十三人が死んだ五年半と、犯人が「安全だ」と感じていた理由
イングランド北部、ウェスト・ヨークシャー。1975年から1980年までの五年半で、13人の女性が殺された。生き延びた人が少なくとも7人いる。犯人はずっと同じ男だった。ピーター・ウィリアム・サトクリフ。ブラッドフォード在住の長距離トラック運転手だ。
逮捕は1981年1月2日。ただし、その日に彼が捕まった直接の理由は殺人ではない。盗んだナンバープレートを自分の車に貼っていたから。それだけだ。
ここが、この事件のいちばんきついところなんだよな。サトクリフは捜査期間中に、警察の事情聴取を9回受けている。9回だ。打ち間違いではない。毎回、彼は落ち着いて質問に答えた。妻がアリバイを補強した。担当官は「該当なし」と書いて、カードを索引に戻した。
彼の車は赤線地帯の張り込みで何十回も記録されていた。生存者が描かせた似顔絵は、彼の顔にそっくりだった。犯行現場のタイヤ痕は、彼の車種に絞り込まれていた。被害者のハンドバッグから出てきた真新しい五ポンド札は、彼の給料袋まで追跡できた。
それでも彼は、五年間ずっと自由だった。
なぜか。理由は一つじゃない。だが決定的な一撃は、1979年6月に届いた一本のカセットテープだ。差出人は自分を「ジャック」と名乗り、捜査指揮官のジョージ・オールドフィールドを名指しでからかった。北東部ウェアサイドの、それはもう見事に特徴的な訛りで。
捜査本部はこの声を犯人のものだと確信した。そこから18か月、彼らは北東部の男を追い続けた。そしてサトクリフは、ブラッドフォード生まれのヨークシャー訛りだった。彼は後にこう言っている。「あれが続いてる間、俺は安全だと感じてた。俺はジョーディーじゃない。シプリー生まれだからな」。
テープを送りつけた男は、犯人ではなかった。26年後、封筒の糊に残った唾液のデーエヌエーが、サンダーランドの無職の男を指し示すことになる。その男が偽の手紙とテープを作っていた間に、サトクリフはさらに3人を殺し、2人を襲っている。
これから、その五年間を最初から最後までたどり直す。誰が死に、誰が生き延び、警察が何を見落とし、社会が何を考え違いしていたのか。そして、なぜこれが今も終わった話ではないのか。長くなる。覚悟してほしい。
一九七五年七月、キースリーの暗い戸口から声がした
始まりは1975年7月5日、土曜日の午前1時半ごろ。ウェスト・ヨークシャーの小さな町、キースリー。
アンナ・ロガルスキー、36歳。恋人と喧嘩をして、帰り道を歩いていた。暗い戸口から男の声がした。「その気あるか」。彼女は「冗談じゃない」と返して足を早めた。
数分後、同じ男がまた同じことを言ってきた。彼女がまた断って歩き出す。その数歩あと、ボールペインハンマーが後頭部に三度落ちた。倒れた彼女のブラウスをまくり上げ、男は腹を刃物で切った。近くの住人が物音に気づいて声を上げたので、男は逃げた。
アンナが通行人に発見されたのは午前2時20分。リーズ総合病院で12時間の手術を受けた。頭蓋骨の破片を脳から取り除く手術だ。一時は終油の秘跡まで施されている。彼女は生き延びた。だが生活は元には戻らなかった。
その6週間後、8月15日の金曜深夜。ハリファックスのブースタウン地区。
オリーヴ・スメルト、46歳の清掃員。金曜の夜に友人と飲んで、フィッシュ・アンド・チップスの店に寄って、夫の分の夜食を買って帰る。それが彼女の習慣だった。その晩、彼女はロイヤル・オークというパブにいた。
同じパブに、サトクリフと友人のトレヴァー・バードソールがいた。サトクリフは店内の女性たちを見て「あれは商売女だ」と言い、オリーヴ本人にも似たようなことを言って、逆にぴしゃりとやり返されている。
閉店後、オリーヴは知人の車で自宅近くまで送ってもらい、そこから歩き出した。サトクリフとバードソールの車が通りかかる。サトクリフは「さっきパブにいた売春婦だ」と言い、車を停めて降りた。
彼は彼女と並行する路地を走って先回りした。追いついて「天気にやられたな」というような世間話をひとこと投げ、その直後にハンマーで二度殴った。腰の上を刃物で二度切った。ヘッドライトを点けた車が坂を下ってきたので、彼は逃げた。
オリーヴはハリファックス病院、次いでリーズに搬送され、脳の手術のあと10日間入院した。そして彼女は捜査員に、はっきりこう証言している。犯人の訛りはヨークシャーだった、と。
この証言が後にどれだけ重い意味を持つことになるか。このときは誰も分かっていない。
十四歳、農道の坂道、五回のハンマー
1975年8月27日、水曜の夜10時半。キースリーに近い村、シルスデン。
トレイシー・ブラウン、14歳。双子の姉妹マンディと一緒に友人宅に行き、その日は特別に「10時45分までに帰ればいい」と親から許可をもらっていた。ハイヒルズ農場へ続く急な坂道を、彼女は一人で登っていた。
下から男が現れた。
男は感じがよかった。「シルスデンって何もないよね」と話しかけてきて、彼女は思わず並んで歩いた。男は時々遅れた。鼻をかんだり、靴紐を結び直したりしていた。
トレイシーは後に、その男の服装を細かく警察に語っている。トープ色のブイネックのセーター。水色の開襟シャツ。前に切れ込みポケットのある濃い茶色のズボン。茶色のスエード靴。身長は五フィート八インチくらい。真っ黒に近いアフロ状の縮れ髪。あごひげ。
農場の門に着いて、彼女が礼を言おうと振り返った瞬間、男が襲いかかった。
「最初の一撃で膝から崩れ落ちた」と彼女は語っている。「お願い、やめて、って言いながら、助けを呼んで叫んだ」。五回殴られた。テニス選手がサーブを打つときみたいなうめき声を、殴るたびに男は上げていたという。
車の音が近づいてきた。男は彼女を抱え上げ、有刺鉄線の柵の向こうに落として消えた。
トレイシーは頭から腰まで血まみれのまま立ち上がって、歩いた。「戻ってきてとどめを刺されると思ったから、家に帰らなきゃと自分に言い聞かせた」。ある農家の扉を叩いたが応答がない。さらに百ヤード歩いて、キャラバンにいた高齢のフレッド・ハーグリーヴスに助けられた。
母親のノラは玄関で娘を見て、最初は赤いペンキをかけられたのだと思ったという。「でも血だった。セーターが血でぐしょぐしょだった」。外科医は四時間かけて彼女の命を救い、脳から骨片を取り出した。
トレイシーが作らせた似顔絵は、当時の警察が持っていたどの似顔絵よりもサトクリフに似ていた。父親のアンソニーは後にこう言っている。「娘の話を真剣に受け止めて、あの似顔絵を公開していたら、切り裂き魔の被害者の何人かは生きていたはずだ」。
だがこの事件は、切り裂き魔の連続事件には数えられなかった。当時の警察本部長ロナルド・グレゴリーは、理由をこう説明している。トレイシーは売春婦ではなかった。凶器は木の棒だと思われた。他の襲撃はすべて都市部だった。
トレイシーの似顔絵が再公開されることは、ついになかった。
サトクリフがこの襲撃を認めたのは1992年だ。しかも彼はテープ録音の中で、「大した怪我はさせてない」「棒か何かで殴った」と語っている。トレイシーはその録音の記録を見せられて怒った。「ハンマーで五回だよ。頭にへこみが残ってるんだから」。
彼女はこの件で有罪判決を受けさせたいと訴え続けた。だが検察当局は起訴を「公益にかなわない」と判断した。彼女の名前は、法廷の起訴状に一度も載っていない。
ウィルマ・マッキャンは四人の子の母だった
1975年10月30日の未明。リーズ、チャペルタウン地区。
ウィルマ・マッキャン、28歳、四人の子の母。夜7時半に子どもたちに「おやすみ」を言い、9歳の長女に留守番を任せて、スコット・ホール・アヴェニューの公営住宅を出た。いくつかのパブを回り、深夜のクラブに寄り、午前1時前にカレーとチップスの容器を抱えて出てきた。
家までは歩いてすぐの距離だった。けれど彼女は酔って車道に出て、車を停めようとしていた。
ライムグリーンのフォード・カプリが停まった。運転していたのはサトクリフだった。数分後、自宅から百ヤードほど離れたプリンス・フィリップ運動場のそばで、彼はハンマーを取り出した。
翌朝7時41分、牛乳配達のアラン・ルートリッジと10歳の弟ポールが遺体を見つけた。兄は最初、捨てられた案山子か、まるめた布の山だと思ったという。弟が「人だ」と叫んだ。
これが、後に「ヨークシャー・リッパー」と呼ばれることになる男の、最初の殺人だ。
ここで一つ、先に確認しておきたい。ウィルマ・マッキャンは四人の子の母親で、誰かの娘で、生活に追い詰められていた一人の女性だ。それ以上でもそれ以下でもない。当時の警察と新聞は、この人を「その種の女」として処理した。息子のリチャードは45年後にこう言うことになる。「彼らはある被害者を『無垢な』と呼んだ。つまり、そうでない被害者がいるという意味だ。母を含めて」。
三か月足らずあとの1976年1月20日、リーズ。エミリー・ジャクソン、42歳。
夫のシドニーは屋根工事の職人で、彼女は事務仕事を手伝い、運転免許のない夫の代わりに古いバンを運転して現場を回っていた。近所の人たちは、彼女が金のために夜に体を売っていたと後で聞かされて仰天している。家計が行き詰まったのは、そのクリスマスのことだった。
その晩、夫婦はラウンドヘイ・ロードのゲイエティというパブに行った。エミリーは夫をパブに残して外に出た。7時過ぎ、サトクリフの車に乗った。
彼はエンジンがかからないふりをして、彼女にライターで手元を照らさせた。その隙にハンマーで二度殴った。そして十字穴のドライバーで、五十回を超えて刺した。
翌朝8時10分、近道を歩いていた作業員が遺体を見つけた。太腿にはウェリントンブーツの踏み跡が残っていた。サイズは七、大きくても八。ゴム長の底の模様まで特定された。それでも犯人は見つからなかった。
「売春婦を狙う男」――この一本の線が五年を無駄にした
ここから、五年間の失敗の土台になる思い込みが固まっていく。
二人の被害者が夜の街で金を得ていた。だから犯人は「売春婦を憎み、売春婦だけを狙う男」である。捜査本部はこの前提の上に、巨大な組織を積み上げていった。
前提には、致命的な欠陥が二つあった。
ひとつ。犯人自身は、相手が誰なのか正確には把握していなかった。サトクリフは後に、シルスデンで14歳のトレイシー・ブラウンを襲ったとき「シルスデンは売春婦だらけだと思い込んでいた」と語っている。彼の頭の中の分類と現実は、最初から一致していない。夜に一人で歩いている女性なら、誰でも標的になりえた。
ふたつ。この前提は捜査の入り口を狭めるだけでなく、警察の耳を塞いだ。売春をしていない女性が襲われた事件は、連続事件から外された。売春をしていると誤って決めつけられた女性の証言は、割り引いて聞かれた。
マーセラ・クラクストンの一件は、その両方が最悪の形で重なった例だ。
1976年5月9日の未明。チャペルタウンのパーティーからの帰り道、20歳の彼女はサトクリフの車に乗せてもらった。行き先が自宅と違う方向だと気づいて怖くなり、ドアを開けようとしたが開かなかった。ラウンドヘイ公園のソルジャーズ・フィールドで、彼女はトイレに行きたいと言って木立の陰にしゃがんだ。そこを八回か九回、ハンマーで殴られた。
