みの母を探し当てて対面したこともある。仕事は郵便局や警備員などを転々とした。
要するに、どこにでもいそうな、目立たない、少し孤独な若い男だった。
ただし、目立たない生活の裏側で、彼はすでに大量の火をつけていた。
逮捕後の家宅捜索で見つかった三冊の速記用ノートには、彼が市内で起こした放火の記録がびっしり書き込まれていた。日付、場所、消防車が何台来たか。その数は二千件を超えると本人が語っている。ブロンクスの放火魔、という呼び名が非公式に使われていたほどだ。
誰も、その放火魔と、あとで街を凍りつかせる銃撃犯が同じ人間だとは思っていなかった。
一九七六年七月二十九日、最初の銃声
真夏の深夜だった。
ブロンクスのペラム・ベイ地区、バクスター・アヴェニュー沿いの路上に、一台の車が停まっていた。中にいたのは十八歳のドナ・ローリアと、十九歳のジョディ・ヴァレンティ。
ローリアは救急隊員として働いていて、その夜はディスコに行った帰りだった。ヴァレンティは看護学生。二人は車の中で話し込んでいた。時刻は午前一時をまわっていた。ローリアの両親が住むアパートはすぐそこで、彼女の父親が窓から様子をうかがっていたという話も残っている。
助手席側の窓の外に、男が立った。紙袋のようなものを持っていた。そこから拳銃を出し、ほとんど無言のまま撃った。
ローリアは首に一発を受けて即死に近い状態になった。ヴァレンティは太腿を撃たれ、車のクラクションに倒れ込んだ。三発目は外れた。男はそのまま歩き去った。
悲鳴と、鳴り続けるクラクションと、あたりの窓が一斉に明るくなる音。それが一連の事件の本当の出発点だった。
生き延びたヴァレンティは、犯人の特徴を証言した。白人男性、身長は百七十センチ台の半ば、体重は九十キロ前後、髪は短くて黒く、くせのある髪型。
ただ、この証言はあとの事件の目撃証言と少しずつ食い違っていくことになる。それが後年の論争の火種のひとつになる。
現場からは特徴的な弾丸が回収された。四四口径。当時の街中の犯罪ではあまり使われない、大きくて重い弾だった。この「四四口径」という言葉が、翌年には一種の呪文のようにニューヨーク中を駆けめぐることになる。
犯人は長い髪の女が嫌いなのか
十月二十三日、クイーンズのフラッシング、バウン・パークのそばで二件目が起きた。
停まっていた車の中にいたのは、二十歳のカール・デナロと十八歳のロズマリー・キーナン。デナロは銀行の警備の仕事をしていて、まもなく空軍に入る予定だった。
突然ガラスが割れ、デナロは頭部を撃たれた。彼はのちに、あのとき自分が何を叫んだかを繰り返し語っている。車を出せ、ここから逃げろ、と叫んだのだという。キーナンは砕けたガラスで負傷したが銃弾は当たらなかった。デナロは頭蓋骨に金属のプレートを入れる手術を受けて生還した。
この事件には、事件そのものより有名になってしまった尾ひれがある。
デナロは当時、肩まで届く長髪だった。だから犯人は彼を女性と間違えたのではないか、という推測が警察内部からもマスコミからも出た。この推測が、のちに「犯人は長い髪の女を狙う」という街の常識のようなものを作り、あの美容室の行列につながっていく。
ただし科学的には、この時の弾丸は変形がひどく、他の事件と同じ銃から撃たれたと断定できなかった。捜査上は、しばらく別件として扱われていたのだ。
十一月二十七日、クイーンズのフローラルパーク。
十六歳のドナ・デマージと十八歳のジョアン・ロミーノが、ロミーノの家の玄関先で立ち話をしていた。深夜だった。若い男が近づいてきて道を尋ねるような素振りを見せ、次の瞬間に撃った。
デマージは首を撃たれたが命に別状はなく、ロミーノは背中を撃たれた。ロミーノはその後、車椅子の生活になった。十八歳の少女が、家の玄関の前で、これからの人生をまるごと変えられてしまった。
近所の住民は、拳銃を左手に持って逃げていく金髪の男を見たと証言した。この「金髪」という証言も、のちに論争の種になる。
年が明けて一九七七年一月三十日、クイーンズのフォレストヒルズ。二十六歳の秘書クリスティン・フロイントと、三十歳のバーテンダーのジョン・ディールが、映画と食事のあとで車の中にいた。二人は婚約を考えていた。撃たれたのはフロイントで、彼女は病院で亡くなった。ディールは軽傷だった。
ここでようやく、ニューヨーク市警は複数の事件が同一犯によるものかもしれないと公に認めた。半年かかった。この半年の遅れが、のちに批判の対象になる。
教科書で顔を守ろうとした二十歳
三月八日の夕方、まだ空に少し明るさが残っている時間帯だった。
コロンビア大学で学んでいた二十歳のヴァージニア・ヴォスケリチアンが、フォレストヒルズの自宅へ向かって歩いていた。彼女はアルメニア系の移民家庭の娘で、語学に秀でていた。
前を歩いてきた男とすれ違うかたちになったとき、男が銃を向けた。彼女はとっさに、抱えていた教科書を顔の前に持ち上げた。
分厚い本で銃弾を止められるはずがない。それでも彼女はそうした。人間が最後の一瞬にする動作として、これほど胸を締めつけるものはない。
現場はフロイントが撃たれた場所から、わずか一ブロックだった。
ここで市警は本気になる。三月十日、アブラハム・ビーム市長と警察幹部が並んで記者会見を開き、ローリア殺害とヴォスケリチアン殺害は同じ四四口径ブルドッグ・リボルバーによるものだと発表した。
のちに公開された内部資料では、この弾道鑑定の一致は当時思われていたほど確実ではなかったという指摘もある。ただ少なくともこの日を境に、ばらばらだった事件は「ひとつの連続殺人」として街に提示された。
そして市警は特別捜査本部を立ち上げた。オペレーション・オメガ。
指揮を執ったのは、アイルランドのケリー県生まれで幼いころに移民してきたティモシー・ダウド副警視だった。当初五十人ほどで始まった態勢は、やがて三百人規模にふくれあがる。当時としてはニューヨーク市警史上最大の追跡態勢だった。
ダウドは部下の報告書の文法や句読点にまで赤を入れる几帳面な男で、コンマ警部というあだ名がついていた。彼が残した言葉のなかで一番有名なのは、自分の仕事は幸運が来たときに掴めるよう準備しておくことだ、というものだ。この言葉が、最後の最後で恐ろしく的確だったことがわかる。
