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山口・周南連続殺人放火事件――「つけびして煙り喜ぶ田舎者」、あの川柳は予告状じゃなかった

二〇一三年の夏、住民わずか十数人の山あいの集落で、一晩のうちに五人が殺された。窓に貼られた一枚の川柳が全国に拡散して、この事件は「平成の八つ墓村」と呼ばれるようになる。だが十年以上かけて分かってきたのは、みんなが信じていた筋書きのほうが、たぶん噂だったという話だ。

参院選の投票日、山あいの集落で二軒が炎に包まれた

二〇一三年七月二十一日。この日は第二十三回参議院議員通常選挙の投票日だった。全国のテレビ局が開票速報の準備で慌ただしくしていた夜、山口県周南市大字金峰の郷という集落で、二軒の民家がほぼ同時に燃え上がった。

郷は周南市の中心部から北へ十六キロ余り、車で四十五分ほど山を登った先にある。周南市の集計では、この年の六月末時点で八世帯十四人。うち十人が高齢者だ。報道では「住民十二人」と伝えられることが多く、数字は資料によって少しブレる。いずれにしても、指で数え切れる規模の集落だったってことだ。携帯電話はまともに繋がらず、インターネットを使う人はほぼいない。噂話は口づてで、確実に、そして正確に広まる。そういう場所だった。

最初の通報は午後八時五十九分だった

消防に一報が入ったのは午後八時五十九分。「家が燃えている」。通報したのは近隣の住民だった。夜の山道は街灯もろくにない。真っ暗な斜面の一角がオレンジ色に膨らんで、煙が空へ立ち上っていく。その光景を見た人間が、慌てて固定電話に飛びついた。

燃えていたのは貞森誠さん(七十一)と妻の喜代子さん(七十二)の家だった。周南市の消防本部は市街地から車を走らせるしかない。山道を四十分かけて上っていくあいだに、火はもう手のつけようがないところまで回っていた。

七十メートル先で、もう一軒が燃えていた

通報者が呆然としているうちに、別の方向にも赤い光が見えた。山本ミヤ子さん(七十九)の家だ。貞森さん宅と山本さん宅は、山道沿いにおよそ七十メートルしか離れていない。二軒がほぼ同時刻に燃えるというのは、常識的に考えて自然発火ではありえない。

火が完全に消し止められたのは午後十時十四分。焼け跡からは三人の遺体が出た。貞森さん夫妻と山本ミヤ子さん。この時点では、まだ「二軒の火災で三人死亡」という火事のニュースでしかなかった。夜のうちに全国ネットのニュース速報が出るような扱いではなかったんだよな。

翌朝、消えた二人を探して家の戸を開けた

異変がはっきりしたのは翌二十二日だ。集落の人数が少ないから、誰がいて誰がいないかは一目で分かる。二人、姿が見えない。河村聡子さん(七十三)と石村文人さん(八十)。二人とも燃えていない自宅にいるはずだった。

警察官と住民が家を確認しに行くと、石村さんは自宅で、河村さんも自宅で、それぞれ倒れていた。焼けていない家のなかで死んでいた。ここで話が一気に変わる。火事ではない。二軒の放火と、五人の殺人だ。山口県警は捜査本部を設置し、報道は一斉に山口へ向かった。

五人の頭には、同じ形のへこみがあった

司法解剖の結果は残酷なほど揃っていた。五人全員、頭部に陥没骨折。死因は頭蓋骨骨折または脳挫傷。鈍器のようなもので複数回、激しく殴打されている。焼死ではない。つまり、殺してから火をつけたということだ。火は証拠を消すために使われた可能性が高い。

凶器の特定や、どの順序で誰が襲われたのかについては、のちの公判でも完全には解明されていない。ただ、五人が同じやり方で殺されているという事実だけが、動かしがたく残った。同じ人間が、同じ道具で、一晩のうちに四軒を回った。そう考えるしかない状況だった。

窓に貼られた川柳が、全国のニュースを塗り替えた

捜査が始まってすぐ、報道陣がある一枚の紙を見つける。集落の一軒、六十三歳の男性の家のガラス窓に、白い紙が内側から貼ってあった。毛筆で、こう書かれている。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

