腕を吊った親切そうな男が、いちばん怖かった
一九七〇年代のアメリカ西海岸で、若い女性が次々と消えた。
共通していたのは、犯人像がまるで「怖くなかった」ことだ。目撃された男は身なりがよく、話し方が丁寧で、腕をギプスで吊っていたり松葉杖をついていたりした。荷物が持てなくて困っている、ちょっとだけ手を貸してくれないか。そう言われて、断る理由を探すほうが難しい。
人は危険を、暗がりや刃物や怒鳴り声の形で想像する。だから、明るい昼間の駐車場で微笑みながら助けを求めてくる青年を、危険として処理する回路を持っていなかった。テッド・バンディという名前が恐ろしいのは、殺した数でも逃げた回数でもなく、この一点に尽きると思う。彼は人間の親切心の配線図を読んでいた。
しかもこの男は、二度も収監先から抜け出した。一度目は裁判所の図書室の窓から飛び降り、二度目は独房の天井に穴を開けて消えた。逃げた先で最悪の夜を起こし、捕まったあとは弁護士を追い出して自分で自分を弁護し、全米に生中継される法廷でカメラに向かって喋り続けた。そして電気椅子に座る直前まで、自分が何人殺したのかを最後まで明かさなかった。
以下、事件の時系列を可能な限り細かく追いながら、生き延びた人たちの証言、捜査官の悔恨、そして今も続いている「なぜこの男だけがこんなに消費されるのか」という議論まで、まとめて掘っていく。断っておくと、これは英雄譚ではない。むしろ、英雄譚に仕立てようとする力そのものを疑うための記事だ。
生まれた時から嘘の中にいた少年
一九四六年十一月二十四日、バーモント州バーリントンの未婚母のための施設で、テオドア・ロバート・カウエルという名前の男の子が生まれた。母のエレノア・ルイーズ・カウエルは二十二歳。父親が誰なのかは、今も確定していない。
生まれてから三年ほど、彼はフィラデルフィアの祖父母の家で暮らし、そこでは母は「姉」ということになっていた。世間体を守るための嘘だ。一九五〇年に母子はワシントン州タコマへ移り、翌年、母は病院のコックだったジョニー・カルペッパー・バンディと再婚する。少年の姓はここでバンディになった。
この生い立ちは、のちの語りで何度も都合よく使われることになる。可哀想な出自が怪物を作ったのだ、という筋書きは分かりやすいからだ。ただ、同じような出自の人間は世界中にいくらでもいて、そのほとんどは誰も殺さない。
むしろ気になるのは、近所の人が後年に語った幼少期の断片のほうだ。彼は「他人が痛がったり怖がったりするのを面白がる」子どもだった、という証言がある。三歳の頃、寝ている叔母のベッドの周りに刃物を並べて、ベッドの脇に立ってにやにやしていた、という有名な逸話も残っている。この話が本当かどうかを検証する手段はもうない。ただ少なくとも、彼の周りにいた人たちが後になって「あれは普通ではなかった」と記憶を掘り返した、という事実は残る。
高校時代の彼は、目立たないが浮いてもいない生徒だった。友達付き合いが極端に下手で、女の子との距離の取り方が分からず、それでも成績はそこそこよかった。一九六五年に高校を卒業し、ピュージェット・サウンド大学に入り、その後ワシントン大学へ移る。ここで彼は中国語を専攻していた時期がある。
一九六七年、同じ大学の学生ダイアン・エドワーズと交際を始めた。裕福な家庭の、洗練された女性だった。彼は後年、彼女のことを「本当に愛した唯一の女性」と語っている。そして一九六八年、彼女に振られた。
この失恋を「すべての起点」として説明したがる本や番組は多い。だが、そこにも慎重でいたい。失恋を殺人の原因に据えると、被害者たちの人生が、ある男の恋愛感情の副産物みたいに扱われてしまう。
危機ホットラインで電話を取っていた青年
振られたあとの数年、彼は仕事を転々としながら、少しずつ「社会的にまともな青年」の外装を組み上げていった。
ワシントン大学に戻って心理学を専攻し、優等生になった。共和党の選挙運動に出入りし、シアトルの犯罪防止諮問委員会の委員に任命された。一九七二年には大学を卒業し、有力者の推薦状を手に、ロースクールへの道まで開けている。
そしてここが、この事件でいちばん皮肉な部分だ。
一九七一年、彼はシアトルの自殺防止ホットラインでボランティアとして電話を受けていた。真夜中に、死にたいと訴えてくる見知らぬ人の声に耳を傾ける仕事だ。同じシフトに入っていたのが、当時まだ元警官のフリーライターだったアン・ルールだった。彼女は後年、その頃の彼を「親切で、思いやりがあって、共感的だった」と書いている。
彼女は本気でそう感じていた。誇張ではなく、彼は実際にその電話で誰かを踏みとどまらせていたかもしれない。人間の中では、深い共感を演じる能力と、他人を物として扱う能力が、矛盾なく同居することがある。この事件が「見た目で人は判断できない」という平凡な教訓を、いまだに手放せない理由がここにある。
一九六九年の秋、彼はエリザベス・クレプファーという女性と出会う。ユタ出身のシングルマザーで、大学の医学部で秘書をしていた。二人の関係は、彼が最初に投獄されるまで、断続的に七年近く続いた。彼女の娘にとって、彼は父親代わりの存在ですらあった。この関係が後にどんな役割を果たすことになるかは、まだ誰も知らなかった。
一九七四年一月、シアトルの地下部屋で何かが始まった
公式に記録されている最初の襲撃は、一九七四年一月四日の未明に起きている。
ワシントン大学近くの地下アパートで、十八歳の女性が寝ている間に襲われた。彼女は生き延びたが、頭部と体に重い傷を負い、視覚と聴覚に永続的な障害が残った。彼女は事件の記憶を持たない。目を覚ましたのは病院で、それから何日も意識が戻らなかった。
この時点では、まだ誰も「連続」とは思っていない。
次に起きたのが二月一日、ワシントン大学の学部生リンダ・アン・ヒーリーの失踪だった。二十一歳。地元のラジオ局でスキー場の天気予報を読む仕事をしていて、朝が早かった。彼女の部屋は、ベッドが整えられていたのに、シーツに血が染みていた。ルームメイトたちは朝、彼女がいないことに気づいたが、部屋があまりに片づいていたので、しばらくは事件だと思わなかった。整えられていたことこそが異常だった、と分かるまでに時間がかかった。
三月十二日、オリンピアのエバーグリーン州立大学の学生ドナ・ゲイル・マンソン、十九歳が、キャンパスで開かれるジャズコンサートに向かう途中で消えた。彼女の遺体は今日に至るまで見つかっていない。
四月十七日には、エレンズバーグのセントラル・ワシントン州立大学で、十八歳のスーザン・エレイン・ランコートが、夜のアドバイザー面談のあとに消えた。この失踪のあとで、複数の女子学生が「腕を吊った男に本を運ぶのを手伝ってくれと頼まれた」と証言している。男が向かった先には、茶色っぽいフォルクスワーゲンのビートルが停まっていた。
五月六日、オレゴン州コーバリスのオレゴン州立大学で、二十歳のロバータ・キャスリーン・パークスが寮を出たきり戻らなかった。友人とコーヒーを飲む約束をしていたが、その場には現れなかった。六月一日、シアトル近郊バーリエンの酒場の駐車場から、二十二歳のブレンダ・キャロル・ボールが消えた。ここでも目撃者は「腕を吊った茶色い髪の男と話していた」と語っている。
