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雪の国有林に消えた五人――食料も燃料も揃った小屋で、なぜ彼は餓死したのか。ユバ郡五人失踪事件、四十八年目の全記録

「コートはいらないよ、おばあちゃん。今夜はいらない」

一九七八年二月二十四日の金曜日。カリフォルニア州北部の内陸は、雲ひとつない夜だった。空には半月。フェザー川の上流、シエラネバダの山肌には四メートルを超える吹きだまりができていた。ただしテッド・ワイヘルたちが暮らすユバ郡の平地は、山とはまるで別世界だ。二月とはいえ、薄い上着一枚でどうにかなる。少なくとも、その夜の彼らはそう思っていた。

家を出ようとするテッドに、家族の年長者が声をかけた。コートを持っていきなさい、と。テッドは笑って答えた。いらないよ、おばあちゃん。今夜はいらない、と。

この短いやり取りが、あとから何度も何度も引用されることになる。ワシントン・ポストの記者シンシア・ゴーニーが同年七月に書いた長い記事は、この一行から始まっている。彼女はそこに、この事件の全部を圧縮して入れた。準備が足りていなかったこと。誰も悪意を持っていなかったこと。そして、誰も次に何が起きるか知らなかったこと。

その晩、テッド・ワイヘル三十二歳、ジャック・マドルーガ三十歳、ビル・スターリング二十九歳、ゲイリー・マティアス二十五歳、ジャッキー・ハウエット二十四歳の五人は、マドルーガのターコイズと白のツートンに塗られた一九六九年式マーキュリー・モンテゴに乗り込み、北へ八十キロ走ってチコの大学へバスケットボールを見に行った。試合が終わったのは午後十時前。彼らは車に戻り、三ブロック先のコンビニに寄って、翌朝の試合の話をしながら菓子を買った。

そして、南へ帰るはずの車は、東へ曲がった。

これがアメリカ犯罪史でもっとも気味の悪い未解決事件のひとつ、通称ユバ郡五人失踪事件の始まりだ。四人は雪解けの六月に遺体で見つかる。一人はいまだに見つかっていない。そして、いちばん怖いのは幽霊でも怪物でもない。食料と燃料が山ほど積まれた小屋の中で、一人の男が何週間もかけて餓死したという事実のほうだ。

順番に、丁寧に見ていく。

「ボーイズ」と呼ばれていた五人は、実際には立派な大人だった

まず、彼らが誰だったのかをきちんと書いておきたい。ここを飛ばすと、この事件はただの奇談になってしまう。

五人はユバシティの職業リハビリテーションセンター、通称ゲートウェイ・プロジェクツで出会った。知的障害や精神疾患のある成人が職業訓練を受け、仲間をつくる場所だ。彼らはそこのゲートウェイ・ゲイターズというバスケットボールチームでプレーしていた。全員が家族と同居し、家族は彼らを、うちの子たち、と呼んでいた。年齢は二十四歳から三十二歳。れっきとした成人男性である。それでも当時の新聞も警察も家族も、彼らをボーイズと呼んだ。この呼び方には愛情がある。同時に、当時の社会が障害のある大人をどう扱っていたかも透けて見える。

テッド・ワイヘルは身長百八十センチ、体重九十キロ。腹の出た、人懐こい大男だった。知らない人にも手を振り、振り返してもらえないと何時間もふさぎ込む。電話帳から変な名前を見つけてはビル・スターリングに電話して読み上げ、二人でげらげら笑う、そういう男だった。用務員や売店の店員として働いていた時期もある。兄のダラス・ワイヘルは彼を優しい大男と表現した。同時に、常識の面では危うさもあったと兄弟は語っている。理由もなく百ドル分の鉛筆を買ってきたことがある。一時停止の標識でなぜ止まらないといけないのかと真顔で聞いてきたこともある。そして、実家が火事になったとき、彼は寝室の天井が燃えているのを見ながらベッドから動かなかった。翌日の仕事に遅れたくないから寝かせておいてくれ、と言ったという。兄が引きずり出した。この逸話は、のちに事件のいちばん深いところとつながってくる。

ジャッキー・ハウエットは五人でいちばん若く、いちばん支援を必要としていた。読み書きができず、電話をかけることもできなかった。父親はのちに捜査員にそう説明している。話すときに少し言葉が詰まる癖があり、家から長く離れるのを好まなかった。泊まりがけなど論外だった。彼はテッドの影のようにいつも一緒にいて、テッドが代わりに電話のダイヤルを回してやっていた。

ジャック・マドルーガ、通称ドクは陸軍の退役軍人だ。一九六六年から六八年までトラック運転手として勤務し、記録上は特筆すべきことのない、つまり問題のない兵役を終えている。高校も卒業している。家族は彼について、一般に言う知的障害ではなく、単に思考のペースがゆっくりなだけ、と捜査員に語った。自分で家計を管理できたし、地図を読むのが好きだった。乾燥果物メーカーで皿洗いをしていて、ビルの就職も世話した。そして何より、彼は自分の車を溺愛していた。誰にもハンドルを握らせなかった。寒いのが嫌いで、キャンプも嫌いで、山になど行ったことがなかった。

ビル・スターリングは信心深い男だった。図書館で何時間も過ごし、精神科病院の患者にイエスの話を届けるための冊子を読み込んでいた。ボウリングが得意で、毎週土曜に仲間と投げていた。彼の家族はバックス湖の近くに小屋を持っていたが、ビルは十代のころ一度釣りに連れて行かれてこりごりし、以後は家族が山に行くときも家に残った。寒いのも森も嫌いだった。失踪した夜、彼は週に一度もらう十五ドルの小遣いと、カリフォルニア州、サクラメント、ストックトン、サンフランシスコの地図を持って家を出ている。

そしてゲイリー・マティアス。彼だけが少し違う位置にいた。高校ではフットボールをやり、地元のバンドで歌っていた。ハーモニカがうまかった。陸軍に入り、西ドイツに駐留した。そこで薬物に手を出し、統合失調症と診断され、精神的な理由で除隊した。帰郷後は退役軍人病院への入退院を繰り返し、二度、暴行で立件されている。だが一九七五年ごろから服薬が安定し、義父ロバート・クロプフの造園業を手伝いながら二年間、何ごともなく暮らしていた。かかりつけの医師は彼を、うちの模範的な成功例のひとり、と呼んだ。彼は家族に強く愛着を持ち、ローリング・ストーンズとオリビア・ニュートン・ジョンをレコードで聴いていた。ゲートウェイに関わったのは失踪の数か月前で、彼はスポーツの技術を仲間に教える側でもあった。

この五人が、翌二月二十五日にスペシャルオリンピックスの地区大会に出ることになっていた。勝てばロサンゼルスへの一週間の旅行がついてくる。前の晩、彼らは各自ユニフォームを枕元に並べていた。ゲートウェイ・ゲイターズと胸に入ったベージュのシャツだ。テッドは新品の白いハイカットシューズを試し履きして汚してしまい、母親に洗ってくれと頼んだ。ゲイリーは母親に何度も念を押した。土曜に大事な試合があるんだ。寝坊させないでよ、と。

寝坊させないで、という言葉。これがこの事件の全部をひっくり返す。彼らには翌朝、確実に家にいる理由があった。

午後十時のコンビニ、最後の買い物リスト

その夜のチコ州立大学の体育館で、彼らは応援していたチームが勝つのを見た。地元紙の編集者はのちに、五人のことを覚えていると証言している。少し離れた場所にかたまって座っていて、雰囲気が独特だったという。

試合が終わったのは夜八時ごろとされる記録もあるが、いずれにせよ彼らはその後、キャンパスから三ブロック離れたベアーズ・マーケットに寄った。閉店間際だった。店員は五人組の入店にはっきり苛立った。だからこそ、覚えていた。

彼らが買ったものは記録に残っている。ホステス社のチェリーパイがひとつ。ランゲンドルフ社のレモンパイがひとつ。スニッカーズがひとつ。マラソンバーがひとつ。ペプシが二本。牛乳が一クォートと半分。それだけだ。

くだらないと思うかもしれない。でもこのリストは重要な証拠になる。あとで発見された車の中には、これらの包装がほぼすべて散らばっていた。全部食べられていた。ただしマラソンバーだけが半分残っていた。つまり彼らは、車の中でしばらく機嫌よく食べていた。争った形跡はなかった。バスケットボールの試合プログラムも落ちていた。捜査した保安官の一人は、車の中は菓子の包み紙と試合プログラムと牛乳パックだらけで、楽しい時間を過ごした痕跡そのものだった、と語っている。

