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鏡はすべて布で覆われていた――1912年ヴィリスカ斧殺人事件、八人を殺した犯人はなぜ数時間もあの家に居座ったのか

まず正直に言っておく。この事件、怖い。ただ怖がって消費するには重すぎる話でもある。死んだ八人のうち六人が子どもだ。いちばん下は五歳。だから今回は、ゾクッとする細部を全部書きながら、同時に「この人たちは実在した」という一線だけは絶対に踏み外さないつもりで書く。舞台は1912年、アメリカ中西部アイオワ州の小さな町ヴィリスカ。日曜学校の発表会から笑いながら帰ってきた一家と、その日たまたま泊まりに来ていた姉妹が、朝には全員動かなくなっていた。犯人は捕まっていない。百十年以上経っても、まだ捕まっていない。

人口二千人、酒場ゼロ、日に三十本の汽車が停まる町

事件を語る前に、町の話を少しさせてほしい。ここを飛ばすと「なぜ捕まらなかったのか」がまるで見えなくなるからだ。1912年のヴィリスカは、当時の州の観光案内で「州内屈指の町」と持ち上げられるくらいには景気が良かった。人口およそ二千人。小売店が五十軒。酒場は一軒もない。教会が町の中心で、メソジスト派と長老派がそれぞれ立派な会堂を構えていた。銀行は「ジブラルタルの岩みたいに堅い」と自慢され、軍の武器庫まで建設中だった。弁護士より競り人のほうが多い、というのがこの町の空気をよく表している。農機具と穀物と、あと信用でまわる町だ。

そして鉄道。シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー線がこの町を通り、旅客と貨物あわせて毎日二十本から三十本の汽車が停車していた。ここが後で効いてくる。誰かが夜のうちに人を殺して、夜が明ける前に汽車に乗ってしまえば、その日の昼にはもう百キロも二百キロも先にいられる。1912年のアイオワには、それを追いかける仕組みがまだ存在しなかった。州の科学捜査機関もない。指紋の運用も血液型判定も現場には来ていない。町の治安を守っていたのは、市の巡査ハンク・ホートンという一人の男だった。夜警も彼が兼ねていた。

住民は玄関に鍵をかけない。犯罪を心配する町ではなかったからだ。全員が全員の顔を知っている。知らない顔が歩いていれば目立つ。だからこそ、この町の人たちは事件のあと本気で震えた。日が暮れるころには、町中どこを探しても売り物の犬が一匹も残っていなかった、という記録が残っている。番犬を、全員が同時に欲しがったのだ。

日曜学校のあと、八人は歩いて家に帰った

1912年6月9日、日曜日。長老派教会で「子どもの日」のプログラムがあった。日曜学校の一年の締めくくりで、子どもたちが聖句を読んだり歌を歌ったり、短い寸劇をやったりする発表会だ。この会の共同ディレクターを務めていたのが、サラ・ムーア三十九歳。夫のジョサイア・ムーアは四十三歳、町の農機具商で、ジョン・ディア社の販売権を握っていた。ムーア家の四人の子どもは全員この日の出演者だった。ハーマン十一歳、キャサリン十歳、ボイド七歳、ポール五歳。

そこにもうひとつ、この夜を決定的にした偶然がある。キャサリンの友だちのスティリンジャー姉妹も、この日のプログラムに出ていた。姉のリーナ十二歳、妹のアイナ八歳。二人の家は町から十キロほど離れた農場だった。夕方六時ごろ、ジョサイアが姉妹の家に電話をかけ、いちばん上の姉ブランチに「今夜うちに泊めていいか」と聞いた。ブランチは了承した。この電話一本で、姉妹はムーア家の運命に巻き込まれることになる。ちなみに資料によって子どもたちの年齢は一歳ずれることがある。当時の新聞と墓碑と後年の研究書で微妙に食い違うのだが、それ自体がこの事件の記録の粗さを表していると思ってほしい。

発表会は九時半ごろに終わり、そのあと大人たちのちょっとした歓談があった。曇っていて、湿っぽくて、六月にしては肌寒い夜だったという。八人は教会から三ブロックの道を歩いて帰った。家に着いたのは九時四十五分から十時のあいだ。クッキーと牛乳でその日を締めくくって、みんな寝た――という記録が残っている。誰も、この家がその夜のうちに国じゅうの新聞の一面になるとは思っていない。

寝床の配置も書いておく。ここが後で重要になる。二階に寝室が二つ。階段を上がってすぐのところがジョサイアとサラの寝室で、その隣が子ども部屋。ハーマン、キャサリン、ボイド、ポールの四人はそこで寝た。一階には裁縫部屋を改装した客用の寝室があり、そこに置かれたシングルベッドにリーナとアイナが二人で身を寄せて寝た。つまりその夜、八人は三つの部屋に分かれて眠っていた。家そのものは延べ床面積にして百十平方メートルほどの、決して大きくない木造二階建てだ。床は鳴る。音は筒抜けだ。

深夜、家の中でなにが起きたか

ここからは事実の記録として、淡々と書く。当時の検死官が翌日に組み立てた再現と、その後の研究が積み上げてきた推定を合わせたものだ。

真夜中を回ったころ、誰かが家に入った。裏口の掛け金を上げただけだったとも、家の中にずっと潜んでいたとも言われる。犯人は玄関のドレッサーからオイルランプを取り、ホヤ(ガラスの筒)を外して椅子の下に置き、芯を二つ折りに曲げて、家の中がかろうじて見える程度の最小の炎で灯した。この「ホヤを外して芯を折る」という手つきが、あとで別の町の事件と結びついていく。

凶器はジョサイア自身の斧だった。裏庭の石炭小屋に置きっぱなしになっていたものらしい。犯人はそれを持ち、一階でリーナとアイナが寝ている部屋の前を素通りし、狭い木の階段を上がった。子ども部屋も素通りした。まっすぐ夫婦の寝室に入った。最初に襲われたのはジョサイアだ。斧を振り上げたときの刃が天井をえぐり、その傷が現場に残った。彼だけが刃の側で、他の七人は峰(刃の反対側の平たい部分)で打たれている。サラは、夫に何が起きたかを理解する時間もなく続いた。

次が子ども部屋の四人、それから階段を下りて一階の姉妹。ここまでで八人。医師たちの見立てでは、リーナ以外の全員が眠ったまま亡くなっている。リーナだけが腕に防御創らしき傷を負い、ベッドを横切るような姿勢で見つかった。彼女だけが、たぶん一瞬だけ目を覚ましている。

そのあとが、この事件を「ただの惨殺」から「わけの分からない何か」に変えた。犯人は二階へ戻り、すでに息のない六人にもう一度斧を振るった。ジョサイアには合計三十回前後。壁と天井に振り上げの痕が残るほどの力だった。この二周目の意味は、いまだに誰にも説明できていない。怒りなのか、儀式なのか、身元を分からなくするためなのか。

そして――ここが本当に薄気味悪いのだが――犯人は八人全員の顔に布をかけた。夫婦には寝具を引き上げ、ハーマンにはガーゼの下着を、キャサリンにはワンピースを。ボイドとポールにも、階下の姉妹にも同じことをした。八人の顔は、発見時すべて覆われていた。

鏡が、全部隠されていた

現場に入った人間が最初に「これはおかしい」と言葉に詰まったのは、遺体ではなく鏡のほうだった。

犯人は家じゅうのタンスの引き出しを開けて回り、そこから出した衣類で、家にあるすべての鏡を覆っていた。玄関ドアのガラスも覆われていた。窓のブラインドは全部下ろされ、ブラインドのない二つの窓にはエプロンとスカートが吊るされていた。反射するもの、外から見えるもの、こちらを見返してくるものが、家の中から一つ残らず消されていたのだ。

