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日が沈むと町から人が消えた――1946年テキサーカナ『月光殺人鬼』、十週間で八人を襲い闇に溶けた顔なき男の全記録

一九四六年二月二十二日、金曜の夜十一時四十五分

その夜、テキサーカナは冷えていた。二月の南部の夜というのは中途半端に寒い。コートを着るほどでもないが、車の窓を開けっぱなしにするには気が引ける。そんな温度だ。

ジミー・ホリス、二十五歳。保険の外交員。となりにいたのはメアリー・ジーン・レアリー、十九歳。二人は映画を見て、飯を食って、それから町の東のリッチモンド・ロードを外れた小道に車を停めた。いわゆるラバーズ・レーン、恋人たちの小道というやつだ。舗装のない砂利道で、両側は雑木林。すぐ近くにはビバリー地区の新しい住宅が建ち並んでいて、直線距離にすれば人家まで百メートルもない。つまり、そこは「人里離れた場所」ではまったくなかった。悲鳴を上げれば誰かに届く。実際、そういう場所だからこそ若い連中は安心してそこに車を停めていた。

十一時四十五分ごろ、運転席側の窓の外で光が爆発した。

懐中電灯だ。それも家庭用の弱いやつじゃない。強力なビームが真正面から二人の目を灼いた。何も見えない。光の向こうから男の声がした。「その車から降りろ。おまえら殺す気はない」。

ホリスは降りた。そこで初めて相手の輪郭が見えた。頭からすっぽり白い布をかぶっている。枕カバーのような、袋のような白い布。目の位置と口の位置に穴が開けてあった。手には拳銃。身長はおよそ百八十センチ強。

男はホリスにズボンを脱げと言った。ホリスは従った。従わない理由がなかった。相手は銃を持っていて、こっちは丸腰の若い男二人だ。ズボンが足首まで落ちた瞬間、男は銃を振り上げてホリスの頭を殴った。二度。

車の中にいたレアリーはその音を聞いている。彼女は後にこう証言した。ジミーがズボンを脱いだあと、あの男はジミーの頭を二度殴った。音があまりに大きかったので、私はジミーが撃たれたのだと思った、と。金属が頭蓋骨を割る音というのは、そういう音がするのだ。ホリスの頭蓋骨は三か所折れていた。彼はその場で意識を失って倒れた。

つぎに男はレアリーを車から引きずり出した。彼女は必死に交渉しようとした。お金なら財布を見て、ジミーのポケットに入ってる、と言った。男は「嘘をつくな」と怒鳴った。財布を探すそぶりも見せない。金じゃないのだ、と彼女はそこで悟ったはずだ。

男は彼女を殴り、それから「走れ」と命じた。道路のほうへ走れ、と。彼女は走った。裸足に近い状態で砂利の上を走った。だが男は追いついた。追いついて、押し倒して、銃身を使って彼女を性的に暴行した。これは記録に残っている事実だ。ここでは手口を細かく書かない。書く必要がないし、書くべきでもない。ただ、この男が最初から「殺すこと」よりも「支配して壊すこと」に興味を持っていたという一点だけは、押さえておく必要がある。

助かったのは偶然だった。遠くの道路にヘッドライトが見えたのだ。車が一台、こちらに向かってきていた。男はぱっと立ち上がって、そのまま闇に消えた。それきりだった。

レアリーは立ち上がって、走って、走って、八百メートルほど離れたブラントン通り八〇五番地の家の玄関を叩いた。家の主が警察に電話した。ジミー・ホリスは半ば裸のまま道端に転がっていたところを別の通行人に助けられている。彼は病院に二週間近く入院した。三月九日に退院したが、頭の後遺症で半年間まともに仕事に戻れなかった。

そして彼は、まだ痛む頭を抱えたまま、捜査員にこう言い残している。

「あいつを見つけなかったら、あいつはつぎに誰かを殺す」

十週間後、この予言は五人分の死体になって町に返ってきた。

そもそもテキサーカナという町が、けっこう変だった

事件そのものに入る前に、この町の話を少しだけしておきたい。ここを飛ばすと、あとで出てくる「町がおかしくなる」くだりのスピード感がわからなくなる。

テキサーカナというのは、テキサス州とアーカンソー州の州境の上に、またがるように建っている町だ。名前からしてテキサス(Texas)とアーカンソー(Arkansas)とルイジアナ(Louisiana)をくっつけた合成語で、要するに「州境の町」であること以外にアイデンティティがない。町の真ん中を州境が走っている。連邦裁判所の建物は州境線をまたいで建っていて、正面玄関の前で立ち位置を三十センチずらすと所属する州が変わる。

これは治安の話としては最悪の構造だ。犯罪者が通りを一本渡れば管轄が変わる。テキサス側で悪さをしてアーカンソー側に逃げれば、追う側は別の州の警察に頭を下げなければならない。禁酒法時代からこの町は「逃げ込む町」として一定の評価を得ていた。当時の記録を掘った書き手たちは、一九四〇年代のテキサーカナを「両方の州から見捨てられた継子」と表現している。人口はおよそ四万人。決して小さくはないが、大都市でもない。

そこへ戦争が終わった。一九四五年の夏に日本が降伏して、翌年の春には復員兵が町にあふれていた。近郊のレッド・リバー兵器廠は戦時中フル稼働していて、そこで働いていた若い男女がまだ大勢残っていた。金があって、暇があって、車があって、行き場のない若者が大量にいる町。それが一九四六年春のテキサーカナだ。

だからラバーズ・レーンが繁盛していた。ドライブインシアターがあり、ダンスホールがあり、深夜まで開いている店があり、そして町のすぐ外側には人目のない砂利道がいくらでもあった。犯人はその生態系を完璧に理解していた。

三月二十四日の朝、リッチ・ロードに停まっていた車

第二の襲撃は、生存者がいない。だから再現できるのは死体と車内の状態だけだ。それが逆に怖い。

一九四六年三月二十三日の土曜の夜、リチャード・レニア・グリフィン、二十九歳。海軍の設営部隊シービーズ出身で、前年十二月に除隊したばかりの復員兵だった。仕事は大工と塗装。母親の住む住宅に身を寄せていた。恋人はポリー・アン・ムーア、十七歳。一九二八年十一月十日生まれ。レッド・リバー兵器廠で検品係として働き、いとこと下宿住まいをしていた。二人が付き合いはじめて六週間ほどだった。

その夜、二人はクラブ・ダラスというレストランで食事をしている。同席していたのはグリフィンの妹とその恋人だった。四人で飯を食って、深夜、二人は妹たちと別れた。それが生きている二人を見た最後になる。

翌二十四日日曜の朝、八時半から九時のあいだ。ハイウェイ六七号線西の南、百メートルほど入ったリッチ・ロード(のちにサウス・ロビソン・ロードと改名された)に、グリフィンの車が停まっているのを通行人が見つけた。中をのぞいて、そのまま走って通報した。

車内はこうなっていた。グリフィンは前部座席のあいだにひざまずくような姿勢で、頭を組んだ手の上に伏せていた。ポケットは裏返されていた。ムーアは後部座席にうつ伏せに倒れていた。彼女のポケットも裏返されていた。二人とも後頭部を一発ずつ撃たれている。処刑のような撃ち方だった。

外に出ると、車から六メートルほど離れた地面に血の染み込んだ一角があった。そこの血液型はムーアのものと一致した。つまり彼女は車の外で撃たれ、車内に運び込まれている。ステップボードには固まった血がこびりついていた。そして車のそばに、三十二口径の空薬莢が落ちていた。

弾道検査の結果は、三十二口径コルト・オートマチック。この一挺の拳銃が、このあとの捜査のすべての軸になる。

捜査は最初からつまずいた。土曜の夜から日曜の朝にかけて、その一帯には雨が降っていた。足跡はきれいに流されていた。そして――これは後年ずっと批判されることになるのだが――二人の遺体は、まともな司法解剖を経ないまま埋葬されてしまった。当時の田舎の慣行としては珍しくないのだが、性的暴行の有無を含めた重要な情報がここで永久に失われた。ムーアが暴行を受けていたという話は当時公表されず、後年の関係者証言として出てくるだけだ。

この時点で、テキサーカナの人々はまだパニックになっていない。二月のホリスとレアリーの事件と結びつけて考えた者もほとんどいなかった。強盗殺人でしょう、たまにあるよね、という空気だった。捜査当局は五十人から六十人、最終的には二百人以上を事情聴取した。三月三十日には五百ドルの懸賞金がかけられた。現在の価値にすれば八千ドル前後になる。この五百ドルは、百件を超えるガセネタを町に生んだ。

血のついた服を着た男が三人ほど身柄を取られたが、全員シロだった。

そして三週間が過ぎた。

四月十四日、サックスを吹き終えた十五歳が見つからなかった

第三の襲撃は、この事件が「町の惨劇」に変わった瞬間だ。ここから先、テキサーカナは正気を失う。

四月十二日金曜、ポール・ジェイムズ・マーティン、十六歳。一九二九年五月八日生まれ。もともとテキサーカナの子で、家の事情でキルゴアという町に引っ越していた。その週末、彼は昔の友達に会うために車を運転して帰ってきた。乗っていたのは一九四六年型フォードのクラブクーペ。新車といっていい。

彼が会いに行った相手のひとりが、ベティ・ジョー・ブッカー、十五歳。一九三〇年六月五日生まれ。二人は幼稚園からの幼なじみだった。ベティ・ジョーはアルトサックスを吹いた。ジェリー・アトキンス率いる地元のバンド、リズメアーズのメンバーで、その晩は西四番街とオーク通りの角にある在郷軍人会(VFW)クラブのダンスパーティで演奏する予定になっていた。彼女はテキサス高校の人気者だった。学業優秀、女子クラブの一員、吹奏楽部の役員、文学と音楽のコンクール入賞歴あり、そして幼いころには「リトル・ミス・テキサーカナ」に選ばれている。要するに、この町がいちばん誇りにしていたタイプの子だ。

演奏は深夜まで続いた。バンドが片づけを終えたのは午前一時三十分ごろ。ポール・マーティンはその時間にVFWクラブへ彼女を迎えに来た。ベティ・ジョーはその夜、友人の家のお泊まり会に行くことになっていた。ポールが送っていく手はずだった。