そして彼らは店を出て、車に乗り、チコの南へ向かって走り去った。ここが、五人全員の所在が確認できる最後の瞬間になる。これ以降の全部は、推測と再構成と、たった一人の他人の記憶でできている。

母たちの電話で始まった朝

翌二月二十五日午前五時。テッド・ワイヘルの家族は理由もなく目が覚めた。胸騒ぎがした。テッドのベッドは空だった。

物音も悲鳴もなかった。ゴーニーの表現を借りれば、恐怖はいつもこういうふうに始まる。ただ朝の冷えた空気と、静まり返った小さな家と、いつも通りであるはずの一日だけがそこにあった。

イモジーン・ワイヘルはすぐビル・スターリングの母フアニータに電話した。フアニータは午前二時から起きていた。ビルも帰っていない、と彼女は言った。そしてすでにジャック・マドルーガの母メルバに電話済みだった。ジャックも帰っていない。イモジーンはハウエット家に電話し、嫁が通りを歩いてマティアス家の義父を訪ねた。五人全員が消えていた。

ここで一度、この事件のいちばん腹立たしい部分に触れておく。午前八時、メルバ・マドルーガはユバ郡保安官事務所に息子の行方不明を届け出た。だが、二十四時間待ってからかけ直せ、と言われた。正式な行方不明者届が受理されたのは、その日の午後八時である。大人の男性五人が同時に消えたという報告に対して、初動は丸一日近く遅れた。当時の行方不明者対応としては型どおりだったのかもしれない。だが結果を知ってからこの一行を読むと、胃が重くなる。

ブテ郡とユバ郡の警察は、まずチコとマリズビルを結ぶルートを捜索した。何も出なかった。堤防道路での事故も疑われた。何も出なかった。彼らは文字通り消えていた。

二月二十八日、雪線に停まっていたターコイズのモンテゴ

三日後の二月二十八日。プラマス国有林で材木の調査をしていた森林局の職員が、オロビル・クインシー街道沿いに乗り捨てられた車を見つけた。正確には、そのレンジャーは二月二十五日の時点で一度その車を見ていた。だが冬の週末にはクロスカントリースキー客がよくその道を上っていくので、気にも留めなかった。行方不明者の手配書を読んで、はじめて意味がつながった。彼は捜査員を現場に案内した。

車はチコから百十キロ以上離れていた。ユバシティにもマリズビルにも、帰り道としてはまったく通らない方角だ。標高はおよそ千三百メートル。ちょうどその季節の雪線にあたり、冬季通行止めのゲートの手前だった。

家族は誰も理解できなかった。マドルーガは寒さが嫌いで、山に上がったことがない。スターリングは山も雪も嫌いだった。ワイヘルは森が好きではなかった。ハウエットは家から離れるのを嫌がった。そして誰一人、その道を知らなかった。

車の状態が、この事件を伝説にした。

タイヤは雪の中で空転した跡があった。だが本気で埋まってはいなかった。健康な成人男性が五人いれば、押して出すのは造作もなかったはずだ。ガソリンは四分の一残っていた。鍵は見当たらなかったので、警察は最初、故障して置いていったのだろうと考えた。ところが直結でエンジンをかけると、一発で始動した。運転席側の窓は下ろされたままだった。ドアには鍵がかかっていなかった。マドルーガの家族は口をそろえて言った。あの子は絶対に車を無施錠で放置しない。窓も閉める、と。

グローブボックスには地図が四枚、きちんと折りたたんで入っていた。

そして、いちばん説明のつかないこと。車を署に運んで下回りを調べたところ、傷がなかった。へこみも、えぐれも、泥のこすれ跡すらなかった。低く垂れた消音器にさえ何もついていない。この重いアメ車が、五人の成人男性を乗せて、真っ暗な中、轍と穴だらけの未舗装の山道を延々と上ってきたのに、である。捜査員の結論はこうだった。運転していた人物は、異常なほど慎重に運転したか、あるいはその道のくぼみを全部知っていたかのどちらかだ、と。

マドルーガは、その道を知らなかった。

山で心臓発作を起こした男が見た、消えていく灯り

事件が報道されると、目撃情報が殺到した。全米各地から届いた。オンタリオで見た。タンパで見た。年配の男に連れられてサクラメントの映画館に入っていくのを見た。捜査主任のランス・エアーズ警部補は、そのほとんどを一つずつ潰していった。

だが、二件だけ残った。ひとつめが、この事件をただの遭難話から怪談に変えた証言だ。

サクラメント在住のジョセフ・ショーンズ、五十五歳。彼はその同じ二月二十四日の夕方、同じ道をフォルクスワーゲンのビートルで上っていた。週末に妻と娘を連れてくるつもりで、雪線の位置を確かめに来たのだという。午後五時半ごろ、のちにモンテゴが見つかる地点からわずか五十メートルほど先で、彼の車も雪にはまった。押して出そうとしているうちに、胸に激痛が走った。心臓発作だった。あとで医師が、確かに軽度の心筋梗塞を起こしていたと確認している。

彼は車に戻り、エンジンをかけたままヒーターで暖を取りながら横になった。痛みで意識は朦朧としていた。

深夜近く、彼は道の少し下のほうから口笛のような音を聞いた。車から出た。ヘッドライトの光の中に、人の群れが見えた。男たちの一団と、赤ん坊を抱いた女に見えるものがいた、と彼は言った。話し声も聞こえた気がした。彼は助けを求めて叫んだ。

すると、ヘッドライトが消えた。話し声も止んだ。

彼は車に戻って横になった。数時間後、また窓の外に光が見えた。今度は懐中電灯の光だった。彼はもう一度叫んだ。光は消えた。誰かは、去っていった。

やがて燃料が尽きた。夜明け前、痛みが少し引いたところで、彼は歩き出した。十三キロ下った先にあるマウンテン・ハウスというロッジまで。その途中、声を聞いたあたりの道の真ん中に、無人のマーキュリー・モンテゴが停まっているのを彼は通り過ぎた。

この証言のどこが恐ろしいか、わかるだろうか。仮にそれが五人だったとして、彼らは凍える夜の山中で、暖房の効いた車と助けを呼ぶ人間の声に遭遇した。そして灯りを消して、黙って、闇に消えたのだ。寒さに震える人間がやることではない。

ただし、注意深く書いておかないといけない。ショーンズ自身がのちに証言を修正している。ピックアップトラックが二十フィート後ろに一瞬停まった、という部分について、彼は確信が持てないと言い直した。私は意識が半分なかった。頭ははっきりしていなかったし、幻覚も見ていたし、猛烈に痛かった。二台目の車を半分見たのか半分想像したのか、自分でもわからない。彼はそう語っている。心筋梗塞の最中の記憶である。赤ん坊を抱いた女の話にも、当然ながら裏付けはない。

それでも捜査員は、この証言を完全には捨てなかった。時系列がぴったり合っていたからだ。

店で「大きな目をした四人」を見た女性

もうひとつの目撃証言は、性格がまったく違う。

車が見つかった地点から約四十八キロ離れた、ブラウンズビルという小さな町の店。もし五人があの道をそのまま下り続けていたら、たどり着いていたはずの町だ。三月三日、その店で働く女性が保安官事務所を訪ねてきた。家族が出した千二百十五ドル、現在の価値でおよそ六千ドルの懸賞金と、五人の顔写真の入ったチラシを見たのだという。

彼女はこう証言した。失踪の翌日、二月二十五日の午後二時ごろ、赤いピックアップトラックに乗った四人の男が店に来た。すぐに地元の人間ではないとわかった。目が大きくて、表情が違ったから、と。二人は外の公衆電話ボックスにいた。彼女はその二人をハウエットとスターリングだと特定した。残る二人は店内に入った。

店主も彼女の話を裏付けた。店主によれば、ワイヘルとハウエットだと思われる二人がブリトーとチョコレートミルクと炭酸飲料を買っていったという。警察は彼女を信頼できる目撃者と評価し、この証言を真剣に扱った。

ここが厄介なところだ。ワイヘルの兄弟は取材にこう答えている。バスケットボールの試合のことをまるで気にせず、別の車で見知らぬ町に行くというのは、まったく彼ららしくない、と。だが店主が描写した二人の振る舞いは、不気味なほど彼ららしい。テッドは手に入るものは何でも食べる男だったし、いつも一緒にいたのはジャッキーだった。一方でハウエットの兄弟は、決定的な矛盾を指摘した。ジャッキーは電話が大の苦手で、彼あての電話は全部兄弟が代わりに取っていた。その彼が、電話ボックスの中にいた。

