帰ってこない娘と、見慣れた地名のニュース
2004年の話だ。奈良県内に住む家族から、警察へ一本の連絡が入った。小学1年生の娘がいつまでたっても家に帰ってこないという知らせで、事件はそこから表に出てきた。
寄り道を疑った人もいたと思う。でも話は、すぐに最悪の方向へ転がった。母親の携帯に娘の携帯電話からメールが届き、「娘はもらった」という文面に画像まで付いていたという。
息が止まりそうになる話だ。ところが犯人は、そこで終わらなかった。後日、今度は父親のもとへまた娘の携帯からメールが届き、そこには「今度は妹をもらう」と書かれていたらしい。
やがて遺体が見つかった。犯人の小林薫も捕まった。当時あの地域の近くで暮らしていた投稿者が書き残した事件の流れは、おおまかに言うとこういう内容になる。
すぐ近くに住んでいた投稿者の記憶
投稿者は地元の人。ニュースは毎日のようにこの事件を取り上げていた。画面に流れてくる地名がどれも知っている場所ばかりで、そのことに不安を覚えたと投稿者は書いている。
当時、投稿者は学生だった。しかも事件のあった地域の近くでアルバイトをしていた。自分の生活圏と事件の報道がぴったり重なっていたのだから、落ち着かなかったのも当然のことだと思う。
逮捕の日の光景も残っていた。警察署のあたりの空を、たくさんのヘリが飛んでいたそうだ。ただ、そのときはバイトの最中でニュースを見られず、何のためのヘリなのかその場ではまるで分からなかった。
事情を知ったのは帰宅してから。あのヘリは報道関係のものだった。逮捕の瞬間を追いかけて各社が空に集まり、バイト先のすぐ上で全国ニュースが動いていたというわけだ。
投稿者は奈良の田舎育ち。小さなころから、ずっとその土地で暮らしてきた人だ。こんなにも近くでこんな恐ろしいことが起こるのかと思ったと、当時の自分の気持ちを素直に振り返っている。
誰も予想なんてしていない。自分のすぐそばで殺人事件が起きるとは、普通は思わないものだ。だからこそ知ったときの衝撃はとても大きく、投稿者もこの事件を知ってショックを受けたと書いていた。
犯人の異様なふるまいが焼きついた
強烈だったのは犯人の行動だ。異常とも取れる振る舞いを、いくつも重ねていたという。被害者の携帯から親の携帯へメールや画像を送りつけた件は、投稿者の記憶にとくに深く刻まれていた。
投稿者は別の話にも触れていた。犯人がネットの掲示板に犯行の手口を投稿していた、という話だ。もっとも本人もそこは言い切っておらず、「ようでもある」という書き方で、あいまいなまま話を置いている。
ここは慎重に扱いたい。噂として扱うべき部分と、確かな部分が混ざりやすいからだ。投稿者の記憶の中ではそういう話も流れていた、とだけ受け止めて、後半で改めて噂と事実の境目を見ていく。
投稿者の結びは祈りに近い。子どもが自分で自分の身を守るには限界がある。だから大人同士で情報を分けあったり、子どもを守る術を身につけたりすることが大事かもしれない、という呼びかけだった。
公式に分かっている事件の骨組み
ここから記録の側へ移る。事件が起きたのは、2004年、平成16年の11月17日だった。場所は奈良県奈良市で、この事件はわいせつ目的の誘拐殺人事件として扱われている、とても重い事件だ。
被害者は7歳の女の子だった。小学校に通い始めたばかりの年ごろだ。この子の身元や暮らしぶりを興味本位で語ることは、絶対に避けなければいけない種類の事件だと、書きながら強く感じた。
本人の描写には踏み込まない。追うのは事件の経緯と捜査、それから裁判の流れだ。公の記録として確定している事実関係を中心に、なるべく落ち着いたトーンで話を進めていくつもりでいる。
加害者は事情が違う。有罪が確定し、当時から実名で広く報道されてきた人物だ。そのため当時の各社の報道にならう形で、この記事でも犯人については伏せずに実名で書くことにした。
新聞配達をしていた男の前歴
犯人とされたのは小林薫だ。1968年11月30日生まれで、事件当時は35歳だった。出身は大阪府大阪市住吉区で、事件のころは奈良県内にある新聞の販売所で従業員として働いていた。
この男には前歴がある。事件より前にも性犯罪を起こしていたことが、裁判などで明らかになった。最初は1989年12月のことで、強制わいせつ罪により懲役2年、執行猶予4年の判決を受けていた。
