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ソハム事件――マンチェスター・ユナイテッドのシャツを着た二人の少女が、なぜ『学校の用務員』の家から出てこなかったのか

日曜の夕方、赤いシャツを着た二人が家を出た

2002年8月4日、日曜日。イングランド東部、ケンブリッジシャー州の小さな町ソハム。夏の夕方の、なんでもない時間だった。

町の中心からほど近い一角に、10歳のホリー・ウェルズが住んでいた。その日、親友のジェシカ・チャップマンが遊びに来ていた。二人はセント・アンドリューズ小学校の同級生だ。夕食を済ませて、お菓子を買いに出かけることにした。

二人とも、赤いマンチェスター・ユナイテッドのレプリカシャツを着ていた。この一枚が、あとで世界中に配信されることになる。事件を語るとき、人がまず思い出すのはあの赤だ。

家を出たのは午後6時5分ごろ。そして道の途中で、二人はひとりの大人に会う。当時28歳のイアン・ハントリー。ソハム・ヴィレッジ・カレッジという地元の中等学校で、用務員主任をしていた男だ。

ここが、この事件のいちばん嫌なところなんだよな。二人にとって彼は、まったくの他人ではなかった。彼のパートナーであるマキシン・カーが、二人の通う小学校で5年生の教員補助として働いていたからだ。カーは子どもたちに慕われていた。だから、ハントリーは「知らないおじさん」ではなく、「先生のパートナーのおじさん」だった。

彼は、カーが家にいると言った。嘘だった。二人はその家に入っていった。

ジェシカの携帯電話の電源が切れたのが、午後6時46分。二人が生きていたことを示す最後の痕跡は、これだけだ。帰ってこない娘たちを心配した家族が警察に通報したのは、その夜の午後9時55分だった。

400人の警察官と、2000件の情報

通報を受けた警察の動きは速かった。そして、規模が異常だった。

400人を超える警察官が投入された。ボランティアは数百人規模。近隣の在英米軍基地、RAFレイクンヒースなどの要員まで捜索に加わっている。イギリスの犯罪史でも最大級の捜索活動のひとつだ。

情報提供は2000件を超えた。警察は登録性犯罪者への聞き込みを、近隣の複数の州にまたがって実施している。8月7日にはキャンドルを灯す追悼集会が開かれた。8月8日、二人が最後に目撃されたスポーツセンター周辺の防犯カメラ映像が公開される。8月10日にはテレビで再現映像が流れ、8月12日には両親がITVの報道番組に出て、直接国民に訴えかけた。

国全体が、この二人を探していた。それくらいの熱量だった。

レモンの匂いがする家と、ゴミ箱の中の赤

8月16日、ハントリーとカーの二人が警察の聴取を受ける。約7時間。そのあと二人は「セーフハウス」に移された。

そしてその夜から翌17日の未明にかけて、警察は二人が留守にしている家と、ソハム・ヴィレッジ・カレッジを徹底的に捜索した。

家に入った捜査員が気づいたのは、匂いだった。強いレモンの香りの洗剤で、執拗に掃除された形跡があったという。日曜の夕方から、二週間近く。その間、この家で何が拭かれ続けていたのか。

決定的だったのは学校のほうだ。格納庫のゴミ箱から、焦げて、切り刻まれた二枚のマンチェスター・ユナイテッドのシャツが出てきた。あの赤だ。

そこから先は、科学が仕事をした。シャツの繊維は、ハントリーの体からも、衣服からも、車の内装からも見つかった繊維と一致した。ゴミ箱には彼の指紋も残っていた。

同じ17日、猟場管理人のキース・プライヤーが、ソハムから10マイル以上離れたサフォーク州、RAFレイクンヒース近郊の灌漑用水路で、二人の遺体を発見する。遺体は13日間、屋外にさらされていた。損傷は激しく、一部は炭化していた。8月21日、DNA鑑定で二人の身元が確定する。

17日の未明4時30分、ハントリーとカーは誘拐と殺人の容疑で逮捕された。

二千人が集まった大聖堂と、隣り合わせの墓

9月、二人の葬儀がセント・アンドリューズ教区教会で連日にわたって営まれた。遺族の意向で、メディアの取材は完全に排除されている。

二人は、ソハム市内のフォーダム・ロード墓地に埋葬された。隣り合った区画に。生前ずっと一緒にいた二人を、家族は最後まで離さなかった。

8月30日にはイーリー大聖堂で追悼式が行われている。同級生、教師、家族連絡担当官を含めて、約2000人が参列した。司祭はこう語りかけたという。この二人の少女への最良で永続的な追悼は、私たちが互いにどう接するかをより良く変えていくことではないか、と。