信頼できる目撃者が、あり得ない場面を語る。この事件は、最初から最後までそういう構造をしている。

六千時間、霊能者、ダウジング、そして何も出ない三か月

車が見つかったその日、猛烈な吹雪が来た。翌日には山に二十三センチの雪が積もった。二日後、スノーキャットで入った捜索隊は、自分たちが遭難しかけた。捜索はいったん打ち切られた。

それでも捜索は執念深く続いた。三月二日には五十人が入った。ハウエットの父親も加わっている。スノーモービル、馬、四輪駆動車、ヘリコプター、犬。地元、州、連邦の各機関が投入した時間は合計六千時間を超えた。ジム・グラント保安官は当時、記者にこう漏らしている。ある日、私は上に行って、コンパスがなければ帰ってこられなかった、と。

捜査主任のランス・エアーズ警部補は、この事件に食われていった。彼はマリズビル高校でワイヘル兄弟と同級生だった。親しくはなかったが、無関係でもない。彼は五人の身体的特徴を諳んじられるようになった。目の色、髪の色、身長、体重。春が深まるころには、夜ごと彼らの夢を見た。ある夜、暗闇の中で腕を伸ばした姿勢で目を覚ました。夢の中で、五人全員を抱きしめる寸前だったという。握手ばかりする仕事になった、と彼は言った。あとは、酒をよく飲むようになった、と。

家族と捜査陣は、藁にもすがった。マドルーガ家は霊能者に相談した。ある霊能者は、五人はアリゾナとネバダに誘拐されたと言った。別の霊能者は、オロビルの二階建ての赤い家、レンガか着色した木造で、砂利敷きの車回しがあり、番地は四七二三か四七五三、そこで殺されたと言った。エアーズは丸二日かけてオロビル中の道を走り、その家を探した。そんな家は存在しなかった。

ボディウィッチャーを名乗る男も現れた。井戸探しの占い棒を人体の成分に反応するよう調整したという触れ込みだった。棒は捜索隊を、車の近くの無人の小屋へ導いた。中は空だった。

サクラメント・ビー紙が二〇一九年に確認した資料によれば、ある霊能者は緑色のキャンバス地の袋に入った遺体を見た、と語っていた。のちに彼らの遺体を収容するために使われた袋は、まさに緑色のキャンバス地だった。偶然だろう。だが当時の関係者にとっては、そういう偶然すら気持ちの悪い意味を持ち始めていた。

三月三十日、公式の捜索は新たな手がかりが出るまで中断された。

六月四日、バイク乗りたちが嗅いだ匂い

雪が引いた。

六月四日、日曜日。プラマス国有林をオフロードバイクで走っていた少人数のグループが、道の奥にある森林局の作業拠点に迷い込んだ。バックス湖から南西へ約五キロの地点。放置された建物が並んでいた。冬季に消防クルーが使う簡易宿舎だ。

そのうちの一棟、長さ十八メートルほどのトレーラーの前面の窓が割られていた。誰かが中に入るために叩き割ったのだとひと目でわかった。

彼らは扉を開けた。そして、耐えがたい腐敗臭に襲われた。

第一発見者の一人は、当時十六歳のロジャー・コックという少年だったと記録されている。彼らはすぐに通報した。回収チームがそこへたどり着くには、倒木を五本どかす作業に半日かかった。ジャック・ビーチャム元保安官は当時をこう振り返っている。あのあたりまで上がると、死の匂いがした。ひどいものだった。あの悪臭は忘れられない、と。

トレーラーの中のベッドに、テッド・ワイヘルが横たわっていた。

車から三十一キロ以上離れた場所だった。

八枚のシーツと、誰のものでもない金時計

現場の描写は、必要な範囲にとどめる。だが省いてしまうと、この事件の核心が伝わらない。

テッドはベッドの上に仰向けに寝かされていた。シーツが八枚、体の上に重ねられ、頭までくるむようにたくし込まれていた。両手は胸の上で組まれていた。ズボンの裾は両方とも膝の上までまくり上げられていた。足はひどい凍傷で、壊死が始まっていた。凍傷で失われた指もあった。彼は縞模様のベロア地のシャツと、薄手の緑色のズボンを着ていた。革靴はなく、どこにも見当たらなかった。

体重は失踪時の九十キロから、三十六キロから四十五キロほど落ちていた。ほぼ半分だ。髭が伸びていた。

このシーツの掛け方が、捜査員をいちばん強く揺さぶった。八枚を頭までかけて、きれいにたくし込む。壊死した足を抱えた人間が、痛みに耐えながら自分でできる作業ではない。つまり、誰かが彼にそうしてやった。誰かが最後まで、彼のそばにいた。

ユバ郡保安官事務所のコールドケース担当ブライアン・バーナーディスは、のちにこう表現している。テッドはベッドの上で仰向けになっていて、何枚もの毛布にとてもきれいにくるまれていた。誰かが彼を楽にしてやろうとした、あるいは世話をしようとしたみたいに、と。

ベッド脇の小さなテーブルには、彼の持ち物が並べられていた。現金の入った茶色い革の財布。名前が刻まれたニッケルの指輪。首にかけていたネックレス。そして、途中まで燃えて溶けた蝋燭。

さらに、金色の腕時計がひとつ。ウォルサム製で、風防のガラスが失われていた。

五人の家族全員が、その時計は誰のものでもないと証言した。

これが、この事件で唯一、第三者がそこにいたことを示唆しうる物証だった。ところが一九七八年の捜査は、この時計の製造番号を記録しなかった。指紋も採らなかった。証拠としての保管記録も残っていない。行方不明者事案として扱われていたから、殺人事件なら当然行われる手続きが行われなかったのだ。のちにユバ郡の担当者も、そうした鑑定は行われなかったと認めている。時計は今どこにあるのかもわからない。

もし番号が記録されていれば、追跡できたかもしれなかった。修理歴、販売店、保険の記録。何かに突き当たった可能性はゼロではなかった。だが、その糸は最初から切られていた。だから、この時計は永遠に何も語らない物体になった。森林局の職員が何か月も前に置き忘れたものかもしれない。五人の誰かが家族に黙って持っていたものかもしれない。あるいは、まったく別の誰かのものかもしれない。どれも証明できないし、反証もできない。

火をつけなかった部屋

ここからが、この事件がアメリカのディアトロフ峠と呼ばれる最大の理由だ。

トレーラーには暖炉があった。マッチはそのへんに転がっていた。燃やせるペーパーバックの小説が何冊もあった。木製の家具もあった。火は一度も焚かれていなかった。

トレーラーの中には重い林業用の防寒着が保管されていた。着られた形跡がなかった。

外の物置には、プロパンのタンクがあった。バルブをひねるだけで、トレーラーの暖房系統にガスが流れる仕組みだった。誰も触っていなかった。事件を担当したランス・エアーズ警部補は、この点について取材にこう言っている。あのガスの栓を開けさえすれば、トレーラーにガスが通って、暖房が入ったんだ、と。

食料はもっとひどい。外の貯蔵庫には軍用の携帯口糧の缶が積まれていた。開けられて中身が食べられていた缶は、記録によって数が違う。ワシントン・ポストの一九七八年の記事は十数缶以上と書いた。よく引かれる記録では三ダース、三十六食分とされる。サクラメント・ビーが二〇一九年に閲覧した捜査資料では三十一缶だった。いずれにせよ、三か月近い生存期間に対してはあまりに少ない。

そして同じ物置の中には、もうひとつロッカーがあった。開けられていなかった。中にはフリーズドライのメキシコ料理やフルーツカクテル、その他の食事が詰まっていた。五人全員を一年間生かしておける量だった。

蓋を開けさえすれば、そこにあった。

さらに細部が突き刺さる。開けられていた口糧の缶の一部は、P38という開け方をされていた。米軍が携帯口糧とセットで支給していた、折りたたみ式の小さな缶切りだ。慣れれば片手で使えるが、知らない人間が見ても何をどうする道具なのかまずわからない。五人のうちその使い方を知っていた可能性があるのは、陸軍にいたマドルーガとマティアスの二人だけだった。