現場に手紙が落ちていた
四月十七日、深夜。
ブロンクスのハッチンソン・リバー・パークウェイの側道に停まった車の中で、十八歳のヴァレンティナ・スリアーニと二十歳のアレクサンダー・エサウが撃たれた。スリアーニは女優を目指す大学生、エサウはレッカー車の運転手だった。二人とも助からなかった。
現場は、最初の事件があったローリアの現場からほんの数ブロックしか離れていない。犯人は最初の狩り場に戻ってきていた。
そして、車のそばの路上に、白い封筒が落ちていた。
手書きの便箋。宛先はニューヨーク市警のジョセフ・ボレリ警部。文面はねじれた大文字で書かれ、内容は支離滅裂でありながら、妙に演出過剰だった。
自分は怪物だ、自分は「サムの息子」だ、自分は小さな悪ガキだ、父さんのサムは酔うと荒れる、といった調子で始まる。父さんサムは血を求めていて、自分は殺すようにプログラムされている、というような文章が続き、最後は「また戻ってくる」で締められていた。奇妙なスコットランド訛りを模したような一節まで挟まれていた。
これは捜査上、決定的な意味を持った。犯人が自分から名乗ったのだ。
それまで新聞は「四四口径の殺人鬼」と呼んでいた。だがこの手紙以降、犯人には固有名詞がついた。サムの息子。
この名前がついた瞬間から、事件は犯罪ニュースであることをやめ、街全体を巻き込む物語になった。名前がつくと、人は語り出す。バーで、地下鉄で、職場で、誰もがサムの息子について語り始めた。捜査当局は手紙の内容の大半を伏せたが、名乗りの部分だけは漏れた。あるいは漏らさざるを得なかった。
筆跡と文面の分析には膨大な労力がかけられた。文字の形が印刷や書道の心得を思わせるという意見が出て、その線での捜査も行われた。文中の大文字の使い方が漫画のセリフに似ているという指摘から、大手コミック出版社のスタッフに意見を求めるといったことまでやっている。
三百人の刑事が、この数枚の紙を睨んでいた。
犯人は、コラムニストに返事を書いた
ニューヨークのタブロイド紙には、街の言葉で書くコラムニストという特殊な職業がある。その頂点にいたのがジミー・ブレスリンだった。
彼はデイリー・ニューズ紙で、路地裏の人間の目線から街を書く男として絶大な支持を得ていた。ブレスリンは四四口径の事件について何度も書いていた。とくに最初の犠牲者ドナ・ローリアの家族について書いた文章は、犯人の目に留まった。
五月三十日、ブレスリンのもとに手紙が届いた。
ニュージャージー州イングルウッドの消印。封筒には円を描くように文字が並んでいた。血と家族、闇と死、絶対的な堕落、そして四四。
中の便箋には、コラムニストへの奇妙に礼儀正しい挨拶が書かれていた。あなたが最近の恐ろしい四四口径殺人に関心を持ってくれていることに感謝する、というような文面だ。そして、自分はまだここにいる、夜をさまよう亡霊のように、渇き、飢え、ほとんど休まず、サムを喜ばせようと必死だ、と続く。
極めつけは末尾近くの一行だった。七月二十九日には何を用意してくれるのか、と犯人は問いかけていた。
七月二十九日は、ドナ・ローリアが撃たれた日の一周年である。手紙にはさらに、死の公爵、邪悪なるウィッカー王、地獄の二十二人の使徒、といった意味不明の異名が並んでいた。
ブレスリンはこの手紙をまず警察に見せた。その上で、内容の一部を伏せながらコラムで公開した。
これは当時も、そしていまも議論の的になる判断だ。犯人を刺激する、犯人に舞台を与える、模倣犯を生む、という批判はもっともだ。ブレスリンは、読者にはこれを知る権利がある、という立場を崩さなかった。彼はコラムの中で犯人に直接呼びかけてもいる。自首しろ、という趣旨のことを、路地裏の男の言葉づかいで書いた。
結果として何が起きたか。
その日のデイリー・ニューズは百十万部を超えて売れ、同紙史上最高の売り上げ記録を作った。ニューヨーク・ポスト紙も連日大見出しで追いかけ、タブロイド戦争は過熱した。
新聞の売り上げが伸びれば伸びるほど、街の恐怖は増幅された。恐怖が増幅されればされるほど、新聞は売れた。この循環のなかで、犯人像はどんどん怪物的に、神話的になっていった。長い髪の女を狙う、というほとんど根拠の薄い説が広まったのもこの循環のなかでのことだ。
美容室の行列は、この報道環境が作り出した現象でもある。
街が壊れていく音――大停電、暴動、そしてディスコ
ここで少し視野を広げないと、この事件の本当の温度はわからない。
一九七七年のニューヨークは、端的に言って壊れかけていた。
市は財政破綻の一歩手前まで行き、連邦政府に助けを求めたが冷たくあしらわれ、タブロイドの一面には大統領が市に死ねと言った、という趣旨の伝説的な見出しが躍った。公共サービスは削られ、警察官も消防士も減らされた。地下鉄の車両は落書きで埋まり、故障で止まった。サウスブロンクスでは建物が次々に焼け落ち、更地と瓦礫が広がっていた。その年の市内の殺人事件は千九百件を超えている。
そこへ、七月十三日の夜が来る。
午後八時三十四分、ハドソン川沿いのビュキャナン・サウス変電所に落雷があった。遮断器が復帰しないという設備上の問題が重なり、八時五十五分にはヨンカーズのスプレイン・ブルック変電所にも雷が落ちて送電線が失われた。連鎖は止まらず、午後九時三十七分ごろにニューヨーク市はほぼ全域が闇に沈んだ。
復旧が完了したのは翌十四日の午後十時三十九分。丸一日以上、街から明かりが消えていた。
一九六五年の大停電のときは、市民が助け合って和やかにやり過ごしたという美談が残っている。だが七七年は違った。
この夜、市内三十一の地区で略奪と放火が広がった。ブルックリンのブッシュウィックでは翌朝になってもまだ二十五件の火が燃えていた。クラウンハイツでは五ブロックの区間で七十五軒の店が荒らされた。ブロードウェイ沿いのある一帯では、百三十四軒が略奪され、四十五軒が火をつけられた。
