茶の間のテレビから銃声がした
テレビから銃声がした。昭和54年の冬、大阪の銀行で起きた立てこもりは、そのまま生中継でお茶の間に流れたんだよな。当時これを見ていたという人の回想は、猟銃の音がする人質事件だった、という一言から始まる。銀行員だけじゃなく一般の利用客まで人質に取られ、猟銃で撃たれて亡くなった人もいたと、その人は覚えていた。
普通に暮らしている人が、ある日いきなり凶悪な事件に巻き込まれる。そんなことが現実に起きてしまい、大変驚いたそうだ。猟奇的というのとは違う。大勢の人質を取って立てこもり、銃まで撃つ映画の世界みたいな異常な事件で、日本では今までなかったと振り返っていた。
最後は犯人が射殺され、人質は解放された。犯人の異常さは今も覚えている。ただ、最近の大きな事件は麻薬が絡んだりした異常者の犯罪が多いように見える、というのがその人の実感だった。それに比べると、三菱銀行の犯人は特別な異常者というほどでもなかったのでは、と首をかしげてもいる。
人質の数も桁違いだった。いま起きる立てこもり事件なら、人質は多くても2、3人くらいだと、その人は言う。この事件では人質の数がずっと多くて、現在までの人質事件の中でも最大だったのでは、と見ていた。昭和の時代の大事件だった、というのが率直な感想だ。
そのあと警察に特殊部隊、いわゆるスワットのようなものが作られたんじゃないか、とも推し量っている。異常な時代だったのかもな。多くの人質事件が起きていた時代だったのかもしれないが、それでも都会のど真ん中で、しかも銀行が舞台というのには驚いたそうだ。
アメリカのような銃社会で起きる事件を、日本のテレビが生中継する。その異様な状況も、犯人射殺という結末まで含めて、日本では起きないはずの異常な事件だったとその人は感じていた。回想は、犯人は何をしたかったのか、という問いで途切れている。答えられる本人はもういない。
この回想、妙に生々しい。事件の細部を並べたものじゃなく、画面の前で固まっていた一人の記憶だからだろう。何年たっても犯人の異常さを覚えていながら、それでも特別な異常者ではなかったのでは、と迷い続けているところに引っかかる。
じゃあ、実際には何が起きていたのか。ここからは重い話になる。亡くなった人たちがいる事件なので、細かい描写は控えめにして、分かっていることだけを並べていく。
金曜の午後2時35分、北畠支店
平日の昼下がり。1979年(昭和54年)1月26日、金曜日の午後2時35分ごろのことだった。大阪市住吉区万代二丁目にあった三菱銀行北畠支店に、猟銃を持った男がひとりで押し入る。男は店に入るなり天井へ威嚇射撃をし、「5000万円を出せ」と行員たちに要求したと伝えられている。
男の名は梅川昭美、当時30歳。平穏な金曜の午後が、ほんの数分でひっくり返ったわけだ。店の中は、一瞬で地獄に変わった。電話で外へ知らせようとした20歳の男性行員は至近距離から撃たれて即死し、別の行員も後頭部を撃たれた。
警察官まで撃たれる。駆けつけた巡査部長と巡査の2名が梅川の銃撃を受けてその場に崩れ、支店長まで命を落としている。この時点で死者はもう4名。戦後日本の人質事件としては類例のない、凄惨な幕開けになってしまった。
国内初の事態。日本の人質事件で、人質の側に死者が出たのはこれが初めてだったんだ。1階には行員34名と客17名が取り残され、行員は男性14名と女性20名、客は男性7名と女性10名だった。人質の総数は40名を超えたとされる。
隙間ひとつが命綱になった。シャッターが下りかけたところへ、警察官がとっさに障害物を差し込んだんだ。おかげで警察は外から店内の様子をうかがい、犯人と交渉するための細い隙間を、なんとか確保できた。
大がかりな包囲網。大阪府警は7つの警察署から1130人規模の態勢を敷いて支店を囲み、テレビ各局は現場からの生中継に踏み切った。これほど大規模な籠城と銃撃が、国内でお茶の間に生中継されたのは初めてだ。視聴者は画面越しに「銃声」と「怒号」を聞かされることになった。
中継は止まらない。昼間から夜、夜から朝へと、画面の向こうで籠城が続いていく。見ている側は何もできず、ただ銃声と怒号を聞かされる、そのやり場のなさがあの世代の記憶に焼きついたんだろう。
閉ざされた店内の42時間