つけび、つまり放火。放火して、その煙を喜ぶ田舎者。この十七文字が撮影されてテレビに流れた瞬間、事件の性格が変わった。これは「犯行予告」だ、という文脈で報じられたからだ。

実際にはこの貼り紙、事件の数年前から貼られていた。のちの取材で、男性宅の風呂場が焼けた出来事のあとに貼られたものだと分かっている。つまり時系列としては、予告どころか、本人が過去に「自分が放火の被害に遭った」と主張していたことへの当てこすりに近い。だが最初に「予告状」として広まった印象は、その後どれだけ訂正されても消えなかった。

「平成の八つ墓村」という、便利すぎる看板

川柳の一報から数時間で、ネット上には「平成の八つ墓村」という呼び名が定着した。横溝正史の小説と、その映画版の記憶が一気に呼び起こされる。閉鎖的な山村、よそ者、村ぐるみのいじめ、そして復讐。この型に事件を流し込むと、驚くほどきれいに収まってしまう。

テレビのワイドショーも、まとめサイトも、掲示板も、そろってこの筋書きに乗った。「村八分にされた男が、ついに逆襲した」。分かりやすい。分かりやすすぎる。この看板がかかった時点で、その後十年、事件の実像はこの看板の裏に隠れ続けることになった。

山狩り六日間、下着姿で見つかった六十三歳

事件発生の直後から、この六十三歳の男性は行方が分からなくなっていた。県警は大規模な山狩りを実施する。夏の山だ。警察官が汗だくで斜面を歩き回り、ヘリコプターも飛んだ。

七月二十五日、山中で携帯電話と衣類が見つかる。そして七月二十六日午前九時ごろ、郷の公民館から約一キロ離れた山道で、下着姿・裸足の男が発見され、殺人と非現住建造物等放火の容疑で逮捕された。保見光成、当時六十三歳。生年は一九四九年十二月。集落生まれの人間で、被害者の山本ミヤ子さん宅の北隣に住んでいた。逮捕直後、本人は「睡眠薬とロープで自殺を図った」という趣旨のことを話している。翌二十七日午前、山口地方検察庁へ送検された。

山に残されたICレコーダーが語ったこと

山中の捜索では、もうひとつ重要なものが出てきた。ICレコーダーだ。そこには本人の声で、これから自殺するという趣旨のメッセージと、「周囲から意地悪ばかりされた」という恨み言が吹き込まれていた。この録音は、逮捕前の彼の精神状態を示す資料として捜査上も裁判上も扱われた。

逃走して、山で薬を飲んで、録音を残して、死のうとして、失敗して、下着姿で見つかった。この一連の流れは、計画的に逃げ切ろうとした人間の行動というより、後始末を放り出した人間の行動に見える。ここが後の責任能力論争の火種のひとつになっていく。

川崎で月収二百万を稼いだ左官職人が、なぜ帰ってきたのか

保見は郷で生まれた。地元の小中学校を出て、県内の岩国市で働き、その後、上京している。ボクシングをやっていた時期があり、建築関係の仕事に就いた。左官、タイル職人、土建業。腕はよかったらしい。神奈川県川崎市に住んでいた頃は「職人気質でまじめ」と評されていて、稼ぎのいい時期には月収が二百万円に達したという話も伝わっている。都会でひととおり成功した男だったわけだ。

その彼が一九九四年、四十四歳で郷にUターンする。理由は両親の介護だった。名前もこの頃に「光成」へ改めている。地方から都市へ出て、親のために戻る。日本中どこにでもある話だ。問題は、戻った先が八世帯の集落だったことと、二十数年ぶんの都市の常識を持ち帰ってしまったことだった。

帰郷して建てた新築の家と、消えていった一千万円

一九九六年、彼は郷に新しい家を建てる。都会で貯めた金を注ぎ込んだ立派な家で、完成した時点でまだ一千万円の貯金が残っていたという。両親の介護をしながら、リフォーム業を始めた。

それだけでは終わらない。「シルバーハウス」という名前のカラオケバーのような場所も作っている。高齢者ばかりの集落に、人が集まる拠点を作ろうとしたわけだ。発想としては、いまで言う関係人口づくりや地域おこしに近い。ただ、これが集落ではまったく歓迎されなかった。

