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ユナボマー――十七年逃げ切った男を落としたのは、たった一つの言い回しだった

十七年間、アメリカで最も探された男には顔がなかった。指紋も出ない。目撃者もほとんどいない。動機すら読めない。爆弾は大学の研究室に届き、航空会社の社長の家に届き、パソコン屋の駐車場に置かれ、そのたびに誰かの指が飛び、目が潰れ、そして三人が死んだ。FBIは百五十人規模の専従班を作り、二万件を超える通報を処理し、当時としては史上最高額の捜査費を注ぎ込んだ。それでも十七年、まったく届かなかった。
最後にこの男を落としたのは、鑑識でも張り込みでも潜入捜査でもない。三万五千語の論文の中に埋まっていた、たった一つの言い回しだった。しかもそれに気づいたのは捜査官ではなく、弟だった。
## 一九七八年五月、大学の郵便室で箱がひらいた
始まりはやけに間の抜けた事故のように見えた。一九七八年五月二十五日、イリノイ大学シカゴ校のキャンパスの駐車場に、宛先不明の小包が落ちていた。差出人の欄にはノースウェスタン大学の材料工学者バックリー・クリストの名前が書かれている。親切な誰かがそれを本人のところへ届けた。ところがクリストには心当たりがない。自分が出した覚えのない小包が、自分の名前を背負って戻ってきたのだ。気味が悪いので大学警察を呼んだ。呼ばれた警官テリー・マーカーが箱を開け、左手を負傷した。
この時点では、誰もこれを連続事件の一発目だとは思っていない。悪質ないたずら、せいぜい学内のトラブル。翌一九七九年五月九日、同じノースウェスタン大学の大学院生ジョン・ハリスが、置かれていた箱を開けて軽い火傷を負った。二件目でようやく「同一犯かもしれない」という話になる。それでも捜査の主体は地元警察で、規模も小さい。犯人はまだ、誰の頭の中にも像を結んでいなかった。
## 空を飛んだ小包――事件が国家案件に変わった日
流れが変わったのは一九七九年十一月十五日だ。シカゴからワシントンへ向かうアメリカン航空四四四便の貨物室で、郵便物が煙を噴いた。機内に煙が回り、旅客機はダレス空港へ緊急着陸した。十二人が煙の吸引で手当てを受けている。死者は出なかったが、これは運がよかっただけの話だ。もし違う結果になっていれば、乗客乗員の全員が消えていた可能性がある。
旅客機を狙った瞬間、事件の格が変わった。航空機に対する犯行は連邦の管轄になる。FBIが正式に乗り出し、ATFと郵便監察局を巻き込んだ合同捜査班が組まれた。班の名前は標的の頭文字から取られた。大学と航空会社、つまりユニバーシティとエアラインの爆弾事件――略して「ユナボム」。この事務的な符牒が、やがてアメリカ中が知る通り名になる。
翌一九八〇年六月十日には、ユナイテッド航空の社長パーシー・ウッドが、イリノイ州レイクフォレストの自宅で本の形をした郵便物を開け、深い切創と火傷を負った。事前に「良書を送る」という趣旨の手紙まで届いていたという念の入りようだった。犯人は標的を選び、下調べをし、演出まで考えている。愉快犯ではない。何かの筋を通そうとしている人間だ、と捜査側は理解し始める。
## 大学の廊下を、見えない誰かが歩いている
一九八〇年代前半、標的は大学に戻ってくる。一九八一年十月、ユタ大学の教室に置かれた物は幸い爆発前に処理された。一九八二年五月五日、ヴァンダービルト大学のコンピュータ科学者宛ての郵便物を秘書のジャネット・スミスが開け、重傷を負って三週間入院した。同年七月二日には、カリフォルニア大学バークレー校コーリーホールの談話室に置かれていた物で、電気工学の教授ディオゲネス・アンジェラコスが手と顔を負傷している。
そして一九八五年五月十五日、同じバークレー、同じコーリーホール。大学院生のジョン・ハウザーが、放置されていた物を動かして右手の指四本を失い、腕の動脈を切った。ハウザーは空軍の大尉で、宇宙飛行士を目指していた若者だった。その進路は、その日、指と一緒に消えた。
同じ一九八五年の十一月十五日には、ミシガン州アナーバーで心理学者ジェームズ・マッコネル宛ての郵便物が開かれ、研究助手のニクラス・スイノが負傷、マッコネル自身も一時的に聴力を損ねた。標的の職種を並べると、材料工学、航空、コンピュータ科学、電気工学、心理学、そして遺伝学。共通するのは、どれも「未来を作る側」に立っていると見なされる分野だという一点だった。
