## 昭和十三年五月二十一日、午前一時四十分の闇
岡山県苫田郡西加茂村。いまの津山市加茂町行重にあたる山あいの一帯に、貝尾(かいお)と坂元というふたつの小さな集落があった。事件当時の貝尾は二十三世帯、住人は百十一人。田んぼと畑と、山の斜面に貼りつくように建った家。夜になれば真っ暗で、聞こえるのは沢の水音と虫の声くらい。そういう場所だ。
一九三八年五月二十一日、午前一時四十分ごろ。その静けさが破られた。二十二歳の青年が、およそ一時間半のあいだに十一軒の家に押し入り、三十人を殺した。即死が二十八人、重傷を負って後に亡くなった者が二人。重軽傷者が三人。死者のうち五人は十六歳未満で、いちばん幼い犠牲者は五歳だった。
数字だけ並べると現実味がない。でも貝尾は百十一人しか住んでいなかった集落なんだよな。つまり村人のおよそ四人にひとりが、一夜で殺されている。一家全滅した家が三軒。生き残りがひとりだけになった家が四軒。これは「大量殺人事件」という言葉で処理していい規模じゃない。ひとつの共同体が、夜のあいだに物理的に消えかけた出来事だ。
近代日本の司法史では、戦争行為を除いた犯罪としてこの犠牲者数は八十一年ものあいだ更新されなかった。司法省刑事局は翌一九三九年に「津山事件報告書」という公文書まで刊行している。国が一件の殺人事件のために報告書を作るというのが、当時の衝撃の大きさを物語っている。
## まず、村の灯りが消えた
事件が始まったのは、実は深夜ではない。五月二十日の夕方五時ごろ、犯人の都井睦雄は集落に電気を送っている送電線を切断している。この時点で貝尾は停電した。
これがえげつない。夜這いの風習が残る山村では、夜に人が出歩くこと自体は珍しくなかった。だから停電しても「どこかで線が切れたんだろう」で済んでしまう。誰も事件の前触れだとは思わない。実際、村人たちは行灯やランプを出して、いつも通り床についた。
しかも彼は、この停電が持つ意味を計算していた。暗ければ逃げにくい。暗ければ誰が誰だか分からない。そして何より、村人が明かりを持って動けば、その明かりが標的になる。彼だけが光源を持っている状態を、意図的に作り出したわけだ。
さらに彼は事件の数日前、隣町の駐在所まで自転車を走らせて時間を計っている。村から警官が駆けつけるまで何分かかるか、実測していたんだよな。この周到さが、この事件をただの逆上や発作的犯行から遠ざけている。彼は自分に与えられた時間の長さを、あらかじめ知っていた。
## 学生服にゲートル、そして頭の二本の光
語り継がれている理由の何割かは、正直、この出で立ちにある。詰襟の学生服。脚には軍用のゲートル。足元は地下足袋。頭には鉢巻を締めて、その両側に小型の懐中電灯を一本ずつ結わえつけていた。首からはナショナルのランプを提げていた。
想像してみてほしい。停電で真っ暗な山村。障子の向こうから、二本の光の筋がゆっくり近づいてくる。角が生えているようにも、目が光っているようにも見える。逃げ延びた人たちの証言に「鬼」「化け物」という言葉が混ざるのは、たぶん比喩ですらない。あの夜に見えたものは、本当にそう見えたんだと思う。
実用面でも理にかなっている。両手を武器に使いながら、視線の向いた方向を照らせる。ハンズフリーのヘッドライトだ。彼は狩猟免許を持っていて、山に籠もって射撃の練習を重ねていた。獣を撃つための技術と装備を、そのまま人間に向けたということになる。
服装についても意味を読む人が多い。学生服は、彼が病気で断念せざるを得なかった「まっとうな進路」の象徴でもある。ゲートルと地下足袋は、徴兵検査で丙種、つまり実質的な不合格を告げられた彼が着られなかった軍装の代わりだ。持てなかったものを身にまとって村を歩いた――そう読むのは深読みが過ぎるかもしれないが、この事件を考える人は大抵一度そこを通る。