オンラインの追悼記帳には、3万1000件を超えるメッセージが寄せられた。8月24日には、イングランド各地のサッカークラブが試合前に黙祷を捧げている。あの赤いシャツを思えば、当然の弔い方だった。

「イアン・ニクソン」という偽名で、彼は学校に入っていた

捜査が進むにつれて、この事件の本当の問題が浮かび上がってくる。ハントリーの経歴だ。

彼は「イアン・ニクソン」という偽名を使い、2001年9月にソハム・ヴィレッジ・カレッジの用務員主任として採用されていた。採用時の経歴照会は、一切行われていなかった。

では、照会していたら何が出てきたのか。ここを読むと、本当に胃が重くなる。

1995年から1996年にかけて、彼は13歳を含む複数の未成年少女と性的関係を持っていた。うち一人、15歳の少女は1998年に彼の子を出産している。警察への通報は3度あったが、被害者側が協力を拒んだために起訴には至らなかった。1998年には二人の女性からレイプの疑いで告発されたが、証拠不十分で不起訴。同年7月には、11歳の少女への性的暴行の通報もあった。この件については、彼自身が2007年4月になってから関与を認めている。

2001年までに、彼に関する通報は合計10件に達していたとされる。

10件だ。10件あって、それでも彼は学校の鍵を持つ職に就いた。精神科医の鑑定では、精神病質的な傾向があるとされたが、刑事責任能力には問題なしと判断されている。

「二人とも事故で死ぬなんてことがあり得るのか」

裁判は2003年11月5日、ロンドンの中央刑事裁判所――オールド・ベイリーで開廷した。モーゼス判事のもとだ。

検察の主張はこうだった。ハントリーは午後6時37分ごろに二人を自宅へ誘い込み、その直後に殺害した。

これに対して、法廷でのハントリー本人の証言が、とんでもないものだった。彼は二人の死をいずれも「事故」だと言い張ったのだ。

彼の説明はこうだ。ホリーが鼻血を出した。犬を洗った水がたまった浴槽のそばで、彼女を助けようとした際に誤って浴槽に落としてしまった。それを見たジェシカが「あなたが押した!」と繰り返し叫んだので、黙らせようとして、誤って窒息させてしまった――。

検察は容赦なく突いた。二人ともが事故で死ぬなどということが、あり得るだろうか、と。そして、性的な動機に基づく計画的犯行である疑いを指摘した。

弁護側は、殺意の立証が不十分だとして故殺への減軽を求めた。だが陪審は4日間の評議の末、2003年12月17日、多数決評決で殺人罪について有罪の結論を出した。

一日ずれていたら、彼は終身刑だった

ハントリーには無期懲役が言い渡された。2005年9月29日には、最低服役期間が40年と定められている。つまり仮釈放審査が可能になるのは2042年、68歳になってからという計算だった。

ここに、笑えない偶然がある。ハントリーは、絶対的終身刑――ホールライフ・タリフを、わずかに免れているのだ。

理由は施行日だ。より重い量刑基準を定めた2003年刑事司法法が施行されたのは、彼の有罪評決の翌日だった。そしてこの法律は、2003年12月18日以降に行われた殺人にしか適用されない。彼の犯行は2002年8月。制度上、どうやっても届かなかった。

たった一日と、一年半。法律というのは、こういう形でも人の運命を分ける。

マキシン・カーがついた嘘

パートナーのマキシン・カーについては、話がまったく別の筋になる。

彼女は事件当夜、グリムズビーの実家に帰省していた。犯行現場にはいない。これは動かない事実だ。

問題は、そのあとだ。彼女はハントリーをかばうために、警察に偽のアリバイを提供した。司法妨害罪に問われることになる。

裁判で彼女はこう証言している。ハントリーから電話で「大変なことになった、少女たちがうちに来たんだ」と告げられ、あの鼻血の話を聞かされた。そして彼に求められるまま、偽のアリバイを作った、と。

