怖い事件の話を集めていると、どうしても素通りできない名前がある。神戸連続児童殺傷事件だ。1997年の2月から5月にかけて、神戸市須磨区で子どもたちが次々に襲われ、2人が亡くなり2人が重軽傷を負った。犯人は当時14歳の中学生で、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗って犯行声明まで出している。
あの年、日本中が凍りついた。なかでも神戸に住む子どもたちは、「次は私だ」と本気で戦慄していた。この話の元になった記事が書かれたのは、事件から20年がたったころだ。それでも書き手は、あの春の恐ろしさを少しも薄めずに、当時の子どもたちの怯えから書き起こしている。
念のため先にひとつ断っておく。この記事で追うのは、事件の流れと、社会やネットがどう反応したかという記録のほうだ。亡くなった子どもたちと家族の暮らしを覗き込むことも、加害者のいまの名前や生活を探ることもしない。
2月10日、団地の帰り道で
日付の書き方にも差がある。元の記事は、最初の事件を2月上旬、彩花さんの事件を3月中旬、淳くんの事件を5月下旬と、ざっくりした時期で書いていた。この先は、記録に残る日付のほうで追っていく。
最初の事件は1997年2月10日に起きた。場所は神戸市須磨区中落合。団地の中の路上で、下校途中だった小学6年生の女の子2人が、何者かにハンマーのような凶器で頭を殴られた。1人が重傷を負った。
目撃証言によれば、犯人は制服らしきものを着て、学生鞄を持っていたとされる。制服に学生鞄。警察内部では早い段階から少年による犯行の可能性が意識されていたと伝えられているが、初動の捜査は難航した。この時点で、犯人は捕まらなかった。
元の記事はこのくだりを、もっと強い言葉で書いている。犯人が未成年だと警察は分かっていたのに、初動捜査の遅れでこの時点では捕まえられなかった、という書き方だ。地域には嫌な空気が流れた。それでもまだ、誰もこれを連続事件の始まりとは受け止めていなかった。
3月16日、竜が台で起きたこと
1か月あまりたった1997年3月16日。須磨区竜が台の路上と竜が丘公園の付近で、小学3年生の山下彩花さんが、ハンマーのようなもので頭を殴られた。彩花さんは当時10歳。脳挫傷を負い、1週間後の3月23日に亡くなった。
元の記事は、これを第2の事件と呼んでいた。彩花さんも最初の事件と同じく、ハンマーのようなもので殴られたと書いている。不気味な符合だ。同じ凶器を思わせる手口が、1か月あまりの間を置いて同じ須磨区で繰り返されたわけで、偶然と思うほうが難しい。
同じ日に、別の女の子も襲われている。お腹を刃物で刺され、重傷を負った。元の記事ではこの凶器をナイフと書いていて、どちらにしても子どもに向けられた刃だったことは同じだ。本当にむごい話だ。
ここで報道の空気が一変した。地元紙の神戸新聞をはじめ、報道機関がこの一連の事件を大きく取り上げるようになった。元の記事の言い方を借りれば、この頃から神戸新聞を初めとしてマスコミが一斉に騒ぎ立て始めたわけだ。
子どもを持つ家の怖さは想像にあまりある。町じゅうに広がったのは、「次に狙われるのはうちの子かもしれない」という強い恐怖だった。無理もない話だ。集団での登下校や大人たちによる見回りなど、子どもを守るための対応が、地域で急いで強められていった。
タンク山と、中学校の正門
5月、事件はいちばん衝撃的な局面を迎える。舞台は「タンク山」だ。地元の人たちがそう呼んでいた高台にはケーブルテレビの関連施設があって、事件はその付近で起きた。日付でいえば、1997年5月24日から27日にかけてのことだ。
被害に遭ったのは、友が丘中学校の近くに住む小学6年生の土師淳くん。当時11歳だった。淳くんは「亀を見に行こう」という趣旨の言葉で誘い出され、その高台で首を絞められて命を奪われた。
ここは詳しく書かない。遺体は頭部と胴体を切断されるという、むごい状態にされていた。5月27日の未明、友が丘中学校の正門前で、置かれていた頭部が見つかるという最悪の形で事件が明るみに出た。口には「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る犯行声明文が挟まれていたと報じられている。