六月十一日の夜は、この一連の中でもとりわけ捜査員を打ちのめした。
ワシントン大学の一年生ジョージアン・ホーキンス、十八歳が、恋人の寮とソロリティハウスのあいだの、街灯に照らされた路地を歩いていて消えた。距離にして数十メートル。両端に人がいて、片方の端では友人が彼女を見送っていた。それでも彼女は途中で消えた。
翌日、警察が路地を封鎖して現場検証をしている最中に、犯人は同じ路地に戻ってきていた。落ちていたイヤリングと靴を回収するためだ。何年も後に本人が語ったこの行動は、彼の中の何かを端的に示している。危険を冒すこと自体が目的化していた。
一九七四年七月十四日、湖畔の日曜日
そして七月十四日。
シアトル東郊イサクアのサマミッシュ湖州立公園は、その日、四万人近い人出だったと言われる。晴れた日曜日で、ビール祭りのイベントもあり、家族連れと学生で芝生が埋まっていた。真昼だ。人の目しかない場所だ。
その中で、少なくとも四人の女性が、同じ男に声をかけられている。白いテニスウェアのような服装で、左腕を三角巾で吊っていて、どこか訛りのある喋り方だったという。名前を聞かれると彼は「テッド」と答えた。ヨットを車から降ろすのを手伝ってほしい、と言われたそうだ。三人は断り、一人はついていったが、駐車場にヨットがなかったので不審に思って引き返した。
その後、彼は二十三歳のジャニス・アン・オットに声をかけている。キング郡少年裁判所の保護観察ケースワーカーで、その日は自転車で公園に来ていた。彼女が男と一緒に歩いていくのを、複数の人が見ている。それから約四時間後、十九歳のデニース・マリー・ナスランドが、ピクニックの途中でトイレに立ったまま戻らなかった。コンピュータのプログラミングを学んでいた学生だった。
同じ日に、同じ公園で、大勢の目の前で、二人が消えた。
この事実が事件の性格を決定的に変えた。それまでバラバラの失踪として扱われていた事案が、一本の線につながった。そして初めて、捜査当局は「テッド」という名前と、フォルクスワーゲンのビートルという車種と、腕を吊った男という像を手に入れた。
九月六日、イサクア近郊の山中で、狩猟に来ていた人がオットとナスランドの遺骨を見つける。公園から三キロほどの場所だった。同じ現場からは、後にホーキンスのものと判明する骨も出た。翌年三月、テイラーマウンテンで林学の学生が別の遺骨を見つけ、ヒーリー、ランコート、パークス、ボールの身元が確認された。マンソンだけは、今も帰ってきていない。
「テッド」という名前が届いても、届かなかった
ここからしばらくの話は、捜査の敗北の記録として読むべきだ。
サマミッシュ湖の一件のあと、キング郡の捜査本部には情報が殺到した。一日に数百件という規模だ。名前が「テッド」で、ビートルに乗っていて、二十代の白人男性。この条件に当てはまる知人を持つ人間は、一つの都市圏に何千人といる。
その洪水の中に、決定的な通報が三度も混ざっていた。
恋人のエリザベス・クレプファーが、警察に電話をかけている。彼が夜中に出かけて日中に眠っていること、家の中から説明のつかない物が出てくること、公開された似顔絵に本人が似ていること。彼女は具体的に、松葉杖、石膏、外科用手袋、変わった刃物、女性の衣類の入った袋といった品物の存在を伝えていた。友人のアン・ルールも、彼の名前を捜査側に伝えている。同じ大学の知人からも通報が入っていた。
それでも捜査は動かなかった。理由は単純で、当時は情報を横断的に突き合わせる仕組みがなかったからだ。何万件もの通報が紙とカードで管理され、複数の州にまたがる事案は、州境で情報が途切れた。後にコンピュータで容疑者リストを絞り込む作業が行われ、彼の名前は最終的にごく少数の最有力候補の中に残る。だがその頃には、彼はもうワシントンにいなかった。
捜査本部にいたロバート・ケッペルは、この時期の悔しさを生涯手放さなかった人だ。彼は後に、犯罪情報を州をまたいで機械的に照合するシステムの構築に関わり、ワシントン州の重大犯罪追跡システムの設計に携わることになる。バンディ事件が残した最大の実務的遺産は、猟奇的なプロファイルの逸話ではなく、この地味なデータベースの話だと思う。
州境を越えた瞬間、事件は分断された
一九七四年八月、彼はユタ大学ロースクールへの入学許可を得て、ソルトレイクシティに移った。クレプファーはシアトルに残った。そしてユタとアイダホとコロラドで、同じことが繰り返される。
十月二日、ソルトレイクシティ郊外ホラデーで十六歳のナンシー・ウィルコックスが消えた。十月十八日、ミッドベールで十七歳のメリッサ・アン・スミスが、ピザ店を出た後に行方不明になる。彼女の父親はミッドベールの警察署長だった。遺体は九日後、山あいで見つかった。十月三十一日、リーハイで十七歳のローラ・アン・エイミーが、ハロウィーンのパーティを深夜に出た後に消えた。遺体は感謝祭の日に、十数キロ離れたアメリカンフォーク峡谷でハイカーによって見つかっている。エイミーについては、時間が飛ぶが二〇二六年になってDNA鑑定で犯人が確定した。半世紀以上かかっている。
十一月八日は、この事件全体の転換点になった日だ。
夕方、マレーのファッションプレイス・モールで、十八歳の電話交換手キャロル・ダロンチに男が近づいた。「マレー警察のローズランド巡査」と名乗り、あなたの車に誰かが侵入しようとした、被害届を出してほしい、と言った。制服は着ていない。彼女は不審に思ったが、この人は警官だと言っているのだから、と自分を納得させた。多くの人がそうするように。
車に乗ってしばらくして、道が警察署の方向ではないことに彼女は気づく。そこから先の数十秒が、彼女の人生と、事件の行方を変えた。彼女は抵抗し、手錠が片方の手首に二重にかかるという偶然もあって、走行中の車から転がり出た。通りかかった夫婦の車が彼女を拾った。彼女は生きて警察にたどり着いた最初の人になった。
そして同じ夜、二十数キロ北のバウンティフルで、十七歳のデブラ・ジーン・ケントが、高校の演劇公演の途中で家族を迎えに行くために外へ出たまま戻らなかった。学校の職員は、その夜、見知らぬ男が何人かに「駐車場の車を見てくれないか」と声をかけていたのを覚えていた。演劇教師も、公演の終わる前にその男を見ている。駐車場からは、ダロンチの手首から外された手錠に合う鍵が見つかった。
同じ夜に、同じ男が、失敗と成功を一つずつ重ねていた。
一九七五年に入ると、舞台はコロラドに移る。
一月十二日、スノーマス村のワイルドウッド・インで、二十三歳の看護師キャリン・アイリーン・キャンベルが、エレベーターから自分の部屋までの明るい廊下で消えた。一か月後、リゾートの外の未舗装路脇で遺体が見つかっている。三月十五日、ベイルのスキーインストラクター、二十六歳のジュリー・カニンガムが、夕食の約束に向かう途中で消えた。彼は後に、松葉杖をついてスキーブーツを運ぶのを手伝ってほしいと頼んだ、と語っている。四月六日、グランドジャンクションで二十四歳のデニース・オリバーソンが自転車で実家に向かう途中に消え、自転車とサンダルだけが高架下に残された。五月六日にはアイダホ州ポカテロで十二歳のリネット・カルバーが、六月二十八日にはユタ州プロボのブリガムヤング大学のキャンパスから十五歳のスーザン・カーティスが消えている。