だが二人はそこへ直行しなかった。少し寄り道をした。北公園通り、スプリング・レイク・パークのそばの暗がりに車を停めた。十六歳と十五歳の、幼なじみ同士の、たぶん何でもない寄り道だった。

四月十四日日曜の朝六時三十分。北公園通りの北端、いまのグリーンブライア・フォレスト・サークル付近で、ウィーバーという一家がポール・マーティンの遺体を見つけた。銃創は四か所。鼻を貫通した一発、左の肋骨に背後から入った一発、右手に残った一発、そして首の後ろから抜けた一発。左肋骨の弾道が背後からだったということは、彼は逃げようとして走っていたということだ。少年は逃げた。逃げて、追われて、撃たれた。

ベティ・ジョー・ブッカーはまだ見つかっていなかった。

町中の男が探しに出た。彼女が見つかったのは午前十一時三十分、ボイド一家とテッド・ショッピーという男が、ポールの遺体から三キロ以上離れた場所の木の陰で発見した。彼女は仰向けに横たわっていた。コートのボタンは首元まできっちり留められていて、右手はポケットの中に入っていた。銃創は二か所、胸と顔。性的暴行の痕跡があった。

このコートの状態が、当時の捜査員をぞっとさせている。ボタンを首まで留めて、手をポケットに入れて。誰かが、彼女が死んだあとに、そうやって整えたということだ。犯人はこの少女の死体のそばにしゃがみ込んで、ボタンを留める時間を持っていた。

ポールの車は、スプリング・レイク・パークの外に停めてあった。ポールの遺体から二・五キロ、ベティ・ジョーの遺体から五キロ近く離れている。エンジンキーは差しっぱなしだった。犯人が車を移動させたのか、二人が歩いて移動させられたのか、いまも決着していない。

弾道は三十二口径コルト・オートマチック。三月のグリフィンとムーアを殺した銃と同一だった。ここで初めて、これは連続犯だと確定した。

そしてベティ・ジョーのアルトサックスが消えていた。彼女が最後に吹いた楽器だ。捜索隊は何日もかけて周辺を探したが見つからなかった。楽器が出てきたのは半年後の十月二十四日。遺体があった場所からそう遠くない藪の中から、ケースごと発見された。半年間、誰も気づかずにそこを何十回も通っていたということになる。

四月十六日火曜、二人の葬儀が行われた。嵐のような風の吹く日だった。学校はその日、授業を早めに切り上げて生徒を帰した。ビーチ通りバプテスト教会で、午前十時からポールの葬儀、午後二時からベティ・ジョーの葬儀。ジェリー・アトキンスは彼女の棺を担いだ。リズメアーズはその後、解散した。もうあのバンドで演奏する気になれなかったのだ。

その週、テキサーカナの空気が完全に変わった。

「ファントム」という名前は、新聞社の編集会議で生まれた

いまや世界中の怪奇マニアが知っている「ファントム・キラー」という呼び名は、犯人が名乗ったものではない。予告状もなければ暗号もない。この犯人は一度も自分の名を語っていない。名前をつけたのは新聞だ。

四月十六日、テキサーカナ・デイリー・ニューズ紙の見出しがこうなった。「殺人鬼ファントム、捜査官を出し抜く。連続殺人の捜査進む」。翌四月十七日、テキサーカナ・ガゼット紙が続けた。「ファントム殺人者、いまだ逃走中。捜査は継続」。

このネーミングの現場に立ち会っていたのがJ・Q・マハフィーというガゼット紙の編集主幹だ。彼が後年語ったところによると、編集長のカルビン・サットンという男が劇的なものへの鋭い嗅覚を持っていて、犯人を「ザ・ファントム」と呼ぼうと提案してきた。マハフィーの返事はこうだ。

「いいじゃないか。あのクソ野郎が逃げ続けるなら、そりゃもう幻でいい」

この一言が七十年以上生き延びた。そしてマハフィーは後年、自分たちの新聞が町のヒステリーを大きく作り出した責任の一端を負っていると認めている。正直な人だと思う。当時の紙面は毎日この事件で埋まっていた。五月五日のガゼット紙は、犯人は「いつでも、どこでも、誰にでも、また襲いかかるかもしれない」と書いた。四万人の町でこれを毎朝読まされる気持ちを想像してほしい。

なお「ムーンライト・マーダーズ(月光殺人)」というもうひとつの通称のほうは、後年になって定着したものだ。ロマンチックな響きだが、実のところ襲撃と月齢のあいだにきれいな相関はない。満月の夜に襲われたわけではないし、犯人が月を待っていた形跡もない。夜陰に乗じた犯行という点を新聞的に誇張したら、いつのまにか月がくっついてきた。この事件について語るとき、最初に切り離しておくべき「盛られた部分」がここだ。名前が事実を上書きしてしまう典型例で、これ自体がこの事件の怪異化を象徴している。

五月三日、農家の窓が二回割れて、ラジオだけが鳴り続けた

四月十四日から三週間。町は張りつめていた。誰もがつぎは五月の初めだと数えていた。そして犯人は、数えられていることをたぶん知っていた。

五月三日金曜の夜、ハイウェイ六七号線東、テキサーカナから北東へ十六キロほど行ったアーカンソー州ミラー郡ホーマン地区。二百ヘクタールの農場を営むバージル・スタークス、三十七歳が、居間の安楽椅子に座っていた。腰が痛かったので、妻のケイティ、三十六歳が電気あんかを持ってきてやった。彼はそれを腰に当てて、新聞を読みながらラジオの番組を聴いていた。ケイティは隣の寝室に引っ込んだ。

夜九時前後。ケイティは外で何か物音がしたように思って、夫にラジオの音量を下げてくれと声をかけた。バージルが立ち上がりかけた、そのとき。

正面の窓ガラスを貫いて銃弾が飛び込んできた。バージルは後頭部に二発受けて、椅子に崩れ落ちた。血が椅子に広がった。電気あんかは焦げてくすぶりはじめたが、幸い火事にはならなかった。

ケイティは居間に駆け込んだ。夫が血まみれで座っている。彼女は壁掛けの電話に手を伸ばした。助けを呼ぼうとしたのだ。

その瞬間、同じ窓から二発。一発は右の頬から入って左耳の後ろへ抜けた。もう一発は顎を砕き、歯を折り、舌の下に留まった。

普通ならここで終わりだ。だがケイティ・スタークスという女性は、この事件に登場する誰よりもタフだった。

彼女は倒れなかった。顔面を吹き飛ばされ、血で目が見えないまま、寝室のほうへ這った。そこで彼女は、台所の窓の網戸を誰かが引き裂いている音を聞いた。犯人が家の中に入ってこようとしている。彼女は家にある拳銃を取りに行こうとしたが、そこで判断を切り替えた。銃を探している時間はない。逃げる。

彼女は裸足で、寝間着のまま、家の中を走り抜けて正面から外へ飛び出した。後の捜査員が家の床に残った血の跡を見て「血の川」と表現している。彼女はまず道を渡って姉妹の家に駆け込んだ。誰もいなかった。そこからさらに五十メートル近く走って、隣人のA・V・プレイターの家にたどり着いた。プレイターは何が起きたか把握するより先にライフルを空に向けて撃った。近所への非常呼集だ。

もうひとりの隣人エルマー・テイラーが車を出して、ケイティをテキサーカナのマイケル・ミーガー病院へ運んだ。この車中で彼女は意識を保っていた。それどころか、砕けた自分の歯を口から取り出した。金の詰め物の入った歯だった。彼女はそれをテイラーに握らせた。運んでくれたお礼だ、という意味だったという。

顔の半分を撃たれた女性が、救急車の中で自分の金歯を渡して礼を言う。この事件の全記録の中で、私はこの場面がいちばん忘れられない。

現場に最初に着いたのはアーカンソー州警察のチャーリー・ボイドとマックス・タケット。ミラー郡保安官W・E・デイビスがハイウェイ六七号線に検問を張り、十二人を止めて、うち三人を厳しく調べたが全員シロだった。

現場に残されたものは奇妙だった。まず、四発撃たれているのに、正面の窓には弾痕が二つしかなかった。同じ穴を二発が通ったということで、これは犯人が銃を構え直さずに連射できる武器を使っていたことを意味する。そこから弾かれた結論が、二十二口径の自動小銃、あるいは半自動ライフルだ。三十二口径のコルト・オートマチックではない。ここが決定的にややこしくなる分岐点になる。

ポーチには薬莢が落ちていた。家のまわりにタイヤ痕があった。警察犬が二種類の匂いを追い、いずれも家からハイウェイのほうへ向かい、路上で消えた。約二百メートル。そこに車が停めてあったということだ。

そして五月二十九日、事件から二十六日後、家の正面窓の下の生垣の中から懐中電灯が一本見つかった。両端が赤く塗られた、当時としてはやや珍しいタイプのものだった。ワシントンDCのFBI犯罪研究所に送られて徹底的に指紋を調べられたが、使える指紋は一つも出なかった。警察はこれを「有力な手がかり」として発表した。実際には何にもつながらなかった。

犯人はこの夜を最後に、二度と姿を現さなかった。

五件目、あるいは五件目ではないもの――線路の上の男

ここで、しばしば「第五の襲撃」と数えられる、けれども誰も分類できていない一件を挟んでおきたい。

一九四六年五月七日、スタークス事件の四日後。テキサーカナから北へ二十六キロ、アーカンソー州オグデンの近くのカンザス・シティ・サザン鉄道の線路上で、アール・クリフ・マクスパッデンという男の遺体が見つかった。左腕と左脚が切断されていた。三十分前に貨物列車がそこを通過していた。

自殺で列車に飛び込んだ、で終わる話のはずだった。ところが検死の結論がおかしかった。検死官の評決は「氏名不詳者の手による死」。つまり他殺。しかも、彼は列車に轢かれる前にすでに死んでいた、というのだ。刺し傷があったという記録もある。誰かが死体を線路に置いた。列車に片づけさせるつもりで。

地元ではこの件について二つの説が語られ続けている。ひとつは、マクスパッデンはファントムの六人目の被害者であり、証拠隠滅のために線路に置かれたという説。もうひとつは逆で、マクスパッデンこそがファントムであり、追い詰められて自殺したのだという説。後者は「犯行がぴたりと止まった時期と一致する」という点で人気があるのだが、検死結果が他殺を示している以上、単純な自殺説としては成り立たない。