村おこしの空振りと、年長者たちの「いらん」

報道によれば、彼は四十代の頃、集落を活気づけるためのいくつかの提案を持ち込んでいる。だが年長者たちには受け入れられなかった。集落に十四人しかいなくて、そのうち十人が高齢者という場所に、都会帰りの中年男が「こうすればもっとよくなる」と乗り込んでくる。善意だったとしても、既存の秩序からすればノイズでしかない。歓迎される保証はどこにもない。

彼のカラオケは音が大きく、近隣から迷惑がられたとも伝えられる。「みんな仲良しなのに、一人だけ浮いた存在」。近隣住民が報道陣に語った言葉として、この短いフレーズが繰り返し引用された。浮いていた。この一点だけは、たぶん誰も否定しない。

犬三匹と、マネキンと、動かない監視カメラ

両親が亡くなったあと、彼の生活は目に見えておかしくなっていく。ゴールデンレトリバーと雑種の犬を飼っていたが、住民から「臭い」と苦情が出た。彼はそれを嫌がらせと受け取った。自宅の敷地には人型のマネキンを置き、監視カメラも設置した。ただしカメラは作動していなかった。

見張られていると感じている人間が、逆に「見張っているぞ」というポーズを取る。誰も来ない山の家で、人形と偽物のカメラに囲まれて暮らす六十代。この光景がすでに、何かの限界を告げていた。精神安定剤も飲み始めていたという。

二〇一一年一月、本人が警察署の窓口でこぼしたこと

事件の二年半前、二〇一一年一月に、彼は周南署に相談へ行っている。内容は「集落で孤立している」「悪口を言われている」というものだった。警察は刑事事件として立件できるような具体的被害を確認できず、相談として処理している。

ここは後から見ればいくつもの「もし」が浮かぶポイントだ。もし精神科につながっていたら。もし行政の見守りが入っていたら。ただ現実には、山奥の集落で高齢の男性が「悪口を言われている」と訴えてきたところで、警察にできることはほとんどない。この相談記録は、後の裁判で、彼の被害感情がいつ頃から具体化していたかを示す資料として使われた。

検察が積み上げた物証と、放火だと断じた火災学

公判で争われた柱は三つある。ひとつ、二軒の火災は放火なのか。ふたつ、五人の殺害と放火は本当に彼がやったのか。みっつ、妄想性障害による責任能力の減退があったのか。

ひとつめについては、火災科学の専門家として東京理科大学の須川修身教授が証言に立ち、自然発火の可能性は考えにくく放火の可能性が高いと述べた。ふたつめについては、直接目撃者のいない事件だから、状況証拠の積み重ねになる。犯行前後の言動、逃走、山中のICレコーダー、そして五人の傷の同一性。検察はこれらを束ねて、犯人性を立証していった。

一度目の鑑定と二度目の鑑定で、診断名が変わった

みっつめが、この裁判をいちばん長引かせた。精神鑑定は二回実施されている。一回目は二〇一三年九月十七日から約三か月。この鑑定医の結論は「被害妄想はあるが、妄想性障害とまでは認められない」だった。二回目は二〇一四年十月十六日から二〇一五年二月二十七日まで、約四か月。こちらの鑑定医は「妄想性障害」と診断した。地域住民から挑発や噂を受けていると勝手に思い込み、被害感情を募らせて報復のために事件に及んだ、という見立てだ。

同じ人物を診て、診断名が割れた。裁判所はここをどう裁くのか。それが最大の関心事になった。

初公判で、供述がひっくり返った日

起訴は二〇一三年十二月二十七日。殺人罪五件、非現住建造物等放火罪二件。だが公判前整理手続に時間がかかり、初公判は一年半後の二〇一五年六月二十五日までずれ込んだ。

そしてこの初公判で、彼は無罪を主張する。逮捕直後の取り調べでは五人の殺害を認めていたのに、法廷では「やっていない」と言い出したのだ。以後、彼は一貫して犯行を否認し続ける。証拠はでっち上げだ、と主張した。弁護側も無罪を求めた。ここから、裁判員裁判としては異例に重い審理が始まる。

県内初の死刑求刑、そして死刑判決

二〇一五年七月十日の論告求刑公判で、検察は死刑を求刑した。山口県内の裁判員裁判で死刑が求刑されたのは、これが初めてだった。そして同年七月二十八日、山口地裁の大寄淳裁判長は死刑を言い渡す。