頭部に52針。妊娠四か月だった胎児を流産した。
彼女は血まみれで電話ボックスまで這って通報した。そしてその待ち時間に、あの白い車が戻ってくるのを見ている。「私が死んだかどうか確かめに来たんだと思った。生きてたら、とどめを刺すために」。彼女は電話ボックスの床にうずくまってやり過ごした。
病院で、彼女は捜査員に犯人の特徴を告げた。白人。黒い縮れ髪。あごひげ。暗い目。ヨークシャー訛り。赤い内装の白い車。
捜査員はそれを受け入れなかった。「違う、犯人は黒人だろう」と何度も言い直させようとした、と彼女は語っている。「同じことを何度も何度も聞かれた。でも、聞いてはくれなかった。信じてくれなかった」。
彼女が協力して作られた似顔絵は、後から見ればサトクリフに驚くほど似ていた。その似顔絵は使われなかった。
彼女の襲撃が正式に連続事件の一部だと認められたのは、サトクリフが逮捕されて自供したあとだ。それまで彼女は、被害者としてすら数えられていなかった。
一九七七年、ヨークシャーが凍りついた年
1977年2月5日の深夜、リーズ。アイリーン・リチャードソン、28歳。宿無し同然で、十日ほど路上と安宿を行き来していた。
彼女がサトクリフの車に乗り込み、連れて行かれたのは、九か月前にマーセラ・クラクストンが襲われたのとほぼ同じ場所――ソルジャーズ・フィールドだった。翌朝7時半、ジョギング中の男性が遺体を見つけた。
この現場に、初めてまともな物証が残った。犯人は車を柔らかい地面に乗り入れていたのだ。
タイヤ痕から分かったのは、前輪はインディア・オートウェイのクロスプライタイヤ、後輪も別銘柄のクロスプライ、後輪トレッド幅は四フィート一インチ半から四フィート二インチ半。該当車種は26種類。
だがそれは、ウェスト・ヨークシャーだけで10万台を意味した。しかも犯人がタイヤを替える前に見つけなければならない。捜査本部は照合作業を始めた。そして、終えられなかった。
4月23日、ブラッドフォード。パトリシア・アトキンソン、32歳。「ティナ」と呼ばれていた。
マニンガムのパブを何軒か回ったあと、彼女はサトクリフを自分の部屋に招き入れた。彼は爪付きハンマーを上着に隠して階段を上がった。連続事件のうち、屋内で行われた唯一の殺人である。翌日の夕方、長年の友人ロバート・ヘンダーソンが訪ねてきて、鍵のかかっていないドアを押し開けて発見した。
ここでもゴム長の血の跡が残った。エミリー・ジャクソンの現場と一致した。
そして6月26日の午前2時15分ごろ。リーズ、レジナルド・ストリート。ジェーン・マクドナルド、16歳。学校を出たばかりの店員だった。
前夜、彼女は市内のビアケラーで友人たちと会い、18歳のマーク・ジョーンズと踊り、チップスを食べているうちに最終バスを逃した。二人は真夜中まで街のベンチに座り、それから歩いた。彼の姉が車で送ってくれるはずだったが、姉は留守だった。二人は病院の門の前で1時半に別れた。今度の水曜にまた会おう、と約束して。
タクシー会社の詰所は無人だった。ジェーンは歩いて帰ることにした。自分が働いていたスーパーの前を通り、エミリー・ジャクソンが最後に目撃されたゲイエティの前を通り、家まであと数分のところで襲われた。
彼女の家は、ウィルマ・マッキャンの家からわずか六軒先だった。
翌朝9時45分、冒険遊び場で遊んでいた子どもたちが遺体を見つけた。
ここで空気が変わる。新聞と警察は、ジェーン・マクドナルドを「最初の無垢な被害者」と呼んだ。この一語が、その後何十年も遺族を傷つけ続けることになる。無垢でない被害者がいる、という含意だからだ。
だが同時に、この殺人はヨークシャーの家庭に本物の恐怖を持ち込んだ。捜査に関わった元刑事ボブ・ブリッジストックの言葉を借りればこうだ。「誰も安全ではなくなった。集団ヒステリーだった。捕まるまで、人は外に出なくなった」。
7月10日にはブラッドフォードでモーリーン・ロング、42歳が襲われ、生き延びた。彼女は九週間入院している。
サトクリフは翌日、被害者が生きていると知って「ひどいショックを受けた」。顔を見られている、これで終わりだ、と。数日後、彼女が記憶を失っていると知って安堵した。実際、彼女が語った犯人像は「六フィート一インチ、金髪、頬がふっくら」で、実物とはかけ離れていた。ただし、目撃者が見た車――白いフォードで屋根が黒――だけは正確だった。サトクリフは8月にその車を売っている。
五ポンド札、あと一歩まで届いた手
1977年10月1日、マンチェスター。ジーン・ジョーダン、20歳。ジーン・ロイルとも名乗っていた。モス・サイドの集合住宅で、内縁の夫と二人の子どもと暮らしていた。
サトクリフは車を替えたばかりで、その試運転にペナイン山脈を越えてマンチェスターまで来ていた。彼は前払いの五ポンド札を渡した。
それが、彼を破滅させかけた。
その札は二日前、彼の勤め先の給料袋に入っていた新札だった。帰りの高速道路で、彼はそれに気づく。取りに戻れば見つかるかもしれない。行かなければ札が残る。
彼は九日後、自宅の新居祝いのパーティーを終えて両親を送り届けたあと、そのままマンチェスターへ向かった。そして遺体のそばでハンドバッグを見つけられず、遺体そのものに凄まじい損壊を加えた。全事件を通じて最悪の損壊である。
ハンドバッグと札は、遺体発見の五日後、百ヤード離れた場所で見つかった。札の記番号はエー・ダブリュー五一の一二一五六五。その束は、直前に約8000人分の給料として複数の企業に配られていた。
理屈は単純だ。この札を受け取った男を見つければ、それが犯人である。
11月2日の夜7時45分、二人の巡査がブラッドフォードのサトクリフ宅を訪ねた。これが9回の事情聴取の一回目だ。
彼は落ち着いていた。事件当夜は家にいた、11時半に寝た。妻が裏づけた。遺体に戻った10月9日の夜は、新居祝いのパーティーをしていた。これも確認が取れた。母親のキャスリーンが「あの晩は息子の家にいた。帰りは息子が車でビングリーまで送ってくれた」と証言したからだ。
母親は嘘をついていない。息子はパーティーのあと、そのまま高速に乗ったのである。
六日後の11月8日、別の二人が来た。同じ話を繰り返した。家宅捜索にも応じ、何も出なかった。
この時点で捜査本部は、五ポンド札の線から8000人を絞り、三か月かけて5000人の男に会っている。サトクリフはその一人だった。そして結局、札を渡した企業を特定できないまま、この線は消えた。
一九七八年、地図がどんどん広がっていく
1978年1月21日の夜、ブラッドフォード。イヴォンヌ・ピアソン、21歳。二人の子を隣家の16歳に預けて出かけた。五日後に客引きの罪で出廷を控えていて、今回は実刑の可能性があった。
彼女の遺体が見つかるのは二か月後、3月26日のイースター・サンデーだ。廃品の古いソファの下から腕が突き出ているのを、通行人が見つけた。
この事件は捜査本部を混乱させた。頭部の傷は激しかったが、法医学者のデイヴィッド・ジー教授は「石によるもの」と判断した。刺し傷がなかった。一方で衣服の乱れ方は連続事件の型どおりだった。
さらに奇妙なことがある。遺体の腕の下から、2月21日付の新聞が出てきたのだ。殺害からちょうど一か月後の日付である。誰かが後から置いたようにしか見えなかった。サトクリフは戻っていないと否定し続けた。この謎は今も解けていない。
その十日後、1月31日、ハダーズフィールド。ヘレン・リトカ、18歳。
双子の姉妹リタと二人で働いていて、二人なりの安全策を持っていた。ほぼ同時に客を取り、時間は20分きっかり、公衆便所の前で必ず落ち合う。その晩、リタが戻ったとき、ヘレンはいなかった。遺体が見つかるのは三日後だった。
犯行圏がハダーズフィールドまで広がったことで、捜査対象地域はさらに膨らんだ。
5月16日、再びマンチェスター。ヴェラ・ミルワード、40歳。肺が片方しかなく、前年までに大手術を三度受け、慢性の腹痛を抱えていた。「煙草を買ってくる」と言って部屋を出た。
マンチェスター王立病院の敷地内の駐車場で襲われた。近くにいた男性が三度の悲鳴を聞いている。だが病院の患者の声だろうと思ったという。翌朝、造園作業に来た六人の作業員が遺体を見つけた。
ここでもタイヤ痕が採取された。今度は四輪すべての型が取れた。北西部の法医学研究所は、該当車種を11種類まで絞り込んだ。その中に、犯人が当時乗っていたフォード・コルセアが含まれていた。
アイリーン・リチャードソンの現場。マリリン・ムーアの襲撃現場。そしてこの現場。三つの現場のタイヤ痕が、同じ特徴を持っていた。
物証は正しく犯人を指していた。指していたのに、届かなかった。
ヴェラ・ミルワードは、夜の街で金を得ていた最後の被害者になる。ここから約十一か月、記録上の空白がある。そして再開されたとき、犯行の性質は変わっていた。
サンダーランド消印の、三通の手紙
時系列を少し戻す。1978年3月8日、サンダーランドの消印で、ウェスト・ヨークシャー警察のジョージ・オールドフィールド次席本部長あてに一通の手紙が届いた。
差出人は、自分が犯人だと名乗った。
「新聞にマニアックと書かれたが、あんたはそう呼ばなかった。あんたは俺を頭がいいと言った。実際そうだ」。「俺の目的はあの淫売どもを街から一掃することだ」。「あの若い娘マクドナルドのことだけは悔やんでいる。あの晩ルーティンを変えたせいで、知らなかったんだ」。「あんたたちは七人と言うが、俺は八人目まで来ている。プレストンの七五年を忘れるな」。「サンダーランドで俺を探しても無駄だ。旅の途中で投函しただけだ」。「淫売どもに街に出るなと警告しろ。またやりたくなってきた」。
署名は「ジャック・ザ・リッパー」。
五日後の3月13日、ほぼ同じ内容の二通目が、デイリー・ミラー紙のマンチェスター支局あてに投函された。
この二通は当初、いたずらとして処理された。理由もあった。ヘレン・リトカ殺害後の四週間だけで、警察には200本を超える匿名の電話と50通以上の匿名の手紙が届いていたのだ。手紙には犯人しか知りえない情報がなかった。
ひとつを除いて。「プレストンの七五年」である。
1975年11月20日、ランカシャー州プレストンで、ジョーン・ハリソン、26歳が殺されていた。連続事件には数えられていなかった事件だ。書き手はそれを自分の犯行だと主張していた。
ここに引っかかりが生まれた。
そして1979年3月23日、三通目が届く。この手紙が、以後の捜査の方向を決定づけた。
書き手はこう書いていた。前回「次はもっと年増にする」「マンチェスターでやるかもしれない」と予告しただろう、と。実際、その予告のあとに殺されたヴェラ・ミルワードは40歳で、場所はマンチェスターだった。
さらに書き手は、ミルワードが殺された病院に彼女自身が入院していたことに触れていた。警察はこの情報を非公開だと考えていた。だから、これを知っている人間は犯人しかいない、と。
決め手は科学に見えた。ジョーン・ハリソンを殺した人物の体液からは、血液型ビーの分泌型という特徴が出ていた。人口の約6パーセント。そして三通目の封筒の糊に残った唾液も、同じビー型分泌型だった。