最終的に千六百軒以上の店舗が被害を受け、消防は千件を超える火災に出動し、三千七百人以上が逮捕された。当時としては市史上最大の一斉逮捕だった。警察官にも五百人以上の負傷者が出た。しかも猛暑だった。気温は四十度に達していた。ビーム市長は、多くの地区にとって恐怖の夜だった、と語った。
そのすぐそばで、まったく別のニューヨークも動いていた。ディスコである。
マンハッタンのスタジオ54がオープンしたのはこの一九七七年の四月で、街の夜は同時にきらびやかでもあった。年末にはジョン・トラボルタ主演の映画が公開され、ブルックリンの若者が週末のダンスフロアで別人になる物語が世界的な現象になる。
その映画が描いたのは、まさにこの夏に撃たれた若者たちと同じ階層、同じ地区、同じ夜の過ごし方をする人たちだった。実際、六月二十六日の事件は、クイーンズのベイサイドにあるエレファスというディスコの帰り道で起きている。
その事件のことも書いておかなければならない。
二十歳のサルバトーレ・ルポと十七歳のジュディ・プラシードは、ディスコを出て停めた車の中にいた。二人が話していた話題が、よりによってサムの息子の事件だった。街の若者はみんなその話をしていた。プラシードは、あんな話をしていた自分たちが撃たれるなんて、と後年に語っている。
三発が撃ち込まれ、ルポは右腕を、プラシードはこめかみと肩と首の後ろを撃たれた。奇跡的に二人とも助かった。目撃者からは、レジャースーツを着た背の高い黒髪の男という証言と、車のナンバーの一部が出た。だがそれは犯人につながらなかった。
つまり一九七七年夏のニューヨークとは、財政危機と大停電と暴動と猛暑と連続殺人が同時に起きていて、それでも週末になると若者がディスコに出かけていた街のことだ。
この矛盾した重ね合わせが、この事件の記憶に独特の色をつけている。恐怖の物語なのに、どこかミラーボールの光が差し込んでいる。
三百人の刑事が、空振りし続けた
七月二十九日、犯人が手紙で予告した一周年の日、ニューヨーク市警は市内に非常態勢を敷いた。
覆面パトカーが恋人たちの停める路上に配置され、女性警官が囮になり、ヘリコプターまで飛んだ。何も起きなかった。街は安堵し、同時に嫌な予感を強めた。
そして七月三十一日の未明、犯人はこれまで一度も手を出していなかった区に現れる。ブルックリンだ。
ベンソンハースト、バース・ビーチ地区、シー・パークウェイの近く。二十歳のステイシー・モスコウィッツと二十歳のロバート・ヴィオランテは、その夜が初めてのデートだった。映画を観て、公園を歩いて、街灯の下に停めた車に戻った。
午前二時半ごろ、窓の外から四発が撃ち込まれた。二人とも頭を撃たれた。
ヴィオランテは左目の視力を完全に失い、右目もほとんど残らなかった。モスコウィッツは八時間の手術を受けたが、三十九時間後に亡くなった。
このときのニューヨークの空気は、もはや恐怖というより集団的な消耗だった。四か月連続で犠牲者が出ていた。市警は膨大な数の情報提供を処理し、数万件の照会をこなし、精神科病院の記録を洗い、銃器の登録簿を当たり、それでも決定打がなかった。ダウドのチームは、犯人が犯行前に現場周辺を下見しているという仮説を立てていたが、それを検証する手立てがなかった。
ここで、少し引いた話をしておきたい。
この時代の捜査には、DNA型鑑定もなければ、防犯カメラの網もなく、携帯電話の位置情報もなかった。あるのは、聞き込み、目撃証言、弾道鑑定、筆跡鑑定、そして紙の記録だけだ。三百人が動いても、手がかりがなければ空を掻くしかない。実際、市警はこの夏、まったく別の人物を有力容疑者として何度も追いかけ、そのたびに外していた。
一枚の駐車違反切符が、全部をひっくり返した
八月二日、モスコウィッツとヴィオランテが撃たれた現場の近くに住むセシリア・デイヴィスという女性が、警察に連絡してきた。
彼女は事件の夜、飼い犬を散歩させていた。ベイ十七番ストリートのあたりで、警察官が消火栓のそばに停まった車に駐車違反の切符を切っているのを見た。そのあと、腕まくりした袖の中に何か暗いものを隠すようにして歩いてくる若い男とすれ違った。彼女は不安になって足早に家に入り、その数分後に銃声を聞いた。
デイヴィスは四日間迷った末に、ようやく通報した。報復を恐れていたのだ。
刑事が自分の拳銃を同じように袖の内側に沿わせて見せると、彼女は、そう、そんな感じだった、と答えた。だが、この証言そのものより決定的だったのは、彼女がついでのように口にした情報だった。
事件の直前、あのへんで駐車違反の切符が切られていた、という一言である。
捜査本部はその夜あの地域で切られた切符をすべて洗い出した。四枚あった。そのうちの一枚は、午前二時五分ごろ、消火栓に近づきすぎて停まっていたクリーム色の一九七〇年型フォード・ギャラクシーに切られたものだった。登録名義はヨンカーズ在住のデビッド・バーコウィッツ。
ここから先の展開は、あまりにできすぎている。
八月九日、ブルックリン管内の刑事ジェームズ・ジャスティスが、あくまで参考人として話を聞くために、ヨンカーズ警察に電話をかけた。応対したのは通信係のウィート・カーという女性だった。
彼女はバーコウィッツという名前を聞いた瞬間に反応した。うちの家族はその男に嫌がらせを受けている、と彼女は言った。脅迫めいた手紙が届き、家に火をつけられかけ、飼い犬のハーヴィーが撃たれた。しかも家族の名前は、と刑事が尋ねると、彼女は答えた。父はサム・カーです、と。
サム。刑事は受話器を握ったまま固まったという。あの手紙のサムだ。ヨンカーズの、たまたま隣に住む男の飼い犬。サムの犬。
八月十日の夜十時ごろ、ヨンカーズのパイン・ストリート三十五番地のアパート前に停まっていた車の運転席で、デビッド・バーコウィッツは取り押さえられた。
刑事ジョン・ファロティコが運転席側から、ウィリアム・ガーデラ巡査部長が助手席側から挟み込んだ。車内の助手席には紙袋に入った四四口径のリボルバーが置かれ、後ろには弾薬と、現場周辺の地図と、捜査幹部宛ての新たな脅迫状が入ったダッフルバッグがあった。要するに、彼はまさに次の現場へ出かけようとしていた。