陪審の判断は割れた。彼女はハントリーの無実の訴えを信じてうそをついたに過ぎない、として「犯人隠避」の訴因については無罪。ただし「司法妨害罪」については有罪で、禁錮3年6か月。

彼女は未決勾留期間を含めて21か月服役し、2004年5月14日に釈放された。その後は新たな身元を与えられ、非公開の場所に移り住んでいる。2005年2月24日には、生涯にわたる匿名保護の差止命令を勝ち取った。

刑務所で死んだ男

この事件の法的な状況は、はっきりしている。冤罪の余地はない。証拠に基づいて有罪が確定し、再審の議論が起きるような事案でもない。

ハントリーは服役中、何度も他の受刑者から襲撃を受けている。2005年には熱湯を浴びせられた。2010年には喉を切りつけられた。

そして2026年2月26日、収監先のHMPフランクランド刑務所の作業場で、別の受刑者アンソニー・ラッセルから頭部と顔面に重傷を負わされる。ここで報じられたディテールが、なんとも言えない。ハントリーは、被害者の少女たちと同じマンチェスター・ユナイテッドのレプリカシャツを着る習慣を続けていたという。それが他の受刑者の反感を買う一因になったとされている。

生命維持装置を外されたあと、2026年3月7日、彼は52歳で死んだ。ラッセルは同年3月10日に殺人容疑で起訴され、刑務所・保護観察監察局による正式な調査が行われている。

ネットで繰り返し語られてきた四つの疑い

法廷で確定した事実とは別に、この事件をめぐってはいくつかの憶測が二十年以上くすぶり続けている。それぞれ、出どころと確定事実との距離を整理しておきたい。

ひとつめが、「事故死という供述はそもそも成立しない、実際には性的暴行が先行していたはずだ」という見方。これは検察が公判で展開した主張そのものでもある。ただ、法医学的には遺体の腐敗が進みすぎていて、性的暴行の直接証拠は検出されなかった。この「証拠が出なかった」という一点が、ネット上では「本当は何が起きたのか永遠にわからない」という不安と結びついた。ハントリー自身の法廷証言をそのまま信じる人間は、ほとんどいない。もっとも法的には、争点はあくまで殺人罪の成立であり、性的動機の有無は量刑には影響しても、有罪という結論そのものを左右するものではなかった。

ふたつめが、マキシン・カーの本当の関与度をめぐる議論だ。裁判所は、彼女は事件当夜は現場におらず、事後的に偽アリバイを提供したにすぎないと認定した。殺人そのものへの関与は認めていない。だが、彼女がハントリーの度重なる女性・少女関係のトラブルを間近で見てきたはずだという事実、そして事件直後に自宅の掃除に協力していたと見られる行動から、「本当に何も知らなかったのか」という疑念が掲示板やコメント欄で繰り返し語られてきた。弁護側と裁判所は、彼女はハントリーの「無実」を信じ込まされていた被害者的立場にあったという見方を取っている。この二つの読み方のあいだには、いまも緊張が残ったままだ。

そしてこの疑念は、実際の暴力を生んでいる。彼女によく似た容姿の、まったく無関係な一般女性が「カー本人だ」と誤認され、少なくとも十数件にわたって暴力を受ける事件が起きた。憶測が実害を生んだ典型例として記録されている話だ。

三つめが、2006年にハントリーが獄中で録音した音声テープをめぐる異説。メディアへの売却を意図して作られたものとされている。この中で彼は、法廷で語った内容と食い違う説明をした。逮捕前にカーへ「告白」しており、遺体を燃やすようカーが助言した、という趣旨だ。だがこの録音は正式な証拠として裁判に付されたわけではない。すでに信用性が大きく損なわれている人物による、後付けの説明でしかない。ネットではこれを「本当の真相に近い」と見る向きもあるが、扱いは慎重であるべきだと思う。

四つめが、警察・行政による組織的な隠蔽を疑う声だ。10件もの通報があったのに採用が阻止されなかったという事実は、単なる見落としではなく、意図的な情報隠蔽や自治体間の連携不全があったのではないかという批判を招いた。この点は後述するビシャード調査が公式に検証していて、結論は「意図的な隠蔽」ではなく、警察データベースの記録保持期間の運用と、地域をまたいだ情報共有の制度的欠陥が主因だった、というものだった。それでも「なぜ止められなかったのか」という問いは、いまもネット上の議論の中心にあり続けている。

