この話は、重い。元記事の書き手は、日本で起きた事件の中で個人的に最も残虐性の高い事件だと書いていた。1988年、就職も決まって人生がこれから始まるはずだった女の子の命が、複数の少年たちにこれ以上ないほど残虐に奪われた。読み返すたびに、その言葉は大げさじゃないと思えてくる。
正式な呼び名は長い。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」という。1988年11月から1989年1月にかけて起きた、猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称だ。罪名を並べただけで、中身の重さが伝わってくる。
帰り道の自転車から、すべてが狂った
始まりは夕方だった。1988年11月25日の夕方、埼玉県三郷市戸ケ崎を、アルバイト帰りの女子高生が自転車で走っていた。就職も内定し、あとは卒業を待つばかりの子だ。本当にありふれた帰り道になるはずだったんだ。
そこへ少年たちが来た。複数の少年グループが彼女に因縁をつけ、路上で暴行を加えている。彼女はそのまま連れ去られ、東京都足立区綾瀬にある少年の一人、少年Cの自宅に閉じ込められてしまった。後年の報道をもとにした流れは、だいたいこうだ。
元記事の描写は少し違う。少年たちはまず、アルバイト先から帰宅していた順子さん(仮名)を、後ろから追い越しざまに蹴り倒したという。そこへ少年Aが現れ、「大丈夫ですか。家まで送りますよ」と優しく助け起こしたそうだ。
親切に見えるよな。でも、これが順子さんにとって地獄の始まりだった。倒れた彼女に差し出されたその手は、助け起こすための手じゃなく、地獄へ引きずり込むための手だった。
「家まで送りますよ」の先
元記事の筋はこう続く。順子さんはその後ホテルに連れ込まれ、性暴力を受けた。ひとしきり彼女をいたぶったあと、Aは友人であるCの家に順子さんを連れ込み、そこでも地獄は終わらなかった。
家には家族もいたんだ。この時、C家には母親とCの兄がいたそうだ。その家でも順子さんは複数人から性暴力を受け、必死の叫び声も押さえつけられて、とうとう誰にも届かなかったという。同じ屋根の下に大人がいたのに。
加害者は4人。ここでも少年A・少年B・少年C・少年Dと匿名で呼んでおく。名前をさらして騒ぐための記事じゃないし、被害者の側もここでは元記事どおり仮名の順子さんで通すことにする。
帰れなかった40日間
Cの家には家族も同居していた。けれど家族は、事態を止められなかったのが現実だ。結果として彼女は、命を落とすまでのおよそ40日間、その家から出ることを許されない状態に置かれ続けた。
声をかけた大人はいた。元記事では、二日ほどたった頃にCの母親が「早く帰りなさい」と催促している。それでも順子さんは帰らなかったそうだが、元記事の書き手は、いや帰れなかったのだろうと書き添えている。
後年の記述も似ている。Cの親族が被害者の様子を見かねて帰宅を勧めた場面があったと伝えられているが、彼女は少年たちに連れ戻された。事態が表に出ることは、とうとうなかった。逃げ道は、最初からふさがれていたようなものだ。
逃げようとした話もある。元記事によれば、順子さんも逃亡を試みたことはあったらしい。けれど結局は見つかってしまい、そのあとには、元記事の言葉でいう「酷い折檻」が待っていたそうだ。
扱いが変わっていった。そうするうちに少年たちの間で、順子さんの扱いは「人」から「もの」になっていったと元記事は書いている。文字にすると短いのに、ぞっとする言葉だ。
中身には立ち入らない。監禁中に何があったか、元記事はずいぶん細かく書いている。ここでは被害者の尊厳を考えて具体的な行為は書かず、凄惨な暴行が何日も繰り返された、とだけ書いておく。
それで十分だと思う。元記事は、あまりの暴力で順子さんの毛髪はほとんど抜け落ち、恐怖で脳まで縮んでいたと書いている。最初は「殺さないで」と懇願していたそうだ。それが最期には「もう殺して」に変わった、と元記事は伝える。
読んでいて手が止まる。元記事の数え方では、順子さんは監禁から41日目に亡くなった。後年の記述の「およそ40日間」と比べても、11月25日から1月4日までを数えれば、ほぼ同じ期間を指している。