ウィルコックス、ケント、カニンガム、オリバーソン、カルバー、カーティス。この六人の遺体は、いずれも発見されていない。彼は処刑直前の数日間、それぞれについて「だいたいこの辺りだ」という説明をしたが、結局どれ一つとして遺骨の回収には至らなかった。遺族にとって、事件はまだ終わっていないという意味で、これは非常に重い事実だ。
深夜のグレンジャーで止められた、助手席のない車
崩れ始めたのは、まったく別の理由からだった。
一九七五年八月十六日の未明、ソルトレイクシティ郊外グレンジャーで、ユタ州ハイウェイパトロールのボブ・ヘイワード巡査部長が、住宅街をゆっくり流している一台のフォルクスワーゲンに気づいた。時間が時間だ。声をかけようとしたら、その車は急に加速して逃げた。
止められた車の中は異様だった。助手席が外されていた。そして、スキーマスク、パンストで作った目出し帽、バール、手錠、ロープ、アイスピック、ゴミ袋といった物が積まれていた。この時点では、これらは「泥棒の道具」として処理された。彼は不法逃走で立件され、いったん釈放されている。
だが、ソルトレイク郡の刑事ジェリー・トンプソンが、この男の風貌と、去年十一月のダロンチ事件の犯人像を突き合わせた。さらに、シアトルから届いていたクレプファーの通報が、ここでようやく意味を持ち始める。彼のアパートを捜索すると、コロラドのスキーリゾート案内が出てきて、ワイルドウッド・インの欄にチェックが入っていた。バウンティフルの高校の演劇公演のパンフレットも出てきた。
トンプソンはシアトルへ飛び、クレプファーに直接会った。
彼女は、七年間の交際の中で見つけた説明のつかない物のことを、一つずつ話した。松葉杖。医療品店から失敬したという石膏。肉切り包丁。外科用手袋。木箱に入った刃物。女性の服の入った袋。そして、自分が髪を切ろうかと言うたびに彼がひどく取り乱したこと。当時の被害者の多くは、長い髪を真ん中で分けていた。刑事たちは、太平洋岸北西部で女性が消えた夜のどれにも、彼が彼女と一緒にいなかったことを確認した。サマミッシュ湖の日も含めて。
九月、彼はビートルを地元の少年に売り払っている。ユタ警察はすぐにその車を押収した。FBIの技術者が車内から採取した毛髪は、キャンベルの毛髪と一致し、スミスとダロンチの毛髪とも顕微鏡的に区別がつかなかった。FBIの鑑定官は、互いに面識のない三人の被害者の毛髪が同じ車から出てくることを、「とてつもない偶然」と表現した。
十月二日、面通しでダロンチは即座に彼を指した。「ローズランド巡査」だ、と。
弁護人を演じ始めた男と、図書室の窓
一九七六年二月、ダロンチ誘拐事件の裁判が始まった。報道が過熱していたため、弁護側の助言で陪審は使わず、判事による裁判になった。四日間の審理と週末の熟慮を経て、スチュワート・ハンソン・ジュニア判事は有罪を言い渡す。六月、彼はユタ州刑務所で一年から十五年の刑を受けた。
同年十月、彼は刑務所の中庭で、地図と航空便の時刻表と社会保障カードを詰めた「脱走キット」を持っているところを見つかり、独房で数週間を過ごしている。同じ頃、コロラド州がキャンベル殺害容疑で彼を起訴した。彼はいったん抵抗したが、結局は移送に応じ、一九七七年一月にアスペンへ移された。
そして彼はここで、自分の裁判の弁護人を自分で務めると宣言した。
これが認められると、彼には便宜が生じる。法律書を読む必要があるから図書室に入れる。弁護人という立場だから、法廷内では手錠も足枷もつけない。
一九七七年六月七日、彼はグレンウッドスプリングスのガーフィールド郡拘置所から、アスペンのピトキン郡裁判所へ予備審問のために連れて行かれた。休憩時間、彼は二階の法律図書室にいた。窓を開けて、七、八メートル下に飛び降りた。右足首をひねりながら着地し、上着を脱ぎ捨てて、街を抜けた。
アスペンは大騒ぎになった。学校が閉まり、店が売り上げをあきらめ、検問が敷かれた。彼はアスペン山に登り、山頂近くの狩猟小屋に押し入って食料と衣類とライフルを手に入れる。
だが、ここから先は間抜けと言っていい迷走だった。
二日間、山の中で道を見失い、クレステッドビュートへ抜ける道を何度も逃した。六月十日にはマルーン湖のキャンピングトレーラーに入って食料とスキーパーカーを取ったが、南へ逃げずに北のアスペン方向へ引き返している。六日目、ゴルフ場の脇で車を盗み、寒さと寝不足と捻挫の痛みで朦朧としながらアスペン市内へ戻ってきたところを、蛇行運転を不審に思った二人の警官に停められた。逃走はそこで終わった。
天井にあいた三十センチ四方の穴
拘置所に戻された彼の状況は、実のところ悪くなかった。
予審での判断は彼に有利に転び、重要な証拠のいくつかが排除されていた。ダロンチ事件の刑期も、残りは一年半程度と見積もられていた。周囲は「まともに戦えば勝てる可能性がある」と忠告した。彼はそれを聞かなかった。
彼は半年かけて準備をした。他の収監者から拘置所の図面と金鋸の刃を手に入れ、差し入れの現金を少しずつ貯めた。夜、他の者がシャワーを使っている音に紛れて、独房の天井の補強鉄筋のあいだに、およそ三十センチ四方の穴を開けた。そして体重を十六キロほど落として、その穴を通れる体にした。
天井裏から物音がするという情報は、複数回、職員に伝わっていた。誰も調べなかった。
十二月二十三日、裁判地の変更申立てが認められ、移送先がコロラドスプリングスに決まった。殺人被告に厳しい陪審が出やすい土地だ。それが決定打になったのだろう。
十二月三十日の夜、拘置所の職員の多くはクリスマス休暇で、軽微な受刑者は外出していた。彼は本と書類をベッドに積んで毛布をかけ、人が寝ているように見せかけ、天井裏に上がった。そして主任看守の居室の天井を突き破って降り、留守の部屋のクローゼットから服を選んで着替え、正面玄関から歩いて出て行った。
いなくなったことが分かったのは、翌三十一日の正午近くだ。十七時間以上の空白があった。
彼は盗んだ車で高速道路を東へ向かい、山中でその車が壊れると、通りかかった車に乗せてもらってベイルに入った。そこからバスでデンバーへ、翌朝の便でシカゴへ飛んだ。ミシガン州アナーバーへ列車で移動し、一月二日には地元の酒場にいた。数日後には車を盗んでアトランタへ南下し、バスに乗って、一九七八年一月八日、フロリダ州タラハシーに着いた。
「クリス・ヘイゲン」という名前の下宿人
彼はフロリダ州立大学のキャンパスのすぐそばの下宿に、クリス・ヘイゲンという偽名で部屋を借りた。
ここでの最初の数日、彼は本気で「まっとうに暮らそう」と考えていた形跡がある。指名手配されているとはいえ、ここまで来れば当面は捕まらない。建設現場の仕事に応募もした。だが身分証明書の提示を求められた時点で、その道は閉じた。
彼は万引きと窃盗で食いつなぎ始めた。スーパーで女性の財布からカードと現金を抜く。盗んだクレジットカードで飯を食う。逃走中の一週間ごとに、生活は荒れていった。
そして一九七八年一月十五日の未明、午前三時前後。彼はフロリダ州立大学のカイ・オメガ・ソロリティハウスに、施錠の壊れた裏口から入った。
