岩の上に残されたメモ
2008年1月5日、午後2時50分。岡山県新見市の鍾乳洞、日咩坂鐘乳穴の最奥で、四人が帰り支度を始める。五人で入った班なのに、湖のほとりには四人しかいない。四人は目立つ岩の上に、メモを一枚と保温用のシートを置いて、洞を出た。
メモの宛名は、いなくなった男子学生の名前だ。本文は「ここで待っていてください。救援が来ます」とだけ。事故報告書が、その文面を記録している。
書いた人たちは、相手が水の中にいるという結論で一致していた。それでも紙は、岩の上に置かれた。湖に着いた午後2時17分から、出洞を始めた2時50分まで、わずか33分だ。事故の中身は、すべてその33分に収まる。十八年たった今も学生の行方は分かっておらず、調べた範囲では、見つかったという報せも出てこなかった。
一千六百メートル先の水
阿哲台は、新見市の南に広がる石灰岩の台地だ。東西に約18キロ、南北に約10キロの広さがあり、窪地が点々と散らばって、川沿いには鍾乳洞が口を開けている。1957年11月5日には、満奇洞や宇山洞とともに、一帯が岡山県の天然記念物に指定された。
日咩坂鐘乳穴は、水を吸い込む側の洞窟だ。台地に降った水を集めて、奥の地底湖へ流し込む。洞口は三つあり、いちばん大きな第一洞口は、神社の南西にある窪地に向かって開き、高さが20メートルほどある。訪れた人の記録には15メートルとあって、数字は少し食い違う。
古くは「大洞穴」と呼ばれ、神のいる場所として拝まれてきた。洞窟そのものが、近くの日咩坂鐘乳穴神社の御神体でもある。神社の創建は、伝承では802年に空海が神を祀ったのが始まりで、807年や750年とする紹介もある。859年には、都から来た役人が薬になる石鍾乳を採ったと、日本三代実録が記す。真庭市の諏訪洞とつながっているという言い伝えもあるが、はっきりしない。
洞口から500メートルほど進むと、天井の抜けた大穴が見える。さらに200メートルで、神の池だ。冬の渇水期以外は、ここで水に沈んで行き止まりになる。長いあいだ、そこが洞窟の最奥だと思われていた。
1971年ごろ、調査隊が渇水期に池を抜けて、その先になお700メートル続く洞を見つけた。池の先は、10メートルの崖や、腹ばいで進む狭い所、水に浸かる所が続く。梯子の要る落差は三か所あり、10メートル、15メートル、6メートル。最後を降りると、膝から胸までの水の流れに沿って歩く。
最奥の地底湖は、幅30メートル、奥行き25メートル、水深は35メートルほど。当時の報道には、30メートルとも32メートルとも書かれた。水は白く濁って、視界は1メートルもない。気温も水温も、一年を通して12から14度。水面にわずかな流れはあるものの、どこへ抜けているのかは、はっきりしない。
洞口から湖まで、約1,600メートル。事故の日の班は、午前11時半に洞へ入り、梯子を三度降りて、大石柱ホールで昼食と休憩をとり、午後2時17分に湖へ着いた。後日の捜索に入った機動隊員は、同じ道のりに三時間かかっている。水が引く冬にしか来られない奥で、行ける時期は限られる。
さあどうする、誰かいく
合宿は、中国と四国を中心にした大学の洞窟サークルの合同企画だ。2006年と2007年の年初にも開かれていて、2008年が三回目になる。日程は1月1日から6日。愛媛、高知、香川、山口、広島の各大学の卒業生と現役生に、浜松のケイビングクラブの会員が加わって、15人が集まった。
冬に開くのは、日咩坂の奥の事情による。神の池の先へ入れるのは、水が引く季節だけだ。合宿の狙いは、その先の洞窟だった。
湖に着いたら、泳いで対岸の壁にさわる。それが過去二回の慣例だった。2006年は入洞した10人のうち5人、2007年は21人のうち9人が渡っている。泳ぎに自信のある人は、一度は渡るものだったわけだ。
横断は、左の壁に沿って岩をつかみながら進む。「さあどうする?」「誰かいく?」と声をかけることはあっても、強制はなかったと報告書は書く。途中で危険を感じた人は多かった。それでも経験談は、達成感や武勇伝になりがちで、最奥の余興のつもりでいた人もいたという。