抵抗はなかった。取り押さえられたときの彼の第一声として広く伝えられているのは、これで捕まったか、というような無感動な一言と、なぜこんなに時間がかかったのか、という趣旨のもうひとつの発言だ。誰なんだと問われて、俺がサムだ、と答えたとも伝えられている。
八月十一日の午前一時ごろ、ビーム市長がコニーアイランドの第六十分署に姿を見せ、報道陣に向かってこう告げた。ニューヨーク市民はもう安心して眠っていい、警察がサムの息子と目される男を捕まえた、と。
その夜、街のバーでは知らない者同士が乾杯した。翌朝の新聞はまた飛ぶように売れた。そして、事件の本当にややこしい部分が始まった。
「隣の家の犬が命じた」という供述はどこまで本当だったのか
逮捕直後の取り調べは三十分ほどで終わっている。彼はすらすらと自供した。そして動機を語った。
隣人サム・カーの飼っている黒いラブラドールには古代の悪魔が取り憑いていて、その犬が自分に、美しい若い女の血を持ってこいと命じた。それがその内容だった。
この供述が報道されると、事件は一気にオカルトの領域へ滑り落ちた。犬が命じた殺人。これほど話として強い文句もない。
だが、この供述は最初から怪しまれていた。
警察の心理担当だったハーヴィー・シュロスバーグ博士は、悪魔の話は罪から逃れるための作り話だという見方を示した。検察側が呼んだ精神科医デビッド・エイブラハムセンは、彼の語る悪魔は意識的な創作だと結論づけた。一方で弁護側の依頼で診た精神科医たちは当初、彼は妄想性の精神病によって感情が死んでおり、自分の弁護に協力できる状態にないと判断した。
ここで、慎重に書いておきたいことがある。
精神疾患を抱えている人の圧倒的多数は誰も傷つけないし、むしろ被害を受ける側になりやすい。この事件を、精神疾患と暴力を結びつける材料に使ってはいけない。ここで問題になっているのは、ひとりの被告人が本当に病んでいたのか、それとも病んでいるふりをしていたのか、という個別の争点にすぎない。そしてその争点ですら、はっきりした決着はついていない。
彼自身が、のちにこの供述を撤回する。
一九七九年二月、獄中で記者会見を開き、悪魔に取り憑かれていたという話はでっち上げだった、と述べた。狂気を装えば有利になると考えた、というのが彼の説明だった。
逮捕の翌月にニューヨーク・ポスト紙に送った手紙には、まだ悪魔の話の名残があり、同時に別の含みも残っていた。外には他の息子たちがいる、神よ世界を助けたまえ、という一文だ。捜査関係者の一部は、これを共犯者の存在をほのめかしたものと読んだ。
法廷で起きたことと、その後の三十年
競合する鑑定のせいで、公判能力をめぐる審理は迷走した。
当初はジョン・スターキー判事が検察側の主張を採用したが、判事自身がメディアに向けて被告の悪魔弁論について発言してしまい、その問題で担当を外れた。ジョセフ・コルソ判事のもとで開かれた次の審理では、弁護側の鑑定人たちが従来の見解を修正し、治療によって状態が改善して弁護に協力できるようになった、と述べた。これで公判能力ありと判断された。
弁護人は精神障害を理由とする無罪の主張を勧めた。本人はこれを拒んだ。一九七八年五月八日、彼は落ち着いた様子ですべての銃撃について有罪を認めた。
ところが、その二週間後の量刑手続きの場で異様なことが起きる。
彼は法廷の七階の窓から飛び降りようとして押さえつけられ、拘束されたまま、モスコウィッツの名前を口汚く繰り返し、全員をもう一度殺してやる、と叫んだ。
裁判所は追加の精神鑑定を命じた。鑑定の過程で彼が描いた絵には、壁に囲まれた牢の中の人物が描かれ、その下に、自分は健康ではない、まったく健康ではない、と書き添えられていた。それでも彼は再び公判能力ありとされた。
一九七八年六月十二日、六件の殺人それぞれについて二十五年から終身の刑が言い渡され、刑期は連続して服する扱いになった。
アッティカ刑務所に送られた翌年、彼は首を大きく切りつけられ、五十針以上を縫う怪我を負った。誰にやられたかは最後まで言わなかった。その後は特別処遇の施設を転々とし、一九八七年にサリバン刑務所の一般房に移っている。
同じ年、彼は獄中でキリスト教に改宗したと主張し、以後は「サムの息子」ではなく「希望の息子」と呼んでほしいと言うようになった。仮釈放の審理は法律上二年ごとに受けられるが、彼は一貫して認められていない。二〇〇二年の最初の審理の前には、州知事に宛てて、自分は残りの人生を刑務所で過ごすに値すると信じている、という趣旨の手紙を送っている。
彼の改宗が本物かどうかは、この記事では判断しない。判断する必要もない。
押さえておきたいのは、彼が語る言葉が時期によって大きく変わってきたという事実のほうだ。悪魔の犬、それはでっち上げだったという撤回、そして次に来るのが、この事件最大の泥沼である。
撤回のあとに現れた、もうひとつの物語
一九九〇年代の半ば、彼は自供をさらに書き換えた。
今度は、自分は暴力的なサタニズムのカルト集団の一員であり、一連の銃撃は集団による儀式的な殺人として計画されたものだった、と語り始めたのだ。
一九九三年の説明によれば、自分が実際に引き金を引いたのは三人だけで、ローリア、スリアーニ、エサウの事件がそれにあたる。他の現場では自分は下見や見張りや逃走車の運転を担当していた、という主張だった。
彼が名前を挙げた共犯者は、ジョンとマイケルのカー兄弟。あの犬の飼い主サム・カーの息子たちである。ただし二人とも、この主張がなされたときにはすでに死んでいた。ジョンは一九七八年にノースダコタで銃により死亡し、自殺と判断された。マイケルは一九七九年に交通事故で死亡している。他の関係者については、家族に危害が及ぶから名前は出せない、と彼は言った。
彼の主張には、具体的な役割分担まで含まれていた。デナロとキーナンが撃たれた事件では女性の構成員が撃ったので反動に慣れておらず致命傷にならなかった、フロイントとディールの事件では外部から呼ばれた別の人物が撃った、モスコウィッツとヴィオランテの事件ではノースダコタから来た男が撃った、といった具合だ。ここに、ある通称も登場する。マンソン二世と呼ばれる人物である。