籠城は42時間に及んだ。終わったのは1月28日の午前8時41分、警察の突入によってだ。その間、梅川はビーフステーキやワインのような贅沢な食事を要求して、それを行員に用意させていたという。立てこもり犯がステーキとワインって、どういう神経なんだと思う。
容赦がなかった。気に入らない受け答えをした行員には暴力を振るい、耳を切り取らせるような行為にまで及んだとも伝えられている。女性行員に衣服を一枚ずつ脱ぐよう命じ、いわゆる「肉の盾」として自分の周りに並べたという証言も広く知られている。被害に遭った人たちの気持ちを思うと、これ以上は書けない。
解放もあった。高齢者や負傷者は、段階的に外へ出されている。支店長を撃ったのも「金をすぐに用意しなかった」という理由からだった。要求が通らなければ即座に凶行へ走る、その危うさを、梅川は42時間の籠城のあいだ終始見せ続けていた。
人質にとっては長すぎる。外からはテレビカメラが見ていて、中では銃を持った男の機嫌ひとつで次に何が起きるかが決まる、そんな時間が続いた。食事の用意までさせられながら、それが丸二日近く続いたわけだ。想像するだけで息が詰まる。
母の声は届いたのか
香川県の実家から、梅川の母親がヘリコプターで現場近くまで運ばれた。電話や手紙で息子を説得しようとした様子は、大きく報じられている。母の呼びかけに心を動かされたのか、梅川はトイレの使用を許すなど、いくらか譲歩する姿勢も見せた。投降には至らなかった。
母親の胸の内を思うと、つらい。ヘリで運ばれ、息子に呼びかけ、それでも最後の一線を越えさせることはできなかった。トイレの使用を許すというささやかな譲歩が、母の声が届いたぎりぎりの範囲だったのかと思うと、やりきれない。
じりじりした持久戦。警察は外から、梅川の動きを秒単位で見て記録していた。食事をとる瞬間や新聞を読む瞬間、そういうわずかな隙をひとつずつ拾い集めて、ひたすら分析を続けていたんだ。
籠城2日目の深夜には、時間の感覚をなくした梅川が「すぐに朝刊を持ってこい」と言い出したという。夜中に朝刊。疲れと寝不足で判断力が落ちていたことが、そこからうかがえる。
警察の観察は無駄じゃなかった。隙を待ち続けた時間が、最後の突入の一瞬へつながっていく。秒単位の記録と疲れ切った犯人、それに人質の合図がひとつに重なるまで、結局42時間かかった計算になる。
午前8時41分、カウンターを越えて
合図は人質から出た。1月28日の午前8時41分、女性行員が梅川の居眠りに気づき、合図を送ったんだ。それを機に、大阪府警本部警備部第2機動隊の零中隊、後のSATの前身とされる部隊の隊員7名がカウンター越しに突入した。拳銃は計8発撃たれ、うち3発が梅川の頭部と首と胸に当たった。
搬送先は大阪警察病院。医師10名がかりで緊急手術が行われたが、首を貫いた銃創が致命傷になり、同じ日の午後5時43分に死亡が確認された。人質は全員、無事に助け出されている。事件全体の死者は行員2名、警察官2名、犯人1名の計5名で、負傷者も出た。
決め手は居眠り。42時間張り詰めていた男が、最後は眠気に負けた。その一瞬を人質の女性行員が見逃さず、外の隊員たちも見逃さなかったからこそ、人質全員の救出につながったんだと思う。
費用もかさんだ。事件の解決までに投じられた費用は、1億円を超えるとされる。殉職した警察官2名は、二階級特進の扱いを受けた。42時間という長さと1130人規模の包囲を思えば、その金額の大きさにも、妙に納得してしまう。
梅川昭美はどこから来たのか
梅川昭美は1948年3月1日、広島県大竹市で生まれた。遅い子だった。両親はどちらも当時としては高齢で、父46歳、母42歳での子であり、三菱レイヨンの社宅で育ったとされる。1958年、10歳のときに両親が離婚し、母子家庭になっている。
暮らしは貧しかった。それでも母親は、息子の要求に応え続けたという。逆に要求を拒むと梅川が母親に暴力を振るう、そういう歪んだ力関係が少しずつできあがっていったらしい。
15歳のときには、大竹市内で強盗殺人事件を起こしている。少年法の保護のもとで、処分は少年院送致という比較的軽いものにとどまった。問題はそのあとだ。この重い前歴が後年の猟銃所持許可の審査で問題にされなかったこと自体、事件後に制度の欠陥として指摘される一因になった。
もしこの前歴が審査で引っかかっていたら。そう考えずにはいられない。猟銃さえ手元になければ、あの日の北畠支店にはまるで別の結末があったのではと、どうしても考えてしまう。