## 最初の一撃が、育ての親だった理由
犯行の口火は、猟銃ではなかった。斧だった。そして最初の犠牲者は、彼を二歳のときから育てた祖母のいね(当時七十五歳)だ。
なぜ斧だったのか。定説はない。文春オンラインの連載では、銃声で村を起こしたくなかったからという説と、日本刀を先に使うと血糊で切れ味が落ちるのを嫌ったからという説が紹介されている。どちらも合理的だ。でも、それだけで説明がつくかというと、どうにも引っかかる。
遺書のなかで彼は、祖母についてだけ明確に後悔している。「二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど」。この一文が刺さる。彼は自分がこれから村を皆殺しにすることについては一切ためらっていないのに、祖母を手にかけることだけは「いけないこと」だと分かっていた。分かっていて、やった。
彼の理屈はおそらくこうだ。自分が村人を殺して死ねば、残された祖母は村中から憎まれ、老いた身ひとつで生きていけない。だから連れていく。歪みきった思いやりだが、本人の中では筋が通っている。この「筋が通ってしまっている」感じが、この事件の一番怖いところだと思う。彼は錯乱していない。設計している。
祖母を手にかけたあと、彼は家を出て、まず斜め向かいの家へ向かった。ここから一時間半が始まる。
## 一時間半、十一軒――逃げた者、助かった者
彼は十一軒に押し入った。全部を無差別に襲ったわけではない。むしろ選んでいる。
記録に残っているやりとりが、いちいちきつい。ある家の主人は「決して動かんから助けてくれ」と手をついて頼んだ。彼は一度は助けると口にした。それでも結局は撃った。別の家では、命乞いをした相手に「お前には恨みを持っていない」と告げて、そのまま素通りしている。かと思えば別の場所では「この世から埋める」と言い放って引き金を引いた。
助命と殺害の線引きが、その場の気分で揺れている。恨みのリストが頭の中にあったのは確かだが、リストの運用は最後まで一貫していない。血が上って手当たり次第になった瞬間もあれば、我に返って見逃した瞬間もある。この揺らぎが、逆にリアルなんだよな。
逃げ延びた人の証言も残っている。同級生だった女性は、後年のインタビューでこう語っている。「中の間から入ってきたんで、奥の間から飛び出た。本家へ逃げて戸をトントンやったら、おじさんが入れてくれた。畳の下にむしろを敷いて隠れたんじゃあ」。畳を上げて、その下にむしろを敷いて身を伏せる。夜通し息を殺していたわけだ。
近隣の坂元集落にも彼は足を延ばしている。貝尾だけで完結しなかったのが、この事件の範囲の広さを示している。彼が村を離れたのは午前三時過ぎ。警官が現場に到達したときには、もう誰もいなかった。駐在所までの時間を計った成果が、そのまま出た形になる。
## 「うんと勉強して偉くなれよ」――峠へ向かう男
犯行を終えたあと、彼は隣の集落の家を訪ねている。目的は、遺書を書くための鉛筆と紙を借りることだった。
この場面がとにかく奇妙だ。三十人を殺した直後の男が、平然と戸を叩いて筆記具を借りにくる。しかもその家にいた子どもに向かって、「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。
この一言をどう読むかで、都井睦雄という人間の像がまるで変わる。皮肉と取ることもできる。自分は勉強ができたのに病気ですべてを失った、お前はそうなるなよ、という当てつけ。あるいは本心と取ることもできる。彼は尋常高等小学校で十段階評価のすべてが八以上、性格の記載も「勤勉親切」「正直」だった生徒だ。学ぶことへの敬意が、最後まで消えていなかったのかもしれない。
彼はそこから三・五キロほど離れた荒坂峠の山頂、地元で「仙の城」と呼ばれる場所へ登った。夜が明ける手前の山道を、懐中電灯を頭に巻いたまま歩いていったことになる。峠で最後の遺書を書き足し、猟銃で自分の心臓を撃ち抜いた。