## 一九八五年十二月――ついに人が死んだ
一九八五年十二月十一日、カリフォルニア州サクラメント。ヒュー・スクラットンという三十八歳の男性が、自分が経営するパソコン販売店の裏の駐車場に落ちていた物を拾い上げた。彼はその場で命を落とした。事業を興したばかりの、爆弾とも技術思想とも何の関係もない一人の商店主が、この事件で最初の死者になった。
犯人にとって、ここは明確な境界線だったらしい。後に押収された膨大な手記には、この一件についての記述が残っていた。人を殺せることが確認できた、という趣旨の、感情の温度が抜け落ちた文章だ。捜査官たちがのちに証言しているとおり、この乾き方こそが、この犯人の底知れなさだった。
一九八七年二月二十日、ソルトレークシティのパソコン店の駐車場で、経営者の一人ゲイリー・ライトが同じように置かれていた物に触れ、全身に二百個以上の破片を受けた。腕の神経は深く傷つき、彼はその後十回以上の手術を受けることになる。ただしこの日、事件史上ほとんど唯一の幸運が起きていた。店の中から、物を置いている男の姿を見た人間がいたのだ。
## 誰も似ていない似顔絵が、全米に貼られた
目撃証言をもとに作られた似顔絵は、やがてアメリカ史上最も有名な人相書きの一つになる。フードをかぶり、サングラスをかけ、口を固く結んだ男の顔。空港にも郵便局にも警察署にも貼られ、テレビは何度もそれを映した。
だがこの絵は、あとから振り返れば恐ろしいほど当てにならなかった。最初の似顔絵は事件直後の混乱の中で作られたもので、数年後に肖像画家ジャンヌ・ボイランが目撃者に改めて聞き取りを行い、より精度が高いとされる版を作り直している。それでも実際のセオドア・カジンスキーの顔とは似ていない。彼はサングラスをかけていた。フードをかぶっていた。つまり似顔絵が捉えたのは、彼が身につけていた「隠すための物」の輪郭だけだった。
心理プロファイルも同じくらい外していた。当初描かれた犯人像は、シカゴ周辺に土地勘のある、几帳面で、機械いじりの得意な、高等教育を受けていないブルーカラーの男。実際の犯人は数学の博士号を持ち、名門大学で教鞭を執っていた元研究者だった。捜査班の一部からは、これは組織にも社会にも接続していない完全な孤立者だという読みが出ていたが、その線が主流になるまでには長い時間がかかっている。
## 六年の沈黙、そして最悪の再開
一九八七年のソルトレークシティを最後に、事件はぱたりと止まった。目撃されたことで犯人が慎重になったのだろう、という見立てが出た。六年が過ぎ、捜査班の規模は縮み、事件は少しずつ「昔の未解決事件」の棚に移されつつあった。
一九九三年六月、それが最悪の形で終わる。二十二日、カリフォルニア州ティブロンの自宅で、遺伝学者チャールズ・エプスタインが届いた郵便物を開けて指を失い、聴力を損なった。その二日後の二十四日、エール大学のコンピュータ科学者デイヴィッド・ゲランターが研究室で同じ目に遭い、右手と右目の機能、そして聴力の一部を失った。ゲランターは血まみれのまま自力で階段を下り、医療施設まで歩いたと伝えられている。
同じ時期、ニューヨーク・タイムズに手紙が届いた。差出人は「FC」を名乗り、これまでの事件が自分たちの仕業であることを示す暗証番号のような記述を添えていた。FCはフリーダム・クラブの略だという。複数犯の組織を装う演出だった。捜査班は一気に再編され、サンフランシスコに司令塔を置いた合同班が組み直される。
一九九四年十二月十日、ニュージャージー州ノースカルドウェルの自宅で、広告会社バーソン・マーステラの幹部トーマス・モッサーが、家族のいる家の中で郵便物を開けて亡くなった。犯人は、この会社が石油タンカーの重油流出事故の企業広報を担当したと思い込んでいた。その思い込み自体が事実誤認だったという指摘がある。
一九九五年四月二十四日、サクラメントのカリフォルニア林業協会に届いた郵便物を、会長のギルバート・マレーが開けた。彼は即死している。しかもその郵便物は前任者の名前で宛てられていた。マレーは、犯人が名前すら知らないまま殺した人間だった。