判決は、犯行前後の言動から被告人が犯人であることは明らかだとし、起訴された行為が犯罪であることを明確に認識していたのだから完全責任能力があると認定した。妄想性障害が動機に一定の影響を与えたことは認めつつ、そのうえで犯行という手段を選んだのは本人の性格に由来する、と切り分けたのが特徴だ。あわせて裁判所は、彼が主張するような組織的な「村八分」が実在したとは認めなかった。県内の裁判員裁判では初の死刑判決だった。

広島高裁は、五十二の証拠請求を全部蹴った

控訴審は広島高裁で、二〇一六年七月二十五日に初公判が開かれた。裁判長は多和田隆史。弁護側は五十二件もの証拠請求を行い、精神の再鑑定も申請した。しかし裁判所はこれをすべて却下し、その日のうちに結審する。即日結審だ。二〇一六年九月十三日、控訴棄却。一審の死刑判断は是認された。

この「五十二件全却下・即日結審」という進め方には、当時から批判もあった。死刑事件でそこまで急ぐ必要があったのか、という声だ。一方で、一審が裁判員裁判で丁寧に審理した結果を尊重するという控訴審のあり方からすれば、説明はつく。この綱引きは、日本の刑事司法が裁判員制度を導入して以来ずっと抱えている問題でもある。

最高裁が示した「妄想の影響は大きくない」という線引き

上告審の弁論は二〇一九年六月十七日に開かれた。裁判長は山口厚。そして同年七月十一日午後三時、最高裁は上告を棄却した。判断の核はこうだ。被告は自らの価値観などに基づいて犯行を実行しており、妄想が犯行に及ぼした影響は大きくない。つまり、妄想性障害があったことは前提にしつつ、その妄想が行動を支配していたわけではない、と見た。

弁護側は七月十八日に判決訂正を申し立てたが、八月一日付で棄却され、死刑が確定した。事件から六年余り。地元紙は確定の報を大きく扱った。

再審請求は、十一年かけて閉じられた

死刑確定後も手続きは続いた。二〇一九年十一月十二日、弁護団は山口地裁へ再審請求を申し立てる。二〇二一年三月二十二日、山口地裁は請求を棄却。弁護団は即時抗告したが、二〇二二年十一月に広島高裁が棄却。さらに特別抗告し、二〇二五年一月二十九日、最高裁がこれも棄却した。

事件発生からおよそ十一年半。法的な争いは、いったんすべての扉が閉じられたことになる。本人は広島拘置所に収監されている。二〇二六年八月の時点で、七十六歳になる計算だ。

村八分説は、どこから来たのか

さて、ここからが本題かもしれない。ネットで一番信じられていた話、つまり「被害者たちが加害者をいじめていたから殺された」という筋書きは、どこから出てきたのか。

出どころを辿ると、ほとんどが本人の供述に行き着く。草刈機を燃やされた。庭に除草剤を撒かれた。犬の水に毒を入れられた。手作りのカレーに農薬を混ぜられた。車のタイヤホイールのネジを緩められた。車で挑発運転をされた。寝たきりの母の部屋に勝手に入られて侮辱された。刃物で刺された。

これらはすべて本人が語ったことだ。そして裁判所は、これらの多くを被害妄想と認定した。住民側の説明はもっと素朴で、痛んだカレーを食べただけではないか、農薬が誤ってバケツに入ったのではないか、というものだった。どちらが真実かを外から断定はできない。ただ、司法が認定したのは前者ではなく後者に近い線だった、という事実は動かない。

「夜這い」の因縁という、いちばん語られた物語

村八分説とセットで語られたのが、戦中の「夜這い」をめぐる因縁だ。話の骨格はこうなっている。戦時中、この地域には夜這いの習俗があり、ある住民が女性たちを襲って回っていた。保見の実兄が、その人物から母親を守った。その恨みが世代を越えて残り、息子である保見へのいじめにつながった、という筋書きだ。

ノンフィクションライターの高橋ユキが最初に金峰へ入ったのも、月刊誌からこの「夜這い」の存否を確かめてほしいという依頼がきっかけだった。二〇一七年一月のことだ。しかし取材を進めると、話は単純ではなかった。いじめの主導者とされた人物は、そもそもそんな記憶はないと否定した。しかもその人物は、事件当夜、温泉旅行に出ていて集落にいなかった。