そして正直に言えば、この一件は当時の捜査当局にもほとんど何もわかっていなかった。テキサーカナ周辺は当時から治安が良いとは言えない土地で、鉄道沿いには流れ者が多かった。無関係な別の暴力事件だった可能性は十分にある。

だが町の人々の頭の中では、この死体は永久にファントム事件の付録として残った。数え方によって襲撃は四件にも五件にもなる。この曖昧さこそが、この事件が七十年以上たっても「終わらない」理由のひとつだ。輪郭が確定しないものは、いつまでも膨らみ続ける。

町がおかしくなるまで、たぶん七十二時間

スタークス事件の翌日、テキサーカナの金物屋と銃砲店から在庫が消えた。

錠前。南京錠。窓のサッシ用の留め金。網戸のフック。ナイトラッチ。ブラインド。ベネチアンブラインド。窓用のシェード。ショットガン。ライフル。拳銃。あらゆる口径の実包。売り切れである。棚が空になった。

それまでテキサーカナの家は、玄関に鍵をかける習慣がなかった。田舎町とはそういうものだ。それが一夜で変わった。人々は窓のサッシに釘を打ち込んで動かなくした。網戸に補強用のつっかい棒をかませた。窓にシーツを釘で打ち付けて、外から中が見えないようにした。ある家では玄関に鳴子のような手製の警報装置を仕掛けた。庭に投光器を設置する家が出た。犬を買う家が出た。

パニックは町の外へ漏れ出した。アーカンソー州のホープやマグノリア、テキサス州のラフキン、遠くはオクラホマシティでまで、銃と斧の売り上げが跳ね上がったという記録がある。斧というのが妙にリアルで嫌だ。銃が買えなかった人が斧を買っていったのだ。

酒屋は夜九時半に店を閉めるようになった。飲食店も早じまいした。事実上の自主的な夜間外出禁止令が敷かれた。誰も決めていないのに、日が沈むと町から人が消えた。この状態を映画の題名は「日没を恐れた町」と呼んだわけで、これは詩的な誇張ではなく、そのままの記述だ。

そして、武装した市民というのは犯人と同じくらい危険だった。警官が夜間に民家へ近づくときは、わざわざサイレンを鳴らし、ヘッドライトを点滅させ、大声で名乗ってから接近した。そうしないと撃たれるからだ。実際、猫がゴミ箱をひっくり返した音で通報が入り、雨宿りしていた通行人が不審者として通報され、そのたびに警官が飛んでいった。ミラー郡の首席保安官補ティルマン・ジョンソンは後にこう振り返っている。夜になると絶えず不審者の通報が入った、と。ほとんど全部が空振りだった。ある警官の言葉を借りるなら、警戒の大半は「興奮と、暴走した想像力と、ヒステリー寸前の状態」の産物だった。

いちばん危なかったのは若い連中だ。

一部の高校生や若者は、パニックとは逆方向に振り切れた。恐怖よりも興奮が勝ってしまったのだ。彼らはわざとラバーズ・レーンに車を停めて、犯人が来るのを待った。銃を持って。自分たちの手で捕まえるつもりだった。

ティルマン・ジョンソンとアーカンソー州警察の警官が、深夜に停まっている一台の車に近づいたことがある。中には若い男女がいた。身分を明かしたところ、助手席の少女がこう言った。怖がるべきなのはあなたのほうよ、名乗ってくれてよかったわね、と。彼女は膝の上で二十五口径の拳銃をジョンソンに向けていた。

五月十日には、高校の運動部員C・J・ローダーデール・ジュニアという少年が、バスに乗っていた怪しい男を追跡して五キロ近くカーチェイスをやった。追いかけていた相手は覆面パトカーで、最終的に警察に射撃でタイヤを撃ち抜かれて停止させられ、逮捕された。少年のほうが捕まったのだ。

五月十二日、ゴンザウラス隊長はついに公式に警告を出した。「十代の名探偵たち」へ、それは死ぬのに手っ取り早い方法だ、と。

ローン・ウルフ・ゴンザウラス、白い十ガロン帽の男

この事件の捜査の顔になったのが、テキサス・レンジャーのマヌエル・トラササス・ゴンザウラス隊長である。通称「ローン・ウルフ」、一匹狼。

彼は一八九一年七月四日生まれ。本人の申告ではスペインのカディス生まれということになっている。父はスペイン生まれのラモン・ディアス・ゴンザウラス、母はカナダ生まれのヘレン・ジョセフィン・フォン・ドロフ。ただし国勢調査の記録は彼の申告と食い違っていて、出自の話はどこまでが本当なのかよくわからない。この時点でもう相当に面白い人物だ。

一九二〇年十月一日にテキサス・レンジャーに入隊。最初の任地はウィチタ郡の油田地帯だった。当時の油田町というのは無法地帯そのもので、賭博、密造酒、銀行強盗、麻薬密売が並んでいた。彼はそこで名をあげた。「ローン・ウルフ」という異名が活字になった最初の例は、一九二〇年十二月二十九日のウィチタ・フォールズ・デイリー・タイムズ紙とされている。入隊から三か月足らずで異名がついた計算になる。同僚たちは彼が単独行動を好んだからだと言い、リオ・グランデ沿いではエル・ロボ・ソロと呼ばれた。

一九三三年、彼はミリアム・ファーガソン知事に解雇されている。理由が政治的で、彼が知事の対立候補を支持したからだ。一九三五年にテキサス州公安局が設立されてレンジャーが独立機関として再編されると、彼は戻ってきた。しかも情報局の監督官として、そして犯罪科学研究所の責任者として。この研究所は当時「ワシントンのFBIに次ぐ」と評価された。つまりこの人は、荒っぽいガンマンであると同時に、鑑識と科学捜査の推進者でもあった。一九四〇年にダラスのB中隊隊長として現場に戻る。

そして一九四六年春、テキサーカナに派遣された。

彼の登場の仕方が、もう完全に映画だった。ガゼット紙の編集主幹J・Q・マハフィーはこう書き残している。彼は自分がこれまで見た中でいちばん見栄えのする男のひとりで、しみひとつない色の制服に、白い十ガロン帽をかぶっていた、と。象牙のグリップの拳銃を二挺提げていたという話も残っている。町の人々は英雄が来たと思った。実際、そういう役割を期待されて呼ばれたのだ。

ただし、現場の評価は割れていた。ミラー郡の保安官補ティルマン・ジョンソンは、後年かなり辛辣なことを言っている。あの人はショーマンだった、と。車で走り回って、他の捜査官が何をつかんだかをあれこれ聞いて回って、それを自分の情報みたいに新聞に発表するんだ、と。

彼の捜査手法は大胆だった。犯行の間隔が三週間前後であることを見抜き、つぎの襲撃予定日を割り出して、ラバーズ・レーンに罠を張った。若い警官と地元の十代の若者に協力させて、恋人同士のふりをして車を停めさせる。近くの茂みに武装した捜査員を潜ませる。人員が足りないときはマネキン人形を助手席に座らせた。四〇年代のテキサスの警官が、深夜の砂利道でマネキンにスカーフを巻いている光景を想像してほしい。切実さと滑稽さが同居している。

罠には一度もかからなかった。

そして、彼が町に向けて出したメッセージが、後に議論を呼ぶことになる。彼は市民に、銃に油を差して、弾が入っているか確かめておけと言った。必要なら撃つのをためらうな、とも言った。撃ってから聞け、というニュアンスの発言も記録されている。当時の空気の中では合理的な助言だったのかもしれないが、四万人の町全員がそれを実行した結果どうなったかは、さっき書いたとおりだ。

五月五日の時点で四十七人の捜査官が事件にかかりきりになっていた。五月九日にはオースティンから移動無線局が到着し、アーカンソー州警察の警官二十人と双方向無線を積んだパトカー十台が加わった。車同士が無線で会話できるというのは、一九四六年の地方警察にとって革命的な話だった。五月十一日にはボウイ郡保安官事務所にテレタイプが設置され、テキサス中の法執行機関とつながった。

つまりこの事件では、当時考えうる最新の捜査リソースが投入されている。総勢で数百人。関わった組織はテキサス側とアーカンソー側の両市警、テキサス・レンジャー、テキサス州公安局、ミラー郡保安官事務所、ボウイ郡保安官事務所、キャス郡保安官事務所、アーカンソー州警察、そしてFBI。取り調べた容疑者は四百人近い。マックス・タケットの記憶によれば、虚偽の自白だけで九件あった。

それでも捕まらなかった。

メアリー・ジーン・レアリー、耳から離れない声

ここからは、この事件を語るうえで絶対に外せない三つの証言を、一つずつ丁寧に見ていきたい。数字と日付だけ並べても、この事件の本当の質感は出てこない。

メアリー・ジーン・レアリーは、犯人と至近距離で会話をして生き延びた、たった二人のうちの一人だ。もう一人は途中で意識を失っている。つまり彼女は、犯人の言葉をいちばん多く聞いた人間ということになる。

彼女の証言の核心は、実は外見ではなく声だった。彼女は繰り返しこう言っている。あの声なら、どこで聞いてもわかる。いつも耳の中で鳴っている、と。マスクをかぶっていたから顔はわからない。だが声は、布越しにも聞こえる。

そして外見について、彼女はある確信を持っていた。マスクの下から見えた肌の色から、犯人は黒人だと思う、と証言したのだ。これに対して、意識を取り戻したジミー・ホリスは真逆のことを言った。あれは日焼けした白人だ、三十歳前後だ、と。

この食い違いが、初動捜査を丸ごと殺した。

二人の証言が一致したのは身長だけだった。約百八十センチ。それ以外は割れた。当時の捜査官の一部は、この矛盾を見て別の結論を出した。こいつらは犯人を知っているのに、かばっているのではないか、と。これは今の目で見ればひどい話で、頭蓋骨を三か所折られた男と性的暴行を受けた女性に対して、被害者の証言を疑うところから入ったわけだ。しかもレアリーは事件後、この扱いに深く傷ついている。

いま冷静に見れば、二人の証言が食い違ったのはもっと単純な理由で説明がつく。二人とも強力な懐中電灯を至近距離から顔に当てられていた。網膜が真っ白に焼かれた状態で、逆光の中に立つ人影の肌の色を判定しろというほうが無理だ。しかもホリスは頭蓋骨骨折で一週間近く意識が混濁しており、彼が「白人だった」と語ったのは記憶が相当に加工されたあとの話になる。レアリーのほうも極度の恐怖下にあった。人間の記憶というのは、こういう条件下ではおそろしく当てにならない。