計画の穴も、報告書は挙げている。12月30日にできた計画書には、入洞や出洞の時刻、救助を要請する時刻の目安、在郷連絡先が書かれていなかった。計画書を受け取って合宿を承認したのは香川大学だけで、ほかの大学とクラブは、提出すらしていない。
新見市への入洞届は、当時は任意だった。過去二回の合宿でも出していない。代わりに市の担当課へ電話して、入洞の前後には神社の宮司へ口頭で報告するのが常だった。2008年は、役所が仕事納めだと思い込んで、電話を入れなかった。5日の班が入るとき、宮司は不在で、口頭の報告もしていない。
事故の前の晩に、班の編成が変わる。4日の夕食後、ミーティングを兼ねた酒の席で、顔ぶれを見直したのだ。高知大学3回生の男子学生は、この夜、通り抜けの班から日咩坂の班へ移った。本人の希望ではない。日咩坂の班は4人のうち3人が香川大学の学生で、交流が合宿の趣旨だから他大学の人を一人入れよう、という判断による。
学生は翌朝、7時間ほど眠って、8時半ごろ起きた。疲れも酒も残っていなかった。洞窟には確認できるだけで24回入り、経験は3年ほど。プールなら100メートルを余裕で泳げた。高知県の滝壺で、洞窟と同じ服装のまま泳いだことも3回ある。
足りない経験もあった。着衣水泳の講習は受けていない。冬に保温の装備なしで泳いだこともなく、洞内や夜の水に入ったこともない。滝壺で泳いだのは5月と6月で、6月の水温は16度ほどだった。
慣例は、強制じゃない。ただ、日咩坂の奥は冬にしか行けず、学生にとっては初めての場所だった。湖畔では班員が「機会は少ないのだから、心残りがあるなら行ったらどうか」という趣旨のことを口にしている。ここから先は筆者の見立てになる。次はないかもしれない、という空気が、横断を断る理由を細くしたんだと思う。
「おーい」は三度返ってきた
午後2時17分、班は地底湖に着く。リーダーが湖の説明をすると、男子学生と、浜松のクラブの卒業生の男性が、横断に興味を示した。先に挑んだ男性は、左の壁を2、3メートル進んだところで足がつかなくなる。泳げないので、そこで引き返した。
男性が出洞を言い出すと、学生はつぶやいた。「浮き輪やフィンがあればいいのにな」「ここは無理そうですね」。心残りはあるのに、決められない様子だったという。班員は、機会が少ないのだから、行きたいなら行ったらどうか、という趣旨のことを返した。
学生は答えない。リーダーが出洞を提案しても、まだ迷っている様子で、決めかねている。他の班員を誘うような言葉も口にした。返ってきたのは、自分は行かないけれど、行きたいなら行ったほうがいい、という返事だった。
数秒、湖面を見つめる。それから無言のまま、湖の中央を対岸へ向かって泳ぎ出した。リーダーは遠くまで届くライトを点けて、泳ぐ学生のヘルメットのあたりを照らす。ほかの班員も、黙って見守った。
3分の2ほど進んだところで、学生は一度止まる。振り返るような動きを見せて、また泳ぎ出し、対岸にたどり着くと、片手を上げて合図をしたが、声は聞こえない。班員の「どう?」「大丈夫?」にも、返事や合図はなかった。
その後、学生は岩に腰かけて足を水につけて休み、水から完全に上がって立ち、周りを見回す姿も、班員二人が見ている。三人の班員は、出洞にかかる時間の話をしていた。目を離したのは、数十秒。
次に対岸を見たとき、学生はいない。班の側から死角になる左の壁に沿って、戻ってくる途中だと、二人は思った。右の壁の天井近くには学生のライトの光が見えたが、動きはゆっくりで、泳ぐときのような激しさはなかった。
呼んでも返事がない。水音や反響で聞こえないのかと考えた班員が「おーい」と声を投げると、初めて「おーい」と返ってきた。10秒から15秒おいてもう一度呼ぶと、また返ってくる。
三度目の返事は、「おーい」と聞き取れるほどではなかったが、確かに返事だった。そのときは、待っていた四人も、危機感を抱くほどではなかったという。四度目の呼びかけには、何も返ってこない。
洞壁にも水面にも、ライトの反射はない。波紋もない。リーダーが左の壁に沿って5、6メートル泳ぎ出し、死角のない位置から湖全体を見たが、学生もライトも見えなかった。別の班員は、ホイッスルを吹き続ける。