そしてマドルーガの遺体は、トレーラーからはるか手前で見つかっている。

つまり、あの部屋には、缶の開け方を知っている人間がいた。その人間はテッドに食べさせ、シーツをかけてやり、そして火を焚かなかった。

トレーラーの中にはゲイリー・マティアスのテニスシューズが残されていた。テッドの丈夫な革靴は消えていた。テッドのほうが足が大きい。凍傷で足が腫れた人間が、より大きくて丈夫な靴に履き替える。捜査員の推論はそういうものだった。マティアスはあの部屋にしばらくいて、靴を履き替えて、また外へ出ていった。

死因は飢餓と低体温、正式には曝露と肺水腫とされた。髭の伸び具合から推定された生存期間は、資料によって四週間から六週間、あるいは八週間から十三週間と幅がある。つまり彼は、少なくとも一か月、長ければ三か月近く、食料と燃料に囲まれたまま、痩せて、凍えて、死んだ。

道の両側で倒れていた二人と、父親が拾い上げた背骨

翌六月五日、捜索隊は車とトレーラーを結ぶ道をたどり直した。

車から十八キロほどの地点。道の両側に、二人の遺体があった。ジャック・マドルーガとビル・スターリング。

マドルーガの遺体は動物に食い荒らされ、三メートルほど引きずられて小川のそばまで移動していた。仰向けで、右手が自分の腕時計を握るような形になっていた。ズボンのポケットには、あの車のキーが入っていた。あの誰も見つけられなかったキーが、ずっとそこにあった。死因は低体温症と判定された。

スターリングは道の反対側、木立の中で、およそ十五メートルの範囲に骨だけになって散らばっていた。検死官は死因を確定できなかった。

捜査員はこの二人の位置関係にひとつの解釈を与えた。低体温症の末期には、抗いがたい眠気が来る。どちらか一方が力尽きて眠り、もう一方はその場を離れずにそばにいて、同じように死んだのではないか、と。証明はできない。だが、道の両側で向かい合うように倒れていた二人の姿は、そう読みたくなる形をしていた。

そしてもうひとつ、この事件でいちばん残酷な場面が来る。

ジャッキー・ハウエットの父親も捜索に加わっていた。エアーズは思いとどまらせようとした。まさにこういうことが起きるのが怖かったからだ。だが父親のジャック・ハウエット・シニアは譲らなかった。

六月七日、トレーラーから北東へ数キロの地点、マンザニータの茂みの下で、彼は息子のジャケットを見つけた。拾い上げた。中から背骨が落ちた。

近くにジャッキーのジーンズと、リップルソールの靴が転がっていた。それで本人だとわかった。翌日、プラマス郡の保安官補が、そこから九十メートルほど離れた場所で頭蓋骨を見つけた。かかりつけの歯科医が歯型で確認した。死因は低体温症とされた。

トレーラーの北西約四百メートルの道端では、森林局のウール毛布が三枚と、二本電池の懐中電灯が見つかった。懐中電灯は少し錆びていて、スイッチは切られていた。それがいつからそこにあったのかは、判断できなかった。トレーラーから北西へ一キロ強の地点では、使い捨ての灰色のプラスチックライターも見つかっている。家族は、五人の誰もライターを持ち歩かなかったと証言した。ハイカーの落とし物かもしれない。それだけの話かもしれない。

ゲイリー・マティアスの痕跡は、靴以外に何も出なかった。

彼が服薬していないことは明らかだったので、彼の写真はカリフォルニア中の精神科病院に配られた。彼は財布を持たずに家を出ていたので、身分証を持っていなかった。眼鏡がなければ物が二重に見える体質だった。

六月十九日、あるいは六月二十日。三郡は捜索を打ち切った。

義父のロバート・クロプフは、記者にこう言った。山にいる間、私がずっと探していたのは、あいつの眼鏡だ。眼鏡なら熊も食わないと思ったから、と。母のアイダ・クロプフはテレビをつけなくなった。そういう形で息子の話を知りたくなかったからだ。彼女は週末にまた山へ行くと言った。捜索隊が見落としたものがあるかもしれないから、と。

探す場所なんてもうないよ、アイダ、と夫が言った。

どこか見つけるわ、と彼女は顔をそむけて答えた。

論点その一。なぜ、五十キロも山へ向かったのか

ここから、この事件の主要な論点を一つずつ潰していく。まずは最大の謎、なぜ彼らは真逆の方角へ、しかも山の奥へ向かったのか。

公式に近い説明はこうだ。ゲイリー・マティアスにはフォーブスタウンという小さな町に知り合いがいた。チコとユバシティのだいたい中間あたりにある。試合帰りにそこへ寄ろうとしたのではないか。そしてフォーブスタウンへの分岐は、夜に走ると見落としやすい。オロビル付近で曲がりそこねると、そのまま北へ、山のほうへ向かってしまう。ユバ郡保安官事務所のバーナーディスも、この一帯の道を知っていればオロビル・クインシー街道からフォーブスタウンに出られなくはない、と説明している。

この説の強みは、地理的に無理がないことだ。真夜中に見知らぬ分岐を外して迷走する。よくある話ではある。

だが反証も強い。第一に、当時の捜査でフォーブスタウンの知人に確認したところ、彼らはマティアスと一年会っていないと答えた。第二に、マドルーガは地図を読むのが好きで、車には地図が四枚あった。しかも、万一道を間違えても、彼は引き返し方を知っていた、と甥のジョージ・マドルーガは語っている。第三に、これがいちばん重い。翌朝に大事な試合がある。全員がユニフォームを枕元に並べていた。深夜に寄り道して山に入る動機が、五人のうち誰にもない。

そして最大の反証は、車体だ。夜の悪路を百十一キロも上って、下回りに傷ひとつない。迷って焦って走った車の状態ではない。慎重に、ゆっくり、あるいは道を知り尽くして走った車の状態だ。マドルーガはその道を知らなかった。この一点だけで、単純な迷走説は説明力を失う。

もっとも、公平を期すなら反証への反証もある。低速で慎重に走れば下回りに傷はつかない。雪が積もっていれば路面の凹凸そのものが埋まって均されることもある。傷がないから道を熟知した何者かが運転した、という推論は、当時の捜査員の印象であって、工学的な鑑定結果ではない。ここは押しすぎないほうがいい。

論点その二。五人はいったい何から逃げたのか

車を捨てて、下ではなく上へ歩いた。この一点をどう説明するか。

遭難心理の世界には、ほとんど法則と言っていい傾向がある。道に迷った人間は下る。水のあるほう、低いほう、明かりの見えるほうへ本能的に引かれる。実際、彼らが車を捨てた地点から下れば、十三キロ先にショーンズが助けを求めて歩いていったロッジがあった。そこには人がいて、電話があり、暖房があった。

彼らは逆に歩いた。標高を上げ、寒さを増し、人家から遠ざかる方向へ、雪の中を三十キロ以上。

だから、何かから逃げていた、という説が出てくる。何者かに追われた。あるいは、追われていると信じ込んだ。テッド・ワイヘルの義姉は当時こう語っている。あの子たちは試合会場か駐車場で、何かを見たんじゃないかしら。見たことにも気づかないまま、見てしまったのかも、と。

心理学的にはもっと穏当なバージョンもある。集団の中で一人が強い不安を示すと、判断力の余力が少ない集団は、その不安をそのまま共有してしまう。家族は五人について、普段は問題なく生活できるが、強いストレス下では行動が崩れやすいと繰り返し証言していた。マドルーガの従兄弟ロン・ハーモンも、彼らは普通に自分のことはできるが、ストレスがかかると調子が落ちる、と語っている。真夜中、見知らぬ雪山、動かない車。パニックの条件は全部そろっていた。

ではパニック説への反証は何か。ひとつは、車内の様子だ。争った跡も、慌てて逃げた跡もない。菓子はきちんと食べ尽くされ、地図は折りたたまれ、包み紙が散らばっていた。パニックで飛び出した人間の車には見えない。もうひとつは、行動の一貫性だ。純粋なパニックは長続きしない。三十キロという距離は、恐怖の勢いだけで歩ける距離ではない。彼らは何時間も、目的を持って歩いたように見える。

そしてもうひとつ、パニック説を弱めるのに、パニック説を強める材料がある。ショーンズの証言だ。もし彼らが恐怖で逃げていたのなら、助けを呼ぶ他人の声に反応しなかったのは筋が通る。だが同時に、恐怖に駆られた人間が灯りを静かに消して沈黙する、というのは妙に統制が取れている。パニックというより、隠れる意思に近い。ここでまた説明がねじれる。