当時のアメリカ中西部には、家で通夜をするとき鏡に布をかける風習が実際にあった。だからこの行為を「犯人は喪の作法を知っていた」と読む人もいる。一方で、もっと単純に「見られたくなかった」と読む人もいる。誰に?死んだ人にだ。研究者のなかには、後述するカンザス州エルズワースの類似事件で犯人が電話機に衣類をかぶせていたことを引き合いに出す人がいる。真夜中に鳴るはずのない電話を、なぜ隠すのか。あの時代の電話機は、送話口と二つのベルが人の顔みたいに見える形をしていた。つまり犯人は、家の中にある「目」らしきものを片端から潰していったのではないか――という読み筋だ。証明はできない。でも、この解釈を一度知ってしまうと、あの現場の光景の意味が変わる。

台所に残された、皿と洗面器

犯人はすぐには帰らなかった。むしろ、ずいぶん長居している。

台所のテーブルには、ほとんど手のつけられていない食事の皿が残っていた。豆料理とパンだったという記述がある。同じテーブルに、血の混じった水を張った洗面器。ここで手を洗ったと考えられている。氷室からは四ポンド(約一.八キロ)のベーコンの塊が出され、タオルに包まれて一階の寝室の床に置かれていた。証言によっては、台所の壁際にもう一塊あったとされる。凶器の斧は、ざっと血を拭った状態で一階寝室の南側の壁に立てかけられていた。そのすぐそばに、ムーア家の誰のものでもないキーチェーンの切れ端が落ちていた。二階の階段の上には、例の芯を折ったランプが置き去りにされていた。

朝五時になる前、犯人は家を出た。そして玄関に鍵をかけた。鍵をかけて、その鍵を持って行った。だから翌朝、隣人のメアリー・ペッカムがドアを引いても開かなかった。

この「長居」の痕跡が、事件の性格を決定づけている。犯人は焦っていない。逃げ足を気にしていない。家の中を歩き回り、布を探し、鏡を覆い、手を洗い、皿に食べ物をよそって、少し食べた。八人が動かなくなった家の中で、である。屋根裏には吸い殻が二本落ちていたという記録もあるが、現在の公式ツアーではこの吸い殻の存在は否定されている。また納屋の干し草には人が寝そべった跡があり、そのすぐ横に節穴があった。そこからムーア家の玄関が見える。犯人は、家族が教会から帰ってくるのを、干し草に寝そべって節穴越しに眺めていたのかもしれない。

朝七時、隣家の女性が違和感に気づくまでの空白

異変が発覚するまでに、七時間から八時間の空白がある。この空白が、事件を永久に迷宮にした。

隣に住むメアリー・ペッカムは、朝五時ごろには庭に出て洗濯物を干していた。ムーア家の物音がしないことに、この時点ではまだ違和感を持っていない。七時になっても誰も出てこないので、さすがにおかしいと思った。あの家は朝の家事で騒がしいのが普通だったからだ。カーテンは全部下りている。鶏も馬も餌をもらっていない。彼女はドアをノックした。返事がない。開けようとしたが鍵がかかっていた。彼女はとりあえずムーア家の鶏を鶏小屋から出してやり、それからジョサイアの弟で薬局を営むロス・ムーアに電話をかけた。

ロスが着いたのは八時ごろ。彼も叩いて呼んだ。返事はない。自分の持っている合鍵で玄関を開けた。メアリー・ペッカムはポーチに立ったまま待った。ロスは居間に入り、一階の客用寝室の扉を開けた。シーツの下に二つの人影があり、ベッドの枠に血がついていた。彼はそこで止まった。二階には上がらなかった。彼は家を出て、兄の金物店の従業員エド・セリーに「とんでもないことが起きた」と伝え、市の巡査ハンク・ホートンを呼びに行かせた。

ホートンが到着したのは八時半ごろ。彼は一人で家じゅうを見て回り、外に出てきてロスにこう言った。「どのベッドにも、人が殺されている」。

この一言が町を壊した。

百人以上が現場を歩いた午前中

八時四十分ごろ、町の電話交換局が全戸に一斉呼び出しをかけた。「ムーア家で殺人」。ヴィリスカのほぼ全世帯が同時にそれを知った。数分後、家は人であふれた。

現場保存という概念が、そもそもこの町にはなかった。医師の一人、F・S・ウィリアムズは家から出てきて群衆に警告している。「入るな。死ぬまで後悔することになるぞ」。誰も聞かなかった。少なく見積もって百人、実際にはそれ以上の住民が、好き放題に家の中を歩いた。凶器の斧は何百人もの手で触られた。そして最悪なのがこれだ――ジョサイアの頭蓋骨の破片を、記念に持ち帰った人間がいる。

検死官のL・A・リンクィストが九時ごろに到着し、この状況に激怒した。彼は保安官オレン・ジャクソンに州兵の出動を要請させ、ようやく十時半に家の周囲に非常線が張られた。つまり事件発覚から二時間、現場は無防備だった。ちなみにこの日、写真が趣味の地元の薬剤師が撮影に来ているが、「悪趣味すぎる」と追い返されている。当時の薬局は事件現場の絵はがきを売ることがあったから、商売目的を疑われたのだ。結果として、ヴィリスカの現場写真は一枚も残らなかった。これは犯罪史的にはとんでもない損失だ。使える指紋も一つも採られなかった。

遺体の搬出はさらに遅れた。検死陪審の召集が午後にずれ込み、彼らが家に入るまでにまた数時間。郡の検察官の許可が下りたのが夜十時過ぎ。消防署を臨時の遺体安置所にして、八人全員の搬送が終わったのは翌日の午前二時近くだった。犯行からおよそ二十四時間、遺体は現場に置かれ続けたことになる。

死亡推定時刻の出し方も、いまの目で見ると呆然とする。エドガー・エパリーという、この事件を六十年以上追い続けた研究者が近年語ったところによると、医師の一人は遺体を持ち上げて落とし、その硬直の具合から時刻を見積もったという。それが1912年の最先端だった。血液型も、毒物検査も、写真も、指紋もない。当時の新聞は「牛乳かココアに睡眠薬が入れられていたのでは」という説を書き立てたが、そもそも毒物検査は当時のルーチンではなかったので、確かめる術がなかった。

十四人が語った、事件の翌々日

6月11日、犯行の翌々日にはもう検死審問が開かれている。いまの感覚だと早すぎるが、当時はこれが普通だった。証言台に立ったのは十四人。第一証人がメアリー・ペッカム。続いてムーア家の従業員エド・セリー、最初に現場に入った医師J・クラーク・クーパー、ロスの妻ジェシー・ムーア、遺体を検分した医師F・S・ウィリアムズ、近所の実家に滞在していたエドワード・ランダース、ロス・ムーア、フェンウィック・ムーア、巡査ハンク・ホートン、甥のジョン・リー・ヴァン・ギルダー、ハリー・ムーア、そしてスティリンジャー姉妹の父ジョセフと姉ブランチ、最後にもう一人の弟チャールズ・ムーア。

ここで一つ、ずっと引っかかり続けている証言がある。エドワード・ランダースだ。彼は母親の家に滞在していて、夜十一時ごろに物音を聞いた、と述べている。十一時。八人が家に帰りついてから一時間ほどしか経っていない時刻だ。犯行時刻の推定は真夜中以降なので、この物音が何だったのかは分からない。犯人が動き出す前の物音なのか、まったく無関係な生活音なのか。ただ、この証言は「犯人はその時間帯すでに家の周囲にいた」という説の細い支えとしてずっと引用されてきた。