## 「載せなければ、また殺す」
一九九五年六月、FCを名乗る差出人から、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、そして雑誌ペントハウスに分厚い原稿が届く。「産業社会とその未来」と題された、三万五千語の論文だった。要求は明快だった。これを主要紙に全文掲載しろ、そうすれば人を殺すのはやめる、載せなければ続ける。
新聞社にとって、これは職業倫理そのものを人質に取られた状況だった。テロリストの要求に応じて紙面を明け渡せば、以後あらゆる犯罪者が同じ手を使う。だが断って次の死者が出れば、その死は自分たちの判断の結果になる。ワシントン・ポストの発行人ドナルド・グレアムは、報道上の価値でこの文章を載せるつもりは一切なかったと明言している。ニューヨーク・タイムズのアーサー・サルツバーガーは、載せて誰も死なないならそれは悪い取引ではない、という趣旨の割り切り方を語った。
決定を後押ししたのは司法長官ジャネット・リノとFBI長官ルイス・フリーだった。二人が推したのは、実は人命保護だけが理由ではない。犯人の文章を全米に晒せば、誰かがその癖に気づくかもしれない。要求を呑むふりをして、犯人自身の言葉を最大の捜査資料に変える。それが賭けの中身だった。
一九九五年九月十九日、論文はワシントン・ポストの八ページの別刷りとして印刷され、両紙が費用を折半した。金額は三万から四万ドル程度と報じられている。アメリカ中の朝食のテーブルに、殺人犯の思想が丸ごと配達された日だ。
## 弟の妻が「一度読んでみて」と言った
その紙面を読んだ何百万人のうちの一人が、ニューヨーク州スケネクタディに住むデイヴィッド・カジンスキーだった。正確には、先に引っかかったのは妻のリンダ・パトリックのほうだ。彼女は哲学の教員で、以前から夫の兄に対して漠然とした不安を抱いていた。モンタナの山中で誰とも交わらずに暮らし、技術文明への激烈な憎悪を手紙に書き続ける義兄。彼女は夫に、あの論文を読んでみてほしいと頼んだ。
デイヴィッドは最初、まともに取り合わなかった。兄は変わり者だが人殺しではない、という気持ちのほうが強い。それでも読み始めて、心臓が冷えた。論旨よりも、文章の呼吸が兄そのものだった。使う接続の癖、皮肉の温度、断定の置き方。決定的だったのは、日常の慣用句の語順が、世間一般とは逆になっていたことだった。ケーキを持ちながら食べることはできない、という意味の英語の言い回しがある。世の中の大半は「持つ」を先に言う。だが論文の書き手は「食べる」を先に置いていた。そして兄も、昔からそう書く人間だった。
デイヴィッドは母ワンダの家に残っていた古い書類箱を掘り返し、兄が一九七〇年代初めに書いた文章を見つけ出す。論文と並べると、語彙も構文も同じ人格から出ている。彼はシカゴの知人である私立探偵スーザン・スワンソンに相談し、ワシントンの弁護士トニー・ビシェリエを立て、元FBIのプロファイラーであるクリント・ヴァンザントに文章の比較を依頼した。返ってきた見立ては、同一人物である可能性が半分をかなり超える、というものだった。
弟が背負ったものは重い。通報すれば、実の兄が死刑になるかもしれない。黙っていれば、次に誰かが死ぬかもしれない。彼は弁護士を通じてFBIに接触した。この時点で、匿名の一情報提供者にすぎない。捜査班にはすでに二万件を超える通報が寄せられ、数百人の容疑者候補が浮かんでは消えていた。
## FBIは、なぜその一通を無視しなかったのか
ここでユナボム班の内部の話をしておきたい。一九九三年以降の再編で班を率いたのはテリー・ターチーで、行動分析の中核にはキャスリーン・パケットら心理の専門家がいた。彼らは物証がほぼ出ない事件で、文章そのものを証拠として扱う方針を選んでいる。綴りの癖、句読点の置き方、イギリス式の綴りを混ぜる傾向、引用の作法。当時はまだ法廷で市民権を得ていなかった法言語学的な手法に、事実上、事件の命運を賭けた。
だからこそ、弟からの持ち込みが埋もれなかった。分析官たちは、提供された古い書簡と論文を突き合わせ、単語や言い回しの重なりを積み上げていく。捜査幹部が、論文と一九七〇年代の私信の双方に現れる特徴的な言い回しに気づいたことが、決定打の一つになったと語られている。この積み重ねが、そのまま捜索令状の宣誓供述書になった。
言い換えると、この事件は最後まで科学捜査では解けなかった。指紋も血痕も足跡もほとんど役に立たなかった。解いたのは読解だった。十七年かけて何万件の物証を洗った組織を、最後に前へ進めたのは、一人の男が長年書き続けた文章の手癖だったということになる。