十五分足らずのあいだに、四人の学生が襲われた。二十一歳のマーガレット・エリザベス・ボウマンと二十歳のリサ・ジャネット・レビーが亡くなり、二十一歳のキャシー・クライナーと二十一歳のカレン・チャンドラーが重傷を負って生き延びた。クライナーは顎を三か所砕かれ、舌をほとんど失いかけた。チャンドラーは脳震盪と顎の骨折、歯の脱落、指の粉砕という怪我を負った。
二人が助かったのは、外に車が停まってヘッドライトが部屋を照らしたからだと、クライナーは後に語っている。偶然の光が、二人の人生を分けた。
家の中には三十人以上の学生がいた。誰も何も聞かなかった。犯人はその後、八ブロック離れたアパートに侵入し、二十一歳の学生シェリル・トーマスを襲った。彼女は肩を脱臼し、頭蓋骨を五か所折り、左耳の聴力と平衡感覚を失った。ダンサーとしての将来はそこで終わった。この現場に残されていた微物が、後に重要な証拠になる。
二月八日、彼は盗んだ大学の車で百五十キロ以上東のジャクソンビルへ行き、駐車場で十四歳のレスリー・パーメンターに「消防局のリチャード・バートンだ」と名乗って近づいた。彼女の兄が来たので、彼は退散している。彼女の父親はジャクソンビル警察の刑事部長だった。
そして二月九日の朝、レイクシティのジュニアハイスクールで、十二歳のキンバリー・ダイアン・リーチが、教師に呼ばれて教室に忘れた鞄を取りに戻ったきり帰らなかった。七週間後、スワニー川州立公園に近い農場の小屋で、彼女は見つかった。
この事件が、多くの人にとって決定的だった。それまで「大学の女子学生を狙う」と語られてきた犯人像が、そんな枠組みなど最初から存在しなかったことを、残酷な形で示したからだ。
「撃ち殺してくれればよかったのに」
二月十二日、家賃も払えなくなり、包囲が近いと感じた彼は、車を盗んでタラハシーを西へ逃げた。
二月十五日の午前一時ごろ、アラバマ州境近くのペンサコーラで、市警のデビッド・リー巡査が一台のフォルクスワーゲンを停めた。照会をかけると盗難車だった。逮捕を告げた瞬間、彼はリーの足を払って逃げ出した。リーは警告射撃をして追いかけ、組み伏せ、拳銃をめぐって揉み合った末に確保した。
車の中からは、フロリダ州立大学の女子学生三人分の身分証明書、二十一枚の盗まれたクレジットカード、盗品のテレビが出てきた。度の入っていない黒縁の眼鏡と格子柄のズボンもあった。ジャクソンビルで「リチャード・バートン」が着ていた変装一式だ。
留置場へ向かう車の中で、自分がFBIの最重要指名手配十人の一人を捕まえたことをまだ知らなかったリーは、後部座席の男がこう言うのを聞いた。撃ち殺してくれればよかったのに、と。
この一言は、後年さまざまに解釈されている。本心だったのか、演出だったのか。彼は最後まで、自分の言葉が他人にどう響くかを計算し続けた人間だった。
二百五十人の記者が見ていた法廷
一九七八年五月、フロリダの大陪審は、カイ・オメガでの殺人と殺人未遂、住居侵入で彼を起訴した。裁判は報道の影響を避けるためマイアミのデイド郡に移され、一九七九年六月に始まった。エドワード・カワート判事の法廷には、五大陸から二百五十人の記者が詰めかけた。アメリカで初めて全国生中継された刑事裁判である。
ここで起きたことを、なるべく感情を排して書く。
彼は五人の公選弁護人をつけられていたが、実質的に自分で弁護を仕切った。証人尋問をし、異議を唱え、法律用語を操り、判事とやりとりをした。テレビにはその姿が映り続けた。若い頃の写真と、法廷でジャケットを着て理路整然と喋る男の姿は、多くの視聴者にとって「連続殺人犯」のイメージと一致しなかった。この不一致こそが、彼の神話を作った最大の要因だと思う。
だが法廷にいた人たちの評価は、テレビ視聴者とはまるで違った。後に彼の上訴を担当した弁護士ポリー・ネルソンは、彼が「悪意と不信と誇大な思い込みから、弁護方針そのものを台無しにした」と書いている。殺人罪で死刑を求刑されている状況で、彼にとって唯一意味があったのは、自分が主導権を握っていることだった、と。
裁判前には司法取引の話もあった。レビー、ボウマン、リーチの三件で有罪を認めれば、七十五年の刑で確定させるという内容だ。検察側もこれに乗り気だった。公判で負ける可能性を現実的に見積もっていたからだ。彼にとっても、時間が経てば証拠は劣化し証人は散る、という計算のうえで悪い取引ではなかった。
だが彼は土壇場でこれを蹴った。公選弁護人のマイク・ミネルバは後に、全世界の前に立って「私は有罪です」と言わなければならないという事実に彼が耐えられなかったのだ、と語っている。
公判では、ソロリティハウスの学生ニタ・ニアリーの証言が決定的な役割を果たした。彼女は事件の夜、家を出ていく男を見ていた。そして物証としては、法歯学者リチャード・スービロンとローウェル・レバインによる歯型鑑定が採用された。この裁判は、アメリカで歯型証拠が広く注目を集めた事例としても記憶されている。もっとも、歯型鑑定そのものの科学的信頼性は、二〇〇〇年代以降に厳しく再検証され、今では単独証拠としては相当に疑わしいとされている。この点は後で改めて触れる。
陪審は七時間足らずで評決に達した。一九七九年七月二十四日、ボウマンとレビーの殺人二件、クライナー、チャンドラー、トーマスへの殺人未遂三件、住居侵入二件で有罪。一週間後、死刑判決が下された。
判事は死刑を宣告し、そして「気をつけて」と言った
判決言い渡しの場面は、この事件で最も引用される数分間だろう。
カワート判事は死刑を宣告したあとで、被告に向かってこう言った。君は明るい若者だ、いい弁護士になれただろう、と。そして、自分を大切にしなさい、という意味の言葉を続けた。判事が判決の直後に被告に語りかけたこの数十秒は、当時から議論を呼んだし、今も呼び続けている。
擁護的に読めば、これは法廷を仕切る人間としての職業倫理の表れだ。相手が誰であれ、法の手続きの中では人として扱う。だが批判的に読めば、これは「魅力的な白人男性の若者」に対して、司法の側の人間ですら情を漏らしてしまった瞬間だ。
実際、被害者の家族の中には、この言葉に深く傷ついた人がいる。二人の若い女性が死に、三人が一生残る傷を負った裁判の締めくくりが、加害者への惜別の言葉だったのだから。この短い場面には、この事件がなぜ後世これほど歪んだ形で語られることになったのかの原因が、凝縮されている。
法廷で結婚を宣言した男
一九八〇年一月、キンバリー・リーチ殺害の裁判がオーランドで始まった。彼はまた自ら弁護に立った。
決め手になったのは、学校の敷地から少女を連れて行く男を見たという目撃証言と、繊維鑑定だった。彼が逮捕時に着ていたジャケットの繊維には、製造上の特徴的な欠陥があった。同じ特徴を持つ繊維が、盗まれたバンと被害者の衣類の双方から見つかった。陪審は八時間足らずで有罪と評決した。
そして量刑審理で、彼は前代未聞のことをやる。
当時のフロリダには、判事の面前で当事者双方が結婚を宣言すれば婚姻が成立するという、古い規定が残っていた。彼は情状証人として法廷に立っていたキャロル・ブーン――彼を信じ、彼のためにフロリダへ引っ越してきた女性だ――に対し、自分で尋問をしながら、その場で結婚を申し込んだ。彼女は承諾した。そして彼は法廷に向かって、我々は法的に結婚した、と宣言した。