つまり、物語の中心にいるはずの人が、現場にすらいなかったわけだ。この一点で、きれいな因縁話は崩れる。

高橋ユキが村で聞いた、報道とズレる声

高橋ユキの取材は、そのまま『つけびの村』というルポになった。もともとは有料ノートとして連載され、口コミで爆発的に読まれ、二〇一九年に書籍化、二〇二三年に文庫化されている。

この本の面白さは、真相を暴く快感ではなく、真相に辿り着けない過程を丸ごと見せてしまうところにある。たとえば新聞は「この集落では誰も鍵をかけなかった」と書いた。だが住民に聞くと「以前は鍵をかけていた」と言う。細部が、ことごとくズレる。彼女が丁寧に聞いて回った結果、ネットに流通していた噂の多くは、本人の主観が拡大解釈されて外に出たものだと分かってきた。そして彼女自身が本人と面会したとき、話題は延々「警察の証拠でっち上げ」に終始したという。妄想はむしろ深まっていた。

カレーの毒と、バケツの農薬と、燃えた草刈機

ここで一度、噂の検証を具体的にやってみる。

まず草刈機。焼けた草刈機があったのは事実として語られているが、誰が燃やしたのかを示す証拠は出ていない。次にカレー。彼は毒を入れられたと主張したが、集落側は夏場に傷んだだけではないかと反論した。バケツの農薬も同様で、農作業の現場で除草剤が混入すること自体は珍しくない。そして犬。「臭い」という苦情が出たのは事実として複数の証言がある。ただし苦情を言うことと、嫌がらせをすることは違う。

ひとつひとつを解体していくと、決定的な「いじめの証拠」はどこにも見つからない。かといって「集落は完全に潔白で、彼が一〇〇パーセント妄想だった」と断言できるほど、当時の日常が記録されているわけでもない。灰色のまま残っている部分は、正直、いまも残っている。

掲示板とまとめサイトが作った「もう一人の被疑者」

事件直後、掲示板とまとめサイトは猛烈な速度で動いた。「地元の人による山口五人惨殺まとめ」を名乗る投稿が拡散し、村社会の恐ろしさを語るスレッドが乱立した。「かわいそう」「気持ちは分かる」という同情の書き込みも大量に出た。

加害者に同情が集まる事件というのは珍しくないが、この事件はその規模が異常だった。理由は明白で、川柳という強すぎるフックがあったからだ。十七文字が、加害者を「言葉を残した孤独な男」に仕立て、被害者五人を匿名の「田舎者」に押し込めてしまった。実際に殺されたのは、七十一歳と七十二歳の夫婦、七十九歳の女性、七十三歳の女性、八十歳の男性だ。名前も生活もある人たちだった。ネットの世界では、その五人がずっと背景でしかなかった。

高橋ユキが十年後に書いた、「インターネットという村」

事件から十年たった二〇二三年、高橋ユキは「インターネットという村における田舎の闇」という趣旨の文章を発表している。指摘は痛烈だ。閉鎖的な村で噂が検証されずに広まるのを我々は笑ったが、ネットでもまったく同じことが起きている、と。

事実より物語が優先される。訂正情報は最初の情報の百分の一しか広まらない。噂を語るときの、あのなんとも言えない高揚感。これは村の縁側でもタイムラインでも変わらない。ある書き手は、この本を読んで、自分が地方の噂社会を嫌って東京に出てきたはずなのに、友人にこの事件の猟奇的な細部を話しながら妙な快感を覚えていたと告白している。他人事にならない。それがこの事件の一番の後味の悪さだ。

金峰という土地の来歴を、ちゃんと押さえておく

舞台になった金峰について、少し土地の話をしておきたい。

周南市大字金峰は市の北東部にあり、ほとんどが山地だ。金峰山の標高は七九〇メートル。東部を錦川が北へ流れ、西部から中部にかけて金峰川が東へ流れる。果樹やワサビ、シイタケの栽培が盛んな地域として知られてきた。