こうして捜査本部の中で、「サンダーランドの手紙の書き手=ヨークシャー・リッパー」という等式が固まっていった。
1979年4月16日、オールドフィールドは記者会見を開いた。ヨークシャーの機械工作・エンジニアリング関連企業に対して、1978年3月7日・8日・12日・13日、および1979年3月22日・23日に北東部で働いていた、あるいは休みを取っていた従業員を洗い出すよう要請したのである。サンダーランドには捜査班が置かれ、専用の捜査本部まで設けられた。
そして二か月後、決定的な一撃が郵便で届く。
一九七九年六月十七日、あの声がヨークシャー中に流れた
1979年6月17日、サンダーランド消印の封筒に、カセットテープが入っていた。宛先はまたオールドフィールドだった。
再生すると、抑揚の乏しい男の声がこう始まる。
「俺はジャックだ。まだ俺を捕まえられずにいるようだな。ジョージ、あんたには最大限の敬意を払っているが、いやはや、俺が始めた四年前と比べて、あんたは一歩も近づいちゃいない。部下が足を引っ張ってるんだろう、ジョージ。大した連中じゃないな、そうだろう」。
「唯一惜しかったのは、数か月前のチャペルタウンで俺が邪魔された時だ。しかもあれは刑事じゃなく制服警官だった」。「三月に警告したはずだ。ブラッドフォードじゃなくてすまなかったな」。
「次がいつになるかは分からんが、今年中には必ずやる。九月か十月か、機会があればもっと早いかもな。場所はマンチェスターかもしれん。あそこは好きだ。うようよいるからな」。
「この調子だと記録に載るんじゃないか。今のところ十一人だろう。まだしばらく続けるさ。まだ捕まる気はしない。近づかれたら、その前に自分で始末するさ」。
「じゃあな、ジョージ、話せて楽しかった。ジャック・ザ・リッパーより」。「指紋を探しても無駄だ。もう分かってるだろう、きれいなもんだ。またな。最後の曲、気に入るといいが。ハハ」。
そのあと22秒間、アンドリュー・ゴールドの「サンキュー・フォー・ビーイング・ア・フレンド」が流れる。
この声を、当時のヨークシャーで聞かなかった人はいない。捜査本部は徹底的に公開した。
1979年10月に始まった大々的な広報作戦では、5000枚の広告看板、300紙以上への新聞広告、北部一帯の家庭に配られたパンフレット、そして電話をかければ声が聞ける専用ダイヤルまで用意された。テープはテレビとラジオで繰り返し流れた。パブでも、労働者クラブでも、青少年クラブでも、サッカーの試合会場でも流れた。子どもたちが遊び場でテープの台詞を真似して唱えた。
北東部訛りの男は、それだけで疑いの目で見られるようになった。本部長ロナルド・グレゴリーは、この広報に100万ポンドを投じたとされる。
そして一つの通達が出る。1979年9月の内部文書は、捜査員に対して、北東部訛りでない容疑者は除外するよう指示していた。
これで終わりだった。犯人はヨークシャー訛りだったのだから。
方言学は正しく答えを出した。問いのほうが間違っていた
テープの分析には、当代一流の学者が動員された。
リーズ大学の方言学者スタンリー・エリスは、母音と子音の細部から、話者の出身地をサンダーランド近郊キャッスルタウンの、それも数通りに絞れる範囲まで特定した。この特定自体は、後から見れば驚異的に正確だった。実際、テープを吹き込んだ男はそのすぐ近くに住んでいた。
問題は、その正確さが致命的だったことだ。
方言学が答えたのは「この声の主はどこの人間か」という問いである。「この声の主は殺人犯か」という問いではない。捜査本部は前者の答えを、後者の答えとして使った。
疑いを口にした人間はいた。エリス自身が数週間のうちに、テープの真正性そのものに疑問を持ち始めている。音声学者のジャック・ウィンザー・ルイスも同様だった。サンダーランドの地元警察、ノーサンブリア警察のデイヴィッド・ザクリソン警部補は、手紙とテープを根拠に容疑者を除外するのは危険だという趣旨の報告を上げている。ロンドン警視庁の刑事も同じ警告をした。アメリカ連邦捜査局のプロファイラーは、早い段階でこれは偽物だと見ていた。
だが警告は18か月間、通らなかった。
なぜ通らなかったのか。人の問題が大きい。
ジョージ・オールドフィールドは、1977年6月のジェーン・マクドナルド殺害を受けて捜査全体の指揮を任された人物だ。それまでは、殺人ごとに別の担当者を置くという体制がとられていた。彼は休みも取らず、長時間働き、この事件に自分を捧げた。
そして手紙とテープが届いたとき、彼は個人的に名指しされた。「ジョージ」と呼びかけられ、からかわれた。当時の記者たちの証言によれば、彼は疲弊し、ウイスキーと咳止めシロップで持たせていた。
1979年8月6日、彼は倒れる。公式には胸部感染症と発表されたが、実際には心臓発作だった。復帰したのは1980年1月6日で、捜査には戻らなかった。
グレゴリー本部長も同じ確信にしがみついた。彼の広報部長でさえ、あの反応は「百パーセントごみだった」と言っている。1979年11月半ばには、容疑者リストは1万7000人に膨れ上がっていた。
1980年11月、ついに指揮はジム・ホブソン刑事主任警視に交代し、外部の助言チーム「スーパー・スクワッド」が投入される。だがそのときには、あと一人しか残っていなかった。
アンドリュー・ラプテューが書いた二ページは、九か月放置された
1979年7月29日。この日付は、この事件でいちばん悔しい日付かもしれない。
その日、二人の巡査――アンドリュー・ラプテューとグレアム・グリーンウッド――が、ブラッドフォードのガーデン・レーン6番地を訪ねた。
理由は、サトクリフの黒いサンビーム・ラピアが、ブラッドフォードの赤線地帯で36回、リーズで2回、マンチェスターで1回、監視班に記録されていたからだ。三地域にまたがる目撃記録を持つ車は、850台の該当車種のうち、たった3台しかなかった。
問題は、二人が何も知らされていなかったことである。彼らはサトクリフが五ポンド札の件で聴取されていたことを知らなかった。赤いコルセアの件で二度聴取されていたことも知らなかった。捜査本部にある彼のファイルは、ほぼ二年古いままだった。
それでも二人は嗅ぎつけた。
ラプテューはタイムズ紙にこう語っている。「場を和ませようと奥さんに冗談を言ったんです。旦那さんを厄介払いするなら今がチャンスですよ、って。何か反応があるか、笑うかと思った。でも夫婦のどちらにも、ユーモアのセンスというものがまるでなかった」。
ラプテューが目の前の男を見ながら考えていたのは、こういうことだ。身長も体格も生存者の証言と一致する。あごひげがある。当時流行のジェイソン・キング風の口ひげ。襟にかかる黒髪。浅黒い肌。足が小さい――現場のブーツ跡はサイズ七だった。そして前歯に隙間がある。生存者マリリン・ムーアの似顔絵に、まさにその特徴があった。しかも彼はトラック運転手で、犯人の職業として有力視されていた職種だった。
「頭に残ったんです」とラプテューは言う。「99パーセント確信していたわけじゃない。そうなら引っ張っていた。でも、それまで見た何百人の中でいちばん筋がよかった。前歯の隙間が引っかかった。この男は枠にはまるし、枠から外せない」。
数日後、彼はさらに調べた。サトクリフはあの五ポンド札を受け取りうる立場にいた。1969年に「窃盗目的の器具所持」で有罪になっていた。
ただしラプテューは、ロンドンの中央犯罪記録局まで確認しなかった。そこには二つの重大な事実があった。そのときの「器具」はハンマーだったこと。そしてサトクリフはそれ以前にも、赤線地帯に停めた車の中で職務質問を受けていたこと。
ラプテューが書いた二ページの報告書は、「上級の刑事がこの男に会うべきだ」と結んでいた。
その報告書が検討されたのは、およそ九か月後である。読んだのは二人の警視で、その一人は捜査全体の副責任者ディック・ホランド警視だった。そしてサトクリフは除外された。理由は、彼が北東部訛りではなく、筆跡も手紙と違ったからだ。
バイフォード報告書は後に、この一件を捜査本部機能不全の象徴として名指しすることになる。
赤線地帯にいなくても殺された――ホイテカーとリーチ
1979年4月4日の深夜、ハリファックス。ジョセフィン・ホイテカー、19歳、住宅金融組合の事務員。
祖父母の家で、60ポンドで買ったばかりの銀の腕時計を見せていた。祖母は泊まっていけと言った。だがコンタクトレンズのケースが家にあり、翌日は仕事だからと、彼女は11時40分に一人で歩いて帰ることにした。
サヴィル公園の芝地を横切る近道を、彼女はいつも使っていた。その晩、公園を何周も車で回っていた男が、歩いてくる彼女に追いついた。男は世間話をしながら並んで歩いた。犬を散歩させていた男性が二人を目撃している。
彼女が「いつもここを突っ切るんです」と言うと、男は「今どき誰を信じていいか分からないのに」と驚いてみせた。
街灯の届かない場所まで来たところで、男は時計を見るふりをして遅れ、上着からハンマーを取り出した。
傷口からは、機械工作の現場で使われる切削油の成分が検出された。そしてサンダーランドから届いた封筒の一つにも、それに似た微粒子が付着していた。偶然の一致がまた一つ、間違った方向を裏づけてしまった。
ジョセフィン・ホイテカーは、夜の街で金を得ていなかった。赤線地帯にもいなかった。
ここでヨークシャー全体の空気が決定的に変わる。当時リーズで駆け出しの記者だったダイアナ・ミュアはこう振り返っている。「みんな怖がっていた。それは間違いない」。恐怖が一段階上がったのは、まさにこの1979年のホイテカー殺害のあとだった、と。
そして9月2日の未明、ブラッドフォード。バーバラ・リーチ、20歳。翌週から社会心理学の三年生になるはずだった。
友人たちとマンヴィル・アームズというパブにいて、閉店後は店主の片づけを手伝い、その礼に一杯おごってもらった。0時45分ごろ店を出たとき、小雨が降っていた。彼女は「夜風に当たりたい」と言って一人で歩き出した。誰もついていかなかった。
彼女の遺体は、友人たちと別れた場所から200ヤードほどのごみ置き場で、翌々日の午後3時55分、捜索中の巡査によって発見された。古いカーペットがかけられ、石が載せられていた。
このバーバラ・リーチの殺害には、もう一つ暗い注釈がつく。偽テープの主が捜査を狂わせてから、最初の犠牲者が彼女だった。
そして手紙とテープを送った男自身が、その12日後の9月14日、ノーサンブリア警察に匿名で電話をかけている。自分がやったと告げる内容だった。短い通話は録音された。だが、数百件の同種の通報の中に埋もれた。
「女に外出禁止令はいらない、男に外出禁止令を」
1977年11月12日の夜、リーズ市街。二つの女性の行進が、市の中心にあるシティ・スクエアで合流した。
チャペルタウンから来たのは約30人。ウッドハウス・ムーアから来たのは約85人。手に持ったプラカードには、こう書かれていた。「女に外出禁止令はいらない、男に外出禁止令を」。