一九八〇年二月十日、三度目の死刑判決が下された。宣告の瞬間、彼は立ち上がって、陪審は間違っていると告げろ、と叫んだと伝えられている。
この二つの場面――法廷での結婚宣言と、判決への絶叫――は、彼という人物を理解するうえで、どんな心理分析よりも雄弁だと思う。彼にとって法廷は、命がかかった場ではなく、自分が主役の舞台だった。
数字にしてはいけない人たちの話
この事件を語るとき、いちばん簡単に壊れてしまうのが、被害者の存在感だ。「三十六人」「二十人」「百人以上」と数字で語ると、話は一気に加害者の記録に変わってしまう。だから、少しだけ立ち止まりたい。
ジャニス・オットは、少年裁判所の保護観察ケースワーカーだった。仕事は、道を踏み外しかけた子どもたちの側に立つことだ。あの日、彼女は自転車で公園に来ていた。人助けをする側の人間だったから、助けを求められたら応じただろう、と当時の同僚が語っている。
リンダ・ヒーリーは、朝の早い仕事をしていた。ラジオでスキー場の天気予報を読んでいた。冬の朝、スキーに行こうとしている人たちが、彼女の声を聞いて出かけていた。彼女は障害のある子どもと関わる仕事を志望していた。
キャリン・キャンベルは看護師だった。婚約者とその子どもたちと一緒にコロラドへ来ていて、あの夜は雑誌を取りに部屋へ戻る途中だった。ほんの数十メートルの廊下だ。
キンバリー・リーチは十二歳で、その日の朝、学校で鞄を取りに戻っただけだった。彼女は前年に地元のフットボールチームの応援リーダーに選ばれていた。彼女の両親は、その後の人生の全部を、この一日に規定されて生きることになった。
こういう細部は、事件の解決には何の役にも立たない。捜査資料には載らない。でも、この記事のような読み物が最低限やるべきことがあるとすれば、それは「消えた人」を「消された誰かの娘であり同僚であり友人」に戻すことだと思う。
加害者の名前は誰でも言えるのに、被害者の名前は一人も出てこない。そういう記憶の仕方こそが、この手の事件が繰り返し消費される構造そのものだ。
キャシー・クライナーが四十年かけて取り戻したもの
生存者の証言の中で、いま最も広く読まれているのは、カイ・オメガの部屋で生き延びたキャシー・クライナー・ルービンのものだろう。
彼女は一九七八年の襲撃で顎を三か所砕かれ、九週間、顎をワイヤーで固定されて過ごした。舌は切れかけていた。事件当時、彼女は狼瘡の治療も受けていて、体はもともと弱っていた。
彼女が語る話の中で、何度読んでも刺さるのは、退院後に材木置き場で働いた、というくだりだ。
自分を襲ったのが樫の木の棒だったから、木材が怖くなった。だからわざと、木材に囲まれる仕事に就いた。恐怖を避けずに、恐怖のど真ん中に立って、それを日常の質感に変えてしまう。この方法が万人向けだとは思わないが、彼女は実際にそれで恐怖を無力化した。
彼女は一九七九年の裁判で証言台に立った。そして四十年以上たった二〇二三年、共著者と組んで自分の本を出した。タイトルには「テッド・バンディよりも多くのものを生き延びた」という意味の言葉が入っている。彼女はその後、乳がんも経験している。人生には、あの夜以外にも山ほど戦いがあった、というのが彼女の主張だ。
そして彼女は、あの男を魅力的に描く作品群に対して、一貫して厳しい。彼女はある取材で、彼のことを「哀れな小男」という趣旨の言葉で切り捨てている。カリスマでも天才でもない。ただ、寝ている人を襲って逃げた男だ、と。襲われた本人がこう言っているという事実は、あらゆる評論家の言葉より重い。
キャロル・ダロンチが背負い続けた四十年
一九七四年十一月のあの夕方、走行中の車から転がり出た十八歳の彼女は、事件の最重要証人になった。そして、そこから彼女の人生は別の意味で難しくなる。
彼女はまず、ユタでの誘拐事件の裁判で証言した。弁護側は執拗に彼女の記憶を突いた。車種は何だったか、バッジをちゃんと見たか、色は、形は。彼女は動じなかった。
次にコロラドのキャンベル事件の予備手続きで証言し、そのときは被告本人から反対尋問を受けた。自分を車に押し込もうとした男が、法律家の顔をして、目の前で自分の記憶の信頼性を攻撃してくる。これがどういう体験なのかを想像するのは難しい。さらに一九七九年、マイアミの量刑審理でも彼女は証言している。
裁判が終わったあと、彼女はほぼ完全に沈黙した。通信会社で働き、結婚し、子どもを育てた。取材はすべて断った。彼女が長い沈黙を破ったのは、成人した息子に「話したほうがいい」と促されてからだ。二〇一九年の配信ドキュメンタリーで、彼女はようやくカメラの前に座った。
彼女の証言のいちばん恐ろしい部分は、暴力の描写ではない。「警察だと名乗られたから、信じた」という一点だ。
私たちは制服や肩書きに従うように訓練されている。それは社会が回るために必要な訓練でもある。彼女は何一つ間違ったことをしていない。彼女が生き延びたのは判断が優れていたからではなく、手錠のかけ方が偶然まずかったからだ。この「落ち度がなくても被害に遭う」という当たり前の事実が、被害者への視線をどれだけ楽にするか、もっと共有されていいと思う。
隣に座っていた男について書かねばならなかった作家
アン・ルールの立場は、この事件の中でもかなり特異だ。
彼女は元警官で、犯罪実話を書くライターだった。そして、自殺防止ホットラインで彼と隣り合わせのシフトに入っていた友人だった。深夜、二人きりのオフィスで、電話の合間に世間話をする関係だ。彼女は彼を、優しくて気の利く青年だと思っていた。
そこへ、太平洋岸北西部の連続失踪事件の本を書かないかという依頼が来る。彼女は引き受けた。犯人が誰かは、当然まだ分からない。書き進めるうちに、容疑者の名前として自分の友人の名前が浮かび上がってくる。
彼女は捜査側にその名前を伝え、同時に、彼と手紙のやりとりを続けた。逮捕後も、収監中も。彼女の本は、この地獄のような二重性の記録として書かれた。友人として彼を知っている自分と、犯人として彼を記述しなければならない自分。
その本は結果的に、犯罪実話というジャンルの形を決定づけた一冊になった。同時に、彼女自身がジャンルの暴走を憂う側に回っていく。処刑直前の宗教番組向けインタビューが有料ビデオとして売られたとき、彼女はそれを「詐欺師の最後の詐欺」だと断じた。あの映像を見て涙を流す人たちは、実在しなかった影のような男のために泣いている、という趣旨のことを彼女は言っている。友人だった人間だけが言える、身も蓋もない診断だ。
彼女はまた、彼が持っていた「無害さの演出」を、誰よりも近くで浴びた人でもある。だからこそ、彼女の警告には説得力がある。危険な人間は、危険そうな顔をしていない。むしろ、いちばん危険な人間は、あなたが安心する顔をしている。
三十年、その名前を追いかけた刑事
ワシントン州キング郡の捜査官ロバート・ケッペルは、一九七四年の失踪事件群に若手として投入され、そこから生涯この事件と付き合うことになった。
彼が背負ったのは、名前が手元にありながら間に合わなかったという事実だ。通報も、車種も、「テッド」という名前もあった。それらを結び付ける仕組みが、当時はなかった。