江戸時代は萩藩領。一八八九年に須万村と合併して須金村になり、一九五五年のいわゆる昭和の大合併で分割され、西部は鹿野町へ、東部は都濃町を経て一九六六年に徳山市へ編入された。そして二〇〇三年、徳山市と鹿野町などが合併して周南市が誕生し、金峰全域が周南市になった。大字金峰は十一の集落で構成されていて、二〇一三年六月末の総人口は約二百十人。そのうち西部の郷が、十四人という限界集落だった。平家の落人伝説が語り継がれてきた土地でもある。行政の線引きが二度も三度も引き直され、そのたびに周縁に置かれてきた地域だ、という見方もできる。

事件のあと、郷に残った人たち

五人が死に、一人が逮捕された。八世帯十四人だった集落から、六人が一夜で消えた計算になる。二〇一九年五月末の時点で、郷は五世帯八人。男性五人、女性三人。うち六人が高齢者。携帯電話は相変わらずほぼ通じない。焼け跡は片づけられ、加害者の家は二〇一九年七月の時点でも一部がブルーシートに覆われたままだった。

それでも、この集落を諦めていない人はいる。事件から十年の節目に取材された六十代の男性は、この場所で村おこしに取り組んでいると報じられた。五人が殺された村、という看板を背負わされたまま、それでも住み続け、人を呼ぼうとしている人がいるわけだ。皮肉な話でもある。加害者がかつてやろうとして拒まれたことを、いま別の誰かがやっている。

証言その一・報道陣に語った近隣住民の言葉

事件直後、集落や周辺の住民が語った言葉は、いくつも記録に残っている。ある住民は、加害者について「みんな仲良しなのに、一人だけ浮いた存在だった」と語った。別の住民は、犬の臭いについて実際に苦情を言ったことを認めつつ、それが嫌がらせのつもりではなかったと説明している。また、事件前から集落では彼の言動を持て余していて、どう接すればいいのか分からなかったという趣旨の証言も出ている。

ここで注意しなければならないのは、これらの発言が「だから殺されても仕方ない」という話ではまったくないということだ。同時に、「彼らがいじめていた」という証明にもならない。人口十四人の集落で、一人が浮いてしまったとき、残りの十三人に何ができたのか。この問いに、きれいな答えを持っている人は誰もいない。

取材に応じた住民の多くは、事件後、報道陣が押し寄せたことで二次的な苦しみを味わったとも語っている。カメラを持った人間が毎日山道を上ってきて、隣人が死んだばかりの家の前で中継をする。その状況を想像してみるといい。

証言その二・法廷を見た人が受け取った違和感

二〇一五年の山口地裁の審理を傍聴した人たちの記録には、共通する印象が残っている。被告人が終始「自分は被害者だ」という立場から一歩も動かなかった、というものだ。遺族への謝罪の言葉はなかった。上告審の直前には、遺族には絶対に謝らない、自分のほうが被害者だ、という趣旨の発言をしていたと報じられている。無罪になったら郷に帰って陶芸をしたい、とも語っていたという。

この「陶芸をしたい」という一言が、傍聴した人たちにはかなり強烈だったらしい。五人が死に、二軒が焼け、集落が崩壊した現場に戻って、静かに土をこねたい。その願望が本気で語られていた。責任能力の議論とは別に、この人物の内側で世界がどう見えていたのか。それを法廷で目撃した人たちは、単純な「同情」でも「断罪」でもない、名前のつけにくい感情を持ち帰ることになった。

証言その三・書簡を交わし続けた人が見たもの

この事件には、確定死刑囚となった本人と三年にわたって文通し、面会も重ねた人物がいる。移住アドバイザーとして地方移住の実務に関わってきた人で、田舎暮らしの実態を発信してきた立場から接触した。

この人が繰り返し語ってきたのは、大手メディアが描いた「村八分に耐えかねた男」という像も、逆に「ただの妄想を暴走させた男」という像も、どちらも実物に届いていないという感覚だ。手紙のなかで語られる田舎暮らしの息苦しさには、移住ブームの盲点として無視できない部分がある。一方で、面会を重ねるほど、話は警察や検察への不信に収斂していき、事件そのものの記憶を確認できる状態ではなくなっていく。

この二つを同時に見てしまった人の証言は、たぶんこの事件に関する記録のなかで、最も座りが悪い。真実を掴んだという爽快感がまったくないからだ。ノンフィクションのライターも、文通相手も、法廷の傍聴人も、みんな同じ壁の前で足を止めている。