それで終わりじゃない。1991年10月には、強制わいせつ致傷罪で懲役3年の実刑判決を受けた。今度は執行猶予が付かない実刑で、一度目のように社会の中でもう一度様子を見てもらえる判決ではなかった。
仮出所は1995年11月。そこから約9年後に、この事件を起こしたとされる。9年というのは短くない時間で、その間ずっと地域の中でごく普通の顔をして暮らしていたのだろう。
新聞配達の職を得ていた。前歴のある人物が、生活の足場を持ったまま地域に溶け込み、その末に事件へ至っている。この経緯は、のちに罪を犯した人の処遇や再犯防止のあり方をめぐる社会的な議論の、出発点のひとつになった。
下校途中の、ありふれた午後に
2004年11月17日の朝。小林は借りていた緑色のトヨタ・カローラIIに乗っていた。午前中からその周辺を車で回っていたとされるが、この時点ではまだ誰ひとり異変に気づいていなかった。
時刻は午後1時30分ごろ。場所は奈良市の富雄地区。小林は下校途中の女の子を見かけ、「乗せていってあげようか」という趣旨の言葉で誘って、車に乗せたとされる。
女の子は連れ去られた。行き先は生駒郡三郷町にあった小林の自宅マンションだった。その後まもなく女の子の命は奪われたが、犯行の具体的な中身をここで書くつもりはないし、書く必要もない。
始まりはありふれていた。学校からの帰り道で、知らない大人に声をかけられる。そんな誰の子どもにも起こりうる場面から事件が始まっていたことこそ、いちばん重く受け止めるべき点だと思う。
教訓は長く残った。この事件は、地域や学校の安全教育で何度も引き合いに出されてきた。下校中の子どもへの声かけがどれほど危ういかを伝える例として、年月がたっても繰り返し語られている。
親の携帯に届いた、最悪のメール
問題はその後だった。この事件が当時の世間を強く震え上がらせた最大の理由は、犯行後に加害者がとった行動にこそある。投稿者が異常と書いていたのも、まさにこの部分だった。
翌11月18日の朝が来た。午前8時4分ごろ、小林は女の子の携帯電話を使って、母親の携帯あてにメールを送りつけたとされる。「娘はもらった」という趣旨の文面に、画像が添えられていたという。
遺体の遺棄も同じ日。遺体はその日のうちに、平群町の道路脇の側溝に遺棄されたとみられている。家族が必死になって娘の行方を探しているその裏で、そんなことが進んでいたのだと思うと本当に胸が詰まる。
しばらく日がたった。事件の報道も、いったん落ち着きを見せていた。そんな12月14日の深夜、小林はまた動き出し、再び女の子の携帯電話を使って家族を脅すメールを送信したとされる。
送信場所は公園の近く。鮫島公園の東側にある駐車場の付近からだったという。女の子の妹の画像と以前に送った画像が添えられ、「今度は妹をもらう」という趣旨の文面が並んでいたとされる。
「もう一度騒がせたかった」という言葉
のちに小林は供述した。「結果を知らせてやりたかった」と語ったと伝えられている。さらに「事件が落ち着いてきたので、もう一度世間を騒がせようと思った」という趣旨のことも口にしたという。
正直、ぞっとした。遺族の恐怖や苦しみを、わざわざ踏みにじりにいくような行動だ。その理由が世間を騒がせたいからだというのだから、まともな感覚ではまったく理解が追いつかない。
悪質さは際立っていた。この一連の行動は、日本の誘拐殺人事件の中でも特に悪質なものとして記憶されている。投稿者が犯人の行動を異常だと感じ、その印象が強烈に残ったというのも、まったく無理のない話だと思う。
挑発のメールが自分の首を絞めた
これが決め手になった。皮肉にも、あの挑発的なメールこそが逮捕につながったとされる。複数回にわたって送られたメールや電話の発信記録を、捜査側は一つずつ突き合わせながら細かく解析していった。
発信元が絞られていった。その結果、河合町の周辺から発信されていたことが分かったと伝えられている。もう一度世間を騒がせようとして打った手が、そのまま自分の居場所を警察に教える手がかりになったわけだ。
逮捕は年の瀬。2004年12月30日、小林はまず誘拐の容疑で逮捕された。投稿者がバイト先の上空で見上げたヘリの群れは、このときの逮捕を追う報道のものだったと考えられる。
年が明けて1月19日。2005年のこの日、小林は殺人と死体遺棄の容疑で再逮捕された。ここから事件は捜査の段階を抜けて、いよいよ小林が被告人として法廷で裁かれる局面へと移っていく。
