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阿部定事件

残酷な話ほど、なぜか目が離せない

残酷な事件って、妙に目を引く。センセーショナルな話やむごい事件には、人を引き寄せる何かがある気がするんだよな。日本の残酷な事件と聞いて、俺がまず思い浮かべるのは伝説みたいになった阿部定事件だ。時は昭和11年、仲居だった阿部定という女性が、愛の営みの最中に愛人の局部を切り取ってしまったという事件になる。

聞いた人の反応は割れる。ある人は、定が精神を保てなくなったのだと思うはずだし、別の人は、あれはもう人間じゃなくなっていたと言うかもしれない。なんて恐ろしい女なんだと、ただ震え上がる人もいそうだ。何しろ前代未聞の事件で、定が逮捕されたあとの世間の驚きようは、並大抵のものではなかったらしい。

相手の男は誰だったのか。定が人の紹介で働き始めた店の主人、それが相手だった。二人の性的なつながりは、いわゆる不倫だった。愛とも憎しみともつかない、常識では考えられないような夜を、二人はずっと過ごし続けていたようだ。

なぜこうなったのか。事件のあと、取り調べを受けた定はこう答えている。「彼を殺したあと、私はとても楽になった」。この一言が何を意味するのか、単に彼女が混乱していただけなのか、読む側はどうしてもそこで足が止まる。

その先も、話はさらに重くなる。局部を切り取ったあと、定は相手の体に「定」の文字を刻み、切り取ったものをそのまま三日間持ち歩いている。恋多き定の心は、そのときどこにあったのか。愛のない官能だけが渦巻く夜だったのか、それとも、そこには安らぎのかけらもなかったのか、問いばかりが湧いてくる。

俺の理解はそこまで届かない。もしかすると、定の心の中を読み解けるのは犯罪心理学者や精神科医なのかもしれない。それでもなぜか、さびしげで寄る辺のない一人の女としての定の姿が、ぼんやり浮かんでくるんだよな。

ただ、ひとつ整理しておきたい。事件そのものや人物の存在は、別の資料と突き合わせて確かめられる。けれど元の記事にある細かな描写や動機、霊視や陰謀めいた話まで裏付けてくれるわけじゃない。日時や人数、場所、動機、判決、捜査の経過は、公的な記録や裁判資料、警察発表、当時の報道で一つずつ確かめるべき中身だ。

オカルト的な味付けは別物。隠蔽や口封じ、霊視、呪い、異界、陰謀と並ぶ説明は、独立した裏付けがないなら、噂や異説の棚に置いておくのが筋ってものだ。史実の話と同じ皿に盛らないほうがいい。

神田の畳屋に生まれた四女

定の生まれは1905年、明治38年の5月28日だ。父は畳職の阿部重吉、母はカツで、定は東京市神田区新銀町、いまの千代田区神田多町2丁目でその夫婦の四女として生まれた。家は裕福だったといい、定はその中でずいぶん甘やかされて育ったという話が、いまも伝わっている。没年は不明のまま。

幼いころから活発な子で、異性関係も早熟だったといい、父親はその奔放さを持て余したらしい。そうして横浜の芸妓置屋に出された、という話になっている。ここから流転が始まる。以後の定は、芸者、娼妓、酌婦、女中、仲居と、仕事も暮らす土地も次々に変えていく半生を送った。

肩書きだけでは足りない。「愛人」や「狂気の女」の一言で片づけると、見えなくなるものが多い。当時の女性がどう働き、性産業がどう回り、家制度が女をどこへ押しやったのか、そういう景色がごっそり抜け落ちる。新聞がこしらえた「毒婦」という像も、そこで一緒に見えなくなる。

語り口の種類にも注意。本人の供述、予審調書、判決、のちの回想、後世の映画。書かれた時期も目的もばらばらなので、同じ言葉で一括りに要約してしまうと、話がおかしな方向へねじれていく。

妻子持ちの店主と、旅館を渡り歩く日々

1936年の春、定は中野の料理店で働き始める。そこの店主が石田吉蔵だった。石田には妻子がいたが、定はこの男と関係を持つようになる。二人はやがて店を抜け出し、旅館から旅館へと泊まり歩き、周りの目も気にせず長い時間を一緒に過ごすようになっていった。

