木の根は土の下ではなく岩の上を這う
青木ヶ原の木は、地面の奥へ根を下ろせない。足もとにあるのは土じゃなく、冷えて固まった溶岩だ。土の層は厚いところでも十数センチしかないと紹介され、根は岩の凹凸をなぞって縄のように地表を這っていく。土はほぼ皆無。
地面を覆うのは苔だ。苔の下には大小の凹凸をもつ溶岩が続き、足を置く場所を間違えると、体重が尖った岩の先にそのまま乗ってしまう。まっすぐ歩こうとしても、岩の起伏がそれを許さず、体は少しずつ横へ逸れていく。平坦な場所はごくわずか。
木は細く、背が高い。浅い溶岩の上では、深く根を張って太る余裕がないからだ。ツガやヒノキを中心に、ハリモミ、ヒメコマツ、アカマツ、ミズナラまでが混ざる森になった。標高は920メートルから1300メートルほどで、広さはおよそ30平方キロメートル、山手線の内側の半分近くに及ぶ。
青木ヶ原は、富士河口湖町と鳴沢村にまたがっている。西湖、精進湖、本栖湖のあいだに広がる森で、面積は約3000ヘクタールになる。青木ヶ原樹海、富士の樹海と、呼び名はいくつかある。国道139号が森の中を抜けるので、車で通り過ぎるだけなら、ただの深い山林に見える。
広さを聞いても、実感は湧きにくい。道を外れて数分も歩けば、景色はほとんど変わらなくなり、同じような幹と苔と起伏だけが続いていく。自分がどちらを向いているのか、少しずつ分からなくなる。方角を見失う怖さ。
方位磁石の噂は、こういう場所で育った。「コンパスを出すと針が回り続ける」「一度入ったら二度と出られない」という話は、樹海という名前と同じくらい有名になった。針は本当に回るのか。回らないとしたら、その話はいったいどこで生まれたのか。
864年、山が火を噴いた
話は平安時代にさかのぼる。貞観6年、西暦864年に、富士山の北西の山腹で大きな噴火が始まり、貞観8年、866年まで続いたとされる。この噴火が、のちの樹海をつくった。
当時の様子は『日本三代実録』に記される。これは平安期に編まれた国の正史で、日本書紀から数えて6番目、最後の1冊にあたる。貞観という年号は清和天皇の時代で、噴火の記事は「浅間大神大山火」という書き出しで始まり、富士の神の山が燃えた、という意味になる。
書き出しには、神の名が置かれている。富士山の神は浅間大神と呼ばれ、朝廷から正三位の位まで授かっていた。噴火は自然の出来事というより、神の山に起きた異変として書き留められ、役所の文書らしい抑えた書きぶりが逆に怖い。
文字の記録があるおかげで、青木ヶ原の誕生には年号が付いている。864年から866年。森の始まりを、年単位で言える。
記録によれば、炎の高さは20丈ほどに達した。雷のような音が響いて地震が3度あり、山は焼けて砕け、草木は焦げて枯れたと記録は伝える。地元から都へ届いた報告は、文字で読むだけでも背筋が冷えるほど生々しい。役所の文書が伝える、淡々とした恐怖。
溶岩の出口は、山頂ではなかった。北西の斜面に口が開き、長尾山などの小さな噴石の丘が積み上がり、そこから溶岩があふれ出した。流れた溶岩は、のちに青木ヶ原と呼ばれる土地へ向かって広がっていく。
噴火は一度で終わらなかった。貞観7年の末にも「災異いまだ止まず」と記されていて、山は2年にわたって荒れ続けたことになる。麓で暮らす人々には、先の見えない日々が続いた。
溶岩は山の北西へ流れた。記録には、長さが30里ほど、幅が3里から4里という数字が出てくる。1里を650メートルとして換算すれば、長さはおよそ20キロメートル、幅は2キロメートル前後になる。流れの先には、本栖と、せの海と呼ばれた2つの湖があった。
溶岩は、その2つの湖を埋めた。記録は、本栖とせの両方の水海が土や石に埋まったと書き残している。せの海は、いちばん深いところで100メートルほどあった広い湖で、大半が溶岩の下に消え、西の端だけがかろうじて残った。ちなみに、せの海は「せのうみ」と読む。
