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よど号ハイジャック事件――「われわれは明日のジョーである」、模造刀で北へ渡った九人の五十年

一九七〇年三月三十一日の朝、羽田空港は普通に混んでいた。春休みの終わりで、家族連れがいて、出張のサラリーマンがいて、学会に向かう医者がいた。日本航空三五一便、羽田発福岡行き。機材はボーイング727、機体記号JA8315、愛称は「よど号」。淀川から取った名前だ。この日から半世紀以上たっても、この三文字は日本の戦後史から消えない。

七時三十三分、富士山が見えたあたりで世界が裏返った

離陸は七時三十三分。乗客は百二十二人、乗員は七人。コックピットに機長の石田真二、副操縦士の江崎悌一、航空機関士の相原利夫。客室には四人の乗務員。ちなみに、乗っ取り犯の九人も切符を買って搭乗券で乗り込んでいるので、彼らを乗客として数えると搭乗者は百三十一人になる。だからこの事件は資料によって人数が微妙に違う。どちらが間違いというわけでもない。

当時の空港には金属探知機のゲートなんてなかった。手荷物のチェックもあってないようなもので、若い男が細長い包みを抱えていても誰も止めなかった。搭乗ゲートで包みの中身を聞かれることもない。今の感覚だと信じがたいけど、一九七〇年の日本の空港はそういう場所だった。ハイジャックという単語自体、多くの日本人が知らなかった。海外のニュースで聞いたことがある人はいても、自分が乗る国内線で起きるとは誰も思っていない。

異変は富士山が見えるあたりで起きた。座席から立ち上がった男たちが、包みをほどいて日本刀を抜いた。拳銃らしきものと、導火線のついた爆弾らしきものも出てきた。この飛行機はハイジャックされた、と誰かが叫ぶ。

ところが機内はすぐには悲鳴で埋まらなかった。ハイジャックという言葉の意味が分からない乗客がかなりいたからだ。乗り合わせていた聖路加国際病院の医師、日野原重明が周囲に向かって、ハイジャックというのは飛行機を乗っ取ることです、と説明した、という話が残っている。事件の第一報が、機内で医者による用語解説から始まっているのが、この時代のリアルさを物語っている。

犯人グループは乗客を座席に縛りつけるようにしてベルトを締めさせ、通路を歩き回った。コックピットのドアを叩き、操縦席に押し入り、機関士を押さえつけた。要求はひとつ。平壌へ行け。

副操縦士の江崎は、これは福岡行きの国内線で、そんな燃料は積んでいないと説明した。実際その通りで、この機材の国内線シフトで朝鮮半島の北端まで飛べる燃料は載っていない。石田機長は給油を提案し、板付、つまり今の福岡空港に降りることになった。厳密に言えば燃料は福岡まで飛ぶには十分だったので、この給油は時間を稼ぐための機長側の提案という側面もある。

板付の滑走路で、日本の警察は初めてこの手の相手と向き合った

八時五十九分、よど号は板付空港に着陸した。ここから約五時間、日本中がテレビの前に釘付けになる。滑走路の端に止まった白と赤の機体が、望遠レンズ越しに延々と映し出された。事件の映像がリアルタイムで茶の間に流れ込むという体験自体が、当時の日本人にとって新しかった。

福岡県警は当然、この機体を国外に出したくない。給油をわざと遅らせ、自衛隊機が故障を装って滑走路をふさぐようなこともやった。妨害としては素朴だが、他にマニュアルなんてない。日本の警察は航空機を舞台にした人質事件と向き合った経験がゼロだった。犯人側はこれに苛立ち、機内の空気は悪化した。結果として、この手の妨害はかえって人質の危険を高めるという教訓を残すことになる。

膠着を動かしたのは機長だった。石田は犯人と交渉し、滑走路の障害物をどけることを条件に、女性と子ども、病人と高齢者を降ろす合意を取り付ける。十三時三十五分、二十三人がタラップを降りた。母親に抱かれた乳児がいて、腰の曲がった老人がいて、泣きながら走る人がいた。この解放は明らかに機長の交渉の産物で、彼が後に英雄扱いされる大きな理由になる。

そして十三時五十九分、よど号は板付を再び離陸した。行き先は北。福岡で渡された航路図は、中学生が使う地図帳のコピー一枚だったという。航空図でもなんでもない。線も引かれていない。犯人たちが持ち込んだ地理知識も似たようなもので、朝鮮半島の軍事境界線が東側では北緯三十八度線よりかなり北を通っていることを、彼らは正確に把握していなかった。この地図の粗さが、のちに致命的な勘違いを生む。

三時間で作られた偽の平壌。金浦空港という壮大な舞台装置

十四時四十分、機は西へ進路を変えた。このとき、地上ではとんでもないことが進行していた。韓国側は、この飛行機を絶対にソウルの金浦空港に降ろすと決めていたのだ。

後年、当時の韓国空軍の管制官が実名で証言している。中央情報部の幹部から閣下の指示だと伝えられ、大統領直々の意向として、よど号を金浦へ誘導する任務を負わされたという。管制官は平壌管制を名乗り、周波数を通じてよど号を導いた。