論点その三。「誰かがやらせた」という母の確信

遺族の多くは、最初から最後までこの立場だった。

マドルーガの母は当時こう言い切った。あの子たちを山へ行かせた何かの力があったんです。ウズラの群れみたいに森へ逃げ込むような子たちじゃない。誰かがやらせたに決まってる。あの五人を力ずくで押さえ込める人間なんて想像できないけど、でもそうに違いないんです、と。

彼女は別の取材でもこう答えている。息子が自分からあそこへ行ったなんて、絶対にありえない。だまされたか、脅されたかです、と。ワイヘルの家族も同じ立場だった。ジャック・ビーチャム元保安官も、五十年以上の警察人生を振り返りながら、はっきりこう言っている。彼らは強制されたか、操られたかのどちらかだ。自分たちの意思であそこへ行ったのではない、と。

この説の強みは、証拠のいくつかを一気に説明してしまうところにある。傷のない車体。窓が開いたままの無施錠の車。持ち去られた鍵。マドルーガのポケットに鍵があったということは、彼が最後まで鍵を持っていたわけだが、それでも車を捨てたことになる。他人が運転したなら、車体の傷のなさも説明がつく。そして何より、下ではなく上へ歩いた理由も説明できる。誰かが下へ行かせなかった。

だが反証は容赦ない。第三者関与を裏づける物証が、ほぼ何もないのだ。銃創も刺創もない。凶器もない。争った形跡もない。四人の死因は一貫して低体温と飢餓だ。誰かが五人を山へ追い上げたなら、なぜ雪の中に足跡以外の何も残さなかったのか。なぜ財布の現金が残っていたのか。強盗でも殺人でもない。動機が浮かばない。

さらに、この事件の周辺には確認できない噂が渦を巻いてきた。コンビニの外でもめごとがあったという話。地元のいじめっ子を名乗る男が教会で告白したという話。マティアスが橋から投げ落とされたという話。ネットフリックスのドキュメンタリーはこれらの一部を紹介している。だが半世紀近く、どれも立証されていない。実在の個人を犯人と名指しできる材料は存在しない。この記事でも名前は書かない。書くべきではない。

なお二〇一九年から二〇二〇年にかけて、この論点に大きな動きがある。それは後で書く。

論点その四。「ルールを破れない」ということ

これがおそらく、いちばん説明力が高くて、いちばん語られてこなかった説だ。

もう一度、テッド・ワイヘルの逸話を思い出してほしい。実家が火事になったとき、彼は燃えている天井を見ながらベッドから動かなかった。理由は、明日仕事に遅れたくないから、寝かせておいてほしい。彼は火事という新奇な状況に対して、夜は寝るものだ、という既存のルールを適用し続けた。ルールを状況に合わせて書き換える、という作業が苦手だった。

この特性を、あのトレーラーに置き換える。

鍵のかかった政府の建物の窓を割って侵入した。もうその時点で規則違反だ。中には他人の食料があり、他人の燃料があり、他人の服がある。使えば窃盗になる。逮捕されるかもしれない。マティアスの義父クロプフも当時、こう推測している。彼らが火を焚かなかったのは、見つかるのが怖かったからではないか、と。

もしこれが正しければ、あのトレーラーの光景の説明はこうなる。彼らは飢えと寒さの中でも、これは使ってはいけないもの、という区分を維持し続けた。缶詰にはかろうじて手を出した。だが暖房のバルブは、明らかに触ってはいけない設備だった。防寒着は他人の服だった。暖炉に火を入れるのは建物を汚す行為だった。

しかもこれは、知的障害だけの問題ではない。低体温症は死ぬ前に判断力を壊す。深部体温が下がると、順序立てて物事を実行する能力が真っ先に落ちる。バルブを見つける、それが暖房につながっていると理解する、開ける、トレーラーに戻る、着火する。この五段階の手順を、凍えた体と限られた認知資源で実行しなければならない。健常な成人でも末期の低体温症では難しい。もとの認知的余力が少ない人が、支援者なしで、一人で、それをやれというのは酷だ。

そしてテッドは一人だった。少なくとも途中からは。彼は誰かに指示されて動くことに慣れていた。その誰かが、いなくなった。

反証もある。まず、これは彼らをできない人として一括りにしすぎる危険がある。実際、彼らは三十キロ歩いた。窓を割って中に入った。缶を開けて食べた。シーツを掛けた。生き延びるための行動を、彼らは実際にとっている。規則を破れないから死んだ、という説明は、窓を割って侵入した時点ですでに一度破られている。次に、生存期間の長さだ。仮に数日で死んだのなら、この説明はきれいに通る。だが数週間から三か月である。その全期間、一度も暖房を試さなかったという事実は、単純な規範遵守だけでは説明しきれない。

もうひとつ、あまり語られない可能性がある。彼らは、あそこがすぐに人が戻ってくる場所だと思っていたのかもしれない。事件の前日、二月二十三日に、森林局のスノーキャットが屋根の雪下ろしのためにその道を通っていた。踏み固められた跡が残っていた。捜査陣は、五人がその轍を追ったのではないかと考えた。轍があるということは、誰かがすぐそこにいるということだ。だとすれば、あと少し待てば助けが来る、勝手に物を使う必要はない、という判断は、その時点では合理的ですらある。待っているうちに、誰も来なかっただけだ。

論点その五。ゲイリー・マティアスをめぐる、乱暴な物語

この事件を語るとき、いちばん慎重にならないといけないのがここだ。

事実関係を先に置く。ユバ郡保安官事務所の捜査資料には、マティアスの過去の記録が残っている。高校時代に幻覚剤で具合を悪くして精神科病棟に入ったこと。陸軍で射撃の勲章を得た一方、無断離隊で逮捕されたこと。留置場で警官を殴り、公務執行妨害の罪を認めたこと。一九七三年に親族の家で起きた出来事について暴行の容疑がかかり、司法取引の中で別の訴因が取り下げられたこと。同じ年の暮れ、薬物の影響下で知人宅で錯乱した記録。一九七五年に他人の家に窓を割って侵入し、悪魔に返す指輪を探している、と口走ったという記録。オレゴンから八百七十キロを歩いて帰ってきたという逸話。州立の医療施設から排水管を這って抜け出し、病院の寝間着のままヒッチハイクで帰ってきたという記録。

これらは記録として存在する。だから書く。

同時に、公平に書かなければならないことがある。一九七五年以降、彼は服薬を続け、二年間、警察沙汰を起こしていない。義父は彼が失踪した週にもきちんと薬を飲んだと証言している。主治医は彼を模範的な成功例と呼んだ。ゲートウェイでは彼は支援される側であると同時に、スポーツを教える側でもあった。妹のタミーは、彼が仲間思いの兄だったと語っている。

そのうえで、周囲には不安もあった。ゲイターズのコーチだったロバート・ペノックは、投薬で落ち着いているとはいえ、いつ発作的に何かが起きてもおかしくない気がした、と捜査員に述べている。他の四人の親たちは、彼が息子たちと一緒にいることを歓迎していなかった。ビーチャム元保安官は、親たちは私に直接、はっきりとゲイリーへの深い懸念を口にした、と証言している。マドルーガの姪キャシー・ロバーツは、ネットフリックスの番組でこう語った。神様お許しください、でも私は知っています。ドクたちはマティアスを怖がっていた。ゲイリーが試合に一緒に行くことになったとき、みんな本当は嫌だった。でも、怖くて言えなかった。それは叔父から聞いた話です、と。

こうした証言から、マティアス犯人説が生まれた。彼が薬を飲まずに幻覚状態に陥り、仲間を山へ導き、置き去りにして消えた。あるいはもっと悪いことをした。ダラス・ワイヘルが取材に、それしか筋が通らない、と答えたことも報じられている。

だが、この説に対する反証は、かなり強い。

まず、その夜の彼はどこにも異常を示していない。試合会場でも、コンビニでも、誰も彼の様子を不審に思っていない。作家のトニー・ライトはこう指摘する。車に乗ってチコまで行き、何ごともなく試合を見て、何ごともなく店で買い物をしている。そのどこにゲイリーが問題を起こした痕跡があるんだ。私は買わない、と。彼はさらに、統合失調症という診断名が説明の代わりに使われてきたと批判する。ゲイリーが過去にこういうことをしたという証拠は一つもない、と。