その名残が、いまの精進湖と西湖だ。湖の底だった場所に黒い溶岩の平原ができあがり、溶岩は大室山を避けるように回り込んで流れていった。のちに森になる土地が、このとき生まれた。
溶岩の下には、いまも湖の底が眠っている。深いところで100メートルあった水の底が、そのまま黒い岩に覆われて、千年以上のあいだ地中にある。樹海の木は、消えた湖の上に根を這わせて立っていることになる。足もとのずっと下に、かつて水のあった場所。
溶岩が冷えて、苔が生えて、千年が過ぎた
噴火が収まったあとの青木ヶ原は、黒い岩の原っぱだった。木も土もない。岩の上に苔が広がり、シダが伸び、やがて木が育っていった。山梨県はこの森を、約1200年前にできた新しい原生林と説明している。
資料によっては、森の年齢を1100年と書くものもある。数字に幅があるのは、いつを森の始まりと数えるかで答えが変わるからで、どちらを採っても気が遠くなる古さだ。正直、想像が追いつかない。薄い土の下に畳まれた、千年あまりの時間。
針葉樹が優勢なのも、この土地の特徴だ。本来この標高なら落葉する広葉樹が育つ高さなのに、水分も養分も乏しい溶岩の土では、ツガやヒノキのほうが強かった。樹齢が330年から360年ほどに達する木もあると紹介され、人の寿命では数えきれない時間を生きてきた。
木の寿命より、森の歴史のほうがずっと長い。330年の木でさえ、森が生まれてからの時間の3分の1に届かない。森は千年のあいだに何度も世代を替えてきたのだから、いま見える一本一本の木は、森の歴史のほんの一部を見せているにすぎない。
森は静かなだけの場所じゃない。富士山一帯で確認された哺乳類は42種にのぼり、青木ヶ原から山地にかけてはツキノワグマの生息密度が高いという。ニホンザル、ニホンカモシカ、ニホンジカ、ニホンイノシシも暮らす。小動物ではコウモリやネズミ、モグラがいて、鳥ではアカゲラやウグイスの声が聞こえる。
樹海という名前の由来にも説がある。山頂から眺めると、風になびく木々の揺れが海原のうねる波に見えたからだという。黒い岩の上に緑の波が広がる景色を、そう呼んだ人がいたわけだ。そこはかつて、本物の湖が広がっていた場所でもある。海にたとえられた森の足もとにあるのは、湖を埋めた石。
針を狂わせると言われた石
針が狂うという話には、根拠にされる事実がひとつある。溶岩に磁鉄鉱が含まれることだ。富士山の溶岩は玄武岩質で、磁鉄鉱は名前のとおり磁気を帯びる鉄の鉱物である。噂の出どころは、まったくの作り話というわけじゃない。誤解の種になるのは、いつも小さな本当。
溶岩が冷えて固まるとき、磁鉄鉱はそのときの地球の磁気の向きを覚え込み、岩そのものが小さな磁石になる。岩ごとに向きも強さも少しずつ違うので、地面の近くでは磁気が細かくばらつく。ばらつくのは、地面のすぐ近くだけだ。
磁石の針は、地球全体がつくる大きな磁気の流れに沿って向きを決める。岩の磁気は、その流れに比べれば、足もとに生まれた小さな寄り道にすぎない。岩に近づけば針は寄り道につられて振れ、離れれば本来の向きへ戻っていく。
磁気を帯びた石の近くに磁石を置けば、針は引っぱられる。ここまでは本当の話だ。ただし磁気の力は離れるほど急に弱まるので、腰の高さで持つ磁石に地面の岩の影響はほとんど届かない。
では、どのくらい狂うのか。資料が書く数字は小さく、方位磁針の狂いは1度か2度ほどだという。方位が分からなくなるほどの大きさじゃない。富士河口湖町の観光担当者も、磁石は森の中で普通に働くと答えていた。例外は、磁気を帯びた石の上へわざわざ磁石を置いたときだけだ。