5月18日、尾久の待合で

1936年5月18日のことだ。場所は東京市荒川区尾久にあった待合で、石田はそこで帯紐のようなもので絞められ、命を落とした。定は遺体の局部を切り取り、それを持って姿を消した。遺体には血で名前が書き残されていたと、当時の新聞は報じている。

この事件は「お定事件」とも呼ばれる。定は行方をくらました。話がとにかく猟奇的だったせいで、事件は当時の庶民の興味を強烈に引きつけ、逮捕のときには号外まで出た。

定は局部を懐に入れたまま、数日間にわたって東京の街をさまよい歩いたとされる。新橋、銀座、品川と、あちこちの界隈を転々としたと、後年の記事は伝えている。逮捕はその数日後だった。所持品から失われた身体の一部が見つかり、事件はただの痴情のもつれでは済まないセンセーションになった。

煽る気はない。事件の性的な細部や身体の描写は、当時の新聞が競うように書きまくった。ここでは捜査や裁判を語るのに必要な範囲にとどめて、見世物じみた繰り返しとはきっちり線を引いておきたい。

事故か、合意か、独占欲か

最後の一夜の説明は揺れている。「性交中の事故」だったという見方がある。「合意した絞首が行き過ぎた」という見方もあれば、「独占したくて殺した」という見方もある。揺れの原因は単純で、供述の時期、取り調べ側の質問、新聞の要約、後世の脚本がばらばらだからだ。

だから一つの心理で決めつけないほうがいい。順番に並べるだけでいい。本人がどの時点で何を述べたのかを順に並べていけば、あとから他人が付け足した物語との区別がつくようになる。

この事件の語りには六つの層があって、一番下が予審調書や判決の司法資料、その上に1936年5月の新聞が重なる。本人の供述や回想として刊行された本、同時代と戦後の評伝や研究が続き、映画や小説、演劇が乗る。いちばん上が、個人ブログや掲示板、怪談投稿だ。層ごとに言葉が違う。

同じ出来事でも、層が変われば使われる言葉ががらりと変わる。感想だけでは事件にならない。感想だけで済ませず、逮捕から起訴、判決、服役後、作品化まで時間を切らさずに追うと、事件の輪郭が見えてくる。

号外が飛んだ日、紙面は何を書き立てたか

事件が発覚した直後、1936年5月19日付の新聞は「尾久紅燈街に怪奇殺人」のような見出しでこれを報じている。最初は猟奇殺人、怪奇事件としての扱いが先に立っていたと言われる。そこから熱が上がる。新聞は捜索がどこまで進んだかを大きく報じ続けた。

紙面の熱は、もう止まらない。局部を切り取ったという猟奇性が広く知れ渡ると、各紙は定の経歴や容貌、過去の男性関係まで競って書き立てた。逮捕のときには号外が出るほどの騒ぎになった。逮捕後の記事は、性遍歴や所持品にまで細かく踏み込んでいる。

時代の空気も絡んでいた。日中戦争の前夜で、世の中には重苦しい空気が垂れこめていた。その中でこの事件は、一種の清涼剤みたいに庶民の話題をさらった、という指摘もある。女性の欲望と犯罪を結びつける「毒婦」ものの系譜が、ここで近代的に更新されたと読むこともできる。

男女の扱いにも差がある。同じ時代に男が起こした情痴事件と比べると、女が加害者だというだけで、報道の熱量も見出しの扱いも大きく違った。このことは、後年の研究やコラムでもよく指摘されてきた。見出し、写真、心理の説明を男の事件と並べて比べる読み方もできる。

取り調べで、定は「彼を殺したあと、私はとても楽になった」という趣旨の供述を残したと伝えられる。たった一言。この言葉は、のちのちまで彼女の心を測る手がかりのように引用され続けている。

見出しは生き物だ。号外や社会面の見出しは、捜索中、逮捕直後、供述の報道、予審、判決と、段階ごとに変わっていった。縮刷版や新聞のデータベースをめくれば、日付や版、記者の署名、写真の説明まで追いかけられる。当時の流行歌や演劇、漫談が事件の名前をどれくらい早く商品にしたかも、受け止められ方の歴史の一部になる。

懲役6年、栃木の塀の中で

定は殺人と死体損壊などの罪で起訴された。1936年の裁判で有罪となり、懲役6年の判決を受けた。収監先は栃木刑務所。獄中では模範的な態度が評価され、世間からは同情と好奇心の入り混じった手紙が山のように届いたという。