だが一九四六年の南部で「黒人の犯人」という証言が出たことの意味は、記憶の信頼性の話では済まない。当時の南部の警察がその線でどれだけ乱暴な捜査をやったかは想像に難くないし、実際、この事件では黒人男性が理由の薄いまま複数拘束されている。後にテキサーカナの連邦刑務所付きの心理学者アンソニー・ラパラ博士が犯人像を分析した際、彼は犯人は黒人ではないと述べた。その根拠として彼が挙げたのは「一般に黒人の犯罪者はこれほど利口ではない」という、記録に残すのも気が重い理屈だった。一九四六年という年の空気が、こういうところに露骨に出る。

メアリー・ジーン・レアリーはその後テキサーカナを離れ、オクラホマ州フレデリックへ移った。悪夢に悩まされ続けたと伝えられている。晩年はモンタナ州ビリングスで暮らし、一九六五年に癌で亡くなった。三十八歳だった。彼女はこの事件の解決を見ないまま、事件から十九年で人生を終えている。

ジミー・ホリス、警告した男

ジミー・ホリスの証言でいちばん効いてくるのは、犯人の外見の話ではない。犯人が何をしゃべっていたか、だ。

彼は病院のベッドの上で、こう言っている。あいつは狂っている。あいつが口にした狂ったことのせいで、俺はあの男の頭がねじれているとわかった、と。

これは実に不気味な証言だ。というのも、犯人が具体的に何をしゃべったのかは、公式記録の中でほとんど再現されていないからだ。ホリスが伝えたのは「内容ではなく印象」だった。理屈が通っていない。会話が成立していない。だが命令だけは的確に飛んでくる。この組み合わせが彼に「こいつは壊れている」と確信させた。

犯人の言葉として記録に残っているのは断片だけだ。車から降りろ、殺すつもりはない、ズボンを脱げ、嘘をつくな、走れ。命令はすべて短く、明確で、実行可能だ。パニックした人間の言葉ではない。目的があって、手順があって、それを淡々と進める人間の言葉だ。そのうえでホリスに「狂っている」と感じさせる何かを、この男は口走っていた。

もうひとつ、ホリスの証言には決定的な部分がある。金だ。犯人は財布を探さなかった。レアリーが金の話を持ち出したとき、犯人はそれを拒絶して怒鳴った。強盗ではないのだ。

ところが第二の襲撃では、グリフィンとムーアの両方のポケットが裏返されていた。ここに矛盾がある。物取りではないはずの犯人が、ポケットを探っている。この不整合をどう読むかで、犯人像は大きく変わる。強盗が性的暴行にエスカレートしたのか、性的動機の犯人が偽装のためにポケットを裏返したのか。捜査当局の大勢は後者を取った。スタークス家では現金が手つかずで残されていたし、ケイティのハンドバッグにも手が触れられていなかった。当時の捜査員の多くが非公式に語った動機は、身も蓋もない言い方をすれば「性的な狂気」だった。

ジミー・ホリスは回復後、ルイジアナ州シュリーブポートへ移り住んだ。家庭を持ち、七人の子を育てた。一九七四年、眠っているあいだに亡くなった。五十四歳だった。彼が捜査員に告げた警告――こいつを捕まえなければ次は誰かが死ぬ――は、一九四六年三月二十四日に的中し、そして誰にも報われなかった。

ケイティ・スタークス、金歯を渡した女

三つ目の証言者は、この事件で最後に犯人と同じ空間にいた人間である。

ケイティ・スタークスが警察に語った内容は、実は犯人像の特定にはほとんど役立たなかった。彼女は犯人を見ていない。窓の外は暗く、銃弾は闇の中から飛んできた。彼女が知覚したのは音だけだ。ガラスの割れる音。夫が倒れる音。そして――ここが重要なのだが――台所の窓の網戸が引き裂かれる音。

この音の意味を、彼女は即座に理解した。犯人は撃って逃げるつもりではない。入ってくるつもりだ。

彼女の証言のうち捜査上いちばん価値があったのは、この「侵入しようとしていた」という一点だった。それまでの三件は屋外での襲撃だ。犯人が屋内に踏み込もうとしたのはこれが初めてになる。ラパラ博士の犯人像分析は、この点を捉えて、道路での犯行が難しくなったので犯人は農家を狙うようになるだろう、と予測していた。中年夫婦の家というターゲットの変化は、犯人が学習しているという証拠だった。町中の若者が銃を持ってラバーズ・レーンで待ち構えている状況で、犯人はもうそこには行かない。

そしてケイティ・スタークスという人物のことも書いておきたい。顔面に二発受けた人間が、自力で家を横切り、道を渡り、無人の家を通り過ぎ、さらに五十メートル走って隣家に助けを求めた。搬送中の車内で意識を保ち、砕けた自分の金歯を運転手に握らせた。この人は完全に回復した。顔の傷も治った。再婚してケイティ・スタークス・サットンとなり、一九九四年七月三日まで生きた。

四十八年間、彼女はあの晩に自分を撃った人間が誰なのかを知らないまま生きたことになる。

車泥棒がひとり、バスターミナルの非常階段を駆け上がった

さて、容疑者の話をしよう。ここから先に書くことは、すべて「説」である。有罪判決は一件も出ていない。以下に名前が出る人物は、いずれも公的には殺人犯と認定されていない。これは強調しておく。

最有力とされてきたのが、ユーエル・リー・スウィニーという男だ。一九一七年、アーカンソー州クリーブランド郡の田舎生まれ。父はバプテスト派の牧師だった。牧師の息子が、というのは物語としてできすぎているが、事実らしい。彼自身は早くから犯罪の道に入り、自動車窃盗、偽造、強盗、暴行と、罪状の見本市みたいな前科を積み上げていた。身長は約百七十五センチ、体重六十四キロ前後。吃音があったという記録がある。

彼にたどり着いたのは、アーカンソー州警察のマックス・タケット刑事だった。タケットの着眼点は職業的で地味だった。彼は自動車窃盗の担当だったので、盗難車の届出をずっと追っていた。そして気づいた。襲撃のあった夜のたびに、この一帯で車が一台盗まれている。そして事件のあと、その車が乗り捨てられている。

一九四六年六月二十八日、タケットは三月二十四日のグリフィンとムーアの殺害当夜に盗まれた車を張り込んだ。そこへ若い女が現れた。ペギー・スティーブンス、二十一歳。事情を聞くと、彼女は自分の新しい夫がアトランタで別の盗難車を売りさばいていると口を滑らせた。夫の名はユーエル・スウィニー。

彼が捕まったのはアーカンソー・モーターコーチのバスターミナルだった。彼は非常階段を駆け上がって逃げようとして、追い詰められた。そしてこのとき、彼は捜査員に対して妙なことを言った。

「なあ、俺で遊ぶのはやめてくれ。あんたたち、車泥棒以上のことで俺を捕まえたいんだろう」

別の場面では、こうも言った記録がある。ジョンソンさん、これで俺はどうなると思う。電気椅子に送られるのか、と。

車泥棒で電気椅子には送られない。殺人なら送られる。これが、この事件におけるスウィニーへの疑いの原点だ。

ペギーの自白は、三回あって、三回とも崩れた

スウィニーの妻ペギーは、逮捕後に少なくとも三回、警察に対して供述している。

一度目は一九四六年七月二十三日。彼女は、スプリング・レイク・パークのそばで車を停めたこと、そこで夫が一時間ほど車を離れたこと、その間に銃声のような音を聞いたこと、戻ってきた夫のズボンが膝まで濡れていたこと、そして夫がひどい勢いで公園から車を出したことを語った。

二度目は翌七月二十四日。彼女はさらに踏み込んだ。ポール・マーティンとベティ・ジョー・ブッカーの殺害を、自分は直接見ていた、と言い出した。強盗のつもりが、そうならなかったのだ、と。

三度目は同年十一月二十二日。ここが最大の山場になる。彼女は、当時まったく報道されていなかった詳細を口にした。ポール・マーティンの手帳が、現場近くの茂みに投げ捨てられていた、というのだ。

これは重大だった。というのも、この手帳の件はボウイ郡保安官ビル・プレスリーが意図的に伏せていた情報で、新聞に一度も出ていなかったからだ。犯人か、その場にいた人間しか知りえない情報。いわゆる「秘密の暴露」である。警察が確認したところ、彼女の言った場所と状況は実際の現場と一致した。

捜査陣は色めき立った。だがここから話が転がり落ちていく。

まず、彼女の三回の供述は、細部が毎回違っていた。日付、時間、順序、誰がどこにいたか。呼び出すたびに話が変わる。長時間の取り調べを受けた二十一歳の女性の供述としては、ある意味当然の現象なのだが、法廷では致命的だ。弁護側が三つの供述調書を並べるだけで、証人としての信用は消し飛ぶ。

つぎに、彼女は途中で全部を撤回した。夫は無実だ、私は嘘をついた、と言い出した。

そして最後に、決定的な法律の壁があった。ペギーはユーエル・スウィニーの妻である。しかも二人が結婚したのは、逮捕のほんの数日前だ。当時の法制度では、配偶者は証言を強制されない。彼女が拒めば、検察は彼女を証言台に立たせることができない。

タイミングが良すぎる、と考えた捜査員は当然いた。逮捕直前の結婚。だが疑うことと立証することは別だ。

状況証拠は積み上がった。それでも足りなかった

スウィニーをめぐる状況証拠は、実際かなり分厚い。並べてみると気持ちが悪くなるくらいだ。

まず銃。彼は事件当時、三十二口径のコルト・オートマチックを所持していたことがわかっている。そして、それをサイコロ賭博の場で他人に売り払っていた。凶器と同型の銃が、犯行のあとに彼の手から消えている。ただし現物は回収されておらず、弾道照合は行われていない。ここが決定的に痛い。

つぎに、スタークス事件との接点。彼の部屋から出てきた作業シャツに、クリーニング店のマーキングが残っていた。「S-T-A-R-K」。そして彼のポケットの中から出てきた金属のスラグ(溶接くず)が、バージル・スタークスの溶接作業場から採取したサンプルと成分的に一致した。これはかなり不気味な符合である。ただし、スタークスの溶接場は近隣の農家が出入りする場所でもあり、決定打とまでは言えないという反論も成り立つ。