高校は半年で辞めた。その後はバーテンダーなどの仕事を転々としたという。月に1万円を本代にまわすほどの読書家だったとも伝えられ、哲学書や文学作品が600冊近くあったとする資料もある。本棚だけ見たら、とても銀行強盗の部屋とは思えない。
記憶力の話もある。人質になった行員たちの顔と名前を、ごく短い時間のうちに覚えてしまっていた、という逸話まであるんだ。頭の出来を物語るものとして、今も繰り返し持ち出される話らしい。
読書家で、記憶力もいい。それでいて、要求が通らなければすぐに引き金を引く。ひとりの人間の中にこういう両面が同居していたと思うと、どう受け止めていいのか正直よく分からない。
狙いは外れた。銀行を襲った理由は、最寄りの警察署から車で距離があり、警察が来るまでに逃げ切れると計算したからだとされる。実際には警察官の巡回が思ったより頻繁で、計画は早々に崩れた。
ネットで語り直される昭和の籠城
発祥スレも初出のレスもない。事件が起きたのは1979年で、インターネットが広まるずっと前だからな。2000年代以降は、2ちゃんねるのオカルト板や事件板、個人ブログ、まとめサイト、動画の事件考察で何度も語り直されてきた。当時を知らない世代にも、「昭和最悪の籠城事件」として届いているわけだ。
視聴者の回想もよく出る。「学校から帰ってテレビをつけたら銃声が聞こえて震え上がった」という声がある。大人たちが仕事そっちのけでテレビにかじりついていた、なんて話もある。こういう伝聞や体験談はネットにたくさん投稿されているけど、投稿者が実在するのか、いつの話なのかまでは確かめられていない。
面白半分に読む話でもない。画面の前で震えた子どもがいた、というのはいかにもありそうな話だ。それでも、ひとつひとつが本当にあったことかどうかは別の問題で、ここは伝聞として受け取っておくのが筋だと思う。
あさま山荘と一緒にするな
よく混同される相手がいる。1972年の「あさま山荘事件」だ。どちらも長時間の籠城にテレビ中継、警察部隊の突入と、共通点がいくつも重なる。だからネットの掲示板や考察系のまとめでは、ふたつを混ぜて語る場面がしょっちゅう出てくるんだよな。
中身はまるで違う。あさま山荘事件は1972年2月19日から28日にかけて、長野県軽井沢町の保養所「あさま山荘」で起きた。連合赤軍の残党5人が、管理人の妻を人質にして立てこもった事件だ。10日目に部隊が突入し、人質は無事に救出され、犯人5人は全員逮捕されている。
動機も思想性も別物だ。あちらでは機動隊員2人と民間人1人が亡くなり、重軽傷者も27人出た。どちらも痛ましいけど、新左翼組織の残党による事件と、猟銃を持った一人の男の銀行強盗では、犯行の背景からしてまったく違う。似ているからといって、同じ話のように扱うのは乱暴すぎる。
SATの生みの親、という話の危うさ
SATの話にも要注意。この事件をきっかけに、警察の人質事件への対応が見直されたとよく語られる。大阪府警の零中隊のような特殊部隊の必要性が痛感され、それが後年のSAT整備につながった、という筋書きだ。ところが、SAT、つまり特殊急襲部隊が正式に発足したのは1996年のことだ。
断定するのは早い。ネットでは「この事件がSAT創設のきっかけになった」と断定する書き込みもよく見かける。けれどそれは、警察の対テロや重大事件への備えが強まっていく流れの中で、契機のひとつに数える説にすぎない。公式に唯一の起源として確定した事実じゃない。
40年以上、あとに続く例がない
射殺での決着は珍しい。この事件は、警察が犯人を射殺して決着した国内の人質立てこもり事件として記録されている。1970年5月12日の瀬戸内シージャック事件、1977年10月15日の長崎バスジャック事件に続く3例目だ。以降40年以上、犯人射殺で解決した人質事件は国内で起きていないとされる。
ほかに例がない。その一点を取り出してみるだけでも、この事件がどれだけ突出した凄惨さを持っていたかがうかがえる。あの42時間は、今もそれだけ特異なんだ。数字の並びを眺めているだけで、背筋が冷える。
衝撃は銀行の外にも広がった。当時制作中だった、銀行強盗を題材にしたドラマが放送中止に追い込まれている。昭和後期の凶悪犯罪の歴史を語るなら外せない事件として、北畠支店の42時間は今も繰り返し取り上げられている。