そして金浦空港では、八時間足らずのあいだに空港ひとつを丸ごと平壌に見せかける作業が進んでいた。北朝鮮の国旗が用意され、駐機していた韓国や欧米の旅客機は片っ端から飛ばされ、韓国企業のロゴが入った車両は黄色いペンキで塗りつぶされた。韓国兵は朝鮮人民軍の軍服を着て、平壌到着歓迎と書いたプラカードを掲げた。二十人ほどの若い女性が原色のチマチョゴリで花束を持って並んだ。冷戦下の国家が、たった数時間で舞台美術をやったわけだ。後年これを題材にした韓国映画が作られたとき、監督が、最初に知ったときはコメディみたいな状況だと思った、と語ったのも無理はない。

十五時十六分、よど号は金浦に着陸した。犯人たちは窓の外を見て、最初は本当に着いたと思ったらしい。だが嘘は端からほつれ始める。駐機場にアメリカの航空会社の機体が見えた。燃料の容器に西側の石油メジャーのマークがあった。出迎えの列に不自然な緊張があった。犯人の一人が地上の男にここは平壌かと聞き、相手が答えに詰まった。空港職員がうっかり大使という言葉を口にした、という話も伝わっている。北朝鮮と日本のあいだに国交はないのだから、大使などいるはずがない。

決定打は写真だった。犯人グループは、金日成の大きな肖像写真を出せと要求した。平壌の空港なら当然あるはずのものだ。ところがここは韓国である。用意できるわけがない。この時点で、九人は自分たちがソウルにいることを確信した。小西隆裕は後年、着陸直後に近くの兵士にここはソウルかと確かめた、と語っている。

三日間の膠着と、「役に立つ盲腸」を名乗った男

正体がばれてからは、金浦は純然たる包囲戦になった。韓国当局は停止したエンジンを再始動するのに必要なスターターの提供を拒み、機体を物理的に動けなくした。管制塔からは、乗客を降ろせば北朝鮮へ行くことを認める、という呼びかけが繰り返された。機内には水も食料も限られた状態の人質が百人以上いる。三月末のソウルは夜になると冷える。

このあいだ、コックピットでは静かな抵抗も行われていた。副操縦士の江崎が犯人の目を盗み、機内にいる犯人の人数と位置、持っている武器の内容を紙コップに書き、操縦席の窓からそっと落としたという逸話が残っている。これが地上でどこまで活用されたのかは判然としないが、命がけの行為であることは間違いない。

日本側も動いていた。三十一日の午後には日航の特別機が羽田を飛び立ち、運輸政務次官の山村新治郎ら政府関係者と日航社員を乗せて、四月一日未明にソウルに着いた。山村は当時三十六歳。千葉県佐原の米穀商の名家に生まれ、父の跡を継いで代議士になった二世議員だ。政務次官という役職は盲腸みたいなものだと揶揄されることが多かった。

交渉は難航した。犯人側は日本政府を信用していない。そこで持ち上がったのが、乗客全員と引き換えに要人が人質になるという案だった。山村はこれを引き受ける。記者会見での彼の言葉が有名になった。一刻も早く乗客を安心させたい、次官は盲腸だと言われるが、役に立つ盲腸だってあっていい、と。この一言で身代わり新治郎という呼び名が定着した。

犯人側は山村が本物かどうかを疑い、身元を証明する人物を指名した。指名されたのは日本社会党の衆議院議員、阿部助哉。四月二日、阿部がソウルに渡り、タラップの下でこの男は確かに山村新治郎本人だと証言した。左派の代議士が保守政権の政務次官の身元を保証するという、この事件でしか起こりえない構図である。

四月三日、交換が実行された。犯人の一人、田中義三が最後の乗客と入れ替わる形でタラップに立ち、山村が機内に乗り込む。乗客は順次解放された。解放された人質は日航の特別機で福岡へ帰ったが、このときアメリカ人の乗客が一人だけ日本に戻らず、そのまま韓国に降りている。北の方角へ飛ぶ飛行機からようやく降りた人間が、日本にも帰りたくなかったという話には、なんとも言えない味がある。

十八時五分、よど号は金浦を離陸した。乗っているのは犯人九人、乗員三人、そして山村。軍事境界線を越え、十九時二十一分、平壌の南南東およそ二十五キロにある美林飛行場に着陸した。夕闇の中の小さな滑走路で、石田機長は戦時中に夜間飛行の教官をしていた経験を頼りに、肉眼で滑走路を見つけて降ろしたという。