## 一九九六年四月三日、測量士を装った男が戸を叩いた
モンタナ州リンカーンは、人口数百人の小さな町だ。町の外れの山の斜面に、縦横三メートルほどの掘っ立て小屋がある。電気はない。水道もない。トイレもない。窓は小さく、暖房は薪ストーブ一つ。ここに一九七一年から二十五年、セオドア・ジョン・カジンスキーは住んでいた。
町の人々の記憶はきれいに割れている。図書館司書のシェリー・ウッドは、彼を友人だと思っていた。息子の数学の宿題を見てもらったこともある。町へ出る彼を車に乗せてやっていた住民は、いつも愛想がよかったと話す。一方で、近くの製材所を営んでいた女性は、犬を蹴り、人を見下したように話す彼の姿を覚えていた。自転車で町へ来る変わり者の隠者、というのが最も平均的な印象だったらしい。
一九九六年四月三日、雪の残る山道を、FBIの捜査官たちが上がっていった。真正面から踏み込めば、小屋の中で何が起きるかわからない。そこで班は、彼が顔を知っている人物を前に立てる。地元の森林局の職員ジェリー・バーンズだ。境界線の確認に来た、という体裁で声をかける。カジンスキーが戸口に出てきたところを、待機していた捜査官が押さえた。抵抗はなかった。汚れた服を着た、痩せた、髪も髭も伸び放題の五十三歳の男だった。周囲の山には三百人規模の態勢が敷かれていて、確保の合図とともに一斉に姿を現したという。
小屋の中から出てきたものが、すべてを終わらせた。手書きの記録がおよそ四万ページ。事件の一つ一つについて、日付と経過と自己評価が書かれていた。一部は暗号で綴られていた。論文の原稿と、それを打った古いタイプライター。そして、完成した状態の危険物が一つ、まだそこにあった。
## 「狂人にされるくらいなら」と彼は言った
裁判は一九九七年から一九九八年にかけてサクラメントの連邦地裁で進んだ。裁判長はガーランド・バレル・ジュニア。弁護側はクイン・デンヴァーとジュディ・クラークという、死刑事件で名の知られた弁護人たちだった。
弁護側の戦略は明確だった。死刑を避けるために、精神の障害を主張する。これは合理的な選択で、実際に有効に働く見込みもあった。ところが被告人がそれを全力で拒んだ。彼にとって、自分の行為が「病気の産物」として片づけられることは、命よりも受け入れがたいことだったらしい。自分は理屈で動いた、思想で動いた、その主張が消されるなら裁判に意味がない、という立場を最後まで崩さなかった。
一九九八年一月八日、彼は弁護人の交代を求めたが認められなかった。翌九日、彼は独房で自ら命を絶とうとして未遂に終わっている。連邦刑務所の精神科医サリー・ジョンソンが評価を行い、妄想性の統合失調症という診断を記した一方で、訴訟能力そのものには問題がないと結論した。一月二十一日、彼は訴訟能力ありと判断される。
この診断は当時から議論があった。著名な司法精神医学者パーク・ディーツは、統合失調症という枠に収めることに否定的で、対人関係の様式に関わる人格の問題として捉えるほうが妥当だという趣旨の見解を示している。本人は生涯にわたって診断を否定し続け、長く自分を観察していた刑務所の心理職も統合失調症の兆候は見なかったと語ったと述べている。ここは今も決着していない領域で、断定的に語る人ほど根拠が薄いと思っておいたほうがいい。ついでに言えば、この論争を「精神疾患があると危険だ」という方向に読み替えるのは完全な誤読だ。精神疾患のある人の圧倒的多数は誰も傷つけないし、この事件の核心はそこではない。
## 司法取引という幕切れに、被害者たちは何を言ったか
一九九八年一月二十二日、彼は罪を認めた。仮釈放なしの終身刑と引き換えに、検察は死刑の求刑を取り下げる。長い公判を避けたい検察側と、命を残したい弁護側、そして自分の言葉を記録に残したい被告人。三者の思惑が、この形で交差した。
同年五月四日の量刑言い渡しで、法廷には被害者と遺族が並んだ。ここでの発言は、この事件について残された記録の中でも、いちばん人間の声がする部分だ。
トーマス・モッサーの妻スーザン・モッサーは、夫が家の中で亡くなった朝のことを法廷で語り、この男を二度と外に出さないでほしいと訴えた。彼女の言葉は激烈で、地獄に近い場所まで落として閉じ込めてほしいという趣旨の一節は、当時の報道で繰り返し引かれている。彼女にとって、この裁判は思想の議論ではなく、家族の朝が壊された事件そのものだった。