同じ夜、ヨーク、ブリストル、ブライトン、ニューカッスル、ブラッドフォード、マンチェスター、ランカスター、ロンドンでも同種の行進が行われた。イギリスにおける「リクレイム・ザ・ナイト」の誕生である。主催したのはリーズ革命的フェミニスト・グループだった。共同発起人の一人アル・ガースウェイトは、のちにリーズの市議会議員になる。
なぜ彼女たちが怒ったのか。理由は単純だ。警察が女性に「夜は外に出るな」と勧告していたからである。
運動の当事者はのちにこう言っている。事実上、女性にだけ外出禁止令が敷かれていた。男性には敷かれなかった、と。
殺人犯が野放しになっているとき、なぜ被害者になりうる側だけが行動を制限されるのか。この問いは、当時としてはかなり新しい問いだった。そして1977年のリーズで生まれたこの問いは、そのまま21世紀まで持ち越されることになる。
当時のリーズの空気を、市民権を扱う弁護士で、のちに被害者側の代理人も務めたルース・バンディはこう表現している。「ごく普通の人々の家の中に恐怖があった。疑心暗鬼。隣人を見て、あの人かもしれないと思う」。
誰かが女性を家まで送ったら、玄関に入るのを見届けてから立ち去る。それが当たり前になった。1976年から1980年までリーズの大学生だったピーター・マゴールドリックは、面識のない女子学生からウッドハウス・ムーアを一緒に渡ってほしいと頼まれるのが日常だったと語っている。
さらに、1980年11月にジャクリーン・ヒルが殺されたあと、リーズでは女性たちの抗議がいっそう激しくなる。フェミニストの活動家ジュリー・ビンデルは、その最後の殺人の前日、サトクリフに似た風貌の男につけられた経験を語っている。「サトクリフは命を奪い、人生を終わらせ、そして人生を変えた。私もその一人だ」。
一九八〇年、男は手口を変えて捜査を煙に巻いた
1979年9月のバーバラ・リーチ殺害から、次の記録された殺人まで、ほぼ一年近い間隔がある。捜査本部の一部は、犯人が「休眠期に入った」と考えた。
実際には、彼は手口を変えていた。
1980年8月20日の夜、リーズ郊外のファースリー。マーガレット・ウォールズ、47歳、教育科学省パズィー事務所の公務員。翌日から十日間の休暇に入るため、その日は遅くまで残業していた。夜9時半から10時半の間に事務所を出て、半マイル先の自宅へ歩き出した。
彼女は背後からハンマーで殴られ、そして絞められた。犯人は初めてロープを使った。刺し傷はなかった。
ジム・ホブソン刑事主任警視は、法医学の専門家と協議したうえで公表した。「これはヨークシャー・リッパーの犯行だとは考えていない」。
これは犯人の意図どおりだった。サトクリフは後に、あえて手口を変えて捜査と報道の熱を逸らそうとしたと述べている。実際、マーガレット・ウォールズの殺害は「地元の犯行」として扱われ、報道も小さかった。
九月24日の夜、リーズのヘディングリー。ウパディア・バンダラ医師、34歳。シンガポールから来て、研修のためリーズに滞在していた。
オトリー・ロードを歩いていて、ケンタッキー・フライド・チキンの店内から自分を見つめている男に気づいた。その後、チャペル・レーンという石畳の薄暗い路地に入ったところで、追い越そうとした人影に道を譲った。その瞬間、二度殴られて意識を失った。首にロープが回された。
彼女を救ったのは、路地に面した家のヴァレリー・ニコラス夫人だった。物音を聞いて裏口から出てきて、警察に通報した。犯人は逃げ、パトロール中の警官が数分後に到着した。バンダラ医師が意識を取り戻したとき、目の前に警官が立っていた。
ここでもロープが使われ、刺し傷がなかったため、この事件は連続事件に数えられなかった。ウォールズ殺害と結びつけられ、「新しい犯人がいる」と考えられた。
その一か月後、10月25日、リーズ。当時20歳の美術学生だったモー・リーが、面識のない男につけられ、ハンマーとドライバーで襲われた。彼女は頭蓋骨骨折と複数の骨折を負い、悲鳴を近隣の人が聞いたことで犯人が逃げた。「あのまま行っていたら、最後の一撃を打たれていたと思う」と彼女は語っている。
サトクリフはこの襲撃を認めておらず、起訴もされていない。ただし、バイフォード報告書の非公開部分に彼女の名前があったことは公表されており、サトクリフの犯行だと論じられてきた。この点は、確定した事実ではなく、そう論じられている、という形で正確に扱う必要がある。
11月5日の篝火の夜、ハダーズフィールド。テリーザ・サイクス、16歳。生後三か月の息子がいた。
煙草を買って帰る途中、背後から殴られた。倒れながら振り返って凶器をつかもうとし、それが金属だったと後に警察に語っている。二撃目は額の高い位置に当たり、三日月形の傷を残した。
彼女の悲鳴を聞いて、赤ん坊の父親でありボーイフレンドのジム・ヒューリーが家から飛び出した。フィットネス好きの彼は猛然と追った。サトクリフは近くの家の生け垣の下に潜り込み、追跡者があきらめるまでじっとしていた。犯行中に捕まりかけたのは、この一回だけである。
そして、この襲撃の時刻――夜8時――が、二か月後に彼を崩すことになる。妻の記憶と彼のアリバイが食い違った、ただ一つの夜だったからだ。
十一月十七日、雨。ジャクリーン・ヒルの百ヤード
1980年11月17日、月曜日。雨だった。
ジャクリーン・ヒル、20歳。リーズ大学で英文学を学ぶ三年生。保護観察官の仕事に関心があり、その日は市内でセミナーに出ていた。夜9時にバスに乗り、9時23分にオトリー・ロード沿いのアーンデール・センター前で降りた。道を渡り、アルマ・ロードを上れば、寮まで百ヤードほどだった。
同じころ、サトクリフはアーンデール・センターの前に車を停め、ケンタッキー・フライド・チキンとチップスを食べていた。七週間前、彼が同じ場所からバンダラ医師を見つけたのと、同じ位置である。
彼は車のエンジンをかけ、アルマ・ロードに入り、彼女を追い越して停め、通り過ぎるのを待った。
夜10時ごろ、一人の学生が路上でジャクリーンのクリーム色のラフィアのバッグを見つけた。血のような染みがあることに気づき、仲間と相談して警察を呼んだ。
到着した警官は、懐中電灯で三分ほど周辺を照らして帰った。彼女の眼鏡も、片方の毛糸の手袋も、そして彼女自身も見つからなかった。
遺体が発見されたのは翌朝である。アーンデール・センターの店長ドナルド・コートが、駐車場に続くスロープを歩いていて、壁越しに見下ろしたときだった。
この三分間の捜索は、皮肉な形で歴史を動かす。あまりに杜撰だという批判を受けて、グレゴリー本部長は通達を出した。売春婦と一緒にいて不審な状況で見つかった男は、必ず切り裂き魔捜査本部に報告せよ、と。
46日後、その通達が仕事をする。
一九八一年一月二日、シェフィールドの私道に差したヘッドライト
1981年1月2日、金曜日。午後4時過ぎ、サトクリフはブラッドフォードの自宅を出た。妻には「妹の車の鍵を取りに行く」と言った。
行った先はミアフィールド近くの廃車置き場だった。そこでシュコダのナンバープレートを二枚手に入れた。一枚は落ちていて、もう一枚は引き剥がした。夜9時、彼はサービスエリアから妻に電話し、車の調子が悪いと伝えた。
その一時間後。黒い絶縁テープで偽プレートを自分のローバー三五〇〇に貼りつけ、彼は自宅から30マイル離れたシェフィールドのハヴロック・スクエア界隈を流していた。
最初に声をかけられたのは19歳のデニス・ホールだった。「商売してるか」と聞かれ、身をかがめて運転席をのぞき込んだ。「黒に近い、突き刺すような目」が怖くて、彼女は「ごめんなさい」と言って離れた。
次に車が停まったのは、ブルームホール・ストリートを歩いていた24歳のオリヴィア・レイヴァースの前だった。二人はメルボルン・アヴェニューにある建物「ライト・トレーズ・ハウス」の私道に入って車を停めた。男は「デイヴ」と名乗り、妻と喧嘩をしたと話した。
そこへヘッドライトが差し込んだ。
ハマートン・ロード署のロバート・リング巡査部長――勤続26年――と、見習いのロバート・ハイズ巡査。夜10時からの勤務で最初に回った場所の一つが、この道だった。停まっている車を見て、二人は理由を察した。
ハイズ巡査が近づいてくるとき、サトクリフはレイヴァースにささやいた。「俺に任せろ。君は俺の彼女だ」。そして窓を開け、自分の名は「ピーター・ウィリアムズ」だと言った。
一方リング巡査部長は、車の後ろに回ってナンバープレートを見ていた。彼は無線で警察本部を通じ、ヘンドンの全国警察コンピューターに照会をかけた。
待っている間、サトクリフはレイヴァースに聞いた。「走って逃げられないか」。彼女は「無理」と答えた。この界隈では顔が知られすぎている、と。
照会の答えが返ってきた。そのプレートはシュコダのものだった。ローバーではない。
リング巡査部長は、後に法廷で読み上げられた報告書にこう記している。「男は『これは俺の彼女だ』と言った。私は名前を聞いた。男は『知らない、そんなに長い付き合いじゃない』と答えた。私は『誰を騙そうというんだ、私はクリスマスツリーから落ちてきたばかりじゃないぞ』と言った。すると男は『そんなことは申し上げていません』と言った」。
ハイズ巡査は、偽プレートが黒い絶縁テープだけで留められていることに気づいた。
二人がレイヴァースをパトカーへ連れて行っている間、車の中に一人残されたサトクリフは、座席の下からボールペインハンマーと片刃のナイフをつかんだ。そして「小便がしたい」と言って、建物の石造りのポーチのほうへ歩いた。警官は止めなかった。
彼はオイルタンクの裏の落ち葉の上に、二つの凶器をそっと置いた。金属音が聞こえていないことを祈りながら。
これが、五年半の捜査の終わりの始まりだった。
デューズベリー署の四十八時間で、すべてがつながった
サトクリフとレイヴァースはハマートン・ロード署に連行された。署内でも彼は動いた。
トイレを使わせてくれと言い、上着のポケットの穴から手を入れて隠していたナイフを、貯水タンクの中に落とした。「持っているのを見つかりたくなかったから、着いてすぐ行った」と彼は後に語っている。
上着のポケットには、まだロープが入っていた。マーガレット・ウォールズを絞めたのと、ウパディア・バンダラの首に回したのと同じロープだった。
彼は自分の本名と住所を認め、プレートを盗んだことも認めた。理由も説明した。二週間後に飲酒運転で出廷することになっていて、免許を失うのが分かっていたから、保険を更新する気になれなかった、と。
窃盗の被害額は50ペンス相当である。通常なら即日保釈だ。
ところが、盗まれた場所の管轄はウェスト・ヨークシャーだった。だから引き渡しが必要になった。そして引き渡し先のデューズベリー署の当直巡査部長は、1月3日午前8時、あの通達に従ってリーズのミルガース捜査本部に電話を入れた。
午前8時59分、サトクリフはデューズベリー署に記録された。身体検査で、シェフィールドでは見落とされていた金が出てきた。地下の取調室で彼は、自分がブラッドフォードのトラック運転手で、32トンの大型車でサンダーランドにも定期的に配送していると話した。五ポンド札の捜査で聴取されたことも、赤線地帯の監視で聴取されたことも、自分から話した。