彼はその悔いを、システムに変えた。犯罪の手口や被害者像を機械的に照合して、離れた管轄で起きた事件同士を結ぶ仕組みづくりに関わった。ワシントン州の重大犯罪追跡システムは、その系譜にある。地味な仕事だ。映画にはならない。でも、これが実際に人の命を救う類の仕事だ。
そして一九八〇年代、彼はもう一つの重い経験をする。
当時、シアトル周辺ではグリーンリバー連続殺人が続いていた。獄中の死刑囚から、その捜査に助言したいという申し出が来た。ケッペルは会いに行った。彼は「捜査上の助言」という名目で語りながら、実際には自分自身のことを喋っていた。遺体に戻る犯人の心理、現場を選ぶ理由、警察が何を見落とすか。ケッペルは、その言葉を使えるところだけ使い、あとは切り捨てた。この一連のやりとりは後に本になった。
処刑直前の告白についても、ケッペルの評価はきわめて冷たい。全体がよく演出されていた、彼は喋りたいことしか喋らなかった、というのが彼の総括だ。新聞や本を熱心に読んでいた人なら知り得る範囲の話しか出てこなかった、とも言っている。三十年追いかけた当人が、最後の告白を「情報としてはほぼ価値がない」と切って捨てている。この点は、後の議論を考えるうえで押さえておきたい。
処刑前の五日間、彼は何を売ろうとしていたのか
一九八九年一月十七日、フロリダ州知事がリーチ事件での死刑執行令状に署名した。執行は一月二十四日と決まった。彼はそれまでに、一九八六年に二度、執行の直前で停止を勝ち取っている。一度目は執行のわずか十五分前だった。だが今回は、法的な手段がほぼ尽きていた。
そこで彼が始めたのが、いわゆる「骨と時間の取引」だ。
遺体が見つかっていない被害者について、場所を教える。その代わりに執行を延ばしてほしい。彼は自分の弁護士を通じて、これには二年から三年が必要だ、と伝えている。
一月二十一日から、ワシントン、ユタ、コロラド、アイダホの捜査官が次々に彼の房を訪れ、録音を回した。彼は約三十件の殺人について話した。ワシントンの分についてはケッペルが、ユタの分についてはデニス・カウチ刑事が対応した。
だが捜査側の評価は、そろって冷ややかだった。カウチは、八件を認めたが具体的な情報が出たのは二件だけだった、という趣旨の説明をしている。コロラドの警察幹部は、時間稼ぎのために餌をぶら下げていたのだと述べた。彼自身の弁護士すら、これは哀れな小細工だと言った。
そして結局、遺体は一体も見つからなかった。
ウィルコックスもケントもカニンガムもオリバーソンもカルバーもカーティスも、家族のもとへ帰らなかった。彼が最後まで手放さなかったのは、「知っている」という状態そのものだったのだと思う。情報を渡してしまえば、彼は取引材料を失う。彼にとって被害者の遺骨は、最後まで通貨だった。
ポルノが自分をこうしたという主張は、どこまで信じられるか
処刑の前日、彼はキリスト教系のラジオ番組を主宰する心理学者ジェームズ・ドブソンのインタビューを受けた。そこで彼は、暴力的なポルノグラフィが自分を作った、という趣旨のことを長々と語った。この映像は後に有料ビデオとして流通し、反ポルノ運動の資料として大量に引用された。
この主張については、当時から今日まで、はっきりと二つの立場がある。一つは、加害者本人の告白として重く受け止める立場。もう一つは、これは責任転嫁の最終形だという立場だ。
後者の根拠は複数ある。
まず、彼は生涯を通じて、相手に応じて自分の物語を作り変え続けてきた。宗教番組のインタビューで宗教的な救済の枠組みに乗った言葉を選ぶのは、彼にとってごく自然な戦術だ。次に、インタビューの相手が反ポルノの立場を明確に持つ人物であり、質問がその方向に誘導的だったという指摘がある。さらに、この映像は商品として販売され、収益が生じた。アン・ルールが「詐欺」と呼んだのはこの構造だ。
そして何より効くのが、ポルノの消費量と暴力犯罪の関係についての実証研究が、彼の主張を支持する形にはなっていないことだ。膨大な人がポルノを見て、その圧倒的多数は誰も襲わない。
とはいえ、この主張を百パーセント無意味と切り捨てるのも乱暴だと思う。ある種の空想への反復的な没入が暴力の予行演習になりうる、という指摘自体は、彼以外の事例でも語られてきた。問題は、彼がそれを「原因」として提示し、自分を被害者の位置に置いたことだ。原因は外にあった、自分は巻き込まれた、という構図。彼が生涯やり続けたのは結局これだった。
二十人か、三十六人か、百人超か
被害者数の議論は、いまだに決着していない。
物証や自白の裏付けで確実とされる線は二十人前後。彼自身が最後の数日で語った数は三十六前後。そして、捜査関係者や研究者の一部は、もっとずっと多いと考えている。
アイオワ州立大学の犯罪学者マット・デリシは、実際には百人を超える可能性があると主張している。根拠は、一九七四年の時点での犯行がすでに「慣れている」ように見えること、当時の高速道路網が移動を容易にしていたこと、州をまたぐ情報共有が機能していなかったこと、DNA鑑定が普及するより前の時代だったことなどだ。
一方で、数字を膨らませることへの警戒も強い。彼は数字を語るときですら、相手を試すような態度を取り続けた。「もっとある」と匂わせること自体が、彼にとって権力の源泉だった。だから、彼の示唆をそのまま積み上げると、彼の演出に加担することになる。
この議論に新しい材料が入ってきたのが、近年の法科学の進歩だ。二〇二六年四月、ユタ州の当局は、一九七四年に殺害されたローラ・アン・エイミーについて、DNA鑑定によって犯人が彼であると確定したと発表した。五十年以上前の証拠から結論が出た。同じ手法で他の未解決事案が結び付く可能性は残っている。逆に言えば、彼が「自分がやった」と匂わせていた事件の中に、まったく別の犯人がいる可能性も同じだけ残っている。
掲示板とSNSの中で、この事件はどう歪んだか
インターネット以降、この事件の語られ方は明確に二層化した。
一つは、事実関係を丁寧に詰めていく層だ。英語圏には、公文書や当時の新聞、捜査記録の開示分を突き合わせて、日付や証言の食い違いを一つずつ検証しているブログや掲示板がある。たとえばサマミッシュ湖の一件では、目撃証言の数、証言者の記憶の変遷、当日の天候や人出、車の色に関する記述の揺れなどが、細かく比較されている。こういう作業は地味だが、この事件のように「本人の語り」が資料として汚染されている案件では、本当に価値がある。
もう一つの層が、厄介なほうだ。
SNSには、彼を含む有名な連続殺人犯を「推す」コミュニティが存在する。研究者はこれを、単なる悪趣味の集まりとして片づけていない。動機は一様ではないからだ。犯罪心理への純粋な関心から入る人、司法の不備を疑う社会正義の関心から入る人、そして、収監された暴力的な男性に性的な魅力を感じるという、いわゆるヒュブリストフィリアと呼ばれる傾向を自認する人もいる。あるフィールドワークの記録には、犯行現場を訪れて「精神的なつながり」を感じたと語る人物が登場する。
面白いのは、こうしたコミュニティの内部にも、はっきりした線引きの争いがあることだ。