比べてみると、1度か2度という数字の小ささが分かる。日本では、磁石が指す北と地図の北が場所によって数度ずれていて、中部地方ではその差がおよそ7度になる。山で磁石を使う人は、この差を最初から地図に足し引きして歩く。溶岩の影響は、その補正よりずっと小さい。
7度のずれを放っておくと、1キロメートル進むあいだに横へおよそ120メートルずれる。溶岩の1度か2度なら、1キロメートルでおよそ17メートルから35メートルだ。普通に山を歩く人が毎回直している誤差の、何分の一かでしかない。
磁石の針が振れるのは、溶岩のそばだけじゃない。鉄の柱や車のすぐ横、鉄の道具の近くでも針は簡単に乱れるので、山では鉄製品から離して磁石を持つのが基本になる。樹海だけが特別に危ない場所になる理屈は、どこにもない。
針が回り続けることも、固まって動かなくなることもない。回るという話だけが、いつのまにか独り歩きした。拍子抜けするかもしれない。でも本当の樹海の磁石は、それくらい地味に働く。
磁石を信じて歩いた人たち
陸上自衛隊の教育機関である富士学校のレンジャー課程は、大部分が青木ヶ原で行われ、地図と磁針だけで進む訓練が、この森の中で重ねられてきた。道具が狂うのなら、成り立たない訓練だ。磁石が使えない森が、訓練場に選ばれるはずもない。
課程が作られた当初、樹海には二度と生きては帰れないという噂が付いて回ったと伝わる。現地を下見に行きたがる人は、誰もいなかった。二人の幹部自衛官が目標地点まで歩き切ってみせたことで、そこが訓練場に決まったという。噂のほうが先に、森を怖がらせていた。
噂は、現場を歩いた人の足で確かめられてきた。確かめた結果が「普通に歩ける」だったことは、怖い話ほど広まらないまま、あまり知られていない。磁石の噂が長生きした理由のひとつは、そこにある。
時計も携帯も飛行機も、樹海のせいにされた
噂は磁石だけで終わらなかった。デジタル時計の表示が狂う。車の計器や放送の機器に異常が出る。そんな話まで、樹海の名前に付いて回ったらしい。
どれも科学的な根拠はないと説明される。衛星で位置を測る機器が使えないという話は、性能の低い機器が密に茂った木々に電波を遮られたせいだという。高性能な機器や、日本の準天頂衛星に対応した機器なら、正常に働くと紹介される。
携帯電話がつながらないという話も同じ筋で、電波を遮ったのは木々であって、溶岩じゃない。近年は基地局が置かれて、状況は改善されたと説明される。原因は、いつも別のところ。
飛行機の噂は、少し変わった形をしている。樹海の上空は計器が乱れるので飛行禁止になっている、という噂もある。本当の理由は別にある。近くに自衛隊と在日米軍の施設があって、空域が管制されているからだ。
もうひとつの理由は空の上にある。富士山の周りで、山を越えた風が空気に波をつくり、山岳波と呼ばれる特殊な乱気流が起きるからだ。どちらも、樹海の存在とは関係がない。
小説は1959年に始まった
樹海に暗い名前がついた時期は、はっきりしている。松本清張の長編小説『波の塔』が、1959年から1960年にかけて週刊誌『女性自身』に連載された。この作品は、物語の結末の舞台に青木ヶ原を選んだ。発表は、いまから60年以上前だ。
松本清張は、社会派と呼ばれた推理小説の書き手だった。小説の中の樹海は、人の入ったことのない原始の密林として描かれ、迷い込めば遺体も見つからない、という印象が読者の頭に強く残った。この描写が、その後の樹海の像のもとになる。地名が物語の記号になった瞬間。
作品は映像にもなった。1973年には、日本放送協会の「銀河テレビ小説」としてドラマ化されたという。小説が作った像が、お茶の間の画面で何度も繰り返されたことになり、この頃から樹海は暗い名前を背負わされていく。