遺体は翌朝の山狩りで発見された。被疑者死亡につき不起訴。裁判は開かれず、彼の口から動機が語られる機会も永遠に失われた。残ったのは三通の遺書だけだ。
## 生き残りが七十年黙っていたこと
証言のなかでいちばん重いのは、たぶん被害者側の沈黙のほうだ。
現代ビジネスに載った取材記事では、家族を失った生き残りの女性が三時間にわたって語っている。彼女は最初にこう漏らしている。「わたしは誰にも話してないんじゃあ。なさけないで、なさけないで。親が殺されて、兄弟が殺されて…」。
七十年以上、誰にも話していない。話せなかった。これがこの事件の被害の本体だと思う。三十人という数字は一晩で確定するけれど、生き残った人たちの時間は、そこから何十年も続いていく。
しかも彼女は、事件前に彼から自宅へ呼び出され、身体を押さえられた経験があったと明かしている。それでも彼女は、彼についてこう推測している。「みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」。加害者への理解と、消えない恐怖と、家族を奪われた怒りが、同じ人の中に同居している。整理なんかできるわけがない。
もうひとつ、加害者側の親族の証言もある。彼の従兄弟と結婚し、彼の墓を守ることになった女性の話だ。事件当時は子どもで、ただ怖い存在としか思っていなかった。でも嫁いだ先で彼を取り巻いていた事情――村八分に近いいじめの実態を知るうちに、彼を「むっちゃん」と呼ぶようになったという。呼び方が変わるまでに何十年かかったのか、想像すると重い。
三つ目は、事件直後に現場を検分した検事の記録だ。彼の家についてこう書き残している。「構えだけは大きく立派であるが、古色蒼然かつ相当荒廃しているばかりでなく、屋内はなはだ暗く文字通り鬼気迫るの感ある家」。かつては大きな家だった。いまは荒れて、暗い。彼の人生の要約みたいな一文だ。
## 優等生だった少年は、どこで壊れたのか
都井睦雄は一九一七年三月五日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見の生まれ。人生の出だしから、すでに詰んでいる。
一九一八年から翌年にかけて、両親と祖父が肺結核で相次いで死んだ。当時、結核は「業病」扱いだ。感染源の家として村から線を引かれる。彼の家は家督相続を拒まれ、六歳で祖母の生まれ故郷である貝尾へ移った。よそから来た、結核の家の子。この属性がその後ずっと彼につきまとう。
学校では優秀だった。成績はオール八以上。性格評価も上々。実業補習学校にも進んでいる。ここまでなら、村を出て身を立てる道もありえた。
それを潰したのが、本人の病気だ。尋常高等小学校を出た直後に肋膜炎を患い、農作業を禁じられる。山村で農作業ができないというのは、経済的にも社会的にも致命的だ。彼は働けない。稼げない。村の共同作業にも入れない。そのまま家に引きこもり、同年代との交わりが途絶えていく。
家の経済も傾いていた。事件前の時点で六百円の借金を抱え、屋敷や土地のほとんどが抵当に入っていた。事件後、家は五十円で売られ、同年十一月二十五日に建物は全て取り壊されている。それでも借金は残り、彼の姉たちが引き受けたという。
優秀な少年が、病気ひとつで社会的に「いないもの」にされていく。そのプロセスが十年近く続いた。彼が異常だったのか、彼を締め出した仕組みが異常だったのか。この事件の議論は、いつもここで割れる。
## 丙種合格――紙一枚で決まった村八分
決定打は一九三七年五月の徴兵検査だった。結核を理由に丙種。名目は合格だが、実質は不合格。兵隊に行けない。
現代の感覚だと「行かずに済んでよかったじゃないか」と思うかもしれない。当時は真逆だ。徴兵検査は村の一大行事で、結果は公然と共有される。甲種合格なら村の誇り、丙種なら「役に立たない体」の烙印。しかも結核由来の丙種は、感染を恐れる目線とセットになる。