ある研究は、掲示板型のサービスにおける犯罪実話コミュニティを分析して、「連続殺人犯のファンになるのは駄目だ」という規範がコミュニティ内で繰り返し表明され、逸脱者が叩かれる構造を報告している。つまり、外から見れば一枚岩の「悪趣味な人たち」の中で、当事者たちは必死に自分たちの正当性の線を引き直している。この線引きの神経質さ自体が、犯罪実話というジャンルが抱える後ろめたさの表れだと思う。
考察界隈でよく回っている仮説にも触れておく。
一つ目は「彼は一九七四年よりずっと前から殺していた」説。これは前述のデリシの主張と重なるが、反証としては、初期の犯行が本当に洗練されていたのかという疑問がある。彼は現場に毛髪を大量に残し、被害者と同じ車に何度も乗り、目撃されまくっていた。慣れていたというより、単に運と時代に助けられていたと見るほうが自然だ、という反論は根強い。
二つ目は「歯型鑑定は誤りだったのではないか」説。これは陰謀論ではなく、むしろ科学の側から出てきた批判だ。歯型による個人識別は、二〇〇〇年代以降に多数の誤判例が明るみに出て、信頼性が大きく揺らいだ。ただ、この事件の場合、有罪の根拠は歯型だけではない。目撃証言、逃走経路、盗難車、所持品、そして繊維鑑定がある。だから「歯型は今なら通らない」ことと「彼は無実だった」ことは、まったく別の話だ。この二つを混ぜて語る投稿が定期的に流れてくるので、そこは分けておきたい。
三つ目は「彼は本当は自分がやったことを覚えていなかった」説。彼は生涯、犯行を三人称で語りたがった。「そういうことをする人間は」という言い方だ。これを解離の症状と読む人がいる。一方で、処刑前夜に会った精神科医のドロシー・ルイスに対して、彼はそれまでの供述の一部を否定している。証言を状況に合わせて変える能力が最後まで残っていたと考えれば、記憶の欠落説はかなり分が悪い。
FBIは彼から何を学び、何を学び損ねたか
一九七〇年代のアメリカで、複数の州にまたがる連続殺人にどう対処するかという問題は、ほぼ手つかずだった。FBIの行動科学部門が発足したのは一九七二年で、当初は捜査官向けの研修から始まった小さな試みだ。犯行現場の状況から犯人の属性を推定するという発想が実務に組み込まれていくのは、この事件と同時代の話になる。
彼が捜査手法の発展に与えた影響は、二方向ある。
一つは、逃走中の彼を追うためにFBIが作った人物像分析だ。もう一つ、より根深いのは、収監後の彼が「情報源」として扱われたことだ。FBIの分析官ビル・ハグマイヤーは、死刑囚だった彼と長期にわたって面会を重ねた。彼は自分の内面を語る言葉を持っていて、しかもそれを他人に理解できる形に整える能力があった。研究者にとって、これは希少な素材だった。
だが、ここに罠がある。
彼は「良い被験者」を演じることに強い動機を持っていた。研究者に必要とされる限り、彼は独房の外と関わり続けられる。だから彼の語る内面は、常に相手の期待を織り込んだ加工品だった疑いがある。ケッペルが最後の告白を切って捨てたのも、この構造を熟知していたからだ。犯人本人の自己申告に依拠して犯人像の理論を組み立てる、という手法の危うさは、後年のプロファイリング批判の中心論点になった。
実務面での本当の遺産は、もっと事務的なところにある。事件をまたいで手口と被害者像を照合するデータベース。管轄をまたいだ情報共有。行方不明者届と身元不明遺体の突き合わせ。
一九七〇年代のアメリカでは、隣の州で似た事件が起きていても、担当者同士が電話をかけなければ何も起きなかった。この事件がなくても、いずれ整備されたかもしれない。だが、彼が州境を三度も四度も越えて捜査を無効化してみせたことは、制度を変える圧力として確実に働いた。
一九八九年一月二十四日、午前七時十六分
執行の朝、彼は特別な食事を辞退した。規定どおりのステーキと卵とトーストとハッシュブラウンが午前五時前に出されたが、彼は手をつけなかった。前夜は泣き、祈り、母親に二度電話をかけた。
午前七時、彼は執行室に入った。四十二人の立会人がプレキシガラスの向こうに座っていた。最後の言葉は、立ち会っていた弁護士と牧師に向けたものだった。家族と友人に愛を伝えてほしい、という短い一言だ。二千ボルトが流され、七時十六分に死亡が確認された。
刑務所の外は、祭りだった。
数百人が集まり、花火が上がり、コーヒーとドーナツが配られ、彼の死をもじったTシャツが売られていた。ラジオ局が実況をし、大学の寮では祝賀のパーティが開かれ、揶揄した名前をつけたハンバーガーが焼かれた。国じゅうがこの朝を待っていた、というのは誇張ではなかった。
この光景をどう受け止めるかは、人によってまるで違う。当時この現場を取材した記者たちの中には、後年になって、あの騒ぎ方は間違っていた、と振り返る人がいる。彼らが問題にしているのは死刑の是非ではなく、その形式だ。二人の女性を殺した男の死を、集団で歓声を上げて迎えるという行為の中には、彼が持っていたものと似た成分――他人の死を娯楽として消費する感覚――が混ざっていなかったか、という問いだ。
死刑論議の中で、彼はいちばん厄介な例になった
死刑存廃の議論において、彼は両方の陣営にとって扱いにくい存在であり続けている。
存置側にとっては、これ以上ないほど分かりやすい事例だ。二度逃げ、逃げた先で人を殺した。収容の失敗が直接、死者を生んだ。仮釈放のない終身刑があれば十分だという主張に対して、彼のケースは常に「では脱走したら」という反論の材料になる。
一方、廃止側は別の角度から彼を引く。彼が最後の数日間、遺体の場所を取引材料にしようとしたことだ。
もし死刑がなければ、彼が情報を出す動機は違っていたかもしれない。少なくとも、時間を売り買いする交渉の構図は生まれなかった。実際、遺体が見つかっていない六人の家族は、彼の処刑によって最後の手がかりを永久に失った。死刑は、被害者遺族のためのものだと語られることが多い。だがこの事件では、少なくとも一部の遺族にとって、それは逆に働いた可能性がある。
さらに、彼が死刑執行の直前に大量のメディア露出を得たという事実も見逃せない。処刑日が決まったことで、彼は全国放送のインタビューを受け、それが商品として流通した。処刑は彼を沈黙させたが、同時に彼を最大限に演出した。
映画とドラマが売ってきたもの
この事件が繰り返し映像化されてきた理由は、はっきりしている。裁判が生中継されたおかげで、大量の映像素材が残っているからだ。若く、身なりのいい男が、法廷でカメラに向かって喋る映像が、何十時間もある。
二〇一九年、有名な俳優が彼を演じる劇映画と、当時の音声を軸にした配信ドキュメンタリーが、ほぼ同時に公開された。このとき、大きな批判が起きた。批判の中心は、作品が加害者を「魅力的」に描くことで、実在した被害者と生存者を背景に押しやっているという点だ。配信サービス自身が、視聴者に向けて「もっと他にも見るものはある」という趣旨の呼びかけをする事態にもなった。
もっとも、この論争には一段深いところがある。
彼が「魅力的だった」というのは、後世の脚色ではなく、当時の記録にそう書かれているという点だ。傍聴席には彼を見に来る女性たちがいた。判事すら判決後に彼を褒めた。つまり、この神話を作ったのは映画ではなく、一九七九年の法廷とテレビ中継そのものだ。映画はそれを再生産しているにすぎない。