加害者本人が、報道の場に堂々と出ていた

事件発生直後から、イギリスの主要メディアはこの事件を連日大々的に報じた。あの赤いシャツの写真は捜索期間中に繰り返し使われ、事件そのものを象徴するイメージとして国民の記憶に刻まれた。

BBCをはじめとする公共放送は、捜索の進展、家族の会見、警察発表を逐次報じた。ITVの単独インタビューでは、両親が悲痛な訴えを直接国民に向けて発信している。この徹底した報道体制が多くの目撃情報を呼び込み、警察の捜査を後押しした側面は確かにある。同時に「メディアはどこまで踏み込んでよいのか」という報道倫理の議論も生んだ。

そして、この事件で最も背筋が寒くなる事実のひとつがこれだ。逮捕前のハントリー本人が、記者会見や報道機関の取材に自ら応じていた。「行方不明になった二人の少女を最後に見た人物の一人」として、カメラの前で振る舞っていたのだ。捜査対象であるはずの人間が、報道の場に堂々と登場していた。この異例の状況は、当時から現在に至るまで、繰り返し検証の対象になっている。

ビシャード調査――「なぜこの男が学校で働けたのか」

判決後、社会の関心は一点に集中した。なぜこの男が学校で働けたのか。

2004年に設置されたビシャード調査は、ハンバーサイド警察がハントリーに関する過去の通報記録を適切に保持・共有していなかった実態を明らかにした。そして警察のデータベース運用と、自治体をまたいだ照会制度の不備を厳しく指摘している。

この報告書の内容は各紙で大きく取り上げられ、「二度とこのような子どもへの加害者を学校に近づけてはならない」という世論を強く後押しした。

なお、2023年から2024年にかけて公開された当時の政府文書によって、別の事実も明らかになっている。当時のトニー・ブレア首相は、公開の調査――パブリック・インクワイアリーの実施に、当初は消極的だったという。これも遺族や支援者の間で、政府の初動対応そのものへの疑問として改めて報じられた。

カーへの匿名保護が、また新しい論争を呼んだ

マキシン・カーへの社会的反応は、ハントリーへのそれとは違う複雑さを帯びた。

彼女が「殺人そのものには関与していない」と法的に認定されたあとも、一般世論の一部からは強い非難が向けられ続けた。前述のとおり、彼女と誤認された女性たちが暴力の被害に遭う事態にまで発展している。

この状況を受けて講じられたのが、生涯にわたる匿名保護という異例の法的措置だった。だがこれ自体もまた論争を呼ぶ。「加害者の関係者がここまで手厚く保護されるのはおかしい」という批判と、「誤認による私刑を防ぐためにはやむを得ない」という擁護。両方の意見がぶつかり、メディア上の論争は長く続いた。

彼女が出版を試みた自伝についても、報道を受けた世論の反発によって出版社が契約を撤回する事態になっている。この事件に関する情報発信そのものが、その後も強い社会的緊張をはらみ続けていることの表れだ。

2026年のハントリーの獄中死についても、報道の反応は一様ではなかった。一部では「これで一つの区切りがついた」という受け止めが見られた一方、遺族や支援者の間では「裁判の場で説明責任を果たし切らないまま世を去った」という複雑な感情も報じられている。彼の死をめぐっては、受刑者間暴力を防げなかった刑務所側の管理責任を問う声も上がった。事件そのものだけでなく、その後の刑事施設のあり方についても議論を呼ぶ結果になっている。

この事件が、イギリスの採用のかたちを変えた

ソハム事件が残した最大の制度的遺産は、イギリスにおける子どもの安全確保――セーフガーディングの仕組みの、抜本的な見直しだ。

ビシャード調査の勧告を受けて、政府は学校や福祉施設など、子どもや弱い立場の人々と接する職に就く者すべてに対する経歴照会の仕組みを強化した。2006年に成立した保護対象者保護法に基づき、独立監視機関が設置される。のちに他機関と統合されるが、これが現在のDBSチェックにつながる仕組みの前身にあたる。

ここで何が変わったか。複数の警察管轄区域にまたがる犯罪関連情報が、一元的に照会・共有される体制ができた。ハントリーのように「別の地域での過去の疑惑が新しい雇用主に伝わらない」という事態を防ぐための、制度的な基盤だ。