この判定を境に、彼への村の態度が明確に変わったと言われている。それまで関係を持っていた女性たちが次々と離れ、拒絶されるようになった。彼が遺書で並べ立てた恨み言の多くは、この時期以降の出来事に集中している。
さらに事件の前年、彼は自分でも決定的にまずいことをしている。病気の祖母のために薬を味噌汁に混ぜて飲ませようとしたところを人に見られ、祖母自身が「毒殺されようとしている」と訴えた。結果、家宅捜索が入り、猟銃一式、日本刀、短刀、匕首がすべて押収され、銃の所持許可も取り消された。
本人としては介護のつもりだったのに、毒殺犯扱いされて武器を没収された。村における彼の評判は、ここで完全に地に落ちる。それでも彼は諦めず、知人を介した購入や刀剣愛好家からの譲り受けで、再び刃物と銃を揃えていった。この執念が一年後の夜につながる。
引き金になったのは、かつて関係のあった女性が、嫁ぎ先から五月二十一日に里帰りしてくるという情報だったとされる。遺書にも、その来訪が理由だと明記されている。数年分の鬱屈が、たまたまその日に着火した形だ。
## 夜這いという習俗を、外の物差しで測るな
この事件を語るとき、必ず出てくるのが「夜這い」だ。ここは慎重に扱いたい。
当時の山村には、女性の寝所に鍵をかけず、夜になると男が忍んでいくという習俗が実際に残っていた。文春オンラインの取材でも、地元の人が「一種の文化だったわけよ」と語っている。独身者だけでなく既婚の男女も参加していたし、昼間に人目のつかない場所で会うこともあった。
これを現代の倫理観で「乱れていた」と断じるのは、たぶん筋が悪い。閉じた共同体で、限られた人数の中で、婚姻と生殖を回していくための一種の社会装置だったという見方もある。良いか悪いかではなく、そういう仕組みが機能していた場所だった、というだけの話だ。
ただ、この仕組みには前提がある。共同体のメンバーとして認められていること。だからこそ、そこから外された人間にとっては地獄になる。彼はかつてはこの輪の中にいた。集落の複数の女性と関係があったと記録されている。それが徴兵検査以降、一斉に切られた。
入れていた場所から、ある日を境に締め出される。しかも締め出す理由が「病気」という、本人にどうしようもないもの。彼の恨みが女性たちに集中していったのは、彼が女性を憎んでいたからというより、彼にとって共同体への帰属を測る唯一のバロメーターがそこだったからだ、という読みがある。個人的にはこれがいちばん腑に落ちる。
ただし、だから仕方なかったという話には絶対にならない。彼が殺したのは自分を拒んだ女性だけじゃない。子どももいた。老人もいた。関係のない家族もまとめて撃たれている。動機の理解と行為の正当化は、まったく別の話だ。
## 遺書に残された、身勝手で、切実な言葉
彼は三通の遺書を残した。犯行前に書いたものと、峠で書き足したものがある。分量も多く、文章もしっかりしている。学業優秀だった片鱗が、こんなところで出てしまう。
中身は矛盾だらけだ。祖母への深い後悔。村の金持ちや密猟者への激烈な憎悪。自分を拒んだ女性たちへの名指しの恨み。そして社会全体への嘆き。「病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた」。誤字も含めて、そのまま残っている。
最後のほうにはこうある。「今度は強い強い人に生まれてこよう、今度は幸福に生まれてこよう」。三十人を殺した男が、来世の幸福を願っている。読んでいて、やりきれない気持ちになる。彼が最後まで欲しかったのは、健康な体と、村の中の居場所と、誰かに受け入れられることだけだったように読める。それだけのために三十人が死んだ。
注意しておきたいのは、この遺書が一次資料として強力すぎることだ。動機を語る唯一の当人の声だから、みんなこれに頼る。でも遺書というのは、書いた本人が自分を正当化するために書いたものでもある。事実の記録ではなく、彼が信じていた物語なんだよな。村がどれだけ彼に冷たかったかは、彼の主観でしか分からない。ここを混同すると、簡単に加害者の視点に飲み込まれる。