だからこの問題は、「美化するな」という単純な要求では解けない。彼の魅力の演出がどう機能したかを描かないと、なぜ誰も彼を疑わなかったのかが説明できない。かといって、そのまま描けば魅力そのものが商品になる。この矛盾に、どの作品も完全には勝てていない。
生存者たちの立場は、この点で一貫している。キャシー・クライナー・ルービンは、あの男を「カリスマ」として描くこと自体が事実に反する、と繰り返し言っている。実際に襲われた人間から見れば、彼は寝ている人を狙って殴り、明かりが差した瞬間に逃げ出した男でしかない。天才的でも、超人的でもない。彼が長く捕まらなかったのは、頭が良かったからではなく、時代の情報インフラが穴だらけだったからだ。この身も蓋もない見方のほうが、はるかに事実に近い。
なぜ、この事件だけが語り継がれるのか
アメリカには、同時代により多くの人を殺した犯罪者がいる。それでも、この名前だけが半世紀後の日本のインターネットにまで届いている。理由はいくつか重なっている。
第一に、外見と行為の落差がある。人は「予想と違うもの」を記憶する。凶悪犯は凶悪そうな顔をしているはずだ、という素朴な期待が裏切られたとき、その事例は例外として強烈に記録される。
第二に、映像がある。裁判が全国中継されたことで、彼は動いて喋る記録として保存された。同時代の他の事件の犯人は、静止画と文章の中にしかいない。
第三に、脱走という物語構造がある。捕まえて、逃げられて、また捕まえる。しかも二度目の逃走の先で最悪の事態が起きた。これは物語として、あまりにも「よくできて」しまっている。
第四に、彼自身が語り続けたことがある。彼は自分について喋る資料を、大量に残した。研究者に、捜査官に、記者に、宗教番組に。その言葉の一つ一つが矛盾していることすら、解釈の余地を生んで、議論を延命させている。
そして第五に、これがいちばん大きいと思うのだが、彼が突いたのが「他人を信じる」という社会の基礎だったからだ。
腕を吊った人に手を貸す。警察を名乗る人の指示に従う。この二つを疑えと言われたら、社会は成立しなくなる。彼の事件が気持ち悪いのは、防ぎ方が存在しないところだ。「夜道を一人で歩くな」式の教訓は、彼の事件にはほとんど当てはまらない。真昼の公園で、四万人の目の前で、二人が消えたのだから。
だからこの事件から引き出せる教訓は、個人の警戒心の話ではない。情報を突き合わせる仕組みの話であり、通報を握り潰さない体制の話であり、被害者の名前を先に覚える文化の話だ。腕を吊った男の恐ろしさを語り継ぐことに、もう新しい価値はない。語り継ぐべきなのは、三度の通報が届いていたのに動けなかった一九七四年のシアトルのほうだと思う。
彼は本当に賢かったのか
ここまで書いてきて、あらためて引っかかっているのが、この問いだ。
この事件の語られ方は、長いこと「天才的な知能犯」という前提の上に成り立ってきた。ロースクールに通っていた、自分で弁護をした、二度脱獄した。並べれば確かに知的に見える。
だが個別に検証すると、その像はかなり崩れる。
ロースクールの成績は振るわず、彼は途中で通わなくなっている。自分で弁護をした結果は、三度の死刑判決だ。しかも彼は、有利に進んでいたコロラドの裁判を自分から放り出して脱走している。一度目の脱走では山中で道を失って六日で捕まり、二度目の脱走後は数週間で最悪の暴走を起こして、ただの盗難車運転で職務質問に引っかかった。犯行現場には毛髪を残し、同じ車を使い回し、目撃者を量産していた。これのどこが天才なのか、という問いには、まともに答えられない。
彼が長く捕まらなかった本当の理由は、能力ではなく環境だ。
一九七〇年代のアメリカには、州をまたぐ事件情報の統合的な照合手段がなかった。通報は紙で管理され、一日に数百件届く情報を人力で優先順位づけしていた。DNA鑑定はまだ実用化されていない。監視カメラも、携帯電話の位置情報も、クレジットカードの決済記録の即時照会もない。彼は、この空白に落ちていただけだ。逆に言えば、同じ人物が二〇二〇年代に同じことをやれば、おそらく数週間で捕まる。
この見方は、彼を矮小化するための悪口ではなく、事件から実務的な教訓を取り出すために必要な整理だと思う。「怪物だから防げなかった」ではなく「仕組みがなかったから防げなかった」と言い直したとき、初めて再発防止の議論が始まる。
彼が残したのは、告白の形をした未完成の原稿だった
もう一つ、書きながらずっと気になっていたのが、この事件における「語りの所有権」の問題だ。
彼は生涯を通じて、自分の物語の編集権を手放さなかった。捜査官には捜査官が聞きたい話をし、研究者には研究者が求める内面を語り、宗教番組では宗教的な悔悛の言葉を選び、恋人には別の顔を見せた。三人称で犯行を語るという癖も、責任の所在をぼかす編集技術だ。そして処刑の直前、彼は遺体の場所という最後のコンテンツを、時間と交換しようとした。
結果として、彼の言葉は膨大に残ったのに、そのほとんどが検証不能な素材になっている。彼が残したのは告白ではなく、告白の形をした未完成の原稿だった。
だから、この事件を扱う側の作法として、二つのことを意識したい。
一つは、彼の自己申告を根拠として使わないこと。被害者数についても、動機についても、彼の言葉は一次資料ではなく、彼の作品として扱うべきだ。物証と、独立した目撃と、記録に残った事実だけを土台にすると、この事件の輪郭はかなりすっきりする。
もう一つは、記述の重心を生存者と遺族の側に置くことだ。キャシー・クライナー・ルービンが材木置き場で働いた話や、キャロル・ダロンチが四十年黙り続けたあとに息子に促されて口を開いた話は、加害者のどんな内面分析よりも、この事件について多くを教えてくれる。前者は恐怖を日常に変える方法の話であり、後者は「証言した後の人生」という、報道がほとんど扱わない長い時間の話だ。
最後に、被害者数の議論について、いまの時点での正直な立ち位置を書いておく。
確実に立証されている線と、彼が示唆した数と、研究者が推測する上限とのあいだには、大きな開きがある。この開きを、無理に埋めないほうがいいと思っている。数字を大きく見積もることは、彼の「まだ隠している」という最後の演出に、後世が付き合ってあげることになりかねない。かといって、確定分だけを数えれば、遺体が見つからないまま消えた六人が、記録の上でも軽くなってしまう。だから、数えられないという状態そのものを、事実として抱えておくのが誠実な態度だろうと思う。
半世紀たった二〇二六年になって、ユタの事案が新しい鑑定技術で確定した。まだ動いている。だとすれば、この事件について今できる最良のことは、結論を急ぐことではなく、名前を忘れないでおくことだ。
ジャニス・オット、デニース・ナスランド、リンダ・ヒーリー、ドナ・マンソン、スーザン・ランコート、ロバータ・パークス、ブレンダ・ボール、ジョージアン・ホーキンス、ナンシー・ウィルコックス、メリッサ・スミス、ローラ・エイミー、デブラ・ケント、キャリン・キャンベル、ジュリー・カニンガム、デニース・オリバーソン、リネット・カルバー、スーザン・カーティス、マーガレット・ボウマン、リサ・レビー、キンバリー・リーチ。そして、生き延びて名前を持ち続けた人たち。
腕を吊った男の名前より先に出てくるべきなのは、こちらのほうだ。