支洞に入った可能性も、二人は話し合う。それでも状況から、水の中だという結論で一致した。ライフジャケットのような浮力のある装備がなく、自分たちで湖を捜すのは無理だと、全員が判断した。
学生は帰り道で湖に沈んだと、報告書は考えている。可能性は五つ。体力が尽きた、足がつった、パニックになった、意識を失った、命に関わる体の反射が起きた。低体温症は、水温12から14度と泳いだ時間10分ほどからみて、可能性が低いと見る。
視界は1メートルもなく、左の壁は班の側から死角になるので、見えていたのは天井近くのライトの光だけだ。リーダーはその動きから、学生が左の壁につかまって右の壁を眺めているのだと読み取った。これは筆者の見立てだが、光があることが、生きている証拠のように働いたわけだ。
通報まで三時間二十二分
14時50分、四人は出洞を始める。濡れた体で湖のそばにとどまれば、低体温症の危険がある。二人を残して二人が出る案も出たが、リーダーは二次災害の危険が高いと判断して、全員で出ることを決めた。各所に張ったロープは、そのままにしたと報告書にある。
洞を出たのは午後4時。16時15分に神社へ着くと、リーダーともう一人が、警察と消防に通報しようとした。そこで男性が、通報は一人でよく、その前に合宿全体のリーダーへ連絡すべきではないかと口にした。
リーダーも、その考えに乗る。洞窟を知らない警察や消防より、合宿のリーダーたちのほうが速く動ける。もう一つ、警察に通報すれば、すぐ入洞が禁止されて捜索ができなくなる、とも考えた。これも報告書に書かれた理由だ。
16時17分、リーダーは携帯電話で合宿のリーダーたちに電話をかけたが、相手にはつながらず、16時25分には香川大学のクラブの在郷連絡先へ電話した。受けた係は、学生が水の中以外にいる可能性を指摘して、こう提案する。リーダーたちの出洞を待ち、合宿の参加者で捜してはどうか。ケイバーの捜索が要る場合もあるからだ。
提案は支持されて、16時45分に二人が車で宿所へ戻った。着いたのは17時16分。通り抜けの班のうち先に事故を知ったのは、香川大学の会員の一人が在郷連絡先へ出洞の報告を入れたときだ。係がその場で事故を伝えている。
肝心の合宿リーダーの班は、ゴンボウゾネの穴で登るルートが分からず、1時間ほど迷っていた。出洞後に林道を1時間歩いて、18時11分に車道へ出ると、待っていた仲間に会い、初めて事故を知った。警察への通報は、その1分後、18時12分。
数えてみる。湖を離れた14時50分から通報まで、3時間22分。洞を出てからでも、2時間12分。初期の報道は「午後6時10分ごろ110番」と伝えて、報告書の18時12分とは2分ずれる。ネットで「四時間の空白」と呼ばれたのは、この時間だ。
報告書が挙げる通報を止めた理由は、警察に知らせると捜索ができなくなる心配だった。事故を隠したい人は、神社から在郷連絡先へ電話しない。筆者の見立てでは、空白の中身は、隠す相談より、誰に頼るかの判断の誤りに近い。断っておくと、この報告書は当事者のケイバーたちがまとめている。
隊員歴十六年でも三本の指に入る
5日の午後11時、県警の機動隊員と新見署員、消防署員、近くの洞窟に詳しい岡山のケイビングクラブの部員が、洞に入った。湖までは約1,600メートル。狭くて腹ばいでしか進めない所があり、ロープで昇り降りする岩壁もある。着くまでに三時間かかった。
水の流れが分からず、潜る捜索は危険だと判断された。洞内が狭く、重機も酸素ボンベも持ち込めない。湖に浮かべたゴムボートから、錨と水中カメラを沈めて調べた。だが湖水は白く濁っていて、カメラは役に立たなかった。
捜索の中心にいた機動隊の小隊長の談話が、掲示板に転載されている。媒体は確かめられなかったが、「隊員歴16年の中でも3本の指に入る大変さだった」とある。胸まで水に浸かる所と、20メートルの高低差をロープで降りる断崖があった。ボートは半分浸水していた。
こんな話もある。湖面から上げた声は、ドーム状の地形に吸われて岸の隊員に届かず、帰りの体力を考えると、捜索は三時間が限度だった。この一節は、のちの「助けを求める声が聞こえなかった」という疑いを考えるとき、頭に置いてほしい。