この説を長年にわたって追いかけた記者がいる。マウリー・テリーだ。
彼は一九七九年からガネット系の新聞で調査記事を発表し、単独犯という結論に疑問を投げかけた。一九八七年に出した著書で、彼はプロセス教会という一九六〇年代の宗教運動の分派が背後にいるという壮大な図式を描いた。ヨンカーズのアンターマイヤー公園で犬の惨殺死体が見つかっていたこと、複数の現場で目撃された車や人相が食い違うこと、逮捕時に押収された品の中に別の州の施設の電話番号が含まれていたこと。そうした断片を、彼は一本の線につないだ。
テリーはこの追跡に人生の後半をほとんど注ぎ込み、二〇一五年に亡くなった。二〇二一年に配信されたドキュメンタリー作品は、事件そのものよりも、この記者の執念とその代償を主題にしていた。
クイーンズ地区検事だったジョン・サンタッチは、共犯者がいたという見方を持っていた。捜査官のマイク・ノヴォトニーも同じ立場だった。市警の警察官リチャード・ジョンソンは、なぜ容疑車両が三台あり、人相の証言が五通りもあるのか、他に誰かがいたはずだ、という趣旨のことを述べている。生存者のカール・デナロ自身も、複数の人間が関わっていたと考えていると語ってきた。ただし証明はできない、とも付け加えている。ドナ・ローリアの父親も、カルト説を信じていた。
一九九六年にはヨンカーズ警察が事件を再開したが、新たな起訴には至らず、結論の出ないまま無期限に保留された。捜査は形式上、いまも閉じていない。
反証のほうも、きちんと積み上がっている
ここからは、カルト説に対する反論をひとつずつ分けて見ていきたい。どちらか一方に肩入れするためではなく、どこまでが確認済みで、どこからが推測なのかを整理するためだ。
まず、あの手紙を受け取った当事者であるジミー・ブレスリンは、共犯説を一貫して退けた。
彼の根拠は取り調べの様子にあった。逮捕された夜、あの男は一件ごとに、順を追って、細部まで記憶していた、あの記憶力は千パーセント本物だ、という趣旨のことを彼は語っている。実行していない事件を、他人から聞いただけであれほど正確に語れるとは思えない、というのが彼の立場だった。
次に、連邦捜査局のプロファイラーとして知られるジョン・ダグラスは、長時間の面接を重ねた上で、この人物は内向的な単独行動者であり、集団の中で役割を果たせるタイプではない、と結論している。プロファイリングという手法自体に批判もあるが、直接会って話した人間の観察としては無視できない。
三つ目に、市警の心理担当だったシュロスバーグ博士の見立てがある。彼は悪魔の話と同様に、カルトの話も罪の重さから自分を切り離すための物語だと見ていた。実際、この事件の供述の変遷を並べると、悪魔から集団へと、責任の所在が一貫して自分の外側へ移動していることがわかる。これは動機として非常にわかりやすい。
四つ目に、学術側からの批判がある。犯罪を人類学的に研究したエリオット・レイトンは、この事件の犯人性を縮小したり否定したりしようとする近年のジャーナリズム的試みには信頼性がまったくない、と切り捨てている。
五つ目に、カー兄弟に関する問題がある。二人とも死んでいて反論できないという点は、共犯者として名前を挙げるうえで都合がよすぎる。ジョン・カーの死は自殺と判断されており、それを他殺と読み替える主張には、いまのところ確たる物証がない。ここは特に注意が必要なところで、死んだ人間を犯人扱いすることは、その遺族に対して取り返しのつかない負担を強いる。
六つ目に、目撃証言の食い違いという最大の論拠についてだ。
証言の不一致は確かに存在する。金髪と黒髪、車種の違い、体格の違い。だが、深夜の一瞬の目撃で人相や車種の証言が食い違うことは、犯罪捜査ではむしろ常態に近い。不一致それ自体は複数犯の証明にならない。逆に言えば、不一致を複数犯の証拠として使うなら、他の独立した裏づけが必要になる。それが半世紀近く出ていない、というのが現状だ。
七つ目に、プロセス教会との結びつきについて。
本人は二〇一六年の映像インタビューで、この団体の文書に影響を受けたと述べている。だが、ある思想の文書を読んだことと、その組織が犯行を指揮したことのあいだには、埋めがたい距離がある。テリーが集めた状況証拠は膨大だが、その多くは同時代のいわゆる悪魔崇拝パニックの空気の中で解釈されたもので、後年の検証では過大評価だったと指摘されている。実在する団体や個人を、証明されていない推測で犯人扱いすることは避けなければならない。
八つ目に、そもそも供述を撤回した人物の新しい供述をどれだけ信用できるのか、という根本的な問題がある。
悪魔の話をでっち上げたと自分で認めた人間が、次に語るカルトの話だけは本当だ、という保証はどこにもない。逆に、単独犯という結論も、当時の警察が早く幕を引きたかった結果ではないか、という疑いも完全には消えない。だから結局のところ、カルト関与説は「未確定の説」としてしか扱えない。これは知的な逃げではなく、現時点で誠実に言える最大限の言い方だ。
撃たれた側の人生は、そのあと何十年も続いた
ロバート・ヴィオランテのことを書く。
彼はステイシー・モスコウィッツと初めてのデートの夜に撃たれた。二十歳だった。彼が語ったところによれば、撃たれた直後、自分は頭を撃たれて、目が見えなくて、血だらけで、なんてことだ、あいつは俺たちを殺した、と思ったという。
医師たちは当初、助からないのは彼のほうで、彼女は助かるだろうと見ていた。結果は逆になった。彼は視力を失って生き残り、彼女は三十九時間後に亡くなった。
彼は彼女のことを、本当にきれいな子で、感じがよくて、はじけるように生き生きしていた、と語っている。あの夜の二人は小さな子どもみたいだった、とも。彼女の死を知らされたとき、赤ん坊みたいに泣いた、と彼は言った。犯人が捕まったと聞いたときの感想は、よかった、これでもう誰も傷つけられずに済む、という一言だった。