地元の人たちにとっては、迷惑な話だ。観光で暮らす土地の名前が、事件の見出しに並ぶ。樹海の悪い印象はマスメディアが増幅させた、と指摘する文章もある。ツアーを組む事業者の中には、不適切な報道や出版物が評判を傷つけたと書くところもある。
先に断っておく。この森で亡くなる人がほんとうにいることは、怪談の材料にしていい話じゃない。だから本稿では、そこへ踏み込まない。噂と現実を同じ皿に載せない、という線引き。
噂の形は、いくつもある。針が回る、出られない、見つからない、と言い方は違っても、どれも迷うという恐れを言い換えたものに見える。恐れに名前を付けると、話は広まりやすくなる。
ここで、噂を仕分けてみる。針が回り続けるという話は、誇張にすぎない。ただし針が1度か2度振れるのは、本当だ。出られないという話も誇張で、道を外れれば迷うのは、本当の話になる。
整理すると、噂の材料は3つある。溶岩に含まれる磁鉄鉱、小説が作った原始の密林という像、報道が繰り返した暗い名前の3つだ。どれが欠けても、いまの噂とは別の形になる。
山梨県のものになった森
青木ヶ原は、人の手が入っていない原始林だと説明される。ところが資料は、伐採が行われていた可能性や、石を積んだ石塁が見つかったことも指摘している。人が全く入らなかった森とは、言い切れない。
石塁が何のために積まれたのか、手もとの資料では確かめられなかった。林業がどの程度行われたのかも、同じように分からない。分からないことは、分からないまま置いておく。憶測で埋めても、噂が増えるだけだ。
確かなのは、この森が山梨県のものだということだ。県の説明によれば、県有林の始まりは1911年にさかのぼる。明治の終わりに大水害が山梨を襲い、それを知った明治天皇が、御料林の大半を県へ下賜した。
御料林とは、皇室が持っていた森のことだ。下賜された森は、恩賜林と呼ばれる。県有林の広さは約15万8000ヘクタールで、県の面積の約35%にあたり、青木ヶ原の原始林もその中に含まれる。数字にすると、山梨の山の3分の1が、この森に当たる。
県有林は、山梨を潤す水源としての役目も果たす。きれいな水を県内や県外の大都市へ送り出す森でもある。2003年には、国内の公有林で初めて、森林管理協議会の認証を受けた。認証は、森が将来にわたって使えるように管理されているかを、第三者が確かめる仕組みだ。青木ヶ原は、その広い県有林の中でも、とりわけ厳しく守られる一角だ。
県有林は、標高200メートルから3400メートルまでにまたがる。富士山、南アルプス、八ヶ岳といった山々を含み、世界遺産の富士山域も、およそ半分が県有林だ。地形も地質も入り組んだ山々を、県が丸ごと抱えている。
蚕の卵を冷やした穴
溶岩の下には、穴が空いている。流れる溶岩は表面が先に固まり、中身が流れ去ると空洞が残って、それが洞穴になる。青木ヶ原にもいくつかあり、富岳風穴、鳴沢氷穴、西湖蝙蝠穴が公開されている。
穴の中は、夏でも冷たい。冷たい空気は重く、低いところへたまるので、外の暑さが入り込みにくい奥は、いつも冷えている。江戸時代から昭和にかけて、その冷たさは人の暮らしに使われ、富岳風穴は蚕の卵を保存する天然の冷蔵庫だった。
蚕の卵は、気温が上がると孵ってしまう。冷やして時期を遅らせれば、蚕を育てる時期を調整できる。養蚕が盛んだった山梨にとって、冷たい穴は財産だった。山の中の穴が、麓の村の産業を支えていたことになる。
1929年12月17日、富岳風穴は国の天然記念物に指定された。穴は産業の道具から、見に行く場所へと役目を変えていく。いまは富士急行グループの会社が運営していて、2012年には入口手前の売店が「森の駅 風穴」として新装開店した。