判決の中身は分けて読みたい。罪名、認められた行為、責任能力や動機について裁判所が使った言葉、刑の重さの理由。現代の精神医学の用語を過去にさかのぼって貼りつけ、診断名みたいに扱うのは、やめておいたほうがいい。当時の鑑定の言葉と、後世の犯罪心理学の解釈は、別々に並べて置いておけば混ざらない。

刑期や恩赦、出所の年は資料によって書き方の細かさが違う。ここは要注意だ。確かめるなら判決の原文や官報、当時の新聞で固めていくしかなく、孫引きのまとめだけでは足もとがぐらつく。

別の名前で生き直そうとした女

1941年5月18日、定は恩赦で出所した。事件からちょうど5年後。過去を隠すため別の名を名乗り、赤坂の飲食店で働き始めたという。そこで知り合った男性と内縁の関係を結んで、谷中の町で二人きりの静かな暮らしを始めたって話だ。

長くは続かなかった。雑誌の記者に正体を突き止められたのがきっかけで、ようやく手にした静かな生活はあっけなく崩れていった。一緒に暮らしていた男性は、そのまま姿を消してしまったと語られている。

出所後も、定は実名のまま取材や舞台、出版の的になり続けた。その後の定は、自分の半生を題材にした舞台「昭和一代女」に出て、地方を巡業して回った時期もあった。自分で自分を演じた格好。本人が語った言葉と、興行側がこしらえた「阿部定」という役柄が、そこで混ざり合っていった。

晩年は上野の高級料理店で仲居をしていた。客を出迎える役を任されるほど信頼され、都内の飲食業組合から模範従業員として表彰された記録も残る。その先が途切れる。それ以降の消息ははっきりせず、没年も確定していない。

この「消えた後半生」が、後年いろんな憶測を呼ぶ土台になった。ただし、確かめられない部分を「謎の失踪」なんて大げさに言い立てるのは、やっぱり話を盛りすぎだと思う。分からないは、分からないだ。

「本人に会った」という話が増えていく

戦後、定の消息が途絶えてからの話だ。彼女を名乗る女や、彼女に会ったと語る人物にまつわる話が、その後たびたび人の口にのぼるようになった。どれも決め手に欠ける。

ある飲食店関係者の回想として伝わる話がある。昭和30年代、上野の料理店で働いていた古参の仲居が「あの人が本当の阿部定さんだった」と後輩に語り継いでいたという。ただ、本人と確かめられる写真や証言者は限られ、真偽ははっきりしない。そこ止まりだ。

別の体験談もある。地方を巡業していた舞台の関係者が、「楽屋で定本人だと名乗る女性に会った」という話を雑誌に語ったこともあった。これについても、興行側の演出だったんじゃないかという指摘がついて回る。

時代が下ると、SNSにも似た話が流れてきた。「祖母の知人が定の晩年の住まいの近所に住んでいて、物静かで丁寧な人だったと聞いた」という投稿だ。完全な又聞き。投稿した本人が直接会ったわけでもなく、伝聞の域を出ない。

こういう「本人を見た」「本人と話した」という語りの多くは、日付も場所も同席者も特定できないまま、噂として流れていく。当事者が世間から消えたこと自体が、後の人の想像をかき立て続けているんだろうね。空白が話を呼ぶ。

こういう話は、日付、場所、写真、同席者の有無で照らし合わせるしかなく、「本人が真相を告白した」という当たりの話だけでは片手落ちになる。人違い、出版社の脚色、後日の撤回、所在を突き止めそこねた取材、そんな外れの話も同じくらい大事だ。外れにも意味がある。そうやって並べると、本人のいないところで阿部定像がどんどん増えていく流れが見えてくる。

呪いの名前にされた阿部定

怪談の世界にも、定の名前は入り込んでいる。「阿部定の呪いをこめて」という題の怪談投稿が、その一例だ。歴史上の事件の名前が、あとの時代になって怨念や呪いを表す記号へと転用された、分かりやすい例になる。名前だけが一人歩きする。

この手の再話では、阿部本人とも被害者とも事件現場とも関係のない場所や物に、名前がぺたりと貼りつく。そこは混ぜない。怪異を事件の記事に事実として混ぜ込むのは避けたい。怪談なら怪談として、最初にどこで出たか、誰が語ったか、どの媒体か、事件の知識にどんな誤りがあるかを別に見ていく。