彼はその後、視覚障害とともに人生を組み立て直し、結婚し、子どもを育て、事件のことを語る役目を長く引き受けた。二〇二〇年代に入って亡くなっている。
カール・デナロのことも書く。
彼は一九七六年十月、まだ事件が連続殺人として認識されてもいなかった時期に頭を撃たれた。撃たれた瞬間、彼は同乗していた女性に、車を出せ、ここから逃げろ、と叫んだ。そのあと、気分が悪い、と言ったのを覚えているという。頭蓋骨にプレートを入れる手術を受けた。
彼が特殊なのは、生き延びたあと、自分の事件の位置づけそのものと戦い続けたことだ。当時の弾丸は変形がひどく、同一の銃と断定できなかった。だから彼の事件はしばしば脇に置かれた。彼は長年、単独犯の結論に疑問を投げかけ、自分が撃たれたときの状況と他の事件の違いを指摘し続けた。証明はできない、と彼は繰り返す。それでも、複数の人間が関わっていたと自分は思う、と言い続けてきた。
被害者が真相究明の側に回るという、この事件特有の光景がここにある。
ジュディ・プラシードのことも書いておきたい。
彼女は十七歳で、高校を卒業したばかりだった。六月二十六日の夜、ディスコを出て車の中で友人と話していた話題が、まさにサムの息子だった。誰が狙われるのか、次はどこか、という話を、彼女たちは他人事としてしていた。その数分後に撃たれた。
こめかみと肩と首の後ろに弾を受けて、それでも彼女は自力で車を降り、助けを求めて歩いた。命が助かったこと自体が医学的に驚異とされた。彼女は長い間、公の場でこの話をしなかった。何十年も経ってから、記録映像やドキュメンタリーで少しずつ語るようになった。
あの夜の話をしていた自分たち、というくだりを彼女が口にするとき、そこにはこの事件が街の若者にとってどれほど身近な世間話であり、同時にどれほど現実だったかが凝縮されている。
セシリア・デイヴィスの証言についても、独立した話として残す価値がある。
彼女は犬を散歩させていただけの近所の住民だった。不審な男とすれ違い、恐怖を感じ、家に入り、銃声を聞いた。そして四日間、通報するかどうかで悩んだ。もし自分が話したことがばれたら、あの男が自分を探しに来るかもしれない。その恐怖は当時のニューヨークではまったく合理的だった。
彼女が四日目に決心して電話をかけたから、駐車違反切符という細い糸がたぐり寄せられた。三百人の捜査員が数か月かけて掴めなかったものを、犬の散歩をしていた一般市民の記憶が動かした。捜査というものの現実が、ここに全部詰まっている。
ステイシー・モスコウィッツの母、ネイサ・モスコウィッツの話も避けて通れない。
彼女は娘を失ったあと、事件について発言し続けた人だった。厳しい言葉も遠慮なく口にした。そして晩年、二〇〇六年に亡くなる少し前、彼女は加害者本人に手紙を書き、赦す、と伝えたと伝えられている。
この事実をどう受け止めるかは、読む人によってまったく違うだろう。赦しを美談にしてはいけないし、赦さない遺族を責める材料にしてもいけない。ただ、彼女は三人の子どもを全員先に亡くしている。長女を幼くして、次女をこの事件で、長男を病気で。その人生の重さの上にあの手紙があった、ということだけは記しておきたい。
捜査側の証言としては、ティモシー・ダウドの言葉が象徴的だ。自分の仕事は、幸運が訪れたときにそれを掴めるように準備しておくことだ。
三百人態勢の指揮官が残したこの一言は、精緻な科学捜査が存在しなかった時代の刑事の哲学そのものだ。実際に事件を終わらせたのは、天才的な推理ではなく、消火栓の近くに停まった車に切符を切った制服警官の日常業務と、それを覚えていた住民と、洗い出す手間を惜しまなかった捜査本部だった。
記者側の証言としては、ブレスリンが晩年まで繰り返した立場が残っている。彼は自分が手紙を公開したことを後悔していないと言い続けた。同時に、彼はこの事件を通じて、タブロイドが恐怖を売り物にする構造をよく知る立場にもなった。彼が二〇一七年に亡くなったとき、獄中の当人はコメントを求められ、なぜあの記者に手紙を出したのか自分でも覚えていない、と答えている。ふたりの奇妙な関係は、最後まで噛み合わないまま終わった。
掲示板とSNSは、この事件の何を語り継いできたか
インターネット以降、この事件は考察の対象として何度も掘り返されてきた。英語圏の未解決事件系コミュニティでは、単独犯か複数犯かという論点が定番の議題になっている。ここで語られる主要な考察と、それに対する反証を並べておきたい。
もっとも人気のある考察は、目撃証言と車の描写の不一致から複数犯を導くものだ。
金髪と黒髪、車種と色の食い違い、それぞれの現場での射撃技量の差。とくにデナロが生き延びた件について、射撃が下手な別人だったのではないかという推測は繰り返し語られる。これに対する反証は先に述べた通りで、夜間の一瞬の目撃証言はもともと不安定であり、同一人物でも状況によって命中の精度は大きく変わる。不一致は複数犯の必要条件を示すが、十分条件にはならない。
次に人気があるのが、手紙の文体をめぐる考察だ。
ボレリ宛の手紙とブレスリン宛の手紙では文体や語彙の水準が違うので、書いた人間が複数いるのではないか、という説がある。これに対しては、同一人物が意図的に演出を変えた可能性、二通目のほうが時間をかけて書かれた可能性が指摘されている。筆跡鑑定の面では、両方とも同一人物の手によるという判断が当時なされている。
三つ目に、ノースダコタで死亡したジョン・カーの件をめぐる考察がある。
自殺とされた死を他殺と読み替えて、口封じだったのではないかとする筋書きだ。これは物語としては非常に強いが、地元当局の判断を覆す物証は出ていない。死者を犯人役に配置する筋書きは、検証不能であるがゆえに反証もされにくく、そのぶん慎重に扱う必要がある。
四つ目に、手紙に登場した「邪悪なるウィッカー王」という異名から、一九七三年のイギリス映画に結びつける読み解きがある。当時の捜査本部も実際にその映画を鑑賞して検討している。ただし、映画の一場面から犯人の思想体系を再構成するのは、後知恵の解釈にどうしても傾く。異名の羅列そのものが、内容よりも演出のために書かれた可能性のほうが高い。