1989年1月4日、ドラム缶の中へ
1989年1月4日。年が明けてまだ四日目のこの日、被害者は少年たちから激しい暴行を受け、その日のうちに息を引き取った。さらわれてから、彼女は一度も家に帰れなかった。
その後がまたひどい。加害者らは遺体をドラム缶に入れてコンクリートを流し込んで固め、翌日には東京湾岸の埋立地に遺棄している。人の体を、廃材みたいに扱ったわけだ。考えるだけで寒気がする。
報道は凄惨さを伝えた。発見時の遺体の状態は凄惨なものだったと報じられた。「コンクリート詰め」という事件名はここから来ているが、ここでは負傷の詳しい様子には触れないでおく。
発覚は遺体発見の後。少年4人が逮捕・補導されている。当時は加害者がいずれも未成年で、審判も裁判も少年法の枠組みの中で進められ、それがのちに大きな議論の火種になった。
懲役17年が20年に変わるまで
第一審の判決はこうだ。主犯格とされた少年Aには懲役17年。準主犯格の少年Bは懲役5年以上10年以下、監禁場所を提供した少年Cは懲役4年以上6年以下の不定期刑だった。関与が比較的軽いとされた少年Dは、懲役3年以上4年以下の不定期刑。
正直、軽いと思った。検察側もこれを不服として控訴している。1991年の控訴審で東京高裁は量刑を見直し、一部の判決を破棄して、少年Aの刑を懲役20年に引き上げるなど刑を重くした。
世間も揺れた。「戦後の少年犯罪史上でも類を見ない凶悪事件」として、大きく報じられている。少年法の匿名報道は正しいのか、少年に科す刑の上限はこのままでいいのか、という議論を巻き起こす一つの契機になったとされる。
叩かれたのは被害者のほうだった
腹が立つのはここから。当時の報道の中には、被害者の私生活に憶測を交えた記事があった。マスコミ報道の中には、まるで被害者の側にも落ち度があったかのような論調のものまで混ざっていた。後年、評論家やジャーナリストから、セカンドレイプ的な報道だったと厳しく批判されている。
本当にひどすぎる話だ。殺された側が、だ。命を奪われたうえに、紙面の上でもう一度傷つけられたんだから、遺族の気持ちを思うと言葉が見つからない。この報道の問題も、事件の一部として覚えておきたい。
出所した彼らは、また捕まった
元記事の書き手はこうも書く。この事件の恐ろしいところは残虐性だけじゃなく、少年たちのほとんどがもう服役を終えて刑務所を出ていることだ。彼らは今、この日本のどこかで暮らしている。もちろん一概には言わない、と断ったうえでの話だ。
問いは一つだけ。この少年たちに、更生の余地はあったのか。事件のことを考えるたびにそう思ってしまう、と書き手は記していて、その問いには後年、嫌な形の答えが出てしまった。
再逮捕が相次いだ。取材を続けたジャーナリストらの報道によれば、加害者4人のうち複数人が出所後に別の事件を起こし、再び逮捕されている。ある加害者は、出所後の暮らしの中で他人への暴力事件を起こして捕まった。別の加害者は、監禁に似た事件をまた起こして服役し直したと報じられている。
これが現実だった。少年時代に「更生」を掲げて刑を終えたはずの人たちが、社会に出てからも同じような問題行動を繰り返した。少年司法でいう更生とは何なのか、という根っこの問いが残る。事件から30年以上たった今も、その問いは突きつけられたまま。
取材は続いた。加害者本人やその家族への接触を試みた記者もいる。出所後の生活を追いかけた取材記事には、事件のあとも社会との軋轢を抱え続けた加害者たちの姿が描かれている。
遺族の話はもっと重い。被害者の遺族が、事件から何十年たっても消えない喪失感を抱え続けていることも、繰り返し伝えられてきた。こうした取材の積み重ねが、この事件を単発の凶悪事件で終わらせなかった。日本の少年司法そのものを問い直す象徴的な事件になったのは、そのせいなんだろうね。
掲示板でふくらんでいった「定型文」
ネットでの広がりも独特。広く知られるようになったのは、2000年代前半以降のことらしい。電子掲示板の文化が花開いた頃で、古いテキストサイトや掲示板の過去ログをさかのぼると、当時すでに何度も取り上げられていた。