6日の朝8時に、捜索は一度止まった。水中しか調べていないと知った合宿の三人が、洞に入り直す。11時に入って、第二の梯子で補助ロープを探したが見つからず、13時に出た。夕方の18時20分には、高知大学の卒業生を加えて、再び洞へ向かう。
卒業生はライフジャケットを着けて湖を渡り、対岸の壁と支洞を調べた。学生が最後に見られた場所の近くには、ほぼ垂直の、3センチほどの岩の割れ目がある。5メートルほどは登れるが、登った跡はなかった。21時半に四人が合流して、残るのは湖の水中だけだと結論した。
7日は10時すぎから約50人で捜したが、見つからないまま16時すぎに中止になる。県警は10日に、捜索の打ち切りを決めた。6日間、延べ約200人。洞内の地形が複雑で、二次災害の危険が高いというのが理由だ。ボートが流されたことから、県警は湖水がどこかへ抜けているとみて、学生が流された可能性も考えていた。
読売新聞は11日付で、打ち切りを報じて、学生の父親が捜索した人々に出したあいさつ文も載せた。迷惑をかけたことへの詫びと、身の危険を顧みず捜してくれたことへの感謝が、そこに並ぶ。大学の学生支援課は、10日に「全容把握に時間が掛かり、現時点で申し上げられることはない」と答えている。これは岡山日日新聞の記事を転載した書き込みで確かめている。
部長と副部長の名前が消えた
ネットが動くのは、早い。1月10日の未明、2ちゃんねるのニュース板では、この事故を扱うスレッドが14本目に入っていた。捜索がまだ続いている時期だ。
1月15日には、ニュース議論板に「行方不明者のミクシィを何者かが不正アクセス改竄中」という題のスレッドが立つ。3月下旬には、同じ話題のスレッドが17本目を数えた。4月にはオカルト板にも、高知大学探検部の失踪を解き明かそうというスレッドの2本目ができる。
1月15日のスレッドには、ミクシィに日記を書いてくれる人への呼びかけがあった。題は「地底湖の底に沈められた真実」。本文の見本には、十二項目の「不審点」が並んでいる。
入洞届を出していない。5人いたのに、泳いだのは一人だけ。溺れるところを誰も見ていないし、「タッチした」という声は聞こえたのに、助けを求める声はなかった。会見をせず、探検部のページから部長と副部長の名前が消え、被害学生のミクシィは書き換えられた。
1月中旬の書き込みには、悪ふざけに近い説も並んだ。洞窟に入った時点で四人しかいなかった説。両手両足を持つのにちょうど四人要るから、突き落とした説。地底人説まであった。まあ、笑い話に近いが、こうした書き込みが同じ時期に並んでいたことは確かだ。
名前の削除と書き換えは、ネット上の記述でしか確かめられない。ブログの主は、消えたのは前の部長と前の副部長の名前で、代替わりに伴う更新だったのでは、と推測する。ミクシィのほうは、関係者が火消しのつもりで触ったと見る。地元の事件簿を扱う文章は、詮索が学生の関係者に及ばないよう消した行動が、かえって憶測を呼んだと書く。どちらも推測で、裏づける資料は見つからなかった。
名前の話で、報告書の整理から言えることが一つある。五人の班にいた高知大学の探検部員は、いなくなった学生だけだった。残る四人は、香川大学の三人と、浜松のクラブの卒業生だった。掲示板が名指しした二人が、その班にいたという記述は、報告書の整理に出てこない。
報告書が出たのは七月だった
報告書の発行日は、2008年7月22日。事故から六か月半あとになる。作ったのは日咩坂鐘乳穴事故報告書作成委員会で、当事者のケイバーたちがまとめた。百科事典の脚注は、75ページ目まで引いている。
筆者が確かめた範囲では、1月10日の打ち切りの時点で、事故の経過を時刻まで細かく書いた公の資料は見つからなかった。不審点の一覧が貼られたのは、1月中旬。噂は、報告書より半年早く形になった。ここは筆者の見立てだが、先に空白があって、そこに疑いが入ったんだと思う。
不審点を一つずつ、報告書の要約と並べてみる。入洞届は、当時は任意で、過去の合宿でも出していなかった。事故後の1月12日付で、市教委が「必ず入洞届を」と呼びかける看板を設けたと、読売新聞が伝える。