武器を置いた瞬間に、すべてが玩具だとわかった

北朝鮮側は機外に出る前に武装解除を要求した。九人は武器を置いて降りた。そして機内に残されたものを検分して、全員が同じ結論に達した。日本刀も拳銃も爆弾も、すべて模造品か玩具だったのだ。日本刀は模造刀、拳銃はモデルガン、爆弾は導火線のついたそれらしい塊。百人以上を三日半にわたって支配した力の正体が、ほとんど演劇の小道具だった。

これがこの事件の、最も語られる部分だ。もし板付で誰かが本気で飛びかかっていたら、事件は数時間で終わっていたかもしれない。だが機内にいた人間にそれを求めるのは酷だ。刃物が本物か模造品かを、抜き身を突きつけられた状態で見分けられる人間はいない。しかも彼らは爆弾を持っていると宣言していた。ハッタリが完全に機能したという事実は、その後の航空保安の考え方を根本から変えることになる。

北朝鮮の当初の対応は冷たかった。乗員と機体の早期返還は保証できないと突き放し、形式的な尋問が行われた。ただし乗員三人と山村に対する扱いは実際には悪くなく、個室と朝鮮料理が出て、映画鑑賞まで用意されたという。四月四日、北朝鮮は人道主義的観点から機体と乗員を返すと発表する。四月五日の早朝、四人は美林飛行場へ移された。ところが今度はエンジンが始動できない。スターター用の高圧空気がないのだ。現地で圧縮空気のボンベを調達し、車両用のバッテリーで機器を動かしてなんとかエンジンを回した。ほとんど町工場の対応である。

その日の午前、よど号は美林を離陸し、羽田に帰ってきた。石田、江崎、相原、そして山村の四人が無事に降りてきた。NHKはこの一連を特別番組で流し、三月三十一日夜の番組が視聴率四十三パーセント、四月五日の帰還中継が四十パーセントを記録した。日本人の四割が同じ画面を見ていた。

九人はどこから来たのか。赤軍派という、短くて激しい嵐

犯人グループは共産主義者同盟赤軍派を名乗った。一九六九年九月に神奈川県の城ヶ島で結成された、三十人ほどの分派である。

彼らの理屈はこうだ。革命は一国では完結しない。日本で武装蜂起して政権を一時的に握り、そこを世界革命の司令部にする。太平洋を挟んでアメリカ帝国主義と全面的に戦う。そのためには国内の非合法闘争を支える海外の後方基地が要る。この最後の部分が国際根拠地論と呼ばれ、よど号の直接の動機になった。

ただ、赤軍派は事件の時点でほぼ壊滅していた。一九六九年九月に大阪と東京で交番などを襲う武装闘争を仕掛け、同年十一月には山梨県の大菩薩峠で軍事訓練をしていたところを警察に踏み込まれ、大量に逮捕された。いわゆる大菩薩峠事件だ。さらに一九七〇年三月には議長の塩見孝也も捕まる。二百人以上が検挙され、組織は骨組みだけになった。よど号の実行は、その骨組みが最後に振り絞った一撃だった。追い詰められた集団が、追い詰められているがゆえに極端な作戦に出るという、よくある構図でもある。

九人の顔ぶれを見ると、当時の学生運動の断面がそのまま出てくる。リーダーの田宮高麿は二十七歳、大阪市立大学の出身で赤軍派の軍事部門を仕切っていた。小西隆裕は二十五歳、東京大学の医学部生で、東大全共闘の医学部共闘会議議長。学生時代は東大野球部に入って捕手をやっていたという経歴まである。岡本武は二十四歳で京都大学。若林盛亮は二十三歳。赤木志郎は二十二歳。阿部公博、後に日本人妻の姓を取って魚本公博と名乗る人物も二十二歳。田中義三は二十一歳で明治大学。吉田金太郎は二十歳。そして柴田泰弘は十六歳、高校生だった。

十六歳。ここに引っかからない人はいない。日本を出れば二度と帰れないかもしれないという意味を、十六歳がどこまで理解していたのか。実際、後年になって年少のメンバーほど、その決断の重さを事前に測りきれていなかったという見方が繰り返し語られている。彼らは自分の国籍を捨てるという文言まで含んだ声明を用意していたが、二十歳前後の人間にとって国籍を捨てるという言葉は、まだ言葉でしかなかったのかもしれない。

「われわれは明日のジョーである」。たった一行が半世紀持った理由

この事件を有名にしているのは、経過そのものより一行の文章だ。田宮が用意した出発の声明に、自分たちは明日のジョーである、という趣旨の言葉があった。ちばてつやと梶原一騎の『あしたのジョー』は当時まさに連載中で、若者の間で圧倒的に読まれていた。矢吹丈が真っ白に燃え尽きるまで殴り合うという物語を、革命に身を投げ出す自分たちの姿に重ねたわけだ。