決まり文句があった。実話系の怖い話や凶悪犯罪のまとめスレッドでの定番だ。どこでも「日本で最も残虐な事件の一つ」として紹介されていた。監禁の様子や加害者の生活ぶりが、伝聞や取材記事の引用というかたちで、そこへ少しずつ書き足されていった。
転載の連鎖。書き込みはコピペになり、別の掲示板やまとめブログへ流れていく。その過程で、事件の凄惨さを強調する形の「定型文」のようなものができあがっていったと見られる。
中身は玉石混交。こうしたコピペや要約記事には、事実関係が正確なものもある。けれど伝聞が重なるうちに誇張や変形が入ったと見られる箇所も混ざっていて、読む側を惑わせてきたのも確かだ。
疑う声もずっとあった。閲覧者の間でも、「どこまでが事実でどこからが尾ひれなのか分からない」という指摘がたびたびなされてきた。特に怪しいのが、監禁中の出来事の細部だ。
ずれは確かにある。報道された内容と掲示板で語られる内容の間に、微妙な差が出ている場合もある。真偽不明のまま拡散された情報も少なくないとされるから、確定した司法記録や信頼できる報道とは分けて受け止めたい。鵜呑みにしないのが、亡くなった彼女への最低限の礼儀だと思う。
「実は面識があった」説の出どころ
バージョン違いも多い。長く繰り返し語られてきたせいか、微妙に違う話がいくつも出回ってきた。監禁の期間や連れ去られた経緯の細部は、書き手によって食い違う。古い掲示板の書き込みを比べてみると、後年の報道や書籍で確かめられた事実と一致しない記述も少なくない。
揉めやすい点は三つ。加害者の人数、関与の度合い、そして被害者と加害者の接点の有無だ。伝聞が独り歩きした結果、「実は被害者と加害者に面識があった」という真偽不明の説まで、まことしやかに語られることがあった。
ここは冷静に見たい。こうした異説の多くは、公的な裁判記録や信頼できる取材報道と照らし合わせても裏付けが取れず、噂の域を出ないものばかりだ。聞いたことがあっても、噂として脇に置いておくのがいい。
創作にも影響した。この事件を直接のモデルにしたと語られる創作作品が、後年いくつも登場した。事件の構造を下敷きにしたと考察されるフィクションもあり、事件の記憶は形を変えながら社会に残り続けてきたわけだ。
綾瀬の路地は、今も暗いまま
現場を訪ねる人は多い。事件から30年以上がたっても、現場となった足立区綾瀬周辺を訪れて取材する記者やライターは後を絶たない。現地取材をしたあるライターは、街灯は増えたかもしれないが暗さそのものは当時とあまり変わらない、という地元住民の声を紹介している。読むだけで、夜道の空気が伝わってくる。
街は少し変わった。被害者が最初に暴行を受けたとされる路地の側溝には、今はフタがされているなど、街並みはわずかに変化している。それでも当時を知る住民の記憶の中では、事件が生々しいまま残っているという。
地名も背負わされた。足立区綾瀬は、その後もこの事件と切り離せない地名として記憶された。綾瀬と聞くと、真っ先にこの事件を思い出す人もいる。地元では長いあいだ、事件そのものに触れるのを避ける空気があったそうで、住んでいる人の気持ちを思えば無理もない。
変化の兆しもある。近年は事件を扱ったノンフィクション作品やドキュメンタリー番組をきっかけに、改めて地域の記憶として振り返る動きが見られる。忘れたい記憶と、忘れてはいけない記憶が同居している。
歯止めが外れていく集団の怖さ
議論の材料にもなった。少年による凶悪犯罪や、集団心理で暴力がエスカレートしていく構造を考えるうえで、この事件はしばしば参照点として引かれてきた。後年の少年犯罪報道でも犯罪心理学の議論でも同じで、同時期・同種の少年による監禁・暴行事件と比べられることも多い。
問われたのは一点。集団の中でどう歯止めが利かなくなるのかという論点は、その後に起きた別の少年犯罪の報道でも繰り返し取り上げられた。一人なら越えない線を、集団は越えてしまう。
残酷さだけの話じゃない。それを止められなかった周囲の大人たちの不作為もあった。少年法という制度の限界まで浮き彫りにした事件として、この一件は日本の犯罪史の中で特異な位置を占め続けている。
一つだけ書いておく。元記事の書き手が抱いた「この少年たちに更生の余地はあったのか」という問いは、まだ誰にも閉じられていない。順子さん(仮名)の話を、面白半分のコピペで消費しないでほしい。