## 「本当の動機は別にある」――いくつもの異説
この事件には、定説の周りにいくつも異説がまとわりついている。ひとつずつ見ておく。
まず「結核差別が主因」説。両親と祖父を結核で失い、本人も肋膜炎で農作業を禁じられ、徴兵検査で丙種。すべての不遇が病気に紐づいている。事件をひとりの狂気ではなく、当時の感染症差別が生んだ社会的災害として読む立場だ。説得力はある。ただ、同じ差別を受けた人が全員三十人を殺すわけではない、という反論も当然ある。
次に「痴情のもつれ主因」説。遺書で名指しされた女性の里帰りが直接の引き金になっているのは事実だし、被害者に彼と関係のあった女性やその家族が多く含まれているのも事実だ。ただこの説だけでは、無関係な子どもや老人まで撃った説明がつかない。
三つ目に「祖母殺害こそが本体」説。彼が最も長い時間を共に過ごし、最も強い感情を向けていたのは祖母だ。祖母への依存と憎悪が限界に達し、その延長で村ごと壊した、と読む。斧という凶器の選択に特別な意味を見出すのもこの立場だ。文春オンラインの連載でも、斧でなければならなかった別の理由があるのでは、と踏み込んでいる。
四つ目に「複数の要因が同時に臨界に達した」説。これがおそらく実務的にはいちばん妥当だ。病気、経済的破綻、性的な拒絶、武器の押収による面目の喪失、そして里帰りという偶然。どれか一本の線ではなく、束になって同じ日に切れた。
最後に、俗説としての「呪い」「祟り」説にも触れておく。事件現場となった集落の名や、峠の「仙の城」という響きに引きずられて、土地の因縁を語る言説がネット上にはある。ただ、これは事件の後に貼りつけられた物語であって、当時の記録に土地の因縁を示すものはない。むしろ、あまりに凄惨な出来事を理解可能な形に翻訳するために、後世が呼び出した装置だと思ったほうがいい。
## 『八つ墓村』が事件に上書きしたもの
横溝正史が一九四九年から五一年にかけて発表した『八つ墓村』。この事件をモチーフにしたと広く言われている作品だ。
正確に言うと、『八つ墓村』の中で津山事件そのものが再現されているわけではない。作中で描かれる「要蔵の乱心」の場面――頭に懐中電灯を巻き、日本刀と猟銃で村人を殺して回る男の姿――が、この事件の目撃証言をほぼそのまま取り込んでいる。物語の本筋は落ち武者伝説と遺産相続だ。
でも、多くの日本人にとって津山事件のイメージは、事件そのものではなく『八つ墓村』の映像から来ている。映画化・ドラマ化が繰り返され、あの姿は日本ホラーの定番イメージとして定着した。実在の事件が、フィクションの意匠として消費されるという逆転が起きたわけだ。
これは功罪ある。功のほうは、忘れられずに済んだこと。罪のほうは、事件が「怖い絵」として消費され、背景にあった差別や貧困や、三十人の死者と生き残った人たちの人生が、後ろに追いやられたこと。実際、現地を訪れる人の一部は『八つ墓村』のロケ地感覚で来る。集落の人からすれば、たまったものじゃない。
事件を扱った創作物はほかにも大量にある。小説、漫画、ゲーム、ネット怪談。そのたびに「懐中電灯二本」という視覚的アイコンだけが増殖していく。事件のうち、いちばん絵になる部分だけが生き残っているのが現状だ。
## 貝尾はいま、十三世帯三十七人
事件当時、貝尾は二十三世帯百十一人。二〇一〇年の国勢調査では十三世帯三十七人になっている。いわゆる限界集落だ。
この減少は事件だけが原因ではない。戦後の高度成長で山村から人が出ていくのは全国共通の現象だし、加茂町一帯も例外じゃない。ただ、事件直後の転出は明らかに事件由来だった。直接の被害を受けなかった世帯まで、いくつも村を出ている。あの夜に何が起きたかを知っている状態で、そこに住み続けるのはきつい。