弟たちへの質問は、主に「ジョサイアに恨みを持つ人間の心当たりはあるか」だった。誰も、心当たりがないと答えている。商売のトラブルも、金銭の揉め事も、証言レベルでは出てこなかった。チャールズ・ムーアは凶器の斧について聞かれ、「兄がこれとよく似た斧を持っていた」とだけ答えている。断定はできなかった。町じゅうの家に同じような斧があったからだ。

そして事件当夜、もう一つ奇妙な出来事が町で起きていた。ヴィリスカの電話交換手ゼニア・ディレイニーは、午前二時十分に階段を上がってくる足音を聞き、誰かが自分の部屋の鍵のかかったドアを開けようとした、と後に語っている。交換手は町の情報が全部集まる場所にいる。もしこれが犯人の二軒目の試みだったとすれば――背筋が寒くなる話だが、確かめようがない。

葬列は五十台、そして町は壊れはじめた

6月12日、町の広場で合同葬儀が行われた。参列者は七千人ともいわれる。町の人口の三倍以上だ。取材に来た記者は三百人。州兵が通りを封鎖するなか、霊柩馬車が臨時安置所の消防署へ向かった。棺は葬儀のあいだ開かれなかった。八つの棺は数台の荷馬車に載せられ、ヴィリスカ墓地へ運ばれた。葬列は五十台の馬車が連なった。

そのあとが、また重い。スティリンジャー家では事件の数日後に死産があった。年の暮れには家が火事で焼けた。二人の娘を失った家に、さらにそれが重なった。

捜索は形だけ進んだ。翌6月11日にはブラッドハウンドが投入され、ムーア家からノダウェイ川まで匂いを追ったが、川で途切れた。周辺の田舎を探しても、それらしい人物は出てこない。当たり前だ。犯人には最大で五時間の先行があり、町には毎日三十本近い汽車が停まっていた。

そして町は割れた。ムーア家は長老派、有力な容疑者と目された人物はメソジスト派。町の疑心暗鬼は、そのまま教会の線で真っ二つになった。ここから十年近く、ヴィリスカは大陪審、名誉毀損訴訟、刑事裁判、そして無数の小競り合いに引きずり回されることになる。政治家のキャリアが一つ壊れた。この事件をきっかけに、アイオワ州は後の州捜査局につながる組織の設置に動く。皮肉な話だ。八人が死んで、ようやくこの州はまともな捜査機関の必要性に気づいた。

容疑者その一・巡回牧師と、自白と、その撤回

まず最初に断っておく。以下に名前が出てくる人物は、いずれも法的に犯人と認定されていない。とくに巡回牧師リン・ジョージ・ジャックリン・ケリーは二度の裁判を経て無罪が確定している。ここで書くのはあくまで「当時何が疑われ、何が反証されたか」の記録だ。

ケリーはイギリス生まれの巡回牧師で、1912年当時三十四歳。牧師の家系の三代目だ。身長は約百五十七センチ、体重は五十四キロから六十キロ程度と記録されている。十代のころに精神的な破綻を経験し、1904年に妻とアメリカに渡ってから、ノースダコタ、ミネソタ、カンザス、アイオワの小さな教会を渡り歩いていた。行く先々で「変わった人」という評判が立った。もっと直截に言えば、覗きの前歴があり、若い女性に裸のモデルを頼むといった行動が複数記録されている。

彼は事件前日の6月8日にヴィリスカに来た。目的は「子どもの日」のプログラムの手伝いだ。当夜は長老派教会のウェスリー・ユーイング牧師の家に泊まっている。ここが妙なのだが、ユーイング夫人はアレルギーがあって屋外のテントで夫と寝ており、家の中にはケリー一人が残っていた。つまりアリバイの証人がいない。そして翌朝五時十九分、彼は西行きの五号列車でヴィリスカを発った。遺体が発見される三時間前だ。

疑いを決定的にしたのは、その列車での言動だとされる。同乗者に対して「ヴィリスカで八人が寝ているところを殺された」と話した、という証言が出たのだ。遺体発見前に犠牲者数を知っていた、ということになる。さらに彼は二週間後にヴィリスカに戻り、あろうことか捜査関係者を装って現場見学の一団に紛れ込んだ。スコットランドヤードの刑事を名乗ったという話まで残っている。事件後、彼は捜査当局や遺族に大量の手紙を書き送った。私立探偵が返事を出して「何か知っているか」と水を向けると、彼は細かく書いてよこした。物音を聞いた、犯行を目撃したかもしれない、と。エパリーによれば、その手紙には「女性は打たれたとき起き上がった」「犯人は通りを歩く人の気配で手を止めた」といった、犯人しか知り得ないようにも読める記述が混じっていた。事件の一週間後、彼が血のついたシャツを洗濯に出したという話もある。

1914年、彼は郵便で猥褻な文書を送った罪で有罪となる。求人広告に応じた女性に、およそ表に出せない内容の手紙を送りつけたのだ。彼はワシントンの国立精神病院に送られた。ここで捜査当局の関心が再燃する。

1917年、大陪審がリーナ・スティリンジャー殺害でケリーを起訴した。彼は夏じゅう勾留され、繰り返し取り調べを受けた。8月31日の午前七時、彼は自白書に署名する。「二階の子どもたちを先に、一階の子どもたちを最後に殺した。神がそう望んだのだと分かった。『徹底的に殺せ』という言葉が浮かび、斧を取って家に入り、彼らを殺した」。別の記録では「幼子らをわれに来たらせよ」という聖句を口にしたともされる。留置中には、看守が「運動になるから薪でも割らないか」と持ちかけて彼の利き手を確かめる、という荒っぽい確認まで行われた。窓という窓から人が見ていたという。彼は左手で斧を振った。検死官が血痕から推定した犯人の利き手と一致する。

だが裁判で、彼は自白を撤回した。取り調べで暴力を受けた、と主張したのだ。決定的な外部証拠は崩れていった。「列車で八人と言っていた」と証言したはずの老夫婦は、証言を変えた。血のついたシャツも、確かな鑑定にはつながらなかった。彼を現場に結びつける物証は、最後まで一つも出なかった。第一審は評決不能。エパリーの整理によれば、十一人が無罪、一人が心神喪失を主張しての不一致だ。すぐに第二の陪審が組まれ、十一月、彼は無罪となった。

反証はいくつも立つ。まず体格だ。身長百五十七センチの小柄な男が、斧を天井にえぐり込むほど振り上げて、八人を短時間で――しかも一人も逃さずに――というのは無理があるという指摘がある。次に家の構造だ。ジョサイアとサラのベッドは階段を上がってすぐの位置にあり、この家は音が抜ける。二人が物音に気づかないほうが不自然だ、という見方も根強い。そして最大の反証はケリーの人生そのものだ。彼はヴィリスカの前にも後にも、暴力事件を一度も起こしていない。性的逸脱と精神疾患は記録に残っているが、それは八人を殺す能力の証明ではない。むしろ彼のような人物は、当時の司法にとって「自白させやすい人」だった。長期の勾留、繰り返しの尋問、精神的に不安定な被疑者、そして証拠のない自白。この組み合わせは、現代の目で見れば危険信号そのものだ。ケリーは無罪判決後さらに十年ほど各地を転々とし、1959年、ロングアイランドの精神科病院で亡くなっている。