指を失った遺伝学者チャールズ・エプスタインは、被告人に面と向かって臆病者だと言った。命を懸けるほどの思想だと言っておきながら、いざとなれば自分の首を守るために取引に応じたではないか。信じているもののために危険を引き受けなかった人間に、思想家を名乗る資格はない、という指摘だった。これは被害者の感情の吐露であると同時に、この人物の自己像に対する最も鋭い批評でもある。
デイヴィッド・ゲランターは書面で意見を出し、極刑が相当だと述べた。右手を失ったコンピュータ科学者が、テクノロジーを憎む男に襲われ、それでも研究の現場に戻った。彼はのちに、被害者を「事件の材料」として消費する報道のあり方にも強い不満を示している。
裁判長バレルは、四つの終身刑に三十年を積み上げた。残虐なテロ行為であり、被告人に悔悟の情は見られない。そう述べている。数字の並びを見れば分かるとおり、出口はどこにも用意されていない。
## 撃たれた側の人生は、判決の後も続いていた
ここでゲイリー・ライトの話をさせてほしい。一九八七年、ソルトレークシティで駐車場の物に触れ、体に二百個を超える破片を受けた男だ。彼は神経と腱と動脈を修復するために、十回以上の手術を受けた。量刑の法廷で、彼は自分が失ったのは体の機能だけではないと語っている。何も疑わずにいられた感覚が消えた、その屈託のなさを取り戻すために自分は毎日戦っている、という趣旨の言葉だった。
そのライトが、事件後にもう一つ有名になったのは、犯人の弟と友人になったからだ。デイヴィッド・カジンスキーは一九九七年、兄がしたことを詫びるためにライトへ接触した。詫びられる筋合いのない相手からの謝罪だ。ふつうなら断ってもおかしくない。だがライトは応じた。長い時間をかけて自分なりの赦しの定義を作り直したから受け止められた、と彼は語っている。
二人はその後何十年も、各地で並んで話をしてきた。デイヴィッドは、自分たちはどちらも回復の途中で、前向きな道を探していた点で共通していたと言う。ライトのほうは、法廷を挟んで向かい合った側同士がこういう関係になる例は世界を見渡してもそう多くない、こんなことに台本はない、と率直に認めている。デイヴィッドは、ゲイリーは人生で最大の恵みの一つだった、とまで言った。
デイヴィッド自身の後日談が、これまた重い。通報の功績に対して支払われた百万ドルの報奨金を、彼は一円も自分のものにしなかった。弁護士費用と税を引いた六十三万ドルほどを、兄が傷つけた人々と遺族に配るための基金に回している。その後は死刑制度に反対する団体の代表を務め、暴力の影響下に置かれた人すべてを対象にする方向へ活動を広げた。兄を売ったと責める声も、正しいことをしたと讃える声も、どちらも彼の内側の苦さを説明しない。
## 天才少年はどこで折れたのか――十六歳のハーバード
ここで人生を巻き戻す。セオドア・ジョン・カジンスキーは一九四二年五月二十二日、シカゴのポーランド系の家庭に生まれた。知能検査の数値は突出していた。学校は彼を飛び級させ、結果として彼はいつも周囲より二つ三つ年下の状態で教室に座ることになる。同級生からは浮き、からかわれ、集団の中でうまく息ができない子どもとして育った。十五歳で高校を出て、十六歳で奨学金を得てハーバードに入る。
大学に入ってからも、成績はいい。ただ、人との距離だけがどんどん広がっていったらしい。そして在学中に、後々ずっと引きずられる出来事が起きる。ここは少し丁寧に書いておきたい。心理学者ヘンリー・マレーが主導した、優秀な学生を対象とする人格研究への参加だ。参加者はまず、自分の信念や希望や内面を細かく書かされる。次に一人ずつ部屋に入れられ、身体反応を計測されながら、法学生を相手に自分の書いたものを徹底的に攻撃される。攻撃は容赦のない人格否定を含んでいたと伝えられている。しかもその様子は撮影され、被験者は自分が言い負かされる映像を繰り返し見せられた。カジンスキーの被験者名は「合法的」を意味する語だった。彼はこの研究に、通算で二百時間ほど関わったとされる。