控訴取り下げから死刑執行まで
判決は2006年。9月26日、奈良地方裁判所は小林に死刑判決を言い渡した。そこから先は、拍子抜けするほどの早さで話が進んでいく。同じ年の10月10日、小林は自分から控訴を取り下げ、上の裁判所で争うはずだった道を自ら手放してしまった。
翌日には刑が確定する。10月11日のことで、判決からわずか半月ほどだった。前歴の中身や犯行後の言動の異常さから、量刑について議論の余地がほとんど生まれなかった事件のひとつとされる。
それから長い歳月。2013年2月21日、大阪拘置所で小林の死刑が執行された。享年44だった。拘置所の中で彼がその長い年月をどう過ごし、何を考えていたのかは、残された記録からは分からない。
掲示板の噂は、どこまで本当か
噂の話に移ろう。この事件については、ネットの掲示板や個人ブログで、ある噂が語られることがある。犯人が事件当時、インターネットの匿名掲示板に犯行をほのめかす投稿をしていたのではないか、という話だ。
これは確認されていない。公式に確かめられた事実ではなく、ネットで囁かれている噂の域を出ないものだ。投稿者も言い切らずに書いていたし、ここは確かな事実と噂のあいだにしっかり線を引いて読んでおきたい。
体験談も同じ扱いになる。見慣れた地名ばかりが報じられる不安がそうだ。逮捕のときに警察署のまわりを報道ヘリが飛び交っていた光景も、その地域で暮らした人の実感がこもった証言だった。
記録としての価値はある。ただ、あくまで個人の記憶にもとづく体験談だ。事件そのものの捜査資料とは性質がまったく違うので、同じ重さで扱わないよう気をつけておく必要がある。
語られ方にも傾向がある。掲示板やまとめサイトでは、この事件をある見方で位置づける投稿が多い。自分たちが安全だと思っていた地域社会の脆さを、誰の目にもはっきり見える形にした事件だという見方だ。
親世代からの言及が目立つ。とくに子どもを持つ人たちが、この事件の名前をよく挙げるらしい。通学路の安全や、下校中の声かけ事案への警戒を呼びかける流れで、何度も引き合いに出されてきた。
毎年11月にめぐってくる集会
学校は記憶を残した。事件のあと、女の子が通っていた小学校では、ある集会が毎年開かれるようになったと伝えられている。毎年11月17日の前後に、児童の安全や命の大切さについて考える集会だ。
図書室には文庫ができた。女の子にちなんだ文庫が設けられ、事件現場の近くには追悼の木も植えられている。地域全体でこの出来事の記憶を次の世代へ受け継ごうとする取り組みが、長い年月にわたって続けられてきた。
この営みは評価されている。被害者をただの事件の記号として消費しなかった。地域社会が長い時間をかけて、それを子どもたちの安全教育へつなげていった例として、高く見られている。
前歴を知りながら防げなかった重さ
もうひとつ、重い問いが残る。小林の前歴は把握されていた。それなのに、再犯は防げていない。前歴を知りながら防げなかったこと自体が、事件のあと社会全体に大きな問いとして突きつけられた。
ここから議論が大きく動き出す。性犯罪者が出所したあとの処遇や監視はどうあるべきか、再犯防止のプログラムに実効性はあるのか。そうした問題をめぐる社会的な議論が、この事件をきっかけに大きく前へ進んだ。
社会は具体的に反応した。法制度の見直しや、子どもの安全教育の強化といった形で動きが出た。単発の凶悪事件としてだけでなく、日本の社会が児童の安全をどう守るかを考え直す転機として記憶されている。
栃木の事件と混ぜてはいけない
翌年にも事件が起きた。2005年12月、栃木県今市市、今の日光市での出来事だ。小学1年生の女の子が行方不明になり、翌日に遺体となって見つかるという、痛ましい事件が発生したんだ。
名前がよく似ている。そのせいで二つの事件はしばしば混同され、あわせて語られることもある。けれど発生した地域も犯行の経緯もまったく異なる、完全に別個の事件だという点は押さえておきたい。
共通点はひとつある。小学校に上がったばかりの女の子が、下校中に狙われたことだ。この共通点があるせいで、子どもの安全をめぐる議論の中では、二つの事件がよく並べて語られてきたんだよな。
比べ方には注意が要る。こうした比較は、地域全体で通学路の安全確保に取り組む必要性を訴える流れで持ち出されることが多い。その場合も、それぞれの事件の細部を取り違えないことが前提になる。