容疑者その二・州上院議員は誰かを雇ったのか

町の人々の疑いが最初に、そしていちばん強く向かったのはフランク・ファーナンド・ジョーンズだった。1912年当時五十七歳。裕福な実業家で、銀行家で、アイオワ州上院議員。ヴィリスカでいちばん影響力のある男の一人だ。メソジスト派教会の有力信徒でもあった。

動機は二本立てで語られる。一本目は商売だ。ジョサイア・ムーアはかつてジョーンズの農機具店で七年から九年働き、看板営業マンだった。だが1907年に独立し、しかも自分の店をジョーンズの店の真向かいに構えた。おまけに稼ぎ頭のジョン・ディア社の販売権まで持って行った。ジョーンズの労働条件は朝七時から夜十一時まで週六日という凄まじいもので、それが独立の引き金だったという話もある。二本目は、もっと生々しい。ジョサイアがジョーンズの息子の妻ドナと関係を持っていた、という噂だ。1912年までに、二人は道で顔を合わせないよう互いに通りを渡って避けるようになっていた。人口二千人の町でそれをやるのは、宣戦布告に近い。

なぜこの噂が町中に知れ渡っていたのか。エパリーの説明が身も蓋もなくて面白い。当時のヴィリスカでは、電話をかけるには交換手を通さなければならなかった。そして密会の約束を電話でしていたので、交換手が知っていた。交換手が知っているということは、町が知っているということだ。

ただし、ジョーンズ本人が斧を振ったと考えた住民はほとんどいなかった。五十七歳の名士だ。疑われたのは「誰かに金を払ったのではないか」という筋である。この線を全力で押したのが、後述する私立探偵ジェームズ・ウィルカーソンだった。ジョーンズは正式に起訴されたことは一度もない。だが大陪審の調査対象となり、彼の政治生命は事実上ここで終わった。1916年、州上院議員の再選に失敗している。

反証も強い。まず、ジョーンズを現場や計画に結びつける物証が皆無だ。証言も、後から出てきた「見た」「聞いた」の類で、いずれも法廷に耐えなかった。動機の面でも疑問がある。彼はすでに町で最も成功した人物の一人で、失うものが多すぎた。商売敵の一家を、しかも子ども六人ごと消させるという選択に、費用対効果の説明がまるでつかない。さらに、これは細かいが効く事実だ。犯人を追跡するためのブラッドハウンドの費用を保証したのは、ジョーンズ本人だった。もちろん「疑いをそらすため」と読むこともできる。だがこの手の「読める」だけの話を積み重ねても、それは証拠ではない。ジョーンズは弁護士の忠告を振り切ってウィルカーソンを名誉毀損で訴え、そして負けた。彼は後年、あの訴訟が人生最大の失敗だったと語っている。町の疑いは、法廷では晴れなかったし、法廷では証明もされなかった。

容疑者その三・「斧の男」は中西部を移動していたのか

ここからが、この事件がただの地方の惨劇では終わらない理由だ。

1911年から1912年にかけて、中西部では似た形の斧殺人が続いていた。1911年9月17日、コロラド州コロラドスプリングス。H・C・ウェイン一家が就寝中に斧で殺害され、犯人はそのまま隣家に移って、さらに複数名を同じ手口で殺した。この現場では、外から覗かれないよう窓にシーツが掛けられ、犠牲者の頭は寝具で覆われ、斧の血は拭われていた。ヴィリスカと同じだ。1911年10月1日、イリノイ州モンマス。ドーソン一家三人。凶器はパイプらしいが、状況が酷似していた。1911年10月15日、カンザス州エルズワース。ショーマン一家五人が就寝中に殺害され、現場にはホヤを外したランプが残され、そして電話機の上に衣類が積み上げられていた。1912年6月5日、カンザス州パオラ。ハドソン夫妻が殺された。ヴィリスカのわずか四日前だ。ここでも芯を折ったランプが使われていた。そしてこの夜、パオラでは別の一軒でも物音がして、住人が起きたら見知らぬ男が窓から逃げていったという。ヴィリスカでも同じ夜、電話交換手のドアが試されている。

この連続性を最初に指摘したのは、司法省捜査局――FBIの前身だ――の特別捜査官マシュー・マクラーリーだった。1913年のことだ。彼はこの一連の締めくくりを1912年12月のミズーリ州コロンビアの事件と見て、そこで有罪になったヘンリー・リー・ムーア(被害者のムーア家とは血縁関係なし)を全体の犯人と考えた。ヘンリー・リー・ムーアは自分の母と祖母を斧で殺して有罪になった男だ。当時の新聞はこの連続犯に「ビリー・ジ・アックスマン」という呼び名まで付けた。

だがヘンリー・リー・ムーア説には無理がある。2006年にベス・クリンゲンスミスがこの連鎖を検証し直し、彼を連続殺人犯とする説を否定した。彼のコロンビアでの動機は明確に金銭――家の権利証だった――で、放浪型の連続殺人犯がわざわざ実家に戻って身内を殺すという行動は、犯罪学的にきわめて不自然だ。

より大掛かりな仮説が2017年に出た。ビル・ジェームズとレイチェル・マッカーシー・ジェームズ親子の『ザ・マン・フロム・ザ・トレイン』だ。父のビル・ジェームズは野球のセイバーメトリクスを作った統計の人で、その手法を古新聞の山に持ち込んだ。彼らは1890年から1920年ごろまでの家族皆殺し事件を二百五十件近く洗い、約三十項目の共通指標を抽出した。鉄道の分岐点から徒歩圏内であること。警察力の弱い小さな町であること。犯人が身を隠せる納屋があること。番犬がいない家であること。斧の峰を使うこと。斧を現場に置いていくこと。窓を内側から布で覆うこと。金品を一切盗まないこと。そして彼らは、この一連の犯人を1897年(1898年とも)にマサチューセッツ州ウェストブルックフィールドで雇い主一家を殺して姿を消した農場労働者、ドイツ語話者のポール・ミュラーだと結論づけた。確信を持って十四件五十九人、可能性としてさらに二十五件九十五人。もし正しければ、アメリカ史上最多の連続殺人犯ということになる。

反証も、当然ながら山ほどある。まず斧という凶器そのものが弱い指標だ。当時の農村では、どの家にも斧があって、たいてい庭に転がっていた。手ぶらで来た人間がその場で手に取れる「都合のいい凶器」なのだ。就寝中を狙うのも同じで、斧は動く相手にはほとんど役に立たない。つまり「斧で、寝ている人を」という共通点は、驚くほどのことではない。次に、事件同士の食い違いも多い。凶器がパイプだったり、犠牲者の構成が違ったり、放火の有無が揃わなかったりする。そしてジェームズ親子の方法論そのものへの批判もある。素材が新聞記事であること、事後的にパターンを当てはめている疑いが拭えないこと、そして肝心のポール・ミュラーという人物について分かっている情報が原稿用紙数枚分しかないことだ。共著者自身が「彼について知っていることは五百語くらいしかない」と認めている。

そしてヴィリスカ固有の最大の難点はこれだ。初めて入った家で、最小限の灯りしかない状態で、なぜ犯人は一階の姉妹の部屋も、二階の子ども部屋も素通りして、まっすぐ夫婦の寝室に向かえたのか。旅の通りすがりの人間が、そこまで正確に間取りを把握できるだろうか。逆に、それができるのは家をよく知る人間ではないのか。ここが「流れ者説」の喉に刺さった骨として、いまも抜けていない。