午前10時、デューズベリーの刑事たちがもう一度ミルガースに電話をかけた。この男は興味を引くかもしれない、と。彼らが気づいていたのは三つだ。黒い縮れ気味の髪。前歯の隙間。そして靴のサイズが、三つの殺人現場に残された足跡と一致すること。
正午ごろ、切り裂き魔捜査班のデズモンド・オボイル刑事部長が到着した。彼はマニンガムで刑事をしていた時期があり、サトクリフのファイルを見たことがあった。五ポンド札、赤線地帯の車両記録、そしてエンジニアリング企業勤務。この男はすでに三度、捜査網に引っかかっていた。
決定打は1月4日に来る。
リング巡査部長が、前夜自分が職務質問した男が切り裂き魔の容疑で拘束されていると聞き、メルボルン・アヴェニューの現場に戻ったのだ。彼は「小便に行く」と言った男の足取りをたどり、オイルタンクの裏でハンマーとナイフを見つけた。デューズベリー署のトイレの貯水タンクからも、もう一本のナイフが出た。
その後、サトクリフは自供を始める。1月4日から5日にかけて、彼は落ち着いた口調で、一件ずつ、日付と場所と車種を挙げながら語った。供述調書は長大なものになった。妻には知らせないでほしい、と彼は言った。
1月5日、彼はジャクリーン・ヒル殺害とナンバープレート窃盗で起訴された。
そして、この日の警察と報道の振る舞いは、後に報道評議会の調査対象になる。警察は事実上「犯人を捕まえた」という空気を作り、新聞は起訴前に彼の名前と住所を報じ、少なくとも二紙がぼやけた顔写真を掲載した。報道評議会は1983年の報告で、無罪推定は「まず警察によって、次に報道によって、重大な危険にさらされた」と結論している。五年間の恐怖に終止符を打ったと市民に伝えたい気持ちは理解できる、しかしそれは無罪推定を犠牲にして行われた、と。
オールド・ベイリー――「神の使命」は陪審に通じたか
裁判は1981年5月5日、ロンドンのオールド・ベイリー中央刑事裁判所で始まった。裁判長はレスリー・ボアハム判事。検察側を率いたのは、当時の法務長官サー・マイケル・ヘイヴァースだった。
サトクリフは13件の殺人について無罪を主張し、限定責任能力による故殺なら認めると申し出た。7件の殺人未遂については有罪を認めた。四人の精神科医が彼を妄想型統合失調症と診断していた。検察も当初、この司法取引を受け入れる用意があった。
これを止めたのがボアハム判事である。
彼は検察に対して、なぜその判断に至ったのかを異例なほど詳細に説明せよと求めた。そして最終的に、この問題は陪審が決めるべきだと押し切った。裁判は二週間続いた。
弁護側の中核は、サトクリフが「神の道具」だったという主張だ。彼は墓掘り人として働いていたころ、ビングリーの墓地で、ブロニスワフ・ザポルスキというポーランド人の墓石から神の声を聞いた、その声が売春婦を殺せと命じたのだ、と。
検察はこれを崩しにかかった。
まず動機の性的側面である。ジョセフィン・ホイテカーの遺体に対して行われたことは、「神聖な使命」という説明と両立しない、と検察は論じた。逮捕時、彼はズボンの下に、逆さにしたブイネックのセーターを穿いていた。膝の部分に穴があり、肘当てが股間に来る作りだった。その意味するところは、法廷で議論された。
もう一つは、刑務官の証言だった。サトクリフが妻との面会で、頭がおかしいと信じ込ませられれば「精神病院で十年で済むかもしれない」と話しているのを聞いた、というものである。
1981年5月22日、陪審は10対2の多数決で、13件すべてについて殺人の有罪を評決した。裁判官は20件の終身刑を言い渡し、仮釈放の検討まで最低30年を勧告した。
ボアハム判事は彼を「救いようがない」と述べた。そして同時に、偽の手紙とテープを送った人物について「いつの日か正体が暴かれることを願う」と述べている。
2010年7月16日、高等法院はこの刑を全生涯拘禁――生涯にわたり仮釈放なし――に変更した。
なお、サトクリフは1984年にブロードムア病院へ移送され、2016年に医療審判所が精神状態を理由とする収容の必要はないと判断したことで、ダラム州のフランクランド刑務所に移されている。
カード一枚の置き場所が、人の命を左右していた
裁判が終わって、次に問われたのは警察だった。
内務大臣ウィリアム・ホワイトローの指示で、警察監察官サー・ローレンス・バイフォードが調査を率いた。五か月かけて、彼のチームはヨークシャー、マンチェスター、ランカシャー、ノーサンブリアの上級・下級を問わず捜査員から話を聞き、山のような書類をめくった。上級刑事同士の人間関係の軋轢の話も、報道への情報漏れの話も出てきた。遺族の意見も聴取された。
1982年1月19日、ホワイトローは下院でこう述べた。
「警察には重大な判断の誤りがあり、様々な段階で作業に非効率があった。とりわけ、『ジャック・ザ・リッパー』と署名した男から届いた手紙とテープに、過剰な信頼が置かれた。もう一つの深刻な障害は、未処理の情報で飽和状態になった主要事件捜査本部の機能不全だった。今にして思えば、こうした誤りと非効率がなければ、サトクリフはもっと早く最重要容疑者として特定されていたはずである」。
報告書本体が一般公開されるのは、情報公開法にもとづく2006年6月1日を待たなければならなかった。
その中身のうち、いま読んでも背筋が寒くなるのはカード索引の話だ。
当時の主要事件捜査本部は、手書きのカードで情報を管理していた。名前の索引、車両の索引、地名の索引。理屈のうえでは、同じ人物に関する情報は同じカードに集まるはずだった。
現実は違った。サトクリフに関する情報は、少なくとも二枚の別々のカードに分かれてしまっていた。彼のファイルそのものも、意図せず分割された。数万枚のカードの海の中で、それらが「結婚」することはついになかった。
五ポンド札の聴取。赤線地帯の車両記録。ラプテューの報告書。前歯の隙間。靴のサイズ。ひとつにまとまっていれば誰でも気づいたはずの束が、ばらばらのまま眠っていた。ウェスト・ヨークシャー警察はコンピューター化を検討したことがあったが、当時、適した設備は存在しなかった。
バイフォードが挙げた欠陥はほかにもある。事情聴取に当たる捜査員が、事前に十分な情報を与えられていなかったこと。手紙とテープへの信頼が、聴取する側の態度そのものを規定してしまっていたこと。本来なら信用性を疑うべき親族によるアリバイが、そのまま受け入れられていたこと。襲撃から何か月も経ってから、その日の行動を尋ねていたこと。複数の赤線地帯で目撃された車を絞り込む基準を、もっと早く導入すべきだったこと。
そして似顔絵の問題がある。ハンマーによる襲撃や重篤な頭部外傷を伴う事件の生存者から得た似顔絵を、並べて比較する作業がなされていなかった。1975年8月のトレイシー・ブラウンの似顔絵と、1977年12月のマリリン・ムーアの似顔絵は、驚くほど似ていた。細いあごひげ、口ひげ、黒い波打つ髪。どちらもウェスト・ヨークシャー警察が扱った事件だった。誰も並べなかった。しかもマリリン・ムーアの似顔絵は、その後まもなく回収されている。
バイフォードの結論は明快だった。大半の捜査員は真面目に働いていた。しかし判断の誤りと非効率がなければ、ピーター・サトクリフは最終的な逮捕より少なくとも18か月早く捕まっていたはずである。
そして報告書は、将来への提言を並べた。主要事件捜査本部の手順を全国で標準化すること。索引システムを継続的に監査すること――「名前索引でカード一枚を置き違えることが、捜査全体を危険にさらしうる」。複数の管轄をまたぐ連続犯罪では、全体を指揮する権限を持つ一人の責任者を置くこと。連続事件の主任捜査官には他の職務を持たせないこと。そして、記録のコンピューター化。
この最後の提言が形になったのが、大規模事件を扱う全国共通のコンピューターシステムである。イギリスの警察は今もこれを使っている。皮肉な言い方をすれば、13人の女性の死が、現代英国の犯罪捜査の情報基盤を作った。
生き延びた人たちは、そのあと何十年もこの事件を生きている
事件の記録を読んでいると、殺された13人の名前ばかりが並ぶ。だが、生き延びた人たちのその後も、この事件の一部だ。
マーセラ・クラクストンは、襲われた1976年から半世紀近く経った今も、殴られたその場所が痛むと語っている。
「ピーター・サトクリフは私の人生を壊した。彼がやったことから、私は逃げられない。毎日、まさに殴られたところが痛む。頭痛と、意識が飛ぶ発作。毎日、あの日を思い出させられる」。
痛みの質まで彼女は説明する。「鋭い痛みが頭のてっぺんを、前から後ろへ走っていく。頭が割れそうになることがある。あんまりひどくて、冷凍庫に頭を突っ込んだこともある」。
彼女を苦しめたのは怪我だけではない。「切り裂き魔に襲われたというだけで、みんな私を売春婦だと思った。私は違う。それでも冷たい目で見られた。実の親にまで」。
そのうえ、襲撃の数週間後に、妊娠していた子を失った。彼女は学校の清掃員として働き、勤務中に意識を失って倒れたのをきっかけに退職している。庭で倒れて隣人に見つけられたこともある。階段で転んで病院に運ばれたこともある。「頭痛のせいで夜も眠れない。もう何年もそうだ」。
それでも彼女がいちばん強く語るのは、自分の証言が信じられなかったことだ。「もし警察が私の話を聞いていたら、あの人は捕まっていた。あれ以上の殺人は起きなかった」。彼女は1981年、犯罪被害補償委員会からの補償を勝ち取っている。だがそれは、失われた年月とは何の関係もない。
オリーヴ・スメルトは、1975年8月に襲われてからずっと、犯人はヨークシャーの人間だと言い続けた。
1979年に例のテープが流れ始めたとき、彼女はぞっとした。「ずっと言ってたんです、あの男はヨークシャーだって。ジョーディーの話になったとき、じゃあ私を襲ったのは別人だ、だって私に話しかけた男はヨークシャー訛りだったから、って」。
しかも彼女は、警察からテープを聞かせてもらってすらいない。「警察は私のところへテープを持ってこなかった。私はハリファックスの街中で聞いたんです」。そのとき彼女が思ったのはこうだ。「ヨークシャーの人間だと信じてくれないなら、この人たちは絶対に捕まえられない」。
彼女は当時の捜査員の第一声も覚えている。「刑事課の人が来て最初に言ったのは『あなたは運がよかった』でした。まあ、そうなんでしょう。殺されなかったんだから」。そして彼女はこう続けた。「でも、ヘッドライトを点けた車が来なかったら、殺されていた。本人もそう認めている。あの男は、私たち全員を殺すつもりだった」。
モー・リーは、1980年10月に襲われた当時、リーズの美術学生だった。彼女がその経験を本にまとめるまで30年かかっている。
「若い女だったころも、中年になってからも、ずっと怒りを抱えて生きてきた。60代になった今は、あのころほどではない。でも、その怒りとどう付き合うかを覚えるしかなかった」。
彼女はある時期、サトクリフ本人に手紙を書いて送った。返事は期待していなかったし、実際に来なかった。「せめて投函すれば、何らかの形で伝わったという感覚が残ると思った。返事は来なかったけれど、ポストに入れたときの気分は悪くなかった」。