責任能力という制度を、この事件で考える

妄想性障害という診断があり、それでも完全責任能力が認められた。この構図に納得できない人は多い。ただ、日本の刑法における責任能力の判断は「病名」ではなく「その病気が犯行にどう影響したか」で決まる。事理弁識能力、つまり善悪が分かるか。行動制御能力、つまり分かったうえで思いとどまれるか。この二つが問われる。

裁判所は、彼が犯行を犯罪だと認識していたこと、逃走して自殺を図ろうとしたこと、つまり悪いことをした自覚があったことを重く見た。妄想は動機の土台にはなったが、行動そのものを支配してはいなかった。これが最高裁まで維持された判断だ。裁判員裁判で下された死刑判決が、控訴審・上告審を通過するパターンとして、この事件は実務上もよく参照される。

なぜ俺たちは、この事件から目を離せないのか

理由はいくつもあるが、根っこはたぶんひとつだ。この事件は、自分がどっち側にもなりうるからだ。

都会で働いて、親のために田舎に帰る。それは多くの人にとって、遠い話ではない。帰った先で浮いてしまう。よかれと思った提案が煙たがられる。犬のことで文句を言われる。そういう小さなすれ違いが積み上がったとき、人間の認知はどこまで歪むのか。

逆に、集落の側に立ってみてもいい。急に戻ってきた同郷の男が、人形を庭に置き、動かないカメラをこちらに向けてくる。怖い。でも十四人しかいない集落で、無視するわけにもいかない。どうすればよかったのか。答えがない。答えがないから、みんな噂で埋める。そして噂は、ネットという新しい村で無限に増殖する。

この事件が語られ続けるのは、川柳が不気味だからでも、山村が怖いからでもない。俺たち自身が、いま噂の側にいるからだ。

三つのレイヤーが、まるごと食い違っている

事件から十三年が過ぎ、司法手続きもほぼ閉じたいま、この事件を改めて眺めると、三つのレイヤーがきれいに分離して見えてくる。ひとつめは、法廷が認定した事実のレイヤー。ふたつめは、報道が作った物語のレイヤー。みっつめは、ネットが増幅した噂のレイヤーだ。この三つは同じ事件を扱っているのに、中身がまるで違う。しかも一般の人が触れる量は、圧倒的に三番目が多い。ここに、この事件の本当の怖さがある。

法廷が認定したのは、要するにこういうことだ。二〇一三年七月二十一日夜から翌未明にかけて、一人の六十三歳男性が集落内の五人を鈍器で殺害し、うち二軒に火を放った。彼には妄想性障害があり、住民から嫌がらせを受けているという確信を持っていたが、その確信の根拠となる事実の多くは客観的に裏づけられなかった。彼は自分の行為が犯罪であることを認識していた。したがって完全責任能力がある。死刑。これが確定した骨格だ。ここには「村八分があったから殺した」という因果は書かれていない。裁判所はむしろ、そういう組織的な排除の存在を否定している。

ところが報道の初期段階で、川柳が「犯行予告」として流れた。この一手が決定的だった。予告状という枠組みで受け取られた瞬間、事件は「積年の恨みを溜め込んだ男が、ついに行動に移した復讐劇」として理解されるようになる。ミステリ的にも、社会派的にも、これほど収まりのいい型はない。

実際にはあの紙は数年前から貼られていて、しかも彼自身の家の風呂場が焼けた出来事のあとに貼られたものだった。順序が逆なのだ。だが訂正情報は、最初の情報の熱量には決して追いつかない。「平成の八つ墓村」という呼称が定着してしまえば、あとはその型に合う情報だけが選ばれて流通していく。確証バイアスというのは、個人の頭のなかだけで起きる現象じゃない。社会全体の情報流通でも同じことが起きる。

第三のレイヤー、つまりネットの噂については、もう少し踏み込んで考える価値がある。この事件でネットが果たした役割は、単なる拡散ではなかった。創作に近い。夜這いの因縁、世代を越えた恨み、集落ぐるみの陰湿な制裁。これらは断片的な情報を素材にして、掲示板とまとめサイトの上で組み立てられた物語だ。組み立てた人たちに悪意があったとは限らない。むしろ、分からないものを分かる形にしたいという、ごく自然な欲求が働いた結果だと思う。人間は空白に耐えられない。だから埋める。問題は、埋めた石膏がいつのまにか本物の骨と見分けがつかなくなることだ。