私立探偵が現場を汚した、という別の犯罪

事件そのものと同じくらい、いやある意味それ以上に読んでいて胸が悪くなるのが、ここからの話だ。

1914年、ヴィリスカに一人の男が現れる。ジェームズ・ニュートン・ウィルカーソン。全米規模の私立探偵社バーンズ探偵社のカンザスシティ支社の探偵だ。彼は最初、不動産業者を装って町に潜り込んだ。数か月後に正体を明かした相手が、州の捜査の停滞に苛立っていたロス・ムーアだった。ここから、この事件は捜査ではなく興行に変わっていく。

ウィルカーソンの筋書きは明快だった。ジョーンズが、ウィリアム・「ブラッキー」・マンスフィールドという前科者を雇って殺させた。マンスフィールドは元陸軍兵で、レブンワースの軍刑務所に指紋が残っている。だから手袋をして指紋を残さなかったのだ――と彼は主張した。1914年にイリノイ州ブルーアイランドで妻と自分の乳児と義父母が斧で殺された事件の主要容疑者でもあった。コロラドスプリングス、エルズワース、パオラ、そしてイリノイのオーロラの事件にも彼を結びつけた。「すべて同じ手口だ。鏡が覆われ、ホヤを外したランプがベッドの足元に置かれ、台所には犯人が洗った洗面器がある」。

問題は、その捜査の中身だった。1918年のカンザス州最高裁の判決文が残っているので、そこに書かれた内容をそのまま引く。ウィルカーソンはカンザスシティの食肉工場でマンスフィールドを仕事中に呼び出し、令状なしで身柄を拘束した。橋を渡る車中で脇腹を小突き、自白しなければ川に放り込むと脅した。移送先の分署で一晩じゅう食事も水も睡眠も与えずに尋問し、罵り、顔を殴って歯をぐらつかせ、頭のまわりで斧を振り回し、頬に押し当てて「ムーア一家と同じように殺してやる」と言った。マンスフィールドはこれをバーンズ探偵社に対する暴行として訴え、二千二百五十ドルの賠償を勝ち取った。裁判所は「探偵業は合法で名誉ある仕事だが、被疑者を拷問台にかけずとも徹底的な捜査は可能だ」と書いている。1918年の裁判所にそう書かれるレベルの取り調べだった、ということだ。

そのマンスフィールドは、給与記録で完璧なアリバイが立った。ヴィリスカの犯行時刻、彼は数百キロ離れたイリノイで働いていた。1916年に身柄をアイオワに移送されたものの、大陪審は起訴を見送った。ウィルカーソンは「ジョーンズの圧力で潰された」と主張し、その怒りの矛先が今度はケリー牧師の起訴に向かった――と自ら語っている。

ウィルカーソンはヴィリスカや近隣の町で公開集会を繰り返し開いた。舞台に立ってジョーンズ父子を名指しし、聴衆から捜査資金を集めた。これは捜査ではない。世論の動員だ。しかも彼は雇われている側で、依頼された結論を証明することが仕事だった。1916年、ジョーンズは再選に落ちた。1917年には、アイオワ州議会が「裁判に関わる陪審員や証人に影響を与える目的の公開演説を差し止められる」法律を通し、州の司法長官がその法律を使ってウィルカーソンの集会を実際に差し止めている。彼自身が「あの法案は私を黙らせるために作られたと、提案者が議場で言った」と語っている。一人の私立探偵のために、州が法律を一本作ったのだ。

被害は計り知れない。まず、まともに検討されるべき他の可能性が、この騒動に埋もれた。次に、証言が汚染された。公開集会で「犯人はジョーンズだ」と何十回も聞かされた町の人間の記憶は、もう独立した証拠ではない。マンスフィールドを見たという飲食店主R・H・ソープの証言も、森で三人の男が計画を話していたのを聞いたというヴァイナ・トンプキンズの証言も、そういう空気の中で出てきたものだ。信じるにも疑うにも足場がない。そして最後に、証拠にならない疑いが一人の人間の人生を壊した。ジョーンズは犯人と認定されていない。同時に、無実を証明する機会も与えられなかった。

その他、名前を挙げられ、そして消えていった人たち

この事件には、ほかにも何人もの「疑われた人」がいる。彼らの話は、当時の捜査がどれだけ的を外していたかの標本でもある。

アンドリュー・ソーヤーという流れ者がいた。事件当日の朝六時ごろ、近くのクレストンで鉄道の仕事を探していた男だ。褪せた茶色の服、膝まで濡れたズボン、泥だらけの靴。人手不足だったのでその場で雇われた。彼はその晩、事件を報じた新聞を買って一人で読み、以後この事件の話を仕事仲間に繰り返し語った。そして斧を枕元に置いて、服を着たまま寝る癖があった。いつでも逃げられる格好で、である。しかも彼は同僚に「事件の夜ヴィリスカにいたが、疑われるのが怖くて出た」と話していた。同僚のトーマス・ダイヤーが保安官に引き渡したのが6月18日。だが調べてみると、彼はその夜アイオワ州オセオラで浮浪の罪で逮捕・留置されていた。完璧なアリバイである。ソーヤーは「怪しい人」ではあったが、犯人ではなかった。

サミュエル・イライアス・モイヤーという名前も検死審問で出た。ジョサイアの義理の兄弟で、「ジョサイアを殺してやる」と何度も口にしていたと証言された。だがアリバイが確認され、翌々日には嫌疑が晴れている。

ラヴィング・ミッチェルという名前も記録に残るが、詳細は乏しい。要するに、事件直後のヴィリスカでは「流れ者」「よそ者」「変わり者」であることが、そのまま容疑になった。町の人間は疑いたくなかったのだ。自分たちの中に犯人がいるという可能性を。それがこの捜査を歪めた、たぶん最初の力だった。

いま、その家は一泊いくらで泊まれる

現在、ヴィリスカ東二番街508番地のあの家は「ヴィリスカ斧殺人の家」として保存され、公開されている。日中のツアーもあるし、泊まることもできる。

ここに至るまでの経緯が、なかなか数奇だ。事件後の九十年で、この家は十三人の所有者の手を渡った。長い空き家の時期もあり、1960年代から70年代には賃貸物件になっていた。1963年から71年は地元の貯蓄貸付組合が持っていた記録がある。おそらく差し押さえだ。この間に家は近代化され、前後のポーチは囲われ、水道と電気が引かれ、食料庫は室内トイレに改造された。要するに、ごく普通の古びた家になっていた。

1994年の大晦日にこの家を買ったリックとヴィッキー・スプレイグ夫妻は、修繕の途方もなさに気づいて数か月で音を上げ、地元の不動産業者ダーウィン・リンに買い取りを打診した。リンは不動産業のかたわら郷土史家でもあり、妻マーサと町の博物館を共同で運営していた。彼は1995年1月1日の深夜を期限にした、かなり安い金額を提示した。断られるつもりだったらしい。数か月後、先方の代理人から「受けます」と電話がかかってきた。彼はしばらく妻に言い出せなかったという。

夫妻はここから、驚くほど徹底した復元をやった。ビニールのサイディングを剥がし、元の板壁を塗り直した。水道も電気も撤去した。囲われたポーチを開け放ち、裏庭に屋外便所と鶏小屋を建て直し、トイレになっていた食料庫を食料庫に戻した。古い写真と近所の人の記憶を突き合わせて、家を1912年に押し戻したのだ。1997年、この家はアイオワ歴史保存連盟の賞を受け、同年、国家歴史登録財に登録された。夫妻は1990年代後半に一般公開を始めたが、面白いことに、所有していた期間を通じて一度も広告を出さなかった。それでも人は来た。