さらに、盗難車のパターン。タケットが見抜いたとおり、四件の襲撃の夜にはいずれも車が盗まれ、その後乗り捨てられていた。スウィニー夫妻は車を盗んで各地を転々とする生活をしていた。

そして、犯行が止まったタイミング。一九四六年七月にスウィニーが逮捕されて以降、テキサーカナ周辺で同種の襲撃は一件も起きていない。

だが、崩れる部分もある。ブッカーとマーティンが殺された夜、警官がサンアントニオ近郊の橋の下で車の中で寝ているスウィニー夫妻を発見していた、という記録もあるのだ。これが正確なら、アリバイになりかねない。記録の日付の解釈をめぐって論争がある部分だ。

そして何より、彼自身は最後まで一度も自白していない。四十年以上のあいだ、彼は殺人については一貫して否定し続けた。

結局、殺人罪での起訴は見送られた。しかし当局は彼を野放しにする気もなかった。一九四七年、彼は自動車窃盗の常習犯として起訴され、当時のテキサスの常習犯加重規定によって終身刑を宣告された。車泥棒で終身刑である。当時を知る関係者は、これは事実上の司法取引だった、殺人で立てられないから盗みで一生入れておいたのだ、と後年語っている。

彼はそのまま二十六年間服役した。

そして一九七三年、彼は出てくる。人身保護請求が認められたのだ。理由は法律論として真っ当なもので、常習犯加重の根拠に使われた一九四一年の有罪判決の際、彼には弁護人がついていなかった、というものだった。憲法上の権利侵害。加重の根拠が消えれば終身刑は維持できない。彼は釈放された。

その後の彼は、静かに老いた。一九九四年九月十五日、ダラス近郊の老人ホームで死去。七十七歳だった。最後まで殺人は否認したままだった。

彼を追った二人の主任捜査官――マックス・タケットとティルマン・ジョンソン――は、生涯にわたって「あいつがやった」と信じ続けた。二〇一四年、テキサーカナ出身の作家ジェイムズ・プレスリーが、この事件についての決定版といえる調査書を出版した。プレスリーはボウイ郡保安官ビル・プレスリーの甥にあたる。彼は膨大な一次資料と関係者インタビューを積み上げて、スウィニーが四件すべての犯人であるという結論に到達した。この本を評した書評家たちは、これ以上説得力のある議論は今後も出ないだろう、と書いている。

それでも、有罪判決は存在しない。この事件は現在も未解決事件として分類されている。

もう一人の亡霊――遺書を残して死んだ十八歳

スウィニー以外にも、この事件には印象的な容疑者が何人もいる。中でも忘れがたいのが、H・B・テニソンという少年の一件だ。

一九四八年十一月四日、アーカンソー大学一年生のヘンリー・ブッカー・テニソン、十八歳が、ファイエットビルの下宿の自室で死んでいるのが見つかった。青酸による自死だった。愛称は「ドゥーディー」。

彼は死ぬ前に、妙に手の込んだ仕掛けを残していた。彼の遺したメモには、ある場所を調べろという指示が書かれていた。指示をたどると小箱にたどり着く。その中に入っていた手紙に、こう書かれていた。

そうだ、あの夜、市の公園でベティ・ジョー・ブッカーとポール・マーティンを殺したのは私だ。

さらにバージル・スタークス殺害についても自分がやったと書かれていた。

町は震撼した。テニソンはテキサーカナの子で、ベティ・ジョーと同じ高校のバンドに所属していた。彼はトロンボーンを吹いていた。同じバンドにいた少年が、あの少女を殺したと書き残して死んだ。物語としては完璧すぎる。

だが捜査当局はこれを潰した。まず、遺書の記述には現場と食い違う点がいくつもあった。彼の部屋からは他の手紙も出てきて、そこには深い抑うつと、現実とは思えない誇大な想像の記述が並んでいた。兄弟は、あの子は昔から作り話をする癖があったと証言した。ベティ・ジョーとは同じバンドにいただけで、特に親しくもなかった。指紋も現場のものと一致しなかった。そして決定的だったのが、スタークス事件の夜のアリバイだ。幼なじみのジェイムズ・フリーマンが、あの晩は二人でカードをやっていたと証言した。

抑うつを抱えた十八歳が、町でいちばん有名な事件を自分の罪として引き受けて死んだ。それだけの話だった可能性が高い。ただし、この一件が地元に与えた心理的な傷は本物だ。事件の二年半後、町はもう一度この事件を掘り返されて、もう一度眠れない夜を過ごした。

消えていった容疑者たち

四百人近くが調べられた。そのほとんどは記録の中で名前すら残っていない。だが、いくつかの顔は当時の紙面をにぎわせた。

四月二十七日、テキサス州コーパス・クリスティで、ある男が楽器店にサックスを売りに来た。時期が時期である。店側が通報し、男は逮捕された。ホテルの部屋からは血のついた衣類が出てきた。男は言い訳をしたが要領を得ず、態度は逃げ腰だった。しかもこの男、勾留中に質屋で四十五口径のリボルバーを買っていたという。町中が「捕まった」と沸いた。だが調べてみるとサックスはベティ・ジョーのものではなく、血は酒場の喧嘩でついたもので、彼はシロだった。

五月には別の男が浮上した。ラルフ・バウマン、二十一歳。元陸軍航空隊の機銃手で、精神神経症を理由に除隊していた。彼は五月二十三日に警察に出頭して、自分がファントムかもしれないと言った。スタークス事件のあった日、意識が飛んでいて、気がついたら自分のライフルが消えていた、と。彼はそのままロサンゼルスまでヒッチハイクしていた。ゴンザウラス隊長は彼の話の矛盾を突いた。彼は過去にも「三日で三人殺した」と自称した前歴があり、その時期は事件と合わなかった。シロ。

五月八日には、脱走したドイツ人捕虜が容疑者として公表された。二十四歳、体重八十五キロ、茶色い髪、青い目。アーカンソー州マウント・アイダで車を盗み、オクラホマ州東部で弾薬を買おうとした形跡があった。当局は本気で追ったが、この男は文字通り「空気に溶けるように消えた」と報じられた。結局この線は無関係だったとされている。

五月七日には、拳銃を持った男が通りがかりのドライバーを襲って車を奪い、「テキサーカナで五人殺した」と自慢した。しかもマーティンとブッカーの名前まで挙げた。ゴンザウラス隊長はこれを冷静に切って捨てた。本物の犯人は正体を隠すことにあれだけ執着している。生きた目撃者を作ったうえで自慢する男が同一人物であるわけがない、と。

五月十日にはオクラホマ州アトカで女性が自宅で襲われ、犯人が「三人か四人殺した」と口走って逃げた。二十人の警官と百六十人の住民が山狩りをやった。二日後に男は捕まったが、スタークス事件の夜のアリバイが成立してシロだった。

そしてもうひとり、記録上「サミー」という仮名で呼ばれる地元の男がいる。素行に問題のない、評判のいい住人だった。ポール・マーティンの遺体があった場所の道の向かい側に、彼の車のものと思われるタイヤ痕が残っていたのだ。彼はポリグラフ検査にかけられ、そして落ちた。反応が真っ黒に出た。

町はまた沸いた。だが精神科医トラビス・エリオットが彼に催眠をかけて調べたところ、この男には犯罪的な傾向はまったく認められないという結論が出た。そして彼が嘘をついていた理由も判明した。彼はその晩、既婚女性のところへ通う途中で、小便のために車を停めていた。不倫を隠したくてポリグラフの針が振れていたのだ。彼のアリバイは裏が取れて、彼はシロになった。

町ひとつが疑心暗鬼になると、こういうことが起きる。人は誰しも、殺人とは無関係な、けれども絶対に人に言えない秘密を抱えている。連続殺人事件の捜査というのは、その秘密を片っ端から引き剥がしていく作業でもある。

なぜ立件できなかったのか

この事件を追っていると、どうしても同じ疑問に戻ってくる。あれだけの人員と機材と時間を投入して、なぜ誰も裁かれなかったのか。

理由は、いくつもある。しかもそのどれもが、一九四六年という時代に固有のものだ。

第一に、現場の保全がまったくできていなかった。ミラー郡首席保安官補ティルマン・ジョンソンは、スタークス邸について正直な述懐を残している。現場を保全しようとはしたが、一晩中、みんながあそこを出たり入ったりしていた、と。二十人から三十人の警官が押し寄せて、証拠の上を歩き回った。三月のグリフィンとムーアの現場では、二人の遺体が司法解剖なしに埋葬された。今なら考えられない。

第二に、鑑識技術の限界。指紋は当時の主力技術だったが、スタークス邸で見つかった懐中電灯からは使える指紋が一つも出なかった。DNAという概念自体が存在しない。血液型判定はあったが、それでできることは限られている。弾道検査は機能して、三十二口径コルト・オートマチックの同一性は確認できた。だが肝心の銃が出てこない以上、その情報は「同じ人間がやった」以上のことを教えてくれない。

第三に、管轄の分断。テキサス州とアーカンソー州、二つの州の二つの市警、複数の郡保安官事務所、州警察、州公安局、テキサス・レンジャー、そしてFBI。当時、これらのあいだで情報を統合的に扱う仕組みは存在しなかった。だからこそ五月十一日にテレタイプが設置されたのだが、それは事件が終わりかけてからの話だ。

第四に、情報の洪水。懸賞金は最終的に一万ドルを超えた。現在の価値で十六万ドル相当だ。この金額が呼び寄せたのは真実ではなく、大量のガセネタだった。五百ドルの段階ですでに百件以上の空振りが出ている。捜査資源は膨大な量の無意味な確認作業に食われた。

第五に、そして最大の理由が、証言の壁だ。ペギー・スウィニーの供述は、法廷に持ち込めなかった。配偶者特権によって彼女は証言を拒否できた。供述内容は三回とも食い違い、しかも本人が撤回している。物証は状況証拠のみ。凶器は消えている。指紋はない。目撃者は覆面しか見ていない。

検事の立場で考えれば、これは起訴できない。有罪にできない裁判をやれば、一事不再理でその人物は永久に裁けなくなる。だから起訴しない、という判断は、実は極めて合理的だ。合理的で、そして誰も救われない。

代わりに司法が選んだのが、自動車窃盗による終身刑という迂回路だった。あれは実質的に殺人事件の判決だったのだ、と関係者は語っている。だが二十六年後、その迂回路も法の綻びから崩れた。