彼女は美術家として、この経験を作品にしてきた。犯人の顔を精密に描き、それを引き裂くという作品もある。近年は、襲われた日からちょうど45年にあたる日に、大きな蛾の絵の展覧会を開いた。「私は生きていて運がいい。それを祝っている」。
同時に彼女は、司法制度における女性被害者の扱いについて発言し続けている。彼女は自分の名前が、公開されなかったバイフォード報告書の一部に記されていたことを根拠に、正式な認定を求めてきた。だがサトクリフはこの襲撃を認めないまま死んだ。制度の側から見れば、彼女の事件は今も宙に浮いている。
トレイシー・ブラウンの場合は、もっと露骨だ。1975年に14歳で襲われ、1992年に犯人本人が認め、それでも起訴されなかった。
彼女は言う。「ちゃんと裁いてほしい。私を襲ったことで有罪になってほしい」。彼女が怒ったのは、サトクリフの録音の中身を見せられたときだ。「信じられない。すごく傲慢。まるで大したことじゃないみたいな言い方。実際に起きたこととは全然違う」。「棒で殴られたなんて嘘。ハンマーで五回。頭にへこみが残ってるんだから」。
五歳で母を失った少年が、四十五年かけて求めた一言
リチャード・マッキャンは、ウィルマ・マッキャンの息子である。母が殺されたとき、彼は五歳だった。六歳の誕生日の一週間前だった。
その後の人生は、そのまま二次被害の記録になっている。
四歳のときに家を出ていた暴力的な父親のもとへ、社会福祉の判断で戻された。父親が最初にしたことのひとつが、飼い犬を風呂で溺れさせることだった。犬がうるさかったから、という理由で。カウンセリングは一度もなかった。「母が殺されたとき、私たちは何のケアも受けなかった。それが、本来なりえたよりずっとひどい状況を作った」。
三年後、彼は自分が家族の仇を討たなければならないと思い込むようになる。「見知らぬ男を、後ろからハンマーで襲うことを空想していた」。軍に入り、ドイツ駐留中に雑誌の表紙でサトクリフの顔を見た夜、彼は柵を壊し、バイクを盗み、車を傷つけた。そのあと精神を病んで除隊し、薬物に手を出し、六か月服役した。
家族はさらに壊れていく。
姉のソニアは、母が殺されたとき七歳だった。四人きょうだいの長女で、母親役を背負った。2007年12月17日、彼女はリーズの自宅で亡くなった。アルコール依存の治療施設にいたあとのことだった。
リチャードはこう語っている。「関係があるかどうかは永遠に分からない。彼女には彼女の問題があったから。でも、私たちに起きたことのせいだと言える面はある。彼女は長女で、母親役で、それを引き受けるには重すぎた」。「私とソニアは母を覚えていた数少ない二人で、それが絆だった。だからソニアを失うのは、母を失うより痛かった。彼女は私の魂の片割れだった」。
リチャードは長い時間をかけて、書くことと、殺人・故殺の被害者遺族の支援団体に関わることで、自分を立て直した。2010年にデズモンド・ツツの赦しについての講演を聞いた経験が転機になったと語っている。「赦しは一回で終わる行為じゃない。潮の満ち引きみたいに、意識に入っては出ていく。ずっと取り組み続けるものだ」。
ただし彼は、ある時期にはこうも言っている。「赦しは恨みよりましだと思うが、いつも可能とは限らない。彼を赦すことを考えてきたが、彼が反省を見せない以上、私にはできない」。
そして彼が最後まで求め続けたのは、たった一つ、言葉の問題だった。
警察は1977年、16歳のジェーン・マクドナルドを「最初の無垢な被害者」と呼んだ。「無垢な、と一部の女性を呼ぶのは、そうでない女性がいると言っているのと同じだ。母を含めて」。「母は四人の子の母で、誰かの娘だった。本人の責任ではない苦境の中で、いくつかまずい判断をした。危険な判断を。その代償に、命を失った」。
彼は「一度きり、はっきり謝ってほしい」と求め続けた。「母は完全に無実で、生きるべきだった」。
彼はまた、犯人を「ヨークシャー・リッパー」という異名で呼ぶことを拒んでいる。理由がいい。
「あの言葉は遺族にとって引き金だ。あの言葉が何を描写しようとしているか考えれば分かる。それに報道も警察も、こういう異名を使うべきじゃない。実像とかけ離れた怪物像を作ってしまうから。実際の彼は、物静かで、穏やかな話し方をするブラッドフォードのトラック運転手だった。だから、目の前に現れたとき、みんな別のものを想像していて気づかなかった」。
最後の被害者ジャクリーン・ヒルの母親は、犯人の死が報じられた2020年、記者に一言だけ告げた。話したくない、と。それも一つの遺族の声だ。40年経っても、話せるようにはならない人がいる。
現場には、正しい直感を持っていた警官が確かにいた
この事件を「無能な警察」の一語で片づけるのは簡単だ。だが、それだと見えなくなるものがある。
アンドリュー・ラプテューは、その代表だ。1979年7月にサトクリフの居間に座り、目の前の男が枠にぴたりとはまることに気づいた。「頭に残ったんです」。彼は上司に「上級刑事が会うべきだ」と具申する報告書を書いた。その報告書は九か月放置され、そして「訛りが違う、筆跡が違う」で潰された。
この経験は、その後の彼の人生にずっと影を落とすことになる。誰も彼を責められないし、彼が悪かったわけでもない。彼は仕事をした。組織が受け取らなかった。
ロバート・リング巡査部長の話も、別の意味で重い。1981年1月2日の夜、彼はシェフィールドの私道でナンバープレートを見て、コンピューター照会をかけただけだ。切り裂き魔を捕まえようとしていたわけではない。
だが翌日、自分が職務質問した男が切り裂き魔の疑いで拘束されたと聞いた瞬間、彼は現場に引き返した。「小便に行く」と言われて許した数十秒間を、彼は覚えていた。そしてオイルタンクの裏で、ハンマーとナイフを見つけた。五年半の捜査に決定的な物証をもたらしたのは、この巡査部長の記憶力と、引き返すという判断だった。
一方で、当時の捜査員の中には、批判をきっぱり否定する人もいる。
ロジャー・パーネル元刑事は、夜の街で働く女性の被害を軽く扱ったという批判に対してこう言っている。「そんなことは絶対にない。断言します。この女性たちは妻であり、母であり、姉妹だった。私たちは最初から全員、犯人を捕まえる決意でした」。30年勤めたエレイン・ベンソン元警察官も、「私の見ていた範囲では、被害者の職業によって捜査の質が変わったことはない」と述べている。
この二種類の証言は、矛盾しているようで、たぶん両方本当だ。個々の捜査員の誠実さと、組織が発する言葉や優先順位は別物である。バイフォード報告書もまさにそう書いた。大半の捜査員は勤勉かつ良心的に働いた、と。そのうえで、判断の誤りと非効率がなければ18か月早く捕まっていた、とも書いた。
もう一人、忘れてはいけないのがボブ・ブリッジストックだ。切り裂き魔捜査班にいた彼は、1979年に空気が変わった瞬間をこう語る。「あの死のあと、変わった。誰も安全じゃなくなった。集団ヒステリーだった。捕まるまで、人は外に出なかった」。彼はさらに、疑いが身内に向かったことも語っている。あの人は自分の親族ではないか、と考えた市民がいた、と。
そしてジョージ・オールドフィールド。彼は失敗の象徴として語られるが、それだけでは足りない。
彼は休みを取らず、健康を壊すまで働いた人だった。1979年8月6日に倒れ、四か月以上職場を離れた。復帰しても、捜査には戻れなかった。1981年6月には、交通・警察犬・潜水班・写真部門を統括する部署に横滑りさせられている。同僚たちは、報道の批判の受け皿にされたのだと感じていた。1983年に二度目の心臓発作を起こし、その年の8月末に健康上の理由で退職した。1985年、61歳で亡くなっている。
彼が犯した過ちは重大だ。個人的にからかわれた声に執着し、一つの籠にすべての卵を入れた。それはバイフォード報告書が明記している。だが同時に、その執着を止められなかった組織の問題でもある。上司であるロナルド・グレゴリー本部長は、「気力が尽きた」ことが明らかになった時点でオールドフィールドを交代させるべきだった、とバイフォードは指摘した。交代が実際に行われたのは1980年11月、最後の殺人の直後である。
二〇〇五年、封筒の糊に残った唾液が男を指した
サトクリフが自供した瞬間、もう一つの事実が確定した。あのテープと手紙の主は、犯人ではなかった。
では誰なのか。
裁判の中で、法務長官ヘイヴァースはその人物を厳しく糾弾した。友人のトレヴァー・バードソールがサトクリフを疑いながら通報をためらった理由の一つが、あのテープだった。北東部訛りの犯人像が、疑いの糸を断ち切ってしまったのだ。ボアハム判事も「いつの日か正体が暴かれることを願う」と述べた。
しかし捜査は行き詰まった。犯人と結びつかない以上、アリバイも年齢も体力も、容疑者を絞る材料として使えない。使えるのは声と筆跡と血液型だけで、そのどれもが偽装されうる。2003年9月、警察は正式にこの追跡を打ち切っている。時間が経ちすぎて訴追は不可能だ、というのが理由だった。
再開したのは2005年である。ウェスト・ヨークシャー警察の重大事件班を率いていたクリス・グレッグ刑事主任警視が、コールドケースとして見直しを命じた。
証拠品はばらばらになっていた。ロンドンの法科学研究所には、封筒の小さな断片が保管されていた。オリジナルのテープは、退職した科学者の手元にあった。
封筒の糊に残っていた唾液から、当時は取れなかったデーエヌエー型が取れた。それを国のデータベースに照合したところ、一人の男に一致した。一致確率は10億分の1。その男は、2001年に酔って騒いだ廉で逮捕されたときに採取されていた。
ジョン・サミュエル・ハンブル、1956年1月8日生まれ。サンダーランドのフォード団地育ち。
学校の成績は平均以上だったが、職歴は途切れがちだった。煉瓦積みの見習いを途中でやめ、病院の洗濯場で半年働き、警備員を短期間やった。警察への強い反感があった。1973年に窃盗、1975年には非番の警官に暴行して少年院に三か月入っている。そしてヴィクトリア朝ロンドンの切り裂きジャック事件に取り憑かれていた。手紙の一部は、1888年の偽手紙の文面を下敷きにしていた。
2005年10月18日、彼は自宅で逮捕された。彼も兄弟も泥酔していて、警察は事情聴取を始めるまでほぼ24時間待たなければならなかった。
ここに残酷な事実がある。捜査本部が「キャッスルタウンにいる」と信じて聞き込みをかけたとき、隣人たちは実際に聴取を受けていた。ハンブルはそこから1マイルほどのところに住んでいた。そして一度も聴取されなかった。
もう一つ。彼には良心の呵責があった。1979年9月14日、バーバラ・リーチが殺された12日後、彼はノーサンブリア警察に匿名で電話し、あのテープは偽物だと告げようとしている。通話は録音されたが、数百件の同種の通報の中で処理された。同年11月、彼はウェア川にかかる橋から身を投げた。90フィート下の船の上に落ち、警察に救助され、三か月入院した。
2006年1月9日にリーズ刑事法院で罪状認否があり、彼は当初無罪を主張した。2月23日に自らの関与を認め、3月20日に司法妨害の四つの訴因について有罪の答弁に切り替えた。翌3月21日、懲役8年を言い渡された。