次に、動機がない。仲間との間に諍いがあった記録は存在しない。

第三に、物理的にも彼を犯人とみなす証拠がない。あのトレーラーで彼が最後にしたと推定される行為は、缶を開けて友人に食べさせ、シーツを掛け、靴を履き替えて外へ出ることだった。それは加害というより、看取りと、助けを呼びに行く行動に見える。妹のタミー・フィリップスはこう考えている。兄はトレーラーにたどり着き、テッドを最期まで世話した。それからジャッキーと一緒に助けを探しに出て、何週間も薬を欠いた状態で道に迷い、他の四人と同じように死んだのだ、と。

そして決定的なのが、行政の記録である。

二〇一九年の一枚のメモが、四十年の物語をひっくり返した

二〇二三年十月、情報公開請求によってユバ郡保安官事務所の内部文書が公開された。日付は二〇一九年十一月十五日、あるいは二〇二〇年十月とも報じられている。文面は短い。

ゲイリー・マティアスは、犯罪被害者であると考えられる。本件は行方不明者かつ殺人事件として継続中である。この書面をマティアスの家族に転送しないことが、関係者全員の利益にかなう。

これが何を意味するか。半世紀近く、山で死んだ障害のある五人組として扱われ、しかもその一人は仲間を死なせた張本人かもしれないと囁かれ続けてきた事件について、当の捜査機関が内部では、マティアスは被害者だ、これは殺人事件だ、と書いていた。しかも、その認識を彼の家族に知らせるな、と付記していた。

ただし、慎重に扱う必要がある。このメモは根拠を一切示していない。新しい鑑定結果も、新証言も、証拠番号も添えられていない。考えられる、という書き方は、意見と証明の距離を測る役所の言い回しだ。何がこの判断を生んだのか、公開文書からは読み取れない。だから、これを事件は解決したと読むのは間違いだ。読めるのは一つだけ。公式見解と内部認識がずれていた、ということ。そしてそのずれを、遺族には隠すことになっていた、ということだ。

家族にとって、これはとてつもなく重い一枚だった。マティアス家は長年、二重の喪失を背負ってきた。息子や兄が帰ってこないという喪失と、その息子や兄が友人殺しの疑いをかけられ続けるという喪失だ。一九九〇年代にある再現ドラマ番組が事件を取り上げようとしたとき、他の四家族は同意したがマティアス家だけが断ったと報じられている。ダラス・ワイヘルはそれを疑わしいと感じた。だがマティアス家の側から見れば、その番組がどういう筋書きで作られるかは、火を見るより明らかだったのかもしれない。

「立ち往生した車と救急車」は、どこで形を変えたのか

さて、この事件を追いかけていると必ずぶつかる話がある。あの夜、山道には立ち往生した車があり、救急車が来ていた、という筋の証言だ。ネット上の再話でよく見かける。

だが、記録に残っているものを丁寧にたどると、この話の輪郭は少し違う。

確実なのは立ち往生した車のほうだ。ジョセフ・ショーンズのフォルクスワーゲンが雪にはまり、彼が心臓発作を起こし、一晩そこにいた。これは医師の確認も取れている。彼は自分の車のヘッドライトを点け、暖房を入れていた。だから五人があの道を上ってきたとき、道の先には、明らかに立ち往生して助けを必要としている車が一台あったことになる。これは大きい。あとから救急の車両が来るのを彼らが見た、あるいは来ると思った、という筋書きが立てられるからだ。

だが記録上、あの夜、あの道に救急車は来ていない。ショーンズは救助されていない。彼は燃料が尽きるまで車内にいて、夜が明ける前に自力で十三キロ歩き、ロッジの支配人に家まで送ってもらった。医師の診断はその後だ。彼が見たと言ったのは、ヘッドライトの光、人影、話し声、口笛のような音、そして懐中電灯の光である。一時期はピックアップトラックにも言及したが、後に自分でも確信が持てないと撤回している。

つまり救急車は、後年の再話の過程で生まれた影だと考えるのが自然だ。緊急車両というイメージは、この事件の情景にあまりにもよく馴染む。雪、遭難、赤い回転灯。だから語り継がれるうちに、証言のどこかに入り込んだ。

これは些細な指摘に見えて、この事件を考えるうえでかなり重要だ。ユバ郡五人失踪事件は、一次資料が薄い。捜査記録の多くは非公開で、現場写真は公表されておらず、鑑定は当時の水準でも不十分だった。その空白を、四十年以上にわたって二次的な語りが埋めてきた。缶の数が十二だったり三十一だったり三十六だったりする。生存期間が四週間だったり十三週間だったりする。車が一九六七年式だったり一九六九年式だったりする。距離が十二マイルだったり十九・四マイルだったりする。すべて実在の報道に載っている数字だ。

事件が伝説になるとき、増えるのは謎ではない。ズレだ。そのズレが謎に見えるだけのことも多い。だから救急車の話が出てきたら、まずショーンズの原証言に戻る。そこには救急車はいない。いるのは、痛みで意識が半分飛んだ五十五歳の男と、彼の叫びに応じて灯りを消した何者かだけだ。

低体温症の生理学が、静かに説明してしまうもの

もう一つ、この事件の不可解さを大幅に削る知識がある。低体温症の末期に起きる二つの現象だ。

ひとつは逆説的脱衣。深部体温が危険域まで落ちると、それまで熱を守るために収縮していた末梢の血管が突然開く。すると全身が焼けるように熱く感じる。人はその感覚に従って服を脱ぐ。意思ではなく、脳幹レベルの反応だ。凍死した遺体が半裸で見つかる理由の多くはこれで説明がつく。一九九五年以降、法医学の査読論文でも扱われている。

もうひとつは終末期の穴掘り行動。致死的な低体温症の最終段階で、人は狭くて囲われた場所に潜り込もうとする。動物の冬眠行動に近い、これも自動的な反応だ。

この二つを知っていると、テッド・ワイヘルの姿の意味が変わってくる。シーツにくるまれ、狭いベッドの上で、頭まで覆われて死んでいた。ここに超常的なものを読む必要はない。ただし注意したい。彼の場合は八枚のシーツを頭までたくし込むという、痛む足では自分でできない作業が含まれている。ここは自動反応だけでは説明しきれない。だから誰かがいたという推論は依然として生きている。生理学は多くを説明するが、全部は説明しない。

そして服の交換や靴の入れ替わりについても同じことが言える。人はそれを、誰かに脱がされた、の証拠にしたがる。だが凍傷で腫れた足、機能しなくなった手指、判断力の低下。この三つがそろえば、靴の履き替えも服の乱れも、恐ろしいほど普通のことになる。

遺族の言葉は、四十年かけて変わっていった

この事件の取材で何より重いのは、家族が語り続けてきた記録が長期にわたって残っていることだ。三つ、引いておきたい。

一つめ。失踪から一年後の一九七九年、地元紙に一通の投書が載った。見出しは、まだ一人行方不明、懸賞金もまだ有効。マティアス家、スターリング家、ハウエット家、ワイヘル家の連名だった。そこには捜査への怒りと、答えの出ない問いへの疲れが並んでいる。そして最後に、こう書かれていた。疑問ばかりで、答えはない。苦さは、ある。怒りも、ときどき。そして戸惑いは、いつも、と。続けてこうある。あなたの息子が友達と試合を見に出かけるとき、あなたはいつも腕を回して、キスをして、どれだけ愛しているか伝えていますか。そうしたほうがいい。もう二度と帰ってこないかもしれないのだから。

二つめ。テッドの兄弟であるダラス・ワイヘルとペリー・ワイヘルは、二〇二〇年代に入ってからも取材に応じ続けている。ダラスは事件当時、甥が十二歳の誕生日を迎えるはずだった週のことを覚えている。家の中が悲しい人でいっぱいなだけの日だった、とその甥は語った。四十七年間、いくつもの家族が、わからないという重さを抱えてきた。区切りがつかないんです、と。ダラス本人は取材に、八十歳になった今も事件が解決できると信じているが、自分が生きているうちに見られるかはわからない、と語った。区切りとは何かと問われて、彼はこう答えている。わからない。誰かが名乗り出て、知っていることを話す以外にない。法医学的な証拠がもう何も残っていないんだから、と。

弟のペリーは、もっと素朴な違和感を言葉にしている。当時、警察は、大人の男なんだから好きにしていいでしょう、という反応だったという。彼らは普通の大人の男の子たちじゃなかった。違う子たちだったんです、と。そして、なぜ山に行ったのかについて彼はこう言う。誰かが行かせたんだと私は言い続けている。無理やりというより、何か約束したのかもしれない。女の子を紹介するとか、そういうことを言われたのかもしれない。わからないけれど、と。