町が自分の悪夢を映画にした

ここからが、この事件がただの未解決事件で終わらなかった理由の話だ。

一九七六年、『太陽に向って走れ』(原題は「日没を恐れた町」)という映画が公開された。監督はチャールズ・B・ピアース。テキサーカナで育った男だ。彼は一九四六年の春、まさにこの町にいた。子供として、あの恐怖の中にいた。

彼はその映画を、テキサーカナで撮った。

これがどれほど異様なことか、少し考えてほしい。実際に事件が起きた町で、実際に事件を記憶している住民を大量にエキストラとして使って、その事件の再現映画を撮ったのだ。約十九人の地元住民が、プロの俳優に混じって出演している。三十年前に自分たちが体験した恐怖を、自分たちで演じ直した。

製作費は四十万ドル。興行収入は四百万から五百万ドル。十倍以上のリターンである。

配役はこうだ。ベン・ジョンソンが演じるJ・D・モラレス隊長は、ゴンザウラス隊長がモデル。アンドリュー・プライン演じるノーマン・ラムジー保安官補は架空の人物。そしてドーン・ウェルズ――『ギリガン君SOS』のメアリー・アンで有名な女優だ――が演じたヘレン・リードは、ケイティ・スタークスがモデルになっている。ウェルズは七月九日に現場入りして、二日で自分のシーンを撮り終えたが、六日間滞在した。ちなみに、映画の最後の五分の一の脚本は、撮影中に結末が決まらなかったため、俳優のアンドリュー・プラインがかなりの部分を書いたという逸話が残っている。

この映画がホラー史に残した最大の遺産は、犯人の見た目だ。目の穴を開けた麻袋を頭からかぶった男。顔は最後まで映らない。この造形は後の『13日の金曜日PART2』のジェイソンをはじめ、無数のスラッシャー映画に受け継がれた。実際の犯人がかぶっていたのは白い枕カバー状の布だったが、映画は麻袋にした。そのほうが画面で不気味だからだ。

そして、この映画には悪名高いシーンがある。トロンボーンを使った殺人の場面だ。実際の事件にはそんな殺され方は存在しない。完全な創作である。ピアース監督自身がこう語っている。あのトロンボーンのシーンが終わったとき、劇場は針が落ちる音まで聞こえるくらい静まり返った、と。

だから当然、批判も来た。批評家ジーン・シスケルは十点満点の評価で最低に近い点をつけ、「バカな映画」と切って捨てた。もっと重いのは遺族の反応だ。ポリー・アン・ムーアの家族は、映画での描写をめぐって百三十万ドルの損害賠償を求めて提訴した。訴訟は一九七九年と一九八〇年の判断で退けられている。

映画は現実を歪めた。ドキュメンタリー風のナレーションを被せて「これは実話である」という顔をしながら、実際には創作を大量に混ぜた。この構造こそが、後にテキサーカナの現実の記憶を上書きしていくことになる。

そして毎年十月、事件現場の公園でその映画が上映される

ここが、この記事でいちばん書きたかった部分かもしれない。

二〇〇三年から、テキサーカナ市の公園レクリエーション局は、毎年秋に「ムービーズ・イン・ザ・パーク」という野外上映イベントを開催している。芝生にシートを敷いて、家族連れが弁当を持って集まる、ごく健全な地域行事だ。

そのシーズン最終回、ハロウィンに近い十月の日没時に上映される作品が、毎年決まっている。『太陽に向って走れ』である。

上映場所は、スプリング・レイク・パーク。

ポール・マーティンの車が、キーを差したまま乗り捨てられていた公園だ。ベティ・ジョー・ブッカーとポール・マーティンが殺された現場から目と鼻の先である。

つまりこの町は、毎年秋になると、十五歳と十六歳が殺された場所に住民が集まって、その殺人事件を題材にした映画を、日没と同時に見るのだ。無料で。家族連れで。ポップコーンを食べながら。

二〇二四年の上映にも大勢が集まった。芝生に折りたたみ椅子とブランケットが並んだ。地元紙の取材に答えた若い男性は、最近この町に引っ越してきた恋人を連れてきていた。町を案内して、やってるイベントを見せて、外に出るのはいいことだよ、いい映画だし、と彼は言った。

いい映画だし。

これを冷たいと感じる人はいるだろう。私も最初はぎょっとした。だが少し考えて、たぶんこれは町の防衛機制なのだと思うようになった。あの事件は町から奪いすぎた。五人の命と、それ以上の何かを。何十年もそれを黙って抱えているのは、共同体にとって単純に重い。だからいっそ、年に一度、みんなでそれを見る。笑いながら見る人もいるだろう。日没を恐れた町が、日没に集まって、日没を恐れた町の映画を見る。恐怖を儀式に変換してしまう。

しかも、この儀式には副作用がある。毎年上映されることで、映画のほうの記憶が実際の事件の記憶を少しずつ塗り替えていく。麻袋のマスクが、白い枕カバーの記憶を押しのける。トロンボーンの殺人という存在しなかった場面が、実際の事件の一部として語られるようになる。地元の子供たちは、まず映画でこの事件を知る。

歴史が民話になっていく過程を、リアルタイムで観測できる場所というのは、そう多くない。テキサーカナはその実験場になっている。

ちなみに現在のテキサーカナは、この歴史を隠していない。むしろ観光資源にしている。市内では「イブニング・ウィズ・ザ・ファントム・キラー」という体験型イベントが催されている。一九二三年築のバナナ・クラブという会場で、生演奏があり、テーマに沿ったカクテルが出て、事件が芝居がかった語りで再現される。チャリティの「ファントム・ボール」という舞踏会も長年続いている。幽霊ツアーの定番コースにもなっている。

事件は、この町の産業になった。

ネット時代の考察者たちが掘り返したもの

インターネットがこの事件に対してやったことは、二つある。ひとつは事実の再検証。もうひとつは神話の増殖だ。両方が同時に進んでいる。

まず事実側。二〇二〇年二月、FBIが自らの電子閲覧室にこの事件の記録を千百ページ以上公開した。内容は省内のメモ、各法執行機関とのやりとり、新聞の切り抜き、証拠品の写真、指紋の記録、現場地図、容疑者リストなど。年代は一九四六年から一九四九年に及ぶ。これによって、それまで専門家しか触れなかった一次資料に、誰でもアクセスできるようになった。

もっとも、この公開で事件が解決に近づいたわけではない。作家ジェイムズ・プレスリーはこの公開について、大半はすでに閲覧可能だったものだろうと述べつつ、資料が散逸し、関係者の記憶が薄れ、当事者が世を去っていく前に整理して公開したことには大きな意味がある、と評価した。実際、その通りだと思う。この事件の資料の多くはすでに失われている。地元の捜査記録の相当部分が行方不明になっているのだ。八十年前の事件の一次資料が、いま初めて世界中の素人の目にさらされている。

ネット上の考察で、いま比較的支持を集めている論点をいくつか挙げておく。

最大の論点は、スタークス事件を同一犯とみなすべきかどうか、だ。これは当時から専門家が割れていた。理由は明確で、まず凶器が違う。前三件は三十二口径のコルト・オートマチック拳銃。スタークス事件は二十二口径の半自動ライフルだ。つぎに被害者の属性が違う。前三件は車内の若いカップル。スタークス夫妻は三十代後半の中年で、自宅にいた。そして手口が違う。前三件は接近して支配し、屋外で行われた。スタークス事件は距離を取った狙撃だ。ミラー郡保安官W・E・デイビスは当時から口径の違いを指摘していたし、ティルマン・ジョンソンは後年、あれはスタークス事件はやっていないと思う、あれを結びつけるのは難しい、とはっきり述べている。一九四八年の時点で、当局はもうスタークス事件を連続殺人と同一線上には置いていなかった。

これに対する反論も強い。犯人が学習して手口を変えたという説明はごく自然だ。町中の若者が銃を持ってラバーズ・レーンを見張っている状況で、同じ手口を続けるほうがどうかしている。武器を変えたのは、家の外から窓越しに撃つという新しい方式に合わせただけだと考えれば筋が通る。そもそも三月と四月のあいだにも手口の変化はあった。二月の第一件では犯人は誰も殺していないのだ。この犯人は最初から一貫していたわけではない。

第二の論点は、犯人が地元の人間だったかどうか。ラパラ博士の分析は、犯人は地理を熟知しているが必ずしも地元住民とは限らない、と述べた。これはいまも議論が続いている。ラバーズ・レーンの位置、逃走経路、遺体の遺棄場所――どれも土地勘のある人間の動きに見える。一方で、犯行が四月から五月で唐突に止まったことは、犯人が土地を離れたか、収監されたか、死んだかのいずれかを示唆する。

第三の論点は、他の連続殺人犯との接続だ。この手の未解決事件には必ずこれが起きる。テキサーカナの犯人がのちのゾディアック事件の犯人と同一人物だという説は、ネット上でしぶとく生き残っている。若いカップルを狙う、車を狙う、覆面をする、といった表面的な一致は確かにある。だが年代差は二十年以上あり、地理的にも隔たり、そして何より一九四六年の犯人は暗号や手紙を一切送っていない。ゾディアックのアイデンティティの核はメディアへの手紙にある。この点だけで、この接続説はかなり無理がある。

第四に、科学的解決の可能性。これについての現在の評価はきわめて悲観的だ。現代のDNA解析に使えるような物的証拠は、事実上残っていない。当時採取された生物学的試料は保存されていないし、押収品の多くも所在不明だ。今後この事件が正式に解決される確率は、限りなくゼロに近い。系図学的DNA捜査で四十年前の事件が次々に解決されている時代にあって、テキサーカナだけは永久に手が届かない場所にある。

この事件が、いまも異様に怖い理由

八十年前の事件だ。犯人はもう死んでいる。被害者も生存者も全員この世にいない。それなのに、この事件の資料を読んでいると、いまだに背中がひやりとする。なぜか。

ひとつは、犯人が「何者でもなかった」からだと思う。

近代の有名な連続殺人犯には、たいてい人格がある。名乗る。手紙を書く。裁判で語る。捕まってからの顔写真がある。彼らは怪物であると同時に、限りなく人間として消費される。ところがテキサーカナの犯人には、それが一切ない。名前がない。顔がない。声の記憶がひとつ残っているだけだ。動機の説明もない。逮捕もない。裁判もない。最後の一発を撃って、五月三日の夜に闇へ歩いていって、それきり歴史から消えた。