五つ目に、日本語圏のオカルト系掲示板やまとめサイトで長年語られてきたのが、犬に命じられたという供述をそのまま怪異譚として扱う読み方だ。
これは事件が最初に日本に紹介された当時の要約が、撤回の事実まで含めて更新されないまま流通し続けたことの結果でもある。実際には本人が公開の場で作り話だと認めており、そこを抜かして語ると、事件はただの怪談になってしまう。
六つ目に、二〇二一年の配信ドキュメンタリー以降に増えたのが、記者マウリー・テリーの側に感情移入する語りだ。
真実を追い続けた孤高の記者、という構図である。これは半分正しく、半分危うい。彼が単独犯説の穴を突いたことには意味があったが、彼の図式が拡大するにつれ、検証よりも接続が優先されていったという批判も強い。あの作品自体が、じつはその危うさを描いた作品でもある。陰謀論の魅力と、それに人生を差し出すことの代償を、同じ画面に収めている。
そして、どの言語圏でも共通して見られる現象がある。事件そのものより、一九七七年の夏という舞台装置に惹かれている人が多い、ということだ。
停電、暴動、ディスコ、燃えるサウスブロンクス、そして街灯の下の車。この組み合わせがあまりに絵になるので、事件は繰り返し「時代の物語」として消費される。被害者が実在の人だったことは、その過程でどうしても薄まる。この記事でしつこく個人名と年齢を書いてきたのは、そこに抵抗したいからだ。
犯人が自分の話を売って儲けていいのか
逮捕直後から、出版社が獄中の男に多額の契約を持ちかけているという噂が流れた。実際に何がどこまで進んでいたかは諸説あるが、その噂だけで世論は沸騰した。
人を六人殺した男が、その話を本にして印税を受け取る。一方で、撃たれた側は治療費と後遺症を抱えている。この不均衡に対する怒りは、まったく理解できる。
ニューヨーク州議会は異例の速さで法律を作った。犯罪者が自分の犯罪について語ることで得た収益を、被害者補償の委員会に納めさせ、五年間留保する。その間に被害者が民事の勝訴判決を得れば、そこから支払われる。俗称はそのまま、サムの息子法となった。似た法律は最終的に四十を超える州と連邦にも広がった。
だが、この法律には最初から憲法上の問題が指摘されていた。
それが表面化したのが、マフィアの元構成員ヘンリー・ヒルの回想録をめぐる裁判だ。彼の半生を書いた本は、のちに有名なギャング映画の原作になった。出版社が州の委員会を相手取って争い、一九九一年、連邦最高裁は全員一致でニューヨーク州の法律を違憲と判断した。
理由は、この法律が話す内容によって課税や没収の対象を選別している、つまり内容に基づく言論規制にあたるということだった。しかも規制の範囲が広すぎると同時に狭すぎる、とも指摘された。広すぎるというのは、犯罪について少しでも触れた著作物すべてを射程に入れてしまうこと。狭すぎるというのは、犯罪について語らずに稼いだ金には手が届かないことだ。
判決は法律を潰したが、立法の目的そのものを否定したわけではない。被害者を補償することは州の正当な利益である、と最高裁も認めている。
だからニューヨーク州は翌年、憲法に耐えられるように条文を作り直した。二〇〇一年にはさらに広い枠組みに改められ、犯罪者が一定額以上の資産を得た場合には被害者側に通知される仕組みになった。表現の内容ではなく、資産の流れに焦点を移したわけだ。他の州でも同様の修正が続き、いくつかの州法は裁判所によって無効とされた。
この論争には、簡単な正解がない。
犯罪者に語らせないという発想は、事件の検証そのものを難しくする。ジャーナリストが加害者に取材することも、加害者本人が書いた記録が研究資料になることも、社会にとっては必要だ。一方で、その語りが商品になり、加害者に富をもたらすことには強い違和感がある。
現に、この事件の当人は改宗後に出版された獄中記について印税を受け取らないと表明しているし、かつての弁護人が資料を持ち出して出版した件では、和解の条件として収益を被害者補償の側に寄付させている。制度と本人の姿勢が、ちぐはぐに絡まりながら現在に至っている。
なお、法律の通称に犯人の名乗りがそのまま使われてしまったことにも、皮肉がある。被害者を守るための法律が、加害者が自分で作った異名を永久に残す結果になった。名前をつけた者が記憶を支配する、という報道と犯罪の関係の本質が、ここに露骨に出ている。
なぜこの事件は、半世紀近く経っても消えないのか
理由はいくつも重ねられる。
まず、被害の形が異様に日常的だった。特別な場所で起きたのではない。停めた車の中、家の玄関先、駅から家までの道。誰でも毎日通る場所で、誰でも毎日やっていることの最中に撃たれた。だから恐怖が抽象化されず、街の全員が自分の話として受け取った。髪を切るという行動に出た人が大量にいたのは、その証拠だ。
次に、犯人が自分で物語を書いたという点が大きい。
多くの事件で、犯人像は捜査と報道によって外から作られる。この事件では、犯人が自分で名前をつけ、自分で異名を並べ、自分で新聞に手紙を出した。つまり犯人がメディアの共作者になった。その結果、事件は最初から一種の作品のような輪郭を持ってしまった。これは倫理的にはひどく厄介なことで、だからこそ研究され続けている。
三つ目に、時代背景があまりに濃かった。
財政破綻寸前の街、真夏の大停電と暴動、燃えるブロンクス、そして同じ夏に世界を席巻し始めるディスコ。ひとつの街の、崩壊と享楽が同時進行していた。あの夏を語るとき、この事件は必ずそこに含まれる。逆に言えば、この事件を語ることは、二十世紀後半の大都市が経験した最悪の局面を語ることでもある。
四つ目に、決着していない部分が残っていることだ。
カルト関与説は証明も反証もされないまま、公式には保留のまま宙に浮いている。人は、完全に閉じた物語より、隙間のある物語のほうを長く語り継ぐ。この事件には隙間が多すぎる。しかも、その隙間を作ったのは犯人本人の供述の変遷である。
五つ目に、この事件が具体的な制度を生んだことがある。サムの息子法は現実の法制度として存在し、いまも改訂されながら運用されている。事件が法律の名前として生き残るケースは多くない。人が忘れかけても、条文が覚えている。