西湖のコウモリ穴では、西湖ネイチャーセンターが森を案内している。富士河口湖町の公認ガイドが、遊歩道を歩きながら木や苔や溶岩の話を聞かせてくれる。かつて蚕の卵を守った穴の隣で、いまは森の話が語られている。コウモリ穴という名前のとおり、冬にはコウモリが棲みつく洞穴だ。
森に線が引かれた日
青木ヶ原を守る線は、大正15年に引かれた。1926年2月24日、富士山原始林が国の天然記念物に指定されている。最初の範囲は精進口登山道のまわりに限られていて、森全体を囲う線ではなかった。
範囲が広がったのは、2010年3月8日だ。約816ヘクタールが追加されて、指定の区域は約1600ヘクタールになった。いまの名前は「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」で、山梨県が所有し、管理している。
森全体は、国立公園の特別保護地区でもある。2013年には、世界文化遺産「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」の一部になった。青木ヶ原は、その中の富士山域に含まれる。名称に「信仰の対象」とあるとおり、富士山は祈りの山として登録された。
法律の上では、林の中へむやみに入って木を傷つけるだけで、違反になる。道を外れることは、迷う危険だけでなく、森を傷つける危険も抱えている。
線を引いても、森は荒らされた。溶岩を持ち帰ってネットで売る人が出て、2009年には森林窃盗の疑いで逮捕者が出た。溶岩は、この森の地面そのものだ。持ち帰られた分だけ、森は削れていく。地面そのものを持ち去る行為。
粗大ごみや産業廃棄物を持ち込んで捨てる者もいて、地元の人たちは、そのごみを定期的に片づけてきた。全国から有志が集まって、清掃や見回りをする活動もある。冷やかしで訪れる人が増えるほど、後始末は地元の仕事になっていった。怪談の舞台は、誰かが掃除をする現場。
遊歩道から200メートル
噂が半分だけ本当なのは、ここだ。道を外れると、帰りにくくなる。遊歩道から200メートルか300メートルも離れると、高低差の乏しい似た景色が続くと説明される。
足場が悪いので、まっすぐ進めない。前へ進んでいるつもりでも、岩を避けるたびに少しずつ向きがずれていき、気づけば別の方角を歩いている。磁石が回らなくても、人は曲がる。これは深い森なら、どこでも同じだ。
富士河口湖町の観光担当者は、遊歩道を外れなければ迷わないし、外れれば方向を見失う、と話していた。森が広すぎるので、外れてしまうと戻りにくい。決まったコースを歩く人がほとんどだから、大きな問題は起きにくいという。
山梨県は、令和7年度に「青木ヶ原樹海魅力再発見事業」を進めた。作られたリーフレットの題名は「青木ヶ原樹海の真実」で、副題には富士山麓のいのちの育みが掲げられた。森を約1200年前にできた新しい原生林と呼び、苔やシダ、昆虫や鳥の暮らしを紹介する内容だ。暗い噂に対する、観光の側からの答え。ガイドつきで歩いた人の印象は、暗いものから自然の美しさへ変わると、ツアー事業者は書いている。
2025年11月29日には、体験イベントが開かれた。三湖、精進湖、西湖の3つのコースが組まれ、74人が参加した。昼食は鹿肉のカレー。
観光の足場も整っている。紅葉台は標高1164メートルの高さから樹海を見渡せる展望の場所で、三湖台も同じく展望台だ。新緑は5月中旬から6月下旬、紅葉は10月中旬から11月上旬が見ごろだと案内される。森の中には遊歩道が整備され、東海自然歩道もその一部を通る。西湖ネイチャーセンターのガイドツアーのように、案内つきで歩く方法もある。
針は回らない。森は千年あまりの若い森で、溶岩の上に根を這わせて立っている。土の層は十数センチ。その下は、864年の溶岩だ。木の根は今日も、岩の上を這っている。