「一人だけ泳いだ」は、少し違う。左の壁を2、3メートル進んだ男性、5、6メートル出たリーダー、途中まで出てホイッスルを吹いた班員がいる。浅くても、水には入った。「誰も見ていない」のほうは、数十秒目を離したと、報告書自身が認めている。「全員で帰った」には、低体温症の危険という理由と、メモと保温シートを置いた事実がある。
数字の食い違いもある。初期の報道は、合宿を13人、遊泳を午後2時半ごろ、通報を午後6時10分ごろと伝えた。報告書は15人、14時17分から50分、18時12分。報道の数字は発生直後の聞き取りが元で、報告書は後から時刻表を組み直したもの。筆者は、揺れの正体をその差だと見ていて、口裏合わせの証拠とは読めない。
正直、報告書の側にも、すっきりしない点は残る。出洞のとき、各所のロープは残したと書かれている。ところが6日に入った三人は、第二の梯子で、残されているはずの補助ロープを見つけられなかった。理由は、手元の資料では確かめられない。
「タッチした」という声は、百科事典が要約する報告書の記述に、出てこない。対岸で学生が手を上げたとき、声は聞こえなかった。「おーい」の返事は三度あった。この二つが混ざって、どこかで「タッチした」になったのかもしれない。これも筆者の推測だ。
水の出口は分かっていない
遺体が出ない理由を、水の動きから考えてみる。湖は35メートルの深さがあって、水は12から14度。水面にはわずかな流れがあり、捜索のために浮かべたボートも流された。
吸い込み穴の洞窟だから、水は地下のどこかへ出ていく。地形を解説するサイトは、諏訪穴という洞窟が出口になっている可能性を挙げる。確かめられた出口は、まだない。ブログの主は、深く冷たい水では遺体が浮かびにくいという法医学の知見を引くが、裏づけは確認できなかった。
比べられる事故が、東京にある。1986年10月26日、奥多摩町の鍾乳洞「聖穴」で、上智大学のダイビングクラブの4年生が、ボンベを着けて地底湖に潜った。15時ごろ、入口から約60メートルの第二地底湖で、20分たっても出てこない。4日間の捜索で見つからず、打ち切られた。
見つかったのは25年後の2011年だ。潜水中のダイバーが、ウェットスーツ姿の遺体を見つけて、11月13日に引き揚げられた。遺伝子の型が一致して、本人と確認されている。発見の時期や水深は、資料で食い違う。産経の記事を転載した書き込みは7月、水深約23メートルとし、百科事典は10月ごろ、水深15メートルとする。
日咩坂の湖は、ボンベを背負って潜る場所じゃない。機材も持ち込めない。聖穴の25年は、閉ざされた水が人を長く隠す例だが、日咩坂に当てはまるとは限らない。そこは分からない、と書くしかない。
当分の間、入洞禁止
事故の前の年、2007年の3月にも、日咩坂では死亡事故が起きていた。兵庫県の男性が、竪穴を撮影していて転落している。竪穴は、市教委と住民が設けた柵で囲まれていたと、読売新聞が伝える。
事故のあと、市教委は入口の近くに看板を立てた。「入洞する前には必ず入洞届を提出してください」と書いて、市教委の住所と電話番号を添えている。届の情報は、あらかじめ市の消防本部へ伝わる仕組みになる。2008年4月には、新見市の消防が、日本洞窟学会の指導で、洞窟の救助訓練を初めて開いた。
2011年7月から、新見市は日咩坂を含む洞窟への入洞を禁止した。のちに、ゴンボウゾネの穴など草間の三つの洞は解除される。日咩坂だけは、入洞中の重大事故が起きているとして、市のページに「当分の間、入洞禁止措置を継続」とある。解除された三つも、入れるのは調査や研究が目的の場合だけで、探検や観光は認められない。
ちなみに、神社はいまも洞窟のそばにある。紹介するサイトによると、旧暦の6月11日に、お田植え祭りが開かれる。2014年5月の訪問記には、洞口の掲示の文言が引かれている。「入洞事故が多発しており、安全確保のため、当分の間、入洞が禁止されました」とある。
事実を並べておく。洞窟は閉ざされ、湖には誰も入れない。遺体は出ていない。報告書は当事者がまとめたもので、独立した検証は、確かめた範囲で見当たらない。
筆者の見立てを最後に一つ。この噂が長く生き残るのは、確かめに行ける人がもういないからだと思う。市のページに、禁止の期限は書かれていない。「当分の間」の一語があるだけだ。