面白いのは、この一行が政治的な文脈を離れて生き延びたことだ。今この言葉を知っている人の多くは、赤軍派の理論なんて一行も読んだことがない。それでも、われわれは明日のジョーである、は覚えている。漫画の主人公に自分を託して国を出た若者たち、という図像が、思想の中身より強く残ってしまった。テロの動機を語る言葉としては、これ以上ないほど文学的で、そしてこれ以上ないほど無責任にも見える。実際、この引用のされ方には当時から批判があった。ジョーは誰も人質に取っていない、という単純な指摘だ。

なお、この一節が声明のどこにどう書かれていたのか、機内に残された文書にあったのか、事前に用意された出発声明にあったのかについては、資料によって説明が微妙に異なる。細部を突き詰めると意外に曖昧なところがある、というのはこの事件の全体に共通する特徴でもある。

機内にいた人たちが、そのあと何を語ったか

日野原重明の証言は、この事件が残した最も奇妙な副産物だと思う。彼は当時五十八歳、聖路加国際病院の内科医で、福岡の学会に出るために乗っていた。乗っ取りが起きた瞬間、彼が最初にやったのは自分の脈を測ることだった。極限状態で人間の脈拍はどうなるのか、という職業的な好奇心が恐怖より先に来たのだ。測ってみると少し速い。ああ自分は動揺しているな、と確認した。

三日半の抑留のあいだ、彼は機内で本を借りた。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。その扉に引かれていた聖書の一節、一粒の麦もし地に落ちて死なずば、という言葉に出会って、気持ちが静まったという。金浦で解放されてタラップを降りるとき、足の裏から何かが走るような感覚があり、自分のこの命は与えられた命なのだと理解した。以後の人生を人のために使おうと決めた、と彼は繰り返し語っている。

日野原はその後、百歳を超えても現役の医師として働き続けた。あの三日半がなければ、日本の高齢者医療の風景は少し違っていたかもしれない。人質事件が一人の医者の人生哲学を作り替えたという話は、加害者側の理屈より遥かに長く残った。

石田真二機長の証言も重い。彼は北朝鮮の管制が名乗る前から、金浦へ誘導されていることに違和感を持っていたという。使われている周波数が西側で使うもので、しかも管制官の声が交代しているはずなのに妙に似ている。おかしいと思いながら、彼は指示に従った。機内には百人以上の人質がいる。ここで異議を唱えて犯人を刺激すれば何が起きるか分からない。判断としては筋が通っている。板付では自分から交渉して二十三人を降ろし、美林では地図もろくにない状態で夕闇の滑走路に降ろした。彼が帰国後に一躍英雄になったのは当然の流れだった。総理大臣から表彰も受けている。

副操縦士の江崎悌一の話も忘れがたい。彼は乗っ取り直後に、この便は福岡行きで燃料が足りないと犯人を説得し、機体を板付に降ろす流れを作った。金浦では紙コップに犯人の人数と武器を書いて窓から落とした。ただし彼は英雄譚を売り物にしなかった。事件後も日航の副操縦士として飛び続け、機長に昇格して定年まで勤め上げている。航空機関士の相原利夫も同じで、操縦室で真っ先に押さえつけられた男が、その後も淡々と機関士として飛び続け、定年を迎えた。派手なドラマにならなかった二人の後半生のほうが、実は事件からの回復の仕方としては健全だったのかもしれない。

そして山村新治郎。彼は人質になることを引き受けた瞬間から、日本中の英雄になった。だがその後の人生は残酷だった。彼は農林水産大臣や運輸大臣を務め、政治家として順調に登りつめる。一九九二年四月十二日、自民党の訪朝団の団長として北朝鮮に行く直前、精神疾患を抱えていた次女に刺されて亡くなった。五十八歳。翌日の予定には、二十二年ぶりに田宮高麿と再会することが入っていた。人質にした男と人質になった男が、四半世紀を経て向き合う場面は、ついに実現しなかった。次女は責任能力なしとして不起訴になり、四年後に自ら命を絶っている。

英雄はどこへ行ったのか。石田機長のその後

石田真二の後半生は、この事件の周辺で最も語られ方が難しい部分だ。彼は帰国後に英雄として扱われたが、事件の二年後、一九七二年に女性関係の問題が表沙汰になって日本航空を辞めた。英雄が私生活の醜聞で職を失うという展開に、当時のメディアは容赦がなかった。

その後の彼は、職を転々としながら大阪の岸和田近くの公営住宅で暮らした。夜間の警備員の仕事を、週六日、七十八歳まで続けたという。昼間に酒を飲まないためにあえて夜勤を選んだ、という話まで残っている。糖尿病でインスリンを毎日打ちながら働いた。近所の人は彼が誰なのか知っていたが、本人はほとんど自分から話さなかった。行きつけの店の主人によれば、いつもきちんとネクタイを締め、ダイヤのカフスをつけて、身なりだけは崩さなかったという。あの判断に後悔はあるかと聞かれて、後悔はないと答えたとも伝わる。二〇〇六年八月、がんで亡くなった。八十三歳だった。