ダーウィンは2011年に亡くなり、マーサがその後十二年間、長年のマネージャーであるジョニー・ハウザーとともに運営を続けた。八十代になっても雑草を抜き、客と話していたという。2023年、八十七歳で引退を決め、ゴーストツアーを全米展開する会社の創業者に家を売却した。所有権が正式に移ったのは2024年1月5日。いまは部屋単位でも家まるごとでも予約でき、料金は個室が一泊二百ドル弱、家まるごとで六百ドル弱。冬の閑散期は二割引きになる。2026年には、公開三十年を記念したドキュメンタリーも公開された。

町にとって、この家は複雑な存在であり続けている。2012年に取材した書き手が計算したところでは、当時の週末の宿泊収入だけで年間四万ドル超。町の世帯収入の中央値が二万六千ドルの町での、その数字だ。血がしたたるような書体で「ヴィリスカ斧殺人の家」と書かれた大きな白い看板は、賛否の象徴になった。かつての町長は「正直、うんざりしている住民もいる」と語り、鉄道の歴史や、町から出た軍人たちの功績をもっと押し出したいと言っていた。実際この町は、北アフリカでナチスの防衛線を突破して大隊を生還させ、シルバースターを受けたロバート・ムーア中佐を出している。皮肉なことに彼はジョサイアの甥だ。彼が駅で家族と再会する写真は、1944年のピュリッツァー賞を取っている。町にはそういう歴史もある。でも人が来るのは、あの家のほうなのだ。

かつてダーウィン・リン自身、州都のパレードでヴィリスカのジャケットを着て歩いていたら、沿道から「斧殺人の町だ」と声が飛んできて、意味が分からず戸惑ったと語っている。町の名前は、住民の意思とは無関係に、あの一夜と結びついてしまった。それを商品にするか、黙って背負うか。ヴィリスカはずっとその二択のあいだで揺れている。

泊まった人たちが持ち帰ってきたもの

ここからは、近年その家に泊まった人たちの話をいくつか紹介する。信じる信じないは読む人の自由でいい。ただ、この家に人が何を持ち込み、何を持ち帰っているのかは、事件の現在地を考えるうえで無視できない。

一件目。「ゴーストマムズ」と名乗って活動しているアメリカの二人組の母親がいる。子どもの幼稚園のクラス行事で知り合った友人同士で、仕事と子どもの送り迎えの合間に各地の心霊スポットを回っている。彼女たちがヴィリスカに泊まったのは2020年と2022年の二回。一度目は、子ども部屋のベッドの下に人感センサーを置き、戸口に電磁場の変化を拾う機材を置いた。夫婦の寝室で暗闇に座っていると、しばらくして子ども部屋のセンサーが鳴った。飛び上がってベッドの下を覗いても、鳴る理由は見つからない。あとで暗視カメラの音声を再生したら、その瞬間に子どもの声で「ママ」と入っていたという。部屋の中では誰も、その声を耳では聞いていない。屋根裏にいたときには、戸口に置いた機材の全ランプが点滅を始め、新品から入れたばかりの電池が数分で空になった。二度目の宿泊では、壁から離れて立っていた一人が、後ろから髪をそっと引かれる感覚を訴えている。攻撃的ではなく、遊びに来た子どもみたいな触り方だった、と。彼女たちは「誰が殺したのか」と機材に問いかけたとき、単語データベースが「レヴァレンド」「ケリー」と返した、とも書いている。もちろん本人たちも、これを証拠だとは言っていない。

二件目。ある調査チームの女性メンバーが、自分たちの一夜をかなり率直に書き残している。彼らは納屋を本部にして家じゅうに赤外線カメラを配線し、窓を厚いゴミ袋で目張りした。彼女が最初に嫌な感じを覚えたのは、台所の脇の小さな食料庫だった。夜、子ども部屋で真っ暗な中に座っていると、足元の床板から光の球のようなものが上がってきて、八の字を描いてまた床に沈んだ。声も出せずに見ていたら、隣にいたリーダーが息を呑んだ。彼も見ていた。屋根裏では、そのリーダーともう一人が何かを見たらしく、二人とも顔から血の気が引いて手が震えていた。彼女は嫌な予感がして屋根裏には上がらなかった。台所での交信を試みたとき、彼女は例の食料庫の暗がりの中に、暗闇より暗い人型のようなものが壁から現れるのを見た、と書いている。彼女は目を閉じて「やめて」と声に出した。リーダーが「君にも見えたか」と言った。その後も彼女は、耳元で息を吐かれる感覚と、足のない子どものスカートが自分のそばに歩いてきて裾を引かれる感覚を訴えて、投了を宣言している。後日談が重い。そのリーダーは半年ほど深い抑うつから抜け出せなかった。彼女自身は帰宅後、四日間眠り続け、数週間この夜の話ができなかったという。何が起きていたのかは分からない。ただ、この家に入って心を持っていかれる人が実際にいる、という記録として読む価値はある。

三件目。作家のジェン・コリガンが2018年10月に恋人と泊まったときの手記が、これがまた文章としていい。二人は付き合いはじめたばかりで、彼が選んだ「あえてロマンチックでない旅行先」がこの家だった。管理人は三十代半ばの髭の男性で、バンドのTシャツを着ていて、感じのいい父親みたいに笑う人だったという。彼は一階のリーナとアイナの部屋――通称ブルールーム――を案内し、ドレッサーの引き出しの取っ手に鈴が結んであるのを見せた。引き出しがひとりでに開いたり閉まったりしたとき分かるようにだ、と。目撃してきた現象を、彼は買い物リストを読み上げるような平坦さで並べた。足音、声、勝手に動く物。そして二人に、頭のない斧の柄に結んだ鍵を手渡して「楽しんで」と言って帰っていった。夜、二階に上がった二人は、蒸し暑かった空気が数分で真冬みたいに冷えるのを感じた。彼女が階段の上から先に進めずにいると、一階の奥の客用寝室から大きな物音がした。恋人が悲鳴を上げ、彼女は台所を抜けて裏庭に飛び出した。外は雨だった。そして午前零時四十五分――犯行時刻の推定値のひとつだ――ブルールームで鈴が鳴った。二人はそのあと高速道路沿いのチェーンモーテルに逃げた。彼女はこの経験を「幽霊がいた」と断言するのではなく、「自分が体験したことを人に信じてもらうことの難しさ」という別のテーマに接続していて、そこがこの手記の一番いいところだ。

四件目として、逆の証言も置いておきたい。カンザスシティのある調査チームが2013年にこの家で十時間かけて行った調査の報告は、拍子抜けするほど何も起きていない。前回訪問時の重苦しさが嘘のように、家は静かだった。屋根裏に置いた検知器は無反応。扉も動かず、説明のつかない足音も録れなかった。彼らは自分たちで「心霊スポットは毎晩同じではないし、現象はリクエストに応えてはくれない」という身も蓋もない結論を書いている。この誠実さは記録しておく価値がある。2007年の取材では、夜十時に入った二人組の女性が三十分で耐えられなくなって出て行った、という話も残っている。何も起きなくても、あの家は暗くて、静かで、狭いのだ。