そして、学校や地域社会における採用慣行そのものも変わった。それまで多くの教育機関では、経歴照会が形式的にしか行われていなかったり、そもそも義務付けられていなかったりした。事件後は、子どもと接する職務に就くすべての人材について、採用前の照会が事実上の必須要件として定着していく。これは単なる法制度の変化じゃない。社会全体の「子どもを大人からどう守るか」という意識そのものが、ここで動いた。

文化的な記憶としても、この事件は長く残っている。2003年のチェルシー・フラワーショーでは、二人を追悼するオレンジ色の花弁を持つバラの新品種「ソハムのバラ」が発表された。追悼式で朗読された詩に着想を得たものだという。

事件現場となった住宅は、2004年4月3日に解体された。瓦礫は非公開の場所に処分されている。跡地はいま、更地の芝生として残されているだけだ。

そしてこの事件は、もうひとつのことを社会に突きつけた。一見ごく普通の地域社会の一員が、深刻な加害性を隠し持ちうるという事実だ。ハントリーは表面上、学校で真面目に働く用務員であり、少女たちにとっては顔見知りの大人だった。この身近さこそが、事件を一層衝撃的なものにした。イギリス社会における「見知らぬ人」だけでなく「知っている大人」への警戒心のあり方について、議論はいまも続いている。

説明責任を果たさないまま、当人は死んだ

2026年という現在の時点からこの事件を振り返るとき、まず確認しておくべきことがある。これは冤罪事件ではない。証拠に基づいて有罪が確定し、当人が犯行への物理的関与を法廷で認めていた事件だ。

だが、ハントリーは「二人の死に自分が関与した」ことを認めながら、その原因を「事故」だと主張し続けた。つまり彼は、最後まで完全な説明責任を果たさなかった。

そして2026年3月の獄中死によって、「本当は何が起きたのか」という核心について、当人の口から新たな証言が語られる可能性は永久に閉ざされた。遺族にとっては、加害者の死をもってしても事件が本当の意味で「終わる」わけではない、という結末になった。ここが重い。

制度は、本当に機能するようになったのか

この事件を再審制度の文脈で語ることはできない。その代わりに問われ続けているのは、制度は本当に機能するようになったのか、という点だ。

ビシャード調査以降のセーフガーディング改革から、20年以上が経った。DBSチェックを含む経歴照会制度は、たしかに一定の定着を見せている。だが地方自治体間・機関間での情報共有の実効性や、非常勤・臨時雇用者への照会の徹底度については、その後も度々見直しの議論が起きてきた。

ソハム事件が突きつけた「制度の隙間をすり抜けて子どもに接近する加害者をどう防ぐか」という問いは、消えていない。テクノロジーの発達や、オンライン上での子どもとの接触経路の多様化とともに、形を変えながら今なお現在進行形の課題であり続けている。

マキシン・カーに対する生涯の匿名保護についても同じだ。加害者本人ではない「事件の周辺人物」の保護と、事件の透明性・説明責任への社会的要請。この二つのあいだの緊張関係を象徴する事例として、いまも法学やメディア倫理の分野で参照され続けている。2026年のハントリー死去に際しても、彼女の身元が改めて詮索の対象になることを防ぐための配慮が、各報道機関に強く求められた。被害者や遺族だけでなく、事件に間接的に関わった人物の尊厳や安全をどう守るか。事件報道の普遍的な課題が、ここにも顔を出している。

中心にあるのは、10歳だった二人の失われた未来だ

最後に、どうしても書いておきたいことがある。

この事件の中心にあるのは、あくまで10歳だった二人の少女、ホリー・ウェルズとジェシカ・チャップマンの失われた未来だ。

加害者の心理をめぐる議論も、制度の不備をめぐる議論も、どれほど積み重ねられようと、それらはすべて「二度と同じことを繰り返さないため」に意味を持つ。事件そのものを娯楽的な謎解きの対象として消費するのは、被害者と遺族への配慮を欠く行為でしかない。

ソハム事件が今日まで語り継がれている理由は、猟奇性にあるんじゃない。ごく普通の地域社会に潜んだ危険をどう防ぐかという、今なお解決していない社会的課題への警鐘としての意味においてだ。

あの日曜の夕方、赤いシャツを着た二人は、お菓子を買いに行こうとしていただけだった。

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