加害者の親族筋にあたる一族は、ほとんど貝尾を離れた。しかもこの一族は、事件後に「企みを前々から知っていて隠していたのではないか」と疑われ、村八分に近い扱いを受けたとも伝えられている。村を壊した孤立が、事件のあとにもう一度、別の人たちに向けて再生産されたわけだ。この構造の反復が、一番きつい。
そして現在、事件当時から貝尾に住み続けている人は、もうひとりもいない。記憶を直接持つ人が土地からいなくなった。それでも家々は残り、廃屋も点在し、墓地だけがやたらと目につく。現地を訪ねたブログの記述には「秋空のした長閑な農村地域」とある。長閑なのだ、いまは。
問題は、そこを心霊スポット扱いする人がいることだ。同じブログの筆者は、はっきりこう書いている。「事件はもう過去のことです。ここを心霊スポットなどと言って騒ぎ立てるのは集落の方々の迷惑です」。恐怖度の評価も一つ星にしている。訪問者本人が、訪問を煽らないように書いている。この温度感が正しいと思う。
実際、現地には住民が普通に暮らしている。カメラを持ってうろつけば見咎められるし、犬にも吠えられる。当たり前だ。あそこは観光地でも廃墟でもなく、人の生活の場だ。
## なぜ僕らはこの事件から目を離せないのか
八十年以上前の、山あいの三十人。それがなぜ、いまだに繰り返し語られるのか。
ひとつは、絵として強すぎること。暗闇、二本の光、学生服、猟銃、そして峠での自決。物語の構成要素として完璧すぎる。フィクションが放っておくわけがない。
もうひとつは、動機が読めてしまうことだ。理解不能な怪物なら、怖いだけで済む。でも都井睦雄の来歴は、順を追って読むと一段ずつ理解できてしまう。病気になった。働けなくなった。差別された。孤立した。拒絶された。武器を取り上げられて面目を失った。ここまでは、程度の差こそあれ現代でも起きている話だ。理解できる道筋の先に、理解できない一夜がある。この落差が気持ち悪い。
三つ目は、共同体という装置の怖さだ。貝尾は特別に残酷な村だったわけじゃない。閉じた小さな集団が、異物と判定した個体を静かに押し出していく。その動きは、誰かひとりの悪意ではなく、全員の少しずつの距離の取り方でできている。だから誰も責任を感じない。この構造は、学校でも職場でもネットのコミュニティでも、いまも普通に動いている。
最後に、この事件には救いがひとつもない。犯人は裁かれる前に死んだ。真相は本人の主観で書かれた遺書にしか残っていない。生き残った人たちは何十年も黙るしかなかった。集落は縮んで、記憶を持つ人はいなくなった。物語としての結末が用意されていないから、僕らはいつまでも考え続けることになる。
怖い話として消費するのは簡単だ。でも、あの夜に殺された三十人にはそれぞれ名前と生活があって、生き残った人には七十年の沈黙があった。そこを忘れた瞬間、この事件はただの怪談になる。
ここからは総括と、本文に収まりきらなかった追加の考察をまとめておく。
まず、この事件を語るときに最も注意すべきなのは「資料の偏り」だ。事件から得られる一次資料は、圧倒的に加害者側に寄っている。三通の遺書、司法省刑事局の報告書、警察の検分記録。これらはいずれも「犯人がなぜやったのか」を知るために作られた資料だ。一方で、被害者三十人がどんな人たちだったのか、その日の昼まで何をしていたのかを詳細に記録した資料は、ほとんど残っていない。結果として、この事件を語れば語るほど、都井睦雄という個人の内面ばかりが立体的になり、殺された側は「三十人」という数字に圧縮されていく。これは記録の構造がもたらす歪みであって、彼が特別に興味深い人物だったからではない。語り手はこの偏りを自覚しておくべきだと思う。