正門の場所には食い違いがある。元の記事は、小学校の正門前に置かれたと書いていた。公的な記録や当時の報道に沿えば、置かれていたのは友が丘中学校の正門前で、元の記事の書き方は誤りだ。掲示板やブログでも、同じように小学校だと誤って語られることがある。
6月4日には、2通目とされる声明文が神戸新聞社宛てに郵送された。騒ぎは全国規模になっていく。6月28日、任意同行のうえで事情を聴かれていた少年が犯行を自供し、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕された。事件当時14歳、地元の友が丘中学校の生徒。
近所の中学生。犯人がすぐそばで暮らす中学生だったと分かったとき、あの町の大人たちが受けた衝撃は、正直なところ想像もつかない。あの声明を出していたのも、その少年だった。
「酒鬼薔薇聖斗」という名乗り
この事件をほかと違うものにした最大の理由がある。加害者自身が「酒鬼薔薇聖斗」という名前を名乗り、声明文をわざわざ社会と報道機関へ向けて出したことだ。黙って隠れる犯人ではなかった。
読みは「さかきばらせいと」。この名乗りから、事件は酒鬼薔薇事件、酒鬼薔薇聖斗事件とも呼ばれる。犯行声明の署名に使われたこの奇妙な名前が、そのまま事件そのものを指す呼び名として定着してしまった。
声明文には、独特の言い回しや漢字の当て方が詰め込まれていた。挑発の文言も目立つ。警察や社会に向けたその挑発的な文体そのものが、当時の識者やメディアにとって格好の分析対象になった。
声明文が明るみに出たことで、事件の見え方がすっかり変わった。単なる連続傷害や殺人ではない。加害者が自分を劇場のように演出した事件として、日本の犯罪史のなかでも特異な場所に置かれるようになったんだ。
当時はまだ、インターネットが一般の家庭に十分広まっていなかった。それでも影響は残った。この事件以降、匿名の名乗りで声明を出すという構図そのものが後年の掲示板文化に影響したと、指摘する論者は少なくない。愉快犯めいた模倣行為や、掲示板での挑発的な書き込みの文化がその例に挙がる。
家裁の決定と、その後の足どり
1997年10月13日、神戸家庭裁判所が決定を出した。処分は保護処分。少年を関東医療少年院に長期収容するという内容で、刑事裁判ではなく家裁の審判で行き先が決まった形だ。
精神鑑定では、完全な責任能力があるとされた。いっぽうで、行為障害や、未分化な性衝動と攻撃性が結びついた人格の傾向が指摘されたと報じられている。ずしりと重い所見だ。
少年は2001年11月に東北少年院へ移された。2004年3月に仮退院。翌2005年1月には本退院が認可されたとされ、少年院での長い処遇はそこでひと区切りとなった。
この事件は、少年による凶悪犯罪をどう罰するのかという議論に、大きな火をつけた。やがて法律も動く。2000年の少年法改正では刑事処分を科せる年齢の引き下げなどが議論され、この事件はその大事な契機の一つに数えられている。
捨てられていた事件記録
話はここで終わらない。2022年10月、報道機関の取材で思わぬことが明らかになった。神戸家庭裁判所が、この事件の記録を、保存期間が満了したあとの2011年にすべて廃棄していたんだ。
捨てたのは家裁自身。この事件の審判を担った、あの神戸家庭裁判所だ。事件の経過をたどるうえで欠かせないはずの記録が、保存期間が過ぎたという理由で、2011年の時点ですでに消えていた計算だ。
歴史的な資料は、もう残っていなかった。当然、批判の声が上がる。少年事件の記録をどう残すのか、その保存の制度そのものを見直すべきだという声も、あちこちから出た。
「絶歌」が遺族の傷をもう一度開いた
2015年、加害者本人によるとされる手記「絶歌」が出版社から刊行された。これが大きな反発を呼ぶ。被害者の遺族には出版の事前連絡がなく、遺族はこの刊行に対して強い抗議と深い悲しみを表明した。多くの書店が、売るべきかどうかで対応に苦しんだ。