人間は、輪郭のあるものより輪郭のないもののほうを怖がる。この犯人は、最初から最後まで輪郭がなかった。

ふたつめは、「誰でもよかった」という事実だ。

被害者たちに共通点はほとんどない。復員兵の大工、兵器廠で働く十七歳、キルゴアから帰省した高校生、吹奏楽部のサックス奏者、農場主とその妻。年齢は十五歳から三十七歳まで散っている。犯人と被害者のあいだに個人的な関係を示す証拠は、一件も出ていない。彼らは、たまたまそこにいた。

これがこの事件の恐怖の中核だ。標的にならないための方法が存在しない。悪いことをしなければいい、というルールが効かない。夜に外に出なければいい、というルールも五月三日に破られた。スタークス夫妻は自宅の居間にいたのだ。鍵をかけて、家にいて、ラジオを聴いていて、それでも殺された。

だからこそ町は錠前を買い占め、窓に釘を打ち、シーツを打ち付けた。あれは非合理なパニックではない。犯人が「屋内でも殺せる」ことを証明した直後の、極めて合理的な反応だった。合理的に対応しても防げないという確信が、四万人の頭に同時に入った瞬間の記録が、あの品切れの棚なのだ。

みっつめは、犯人が「賢かった」ことだ。

ゴンザウラス隊長は犯人をこう評した。自分の正体を隠すためにあらゆる手を尽くした狡猾な犯罪者であり、逮捕を避けるためにどこまでもやる抜け目のない人間だ、と。ボウイ郡保安官ビル・プレスリーの評はもっと苦い。あいつは俺が知る中でいちばん運のいい人間だ。誰も姿を見ない、間に合ううちに音を聞く者もいない、誰も面通しができない、と。

三週間ごとという間隔。町の外れという立地。覆面。生存者に顔を見せない照明の使い方。逃走用の盗難車。凶器の処分。すべてが計算されている。この犯人は自分が何をしているか正確に理解していた。そして、やめるタイミングまで理解していた。

よっつめは、記録の欠落そのものだ。

司法解剖されなかった遺体。踏み荒らされた現場。雨に流された足跡。指紋の出なかった懐中電灯。行方不明になった捜査ファイル。撤回された自白。証言できなかった妻。売り払われて消えた拳銃。この事件は、真相にたどり着くための道が、片っ端から塞がっている。しかもその塞ぎ方が、悪意ではなく無能や不運や制度の穴によるものだから、いっそう救いがない。

そして最後に、この事件は「終わり方」を持っていない。

犯人が捕まった事件には結末がある。犯人が自殺した事件にも一応の結末がある。この事件にはそれがない。五月三日の夜、犯人はスタークス家の窓の下から立ち去った。そして何も起きなくなった。物語が終わったのではない。ただ、続きが来なくなっただけだ。

だからテキサーカナの人々は、毎年十月に公園に集まる。終わらない話には、人工的な終わりを与えてやるしかない。エンドロールという終わりを。日没を恐れた町が、日没に映画を見るという儀式で、八十年前の続きを毎年打ち切っている。

そう考えると、あの上映会はちょっと感動的でさえある。ぞっとするけれど。

十週間という時間を、もう一度測り直してみる

ここからは、記事本体では流れの都合で切り落とした部分を、もう少し腰を据えて掘る。数字の裏、当時の空気、この事件が現代の怪異譚として機能している構造、そして私がこの事件をどう考えているかまで書く。

十週間という時間の圧縮を、実感として測り直す

まず、時間の話を丁寧にやり直したい。この事件は「一九四六年の連続殺人」と一括りにされがちだが、実際には驚くほど短期間に圧縮されている。

二月二十二日にホリスとレアリーが襲われた。三月二十三日の深夜から二十四日の未明にグリフィンとムーアが殺された。四月十二日の深夜から十四日の未明にマーティンとブッカーが殺された。五月三日の夜にスタークス夫妻が撃たれた。

第一件から最終件まで、七十日。ちょうど十週間だ。

そして間隔を見ると、第一件から第二件まで二十九日。第二件から第三件まで二十一日。第三件から第四件まで十九日。短くなっている。これが当時の捜査陣を追い詰めた。犯行が加速しているのだ。次はもっと早く来る。実際、ゴンザウラス隊長が三週間周期を割り出して罠を張ったのは、この加速を止められるかどうかの勝負だった。

だが本当に恐ろしいのは、第四件のあとだ。次はさらに短い間隔で来るはずだった。五月の下旬には次が来る。町は五月いっぱい、ほとんど眠らずに待った。そして来なかった。

この「来なかった」という体験は、被害と同じくらい町を消耗させたと思う。恐怖の解除には手続きが必要だ。犯人が捕まる、あるいは死ぬ。どちらも起きなかった。ただ何も起きない日が積み重なっていった。三週間何もない。四週間。六週間。人は徐々に緊張を解いていくが、それは安心とは違う。いつまた始まるかわからない、という留保つきの弛緩だ。当時の記録では、三か月ほどで町の恐怖は目に見えて薄れたとされている。三週間何も起きないという事実が、じわじわと日常を戻していった。

だが完全には戻らなかった。それがこの町の八十年である。

数字を並べて見えてくるもの

懸賞金の推移を追うと、町の恐怖の温度がそのまま出る。

三月三十日、グリフィンとムーアの事件を受けて五百ドル。現代価値で八千ドル程度。これは「痛ましい事件だ、犯人を捕まえよう」という水準の金額だ。

四月十四日のマーティンとブッカー殺害の数日後、千七百ドル。現代価値で二万七千ドル強。三倍以上に跳ね上がっている。子供が殺されたからだ。

そして五月三日のスタークス事件の夜、七千二十五ドル。現代価値で十一万ドル超。前回の四倍以上である。

その後の十日間で一万ドルを突破した。現代価値十六万ドル。

つまり町の恐怖は、二か月間で二十倍になっている。しかもこの金は、市が出したのではなく、大半が住民と商店主のカンパで集まったものだ。四万人の町が、二か月で自主的にこれだけ積んだ。恐怖の総量を通貨で測った記録として、これはかなり生々しい。

そして皮肉なことに、この金が捜査を助けた形跡はまったくない。五百ドルの段階で百件を超える誤情報が発生し、それが一万ドルになったときに何が起きたかは想像がつく。捜査陣の時間は、ほとんど電話の応対と裏取りに溶けた。金額と情報の質は反比例する。これは現代のネット懸賞金でもまったく同じ現象が起きるので、八十年たっても人間は進歩していないということでもある。

投入された人員も見ておこう。五月五日時点で四十七人が専従。五月九日にはアーカンソー州警察の二十人と無線搭載車十台が加わる。関与した組織は八つ以上。調べられた容疑者はおよそ四百人。事情聴取された人数は、グリフィンとムーアの件だけで二百人超。虚偽自白は九件。

これは一九四六年の地方警察としては、ほぼ限界に近い動員である。手を抜いたから解決しなかったのではない。全力でやって、届かなかった。ここが重要だ。

犯人像を、当時と現在から二重に見る

一九四六年当時、テキサーカナの連邦刑務所に勤務していた心理学者アンソニー・ラパラ博士が、この犯人についての人物像を組み立てている。これは現在のプロファイリングの原型のような仕事で、当時としてはかなり先進的だった。

彼の見立てはこうだ。犯人は五件すべてを行った一人の人物である。年齢は三十代半ばから五十歳。動機は強い性的衝動とサディズム。知能は高く、狡猾で抜け目がない。道路での犯行が難しくなったので、今後は農家を狙うようになる。普段は普通の生活を送っており、退役軍人である可能性は低い。地理を熟知しているが、必ずしも地元住民とは限らない。単独で動き、誰にも話さない。そして――この部分が予言的なのだが――犯行地域を移すか、あるいは襲いたい衝動そのものを自力で抑え込む可能性がある、と述べている。

年齢の推定は外れている可能性が高い。だが「農家を狙う」という予測は、スタークス事件の前に出されていたなら不気味なほど的中しているし、「衝動を抑え込んで犯行をやめる」という予測は、実際に起きたことの説明としてもっとも無理がない仮説のひとつだ。

現代の目で見直すと、この犯人の行動にはいくつか特徴的なパターンがある。

まず、支配欲の強さ。第一件で犯人は誰も殺していない。殴って、暴行して、逃げた。殺すことが目的なら、その場でできた。彼が求めていたのは即死ではなく、恐怖と支配の時間だ。

つぎに、儀式的な整えの痕跡。ベティ・ジョー・ブッカーの遺体は、コートのボタンが首まで留められ、右手がポケットに入れられていた。これは犯人が現場を離れる前に、遺体に対して何らかの操作をしたことを意味する。犯行後に現場に留まる時間を持つ犯人だ。これは自信の表れであり、危険の見積もりが正確だということでもある。

そして、学習と適応。手口は毎回変わっている。第一件は殴打と暴行。第二件は車内での射殺。第三件は追跡して射殺し、二人の遺体を数キロ離れた場所に分散させ、車を別の場所に移動させた。第四件は窓越しの狙撃。エスカレートしているだけでなく、リスク管理が毎回洗練されている。第三件で車を移動させたのは、発見を遅らせるためだ。実際、ベティ・ジョーの遺体が見つかるまでに丸半日かかっている。

最後に、終わり方。この犯人は、追われて逃げたのではない。自分でやめた。あるいはやめざるをえない状況になった。もし逮捕されたなら、それは別件でだ。もし死んだなら、誰も気づいていない。もし移動したなら、他の州の未解決事件のどこかに紛れている。

私が個人的に不気味だと思うのは、三つ目の可能性だ。この犯人が別の町で続けたなら、一九四六年の全米には、テキサーカナと結びつけられていない未解決事件がいくらでもある。当時は州をまたいだ犯罪情報の共有システムがなかった。テレタイプがボウイ郡に入ったのが五月十一日だという事実は、逆に言えばそれまでは存在しなかったということだ。連続殺人犯にとって、一九四六年のアメリカは移動するだけで別人になれる国だった。

スウィニー説を、いちばんフェアに評価する

ユーエル・スウィニーについては、記事本体で状況証拠を並べたが、ここではもう少し公平にやりたい。彼は有罪判決を受けていない。この事件で有罪判決を受けた人間は一人もいない。だから彼を犯人と断じることは、事実としても倫理としてもできない。そのうえで、証拠の重みを検討する。