三つめ。マドルーガ家の姪キャシー・ロバーツは、遺体が見つかってから一年以内に、母が経営していたバーで、入口から三つめのスツールにゲイリー・マティアスが座っているのを見たと証言している。目が合った。彼は走って出ていった。マティアスの妹タミーも、勤務していた病院で交通事故の搬送患者を見て、兄だと確信したと語っている。同時に、彼女は別の場所で、兄も他の子たちと同じで、あそこから出られなかったと思う、とも語っている。

この二つの証言は矛盾しているように見える。だが、行方不明者の家族の証言はしばしばこういう形をとる。理性は死を受け入れ、目は生きた姿を探し続ける。四十七年間、そういう二重の状態で生きてきた人たちがいる、ということだ。

本、ポッドキャスト、そしてネットフリックスが掘り返したもの

この事件が今日これほど知られているのは、ここ十数年の再検証のおかげだ。

まず二〇一八年、アーキビストのトニー・ライトが本を発表した。四年をかけて資料を掘り、遺族に会い、事件を奇談ではなく五人の人生の記録として書き直した本だ。二〇二四年には増補された版が出ている。彼はこの案件について、私たちには確たる証拠がない、ほとんどが状況証拠、町の噂話だ、この事件は狂気への旅路だ、と語っている。その一方で彼は、五人を一人ずつ、写真つきで丁寧に描いた。ジャック・マドルーガは物静かで内向的だが賢く、優しかった。ビル・スターリングはボウリング好きの穏やかな男だった。ゲイリー・マティアスは運動神経がよく、ハーモニカが上手な兄だった。ジャッキー・ハウエットは優しくて誰にでも好かれた。ライトの本の功績は、この一段落にあると言っていい。

二〇二〇年にはドリュー・ハースト・ビーソンが別の本を出し、誤って伝わってきた事実関係の整理と、諸説の検証を試みた。この本にはゲートウェイ・プロジェクツ自体が事件前から標的にされていたという、あまり知られていない背景も出てくる。一九七五年二月にゲートウェイの作業所が放火され、被害額は十五万ドルに達した。数週間後には事務所に火炎瓶が投げ込まれた。そして施設長が自宅で焼死体となって発見されている。新しい拠点には開設直後に爆破予告が届いた。障害のある人たちの居場所が、地域の悪意にさらされていた時代の記録だ。これが五人の失踪と直接つながる証拠はない。だが、彼らは安全な町で暮らしていた、という前提が誤りであることは、はっきりわかる。

二〇一九年にはサクラメント・ビーが二部構成の長編記事を出した。ユバ郡保安官の許可を得て、写真撮影と持ち出しをしない条件で証拠品を閲覧し、遺族と当時の捜査員に取材した。この記事によって、マティアスの記録の細部が初めて広く知られることになった。同時に、この記事の切り口が、彼が犯人ではないか、という方向に強く傾いていたことも事実で、後年の批判の的にもなっている。

二〇二四年四月、ネットフリックスがドキュメンタリーシリーズの一話でこの事件を扱った。ここで初めて、遺族の顔と声が世界規模で流れた。キャシー・ロバーツの、怖くて言えなかった、という証言も、タミー・フィリップスの、兄も出られなかった、という証言も、この番組で世に出た。番組は特定の説に決着をつけず、複数の立場を並べる作りだった。批判もあった。一時間という尺では入りきらない情報が大量に切り捨てられた、という指摘だ。

そのほか、ポッドキャストシリーズ、複数の長尺の検証動画、犯罪ポッドキャストでの反復的な取り上げ、自動車雑誌系のテレビ番組での特集などが続いた。二〇二四年には遺族側が再捜査を求める署名運動も立ち上がっている。そこでは一九七八年の検死の不備が具体的に列挙されている。組織標本がない。顕微鏡標本がない。正式な組織病理報告がない。エックス線がない。毒物検査がない。低体温症の典型的所見の確認もない。これらは当時の水準に照らしても不十分だという主張だ。

再検証の副産物として、皮肉なこともわかってきた。この事件を解けない謎として消費してきたのは、ほかならぬ我々のような書き手だということだ。障害のある人が極限状況で何を経験するかを真面目に考えれば、いくつもの謎は縮む。それをやらずに不可解とだけ言い続けるほうが、記事としては面白くなる。書きながら、そのことは自覚しておきたい。

なぜ「アメリカのディアトロフ峠」と呼ばれるのか

一九五九年、ソ連ウラル山脈北部。経験豊富な登山者九人が、夜中にテントを内側から切り裂いて飛び出し、氷点下の中を薄着で逃げ、斜面に散らばって全員死亡した。ディアトロフ峠事件だ。

ユバ郡の五人と、この九人。並べられる理由は明快だ。どちらも、集団が自分たちの唯一の避難所を自ら捨てている。テントを捨てて雪へ。車を捨てて雪へ。どちらも、何から逃げたのかが物証から復元できない。どちらも、遺体の状態にどうにも噛み合わない細部がある。ディアトロフでは衣服の交換と外傷。ユバではシーツと靴と時計。そしてどちらも、法医学的な結論と、人間的な納得のあいだに大きな溝が残る。

だが、対比するといっそう面白いのは、違いのほうだ。

第一に、方向が逆だ。ディアトロフの九人は山を下った。テントから斜面を下って森へ向かった。ユバの五人は登った。標高を上げ、寒さの中心へ歩いた。遭難心理の教科書に照らせば、下ったディアトロフのほうが、まだわかる行動なのだ。人は下る。ユバの五人はその本能を逆走した。

第二に、能力が正反対だ。ディアトロフの九人は工科大学の学生や卒業生で、スキー行の経験を積んでいた。装備も知識もあった。それでも死んだ。ユバの五人は山の経験がなく、装備もなく、薄いジャケットしか着ていなかった。だから、この二つを同列に不可解な集団死として並べるのは、ある意味で乱暴だ。訓練された人間が奇妙な死に方をするのと、準備のない人間が雪山で死ぬのとでは、必要な説明の量が全然違う。

第三に、生存者の問題がある。ディアトロフには、数週間シェルターの中で生き延びた人物がいない。ユバにはいる。テッド・ワイヘルは、備蓄のある小屋の中で何週間も生きて、そして死んだ。これは他に例を探すのが難しい。ディアトロフの謎が、あの夜、何が起きたのか、に集中するのに対し、ユバの謎は、そのあと何十日、何が起きなかったのか、に伸びていく。恐怖の質が違う。前者は一晩の恐怖で、後者は延々と続く恐怖だ。

第四に、社会的な扱いの差がある。ディアトロフは冷戦期のソ連という舞台装置と、九人の若く写真映えする学生たちのおかげで、世界的な伝説になった。ユバ郡の五人は、カリフォルニアの田舎町の、障害のある成人男性たちだった。国際的なニュースにはなったが、伝説にはならなかった。同じくらい奇妙で、トレーラーの件についてはむしろ奇妙さで上回るのに、である。この差そのものが、この事件について考えるべき論点のひとつだ。誰の死が謎として語り継がれ、誰の死が忘れられるのか。

第五に、そして最後に、決着のつき方が違う。ディアトロフには近年、有力な説明が提示されている。斜面の雪板が滑ってテントを潰しかけ、九人が緊急脱出し、その後は低体温と地形が仕事をした、という筋だ。完全に決着したわけではないが、物理シミュレーションを含む研究が積み上がっている。ユバ郡五人失踪事件には、それに相当するものがない。かわりに、内部メモが一枚ある。そこにはこう書かれている。これは殺人事件として継続中である、と。

つまりアメリカのディアトロフ峠という呼び名は、半分正しくて半分間違っている。雰囲気は似ている。構造は違う。そして、まだ終わっていない度合いで言えば、ユバのほうが深い。ディアトロフの遺族には少なくとも全員の遺体が返された。ユバでは、一人がまだ帰っていない。

三種類の謎を、混ぜないで考える

ここまで書いてきて、どうしても最後に整理しておきたいことがいくつかある。感想ではなく、事実の重みづけの話だ。

まず、この事件を語るときにいちばん危ういのは、不可解という言葉の使い方だと思う。ユバ郡五人失踪事件には、実際には三種類の異なる謎が混ざっている。一つめは、なぜ車があの場所にあったのかという謎。二つめは、なぜ車を捨てて上へ歩いたのかという謎。三つめは、なぜ小屋の備蓄が使われなかったのかという謎。この三つは性質がまったく違う。それを全部が不可解だと一括りにすると、解ける部分まで解けなくなる。