そしてもうひとつ、この事件には見落とされがちな加害構造がある。噂の被害者は加害者本人だけではない、ということだ。殺された五人と、その遺族と、生き残った集落の住民たちも、噂の被害者になった。「あの村の人たちがいじめたから殺された」という物語は、被害者を潜在的な加害者に反転させる。実際、事件後には集落に対する誹謗が相当量出回った。名指しで悪者にされた人もいる。だが法廷はその構図を認めていないし、現地を丹念に歩いたライターの取材でも裏づけは取れていない。にもかかわらず、その物語だけが十年以上生き延びた。家族を殺されたうえに、世間からは「お前らが悪い」と言われる。これは二重の暴力だ。

じゃあ、集落は完全に無関係だったのか。そこまで言い切るのも、たぶん不正確だ。人口十四人、そのうち十人が高齢者という共同体に、一人だけ都会帰りの中年男が入ってきた。この構造そのものが、摩擦を生まないほうがおかしい。彼が持ち込んだ「村おこし」の発想は、二十年後の日本なら地域再生の文脈で歓迎されたかもしれない。だが一九九〇年代の限界集落に、そんな受け皿はなかった。都市で成功した自負と、地方の年功秩序。この二つがぶつかったとき、勝つのは常に後者だ。彼は負けた。そして負けた自覚を、被害の記憶に置き換えていった。妄想性障害は、そういう置き換えを加速させる。医学的な病と、社会的な孤立と、地域の構造。三つが同時に効いていた。どれか一つを犯人にすることはできない。

ここで考えたいのが、この事件が突きつけた予防の問題だ。二〇一一年一月、彼は自分から警察署に行っている。孤立している、悪口を言われている、と。この時点で誰かが介入していたら、五人は死ななかったかもしれない。だが現実の制度は、この種の相談を受け止める設計になっていない。犯罪が起きていないから警察は動けない。本人に病識がないから医療にはつながらない。集落の側も、高齢者ばかりで手が足りない。行政は市の中心部から四十五分の山奥まで、日常的には来られない。すべての機関が「うちの管轄ではない」と言える状態で、一人の人間が二年半かけて壊れていった。これは山口の山奥だけの話じゃない。全国どこにでもある空白だ。

加えて、控訴審の進め方についても記録しておく必要がある。弁護側が出した五十二件の証拠請求を全部却下し、再鑑定も認めず、初公判で即日結審して、その二か月後に死刑を是認した。裁判員裁判の一審判断を尊重するという方針は理解できるとしても、死刑という取り返しのつかない刑罰について、この速度でよかったのかという問いは残る。再審請求も、山口地裁、広島高裁、最高裁と三段階すべてで退けられ、二〇二五年一月に閉じた。制度としては筋を通した。ただ、筋を通したことと、疑問が消えたことは別だ。

最後に、俺がこの事件を追っていて一番きついと思う点を書いておく。それは、真相の中心にいる人物が、真相を語れる状態にないということだ。逮捕直後は認め、法廷では否認し、面会では警察のでっち上げを訴え続ける。妄想は年を追って深まっている。あの晩、山道を歩きながら彼が何を考えていたのか。四軒目の家の戸を開けたとき、何を見ていたのか。それを知る唯一の人間の記憶が、もう検証不能な場所へ行ってしまった。だから我々は、永遠に外側から想像するしかない。想像するしかないから、物語を作る。物語を作るから、噂になる。この事件が「噂が五人を殺したのか」という問いを立てられたのは、そういう循環があるからだ。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。二〇一三年七月二十一日の夜まで、あの集落には十四人が暮らしていた。参院選の投票を済ませ、夕飯を食べ、テレビをつけ、いつもどおり寝るはずだった人たちがいた。貞森誠さんと喜代子さん夫妻。山本ミヤ子さん。河村聡子さん。石村文人さん。この五人の名前を、川柳より先に思い出せるかどうか。それがたぶん、この事件との向き合い方を決める分かれ目なんだと思う。噂は主語を消す。だから、消された主語を戻すところからしか始まらない。

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