次に、時代背景をもう少し広げておきたい。一九三八年は、前年に日中戦争が始まり、四月には国家総動員法が公布された年だ。国全体が総力戦体制に組み替えられていく途中で、健康な男性は兵として、女性と老人は銃後の労働力として動員されていく。この文脈で「丙種」という判定を受けることの意味は、単に軍隊に行けないというだけでは終わらない。国家が総動員をかけている最中に「あなたは動員の対象外です」と宣告されるということだ。共同体からの排除と、国家からの排除が同時に起きる。彼が学生服とゲートルという「本来なら着られたはずの装い」を選んだことに意味を読みたくなるのは、この二重の排除を知ってしまうからだろう。もちろん本人がそこまで意識していたかは分からない。ただ、時代の圧力が彼の孤立を何倍にも増幅させたのは間違いない。
結核という病気の位置づけも、いまとは全く違う。当時の日本で結核は死因の上位を占める国民病で、有効な治療薬はまだ普及していなかった。ストレプトマイシンが実用化されるのは戦後だ。つまり結核に罹るということは、治療の見込みがないまま、感染源として周囲から遠ざけられ、じわじわ死んでいく未来を宣告されるに等しい。彼の家は両親と祖父を続けて失っている。次は自分だという確信が、十代の彼の中にずっとあったはずだ。「どうせ死ぬ」という前提が人間の行動をどれだけ変えるかは、彼が事件の直前に見せた躊躇のなさに表れている。
派生説についても補足しておく。事件の背後に村ぐるみの隠蔽があったのではないか、警察や地元有力者が事実を伏せたのではないか、という説は昔からある。根拠として挙げられるのは、司法省の報告書に一部伏せ字や匿名化があること、そして事件の詳細が長らく地元でタブー視されてきたことだ。ただ、これは陰謀の証拠というより、被害者と生き残りのプライバシー保護と、地域社会が自壊しないための防衛反応と見るほうが自然だと思う。閉じた共同体で全員が加害者側の親族でもあり被害者側の親族でもある状況では、事実を全部並べることが誰の救いにもならない局面がある。沈黙は必ずしも隠蔽ではない。
もうひとつ、犯行時間についての細かい論点がある。「一時間半で三十人」という表現が広く流通しているが、記録によって一時間、一時間半、二時間弱と幅がある。現場は夜の山村で正確な時計を持っている人が少なく、生き残りの証言も混乱している。この種の数字は、事件の異常性を強調する方向に丸められやすい。「一夜で三十人」という事実の重さは変わらないが、分単位の再現を語るときは、それが後世の再構成であることを断っておくべきだろう。
ネットでの扱いについても書いておきたい。この事件は、いわゆる未解決事件・凶悪事件まとめ系のサイトや動画で定番のネタになっている。再生数が取れるからだ。そこでは決まって「懐中電灯二本」の絵が使われ、村の性風習が興味本位で強調され、最後に心霊スポット情報が添えられる。一方で、現地を実際に訪れた人ほど、訪問を勧めない文章を書いているのが印象的だ。行った人は、そこが今も人の住む集落だと知る。行っていない人ほど、廃村の心霊スポットだと思い込んで語る。この非対称は、ネット上の事件消費全般に言えることかもしれない。
最後に、この事件から引き出せる教訓めいたものを無理に作らないでおきたい。孤立は危険だとか、差別はいけないとか、そういう一般論に落とすと、途端に薄っぺらくなる。この事件が特異なのは、ひとりの人間が社会から締め出される過程が異様に丁寧に記録されてしまったことと、その先に取り返しのつかない一夜が続いたことだ。因果関係を単純化するのは危うい。ただ、締め出された人間が何を考えるかについて、これほど詳細な記録が残っている事例はほかにない。だからこの事件は、怪談としてではなく、記録として読まれ続けるべきだと思う。
三十人の死者と、三人の負傷者と、七十年黙り続けた生き残りがいた。数えられるのはそこまでで、その先にあった無数の時間は誰にも数えられない。貝尾はいま静かで、そこには人が普通に暮らしている。それだけは、忘れないでおきたい。
津山三十人殺し――懐中電灯を二本、頭に巻いた夜