英雄として表彰された男が、最後は夜勤の警備員として働き、誇りだけを持ち続けて死んだ。この事件が生んだ最も皮肉なエピソードだと思う。

平壌に残された九人が、そのあと四十年かけて辿ったもの

北朝鮮に降りた九人を待っていたのは、彼らが想像していたものとは違った。到着直後こそ世界革命の同志として歓待されたが、彼らが掲げていた北朝鮮を赤軍化するという目的は即座に否定された。当時の国際情勢を考えれば当たり前で、北朝鮮に日本の学生の理論で国家戦略を変える気などあるはずがない。九人は主体思想の徹底的な教育を受けることになる。一九七二年には日本メディア向けの記者会見で自分たちの路線を総括し、一九八〇年には手記を発表して、かつての思想が誤りだったと認める趣旨のことを述べている。

その後の九人の運命はばらばらだ。吉田金太郎は北朝鮮国内で早い時期に亡くなったとされる。粛清されたのではないかという見方が根強いが、確かなことは分からない。岡本武は一九八八年ごろに消息を絶ち、妻の福留貴美子とともに死亡が伝えられているが、これも詳細不明のままだ。リーダーの田宮高麿は一九九五年十一月三十日に急死した。死因についてはさまざまな説があるが、確認された事実は多くない。

日本に戻った者もいる。柴田泰弘は一九八八年五月六日に東京で逮捕され、懲役五年の判決を受けた。出所後は大阪で静かに暮らし、二〇一一年六月二十三日、大阪市内のアパートで亡くなっているのが見つかった。田中義三は一九九六年三月にカンボジアで身柄を拘束され、タイに移送されて偽百ドル札事件で起訴されたが、一九九九年六月に無罪判決を得た。そして二〇〇〇年六月に自分の意思で日本に帰国し、逮捕された。懲役十二年が確定し、服役中の二〇〇七年一月一日、肝臓がんで亡くなった。

残る四人、小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎は、二〇二〇年代半ばの時点でも平壌にいるとみられている。田宮の死後は小西がまとめ役になった。彼らはインターネット上によど号日本人村という発信の場を作り、SNSのアカウントも運用していた。そのアカウントは二〇二二年八月二十九日に終了宣言を出したが、消されずに残っている。半世紀前に飛行機を奪った男たちが、平壌からSNSで日本語の主張を発信していたという事実は、それだけで十分に奇妙だ。

日本人妻たちと、二十人の子どもたち

九人は北朝鮮で結婚した。相手はいずれも日本人女性で、一九七七年ごろまでに八組ができている。八尾恵、森順子、若林佐喜子、黒田佐喜子、水谷協子、安部恵子、金子恵美子、魚本民子といった名前が知られている。

彼女たちがどういう経緯で北朝鮮に渡り、どういう経緯で結婚したのかについては、説明が真っ二つに割れている。自分の意思で渡ったのだという説明と、事実上強制されたのだという説明の両方が、当事者から出ている。八尾恵は日本人妻の多くが強制的に結婚させられたと述べているが、これに反発する当事者もいる。

夫婦のあいだには合わせて二十人の子どもが生まれた。この子どもたちは二〇〇一年五月から二〇〇九年一月にかけて、段階的に全員が日本に帰国した。帰国時には日本国籍を選んでいる。犯罪を犯したわけでもない子どもたちが、生まれる前の事件のせいで異国で育ち、大人になってから親の母国に帰るという体験をした。二〇一一年には田宮の長男が東京の三鷹市議会議員選挙に立候補して落選している。この事実だけ取り出すと不思議な光景だが、彼らにとっては単に自分の人生を生きているだけの話でもある。

日本に帰った妻たちの一部は、旅券法違反で執行猶予付きの有罪判決を受けている。ここは司法判断が確定した部分だ。

拉致問題との関係。ここは確定した事実と推測を分けないといけない

よど号グループの名前が二〇〇〇年代に再び全国区になったのは、日本人拉致問題との関連が浮上したからだ。この部分は特に慎重に整理しておきたい。

まず、司法の場で語られた事実がある。八尾恵は二〇〇二年三月十二日、東京地方裁判所の法廷で、自分がロンドンにいた有本恵子を騙して北朝鮮に連れて行ったと証言した。同じ年に出した著書でも同じ趣旨を書き、有本の両親に土下座している。彼女の説明によれば、田宮高麿から、ロンドンで日本革命の中核になるような二十五歳くらいまでの若い女性を獲得してほしいという指示を受けたという。有本恵子は一九八三年当時二十三歳、語学留学中で、市場調査の仕事があるという誘いに乗り、デンマークのコペンハーゲンでグループのメンバーに引き合わされ、そのまま北朝鮮に渡ったとされる。