スクリーンの上で生まれ直す定

映像の世界でも、定は何度も描かれている。田中登の『実録阿部定』、大島渚の『愛のコリーダ』、大林宣彦の『SADA』と、同じ事件からまるで違う定の像が作られてきた。日活ロマンポルノにも阿部定事件を題材にした作品があった。一人の女が、何人にもなる。

『SADA 戯作・阿部定の生涯』は1998年2月21日に公開された日本映画だ。戦前の日本を震え上がらせた阿部定事件を描いたドラマで、大林宣彦、黒木瞳、片岡鶴太郎という顔ぶれで撮られた。顔ぶれが濃い。

比べどころはいくつもある。公開年、脚本で足された部分、性表現の強さ、石田側の人物の描き方、定の主体性、検閲や海外での公開のされ方。映画の台詞や場面が、史実のような顔をしてブログに転載されていないかも気になるところだ。

ネットの書き込みでも、どこまでが史実でどこからが脚色かを比べる話はよく出る。性描写の強い作品は特にそうだ。「あれは史実というより、創作としての阿部定像だ」という整理が、わりと何度も書き込まれている。

純愛か、猟奇か、ネットの割れ方

ネット上の評価は、見事に正反対だ。「純愛の果ての悲劇」と受け止める声と、「常軌を逸した猟奇犯罪」と受け止める声が、真っ向から並んでいる。「究極の愛」「猟奇女」「フェミニズムの象徴」まで、言葉の幅がすごい。どれも事件じゃなく受容の話だ。

個人ブログやnoteの記事には、定が石田との関係にのめり込んでいく過程を「究極の愛の形」として肯定的に描くものがある。掲示板やまとめサイトでは、遺体を傷つけて数日間持ち歩いた行為の異常さを強調する書き込みが多い。こちらは単純な猟奇殺人として語る。温度差が激しい。

近年はフェミニズムの側から読み直す論調も出てきた。男性中心の社会で、女性がただ一度だけ自分の意志を通した事件として、再評価するわけだ。時代で見え方が変わる。事件そのものより、それをどう解釈するかという受け止め方のほうが、時代ごとに移り変わってきたことが見えてくる。

5ちゃんねるの過去ログや事件史系のスレッドでは、議論が何度もぶり返している。供述は本当なのか、新聞はどこまで盛ったのか、どこまでが史実に沿っているのか。当時の新聞の見出しをそのまま貼りながら、「これはさすがに盛っているだろう」と疑ってかかる声も少なくない。疑い深いのは健全だ。

個人ブログが定の心情を「寂しさ」や「理解不能」と読み解く箇所もある。それはそれで、2020年代の筆者が抱いた感想として取っておけばいいものであって、供述の代わりにはならない。感想は感想だ。

事件から90年近く経ったいまも、阿部定事件はオカルト系のまとめサイトや猟奇事件の考察コミュニティで、定期的に話題にのぼる。コメント欄で一番多いのは心理面への関心だ。「切り取った局部を持ち歩いた三日間、彼女は何を考えていたのか」という問いが、繰り返し投げかけられる。問いはいつも同じだ。

「愛が重すぎた末路」「究極の独占欲」という感想も、何度となく投稿されている。ただ、真面目な声もある。当時の刑事司法の在り方や精神鑑定の水準そのものに対して、批判的な目を向けた考察も、ちらほら見かける。

尾久、中野、栃木に残る地名

事件の現場になった東京都荒川区尾久は、当時「待合」と呼ばれる貸席が並ぶ花街として知られていた。いまも地名として生きている。石田吉蔵の料理店があったとされる中野のあたりも、事件の記事ではたびたび名前が出る。東京の下町らしい当時のにぎわいを伝える土地、という扱い。

栃木刑務所も健在だ。定が送られた栃木刑務所はいまも刑事施設として使われていて、模範囚だった時期の記録が、その後の定を知る手がかりになる。同じ時代の猟奇事件や情痴事件と比べられることも多い。

舞台は昭和初期の東京。あの時代の東京という背景そのものが、この事件を語るうえで外せない舞台装置になっていて、切り離しては読めない。花街の待合、中野の料理店、栃木の塀、どれも同じ地図の上にある。

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