ネットは割れた。買うのか買わないのかを呼びかけ合う声があり、内容の真偽や反省の欠如を問う厳しいレビューが並んだ。逆に、加害者の内面を知る貴重な資料だと擁護する声も少数ながらあった。
同じころ、加害者本人が開設したとされるウェブサイトの存在も、一部のメディアで報じられた。そこに載っていた絵や文章が、ネットで拡散されて分析の的になり、遺族や社会からはこれにも強い批判の声が上がっている。当然の反応だと思う。
ここは記録にとどめる。出版や発信が、世の中にどんな反響を呼んだのか。それ以上の話、つまり加害者のいまの暮らしや実名を詮索するような情報は、この記事には一行も足さない。
掲示板で育った二つの説
ネットで育った説もある。一つめは、単独犯ではなく複数犯だったのではないかという説だ。声明文の文体や、被害者の負傷状況の一部に不自然な点があるという、匿名掲示板の書き込みが根拠にされている。
ただ、家庭裁判所の審判でも公式の発表でも、事件は単独犯として処理された。複数犯説は裏付けのないネット上の憶測にとどまっていて、書き込みの勢いだけで事実が変わるわけじゃない。そこは何も動かない。
もう一つは家庭の話だ。少年の家庭環境から、事件を読み解こうとする説がある。大企業に勤める家族が多い地域に住み、父親は大手企業に勤めていたとされる少年の生い立ちが、その出発点だ。そこから「エリート競争社会が生んだ病理」として事件を語る論調が生まれた。
こちらの火元は、当時の週刊誌報道や識者のコメントだ。それがネットでも繰り返し引用され、家族社会学めいた、都市伝説のような通俗的な解釈として広まった。いかにも分かりやすい物語だ。
元の記事が見ていた「友が丘」
元の記事はこの説寄りだった。少年Aは、大企業に勤める家族が多い友が丘地区に住んでいた。書き手は少年のことを、その地区の家族どうしの競争に巻き込まれた被害者と見ることもできる、とまで書いている。
父親の話も同じ流れだ。元の記事によれば、父親は大手の造船会社に勤めていて、出世のためには家族全員で協力していかなければならなかった。少年はそんな会社のなかの競争にも巻き込まれていたのだろう、と書き手は見ていた。
書き手の筆はまだ続く。少年は小さいころから競争にさらされ、「家族というのはこういうモデルだ」という枠に家ごとはめられていた。父親の再婚や中学受験まで挙げて、現代社会の病理が詰まった事件だと言い切り、そこに恐ろしさを感じたと結んでいる。
書き手の気持ちは分かる。ただ、元の記事の見方も、ネットで繰り返された競争社会の説も、どれも公式に確定した動機の分析ではない。ネットや出版物のなかで語られてきた、一つの読み方にすぎない。ここはきちんと分けておきたい。
バスジャックの少年が口にした名前
影は次の事件にも伸びていく。西鉄バスジャック事件を起こした少年は、神戸の事件の加害者と同じ学年だった。犯行のとき、この少年は「酒鬼薔薇聖斗」に傾倒し、崇拝するような言動を見せていたと報じられた。
この話は、事件が後の少年犯罪に与えた模倣や影響の実例として、しばしば持ち出される。神戸で生まれた一つの名前が、別の少年の口を通して、まったく別の凶悪事件のなかにもう一度現れたわけだ。背筋が冷える話だよね。
こうした模倣の広がりも含めて、事件は単発の凶悪犯罪としてだけ語られてはこなかった。1990年代以降の日本社会で少年犯罪が凶悪になり、劇場のようになっていったことを象徴する出来事として扱われてきた。議論はいまも続いている。
忘れたくない二人の名前
名前を、もう一度書いておきたい。山下彩花さん。土師淳くん。この事件で亡くなった二人の名前を、酒鬼薔薇聖斗という名乗りよりも先に覚えておいてほしいと思う。
この記事の目的は、事件の経緯と、社会の反響と、ネットで語られてきた言葉を記録することにある。この話の主役は加害者ではない。被害に遭った子どもたちと遺族の尊厳を、何よりも先に置く。被害者や家族の私生活を興味本位で描くことも、加害者の実名やいまの生活を探って広めることも、ここではしない。