もう一件が、一九八〇年にスペインで起きたとされる二人の日本人男性の拉致だ。被害者は日本大学の学生だった石岡亨、当時二十二歳と、京都外国語大学の大学院生だった松木薫、当時二十六歳。バルセロナで接触し、マドリードのアパートに招き、ウィーン旅行に誘い、そこから共産圏経由で北朝鮮に連れて行ったとされる。二〇〇六年二月に松木の姉が警視庁公安部に告発状を出し、二〇〇七年六月、警視庁公安部は森順子と若林佐喜子について結婚目的誘拐の容疑で逮捕状を取り、国際手配した。

ここからが肝心なところだ。逮捕状が出ているということは、捜査機関がそう疑っているという段階に過ぎない。森順子も若林佐喜子も、そして国際手配されている魚本公博も、日本の裁判で有罪判決を受けていない。裁判どころか公判が開かれてすらいない。無罪の推定は当然に及ぶ。グループ側は一貫して、自分たちは拉致を一切行っていないと主張し、この容疑を冤罪だと呼んでいる。小西隆裕は第三国でなら事情聴取に応じてもよいという立場を示したこともある。二〇一三年にはジャーナリストの鳥越俊太郎が平壌でメンバーに取材し、彼らがハイジャックについては謝罪して日本での裁判を受ける用意があると述べる一方、拉致については関与を否定したと伝えている。

確定しているのは、八尾恵が法廷でそう述べたという事実と、日本の捜査機関が逮捕状を出しているという事実。確定していないのは、その供述内容が裁判で事実認定されたかどうかだ。八尾自身、有本の件で起訴されておらず、この点についての司法判断は下されていない。北朝鮮側が有本らについて示してきた説明も揺れており、二〇〇四年には北朝鮮自身が提出した死亡確認書を捏造だと認めている。何がどこまで本当なのか、いまだに骨組みしか見えていない。だからこそ、憶測でどんどん埋めていく語り方は避けたほうがいい。

帰国運動と、逮捕状という高すぎる壁

平壌に残ったメンバーは長年、日本への帰国を求め続けてきた。一九九一年十二月には支援者によって、よど号人道帰国の会が結成された。当初は日本政府との合意による帰国を目指していたが、一九八八年にアメリカが北朝鮮をテロ支援国家に指定して以降、状況が変わる。北朝鮮側にとってグループの存在が外交カードにもリスクにもなり、日本側にとっては拉致容疑が絡んだ問題になった。

グループ側の主張はこうだ。自分たちに政治亡命の意思はなかった、一九七〇年の日本での闘争に戻るつもりで朝鮮に向かった、いま帰れないのは三人に結婚目的誘拐の逮捕状が出ているからだ、と。二〇一三年四月には逮捕状の撤回を求めて国家賠償訴訟を起こしたが、二〇一四年三月に東京地裁は請求を退けた。二〇一四年の日朝ストックホルム合意で調査の機会が生まれかけたが、二〇一六年に北朝鮮側が調査委員会の活動中止を表明して、その道も閉じた。二〇〇八年にはアメリカがテロ支援国家指定を解除しているが、それで彼らの状況が動いたわけでもない。

事件から半世紀以上たち、生き残ったメンバーは全員が七十代後半から八十代に入っている。時効は成立していない。日本の司法から見れば彼らは逃亡中の被疑者であり続けている。この構図は、当事者が全員亡くなるまで解けない可能性が高い。

掲示板とSNSは、この事件の何に食いついてきたか

ネット上でよど号事件が話題になるとき、盛り上がるポイントはだいたい決まっている。

一番はやはり武器が全部おもちゃだったという点だ。模造刀とモデルガンで百人以上を三日半支配したという事実は、何度掘り返されても驚かれる。誰かが取り押さえていれば、という仮定の議論が必ず立ち上がり、それに対して、抜き身を突きつけられた状況で本物か偽物か見分けられるわけがないという反論が返る。この往復は二十年前の掲示板でも今のSNSでも同じ形で繰り返されている。

二番目が金浦の偽装工作だ。空港ひとつを数時間で平壌に化けさせるという発想の大胆さと、それが金日成の写真一枚で崩れる間抜けさのコントラストが、完全にネット向きの素材になっている。近年これを題材にした韓国映画が配信されたことで、若い層にもこのくだりだけが単独で知られるようになった。歴史的事件が、ワンシーンのおかしさだけを抜き取られて広まっていく典型例でもある。

三番目が最年少犯の十六歳という年齢。そして四番目が、われわれは明日のジョーである、という一行。この二つはセットで語られることが多く、若さと文学的な自己陶酔が結びついた事件として消費されやすい。

考察界隈でとりわけ根強いのが、石田機長が最初から金浦への着陸を了解していたのではないか、という説だ。実際、韓国側では二〇〇六年に、老練な機長による計画的で恣意的な着陸だったとする趣旨の結論が示されたことがある。これに対する反証も明快で、機長本人が明確に否定していること、そして事前に知っていたなら板付を出る前に韓国側と綿密な打ち合わせができたはずなのに、実際には中学生用の地図帳のコピー一枚しか渡されていない状態で飛んでいることが挙げられる。周波数と管制官の声から不自然さを感じたという機長の証言も、事前に仕組まれていたなら出てくる必要のない話だ。むしろ、途中で気づきながら人質の安全を優先して従った、という説明のほうが行動の全体と整合する。