そして、笑って済ませられない出来事も起きている。2014年11月、単独で宿泊していた男性客が一階の部屋で負傷し、緊急搬送された。本人は後に「何も覚えていない」と語った。当時の管理人だったジョニー・ハウザーは翌朝、通知の嵐で目を覚まし、駆けつけた台所の床に、宿泊客が子どもたちへの供え物として置いていったテディベアが血に濡れて転がっているのを見た。共同経営者だったマーサは泣きながら「これは楽しむための場所のはずでしょう。閉めましょうか」と言ったという。ハウザーは閉めなかった。閉めれば「呪われすぎて閉鎖」という噂が立ち、無断侵入者が増えると考えたからだ。数年後、テレビ番組の収録でその男性が家に戻ってきたとき、ハウザーは彼と話した。男性は、あの夜は一人で霊を挑発していた、気づいたら病院にいた、と語り、泣き崩れた。事件のせいで人生が壊れた、誰も自分を正気だと思ってくれない、と。そして家に入る前に、天井を見上げて謝った。大声を出したこと、挑発したことを謝ったのだ。ハウザー自身は、この一件以来この家に泊まっていない。彼は言っている。「幽霊が刺したなんて言うつもりはない。ただ、あの家は来た人の内面を跳ね返す。良いものを探しに来れば良いものが返り、悪いものを探しに来れば悪いものが返る」。

観光と尊厳のあいだで、どこに線を引くか

ここは正直に書く。私はこの家が公開されていること自体は、悪いことだと思っていない。

理由は単純で、公開されていなければこの家はとっくに消えていたからだ。事件から八十年、家は空き家と貸家のあいだを行き来しながら朽ちかけていた。1994年の時点で、条例で取り壊されてもおかしくない状態だった。あそこを買い、水道と電気をわざわざ引っこ抜き、屋外便所を建て直してまで1912年に戻した夫婦がいなければ、いまごろ更地に別の家が建っていたはずだ。八人が生きて、笑って、寝室に上がっていったあの空間は、物理的にはもう存在しなかった。

同時に、線を越えているものもある。血が滴る書体の看板。心霊機材の物販。「挑発」を目的にした宿泊。子ども部屋のベッドの下に人感センサーを置くという行為に、私は正直、少し立ち止まる。あそこで死んだのは七歳と五歳と八歳と十歳と十一歳と十二歳だ。彼らは霊感コンテンツの登場人物ではなく、日曜学校の発表会で歌を歌ってから帰って寝ただけの子どもたちだ。この二つを両立させるのは難しい。難しいのだが、両立させようとしない態度がいちばん悪い、とは言える。

現在の運営会社は「被害者たちは正義を得られなかった。その物語を伝えたい」と、保存と語り継ぎを前面に出している。三十周年のドキュメンタリーもその路線だ。それが本音かビジネス上の建前かを、外から断言することはできない。ただ、少なくとも語り方の水準を上げようという圧力が働いていることは事実だ。訪れる側にできることもある。あの家に行くなら、八人の名前と年齢くらいは覚えていくといい。ジョサイア、サラ、ハーマン、キャサリン、ボイド、ポール、リーナ、アイナ。それだけで、あの家の見え方はかなり変わる。

なぜ、百十年以上も解けないのか

最後に、この記事でいちばん書きたかったことを書く。ヴィリスカが未解決なのは、犯人が異常に賢かったからではない。周りの全部が、順番に失敗したからだ。

一つ目、時間だ。犯人には最大で五時間の先行があった。そして毎日三十本近い汽車が停まる町だった。発覚の瞬間、犯人はもう射程の外だった可能性が高い。

二つ目、現場だ。発覚から二時間、家は無防備だった。百人を超える人間が土足で歩き、凶器は何百人にも触られ、遺体は二十四時間近く現場に置かれ、頭蓋骨の破片は記念品として持ち去られた。写真は一枚も残らず、使える指紋も一つも採られていない。現代なら、あの家は間違いなく物語る。血痕の形が、微物が、DNAが。だが1912年のヴィリスカには、それを聞き取る耳がなかった。

三つ目、制度だ。町の治安を守っていたのは巡査一人。州には捜査機関がない。だから空白を埋めたのが、金で雇われた私立探偵だった。そして彼は捜査ではなく世論を動かし、被疑者を殴り、集会を開き、州に法律まで作らせた。彼が押し込んだ筋書きは、その後の証言をすべて汚染した。誰が何を「見た」と言っても、それが集会で刷り込まれた記憶かどうか、もう誰にも分からない。

四つ目、自白の扱いだ。1917年に得られた自白は、精神疾患のある被疑者を夏じゅう勾留して取り調べた末のものだった。陪審はそれを信じなかった。当然だと思う。あの時代の司法が「自白を取る」ことに傾けた資源を、物証の探索に向けていたら――と考えても、もう遅い。

五つ目、そして最も救いがないのが、記録そのものの喪失だ。現場写真がない。指紋がない。凶器は何百人分の手垢を被った。遺体は火葬でなく埋葬されたが、そこから百十年後の技術で何かを引き出すには、そもそも「何を照合するか」の対照が存在しない。容疑者リストの全員がとっくに死んでいる。仮に明日、誰かが屋根裏の梁の隙間から一枚の手紙を見つけて「私がやった」と書いてあったとしても、それを検証する術がない。

だからこの事件は、たぶんこの先も解けない。私たちにできるのは、犯人当てゲームを永遠に続けることではなくて、なぜ解けなくなったのかを正確に記憶しておくことだ。捜査は現場保存で決まる。私的な利害で動く捜査は捜査ではない。自白は証拠の王ではない。この三つを1912年のアイオワが学び損ねた代償を、いまも八人が払い続けている。

いちばん奇妙なのは斧ではなく、時間の使い方だ

ここからは、事実の整理を一周終えたうえでの、書き手としての考えを厚めに書いていく。取材と資料読みを重ねているうちに、どうしても頭から離れなくなった論点がいくつかあるからだ。

まず、あの現場でいちばん奇妙なのは斧でも遺体でもなく、「時間の使い方」だと私は思っている。人を殺した人間は、普通その場から離れたがる。ところがヴィリスカの犯人は逆をやった。八人を殺したあと、もう一度二階に戻って同じ相手を打ち直し、家じゅうのタンスを開けて布を探し、すべての鏡と扉のガラスと窓を覆い、八人の顔に一枚ずつ布をかけ、氷室からベーコンを出してタオルに包み、手を洗い、皿に豆とパンをよそって少し食べた。しかもこの間、灯りは芯を折ったランプ一つだけだ。作業量として考えると、少なく見積もっても一時間、おそらくは二時間以上をあの家の中で過ごしている。この「居座り」を説明できる仮説だけが、この事件の本当の答えになりうる。

居座りの説明として、大きく三つの読み筋がある。一つ目は儀式説。鏡を覆うのは当時の通夜の作法で、犯人はそれをなぞった。つまり犯人はこの一連の行為を「弔い」あるいは「後始末」として意味づけていた。二つ目は恐怖説。犯人は死者に見られていると感じていて、反射するものと目に見えるものを片端から潰していった。カンザス州エルズワースの現場で電話機に衣類がかぶせられていたことが、この説を支える最大の傍証になる。三つ目は、もっと即物的な読みで、犯人は単純に「その場に留まりたかった」というものだ。この場合、鏡を覆うのも窓を塞ぐのも、外から見られずに家の中に長く居るための実務的な処置になる。三つのどれも成立するし、どれも証明できない。ただ私は、三つが排他的だとも思っていない。恐怖から窓を塞ぎ、塞いだ結果として居られる時間が伸び、伸びた時間の中で儀式めいた振る舞いが生まれる。人間の行動は、そのくらい混ざるものだ。