最後に、いちばん大事なことを書く。
この事件は、街の物語や法律の物語である前に、十六歳から二十六歳の若者たちが撃たれた事件だ。ドナ・ローリア、クリスティン・フロイント、ヴァージニア・ヴォスケリチアン、ヴァレンティナ・スリアーニ、アレクサンダー・エサウ、ステイシー・モスコウィッツ。
それぞれに仕事があり、学校があり、家族がいて、その夜の予定があった。生き延びた人たちにも、そのあと何十年もの人生があった。事件をどれだけ精密に分析しても、そこは埋まらない。埋まらないということを忘れないために、こういう記事は書かれるべきだと思う。
報道は事件を悪化させたが、終わり方も作った
ここからは、事実の整理からもう一歩踏み込んで、この事件が現代に投げかけているものを考えたい。
まず押さえておきたいのは、この事件が「報道が事件を作った」典型例として繰り返し引用される一方で、その因果関係は思われているほど単純ではない、という点だ。
たしかに手紙の公開は部数を伸ばし、恐怖を煽り、犯人像を神話化した。長い黒髪の女が狙われるという説が広まり、街の女性たちが髪を切った。
だが、この報道がなければ捜査が早く終わったかというと、そうとも言い切れない。世論の圧力があったからこそ三百人規模の態勢が組まれ、駐車違反切符という細い糸まで洗い出す執念が生まれた側面もある。報道は事件を悪化させたと同時に、事件の終わり方も作った。この両義性を切り分けずに、ただ煽り報道が悪かったと片付けるのは雑だと思う。
次に、捜査そのものの構造について。
この事件の解決は、しばしば偶然の産物として語られる。実際、駐車違反切符という要素は偶然だ。だが、偶然が偶然として機能するためには、条件がいくつも要る。
制服警官が深夜二時過ぎに、消火栓に近い車へ律儀に切符を切っていたこと。一般市民が、四日間怯えながらも最終的に通報したこと。捜査本部が、たった一人の目撃証言の中の「切符が切られていた」という副次的な情報を拾い上げ、その夜のその地域の切符を全部洗い直す判断をしたこと。そしてヨンカーズの通信係が、電話口で名前を聞いた瞬間に自分の家族の被害と結びつけたこと。
この四つのどれかひとつでも欠けていたら、逮捕はもっと遅れていた可能性が高い。
ダウドが言った「幸運を掴めるように準備する」という言葉は、精神論ではなく、こうした平凡な業務の積み重ねが唯一の網になるという実務的な認識だったのだろう。現代の捜査は科学技術に頼れる分だけ、この種の泥臭い網の重要性が語られにくくなっているが、技術が届かない領域は今も広い。
犯人が語る動機を、鵜呑みにしてはいけない
三つ目に、供述の信用性という問題を掘り下げたい。
この事件の最大の教訓は、犯人が語る動機を鵜呑みにしてはいけない、ということに尽きる。
悪魔の犬という供述は、逮捕直後に世界中へ広まった。それが後に本人によって否定されたことは、最初の報道の何分の一も広まらなかった。次に語られたカルト説もまた、世界中に広まった。
人は最初に聞いた強い物語を保持し、その修正を受け取らない。これは半世紀前の新聞に限った話ではなく、いま我々が使っている媒体でも同じことが起きている。速く広がる情報ほど訂正されにくいという構造は、むしろ悪化しているかもしれない。
この事件を読むとき、どの供述がいつ、どんな状況で、どんな利益のためになされたのかを毎回確認する癖をつけると、まったく違う景色が見えてくる。
四つ目に、カルト関与説の扱い方について、もう一度だけ丁寧に書いておきたい。
この説を全面的に否定する材料も、全面的に肯定する材料も、公開されている範囲には存在しない。だからこの説は未確定のまま置いておくしかない。
ただし「未確定だから何を言ってもいい」ではない。未確定であるほど、実在の個人や団体を名指しで犯人視することの害は大きくなる。すでに死んでいる人物や、その遺族が背負う負担は現実のものだ。この事件の周辺には、証明されないまま名前だけが流通し続けている人々が何人もいる。
考察を楽しむことと、他人の名誉を消費することのあいだには、はっきりした線がある。その線を意識しない考察は、結局のところ、あの夏に恐怖を売った媒体と同じことをしているにすぎない。
あの法律が守ったのは、犯人の権利ではなかった
五つ目に、サムの息子法が現代に持つ意味を考えたい。
この法律が最高裁で違憲とされた理由は、表現の内容によって不利益を課すことの危うさにあった。あの判決が守ったのは、犯罪者の儲ける権利ではなく、犯罪について語る言論そのものの空間だ。
もしあの法律がそのまま生き残っていたら、事件の関係者が回想を書くことも、加害者へのインタビューを本にすることも、萎縮していたかもしれない。
それでも、被害者が補償を受けられないまま加害者が注目を集めるという不公平は現実に存在する。現在の枠組みが、内容規制ではなく資産の流れの透明化という方向に移ったのは、この二つの要請のあいだで見つけられた妥協点だった。完璧な解決ではないが、対立する価値のどちらも捨てずに折り合いをつけようとした痕跡として、読む価値がある。
最後に、この事件の記憶のされ方そのものについて書いて終わりたい。
あの夏の物語は、いまや停電と暴動とディスコの映像とセットで流通している。映画になり、ドラマになり、配信ドキュメンタリーになり、そのたびに新しい世代が「一九七七年のニューヨーク」という舞台に魅了される。
舞台としての魅力が強すぎるがゆえに、この事件は繰り返し娯楽の形をとる。それ自体を全否定する気はない。歴史の暗部は、物語の形をとることで初めて多くの人に届くこともある。
ただ、届いたあとで一度立ち止まって、撃たれたのが誰で、その人が何歳で、その夜どこへ行こうとしていたのかを思い出すかどうか。そこで、この事件についての語りは二つに分かれる。街の空気を消費するだけの語りと、人間の喪失に触れる語りだ。
この記事が後者でありたい、と思って書いた。半世紀近く経っても、そこだけは古びない。