彼に不利な材料の中で、いちばん重いのはペギーの三度目の供述だ。ポール・マーティンの手帳が茂みに投げ捨てられていたという情報は、報道されていなかった。それを彼女が正確に述べた。この「秘密の暴露」は、犯罪捜査において強力な証拠とされる。彼女が現場にいた、あるいは現場にいた人間から直接聞いたということになる。

つぎに重いのが、逮捕時の彼自身の言葉だ。車泥棒以上のことで俺を捕まえたいんだろう。電気椅子に送られるのか。当時、彼が問われていたのは自動車窃盗だけだった。なぜ死刑の話が出てくるのか。

三番目が、盗難車のパターンだ。四件すべての夜に車の盗難があり、事後に乗り捨てられていた。これはマックス・タケットという一人の刑事の、地味だが優れた観察の産物である。

四番目が、犯行の停止だ。一九四六年七月の逮捕以降、テキサーカナ周辺でこの種の襲撃はぱたりと止んだ。

だが、彼に有利な材料も真剣に見なければ不公平だ。

第一に、物証がない。凶器は照合されていない。指紋は一致していない。生物学的証拠はそもそも当時扱えない。作業シャツの「S-T-A-R-K」というクリーニングマークとスラグの一致は不気味だが、決定打にはならない。溶接場に出入りする理由のある人間は他にもいた。

第二に、彼は一度も自白していない。四十八年間、否認し続けた。しかも彼には自白する動機が存在した時期もある。終身刑を食らって二十六年入っていたのだ。取引の材料として自白する選択肢はあった。それをしなかった。

第三に、証言者の信頼性。ペギーは供述を三回変え、最終的に全部を撤回した。彼女は当時二十一歳、夫は逮捕された車泥棒、自分も盗難車の絡みで身柄を取られている状況で、長時間の取り調べを受けている。この条件下の供述の危うさは、現代の冤罪研究がさんざん明らかにしてきたところだ。秘密の暴露についても、取り調べの過程で捜査官が無意識に情報を漏らした可能性を完全には排除できない。

第四に、アリバイの可能性。ブッカーとマーティンが殺された夜、警官がサンアントニオ近郊の橋の下で車中泊しているスウィニー夫妻を見つけた、という記録がある。この記録の日付をどう解釈するかで結論が変わる。

第五に、スタークス事件との不整合。凶器が違う。ティルマン・ジョンソン自身が、スウィニーとスタークス事件を結びつけるのは難しいと述べている。彼を犯人とするなら、スタークス事件は別人の犯行と考えるか、彼が武器を替えたと考えるしかない。

私の見立てを書くと、スウィニーが少なくともいずれかの事件に関与していた可能性は、決して低くないと思う。逮捕時の発言と、ペギーの手帳の証言と、盗難車のパターンが同時に偶然である確率は、直感的にはかなり小さい。だが「関与していた可能性が高い」と「犯人である」のあいだには、法治国家が越えてはいけない線が引かれている。その線を守った結果としてこの事件が未解決のままであるなら、それは司法の失敗であると同時に、司法が正しく機能した証でもある。気持ちの悪い両立だが、そういうものだ。

そして、忘れてはいけないことがある。彼が犯人でなかった場合、彼は自分がやっていない事件の疑いを八十年近く背負い続けている人物だということになる。この記事を含め、彼の名前は今後も繰り返し書かれる。未解決事件の「最有力容疑者」という肩書は、死んでも剥がれない。

事件が民話になっていく過程を観察する

この記事でいちばん面白いと思っているのは、実は犯人の正体ではない。事件が民話に変わっていく過程だ。

テキサーカナでは、その変換が三段階で起きた。

第一段階は、一九四六年の新聞だ。「ファントム」という名前がついた瞬間、この事件は現実の犯罪から半分だけ離陸した。名前をつけるというのは、対象に人格を与える行為だ。名もない暴力は処理しづらいが、名前のついた怪物は物語の中に置ける。ガゼット紙の編集主幹J・Q・マハフィーが後年、自分たちがヒステリーの生成に大きく加担したと認めたのは、この機能を理解していたからだろう。

第二段階は、一九七六年の映画だ。ここで事件は視覚的な形を与えられた。麻袋の覆面。存在しなかったトロンボーンの殺人。ドキュメンタリー調のナレーション。この映画は「これは実話だ」という顔をしながら大量の創作を混ぜたので、以後、事実と創作を分離することが極めて難しくなった。実際、現在ネット上でこの事件について語られる内容には、映画由来の要素が頻繁に混入している。犯人が麻袋をかぶっていた、という記述はその代表だ。実際の証言は白い枕カバー状の布である。

第三段階は、二〇〇三年から続く公園での上映だ。ここで事件は年中行事になった。年に一度、決まった時期に、決まった場所で、共同体が集まって共有する。これは民俗学的にはもう完全に祭祀の形式だ。しかも上映場所が実際の事件現場の公園だという点で、慰霊祭としての性格すら帯びている。誰も慰霊だとは言っていないが、構造はそうなっている。

さらに現在は第四段階に入っている。観光化だ。テーマに沿ったカクテルの出る体験型イベント、チャリティの舞踏会、幽霊ツアー。事件は商品になった。

この四段階を、私はまったく批判する気になれない。むしろ、共同体が巨大な傷を処理する方法として、これは相当に健全ではないかとすら思う。忘れるでもなく、黙って抱え込むでもなく、毎年出してきて、みんなで見て、笑ったり怖がったりして、また片づける。傷を年中行事にするというのは、たぶん人類が何千年もやってきたことだ。

ただし、この処理には代償がある。ベティ・ジョー・ブッカーという十五歳の少女が、アルトサックスを吹く実在の人物ではなく、映画の中の若い犠牲者の記号になっていく。ポリー・アン・ムーアの遺族が一九七〇年代に訴訟を起こしたのは、まさにこの代償に対する抗議だった。彼らは負けたが、彼らの言い分は正しかったと思う。

だから、この記事では被害者の名前をできるだけ繰り返し書いた。ジミー・ホリス。メアリー・ジーン・レアリー。リチャード・グリフィン。ポリー・アン・ムーア。ポール・マーティン。ベティ・ジョー・ブッカー。バージル・スタークス。ケイティ・スタークス。八人だ。八人いた。ファントムという名前は犯人のものであって、この八人のものではない。

「なぜ捕まらなかったのか」への、もうひとつの答え

制度と技術の話は本体で書いた。ここでは、もう少し身も蓋もない話をする。

この犯人が捕まらなかった最大の理由は、たぶん、この犯人が誰にも喋らなかったからだ。

未解決の連続殺人が解決するとき、決め手になるのはたいてい人間関係だ。共犯者が売る。恋人が通報する。家族が気づく。酒場で自慢する。刑務所で喋る。現代の系図学的DNA捜査ですら、結局は「親族との関係」を突いている。

テキサーカナの犯人には、それがなかった。少なくとも記録に残る形では。

四百人が調べられ、九件の虚偽自白が出た。町中の人間が疑心暗鬼になり、隣人を通報した。それでも本物の犯人は一度も浮かんでこなかった。ということは、この人物は自分のやったことを誰にも話していないか、話した相手が誰にも伝えなかったかのどちらかだ。

ラパラ博士の分析にあった「単独で動き、誰にも話さない」という一行は、たぶんこの事件の本質を突いている。

そしてこれが、この事件をいまも怖くしている最後の要素だ。この犯人は、自分の行為を誰とも共有する必要がなかった。承認も、名声も、恐怖の伝播すらも要らなかった。ゾディアックは手紙を書いた。書かずにいられなかった。テキサーカナの犯人は何も書かなかった。四回の襲撃を実行して、五人殺して、そのまま日常に戻って、たぶん何十年か普通に生きて、普通に死んだ。

誰かの父親として。誰かの隣人として。町のどこかの椅子で、ラジオを聴きながら。

その想像がいちばん怖い。

この事件が現代に投げてくるもの

最後に、少しだけ現代の話をして終わりたい。

一九四六年のテキサーカナで起きたことは、恐怖が共同体をどう変形させるかの、ほぼ完璧な標本になっている。

まず、情報の暴走。新聞が毎日書き、金額が上がり、噂が噂を呼び、四百人が疑われ、無実の人間が拘束され、既婚女性のところへ通っていただけの男がポリグラフに落ちた。ゴンザウラス隊長は四月十八日に記者会見を開いて、犯人逮捕の噂は捜査の妨げであり、無実の人々を傷つけるものだと言わざるをえなかった。ガゼット紙自身も三月二十七日の社説で、噂を広めるなと書いている。あなたが話した相手は、それを繰り返し、しかも尾ひれをつけるだろう、と。

これ、そのまま現代のSNSの話だ。八十年前の地方紙が書いた警告が、いまだに有効なままなのは笑えない。

つぎに、自衛の暴走。銃と斧が売り切れ、市民が武装し、警官が自分の身を守るためにサイレンを鳴らして接近しなければならなくなった。高校生がカーチェイスをやって撃たれかけた。少女が保安官補に拳銃を向けた。恐怖に対する自衛が、恐怖そのものより危険な状態を作り出すところまでいった。

そして、記憶の変形。事実は映画になり、映画は年中行事になり、年中行事は観光になった。この過程で失われたものと、救われたものが、両方ある。

私はこの事件を調べていて、何度も同じ場面に戻ってしまう。搬送中の車の中で、顔を撃たれたケイティ・スタークスが、砕けた自分の金歯を運転手に握らせる場面だ。

あの瞬間の彼女は、恐怖の物語の登場人物ではない。ただの、礼儀正しい三十六歳の農家の妻だ。夫を殺され、顔を吹き飛ばされ、それでも助けてくれた隣人に何かを渡そうとした。

ファントムだの月光殺人だの、いろんな名前がついた。映画になり、続編が作られ、毎年公園で上映され、カクテルの名前にまでなった。だがこの事件の中心にあるのは、名前のない暴力に踏み潰された八人の、ごく普通の人生だ。

犯人は消えた。証拠も消えた。記録の大半も消えた。もうこの事件が解決することはない。

それでも、その八人がそこにいたという事実だけは消えない。テキサーカナが毎年十月に公園に集まるのは、たぶん、そのためでもある。

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