卒業後はミシガン大学へ進み、複素解析と幾何学的関数論の領域できっちり成果を出した。博士論文は学内の賞を取っている。指導した教員たちの評価が異様に高くて、これまで見た中で最良の学生だ、という言葉まで残っているくらいだ。一九六七年、二十五歳でカリフォルニア大学バークレー校の助教授になる。当時の同校で最年少。ここまでだけ切り取れば、絵に描いたような順風満帆なんだよな。
## 二年で黒板を捨てた男――そして山へ入った
ところが一九六九年六月三十日、彼は理由も言わずに辞めてしまう。学科の責任者は、彼が病的なほど内気で、親しい同僚を一人も作らなかったと語っている。授業は下手で、学生の質問にもほとんど答えなかったという証言もある。数学界が期待した頭脳は、たった二年で自分から降りた。
一九七一年、彼はモンタナ州リンカーン郊外に土地を得て、あの小屋を建てる。狙いは自給自足だった。狩りをし、罠を仕掛け、畑を作り、本を読む。文明から降りて、自分の手で生きる技術を身につける。最初の数年間、その暮らしは彼にとって理想に近かったらしい。
崩れたのは、山のほうが変わっていったからだ。伐採道路が延び、エンジン音が近づき、静けさが薄まっていく。彼はやがて、周辺の開発に対する破壊行為を自分でやり始める。八〇年代前半に、気に入っていた高台の風景が道路で断ち切られたことが決定的な転機になったと、後年の記録は伝えている。そこから彼の思考は、「逃げる」から「報復する」へ切り替わった。
思想面で彼が最も影響を受けたのは、技術社会論を書いたジャック・エリュールだった。その一冊は彼にとって聖典のようなものになったと言われる。ただし、彼が独自に体系を組み上げたわけではないという指摘は根強い。近年の研究では、彼が影響源として名前を挙げられがちな思想家の多くを、論文執筆時点では読んでいなかったことが確認されている。実際の下敷きはエリュールと、動物行動学や心理学の一般向けの著作あたりだったという整理だ。
## 論文の中身は、どこまで「正しい」のか
「産業社会とその未来」の骨格はそう複雑ではない。人間には、自分で目標を立て、努力し、達成するという一連の流れが必要だ。彼はそれを力の過程と呼ぶ。産業社会はこの過程を人間から奪い、代わりに空虚な代償行為をあてがう。だから豊かでも満たされない。技術は個々には便利でも、全体としては人間の自律を削り、しかも人間の制御を離れて自走する。技術が進むほど後戻りが難しくなるのだから、崩すなら早いほうがよい。乱暴に要約すればそういう筋書きだ。
発表当時から、この文章を全否定できないという反応は存在した。批評家の中には、書き手を狂人ではなく理屈の通った人間だと評した者もいたし、ドストエフスキーの登場人物になぞらえた作家もいた。一方で、内容は目新しくない、既存の技術批判と環境言説の寄せ集めを、アメリカ人が漠然と抱く不安に合わせて並べただけだ、という批判も同じくらい強い。
そしてこれは何度でも書いておかないといけないことなのだが、文章の一部に検討に値する論点があることと、人を殺してよいことのあいだには何の橋も架かっていない。彼が主張した「掲載されれば止める」という取引自体、自分の文章に人命を人質として付けた行為だ。ヒュー・スクラットンにも、トーマス・モッサーにも、ギルバート・マレーにも、その議論に参加する機会は与えられなかった。マレーに至っては、犯人が名前も知らない相手だった。思想の評価と行為の評価を混ぜてはいけない。
## 異説その一、ハーバードの実験が彼を作ったという説
最も広く流通している異説が、あのマレーの人格研究を原因とみなす見方だ。作家アルストン・チェイスがこの線を追った著作を書き、少なからぬ読者を得た。十六歳の少年が、三年にわたって計画的に人格を攻撃され、その映像を繰り返し見せられた。研究を主導した人物は戦時中に諜報機関の選抜手法の開発に関わっていた。だから彼の「操作された心」への憎悪はここで生まれたのだ、という筋書きは、確かによくできている。
ただし因果として立てるには弱い。同じ実験には他にも被験者がいたが、爆弾を作った者はいない。彼自身は、この経験を不快ではあったが自分を決定づけたものではないという趣旨で語っている。実験の非倫理性は非倫理性として厳しく問われるべきだが、それをそのまま十七年の連続テロの説明変数にするのは、別々の話をつなぎ合わせる操作だ。ついでに言えば、この説はしばしばもっと荒い形に劣化して、政府の秘密計画の被害者だったという都市伝説として流通している。そこまで行くと根拠は消える。