三つめから片づけていく。備蓄の謎は、実は最も説明可能性が高い。テッド・ワイヘルという人がどういう人だったかを知っていれば、答えの半分はもう出ている。彼は天井が燃えている部屋でベッドから出なかった人だ。新奇な状況に対して、既存のルールを書き換えることが苦手だった。そこに、鍵のかかった政府の建物という設定と、凍傷と、低体温症による段取り能力の崩壊と、指示を出す仲間の不在が重なる。バルブを開けるという一手が、彼にとってどれほど遠い一手だったか、想像するのは難しくない。難しくないが、我々はそれを想像したがらない。想像すると、事件が謎でなくなり、ただの悲劇になるからだ。

ただし、ここには釘を刺しておく必要がある。知的障害があったから使えなかった、という説明を、そのまま、彼らには無理だった、に丸めてはいけない。彼らは三十キロを歩いた。窓を割って中に入った。缶を開けた。友人にシーツを掛けた。極限状況で、彼らはやれることをやっている。彼らにできなかったのは、支援なしで新しい手順を五段階も組み立てることであって、生きようとすることではない。この区別を潰す書き方は、彼らの尊厳を潰す。

二つめの謎、なぜ上へ歩いたのか。これはまだ本当にわからない。個人的にいちばん腑に落ちるのは、スノーキャットの轍の話だ。前日に森林局の車両が屋根の雪下ろしのためにその道を通っていて、雪の中に踏み固められた道ができていた。深い雪の中で、唯一歩ける線がそこにある。しかもその線は人がつけたものだ。人がつけた道は人のいる場所に通じている。これは知的障害の有無に関係なく、多くの人が採る判断だと思う。下りが正解なのは地図を持って全体を俯瞰できるときの話であって、深夜の雪の中、目の前に一本だけ歩ける道があれば、人はそれを歩く。

だが、この説明でも一点だけ残る。彼らはロッジの前を通って上ってきたはずなのだ。ショーンズが助けを求めて歩いた先にあった、あのマウンテン・ハウスである。下れば十三キロで人がいる場所に着く。それを知っていた可能性は十分ある。にもかかわらず上へ行った。ここを説明するには、やはり、下へは行けない事情があった、と考えるほうが自然になる。追われていたのか、追われていると思い込んだのか、それとも別の何かか。ここに、この事件のいちばん深い穴がある。

一つめの謎、なぜあの道に車があったのか。ここは正直に言うと、四十七年経っても新しい材料がほとんど出ていない。傷のない下回りは強い状況証拠に見えるが、鑑定ではなく印象である。ただし、五人の生活パターンが揃って壊れているという事実は重い。全員がユニフォームを並べて寝る準備をしていた。全員が寒さと森を避けていた。全員が家に帰る強い理由を持っていた。この五人が、五人そろって、深夜に山へ向かう。統計的にとても妙だ。妙さの度合いで言えば、車体の傷よりこちらのほうが重い証拠だと思う。

診断名が、説明の代わりに使われてきた

そして、ゲイリー・マティアスの話をしなければならない。

この事件が半世紀にわたって歪んで語られてきた最大の原因は、彼の診断名だったと思う。統合失調症という言葉が、そのまま説明の代わりに使われてきた。四人が死んだのは、彼が正気を失ったからだ。彼が見つからないのは、彼が逃げたからだ。この筋書きは便利で、簡潔で、そして証拠がない。彼が発症していた証拠は一つもない。仲間ともめていた証拠も一つもない。彼が最後にした行為として推定できるのは、缶を開けて友人に食べさせ、シーツを掛け、履ける靴を履いて外へ出たことだけだ。

もう少し踏み込む。仮に彼が発作的な状態で仲間を先導したのだとしても、それは犯罪ではない。病気だ。そして仮にそうだったとしても、彼はそのあと友人を看取っている。この二つは矛盾しない。人は錯乱の中でも人を看病する。だが、そういう複雑さは物語には向かない。だから彼は、怪しい五人目、として四十年間扱われた。二〇一九年ないし二〇二〇年の内部メモは、その扱いに公式に疑問符をつけた。犯罪被害者であると考えられる、と。根拠は示されていない。それでもこの一行は、彼の名誉に関する記録として残る。

もう一つ、この事件を考えるうえで避けられないのが、制度の話だ。管轄が三つの郡にまたがっていた。彼らが住んでいたのはユバ郡。車が置かれていたのはブテ郡。遺体が見つかったのはプラマス郡。誰にも全体を指揮する明確な権限がなかった。事案は行方不明者として扱われ、殺人事件としての捜査手法は使われなかった。車は現場保全されないまま牽引された。時計の番号は取られなかった。指紋も、血液型も、当時できたはずのことが行われなかった。バーナーディスも取材で認めている。指紋と血液型なら当時でもできた。だが私の知る限り、それは行われていない。DNAは当時は不可能だ。これは行方不明者の事案で、殺人事件のレベルに引き上げられなかった。だから、できたはずのことがされなかった、と。

さらに苦い話がある。一九七八年六月九日、つまりワイヘルの遺体が発見された数日後、二人の森林局職員が、あのトレーラーの存在を捜索の初期にブテ郡当局に伝えた、と主張した。これが事実で、しかもその情報が正しい部署に届いていたなら、あの小屋は真っ先に確認すべき目標だった。屋根があり、寝台があり、毛布があり、暖房につながるプロパンタンクがあった。窓が割られていたのだから、誰かが中にいた可能性を疑うのは自然だ。そしてテッド・ワイヘルは、少なくとも三月いっぱい、おそらく五月まで生きていた。

つまり、間に合った可能性がある。

この、間に合ったかもしれない、という一行が、この事件でいちばん重い。四人の死は雪と寒さのせいだ。だが少なくとも一人については、電話一本と、書類一枚の行き先が変われば、結果が違ったかもしれない。証明はできない。当時の記録に、そのやり取りを裏づける紙は残っていない。だからこそ、この可能性はずっと宙に浮いたままだ。情報は電話と手書きのメモと書類受けの間で、いとも簡単に消える。

看取りの現場だった

最後に、この事件が我々に突きつけているものについて書いておきたい。

ユバ郡五人失踪事件は、しばしばオカルト的な文脈で語られる。森に何かがいた。彼らは何かに追われた。ディアトロフと同じ何かが働いた。そういう読み方が悪いとは思わない。実際、あの夜のことは誰にもわからないし、わからないものを前にして人間が物語を作るのは自然なことだ。だが、この事件をひとしきり調べたあとに残るのは、超常的な感触ではなかった。もっと具体的で、もっと身近な冷たさだった。

障害のある五人の成人が、翌日の試合を楽しみにしながら、薄い上着で出かけた。誰も彼らを見張っていなかったし、見張る必要もなかった。彼らは大人だったのだから。だが彼らが困ったとき、彼らを助ける仕組みは、どこにもなかった。行方不明の届け出は二十四時間待てと言われた。捜索は郡の境界で分断された。捜査は行方不明者事案として処理された。彼らが本当に必要としていた助けは、雪山の中の暖房のバルブではなく、そのずっと手前にあったのかもしれない。

あのトレーラーの中の光景を、もう一度思い浮かべてほしい。ベッドの上に八枚のシーツ。頭までていねいにたくし込まれている。枕元のテーブルには、現金の入った財布と、自分の名前が彫られた指輪と、ネックレスと、溶けかけた蝋燭。誰かがそれを、きちんと並べた。

これは遭難死の現場ではない。看取りの現場だ。あの部屋にいた誰かは、友人が死ぬのを見届けて、持ち物を丁寧に並べて、それから靴を借りて、雪の中に出ていった。助けを呼びに行ったのだと思う。他に理由が思いつかない。

その人が誰だったのか、我々はほぼ知っている。だが証明できない。そしてその人は、いまも帰ってきていない。

一九七八年の冬から数えて、四十八回目の夏が来た。プラマス国有林のマンザニータの藪は、いまも人の背より高く茂っている。ジャッキー・ハウエットの遺骨がその下から見つかったように、まだ何かが見つかる可能性はゼロではない。ユバ郡保安官事務所は、いまも情報提供を受け付けている。事件は行方不明者かつ殺人事件として、開いたままだ。

家族の投書の最後の一行を、もう一度置いておく。

あなたの息子が友達と試合を見に出かけるとき、あなたはいつも腕を回して、キスをして、どれだけ愛しているか伝えていますか。そうしたほうがいい。もう二度と帰ってこないかもしれないのだから。

コートはいらないよ、と彼は言った。今夜はいらない、と。

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