もう一つの論争が、金浦誘導を最終的に決めたのは誰かという問題だ。当時の韓国空軍の管制官は、中央情報部から大統領の指示だと伝えられたと証言している。一方で、当時の国防部の責任者が指示していないと述べたという記録もあり、証言はきれいに揃わない。さらに、日航の対策本部にいた関係者が、アメリカと韓国の情報機関の連携で着陸させられたと指摘したことから、CIA関与説も繰り返し語られてきた。当時の韓国上空の管制権の実態を考えれば米側が完全な部外者だったとは考えにくい、という推論には一定の説得力があるが、具体的な指揮系統を裏づける公開資料は今も乏しい。ここは推測が推測を呼びやすい領域なので、確度の低さごと引き受けて語るべきところだ。

三つ目の論争は、北朝鮮は本当に彼らを歓迎したのか、という問いだ。到着直後の歓待と、その後の徹底した思想教育、そして数名の不可解な死。手厚く迎えられたという説明と、事実上の軟禁だったという説明の両方が成り立つ材料がある。彼ら自身の発言も時期によって温度差がある。半世紀にわたって同じ場所にいた人間の言葉を、どの時点のものとして読むかで、見える絵がまるで変わってしまう。

事件が変えてしまった、日本の当たり前

よど号のあと、日本の空は目に見えて変わった。事件から二か月足らずで、航空機の強取等の処罰に関する法律、いわゆるハイジャック防止法が成立した。翌一九七一年には模造刀剣類の携帯を禁じて刑事罰を科す銃刀法の改正も通った。搭乗前の手荷物検査と金属探知機のゲートが常識になり、コックピットのドアが施錠されるようになった。今、空港で靴を脱いだりベルトを外したりしている風景の起点のひとつが、この事件だ。

もうひとつ、あまり知られていない副産物がある。この事件をきっかけに日韓のあいだで政治的な取引が成立し、日本の地下鉄技術が韓国に渡ることになった。ソウル中心部の地下鉄建設、近郊路線の電化、国鉄と地下鉄の相互乗り入れが、この流れの中で進んでいる。人質事件の見返りが都市交通インフラだったという展開は、外交の生々しさそのものだ。

機体そのものの行方も味わい深い。JA8315はその後も飛び続け、東亜国内航空に移って穂の子という名前で国内線を飛んだ。一九七六年にドイツの会社に売られ、九〇年代にはアメリカやヨーロッパを転々とし、アメリカではチャーター機として映画の撮影にも使われた。二〇〇四年八月にコンゴ民主共和国の航空会社が取得したが、その会社が倒産して機体は放置され、二〇一二年に現地で解体された。日本史の教科書に載る飛行機が、最後はアフリカの空港の隅で朽ちて消えたわけだ。

なぜこの事件だけが、半世紀たっても現役なのか

日本にはもっと死者の多い事件が山ほどある。よど号では誰も死んでいない。人質は全員無事に帰り、機体も返ってきた。それなのに、この事件だけが妙な鮮度を保ち続けている。

理由のひとつは、終わっていないからだ。実行犯のうち四人が今も国外にいて、そのうち複数に逮捕状が出ている。拉致問題という、日本社会が決着をつけられていない最大級の懸案と接続している。事件が現在形で続いている限り、過去の話になりようがない。

もうひとつは、この事件が徹底的に絵になるからだ。模造刀で乗っ取られる飛行機。滑走路をふさぐ戦闘機。数時間で作られた偽の平壌。金日成の写真がないという理由で崩れる嘘。身代わりを申し出る政務次官。左派議員が政府高官の身元を保証する場面。夕闇の小さな滑走路。玩具だった武器。どのシーンも、脚本家が書いたら嘘くさいと言われるレベルで出来すぎている。

そして三つ目が、登場人物全員の後半生が重いことだ。人質になった政治家は娘に刺されて死に、英雄になった機長は醜聞で職を失って夜勤警備員として生き、犯人たちは異国で思想を否定されて年老いた。誰も救われていない。事件そのものは無血で終わったのに、その後の四十年、五十年で全員が別々の形で壊れていく。この長い余韻こそが、よど号を単なるハイジャック事件から、人間の話に変えている。

万博の二週間後に、別の未来像が刃物を持って現れた

半世紀以上たった今、この事件を読み直すと、当時の日本人が受けた衝撃の正体が少しずつ違って見えてくる。

一九七〇年の三月というのは、大阪万博が開幕した直後だ。三月十四日に万博が始まり、日本中が高度成長の頂点で浮かれていた。その二週間後に、国内線の旅客機が学生に奪われて北朝鮮へ飛んで行った。この落差が効いていると思う。未来が明るいと信じきっていた社会に、まったく別の未来像を持った若者たちが刃物を持って現れた。しかもその刃物は偽物だった。豊かになりつつある国と、その豊かさを丸ごと否定しようとした集団が、同じ月に同じ国で並んで存在していた。事件の記憶がここまで長持ちしているのは、この同時性が奇妙な傷として残ったからではないか。