次に、この事件の議論でずっと軽く扱われてきたと思うのが、「間取りの知識」という論点だ。犯人は最小限の灯りで、一階の姉妹の部屋も、二階の子ども部屋も素通りして、まっすぐ夫婦の寝室に入った。しかもジョサイアを先に、続けてサラを、目を覚まさせずに処理した。初見の家でこれをやるのは、控えめに言って難しい。ここから導ける可能性は二つしかない。犯人が家を知っていたか、犯人が事前にじゅうぶん観察していたかだ。前者なら地元の人間、後者なら納屋の干し草の跡と節穴の話がそのまま生きる。個人的には、後者の重みをもっと評価していいと思っている。あの節穴からは玄関が見えた。家族が教会から帰ってくるのも、どの窓の灯りがいつ消えるのかも、外から順番に読める。灯りが消える順番が分かれば、誰がどの部屋にいるかは推定できる。つまり「知っていた」のではなく「読み切った」のかもしれない。そしてこれは、地元説と流れ者説の両方に矛盾しない。

連続犯説については、私は「たぶん一部は本当で、全部は嘘」だろうと考えている。1911年から1912年の中西部で、あまりに似た現場が短期間に集中したのは事実だ。ホヤを外して芯を折ったランプという細部は、偶然の一致にしては具体的すぎる。パオラとエルズワースとヴィリスカに共通するこの一点だけでも、無関係だと切り捨てるのは無理がある。一方で、ビル・ジェームズ親子が組み上げた「一人の男が二百人近くを殺した」というスケールの絵は、方法論的にどうしても危うい。彼らが使ったのは主に新聞記事で、新聞記事は互いに真似をする。ある事件で「鏡が覆われていた」と報じられれば、次の事件でも記者はそこを探しに行く。つまり「共通点が多い」という観察そのものが、報道の構造によって水増しされている可能性がある。統計の人が新聞という素材を扱うときにいちばん警戒すべき罠が、まさにそこだ。彼らの本の価値は、忘れられていた数十件の家族皆殺し事件を掘り起こし、当時の司法が無実の人間を吊るしたり処刑したりしていた事実を可視化したところにあると思う。犯人の名前の特定は、正直、おまけだ。

牧師ケリーについては、書きながら何度も筆が止まった。彼は無罪だ。二度の裁判を経て、法的にそれは確定している。にもかかわらず、百年以上あらゆる本と番組で「いちばんそれっぽい人」として名前を出され続けている。この扱いは、たぶん公正ではない。彼にとって不利な事実は確かに多い。当夜あの町にいた。アリバイの証人がいない。夜明け前に発った。左利きだった。事件に異様な執着を示し、捜査官を装って現場に入り込んだ。性的逸脱の記録がある。だが、これらを全部足しても現場に彼を置く物証はゼロだ。そして彼の「異様な執着」は、精神疾患を持つ人が大事件に取り憑かれるという、現代ならごく普通に説明される現象でもある。彼が捜査当局に書き送った手紙の中身が「犯人しか知らないこと」に見えたという評価にしても、当時の新聞がどこまで詳細を報じていたかを厳密に照合しないと成立しない。私は彼を擁護したいのではない。ただ、無罪判決を受けた人間を娯楽の文脈で犯人扱いし続けることは、この事件が起こした二次被害の一つとして数えるべきだと思う。

同じことがフランク・ジョーンズにも言える。彼が疑われた根拠を並べると、実はほとんどが「感情」だ。嫌われていた。強欲だと思われていた。従業員に独立され、商売を持って行かれ、身内の醜聞まで囁かれていた。そして町の宗派の対立が、その疑いに構造を与えた。長老派は彼を疑い、メソジスト派は擁護した。人が誰を疑うかは、その人がどの教会に座っているかで決まった。これはもう捜査ではない。町の内輪の力学だ。そこに外から私立探偵がやってきて、その力学に火をつけて回った。ジョーンズは起訴されないまま社会的に処刑され、名誉毀損訴訟に負けてとどめを刺された。彼が本当に無関係だったかどうかは、いまとなっては分からない。分からないという状態のまま人生を終えさせられた、という事実だけが確かだ。

私立探偵の問題は、この事件から取り出せる最も現代的な教訓だと思う。ウィルカーソンは無能ではなかった。むしろ有能だった。潜入して信頼を得て、資料を集めて、人を動かし、州議会に法律を作らせるところまで持っていった。問題は、彼の有能さが「真相を明らかにする」ではなく「依頼された筋書きを通す」に向いていたことだ。彼は集会を開いて資金を集め、名指しをして、世論を作った。この構図は、いま私たちがネット上で毎日見ているものにかなり近い。誰かが強い物語を先に立てる。証拠は後から集められる。集まらない部分は「揉み消されたに違いない」で埋められる。反証が出ても、それ自体が陰謀の証拠として物語に吸収される。マンスフィールドの給与記録という決定的な反証が出たあとも、ウィルカーソンの支持者たちは説を捨てなかった。人は自分が信じた物語を、事実で上書きされることを嫌う。1916年のアイオワで起きたことは、2026年のタイムラインでも毎日起きている。

観光地化の話に戻ると、私が最終的に落ち着いたのは「保存と消費は分離できない」という、あまり気持ちよくない結論だ。あの家が残ったのは、あの家が売れるコンテンツだったからだ。もし1912年の惨劇がなかったら、アイオワの小さな町の1868年築の家が国家歴史登録財になることはなかった。逆に言えば、私たちが「不謹慎だ」と眉をひそめる消費のかたちが、結果としてあの空間を物理的に守ってきた。この矛盾を解消する方法はない。あるとすれば、消費のしかたに階層をつけることくらいだ。同じ入場料を払って同じ床に座るとしても、事件の経緯と捜査の失敗を知って座るのと、心霊映像のネタを撮りに座るのとでは、その家から持ち帰るものが違う。運営側が語りの質を上げること、来る側が最低限の予習をしてくること。この二つが噛み合った時だけ、あの場所は「見世物」から「記録」に寄る。ハウザーが言った「探しに来たものが返ってくる」という言葉は、心霊的な意味ではなく、そういう意味で正しいのだと思う。

最後に、この事件を書きながらずっと考えていたことを書く。ヴィリスカの物語は、いつのまにか「誰が殺したか」の物語になっている。牧師か、上院議員か、流れ者か、汽車の男か。百十年、みんなその話ばかりしてきた。でも1912年6月9日の夜に実際に起きたことは、もっと単純で、もっと取り返しがつかない。日曜学校の発表会があって、子どもたちが歌を歌って、聖句を読んで、家族が拍手をして、みんなで三ブロック歩いて帰って、クッキーと牛乳を食べて寝た。よその家の姉妹が二人、泊まりに来ていた。それだけの夜だったはずだ。翌朝、隣の女性が鶏を放してやってから電話をかけた。そこから先の百十年は、全部おまけだ。

だから、犯人の名前が分からないままでも、この事件は語り継がれる価値があると思っている。語り継ぐべきなのは謎ではなく、失われた八つの日常のほうだ。ジョサイアは朝七時から夜十一時まで働かされる職場を辞めて自分の店を持ったばかりで、たぶん誇らしかった。サラは日曜学校の発表会を仕切って、その日のうちに何度も子どもたちの出来を褒めただろう。ハーマンは十一歳で、キャサリンは友だちを泊まりに呼べたのが嬉しかったはずだ。リーナは十二歳で、妹のアイナと一つのベッドに詰めて寝た。あの夜、あの家にあったのは事件ではなく、ただの楽しい日曜日だった。それを覚えておくことのほうが、犯人の名前を当てることよりずっと難しくて、ずっと大事だ。少なくとも私は、そう思いながらこの記事を閉じる。

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