弁護側は「警察の時間を浪費した罪」という軽い罪名を求めたが、認められなかった。取り調べの中で彼は自分の行いを「邪悪だった」と述べ、刑務所に入って当然だと語ったという。弁護人は、彼が罪悪感からアルコール依存に沈み「不十分な人生」を送ってきたと訴えた。控訴は同年10月に棄却された。
彼は2009年、四年ほど服役して出所し、新しい名前を与えられた。2019年7月30日、サウス・シールズで死亡。63歳だった。死因は心不全で、アルコール依存が背景にあった。葬儀の参列者は四人だったと報じられている。
ちなみに、すべての発端になった「プレストンの七五年」――1975年11月のジョーン・ハリソン殺害――は、後年のデーエヌエー鑑定によって別人の犯行と判明した。サトクリフでもハンブルでもない。ハンブルは、自分がまったく関係のない殺人を自分の手柄のように書いたことで、捜査を狂わせたのである。
報道もまた、この事件の当事者だった
この事件では、新聞とテレビも当事者だった。
まず、被害者の分類である。1977年、16歳のジェーン・マクドナルドが殺されたとき、警察と新聞は「最初の無垢な被害者」という言葉を使った。1979年には、ある上級刑事が記者団にこう語っている。犯人は売春婦を憎んでいることを明らかにしている、多くの人がそうだ、しかし今や切り裂き魔は無垢な娘たちを殺している、と。
裁判でも、法務長官ヘイヴァースの冒頭陳述にこうあった。「一部は売春婦でしたが、この事件のおそらく最も悲しい部分は、そうでない被害者がいたということです。最後の六件は、まったく真っ当な女性たちに対する襲撃でした」。
この言い方に、その場で抗議した人たちがいた。オールド・ベイリーの外には、性売買従事者の当事者団体が立っていた。彼女たちの主張は単純だった。殺されていい人間はいない。
次に、逮捕直後の報道である。前述のとおり、報道評議会は1983年の報告書で厳しい結論を出した。無罪推定と公正な裁判への信頼が、まず警察によって、次に報道によって重大な危険にさらされた。当時の法廷侮辱法は、その原則を守り抜けなかった、と。
評議会は同時に、事情も認めている。これは普通の事件ではなかった。五年にわたり殺人が続き、女性たちは一人で外出できず、家族は不安に苛まれ、隣人が隣人を疑う空気が広がっていた。警察は長年批判に晒され、ついに男を捕まえたと思ったとき、歓喜した。それは理解できるが、許されることではない、と。
それから、金の話もある。逮捕後、複数の新聞が関係者への支払いを競った。この「小切手ジャーナリズム」も評議会の検証対象になった。事件の周辺にいた人々が、証言を売る対象として扱われた。
いま振り返って気づくのは、報道の失敗と捜査の失敗が同じ根を持っていたことだ。どちらも、女性を二種類に分けていた。守るべき女性と、そうでない女性に。そして犯人は、その区別をまったく必要としていなかった。
いま議論されていること、そして雑な断定への反証
この事件は終わっていない。いくつか論点を整理しておく。
第一に、余罪である。
バイフォード報告書の非公開部分は、サトクリフが1969年から1980年の間に、確認されている以外にも単独で歩く女性を襲っていた可能性が高いと指摘していた。他地域でも、と。1982年、当時クリーヴランド警察にいたキース・ヘラウェルは独自にサトクリフと面会を重ね、約60件の未解決事件を洗い出し、そのうち大型トラックの運行記録などで40件を除外して、20件余りを残したとされる。1992年には、サトクリフがトレイシー・ブラウンと、1979年にリーズのホースフォースで襲われたアイルランド人学生アン・ルーニーへの襲撃を認めたと、ヘラウェルは述べている。ただし当時の検察は、いずれも起訴しないと決めた。2017年には、ウェスト・ヨークシャー警察が1964年までさかのぼる未解決事件を洗い直す作戦を立ち上げている。
ここは慎重に扱わなければならない。有罪が確定しているのは13件の殺人と7件の殺人未遂であり、それ以外は、そう論じられている、という以上のことは言えない。
2015年に出版されたある本は、1969年から1980年にかけての十数件の殺人をサトクリフの犯行として提示した。しかし、そのうち複数についてはデーエヌエー型がすでに判明しており、サトクリフとは一致していない。1975年ロンドンで起きたある殺人と、同年に別の場所で起きた殺人は、デーエヌエー型が互いに一致し、しかもサトクリフのものではないことが分かっている。つまり、あの時代には別の犯人も動いていた。すべてを一人に押しつける議論は、むしろ本当の犯人を隠す。
第二に、モー・リーの事件のように、本人が生きていて、公的記録にも名前が出ているのに、法的には認定されていないケースがある。これは制度の側の宿題として残っている。
第三に、精神医学上の評価だ。
裁判では四人の精神科医が妄想型統合失調症と診断し、陪審はそれを退けた。1984年には彼はブロードムア病院に移送され、2016年には医療審判所の判断で刑務所に戻された。つまり公的な判断そのものが揺れている。
この事件を語るとき、「狂気だったのか、それとも計算していたのか」という二択に落とし込むのは簡単だが、そう単純ではない。彼は手口を変えて捜査を撹乱し、逮捕時には凶器を隠し、警察署のトイレでナイフを処分し、刑務官の証言によれば刑期の見通しまで計算していた。少なくとも、行動を制御する能力が完全に失われていたという主張は、法廷では通らなかった。
第四に、いちばん現代的な論点。2020年に警察が謝罪したとき、被害者担当のコミッショナーは、性犯罪の起訴率の低さを挙げて、被害者を、とりわけ女性の被害者を責める構造は今も続いていると指摘した。この事件の教訓を「昔の話」として片づけていいのか、という問いは、その後も繰り返し持ち出されている。生存者のモー・リーも、近年の社会運動やロンドンでの事件を挙げて、女性の被害者に対する「はねつけるような態度」と根強い女性蔑視は変わっていないと語っている。
なぜ五年もかかったのか――四つの層に分けて解剖する
理由を並べると、四つの層に分かれる。
一つ目は情報処理の層。これは技術と体制の問題だ。
捜査本部は紙のカードで動いていた。名前、車両、地名。数十万件の情報を人間が手作業で相互参照する仕組みが、規模の増大に耐えられなかった。サトクリフの情報は複数のカードに分裂したまま「結婚」しなかった。
ここに、あとから見れば異様な事実がある。彼を指す情報は、単独では弱くても、束ねれば決定的だった。五ポンド札を受け取りうる勤務先。三つの赤線地帯にまたがる車両目撃。生存者の似顔絵に一致する容貌と前歯の隙間。現場の足跡と一致する靴のサイズ。トラック運転手という職業。1969年の逮捕歴とその凶器。すべてが同じカードに載っていたら、1979年の夏に終わっていた可能性が高い。
二つ目は仮説の層。
「売春婦を狙う犯人」という仮説が、証拠の取捨選択を歪めた。仮説は捜査に必要だ。問題は、その仮説が反証を受け付けなくなったことである。
トレイシー・ブラウンは売春婦ではないから外す。マーセラ・クラクストンの証言は割り引く。マーガレット・ウォールズは手口が違うから別件にする。除外の理由が毎回、仮説そのものから引き出されていた。これは論理的には循環である。
三つ目は権威と組織の層。
偽テープへの依存は、単なる判断ミスではない。指揮官が個人的に名指しされ、公開の記者会見でその線を打ち出し、100万ポンドの広報を投じ、社会全体にその犯人像を刷り込んだ。そこまで来ると、方針転換は組織の敗北宣言になる。
方言学者本人が疑い始め、地元警察の警部補が警告し、外部の専門家も否定した。それでも18か月止まらなかったのは、個人の頑固さだけでなく、引き返すコストが大きくなりすぎたからだ。しかも、疑わしい容疑者を「訛りが違う」の一言で消してよいという通達まで出た。仮説が公式の除外基準になった瞬間、捜査は自分の目を潰したことになる。
四つ目は文化の層。ここがいちばん根深い。
当時の警察と報道は、女性を「守るべき女性」と「そうでない女性」に分けていた。この区別は捜査の速度を落としただけではない。夜の街で働く女性たちが自分の身に起きたことを届け出にくくし、届け出ても信じてもらいにくくした。
マーセラ・クラクストンが黒人であることも重なった。1970年代のリーズ警察の人種関係の評判は最悪だったと書いている研究者もいる。彼女は正確な特徴を語り、それを何度も言い直させられた。もし彼女の言葉が最初から信じられていたら、1976年5月の時点で捜査は別の道を歩いていたかもしれない。
この四つは独立していない。文化が仮説を作り、仮説が情報処理の優先順位を決め、権威がその優先順位を固定した。だからこの事件は、「誰かが無能だった」という話ではなく、「組織が自分の思い込みを検証できない構造だった」という話になる。
バイフォード報告書が真に画期的だったのは、犯人論ではなく、この構造を制度で押さえにいったところだ。索引の監査。指揮系統の一本化。主任捜査官の専任化。そして記録のコンピューター化。
それでも、制度で押さえきれないものが四つ目の層である。
二〇二〇年十一月十三日、そして四十年遅れの謝罪
2020年11月13日、ピーター・サトクリフはダラム州の病院で亡くなった。74歳。新型コロナウイルス感染症だった。糖尿病などの持病があり、その二週間前には心臓発作の疑いで治療を受けて刑務所に戻ったばかりだった。
同じ日、ウェスト・ヨークシャー警察のジョン・ロビンズ本部長が声明を出した。
「ウェスト・ヨークシャー警察を代表して、当時の上級警察官がピーター・サトクリフの被害者について用いた言葉、その口調と用語によって、すべての遺族に与えた追加の苦痛と不安について謝罪します」。
「そうした言葉や態度は当時の社会全体の姿勢を反映していたのかもしれませんが、今と同じく、当時においても間違っていました」。
「多くの警察官がサトクリフを特定し裁きにかけるために働きました。その努力が当時の上級警察官の言葉によって覆い隠されてしまったことは残念であり、その影響は今も遺族の方々に及んでいます」。
「バイフォードとサンプソンの検証は多くの問題を十分に検討しました。しかし、被害者がどのように描かれ、どう語られたかという問題には十分に踏み込みませんでした。それが遺族や友人、そして広く社会の認識に影響を与えました」。
「私は本日、ウェスト・ヨークシャー警察本部長として、心からの謝罪をここに申し上げます」。
この謝罪は、遺族の側が長年求め続けてきたものだった。リチャード・マッキャンは公表を見て一言だけ書いた。「これは祝うに値する。ありがとう」。
反応は割れた。初代の被害者担当コミッショナーは「うれしい。あの時代に戻ることは絶対にあってはならない」と述べた。弁護士のルース・バンディは「ずいぶん時間がかかった。ようやく来てくれてうれしいけれど、当時はひどいことが言われた。裁判の場でさえ」と語った。