彼らの計画のずさんさについては、繰り返し語られてきた。まともな地図がない。燃料の計算がない。着陸先との事前接触がない。武器は模造品。到着後にどうするかの見通しもほぼない。ここから、彼らは無能だったという結論を引くのは簡単だ。

しかし、無能さの内容をもう少し丁寧に見たほうがいい。彼らが本当に欠いていたのは技術ではなく、他者の実在への想像力だ。機内には百二十二人の人間がいた。それぞれに帰る家があり、待っている人がいて、その日の予定があった。彼らの理論の中で、その百二十二人は日本人民という抽象名詞に還元されていた。抽象名詞は怖がらないし、泣かないし、脈も速くならない。だが実際の機内では、五十八歳の医者が自分の脈を測っていた。この距離こそが、思想が暴力に変わるときに必ず開く距離なのだと思う。技術的な稚拙さは笑い話で済むが、この距離は笑い話にならない。

国籍を捨てると言った男たちが、国籍に縛られて老いた

もう一つ、長く考えたくなるのが、国籍を捨てるという彼らの宣言だ。

声明には、自分たちの国籍を意識的に捨てるところから始める、という趣旨の文言があった。当時の彼らにとって、それは国家という枠組みを乗り越える宣言であり、格好のいい台詞だっただろう。

ところが現実に起きたことは正反対だった。彼らは国籍を捨てるどころか、以後の人生のすべてを国籍によって規定されることになる。日本国籍を持っているから日本に帰りたいと言い、日本の逮捕状があるから帰れず、子どもたちは日本国籍を選んで帰り、日本政府と北朝鮮政府の交渉の駒として五十年を過ごした。国家を否定した人間が、国家という制度に最も深く縛られる形で老いていったという皮肉は、彼らの理論に対する現実からの回答としてこれ以上ないほど明確だ。

拉致問題との関係については、あらためて線を引いておきたい。確定しているのは、八尾恵という一人の女性が法廷と著書で自らの関与を語ったという事実、そして日本の捜査機関が三人に対して逮捕状を出して国際手配しているという事実。この二つは動かない。他方で、その供述の内容が刑事裁判で事実として認定されたことはない。手配されている人たちは自分たちの関与を否定し続けている。有罪が確定していない以上、無罪の推定が働く。

この事件を語るときに一番危ないのは、よど号グループという集合名詞で全員を一括りにして、確定した部分と疑いの部分を混ぜてしまうことだ。ハイジャックを実行したのは事実であり本人たちも認めている。だが、拉致への関与はそれとは別の問題であり、証明されていない部分がまだ大きい。この区別を崩した瞬間、話は事件の検証ではなく感情の消費になる。そして拉致被害者の家族がいまだに何も返ってきていないという最も重い事実が、その消費の中で置き去りにされる。

同じ理由で、この事件を特定の民族や国籍の問題に接続する語り方も筋が悪い。実行したのは日本人の学生たちで、偽装工作をしたのは軍事政権下の情報機関で、彼らを受け入れて思想教育を施したのは当時の北朝鮮の体制だ。三つとも別々の主体が、それぞれの都合で動いた結果として一つの事件が形になった。ここから抽出できる教訓があるとすれば、それは特定の国民についての話ではなく、追い詰められた小集団が持つ暴発の力学と、国家が体面のために平然と嘘の舞台を組む習性についての話だ。前者は今も世界中で繰り返されているし、後者に至っては、当時より遥かに巧妙な形で日常化している。

賭けた物語が間違っていたとき、人はどう年を取ればいいのか

最後に、この事件が現代に投げてくる問いを一つだけ挙げておく。

それは、若い人間が自分の人生を賭けるに値すると信じた物語が間違っていたとき、その人間はどう年を取ればいいのか、という問いだ。

九人のうち、四十代を迎える前に亡くなった者がいる。獄中で死んだ者がいる。日本のアパートで一人で死んだ者がいる。そして平壌で八十代になった者がいる。彼らは早い段階で、自分たちの理論が間違っていたと認める趣旨の発言をしている。だが認めたところで、飛行機に乗った日には戻れない。取り返しのつかなさをずっと抱えたまま、それでも毎朝起きて生活を続けるしかない。

加害者に同情する必要はないが、この構造そのものは、思想も暴力も関係なく、誰の人生にもある程度は当てはまる。だからこの事件は、政治の話としても、犯罪の話としても、そして一種の人生の話としても読めてしまう。半世紀以上たっても語られ続ける理由は、たぶんそこにある。

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