## 異説その二、彼は本当に一人だったのか
現場に残された金属片には「FC」の刻印があった。新聞社への手紙も、複数の人間からなる組織の声を装って書かれていた。だから協力者がいたのではないか、という議論は事件当時から存在した。
これは押収された記録によってほぼ解消している。四万ページの手記は、単独の人間が長年一人で計画し、一人で実行し、一人で自己採点していた過程を克明に残していた。組織を名乗ったのは、単独犯だと悟られないための演出だったと理解されている。捜査を撹乱するために、無関係な素材や一見意味ありげな痕跡を意図的に混ぜる手口も繰り返されていた。捜査班が長年つかまされ続けた「もっともらしさ」の多くは、犯人が自分で仕込んだ煙だった。
## 異説その三、後を追おうとする者たち
不愉快な話だが、避けて通れない。彼の文章は、その後いくつかの過激な思想潮流に取り込まれた。環境思想の一部、原始志向の一部、そして本人が明確に敵視したはずの排外主義的な運動にまで、断片が引用されている。書き手の意図と、引用する側の意図は一致しない。文章は一度世に出れば、誰の手にも渡る。
二〇二四年十二月には、アメリカで大企業の経営者が路上で殺害された事件の容疑者が、以前この論文に高い評価を付けた書評を投稿していたことが報じられ、この論文の現代的な影響力が改めて議論になった。その書評自体は、暴力は正当化できないと断りつつ、書き手を単なる狂人扱いするなという趣旨のものだった。デイヴィッド・カジンスキーは、もし兄の影響があったのなら、それはひどい間違いだという意味のことを述べている。実の弟が、三十年近く経ってなお同じ台詞を言わなければならない。この事件の後遺症は、まだ終わっていない。
## 掲示板とSNSは、この男をどう扱ってきたか
インターネット上のこの事件の扱われ方は、時代によってはっきり三段階に分かれる。九〇年代後半から二〇〇〇年代は、純粋に「未解決に近かった伝説的な事件」としての語り口が中心だった。似顔絵の話、十七年の逃亡、弟の通報という筋書きの美しさ。要するに実話犯罪の名作としての消費だ。
二〇一〇年代に入ると、技術批判の部分だけを切り出して面白がる層が現れた。スマートフォンの通知に追われ、アルゴリズムに時間を溶かされる感覚が一般化した時期と重なる。「あの人の言っていたことは案外当たっていた」という言い方が、半分冗談、半分本気の定型句として広まった。この語り口は、悪趣味な軽さとセットになっていることが多い。爆弾で人が死んだ事実を横に置いて、思想だけを摘まむ態度だからだ。
そして二〇二〇年代、生成AIが日常に入り込んでからは、冗談の比率が明確に下がった。機械が決定を担うようになった社会で人間はどうなるのか、という論文の中の一節が、皮肉抜きで引用されるようになる。ただ、ここで持ち上がる考察の多くは、二つの点で反証されている。一つは、彼の議論が独自の発明ではなく先行する技術社会論の再構成だという点。もう一つは、彼が想定していた「技術の自走」は、当時の産業技術を前提にした話であって、現在のAIをめぐる論点をそのまま予言していたわけではないという点だ。予言者に見えるのは、抽象度の高い主張が後から何にでも当てはまるからでもある。
## なぜ語り継がれるのか――噛み合わない話の集合体
十七年という時間は異様に長い。だが語り継がれる理由は年数ではないと思う。この事件は、いくつもの「気持ち悪い噛み合わなさ」を同時に抱えているからだ。
抜群に頭が良い人間が、抜群に非合理な結末に行き着いた。国家の最高水準の捜査資源が十七年空回りし、家族の記憶があっさり突破した。人の指を吹き飛ばした文章が、大手紙の紙面に全文載った。技術を憎んだ男の思想が、技術で結ばれたネットワークの上で最も広く読まれている。どれも一つの物語の中に収まるのが落ち着かない組み合わせで、だから人は繰り返し語り直す。
もう一つ、この事件が消えない理由がある。テクノロジーへの漠然とした不安は、二十一世紀に入って減るどころか増えた。その不安を言語化した文章が、よりによって連続殺人犯の手によるものだったという事実が、読む側に居心地の悪い宿題を残す。自分が感じている不快は正しいのか、それとも危険な方向へ滑っていく入口なのか。この問いの前で足を止められるかどうかが、たぶんこの事件から受け取れる唯一の実用的な部分だ。