一方で、当時を知る元警察官の中には、自分の見た範囲では被害者の扱いに差はなかったと反論する人もいた。そして翌2021年、有罪判決から40年の節目に、この事件をめぐる問い直しはむしろ強まった。生存者たちの発言、司法の場での女性被害者の扱いへの批判、そして「あの態度は歴史に葬られた」という警察側の言葉が本当かどうか、という論争である。
ここまで書いてきて、最後に置いておきたいのは名前だ。
ウィルマ・マッキャン。エミリー・ジャクソン。アイリーン・リチャードソン。パトリシア・アトキンソン。ジェーン・マクドナルド。ジーン・ジョーダン。イヴォンヌ・ピアソン。ヘレン・リトカ。ヴェラ・ミルワード。ジョセフィン・ホイテカー。バーバラ・リーチ。マーガレット・ウォールズ。ジャクリーン・ヒル。
そして、生き延びた人たち。アンナ・ロガルスキー。オリーヴ・スメルト。トレイシー・ブラウン。マーセラ・クラクストン。モーリーン・ロング。マリリン・ムーア。アン・ルーニー。ウパディア・バンダラ。モー・リー。テリーザ・サイクス。
この人たちの側から事件を見ると、風景がまったく違って見える。偽テープに翻弄された捜査本部の物語は、確かに劇的だ。だが、その劇の代償を払ったのは、名前を持った具体的な人たちだった。
偽情報はどうやって組織を壊すのか
ここからは、もう一段深く掘っておきたい。事件そのものの再話ではなく、この事件が何の教科書になったのか、という話だ。
まず、偽情報が組織を壊すメカニズムについて。ウェアサイド・ジャックの一件を「警察が騙された」とだけ要約すると、肝心のところを取り落とす。あのテープは、単独では捜査を壊せなかったはずだ。壊せた理由は三つある。
第一に、偽情報が本物らしく見える「小さな裏づけ」を持っていたこと。
書き手は1975年11月のプレストンの殺人を自分の犯行だと書いた。その事件の犯人は血液型ビーの分泌型で、封筒の糊の唾液も同じだった。人口の6パーセント。捜査本部にとって、この一致は決定的な指紋のように見えた。
だが冷静に考えれば、これが示すのは「手紙の書き手とプレストンの犯人が同一人物かもしれない」ということだけである。ヨークシャーの連続殺人犯と同一人物であることは、まったく別の命題だ。二つの命題の間には、証明されていない橋が一本渡してあっただけだった。捜査本部はその橋を、いつのまにか地面だと思って歩いていた。
第二に、偶然の一致が積み上がったこと。
書き手が「次はもっと年増を」と書いたあと、40歳の女性が殺された。「マンチェスターかもしれない」と書いたあと、マンチェスターで殺人が起きた。三通目には、その被害者が事件現場の病院に入院していたという情報があり、警察は非公開だと信じていた。さらに、犠牲者の傷口から検出された切削油に似た微粒子が、サンダーランドの封筒からも出た。
ひとつひとつは弱い。しかし五つ六つ重なると、人間の脳はそれを「もう偶然ではない」と処理してしまう。実際には、そのうちのいくつかは公開情報から推測可能だったし、いくつかは純粋な偶然だった。
予測のうち外れたもの――「チャペルタウンではやらない、たぶんブラッドフォードのマニンガムだ」という予告に対し、実際にはハリファックスで、赤線地帯でもなく、夜の街で働く女性でもない人が殺された――は、なぜか同じ重みで数えられなかった。当たった予測は記憶され、外れた予測は忘れられる。これは確証バイアスの、ほとんど教科書どおりの実例である。
第三に、公開の場でコミットしてしまったこと。ここがいちばん重い。
1979年、捜査本部はテープを公開した。記者会見を開き、5000枚の看板を立て、300紙に広告を出し、専用ダイヤルを設け、テレビとラジオで繰り返し流した。パブでも工場でもサッカー場でも、あの声が流れた。子どもが遊び場で真似をした。100万ポンドが投じられた。
この時点で、方針の撤回は単なる修正ではなく、社会全体に対する謝罪になる。組織は、いったん公に約束した認識を捨てるのが極端に下手だ。しかもその上で、9月には内部通達が出た。北東部訛りでない者は除外せよ、と。仮説が公式の運用ルールに昇格した瞬間、それはもう仮説ではなくなる。反証しうる形をしていない主張は、科学的にはただの信仰である。
方言学そのものについても、一言添えたい。
スタンリー・エリスの仕事は、じつは見事だった。彼はテープの音声から、話者の出身地を数平方キロメートルの範囲まで絞り込んだ。26年後にデーエヌエーが指し示した男は、まさにその範囲に住んでいた。つまり科学は正しく答えを出していた。
問題は、問いの立て方だった。「この声はどこの人間か」に答えることと、「この声は殺人犯か」に答えることは、まったく違う。専門家が答えられる範囲を超えて、専門家の権威が使われた。エリス自身が数週間のうちにテープの真正性を疑い始めていたことは、この構図をよく示している。彼は自分の分析結果よりも、その使われ方に不安を覚えたのだ。
同じ構図は、その後も筆跡鑑定、プロファイリング、法科学の様々な分野で繰り返されてきた。専門家が「これは分かる、これは分からない」と線を引く力と、組織がその線を尊重する力。この二つがないと、科学は捜査を助けるどころか閉じ込める。
「無垢な被害者」という言葉が、実務で何を壊したか
被害者を序列化することの実害についても書いておきたい。
「無垢な被害者」という言葉が最初に使われたのは1977年、16歳のジェーン・マクドナルドが殺されたときだ。当時の感覚では、これはむしろ善意の表現だったかもしれない。若い、働き者の、罪のない少女が殺されたという嘆きである。
だがこの言葉が発せられた瞬間、それ以前に殺された五人は「無垢でない側」に振り分けられた。
この振り分けは、感情の問題にとどまらない。実務に効いた。夜の街で働く女性から情報を取る回路が細くなる。彼女たちは通報しにくくなり、通報しても信じてもらいにくくなる。
マーセラ・クラクストンは、正確な人相を語ったのに、何度も言い直させられた。彼女が協力して作った似顔絵は使われなかった。オリーヴ・スメルトは、犯人がヨークシャー訛りだと言い続けたのに、テープを聞かせてもらってすらいない。トレイシー・ブラウンは、母親と一緒に警察署に行って「あの男が切り裂き魔かもしれない」と訴え、若い巡査に笑われた。
この三人は、いずれも捜査を数年短縮しうる情報を持っていた。三人とも、聞かれなかった。
そしてもう一つ。序列化は、犯人像そのものを歪めた。犯人が「売春婦を狙う男」なら、赤線地帯を張り込めばいい。だが実際の彼は、暗い道を一人で歩く女性なら誰でもよかった。
1975年8月のシルスデンの農道も、1979年4月のハリファックスの公園も、1980年11月のヘディングリーの住宅街も、赤線地帯ではない。犯人は最初から、警察が引いた線の外側で動いていた。線を引いたのは犯人ではなく、警察だった。
社会に残したものについても整理しておく。
1977年11月12日にリーズで生まれたリクレイム・ザ・ナイトは、この事件の最も長く続いている遺産だ。あの夜のプラカードにあった論理は今も生きている。危険があるとき、なぜ移動を制限されるのは危険にさらされる側なのか。
この問いは、その後の数十年で、都市計画、街灯の配置、公共交通の夜間運行、大学のキャンパス設計、そして警察の広報の作法にまで影響を与えてきた。同時に、この問いが40年以上たっても新鮮に響いてしまうという事実自体が、答えがまだ出ていないことを示している。
制度面の遺産は、バイフォード報告書から生まれた全国共通の大規模事件用コンピューターシステムである。索引の標準化、捜査本部要員の専門訓練、管轄をまたぐ事件での指揮系統の一本化、主任捜査官の専任化。これらは今も英国の重大事件捜査の骨格だ。
ただし、ここには注意も必要である。カード索引をデータベースに置き換えても、四つ目の層――何を重要な情報とみなすかを決める文化――は自動的には変わらない。データベースに入力されなかった証言は、どんな検索でも出てこない。マーセラ・クラクストンの人相描写を退けたのは技術ではなく、人だった。
近年、この事件の語られ方は明確に変わってきた。かつては犯人の異名を冠したタイトルで、犯人の生い立ちと心理を追う作品が主流だった。ここ十年ほどは、被害者と生存者の側から語り直す作品が増えている。生存者自身が本を書き、絵を描き、展覧会を開く。遺族が講演をし、支援団体を運営する。
リチャード・マッキャンが犯人の異名を口にしないと決めているのは、その象徴だ。彼の言い分は的確である。異名は実像とかけ離れた怪物像を作り、そのせいで、目の前に現れた物静かなトラック運転手を誰も怪物だと思わなかった。異名は事件の理解を助けるどころか、妨げていた。
余罪の扱いについても、はっきりさせておきたい。確定しているのは13件の殺人と7件の殺人未遂である。それ以外は、そう論じられている、という段階を出ない。1992年に本人が認めたとされる二件も、起訴されていない以上、法的には有罪ではない。バイフォード報告書の非公開部分が他の襲撃の可能性に触れていたことも、公表されている事実として書けるが、それは「可能性が指摘された」以上のことを意味しない。
そして反証の重要性。ある本が1969年から1980年にかけての十数件をすべて彼の犯行だと主張したが、そのうち複数はデーエヌエー型がすでに判明していて、彼のものではない。1975年にロンドン近郊で起きた二件は、互いに一致するデーエヌエー型を持ちながら、彼のものとは一致しない。つまり、あの時代の英国には別の犯人も動いていた。
未解決事件を一人の有名な殺人者に集約する語りは、読み物としては強い。だが、本当の犯人を暗闇に置き去りにする。生存者や遺族の立場から見ても、これは誠実ではない。
最後に、この事件がいまも問い続けているものについて。
2020年11月の謝罪は、警察が言葉と態度について公式に非を認めた、という点で確かに画期的だった。しかし当時、被害者担当のコミッショナーはこう指摘した。性犯罪の起訴率の低さを見れば、被害者を、とりわけ女性の被害者を疑い、責める構造は今も残っている、と。生存者のモー・リーも、近年に至るまで「はねつけるような態度」と根強い女性蔑視は変わっていないと語り続けている。
翌2021年、有罪判決から40年の節目には、正義の女神の像から天秤の象徴がこぼれ落ちるという映像が国会議事堂に投影された。バイフォード報告書は、いまも議事堂の図書室にある。
この事件から取り出せる教訓を一行にすると、こうなる。捜査を殺すのは、情報の不足ではなく、間違った確信である。
1979年から1980年にかけて、ウェスト・ヨークシャー警察は情報を持ちすぎるほど持っていた。25万人分の名前、3万通の供述、数え切れないカード。足りなかったのは情報ではなく、「自分たちの前提が間違っているかもしれない」と問い直す仕組みだった。
方言学者は疑った。地元警察の警部補も疑った。外国の分析官も疑った。現場の巡査は「この男が怪しい」と書いた。声は上がっていた。上がった声を受け止める構造がなかった。
だから、この事件を読み返す価値は、犯人の異常性にはない。誰でも入りうる思考の罠と、その罠を組織が制度化してしまう過程にある。そして、その罠の代償を払わされるのは、たいてい、いちばん声を聞いてもらえない立場の人たちだ。1975年のリーズでも、そうだった。