二〇二三年六月十日、ノースカロライナ州の連邦医療施設で、彼は八十一歳で自ら命を絶った。二〇二一年に癌が見つかり、化学療法を続けたが、二〇二三年三月に治療を断っていた。最初の小包から数えて四十五年目のことだった。彼が主張したかったことは、彼が殺した三人の人生の重さの前で、最後まで釣り合わなかった。
## 十七年を終わらせたのは、鑑識ではなく文体だった
この事件を突き詰めていくと、最終的に残るのは「言葉は隠せない」というひどく地味な事実だ。彼は指紋を残さなかった。目撃者を作らなかった。移動の記録も生活の痕跡もほとんど残さなかった。電気を引かず、電話を持たず、住民登録の網の外側で二十五年暮らした。物理的な意味では、これ以上ないほど徹底的に消えていた。それでも捕まった。理由は、彼が黙っていられなかったからだ。伝えたいことがあった。読ませたいものがあった。そして書いた瞬間に、彼の指紋は文章の側に移った。慣用句の語順、綴りの選び方、皮肉の温度。本人が制御できると思っていた領域に、本人が意識していない癖がびっしり付いていた。十七年の完全犯罪を終わらせたのは、鑑識でも密告でもなく、文体だった。
ここに、この事件の第二の皮肉が重なる。捜査班の最後の一手は、犯人の要求を呑むことだった。テロリストに屈しないという原則を、一度だけ形式的に折る。その代わり、犯人の言葉を全米に配って読者を数千万人の目撃者に変える。この判断は倫理的にはきわどいし、成功したから正解に見えているだけだ、という批判も成り立つ。だが結果として、この賭けは事件を終わらせた。新聞という旧世代のメディアが、印刷部数という物理的な力で、電子的な捜査網が届かなかった場所に手を伸ばした。九〇年代半ばという時代でなければ起こらなかった解決の形でもある。
第三に押さえておきたいのは、この物語で最も重い役を引き受けたのは捜査官でも被告人でもなく、弟だったということだ。デイヴィッド・カジンスキーは、通報すれば兄が処刑されるかもしれないと理解した上で通報した。しかも通報の後、彼は当局から死刑を求めない方向で扱われるという確約を得られたわけではない。実際、検察は当初死刑を求めていた。彼の判断は「兄を救う」ためのものではなく、「まだ名前も知らない次の誰か」を救うためのものだった。そして事件後、報奨金を自分のために使わず、兄が壊した人たちの側へ回した。この一連の行動を美談として消費するのは簡単だが、本人が繰り返し語ってきたのは、そこに一片の達成感もないという話のほうだ。正しい選択をしても救われないことがある、というのは、この事件から取り出せる最も苦い教訓かもしれない。
そして四つ目に、現代における再評価という現象そのものを冷静に見ておく必要がある。今この論文が読まれるのは、書かれた内容が卓越しているからというより、読む側の不安が高まったからだ。人間の判断が自動化されたシステムに置き換わっていく感覚、便利さと引き換えに何かを差し出している感覚、抜けようとしても抜けられない感覚。この漠然とした不快感に、たまたま形を与える文章として消費されている。だからこそ危うい。自分の不安に言葉を与えてくれた相手を、人はつい信頼してしまう。信頼した相手が、たまたま三人殺した人物だったとき、その信頼はどこまで行くのか。二〇二〇年代に入って、この問いが仮定の話ではなくなってきたことが、いちばん厄介なところだ。
だから最後に、話を人の側へ戻しておきたい。パソコン店の裏で拾い物をした三十八歳の店主がいた。家の中で家族の朝を壊された広告会社の幹部がいた。前任者宛ての郵便を代わりに開けただけの林業団体の会長がいた。指を四本失って宇宙飛行士の夢をあきらめた大学院生がいた。右手を失ってなお研究に戻ったコンピュータ科学者がいた。体から二百個の破片を取り出され、それでも赦し方を自分で作り直した男がいた。この事件の中心にあるのは思想ではない。壊された生活と、それでも続いていった人生のほうだ。技術と社会の関係について考えるのは大いに結構だし、その必要は年々増している。ただ、その議論の入口として彼を選ぶ必要はまったくない。彼の文章を読む前に読むべきものは、世界中に山ほどある。そのことだけは、はっきりさせておきたい。

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